月城家の追憶(後編)
……螢の死。それは残された家族全員をどん底の闇に突き落す試練でもあった。自分は、しばらくの間、酒瓶に手をのばしては一気飲みする夜を過ごし、煌良は自室に閉じこもり、枕に顔をうずめてぐしょぐしょになるまで泣きつづけた。
秘輝と螢と煌良。この3人がいて月城
一家だったのだ。その1つが空席になってしまったいま、別の誰かを連れてきて穴を埋めでもしないと自分たちの間の溝がよけいに開いてしまうであろう。どうすれば、どうすればいい!
妻のいない
港町の街中を歩いていたら、10才くらいの女の子がパチリスを抱いてポケモンセンターへ向かう姿を見かけた。抱かれたパチリスはポケモンバトルで負傷したのか、自慢の大きな尻尾の先端が丸みを帯びていなかった。女の子も悔しさいっぱいの表情だった。
そのようすを見て、自分は思いついた。
煌良にもポケモンを持たせればいい。自分はポケモントレーナーではない一介の船乗りにすぎないし、ゆいいつポケモンとの接しかたを知っていた妻・螢はもういない。だが、海魔家や岩村家の
息子たちのポケモンに少なからずふれているはずの
煌良なら、妻と同様にたいせつに接してゆけるかもしれぬ。そうと決まれば善は急げ、だ。
自分は、よく鋼鉄島に出没する知り合いの人物に、「ポケモンのたまごを譲ってもらえぬか」と請うた。彼は全身を濃藍色のスーツに包んだ謎めいた男だった。傍らに1匹のルカリオを連れている。どういった
経緯で知り合ったのか。それはおいておくとして。
男はこちらの意図を理解し、残りひとつだったというポケモンのたまごを譲ってくれた。中身は波紋ポケモン・リオル。育てかたを知らぬというのなら、ついでに教えてやると言ってくれ、自分はそこで簡単にメモを書き留めたものだ。
家に帰ると、煌良がうつむきながら、
「お父さん、いままでどこにいたの…………?」
と言った。泣き叫びたい声を押し殺して。
自分はばかなことをした。ただでさえ精神状態があやうい
煌良を独りにし、自分だけで家族の穴埋めの補強にいそしんでいたのだから。本来なら
煌良といっしょにしなくては意味がないのに。
煌良は自分の胸に飛び込んで、ぽかぽかとたたいた。そして慟哭した。自分は悲哀にくれた自分自身を大量のアルコールで流してしまったので、次にするべきことを即座にとりかかることができた。
しかし、煌良はちがった。芯の強い子だと思っていた自分は、時間はかかっても、煌良ひとりの力で立ち直れるだろうと思い込んでいただけで、何ひとつわかってなどいなかった。
煌良は女の子なのだ。まぎれもなく。芯が強いだとか、華奢だとか、それらは主観的な評価なのであって、客観的事実などではない。こちらが正当な
採点をつけて満足しても、あちらは自己客観視して
採点をつけ不満に思っていたりする。その可能性を見抜けなかった自分は、自分を、恥じた。
「ごめん、煌良…………!」
自分は、船乗りとして鍛えあげた筋肉質の腕で煌良を抱きしめた。
もうどこへも行かない。
黙って出ていかない。
ずっと、そばにいるから……!
煌良の耳もとでやさしくそう囁いた。あるいは、自分に言い聞かせるように。
すると、煌良は自分の胸をたたくのをやめた。腕の中で甘えるように頬をこすりつけはじめる。
「本当に、本当にずっと、そばにいてくれる…………?」
「ああ、約束する」
自分はさらに強く抱きしめ、さらさらに梳かれた煌良の空色の髪ごと頭をなでてやった。
「…………お父さん」
「ん?」
「…………大好きだよ、お父さんのこと」
「ああ、お父さんも煌良のことが大好きだ」
玄関の扉が閉まっていてよかった。同郷の人間は後ろ姿で誰だかがわかるから心配はしていなかったが、場合によっては、煌良の弱さにつけ込んでなびかせようとする質の悪い痴漢に襲われていたかもしれない。そういう面も考えられていなかったと、のちに自分は猛省したのである。
さて、せっかく手にいれたポケモンのたまごをいつまでも隠しつづけるわけにもいかなかったので、感情のむらをなくしつつあった煌良に、自分は自慢げに見せてみた。予想どおり、
煌良は一変して大喜びしてくれた。名前は何にしよう、と訊かれたが、煌良がつけていいよと返すと、うきうきとした顔から思案げな表情に切り替えて考えはじめた。
自分は、とりあえずたまごを温めておかねば、と押入の中から毛布を引っぱり出し、それをくるませた。笠をかぶった雪ん子のような外観になったが、何日か経てば無事に生まれると鋼鉄島の知り合いの男に言われたので、煌良とふたりで温かく見守ることにした。
なかなかたまごの殻にひびがはいらない。もう2ヶ月が過ぎた。ダイニングテーブルのとなりに置いてあるそれは、月城の姓をもつ
父娘の視線を一身に浴びていた。温かみが少し薄らいだのは、彼らの焦燥感によるもので、完全に冷め切ったわけではなかった。
「お父さん」
「何だい、煌良」
「わたし、この子の名前、決めたの」
「ほう、何て名前にしたんだい」
「ルナよ」
「なるほど、オスにもメスにもつけられるものにしたんだね」
「うん!」
頬を上気させて微笑む煌良。
そのとき、パキッと何かが割れる音がした。秘輝がたまごの先端あたりに小さなひびがはいっているのを見つけた。
「生まれる、私たちの家族が!」
ひびは亀裂になり、ジグザグと四方八方に線がたまご全体を駆け抜けていく。バキッと、たまごの殻の破片が一枚飛んだ。その奥に、大きくてうるうるとした目が2つあった。数秒後、たまごの殻があたりに飛散した。波紋ポケモン・リオルが誕生した瞬間である。
「アン!」
それが生まれたてのリオルの第一声であった。人間の赤ちゃんとちがって、天使の子がラッパを吹いたような楽しげな音楽を奏でることはしなかったが、開脚したまま座りこむ愛くるしい姿や、煌良と
秘輝を交互に見て自分たちのことを育て親と認識しようとするようすは、やはり人間の赤ちゃんとなんら変わらなかった。
煌良は躊躇することなくリオルを抱きかかえた。すると、「アンアン」と啼きながら煌良の顔を舐めまわした。
「あはははっ! くすぐったいよ〜!」
「アンアンアン!」
「あはははははっ!!」
煌良に笑顔のランプが灯った。やっと空席がなくなったのだ。このときの自分はどんな顔をしていたのだろう。少なくとも微笑んでいたのは確実だ。
「お父さんも抱いてみたら?」
「え、いいのかい?」
「この子は家族だもの。お父さんだけ蔑ろにするわけないでしょう」
てっきり独占するかと思っていたが、そこは平等に配分されるものらしい。この思い込みの激しさもなんとかしないと。そんな自分自身に苦笑しながら、煌良からリオルを受け継いだ。
「おほっ、けっこう身軽なものだな」
「アン」
リオルは自分の顔も友好の証として一舐めしようとした。しかし、頬ひげの舌ざわりが悪かったみたいで、それきりしようとはしなかった。
「おや、お気に召さなかったのかな」
「お父さんのひげのせいじゃない?」
「ははは、こりゃあまいったね」
「アンアン」
それから7年間、自分たちの過ごした日々は回復を取り戻していった。
「……取り戻したはずだったんだ。
一昨日の夢で奴≠ェ再度の脅迫の警鐘を鳴らすまでは」
「警鐘?」
龍星がオウム返しに尋ねる。
秘輝の夢の中で、奴≠ヘ次のように告げてきたという。
「我の力が最大まで高まらずにいたのは、貴様が波導で我の邪魔をしていたからか」
波導の使い手! やはり秘輝も龍星と同じ波導を所有していたのだ。
「……よろしい。貴様らがそこまで強情な態度で居座るというのなら、我にも考えはある。貴様らのたいせつにする子の分も食らいつくしてやるのさ」
も=c………? 奴≠ヘほかに誰の力を、うばって、いる…………?
「貴様の愛する者の力はもうすこしでつきる。我がものとなる。
主食は最後にゆっくり摂ったほうがよい、というだろう……?」
まさか! 7年前に息を引き取ったという、
煌良の母親の…………!?
「……そうだ。螢は死んでなどいなかったんだ。
否、現実世界にはたしかにいないのだが、奴≠フホームグラウンドにずっと監禁されていたんだよ」
なんという狡猾さ! なんという卑劣な存在なんだ!
あれもこれも手にいれて、ついには
主食をも狙うときている。人間の誰もがはじめからもった7つの大罪、
傲慢・
嫉妬・
憤怒・
怠惰・
強慾・
暴食・
色慾。うち、嫉妬と色慾以外の罪を、奴≠ヘ満遍なく犯したわけだ。こうなれば退くに退けないであろうから、最後まで意地をとおすはずだ。
「螢はまだ生きている! それは私たちにとって希望となるはずだった。が、私たちはもう…………!」
そう、
両親にはもう、時間的な体力・精神力の残りが少ない。だから希望は別の者に委ねたのである。奴≠フ
主食になる予定の、あるいは、月城家の最愛の娘である煌良に!
「……煌良さんにはこのことを?」
「知らせていない。知らせれば、きっとあの子も、身を投げ出してしまうかもしれないから」
賢明ではないが現時点では正しい判断であろう。秘輝の語った
追憶編を聴いたかぎり、
螢がまだ生きていた頃から煌良の性分は変わっていないようだし、99.9パーセントの確率で関わりをもとうとするにちがいない。
煌良はそういう
女性だった。
秘輝は視線を娘と同年代の青年からはずし、海のほうを見た。
「それに、身を投げるにしても、私たちのために死ぬのではなく、これからを生きる者たちのために
生命を使ってほしい」
煌良が、いま、ここで、父親の本音を聴いたら、いったい何を思うのだろう。
等身大の彼女の
心でしっかり受けとめるか。それとも、
螢を亡くした直後の頃の
少女(に退行して、あらんかぎり泣いて引きとめようとするか。
煌良も、つねに現実的でシビアな捉えかたをする女のひとりだ。いちおう男の端くれである龍星としては前者の姿勢をつらぬいてもらいたいところだが、それは希望的観測というものだ。恋人と別れるのとはわけがちがう。二度と逢えなくなるのだから、ほんのわずかでもふれあっていたいと思うのが自然であるはずだった。
「ときに、天ノ川くん」
急に空気が変わった。少し肌寒くなったような気がした。
「何でしょう」
「天ノ川くんは、煌良のことをどう思っている」
「…………え?」
ここまで話を聞いておいて、反応のしかたがとたんに初心な少年のものに戻るのか。どこまでもおもしろい若者だ。こういう
漢についていったほうが、煌良にとってはよかろう。少年と青年の
精神を行き来するような人のほうが、全体的なバランスがとれていて、窮地に立ちどまった際に意外と対処できるものだ。
「いや、だから、きみは煌良のことが好きなのかと
尋いているんだ」
「そ、それは、その…………!!」
「ん? 何かな?」
「……………………!!」
そろそろキッサキシティが近いのか、粉雪っぽい白いものがちらほら降りはじめていた。海の色も何故かクリアに見えるところもある。
雪だるまのように固まってしまった龍星を呆れたように秘輝が見、ため息をついた。吐き出された二酸化炭素が白く見えた。
「肝腎なときに身動きがとれなくなるところも似ているのか」
長所が似ているとうれしくなり、短所が似ていると不機嫌になる。意識して探していたつもりはないのだが、秘輝は龍星との類似点が悪性のものばかりで心底がっかりしていた。
「じゃあ、きみがどう思っているのか、いまはおいておこう」
「…………」
「煌良は、天ノ川くんのことを…………!」
と言おうとしたとき、桜色の髪の若者は声を大にして、「わーわー!!」と叫び出した。どうやら言うのも言われるのも恥ずかしくてだめらしい。
「ここだけはゆいいつちがうな」
ぼそりと相違点があった喜びをつぶやいてみせる。自分の気持ちが言えないなんて、いまどきの若い男は…………!
と、年寄りじみた言いかたをしかけたが、孫はおろか彼氏すらいない愛娘のことを想うと、その悪口は妥当ではない気がして言うのをやめた。
そうなると困った。かたちだけで託すのは相互利益につながらない。何度も夢の中で託す≠ニいう言葉をもちいてきたが、現実の世界で、この若造に、「
愛娘のことを頼む」と伝えるのが困窮をきわめることになるとは。こちらは一片の恥ずかしさもないというのに。
「…………煌良さんは」
「お?」
「……煌良さんは、私の何が気にいったのか。私には、それがわからないのです…………!」
そうか。自分のことを好きになってくれるのはいいとして、いったい何が
煌良の琴線にふれたのかが知れない。
彼はわからないから知りたい。でも煌良はそれを教えようとはしない。男心と女心がふれあおうとすると磁石のように反発作用が起きる。わかりあいたくともわかりあえない。このもどかしさを体感するのが恋なのだとしたら、
龍星はこれから識らなくてはならない。そうすることが、
煌良との
愛を育んでいくうえで大事な基礎となりえるのだから。
「煌良がきみの何を気にいったか。それは煌良にしかわからないだろう」
「…………では」
「だが、これは私の推測だがね、煌良はきっと…………」
「…………きっと?」
秘輝とふたたび目が合った。龍星みずから尋ねたことである。逃げることは赦されなかった。
「煌良はね、きみのすべてを気にいったのだと思うよ」
「!!」
ゴン、と舳先のほうで硬いものがぶつかる音が聞こえた。龍星はすぐさま音のしたほうへと向かう。下方をのぞき込む。分厚い氷の塊が二俣に分かれ、左右にたゆたっていた。
「いまのは?」
「流氷だよ。キッサキシティが近い証拠さ」
うまく回避できた。とでも思っているのだろうか。初恋で揺れる乙女心じゃあるまいし、
龍星はどれだけ初心者の域に留まっていたのか。恋に恋する少女には効果覿面であろう。だが、成熟した
親である秘輝には半ばうんざりする状況であった。
だから強引に話を進めてやった。
「おそらく、煌良は天ノ川くんとテレビ電話でつながったあのときから、何かを察知したのではないかな」
「え、あの
醜態を見て…………!?」
「?」
「そんな……ばかな……!?」
秘輝は煌良の話を聞いて知ったことであったから、龍星がどのようなコミュニケーションをとって交信をはかったのかまでは知らなかった。ただ、いまの龍星が無様なことをやらかしたということだけは理解できた。
「あんなんで惹かれるものなんですか?」
「いや、それはわからないよ。私は煌良ではないのだから。だが煌良の感性が天ノ川くんの予想をはるかに凌駕していたことだけははっきりしているね」
「……………………」
相当にショックを受けているようだ。魂が抜け落ちたというか、別の何かが憑依したというか。顔面を蒼白させたオクタンのような表情をしている。
しかし、女の子のほうから好意を寄せてくれているのだから、高確率でハッピーな気持ちに満たされるものかと思っていたのだが、どうも
龍星の場合は異なるみたいだった。
「よかったじゃないか。私の娘はとびきりの美人だ。しかも
愛娘のお墨つきだ。これだけの
幸福をいっぺんに手にできる男はなかなかいるものでは…………!」
「ふざけるな!!」
秘輝が龍星の右肩をぽんとたたこうとしたとき、その彼が激昂の声をあげた。流氷がごろごろと出現するようになった海上を突き進むクルーザーの甲板で、はあはあと白い吐息を吐きちらす若者が、船の持ち主をぎろりとにらみつける。
「あなたはそれでいいのかもしれない。何せ回避不能な死の宣告を受けて、私のようなヘタレに引き継ぎをすませられて、あなたはさぞ満足なことでしょう」
「…………」
秘輝はただ黙って若き継承者の本音を受けとめようとしている。その余裕さが、ますます龍星の神経を逆なでした。
「しかし、ついこの間まで、私たちは他人同士だった。下手をすればいちども顔を合わすことのない人間同士だったんだ。
それが唐突に頼られて、すべてを託されて、あげくに私は
煌良まで託されようとしている! 何のまえぶれもなく、だ!!
このはかり知れない責任とプレッシャーを背負って、オレは生きていかなければならないんだぞ!! あんたは、自分で何を言っていて、何をしでかしているのかわかっているのか!!」
「…………言いたいことはそれだけかい?」
「……いや」
「では
拝聴しよう」
どこまでもゆとりを保とうとする姿もまた超然としていて、龍星はだんだん相手をするのがばかばかしくなってきたが、この世界で意識をもたせられるのは
幾何もないときてはこの機を逃すわけにはいくまい!
思い切り息を吸い込み、龍星は
咆哮するように本心を語った。
「あんたは託す≠ニいう言いかたをしたが、それはちがうだろう。自分たちの力だけで煌良を護ることを放棄したんだ。愛娘も護れないという不名誉から、あんたが逃れるために!!」
……予想どおり言及されてしまったか。一言一句すべて合っているわけではなかったが、己の無能さを別の言いまわしで突かれるというのは精神衛生的によくない。ちょうど彼ぐらいの年代の子たちが神経過敏になっていう、「傷ついた」とはまさにこのことなのだろう。だが、それにしても…………
「……まったく、きみは、痛いところを容赦なくえぐってくれるじゃないか」
「では情けをかけてもらいたかったんですか」
「ふ、本当にどこまでも、か…………」
彼は自分で何と言ったのか、気づいているのだろうか。
否、いまは気づかないだろう。感情的に出した言葉は人々の心からなかなか抜け出さないものだし、ひとつひとつの言葉の威力も高い。いつか自分で気づいたとき、彼はきっと恥じるはずだ。娘のいる父親の前で、あのような…………!
「きみがなんと言おうと、私たちは託したと言い張るつもりだ。これは死にぞこないの意地だ」
「…………!!」
龍星は絶句した。死を覚悟した両親の、最後の悪あがきといえよう。意見を封じるには最適の手段であった。
「さあ、キッサキシティの碇泊所に着いたぞ」
いつのまに岸の近くに来ていたのだろう。感情的になったのがまずかったか。周囲の物事が何も見えなくなるくらい怒鳴り散らすと、たしかにあったはずの過程がすっとんでしまう。
大きくて重たい雪がきらきらと舞いながら、音もなく降っている。風は吹いていなかった。だが視界に映るもののほとんどが白、白、白であり、これまたうわさに聞いたホワイト・アウト≠フ状態なのだろう。何を目印にしていいのかがわからないぐらい、何も見えなかった。
キッサキシティ。シンオウ地方の最北端にある村。このはずれにある神殿が、ポケモンレンジャーとしての龍星の仕事現場なのであった。
「天ノ川くん、……いや、龍星くん」
碇をおろしながら、煌良の父親が自分の名前を呼んだ。本当に時間が惜しいようだ。そして、ひたむきに信じつづける覚悟のあらわれでもあるようであった。
「はい」
「いちどだけしか言わないから、よく聞いてほしい」
「奴≠フ正体のことですか」
「そうだ。奴≠フ名は…………」
…………ダークライ。
「ぐふっ!!」
言い終えたと同時に、秘輝の口から
鮮血がほとばしった。甲板の床に血だまりができる。
「秘輝さん!?」
「私にかまうな!!」
吐血した人間の声とは思えぬするどい制止の声が、心配して近寄ろうとした龍星の足を停止させた。両の
口端が赤黒く染まる秘輝は、サーカス団の
道化師に恥じぬ
笑顔をかけた。
「武運を祈る」
「秘輝さん……」
「行け。私にかまうことなく、後ろを振り返らずに、行け」
「……いままで本当にありがとうございました」
龍星は10秒未満の最敬礼をしてから、村の中にあるはずのポケモンセンターへと急行した。
「……ごめんなさい」
秘輝にはもう届かない謝罪の言葉を雪原に残して、バシャーモの足を模したブーツでざくざくと音をたてながら駆け抜けていく。とにかくまずはオダマキ博士に依頼されたことを完遂させよう。あとのことはそれからだ。
バシャーモの頭部を模した帽子にはマフラーのようなファーがくっついていた。村全体に降りしきる雪と見分けがつかなくなるほどの駆け足で、それを風のようにたなびかせていった。