いっぽう……
龍星がキッサキシティを発ってエイチ湖のほとりの近辺を通過した頃、ホウエン地方南西部の小さな村・ムロタウンで5人の顔なじみが集会所にきて、仕事の関係でシンオウ地方へ旅立った男のことについて話し合っていた。
その5人とは、居酒屋「鮫肌」の店主・海魔鮫吉、彼の幼なじみで恋人の天ノ川明美、「鮫肌」の最年長の常連・黒鋼諸刃、諸刃より5才若い妻の黒鋼時音、そしてホウエン地方の現リーグチャンピオン・五十嵐雷次。彼らは皆、シンオウ地方へ旅立った男・天ノ川龍星とつながりのある人物たちである。
その日はあいにくの天気だった。たまには村を出てカイナシティのどこかの
喫茶店にでもはいりたかったが、船を出すのが難しく、希望は通らなかった。しかたなしに居酒屋「鮫肌」の近くの集会所で我慢することにしたのである。
そこは公共の場であるため、集会所を出る前には簡単なかたづけをしたり掃除をしたりする必要があった。だが、居座りはじめてからまだ15分くらいしか経っていなかった。会議室にあるような横に長いテーブルに、4人が向かい合うように座るなか、海魔鮫吉だけが誕生日席に腰をおろす。
「な、教えてくれよ。鮫吉が
幼少の頃に知り合った、ツキシロキララさんっていう女の子のことをさ」
「死んでも教えてやらねえよ」
「じゃ、明美さん、鮫吉に代わって教えてくれないか」
「キッちゃんが教えないのなら私も教えなーい!」
「ええ、いいじゃねえかよー! 減るものじゃないんだしさー!」
「そういう問題か!」と鮫吉がツッコミをいれる傍ら、
御年70才の諸刃が茶々を入れた。
「そうじゃぞ、鮫吉。わしらもぜひ拝聴したいものじゃ」
「ふふふ、鮫吉さん、普段なら
諸刃を止めにはいるところですが、私もお聴きしたいですね」
「そうじゃろうそうじゃろう。さあ鮫吉、観念せい」
いっきに
分が悪くなり、鮫吉は「はあ……」とひとつため息をついた。子どものわがままと似ていて、人数が多いほど歯止めが
利かなくなるものである。鮫吉は渋々と、遠き日の少女との想い出を語り出した。
……あれは15年前だったろうか。当時の鮫吉はまだ10才の少年だった。だが10才にしては村の子どもたちのなかでいちばん背が高く、目つきやら体格やらが
年相応ではなかった。では、あまりにも普通とは異なる自分を徹底的に攻撃する者がいたかというと、そんなことはなかったし、そうさせることもなかった。いまは亡き両親のおかげであろう。
それはともかく、鮫吉は生前の父親に連れられて、友人のいるシンオウ地方に行ったことがあった。「鮫肌」を経営する前は船乗りだった父の背中を見て育ったため、あらためて父の顔の広さを知った。
父の友人の名は、月城秘輝。
冬空のように青い髪とラピスラズリの光沢をたたえた瞳を所有していて、「豪快」の二文字がよく似合うおじさんだった。実際、笑うと「わっはっはっは!」と豪快な音声が鳴った。そして彼にも子どもがいて、女の子だった。
「その子が……」
「月城煌良さん。この前のテレビ電話に出た人さ」
この5人のうち、雷次と時音は彼女の
貌を知らない。当時の写真がないので、おのおの想像してもらうより他がなかった。
「そう、私が思わず嫉妬心を燃やしたくらい可愛い
娘だったわ」
「ほほう、そんなによい子だったのか!」
最愛の妻がとなりにいるなかで鼻の下をだらしなくのばす諸刃に、すかさず、
「あなた、あと2回までなら許してあげます」
と、時音が笑っていない視線を投げかけた。それを見た諸刃が怯む。
「それで? 鮫吉はその女の子に恋しちゃったわけか?」
「早急に
結論を持ち出すな。射た瞬間に正鵠に矢が当たるのか」
煌良はこのとき7才。鮫吉より3つ下である。テレビ電話のモニター画面に映っていた彼女の髪型はセミロングだったが、幼年期はもう少し短かった。全体的にピンクで統一された洋服を着飾っていて、何よりくりくりとした黄金色の瞳が、子ども心ながらも鮫吉の脳裏に焼きついたものだ。
ミオシティの船着場で父親同士が挨拶と握手を交わしたとき、
煌良はしきりにこちらを見ていた。しかも上目遣いで。
「あのときは本気で怖がられてんのかと思ったよ」
「キッちゃんの強面は
小父さんゆずりだもんね」
蛙の子は蛙とはよくいったものだが、あまりよくない面が似てしまうのは子どもにとっては不本意に思うものである。
「それを男らしいと見るか。それとも、怖い人と見るか。
相手の捉えかたは
千差万別じゃからな」
「私が
諸刃とお逢いしたときは、
朗らかなお方だったか、いいかげんなお人だったか。あなた、どちらでしたかね」
「それをわしに聞くのか!?」
諸刃の妻・時音は、気質だけなら明美によく似た人物である。身長が成人女性の平均にわずかに届かないくらいなのだが、60代とは思えぬ美貌の持ち主であり、きちっとしたプロポーションを維持してもいた。そんな彼女の健康の
秘訣は毎朝かかさずにおこなうジョギングであるという。
諸刃も、かつては実力派トレーナーとして名を馳せていた。ホウエン地方だけでなく、その先のジョウト地方、カントー地方へと進出しては、つぎつぎに強いトレーナーと戦いつづけていた。むろんポケモンリーグにも出場し、いちどだけ頂点にたどりついたことがあった。何故いちどだけかといえば、「チャンピオンより上の称号が存在しないから」という理由でみずから栄光の座を譲ったのだ。とにかくポケモンバトルが好きなのである。
このふたりが出逢った場所は、ジョウト地方の主都・コガネシティの北北東に位置する、
雅やかな町・エンジュシティの
歌舞練場である。
舞妓として立ち振る舞っていた時音が、客としてあらわれた諸刃の相手をして意気投合。強者を求めて旅する諸刃が夜明けとともに去るのを見はからい、時音はみずからの仕事を
擲って
駈け
落ちした。もう50年前の話よ、と照れくさそうに、時音が明美に明かしてくれた。
先にも記したとおり、時音には60代だと言い張るのが難しく思えるほどの色気がある。
化粧のしかたといい、若々しい身体の作りかたといい、見習うべき点は多々あって、ときどき黒鋼の家を訪れては
時音から愛されるコツを学んでいた。私も時音さんみたいな素敵な
歳のとりかたをして、キッちゃんと一生を過ごしたい。明美はすでにその準備を進めているのであった。
「へえ、じゃあその子のほうが鮫吉に恋心を抱いたのか。へえ…………」
「なんだよ」
「別に」
おもしろくなさそうに雷次が口をとがらせる。
「なんじゃ、雷次、もしや妬いとるのか」
そのようすを見て、諸刃がからかいの手を出した。
半白の頭になっても小学生のような行動が絶えない。
「そういうわけじゃねえッスよ。ただ鮫吉みたいに顔に出ない奴ってのは、女からすれば、ミステリアスに見えるか、何を考えてんのかわからなくて気持ち悪く思うかのどっちかでしょ。で、ほとんどの女が前者の見方をするもんだから不思議だなと思うわけさ」
はたして否定的に見られることがないというのは、見られる側としては幸福なことなのだろうか。ありのままの姿から粗をひとつでも見つけてしまえば、その人のことを否定的に見てしまうのが人間だ。だいたいの人は清潔感のある
相手を望む。
身長が2メートルを超すこの大男は、不潔ではないが意識的に身なりをととのえるほうではなかった。ならば、彼のどこに注目して胸をキュンとさせるのか。まさかいきなり「全部」とは答えないだろう。
「お前だって自由きままな生きかたをしているじゃねえか」
「おれはこの目に映る女性全員を愛することにしているんだ。どんなに言い寄られても明美さんただひとりを選んだ鮫吉みてえな人生を送る気はねえのよ」
「雷次くんはそれでいいのかもしれないけど、女の子は特別でありたいものよ。好きな人に声をかけられて、好きな人のそばから離れずに、好きな人の最後の女として死ぬ。それが女の幸せなんだから、雷次くんみたいな考えかたをした男の人になつくことはほとんどないんじゃないかしら」
けっこうひどい言われようであるのは気のせいではないが、肝腎の雷次がまったく気にしていなかった。ひとりの女性に死ぬほど愛されるなど、彼にとっては耐えがたい苦痛でしかない。自由であることを選んだ以上、ひとつの
寝床に固定するわけにはいかず、行きつけの酒場で浴びるほど飲みつつよさそうな
異性を
見繕って一夜を明かす。誰に何と言われようと、彼はその姿勢を崩す気はなかった。
「明美さんには
博愛主義の何たるかを説く必要がないですからね。
博愛主義者の言うことなんて気にせずに、鮫吉の甘いヴォイスにでも聞き
惚れていてください」
「そうさせてもらうわ」
それきり明美は雷次にその手の話をしないことにした。いくら反論しても聞く耳をもとうとしないし、女という生き物の真実にふれていないような気がしてならなかった。
女はものじゃない。男の人はそういうふうにとらえてしまいがちだけれど、女だって
陽の光をめいっぱい浴びたいし、せいいっぱい愛したい。この世界は男だけのものじゃない。女もいて、はじめて世界が成り立つのだから、
快楽主義の名の下におかず、もっとたいせつにあつかってほしい。
内心で聞こえない反論をひととおり垂れると、鮫吉のそばに寄って笑顔を振りまいた。それを受けて鮫吉は
仏頂面を赤く染めた。
「そして、その月城煌良さんとどのように過ごしたのですか」
時音が盛大にずれた話題の
軌道を修正した。酒好きな旦那の制止役として、閉店まぎわにかならず来店する彼女だが、このときだけは役目を放棄して、鮫吉の話に集中していたかった。
……
煌良は友達の少ない
娘だった。その歳にしてたぐいまれなる美貌をもち、町に住む同性の反感を食らったゆえであるらしいのだが、異性のひとりにすぎなかった鮫吉にはわからぬ感情であった。
あとで聞いた話によると、いちおう幼なじみがいるが、これがとてつもなくへたれた男子だそうだ。同性には嫌われ、さらにどうしようもない性格の
異性とくっついても自分がみじめになるだけだと思い、ほとんど交流をしていないらしい。あのおとなしい外見からは想像もつかないようなことを考えていて、鮫吉ははじめて女子を恐ろしい生き物だと思った。
父親たちが
酒宴をはじめたあたりで、
煌良の母親である月城螢が娘に、「お部屋へ連れていってあげたら?」と言い、少年だった鮫吉が、「はいってもいい?」と聞くと、
煌良はりんごのように顔を真っ赤にして、もじもじしながら、「……いいよ」と答えてくれた。螢はくすくすと笑っていた。いっぽうの鮫吉は何が何だかわからず、クエスチョンマークをいくつも頭上に宙に浮かせた。
部屋に案内され、はいると、
煌良が今度はどうすればいいのかわからないみたいで、おろおろと、でも上目遣いでこちらを見つめてきた。とりあえず不用意にさわってはいけないと、地元の幼なじみに注意されたことがあったので、ものにふれずに
煌良のほうから話しかけるようにさせるにはどうすればいいか。
ふと、鮫吉は本棚から見慣れぬ絵本を見つけた。地方特有の童話であろうか。背表紙にある題名が異様に気になったので、「この絵本はどんなお話なの?」と
尋いてみた。すると、恥ずかしすぎて泣きそうだった顔が一瞬にして明るくなった。とてとてと歩いていた足どりも嘘のように軽くなって、ゆたかなステップで本棚の絵本を手にとり、見せてくれた。
「なんていうタイトルだったの?」
「…………忘れた」
「あん? 忘れた?」
「15年も前なんだ。しょうがないだろうが」
もっとも気になるところで語り部が忘れるというハプニングにより、4人だけの
観客は愕然とした。むしろここまで覚えていたのを評価してもらいたいぜ、と、語り部の鮫吉が
拗ねるようにいう。
「内容もわからんのか」
「ええ、申し訳ないが…………」
「あらあら困ったわね」
話を再開してもらおうと努力した時音がいちばん悔しそうであった。だが、鮫吉のいうとおり、両親がまだ健在だった頃の古い記憶を現代に
蘇らせたのである。さらに思い出すよう
強いるのははばかられた。
「…………いや、待てよ」
「お、まだなんとかなりそうか」
鮫吉が
懸命に記憶のかすをしぼりとろうとしているのを、雷次が目をらんらんと輝かせた。
「たしか、月にまじわる昔話だったような…………」
「月? 月って、あの?」
「そうだ。なんでも
煌良の家は代々、月を司るポケモンの
加護を受けていて、その力は女性にのみあたえられたのだそうだ」
「へえ、じゃあ彼女もその力を譲り受けているのかな」
「いや、
煌良は知らないらしい。いまの話は螢さんから聞いたんだ」
「知らないのか?」
「ああ、まだ時期が早かったのかどうかは知らんがな」
雷次は思った。おかしくないか、と。代々受け継いでいるのなら、物心ついた頃には母親がそういった使命を担っていることを知っていてもいいはず。自分が娘であるならなおさらだ。伝統的なものを中断してはいけない法はないにしても、いままでの流れを理由もなく止めさせるのはあまりにも不自然すぎる。何かがあったのだ。でも彼女の両親にいったい何が?
「月を司るポケモンがいるのですね」
「ええ、名前は聞いていないのでなんともしがたいのですが、女性にのみあたえているというのなら、おそらくそのポケモンもメスなのでしょう」
メスのみの
存在。オスがいないのだから、繁殖させるにしても動物的なおこないはできない。それならば、自分の力をもつに値する者たちに
代替して受け継いでもらうしかない。性がひとつしかない
存在というのは難儀なものだ。ヒトの身でしかない雷次が
憐れむのも妙であるが、20年以上も生きてポケモンに転生するのは人生を甘く見ていやしないかとも思うのであった。
「…………風太の奴、それで動いたのではあるまいか?」
「どういうことなの、あなた」
いままで黙りこくっていた諸刃が口を開けた一声は、その場にいる全員を驚かせた。
「龍星がシンオウ地方へと旅立ったあとで、鮫吉のところに向かったそうじゃな」
「え、ええ、いつもどおり
赤身をつまんでから出ていきましたね」
仕事をはじめる前に「鮫肌」で刺身の盛り合わせを食してから現場に向かうのが、風太の流儀であった。変なこだわりを捨てられないのが男という生き物だ。
それはさておいて、その日も風太は店にきて新鮮なマグロを突きにきたが、龍星がシンオウ地方に向かったことを話すと顔を蒼くして出ていった。ムロタウンで駐在などをしていても暇なのだから、弟のようなしかたはせずとも、カイナシティやキンセツシティで美女と街中を歩いてもよさそうなものだが、まじめな性格がわざわいしてせっかくの美顔を
死蔵していた。
「あの男、愛想笑いはうまいが大事なことはしゃべろうとせん。結果、弟の雷次ですら考えのつかぬ行動に出るじゃろ」
「まあ、それが兄貴の悪いところだからね」
「たぶん龍星がシンオウ地方に向かったことに驚いたのではあるまい。別の何かで衝動的になったのじゃろう。そう、たとえば、
月影事件≠フような…………」
「!!」
びくっと肩がふるえ、がたっと椅子を乱暴に引きずった者がいた。龍星の姉・明美である。
「なんじゃ、まだ
月影事件≠オか言っとらんのに」
「だ、だって、月影事件≠チて、謎の怪死事件のことでしょ……!?」
「ああ、月影事件≠ヘ「月」の字がある姓名の者が連続して衰弱死したから、そう名づけられたのじゃ。どういう過程でそうなったのかは、警察のみぞ知るところではあるがのう」
「……なるほど!」
ようやく鮫吉の表情に納得の色が浮かび上がった。
「つまり、風太さんは未解決である月影事件≠フ
狼煙がふたたび上がったのではないかと思い、ちょうどシンオウ地方に向かった龍星のあとを追うように出ていった。そういうことですか?」
「うーむ、90点は正解じゃのう」
残りの10点は何が誤りであったか知りたいところだが、明美がふるふると身体を震わせているので、自身の好奇心を優先させるわけにもいかなかった。
明美を腕の中に引き寄せ、やさしく頭をなでてやる。
「……
一服いいッスか?」
「携帯灰皿はもっとるのか」
「ええ」
雷次はショルダーバッグに手をかけ、たばことライター、携帯灰皿を取り出した。
「そういえばお兄さんの風太さんも吸ってらっしゃるわよね」
「ええ、兄貴はそんなに吸わないんですけどね」
雷次は慣れた手つきでたばこに火をつけた。携帯灰皿をテーブルの上にひらいて置き、ほかの4人に
紫煙を向けぬよう背けて吐き出す。
「……で? 諸刃のじいさんは鮫吉の
失点をどう解説されるです?」
「そうじゃな。
風太は月影事件≠ノ一枚
噛んでおる。もちろん初動捜査には加わっておらんじゃろうが、狼煙があがったかどうかなんて
玄人でも判断がつきにくかろうよ」
「では、あなたは、風太さんが衝動的に動いたのではなくて、あらかじめ予想をしておいでだったというのですか」
「
風太がまじめな性格を有しておることは、ここにいる全員がよく知っておる。個人的な感情で動いていいのは
野次馬ぐらいで、警察として行動に出た以上は当時の事件のあらましを洗い流し、考えなおしてから現場に向かうのが冷静な取り組みかたであろう」
諸刃の考えはおそらく正しい。一同がそろって頷いた。しばらくムロタウンの駐在所は留守がつづくが、いないからこそ迷惑をかけるような真似はしてはならんと、村の仲間たちは慎重にならざるをえないであろうから。
「それにしても、鮫吉が絵本の題名を忘れちまったってのがまずかったなあ」
「覚えてないものに無理やり尾ひれをつけられんのか、お前は」
「夕飯はみそおでんにしよう、ってことになって、さまざまに具材を鍋にいれたのはいいが、肝腎のみそがないといって撃沈するのと変わらないんだぜ」
「…………雷次、お前、昼飯は?」
鮫吉はあえて聞かなくてもいい質問をした。むろん雷次は首を横に振るしかない。
「そろそろ晩飯を作ろうと思っていたところだ。お前、食べていけ」
「まじか!」
「なら鮫吉くん、私たちもご
相伴にあずかってもいいかしら」
「鮫吉、わし、月の
雫が飲みたい!」
鮫吉は肩をすくめた。そして腕の中の明美にアイコンタクトする。「たまにはいいんじゃない?」という返答だった。
「あいわかりました。場所を移しましょう」
時刻はもう5時50分。あと10分したら店を開けなくてはならないのだが、この日は休業日。週2日の休みのうちの1日を、村の集会所で
費いはたしたのである。
掃除をてきとうにすませて外に出ると、空はすっかり夜の色に染まっていた。星がきれいに瞬いている。残暑のおかげか、海から吹く潮風が心地よい。
遠くの地で、いまごろ、龍星の奴は何をやっているのだろう。無事に任務をはたせたのだろうか。いくら寒いのが苦手だからといって、あんなはでなデザインの防寒服を用意しなくても、とは思ったが、
風邪をひかずに帰ってきてくれればそれでいい。
便りがないということは、うまくやっている証だ。
先ほどの話にあがった月は、今夜は出ていないらしい。新月だろうか。
新月はこちらに顔を向けていないだけで存在はしている。けっして姿がないわけではない。見えないからといって信じられないというのは、その人の解釈のしかたに問題がある。信じられないのではない。信じたくないか、信じる気がないか、どちらかである。その人のすなおな気持ちという面で捉えるのならよいのだが、相手の存在があると無邪気な自己表現が悪意になり替わるときもある。充分に気をつけることだ。
そのとき、鮫吉の左腕に明美の両腕がからみついた。エネコのような満面の笑みがそこにあった。鮫吉はそのままの状態で自分の店にもどった。