あの人はいま……(雷炎ver.)
龍星がクロガネシティのポケモンセンターを出発した頃、ホウエン地方の北東部にあるミナモシティの船着場から、ポケモンリーグの現チャンピオンである五十嵐雷次があらわれた。
前チャンピオンの
石蕗大吾は石集めが趣味の青年で、ムロタウンのはずれにある石の洞窟に
頻繁に
出没していたが、雷次は行動範囲が広かった。ポケモン
勝負にしても博愛主義の説教にしても、なかなかのやり手な彼は、お忍びで訪れるということはほぼないといっていい。頭髪から爪先まで外見を
極めるからどうしても目立ってしまうが、チャンピオンとしてではなく、いちポケモントレーナーとして振舞っているため、
道中でサインをねだられた際は丁重に断り、勝負をしかけられてもやはり断る。オンとオフの使い分けをちゃんと徹底しているのである。
それはともかく、雷次はミナモシティの先のサファリゾーンに用があった。そこには、かつて、ともに最初のポケモンと対面した戦友がいるのだ。いま現在はサファリゾーンで警備を担当しており、来場者による
乱獲を防止したり夜間の見回りをしたりしていた。
121番道路を散歩気分で悠々と進んでいたら、左手奥のおくりび山の頂上部が
濃霧に覆われているのが視界にはいった。
ホウエン地方には目立った山が2つあるが、
精確に山と分類されるのはえんとつ山のみで、もうひとつのおくりび山はポケモン専用の墓場である。
その上、カントー地方のポケモンタワーとちがい、山頂には伝説のポケモンを封じた2つの宝珠が祭壇の上に置かれてある。1匹は大陸ポケモン・グラードン。あと1匹は海底ポケモン・カイオーガ。ホウエン地方の海、もしくは大地を拡げるべく、2匹は
熾烈なあらそいをつづけていたという神話があり、それを語り伝える者がおくりび山の管理者として死んだポケモンの安らかな眠りを見守っていた。
ちなみに、おくりび山の管理者には孫娘がいる。ポケモンリーグ四天王の一人でゴーストタイプの使い手・
陰山芙蓉。攻撃技でがんがん攻めるのではなく、状態異常にしてから慎重に追い打ちをかけていく戦法を得意とし、チャンピオンの座に上り詰める前の雷次少年は苦戦を強いられたことがあった。いまとなっては真剣勝負をする機会が激減したものの、再戦の日が訪れるようなことがあれば、四天王でもっとも相手にしたくない対戦相手である。
ムロタウンの居酒屋「鮫肌」の常連・黒鋼諸刃の、ほとんどのポケモンがあそこで永い寝息をたてている。手持ちのポケモンが死ぬことはいまのところないであろうが、いつどこで何が起きるかわからないのが現実だ。
仲間はもちろん、自分の身があやうくなってしまったら元も子もなくなる。まだ22歳という年齢でありながら、五十嵐雷次はいまをせいいっぱい生きる努力は欠かさずにしておこうと思うのであった。
サファリゾーンの看板が見えてきた。ゆったりまったりとした足つきで短い階段をいくつか上っていくと、ロビーにて赤毛で長身の優男とこれまた長身のバシャーモが休憩時間を
満喫しているところに遭遇した。どちらとも雷次のよく知る者たちである。
「よお炎帝、悪い
報せだ」
最初は突然の訪問に驚きを禁じえなかったが、自分たちの休憩時間もしくは退勤時にあらわれるようになってから落ちつきをはらった態で迎えられるようになった。
悪い報せときて、赤毛の青年は眉をぴくりと動かした。
「わざわざここまで来て悲報なの」
「朗報だといっておいて中身は悪い報せっていうのと、悪い報せだといって本当に悲しい
報だったってのと、どっちが満足できる?」
「どっちも遠慮したいんだけど」
かつての
好敵手と冗談交じりの挨拶を交わしたあと、雷次は
精悍な顔つきのバシャーモに赤いポロックを渡した。「コケッ」と感謝の意を込めた啼き声を発した。
「アクアは?」
「園内にはいるよ」
「そっか。よし」
雷次はモンスターボールをひとつ手にとり、
抛った。中からジュカインが出てきた。
「ウッド、フレアといっしょにアクアを探してきてくれ」
「シャッ!」
今度はフレアのほうを向く。
「フレア、龍星の奴はいまシンオウ地方に行っている。あと2、3日すれば会いにきてくれるかもしれねえから、それまで
辛抱な?」
「コケーッ!」
「よし、行ってこい」
フレアという名のバシャーモとウッドという名のジュカインは、サファリゾーンのどこかにいるアクアという名のポケモンを探しに出ていった。どちらも成年男子並みの体長があるので、野原でも建物の中でも駆ける姿を見ると迫力がある。
3、4組の複数人が出入りするなか、ロビーのテーブルで雷次は赤毛の青年――熱江炎帝と語り出した。彼もまた前歴がポケモントレーナーであり、最初のポケモンをミシロタウンのオダマキ研究所で授かったことがあった。それがアクアという名のミズゴロウ――いま現在は最終形態のラグラージなのである。
「で、悪い報せって?」
「お、あきらめたか」
「なんでもいいよ。ためるからには相当のネタなんでしょう」
「ご名答。龍星に女ができた」
間髪いれずに
悲報をストレートに答えてくれ、炎帝は一時的に言葉の意味が理解できなかった。頭上には「?」が2、3個ほど社交的なダンスをしている。
「当人たちからすれば運命的な出会いだったのかもしれねえんだけどな」
「……ということは、シナリオの変更の余地は?」
「ほぼないといっていい」
「……ついに僕だけか」
今日が早番でよかったと、炎帝は思った。寝床の一部を涙で湿らせることはしないが、心の整理をつける時間くらいはほしい。
雷次がつづきを話す。
「何いってんだ。もう1人いるじゃねえか」
「あの人もカウントしていいの?」
「同世代なんだ。どこで何しているかわからねえけど、数にはいれようぜ」
「……そうだね」
ほんの一瞬、炎帝は希望を取り戻したような笑みを浮かべたが、所在不明の知人を思うと悲しげな
笑顔に変わらざるをえなかった。
雷次の言うとおり、あの人はいま、どこで、何をしているのだろう。
龍星とは
同年齢で武術の達人。龍星の
波導拳法≠ヘその人から修得したのだそう。その人もポケモンレンジャーで、しかもS級のトップレンジャー。さまざまな地方へと渡っては、ポケモンたちとともに自然と平和を守っていた。のに…………
「あいつの心配もそうだが、龍星の奴もやばい
事件に引っかかったのかもしれねえぜ」
「どういうこと?」
炎帝は雷次の説明を聞いて、表情を曇らせた。どしゃ降りの雨には至らなかったが、しばらくは黒雲の広がりが止みそうになかった。
「今夜はたしか新月だったよね」
「現代では満月と同様、願った人の願いが叶うおまじないみたいなのが流行っているが、昔は
不吉の象徴だったからな」
だからというわけではないが、龍星に降りかかった災いが死を意味するものであったとしたら、誰が先に恋愛マスターになれるかなどと現を抜かしている場合ではない。雷次の「龍星の奴に女ができた」発言でたいそう驚いたのは事実だが、それからの対策を練ることより大事なことがあった。
「雷次はホウエン地方の外には……、出られないよね」
「まあな。リーグチャンピオンともなればホイホイと出かけられるわけじゃねえからな」
「いまここに来ているのはホイホイていどではないってこと?」
「そゆこと。でもまあ、ちょっと前に新たな挑戦者の申し込みがあったから、順調に勝ち進められたら戦うことになるな。どのみちおれは無理だね」
行動範囲の広さと行動力の高さは比例しないものらしい。雷次には
風来坊のイメージが強く、実際そのとおりなのだが、
職業柄なのかうまくいかないでいる。
いっぽう、ここにはいない龍星は、公務の関係で表に飛び出すことはあっても、オフのときは自宅あるいは近辺でゆっくり過ごしたいタイプだった。
「あのさ、雷次、他の人にシンオウ地方での内情を見に行ってきてもらうのはどうかな」
「内情って、龍星の恋模様の観察かよ」
「ち、ちがうよ! 雷次が話してくれた話の内容が真実であるかどうかを、だよ!」
「おれの話が信じられない?」
「そういうことじゃなくて……、ああもう!」
「はっはっはっは、冗談だよ」
雷次ひとりであらかたいじったところに、一通のメールが雷次のスマートフォンに届いた。開封すると、
「お前の兄貴から連絡がきて、明日
急遽シンオウ地方に行くことになった。いつ帰れるかわからないから、ウィンディとヴァンの世話を頼まれてくれねえか」
という、鮫吉からの依頼状であった。
「誰から?」
「鮫吉」
「何て?」
「半分はウィンディとヴァンの世話係のお願い。もう半分は炎帝の提案が採用されたことだな」
雷次のおもしろくなさそうな言いかたに、思わず炎帝は人の悪い笑みを作った。
「黒鋼夫妻じゃなかったところが乙だね」
「カントー地方に旅行に出かけた、とさ。追伸にそう書いてあった」
「そこは諸刃のじいさんじゃね!?」とツッコミをいれさせようとして無に帰す手法をとったあたり、鮫吉のほうが
上手であった。
「それにしても、鮫吉さんが呼ばれたぐらいだから何かがあったんだろうね」
「居酒屋の店主には伝えて、実弟には何の連絡も寄越さねえのかよ……」
炎帝が話題をそらせても、二重のショックを受けて雷次は黙ってたばこに火をつけようとしていた。
「だめだよ、雷次。ここは禁煙なんだから、吸うなら外でやって」
「傷心のおれにきつい文句を吹っかけるのな、お前」
「さっきのお返しさ」
へいへい、と雷次は立ちあがり、ロビーから出入口へと出ていった。
満天の星空が見渡せるホウエン地方の名所のひとつといえる120番道路の近くで、1本のたばこを片手に雷次は紫煙を斜め上に吐き出した。しばらく
白濁した気体がただよい、数秒後に消えてなくなる。
短期滞在の予定が思わぬ事件に巻き込まれた。ありえぬ展開ではないが、今回はひときわ切れ味のするどいものなのかもしれない。
風太と鮫吉(と、おそらく明美も)を動かすほどの大事件。諸刃のじいさんは月影事件≠ニ呼んでいた。無知であったのは雷次の浅慮によるが、内心で炎帝が思い詰めていたように、たいせつに想う女を連れ帰るよりも、まずは自分の
生命を粗末にせぬよう心から祈った。