月城家の追憶(前編)
「……さて、つづきを話そうか」
月城秘輝の所有する自家用クルーザーに乗って20分後、龍星は船の所有者から重々しく話を切り出された。もちろん驚愕の表情をわざと作るような真似はしなかった。
「秘輝さんだったんですね。夢の中で聴いた声は」
龍星はねんのために確認しておいた。
相手が無言で頷く。
「奴≠フ目を盗むにはああするしかなかった。赦してほしい」
「いえ、事が事です。どうかお気になさらず」
「本当に助かる」
お互いに短い、だが深い謝礼を述べ合ったのちに、秘輝の口から長大な夢の話のつづきが綴られた。
……7年前のはじめの月、ミオシティのはずれの民家で衰弱死した老女が発見された。新年早々の大事件として取り上げられ、街中は大混乱となった。警察とマスコミの区別がぎりぎりつかなくなるほどの人間とポケモンがひしめき合い、その中に
秘輝と妻・
螢もいた。何故なら、けっして他人事ではいられないことであったから。
その日の朝、螢はおそろしい夢を見たことを秘輝に知らせたばかりであった。その内容は、全体の約7割が漆黒の闇そのもののようなポケモンが予言めいた脅迫をした、というものだった。台詞で表すのなら、
「我は新月を司る者なり。我はいまより、貴様ら月の民の力を奪うことにした。無駄な抵抗はせぬほうが身のため。だが、そうしたくばそうするがいい。容赦なく
生命ごと奪ってやろう……」
奴≠フ目的がどのようなものなのか、そのときはまったくわからなかった。というよりは、本当にそのようなことをしでかすのかも疑問であった。何事もなく終わってくれたらいい。しょせんは夢物語なのだから。
しかし、自分たちが期待していたことは、現実の世界で見事に裏切られた。第一の犠牲者が出てしまったのだ。自分は螢にひしと抱きつかれた。この状況でこうならないほうが不自然である。場合によっては生命を奪われる――つまり、殺されるかもしれないのだ。何が原因で、いや、何の目的があって、このような事態を引き起こすのか。その後、奴≠ェ夢の中に現れることはなくなったが、姿を現さないからこそよけいに恐怖感が強まり、みるみるうちに螢は身も心もやつれていった。
7年前といえば、娘の煌良は15才の少女であった。幼少時に海魔家のひとり息子と出会ったせいか、気丈でとても落ちついた子に成長した。年頃の女の子にしては控えめすぎると同郷の人々に心配され、自分も、もう少し活発であってもいいだろうに、とは思っていた。が、ホウエン地方とシンオウ地方というあまりにも遠すぎる距離間においても、ひとり娘の想いが途切れることがなかったため、自分の娘も明朗快活な女の子になるよう仕立てる必要はないと結論づけたのであった。
それから、螢は、原因不明の精神的な病魔に侵された。自分と、ちょうど恋多き頃であったろう煌良は、螢の看病につきっきりになった。だが、自分はともかく、せっかくの青春期を看病などで費やして終わらせてしまうのはまずい。あの子はあの子で、自由に生きてほしい。
煌良はやさしい女の子だ。だが、やさしい性格を有しているからこそ、いざというときの決断がしにくくなるのかもしれない。
煌良には、旧友・海魔鮫蔵の息子のほかにもうひとり幼なじみの男の子がいる。クロガネシティでポケモンジムのジムリーダーを任されている、岩村枹大だ。ちなみに、父親は同郷のポケモンジムのジムリーダー・岩村冬瓜。親子そろってジムリーダーなのである。
煌良はなかなかの美人である。年頃の女子を花に例えていうのなら
向日葵であろうが、例外的な美人である愛娘は
菫だ。広大な花畑でいっせいに咲き誇るタイプではなく、野原の隅で小さく可憐に咲くような、ひそやかに美しさを魅せるタイプだ。
さて、煌良はその枹大に好かれている。女の側からすればイケメンのたぐいだというのだが、何故か煌良だけはなびかなかった。それほど旧友の息子にたいする愛情の度合が強かった証拠であろう。もしくは、枹大の魅力のほうが足りていなかったのかもしれない。真実は闇の中である。
それはともかく、いわゆる遠距離恋愛――たとえ一方的な片思いだったとしても――に陥っていた煌良は、普通の女の子と称するにはやや不健全な感じもして、自分も螢も心配だった。
鮫吉に会いに行きたくても、弱っている
螢を置き去りにするなんてできるわけがない。かといって、やさしいだけの残念なイケメンの
枹大で我慢するわけにもいかない。
おそらく、煌良の中ではそういった
葛藤が渦巻いていたことだろう。自分のしたいことが肝腎なときにできない。でも、それを母親のせいにすることもできない。
煌良の優柔不断さが事態を複雑にしているのだ、と思い込んでいたにちがいない。そして、無情にも、螢の意識は半年後に途絶えた。煌良が16才の誕生日を迎える前に息をひきとってしまい、彼女は大いに悲しんだ。自分も涙にくれる毎日を過ごした。
「……少し休憩してもいいかい?」
「ええ。私ものどがかわいてしまって、ソフトドリンクが飲みたかったところでした」
「ここまで聞いてくれてありがとう」
いったん秘輝の追憶編は中断された。クルーザーは
自動操縦のため、秘輝みずからの手で舵を切る必要はなく、座標だけを設定すれば、あと数時間の航行でキッサキシティに到着するという。運転しながらの会話は海上での事故を招きやすい。余裕をもって濃厚な過去の話を聞かせられるというわけである。
龍星は例の手帳を取り出した。7つのキーワードを見つめる。
・殺す
・生命は尊いもの
・何が起こるかを予測できるなんて本来なら不可能
・行動があからさまに不自然
・確乎たる信念
・挫折
・とかくこの世はままならぬ
龍星の悪友・五十嵐雷次の実兄――風太は警察の一員であって、先のことが視える予言者ではない。頭ではわかっているつもりなのだが、あまりにもできすぎており、弟の雷次が気になるほどの予測のつかない行動や、船上での
長広舌などを踏まえると、すでに彼はあるていどの推理を組み立てていたのではないか。まじめな人ではある。だが、きまじめというわけではないし、行動の迅速さにおいては弟とほとんど変わらない。7年前の大事件に関わっていた可能性も高い。非番なのかと問われて、「似たようなものだ」と彼は答えた。捜査の協力要請が届いたわけではなさそうだったし、そのときは深く考えずにいた龍星だった。
「ミオシティに着いたとき、あの人の姿はどこにもなかったんだよな」
単に見過ごしただけなのかもしれないのだが、180センチ超の長身で、弟とそっくりな美形で、金髪となれば、乗船客や船着場にいた人々のほとんどが彼の外見に惹かれていたはずなのだ。それが何事もなく終わったのだから、話に付き合っていた龍星としては気にならないわけがなかった。
「兄弟ともに飄々としているんだもんなあ」
そういう性質が女子の心をわしづかみにするのだろうか。博愛主義の何たるかを夜毎に語る弟のほうは、「下心まるだしの野郎がうまくいった
前例はないんだぜ」と、えらそうに言っていたかしら。一人の女の子に固定することはないが、彼のいううまい立ちまわり≠フ効果はいまのところは抜群にいいようではあった。
「……たぶん、
煌良は
雷次にもなびかないんだろうな」
懐が深くて誠実で
漢らしい。龍星がまっさきに思いついたのは鮫吉だった。やはり、そのあたりは恨めしくもあり、あこがれでもある象徴だという証になりえた。
「この7つのキーワードの前は…………」
いま開いているページの前に記述したメモを見てみる。
・希望
・願いの意味
・真実
・奴
・夢と現実をつなぐ架け橋
・あの子
さらに前のページには、
・知らない男の人の消えいりそうな声
・回避不能な死の宣告
・あの子
・奴
これら2つは、龍星が夢の中で聴いた、秘輝の声を記したものだ。これまでの情報をひとまとめにしても、奴≠フ正体は不明なままだった。
否、不明なのではない。その正体を知っているはずの秘輝が明かそうとしないのだ。もしかしたら、ばらすことで不都合があるのかもしれない。強く抗議することもできないので、龍星はなりゆきを待つしかなかった。
あの子≠ヘ、
煌良以外にありえない。夢の中であろうと現実世界であろうと、秘輝はただ
愛娘の
無事を願いつづけていた。母親である螢もどこかの空で願っているのだろう。
何よりもまずは子どもの未来を案じて、子どもの自主性をみがく。親としての責務を親がはたせなくなった現代を思うと、異例のできごとに映るかもしれない。叱るのはもちろん厳禁だが、褒めることもせず、ただただ子どもの力を信じて待つ。あちらが助けを求めてきたときのみ協力して、それ以外で口出しをしてはならない。子どもが部屋全体を掃除したり買い物をしたりしたときは、「よくできたね」ではなく、「ありがとう」と声をかける。それだけで子どもは救われる。
ひとつひとつの仕事に大小、優劣、善悪、美醜はない。子どもが「〜した」ことを評価するのではなく、何かをした「子ども」に感謝する。ただそれだけでいいのだ。現代人はそれすらもできず、親の目的のために子どもから自由を奪う。まるで放し飼いにされた犬のようなあつかいかたをしており、地団駄を踏む子どもの主張よりも、それを制止しようとして怒鳴り声をあげる親のほうがおとなげなく映るのは、きっと気のせいではない。屈服させたところで子どもが利口になるかというと、よりいっそう悪化するだけだ。
子どもの犯罪が以前よりも増えたのは、
親の躾のしかたが悪いのではない。存在≠許容しようとしない
親たちへの逆襲。それが子どもの目的なのであって、子どものおこない≠止められなかった親の責任でなければ、不始末でもないのである。注目の的はあくまで子どもだ。
親ではない。
煌良の両親は、煌良の人格を受けいれた。世間的には少数の部類にはいる女の子なのであろう。だが、そんなことよりも、まずは煌良の存在を受容した。でなくては、ある日とつぜん、何の理由もなく生まれた意味を熟慮してしまうような子どもがはびこってしまうにちがいない。そういう世俗の流れに乗っかる必要はないし、合わせなくてもいい。月城煌良という名の、ただひとりの女の子。
愛娘が
在る理由は、ただそれだけでいい。あれこれと理由を繕うとすると、本当に
煌良のことをたいせつに想っているのかどうかが知れなくなる。むしろ嘘っぽく感じられるかもしれない。
このように
両親は考えたのだろうか。だとしたら、なんて完璧に等しい
親なのだろう!
両親を早いうちに亡くしてしまった龍星にとって、親とはいかなる存在であるのか、哲学を理解することより難しい課題であるのは間違いなかった。
「真実≠ヘ後半を聴けばわかるかもしれないからおいておくとして…………」
夢と現実をつなぐ架け橋=Bこれも秘輝のことを指しているにちがいないのだが、具体的な方法があって、わざと暗喩をもちいたのだろうか。それとも、奴≠ノ知られないための防衛手段としてもちいた
表現だったのか。まあ、これも聴けばわかることである。
龍星は、C2と名づけたケースボールから、ミネラルウォーターいりのペットボトルを出した。そのうちの5分の2を口中、そして胃袋に収める。
「海は、広くていいね」
龍星に話しかけたのだろうか、独り言にしては
音量が大きかった。
「シンオウ地方は一年をとおしても最高気温が20℃を上回らないところなんだ。真冬なんかはとくに厳しくてね、毎日スコップを持って屋根に積もった雪を下ろさなきゃならないんだからね」
どうやら独り言ではないようだ。常用されすぎてむなしさしかこみあげないオヤジギャグのようにはさせまいと、龍星が合の手をとった。
「うわさに聞く雪かきですか」
「……わっはっはっは! そうかそうか、うわさに聞く≠ゥ!」
自分の感想がそんなにばかばかしく思えたのか、手をたたいて、しかも大口を開けて笑う秘輝にたいして、龍星はややむきになって反論した。
「そ、そんなにおかしいですか」
「いやいや、べつに変だという意味で笑ったわけではないよ。天ノ川くんと私たちの生活環境がまるでちがうという事実があらためてわかったから、おもしろくて笑ったのだよ」
なるほど、言われてみればそうだ。自分がはじめてシンオウ地方の大地を踏みしめたとき、
偏見のコレクションである己の常識が通じると思い込んだまま、
半袖・ハーフパンツの恰好で船着場の外へと出ようとしたところで、迎えにきてくれた煌良に遠慮がちに止められたことを龍星は思い出した。ホウエン地方ではそれでいたのがあたりまえであったから、シンオウ地方でも同様の生活習慣がまかりとおると信じていたのだ。あのときは煌良へのつかみを成功させたかったのだが、やせ我慢作戦≠ェ不発に終わったので、男の
勲章になるはずだったものは黒歴史と化してしまった。
ひとしきり豪快な笑い声がクルーザー全体に響き渡ると、彼らの頭上を、キャモメ、ペリッパー、チルット、チルタリス、スバメ、オオスバメが群れをなして向こうの空へと翔けていく。すべてホウエン地方に生息するポケモンであった。
シンオウ地方のポケモンを生で確認したことが、龍星はない。東西南北をまたにかけてポケモンの進化について研究しているナナカマド博士の編纂による図鑑でのみ、シンオウ地方のポケモンの詳細な情報をえていた。
カントー地方やジョウト地方、そしてホウエン地方に棲むポケモンのいくつかが実験用として捕獲され、檻の中での生活を余儀なくされるのだが、その過程において、そのポケモンの新たな可能性が人間の手によって発見されるのである。ナナカマド博士は、先にも記したとおり、進化について学究しつづけている。ちなみに、ジョウト地方のワカバタウンに研究所を構えるウツギ博士は彼の弟子である。
龍星はナナカマド博士のことを、恩師であるオダマキ博士の話でしか知りえていなかった。なんでも厳めしい面構えをしていて、あのオーキド博士の大学時代の先輩であるという。
強面という点においては、兄貴肌が特徴の海魔鮫吉もそうである。彼とどちらが他者の度肝を抜かせられるのか、若干興味があったが、そのようなことを試そうとしたところで雷を落とされるにちがいなかった。
それはさておき、龍星はもういちど透明なペットボトルをかたむけた。半分よりわずかに減っただろうか。
「お、あれはホエルオーじゃないか!」
ホエルオー。それもホウエン地方に棲息するポケモンで、現時点では体長がもっとも大きいポケモンでもあった。その大きさはなんと10.5メートル。龍星の身長の約6倍だ。
そんな巨躯の持ち主がクルーザーの進行方向の左手にいた。といっても、そこから数百メートルも離れた海面に頭だけ突き出していたのだが。大きいのに小さく開ける口で呼吸をし、後頭部あたり――そこにある鼻孔からいきおいよく柱状の、呼気中に水滴と化した湿気を立ちあげる。いわゆる潮吹き≠ナある。
可愛らしいホエルコのイラストにありがちな、潮吹きの図がいま目の前でおこなわれているのを見て、2人の男がそろって「おおーっ!」と感動の声をあげた。このシチュエーションでラブラブカップルがいたら、さぞロマンチックなムードになっていたであろう。だが現実では、40代後半の男が亡き妻や愛する娘を護るために亜空間へとダイブしようとしている。その前に、20代の前半に突入したばかりの青年に、己が意志を受け継がさんと、真剣そのものの
表情で重要な
追憶編を聴かせていた。そして、いまは小休憩の最中であった。
「……おっとっと、クルーザーが揺れたな」
「ホエルオーが啼いたのだと思いますよ。彼らの啼き声が超音波となってあたりを振動させたのでしょう」
「さすが、ポケモンレンジャーさんは野生ポケモンに関する知識を常備されているようだね」
「人によってはつまらない
知識ですがね」
「そんなことはないさ。われわれの生きるこの世界にポケットモンスターが存在する以上、天ノ川くんが何年もかけて蓄積してきた膨大な量の知識はどんどん活かしていくべきだし、だいいち死蔵してしまったら宝の持ち腐れじゃないか。そう思わないか?」
「ええ、おっしゃるとおりです。ですが、残念なことに、この世界に生きる人々の一部はそう思わないのもいます。「そんなものが自分たちの何に役立つというのだ」と、
知識の価値を理解しようとせずに、平然と己の
興味だけでその存在の価値を判断しようとする輩がいるのです」
ですぎた真似をしているのは重々わかっていた。龍星は、過去にポケモンの知識を誰よりも多くもっていることを馬鹿にされた経験がある。むろん鮫吉や雷次などの仲間ではない、赤の他人に、である。
「そんなことを多く知っていれば可愛い子を口説き落とせるとでも思ってんのか? そいつはお笑い種だ。無理に決まってんじゃん。だいたいヲタクが公の場に来るんじゃねえよ。おとなしく部屋にこもって
疑似女性とイチャついていろよ。社会のクズが」
このように悪しざまに言われたわけなのだが、龍星はその者の言っていることの半分近くは理解できていなかった。
可愛い子? ヲタク?
疑似女性? イチャつく?
そのていどの理解力でよかった、と、姉の明美が龍星を思い切り抱きしめ、鮫吉は弟のような
存在に罵声と唾を吐きかけた奴の鼻っ柱を殴りつけてやった。顔面の中心から円状に赤くしていった残念な男は、その上あたりから2本の塩辛い滝を作って、
「お前らはそいつの味方なのか! ならお前らも同類だ! ポケモンのことばかり知りつくしているくせにそれ以外のことはてんで無関心な奴なんだぜ! 頭がおかしいって思うのが普通だろう! それがどうしてお前らにはわからない! お前らはそいつのことが気持ち悪くねえのかよ! お前ら人間じゃねえ!!」
その罵倒を最後に、残念すぎる男は高く宙を舞い、全身をコンクリートの地面にたたきつけた。
口沫をクラブのように吐き、ついでに失禁までした憐れな男のありさまを一瞥して、龍星たちはその場をあとにした。べつに身体の原型がなくなるまで殴り飛ばしてもよかった、と、のちに鮫吉が放言したのだが、殴りすぎてもよくないと思ったのは、あの男に情けをかけたからではなく、自分の手が痛くなるのがいやだからだと言いのけたのだった。
自分とちがうことの何がおかしいのだろう。何が変なのだろう。何が怖いのだろう。
龍星にとっては取るに足らぬ問題であった。何故なら、ポケモンと人は別個の存在であるから。ちがいがあるからこそ、己の正体がわかって安心するのだし、ちがいがあったからこそ、自分以外の存在を認識することだってできたのだ。明美や鮫吉はあの男を敵とさだめたにちがいないが、龍星はただひとりちがった見方をしていた。
彼は、仲間だ。いや、彼も仲間だ。ちがいはたくさんあるが、この世界に生きる同胞の一人だ。彼はまだ自分のことを知らないだけだ。知らない自分に怯え、さらに他者も怖れているだけなのだ。怖がるのは悪ではない。怖がることをやめないのが悪なのだ。和らげるのであれば識るしか途はない。識ることで己の見聞をひろげていくしかない。
こうして龍星は、さらにポケモンへの
興味を高めていったのである。ちがいのない世界なんてありえないし、同じであることや似ているものを否定するわけでもない。できるかぎりすべての事物を受けとめてやる。それが龍星の哲学であった。
ちなみに、龍星のことをさんざん
貶した男は周囲の熱い白眼視を受け、「……おれが間違っていたのかな」と、先の過剰なまでの自信をどこかに置いてきてしまったかのように沈思し、上から下まで汚れた全身を引きずりながら立ち去ったという。
龍星は当時のできごとを深く思い出したあと、ふたたび現実の世界に意識を戻した。
「そう、奴≠焉A心の奥底では己の存在意義がわからずにいて混乱しているだけなのかもしれないんだよな」
追憶編の後半の幕が開演しようとしていた。
傍らに500ミリリットルの水いりのペットボトルを置く。その場で龍星は腰をおろした。楽な姿勢になりながら上体を前にする。
「存在意義ですか」
「うん。奴≠ヘ生きていることに意味がないと、不安でしかたがないのではないかと私は思っているんだ」
「自分たちが死にそうだというのに、よく落ちついてそんなことを考えられますね」
さすがに自分の死が近づいてきたら平静ではいられないであろう。龍星は超然としきっている彼のありように
寒気を覚えた。
「……たしかに、私は半分ゾンビのようなものだな。生きていながら死んでいる。いや、死んでいながら生き永らえているのかな。どっちだろう」
「どっちでもいいですよ。私は、どちらかというと、
幽霊とかのたぐいは信じていないのですが、秘輝さんの態度を見ていると信じる気が芽生えてきそうで怖いです」
「ゴーストは信じているのに、かい?」
「ゴーストは現に
存在るじゃないですか。ホウエン地方にあるおくりびやまにはゴーストタイプのポケモンがうようよいますからね」
「はっはっはっは! そうかそうか、では私もそのうちに仲間いりしようかな」
「……本当に度胸がありますよね、秘輝さんは」
「……そんなに恨めしい
視線を向けないでくれ。これでも煌良のことはたいせつに想ってきたんだ。本当だよ?」
「それは存じていますよ。嘘をついていると思ったのですか」
そう言い返すと、ふと秘輝の表情が
翳った。そろそろ本当に開幕するようであった。
「そんなはずがなかろうよ。私はずっときみの
義侠心を心待ちにしていたし、いまでもその気持ちは変わっていない。何よりきみの
瞳の奥をのぞけばわかることだ」
そこには情熱的な炎の意志と
煌々とかがやく波導がうねりを利かせていた。
「あと1時間以上はある。つづきを話そう」
「お願いします」
猛烈なエンジン音と超速の
馬力で大海原を渡る1隻の自家用クルーザーが、ミオシティの碇泊所から北上して1時間20分。空気が急激に冷え、遠くのほうの海上に流氷が現れたのを龍星が知るのはあと30分ほどであった。