腹いっぱい胸いっぱい幸いっぱい
結局、龍星は少し遅めの昼食をとるため、キッサキシティのポケモンセンターまで戻ってきてしまった。あいかわらず利用者がいない。受付にいるジョーイも堂々とあくびをする始末だ。奥の
治療室にはハピナスが1匹、はてしなく長い休憩時間をとって
熟睡していた。
龍星は、中にはいってすぐ右手にある木製のテーブルに向かった。さっそくC3から煌良の手作り弁当を出す。水色のナプキンを下に敷き、シンオウ地方の
御三家のイラストが描かれたふたを開けてみた。
「おおーっ!!」
眠たそうにしていた受付のジョーイが龍星の感嘆の声にびっくりしてこちらに振り向いた。はじめてはいったときとはちがう顔つきだった。
それはともかく、龍星が感動した肝腎の弁当の中身は色とりどりのおかずが詰まっていた。右側には、男爵コロッケ、たまご焼き、レタスとミニトマトのサラダ、オクタン型のウィンナー、ミミロル型のりんご。左側には白いご飯、その中心に
鮭フレークが
楕円をかたち作るように降りかかっていた。さらに梅干しも乗っかっていたが、やや上のほうにあった――
俯瞰して見て――のが気になった。
「どうして真ん中じゃないんだろう」
不都合なことでもあったのか。失敗したのなら言ってくれればよかったのに。そう思いながらも、自然と
表情筋がゆるんでしまう。
鼻孔もひくひくと動く。
誰かに作ってもらった弁当を食べるのはいつ以来であったか。実の姉・明美は普段の食事を作ってくれはしたが、たしか弁当までは作らなかったはず。鮫吉もない。ときどき、気分転換として自分で作るときがあるが、これほど豪勢に盛りつけることはなかった。すごい。もっと褒めようか。すばらしい。もうひとふんばり。最高!
思うのは勝手である。龍星はまだひとつも手をつけていなかった。誰に向けての照れ笑いかも知れないまま白いプラスチック製の
箸をとり、まずはたまご焼きをつまんだ。
天ノ川一家のたまご焼きは濃口醤油を使っていた。別に甘いのが苦手であったわけではないが、気づいたら引き締まった味つけのものを口にすることが習慣になってはいた。
煌良のたまご焼きはいかなるものか。半分だけ口にふくんでみた。ふわっとした食感がする。
風味がほんのり甘かった。
「おいしい…………!」
理性と感情をうまくなじませられたら、このように、静かに驚きの声をあげられるのだろう。口を上下に動かして、いつもとは異なる味つけのたまご焼きを楽しむ。
「あと半分も」
絶妙な味わいだった。香りも楽しめて、まさに一石二鳥である。
つづいて箸を左に移した。謎の詰めかたをした白飯を角のほうからつまみ、口に運ぶ。
「やっぱり弁当は米で食うのが
醍醐味だよな」
それをいうとパンが主食の人は反発するであろうが、いま、ここで、弁当を味わっているのは龍星だけである。米好きの米好きによる米好きのための主張であるので、パン好きがここにいない以上、いくらでも好きだという気持ちを言いのけられた。
「でも、どうして鮭フレークのさらに上に梅干し…………?」
これが月城家の
常識なのか。梅干しの位置が不自然だし、まるで何かを隠したようにある。
「その鮭フレーク、ハートマークだったんじゃないですか」
左手から女性の声がかかった。そちらに顔を上げると、いつのまにか受付のジョーイが興味津々な顔つきと態度で龍星の弁当を見つめていた。
「ハート…………?」
「このお弁当を作ったのは女性の方ですよね」
「え、あ、はい!」
ただ聞いただけなのに声が裏返ったので、ジョーイはくすりと微笑んだ。よほど気にしているらしい。
「でしたら間違いないです」
「な、何が?」
自分にたいする
煌良の気持ちを、龍星はだいたい感づいていたが、いまいち自信がもてずにいた。
自分の何に惹かれたのか。
煌良の父親・秘輝は「きみのすべて」だと推測した。だが全部ということはありえるのか。己のうちにある
美醜や
善悪を受けいれたというのか。こういうふうに
悶々としてしまうあたり、龍星は自己評価が人より低いのであった。
ジョーイが確信的な意見を述べた。
「その女の人があなたのことを想っているということが、です。それもかなり熱をあげてらっしゃるようで」
「……………………」
本当だったんだ……。本当に、自分のことを好きに思ってくれていたんだ……。たしかな手応えを感じると、30パーセントのぐらついた自信がいっきに100パーセントにまで達した。
「さしつかえなければ、その女の人がどんな方なのか、教えていただけますか」
ジョーイの表情がとてもやさしい。
羨望か
憧憬か。どちらかの感情によるものであるのは間違いなかったが、龍星に
相手の心の
機微を正確に捉えられる才能はなかった。
代わりに、龍星は煌良の特徴を、ひとつずつ、ていねいに紐解いていった。
空色のきれいに
梳かれたミディアムロングの髪、
白皙の肌、涼やかな
睫毛、その下には黄色がかった
黄金色の瞳、かたちがよくととのった鼻、小さくて愛らしい
口唇、たまごっぽいかたちをした顔の
輪郭、髪でぎりぎり隠れていない耳。
ここまででも充分な情報なのに、龍星の興奮した口調が首から下の身体的特徴まで露わにした。
ゆるいカーブを描いたような美しくて女らしいボディライン、B・W・Hのていどのよさ、モデル体型とまではいかないがゆったりとしたたたずまい、服装にかんしての
才能が好みであること。
「教えてください」と訊きはしたものの、後半の情報は人によってはセクハラだと感じてしまうおそれがあった。やや残念そうな面持ちで受けとめてから、ジョーイが話し手の主導権を握った。
「では、どんな性格でした?」
「そうですね……」
龍星はいったんミネラルウォーターを口にふくませ、口中のところどころにこびりついた食べかすを食道へと流しこんだ。それから息を大きく吸い込み、ジョーイの2つめの質問に答えた。
「おとなしくて、控えめで、とてもやさしい
女性です。あと気配りができて、困ったことや人を見過ごせないような人情のある
女性でもありました」
ジョーイは、最初、同じ
土俵の上に立って
覇権をあらそうつもりでいた。自信をもてていなかったこと以外の事柄で龍星を見、彼女は確信したつもりでいた。
が、龍星がいまひろげている
煌良特製の弁当と、
龍星自身の想いから紡がれた情熱的な
本心の言葉を聞いて、退場の決意を固めたのであった。だいいちこんなに熱々な
相思相愛の男女を前にしていたら、その熱でとけてしまうにちがいなかった。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
龍星は、たったいま失恋で終わった自分の女心に気づいているだろうか。
否、気づいていない。
彼はそういう人なのだ。自信がないと態度で示しておきながら、こちらに思わせぶりな雰囲気を
醸し出してくる。それを自覚しておこなう者と、無自覚でする者が世の中にはいるが、
龍星は後者の
部類だった。自然におこなえるのだから、いろいろと予防線を張りめぐらして
用意周到の状態になってから事を動かすような慎重な性格ではないのであろう。
「あの、ジョーイさん?」
「はい、なんでしょう」
「先を急いでいますので、食事のつづきをしてもよろしいですか」
「あ、はい、失礼しました。ごゆっくりなさってください」
いやいや、急いでいるんだけどな。
かといって、
煌良の愛情のこもった弁当をいいかげんな気持ちで食すわけにもいかなかったから、ほんのちょっと速度を高めつつ味わうことにした。
どれもおいしい。これは龍星の正直な
感想である。しかし、どれがとくにおいしいかったかを伝えたほうが
煌良の喜びの度合いは大きくなるのではなかろうか。すると、「どれも」おいしいというのは嘘ではないが失礼な気がした。
「……やっぱりこれかな」
龍星の選んだ答えはじつにシンプルであった。だが、シンプル・イズ・ベストというではないか。お手軽な料理ではあるが、味つけしだいでさまざまに変身する食べもの。そう、たまご焼きである。
ハートマークだった鮭フレークを楕円にならし、その上に梅干しで隠した
煌良のようすをイメージしてみたら、かなり気恥ずかしい気持ちになった。
露骨に「好き」という気持ちを表現するのは気が引けるし、
相手にそのことが諸に伝わったら気味悪がられるのではないか。嫌われてしまうのではないか。それだけは、そうなってほしくない。なんとかして自分の気持ちをひた隠しにできる方法はないか…………
きっと
煌良はそんなことをしながら自分への想いがこめられた弁当を作っていたにちがいなかった。すなおな気持ちを打ち明けたい。でも簡単には知られたくない。矛盾というか
葛藤というか、
煌良の側に立ってみるとわからなくはなかった。おそらくこれが、
恋い
焦がれる≠ニいう感情なのだろう。
「ごちそうさまでした」
完食。ぺろりとたいらげた。ふたを閉め、下に敷いていたナプキンで空になった弁当箱を包み込む。C3にしまうと、あとひと口でなくなりそうだったミネラルウォーターも胃袋の中へと
抛り込んだ。
「よし、補給完了! 準備は万端、体調も万全だ!」
キッサキ神殿での対レジギガス戦で9割がたの波導を使いはたしていた龍星は、元気もりもりと両腕を持ち上げて筋肉を盛り上がらせようとした。だが、長袖のアウターウェアのせいでそれは見えずに終わった。
あいかわらずのはでなバシャーモスタイルの防寒服は、龍星の全身を完全にまとってはいなかった。レジギガスとの戦いで部分的に破れてしまったのだ。おもに上半身がひどかったが、発熱作用のあるリストバンドとブーツの靴底のおかげでなんとか
凍結せずにすみそうではあった。
「お気をつけて」
「ジョーイさんも」
若干名残惜しそうにして見送る
彼女に笑顔で応え、龍星はポケモンセンターをあとにしようとした。
「ジョーイさん、
急患だ!」
ところが、外からスキーウェアを着用したポケモントレーナーが数人、あわててはいってきた。その場にいたジョーイが
諌める。
「騒がしいですよ」
「ああ、すみません、ジョーイさん! でも大変なんだ! おれのグレイシアが!」
青いスキーウェアの人物はどうやら男性のようだ。彼は腕に1匹のポケモンを抱えていた。
新雪ポケモン・グレイシア。進化ポケモン・イーブイの進化形で、氷タイプのポケモンである。それがどうだ。
胴体をするどい引っかき傷が支配し、鮮血に染めてしまっていた。
「これは!?」
「216番道路でこいつと修行していたんだけど、突然、2匹のマニューラが襲いかかってきて、あのするどい爪で引き裂きやがったんだよ!」
「わかりました!! すぐに治療室に運びましょう!! ハピナス、手伝って!!」
受付の奥の治療室でぐっすり眠っていたハピナスがぱちっと目を覚ました。寝ぼけ眼だったものを瞬時に
活性化させ、ぱたぱたとジョーイのもとへと駆けだしていく。
「急患よ!! すぐに傷口をふさぐから冷却スプレーを用意してくれる!?」
大柄だが
俊敏な動きを見せるハピナスは人間の敬礼みたいなしぐさをとって、ふたたび治療室の中にもどっていった。ジョーイはキャスター付きの
担架を用意し、トレーナーも付き添うかたちで部屋にはいっていく。
残されたトレーナーのうち、濃いピンクのスキーウェアを着たポケモントレーナーが出かけようとしていた龍星を呼びとめた。
「あなた、テンガン山へ向かう気?」
「ええ、そうですが」
「いまはやめておいたほうがいいぞ」
今度は薄紫色のスキーウェアの人物が忠告してきた。中身はもちろん男性である。
「あのマニューラは
桁ちがいに強くて怖かったが、もともと強い野生ポケモンがたくさん
棲息している区域なんだ。
吹雪も強いし、ほとんど視界が遮られてしまう」
「そうよ。悪いことは言わないから、しばらくはジョーイさんに頼んで2階の個室を借りたほうがいいわ。
生命にかかわることだから」
彼らの言い分は正しい。それは認めるが、待機することにかんしては黙って従うわけにはいかなかった。
「ご忠告、感謝します。ですが、私はここに留まるわけにはいかないのです」
「死にますよ!?」
その
糾弾ももっともな反応だった。だが龍星はけっして怯まなかった。
「私の帰りを待っているのは、いまにも死にそうなたいせつな人たちなのです。邪魔しないでいただきたい」
2人のスキーヤーは絶句した。賢明なアドバイスをしたというのに、それを「邪魔」の一言でかたづけられてしまったのだ。
「……失礼します」
龍星は2人の反発を待つことなく、ポケモンセンターの外へと飛び出していった。そして、キャプチャ・スタイラーとディスクの電源をいれた。
「待っていてください。いまそちらに向かいますから」
ディスクを抛る。と、龍星の立つ位置から5メートル先の地点に回転しながら停滞した。スタイラーの
液晶画面に目を落とす。目的地と到達予定時刻と総距離が設定されたままになっていた。
「行くぞ」
龍星は駆けだした。それと同時に、左の肩ごしに
光球が近づいた。満月を
司るポケモン・クレセリアである。
『少しゆっくりしすぎでは?』
「これでも速く食べたほうなんだぞ」
……といったやりとりを交わしながら、龍星たちはキッサキシティの村を出ていった。その先に
闇黒の使者が待ちかまえていることも知らないで――――