第三章
3人め
 あと1時間したら目覚ましアラームが鳴るはずであった午前6時頃、龍星は自動的に上体を起こした。キャプチャ・スタイラーの電源を入れてアラーム機能を無効にし、蒲団(ふとん)類をたたんで隅に置いてから南側の窓を開けた。
 「さ、寒っ!」
 そうか。自分はいま、シンオウ地方にいるのか!
 朝でも長袖(ながそで)いらずのホウエン地方と同じ要領で身じたくをしてはいけなかった。調査に向かう前に体調を崩してしまっては本末転倒というものだ。龍星はあわてて窓を閉めた。すると窓ガラスがくもって結露(けつろ)ができあがった。それぐらい、室内と屋外との温度差が激しいのである。
 まずは顔を洗おう。部屋を出て洗面室に行くと、すでに先客が歯みがきをしていた。家主(やぬし)の月城秘輝である。
 「おはよう、天ノ川くん。ちょっと待っていてほしい」
 「いえ、ごゆっくりどうぞ」
 秘輝が髪型をととのえている間、龍星は大きなあくびを2回した。肉体はまだ睡眠を欲しているようだった。
 昨夜はその睡魔との戦いに負けずにシャワーを浴びることができた。頭上から降りそそぐ湯水(ゆみず)が船旅での疲労を癒してくれ、チルタリスの羽毛を使用した枕と掛け布団のおかげでその日の緊張をもほぐしてくれ。二重の心地よさを堪能した翌朝、ふたたび夢の中で、例の男の声に話しかけられたのであった。少しくぐもった感じの声であったのは、奴≠フ妨害工作によるものではないか。夢の中でなら思いどおりに操ることができるというわけだ。
 龍星は、奴≠ノたいするイメージが司令塔ではなく、小悪党(こあくとう)のほうがぴったりだという気になっていた。仮に手の内のカードをわざと見せているのだとしても、こちらの実力を(あなど)りすぎていやしないか。龍星は過去の実績や努力をことさらひけらかすほうではないが、ポケモントレーナーだった頃の経験値もふくめると相当の修羅場をくぐりぬけており、いまの自分につながっているのだと思えば自信がないわけがなかった。
 「待たせて悪かったね、天ノ川くん」
 「とんでもないです。私は居候(いそうろう)の身ですからなんでも甘えるわけにはいきません」
 「……そうだな」
 口ではそういったが、もう少しくらい融通をきかせてもよかろうに、という苦笑交じりの声が聞こえてきそうな表情で応えながら、秘輝はダイニングルームのほうへと退散していった。
 代わって龍星が洗面室にはいる。剃毛(ていもう)、洗顔、寝癖なおし、ヘアースタイルのセッティング。このなかでとくに時間がかかったのは、やはり最後のセッティングであった。天然パーマではないのに髪がうまくまとまらないのは何故か。やりかたに問題があるのかもしれないが、それにしてはうまくいかなすぎていやになる。髪1本の長さじたいは短い。でも毛先がからまりやすいらしい。
 なんとかワックスで形をととのえ、首から上がそれなりにきまった状態で部屋に戻ると寝間着(ねまぎ)から制服に着かえた。ただし、昨日と同じく、薄黄色のワイシャツの上に鴇色(ときいろ)のアウターウェアを着、下半身は上半身とそろいのロングパンツをはいておいた。なかなか着慣れない長袖に身をつつんだ龍星は、さらに両方の手首あたりにリストバンドをはめた。上下のジャージにくっついていた付属品である。
 「これでますますバシャーモに近づいたな」
 そのリストバンドは、ポケモン図鑑でのバシャーモの説明を手がかりにして作られたもので、外の気温が低ければ低いほど発熱反応を起こす。はじめはそれだけで充分だと思っていた。が、昨日と同じ(てつ)を踏んで、煌良(かのじょ)の笑顔を引きつらせる勇気は、さすがになかった。
 ノートパソコン等をケースボールにしまい、龍星はダイニングルームへと向かった。そこには、可愛らしいヒコザルのイラストが描かれたエプロンを着用している煌良が、これまた可愛らしい笑顔で迎えてくれた。エプロンはいろいろなデザインのものがあるようだ。
 「おはようございます、天ノ川さん」
 「おはようございます、月城さん」
 「……ふふふっ!」
 普通に挨拶しただけなのに笑われた。どういうことなんだろう。よく見ると父親の秘輝も、目を細めて微笑んでいた。やはりどういうことなんだろう。
 「あの、どうかしましたか?」
 「天ノ川さん、父にはどのようにお呼びしていますか」
 質問を質問で返された。が、そんなことで機嫌を損ねる龍星でもなかった。
 「え、それは月城秘輝さん、ですよ」
 「わたしにはどうでしょう」
 「月城さんですが、それがなに……か……」
 龍星は月城父娘(おやこ)がおかしそうにしていた理由が、いまになってわかった。
 「大船(おおぶね)に乗った気でいてくれていいと言われて、きみは、より行儀よくしていないと、と身構えたのかもしれない。でも、それも私たちにとっては不要なんだ」
 「…………」
 「一時的とはいえ、私たちは仲間なんだ。逆に気を張られるとこちらもやりにくくなるし、好きなようにふるまうこともかなわなくなる。かといって、では傍若無人(ぼうじゃくぶじん)になればいいのかというと、そういうわけでもない」
 「…………」
 「つまり、その……、何といえばいいのかな、最低限の礼儀は必要でも、あとは各人の自由を尊重する≠ニいうと理解してもらえるだろうか」
 最低限の礼儀は必要でも、あとは各人の自由を尊重する。表現(いいかた)がやや堅く感じられたが、言葉の裏側に隠された意味はよくわかった。それは、ホウエン地方にいる自分の仲間と同じ付き合いかたを表していたのである。
 「……ええ、わかります」
 「そうか、それは助かるよ」
 「では、おふたりにはどうお呼びすればよろしいのでしょう。まさか下の名前で呼ぶわけには…………」
 「そうしてください」
 今度は煌良が明るい声で答えた。
 「よ、よろしいのですか?」
 「そちらのほうが応対(おうたい)しやすいですし、それに…………」
 例によって煌良の頬が赤く染まる。またか、と、いちいち気にする必要はなくなったが、「それに」のそ≠言いかけたところで、2つの物音が躍り出た。ルナの一声と秘輝の咳払いである。
 「と、とにかく、父のことは秘輝と、わたしのことは煌良とお呼びください!」
 真っ赤な顔で吐き出すように頼まれれば、龍星としてはぎこちなく了承するしかなかった。ただ、半ば本気で「それに」のつづきが気になっていただけあって、煌良(かのじょ)以外の家族のかばいだてするような動きに思わず驚いてしまった。
 「……そうさせてもらいます、秘輝さん、それと煌良さん」
 ていねいな口調は変えずに、彼女の言うとおりにすると、父親の秘輝は満足そうに頷き、娘の煌良はちょっぴり残念そうな笑みを浮かべながら礼を言ってきた。
 「それじゃ、みんなで朝ご飯をごちそうになろうじゃないか」
 一段落ついたということで、秘輝が龍星をとなりの席に座らせた。今朝の献立は、フレンチトースト、ウィンナーいりオムレツ、ほうれんそうのソテー、コーンポタージュ、りんごのヨーグルトの5点。いただきます、といってからものの15分で完食し、龍星は、好物を食べて喜んだ子どものような笑みを作りながらふくらんだ腹をさすった。
 「満足していただけましたか、天ノ川さん?」
 「ええ、とてもおいしかったです!」
 いきおいに任せて正直な感想(こたえ)を述べた龍星は、直後に恥ずかしい思いをした。
 が、その食事の作り手であった煌良は、正直な感想(きもち)で返してくれた龍星のことをうれしく思い、できたらこの場で小躍りしてみせたかった。気づいてもらいたいけど悟られたくない。この複雑な乙女心に気づく男はごく少数で、やはり龍星(かれ)が知るのはまだまだ先になりそうだ。
 少なくとも、仕事が終わらぬかぎり、彼は自分の家に居候するのであろうから、いつもいつでもいくらでも積極的なアピールを仕掛けることはできる。焦りは禁物。油断は大敵。大魚(たいぎょ)をえるにはすぐに竿を釣り上げてはならない。しばらくようすを見て、あちらから行動に出たらぐっと引き寄せ、頭などをたたいて沖締めにする。煌良はべつに龍星のことを屈服させたいわけではない。そんなことをしてしまえば、せっかくの努力(アピール)水泡(うたかた)となって消えてしまうだけだ。
 それに煌良は自分の性格を考慮してみても、レントラーやペルシアンのような肉食系女子などではない。ポニータとかメリープなどの草食系であり、獲物を追いかけるのではなく、獲物として追われたいという本心があった。それは煌良の自信のなさの表れでもあるが、()(した)っている男性(ひと)になら大胆になれるという、ひそかな自信のありようを示すものでもあった。いくら科学や医療の技術が発達しても、時代や季節が流れていっても、人類の本質だけは容易に腰を上げようとはしないのである。
 「ごちそうさまでした」
 仕事の準備があるので、といい、龍星は客間に引っ込んでいった。
 ダイニングテーブルにて少し冷めたコーヒーをひと口飲んだ秘輝が、煌良に告げた。
 「うん……、煌良の作るご飯は本当においしい。こんなにおいしい料理を作れる娘が生まれてきてくれて、本当にありがたいと思うよ」
 「どうしたの、お父さん?」
 おいしい手料理を作ってくれるという点においては、父親の秘輝も同様であり、煌良はいきなり何を言うのかと目を丸くした。秘輝も料理の腕前はたいしたもので、休日になると豪快なメニューで一人娘の舌を喜ばせていたからである。心をこめて作ったものを、心の底から「おいしい」と返してくれる。作り手としては冥利(みょうり)につきるし、(しょく)す側としても味覚を満足させられて、まさに一挙両得(いっきょりょうとく)の関係である。
 「いや、なに、日々の幸福(しあわせ)をいまのうちに感じて、その幸福(しあわせ)をあたえてくれた人に感謝の言葉を伝える。ただそれだけのことなのに、だいたいの人々はただそれだけのこと≠ェできないし、しようとしないのだから不思議に思うわけさ」
 「……うん?」
 煌良が小首をかしげた。
 「長い年月をかけて生活していくと意識することがなくなっていって、そうすることがあたりまえだと思うようになる。そして、大多数の男女が勘違いする長年連れ添った夫婦≠フありかたについて感情的に議論することになる。男は「言わずと知れた関係であるべき」、女は「何歳(いくつ)になってもふれあうことだけはたいせつにするべき」。すでに論点がずれているから、いつまでたっても折り合いがつかないのは至極(しごく)あたりまえなんだ」
 「う、うん…………」
 奥の流し場で食器を洗いながら、煌良は父親の講義を聞く。ルナは残りいくつかのポケモンフードを両手で持ち、もぐもぐと口を動かしていた。
 「その後の展開はどうなるかというと、夫婦であれば価値観の不一致という結論に至って離婚することになる。恋人同士なら離縁(りえん)かな。いずれにせよ事態は最悪の方向に向かうわけだ」
 そこで秘輝が湯気のたたなくなったコーヒーをひと口すすった。口中のかわきを(うるお)し、わずかな聴衆――といっても、人間は娘の煌良のみで、ポケモンであるルナははたして人間の言葉がわかるのか疑問であるが――にふたたび講義口調で話を再開させた。
 「ところが、人間の恋愛における関係にはよりを戻す≠ニいう選択がある。いちど離れ離れになった男女(かんけい)再始動(リ・スタート)させる儀式みたいなものだ」
 「…………」
 「たいがいの男女は面倒に思うものなんだ。自然消滅した、もしくは修復不可能なところまで行ったものを蘇生(そせい)させることなんて無理に決まっている。そう決めつけて、新たな恋に生きようとする。べつにそれじたいは悪いことではない。そうしたいのならすればいいのであって、何者にも(はば)まれるいわれはないのだから。
 だが、死者を墓場から揺り起こすのではあるまいし、彼らはたしかにあった関係性のかけらを拾い集めるのが面倒だと思っているだけだったりするんだ。双方の接着剤(あゆみより)関係性(あい)を固めていく過程(さぎょう)をうっとうしいと思わずに、そのときのかたちを取り戻せた者たちだけがたどりつく愛もある」
 「…………お父さん」
 「私は、煌良がそのようなことにならないような、自由な恋愛をしてもらいたい。そうなってしまったときはどうしようもないが、せめて煌良が幸福(しあわせ)になってくれれば…………」
 「お父さん!」
 そのとき、煌良から悲鳴をあげるような大きな声が挙がった。残り少ないコーヒーを飲み干してしまおうとマグカップに手をのばしかけて、の衝撃であった。いつのまにか長広舌(おしゃべり)が過ぎてしまっていたらしい。煌良の右瞳(みぎめ)には疑惑の光が、左瞳(ひだりめ)には不審の光がちらついていた。
 「……すまない。びっくりさせてしまったようだね」
 「ううん、それはいいの。でも今日のお父さん、ちょっと変だよ。何かあったの?」
 それだけは打ち明けるわけにはいかなかった。いま、ここで、煌良(むすめ)に真実を知らせるのはまずい。いままで何となしに口をつけていたコーヒーに苦味(にがみ)が増したような気がした。それを飲み干すと、出来の悪い嘘と下手な笑顔で応えた。
 「なんでもないよ、煌良」
 「……本当に?」
 「ああ、本当だ」
 「…………」
 ああ、わが愛娘に嘘をつく時が来てしまったなんて!
 意思の疎通をやや強引に終わらせた父親の意図をなんとか納得しようとする(きらら)を見るのが、不憫(ふびん)でならない。突如、「追いつめられた者の舌が速くなる心理」という項目の書かれた専門書を読んだ日のことが頭の中にひらめき、秘輝は自嘲せざるをえなかった。まさにいまの自分がそうではないか。おしゃべりのしかたが上手いか下手かはともかく、少しでも愛娘とつながっていたいという思いが強くなって表れたのだ。ひとりで語ったので、結局は説教じみたものになってしまって、こういうときに(じぶん)の不器用さが明瞭(めいりょう)に出てくるのかと思うと、頭でもかいてごまかしにかかざるをえなかった。
 「お父さん」
 「な、何だい?」
 「天ノ川さんの準備がととのったみたい」
 後ろを振り返ると、どういうふうに表せばいいのかがわからないといった顔で龍星が扉の前にたたずんでいた。
 「お待たせしました」
 彼も頭をかいて微妙な笑顔を作った。変なところが似ているな、と思ったのは秘輝だけではなかった。
 「準備できたんだね」
 「はい」
 「よし、出かけようか」
 クリアブラックのダウンジャケットを羽織り、ホウエン地方出身のポケモンレンジャーとともに玄関へ向かおうとして、背後から煌良のあわてた声がかかった。手には自分の弁当箱ともうひとり分のものを持っていた。
 「お父さん、お弁当を持たずに出ていこうとしないでよ」
 「ごめんごめん」
 はたして煌良の作ってくれた弁当が食べられるか。
 垢抜(あかぬ)けていない桜色の髪の青年を自家用クルーザーでキッサキシティの碇泊所(ていはくじょ)まで送り届けるだけだというのに、と、赤の他人は冷笑(れいしょう)するかもしれない。他人の事情などおかまいなしに(わら)いものにするのは彼らの勝手だ。こちらは、その者たちの想像力の貧弱さを軽蔑するだけですむのだから。
 だが、自分はこれから死にに行くようなものだ。むろん特攻するわけではない。むざむざと殺されるわけでもない。すべては家族を(まも)るためだ。自分と永遠の愛を誓った者を、その者と結ばれて生まれ出た者の未来を護るためだ。
 「あと、天ノ川さんも…………!」
 「え、私も、ですか…………?」
 まさか自分の分も作ってくれるとはつゆ思わず、おっかなびっくりした声を挙げてしまった。
 「はい……!」
 煌良の手から龍星の手へ。真心のこめられた弁当が渡される。水色の布巾(ふきん)にくるまれたそれから、かすかにいいにおいがした。
 「ありがとうございます。いただきます」
 「天ノ川さん」
 「はい?」
 煌良が指と指を不器用にからませて、もじもじとさせながら告げた。
 「帰ったら感想を聞かせてください!」
 「……かならず!」
 煌良(かのじょ)の家を出て、龍星は秘輝に導かれて、近くに泊めてあった大型クルーザーのほうを目指していった。
 「アンアン」
 そばにいるのはわかっていたが、龍星の顔を見てばかりいて、ルナのほうを気にかけられなかった煌良は彼の頭をやさしくなでた。まだ見捨てられていない、と安心したように尻尾(しっぽ)を振る彼がいとおしい。
 「アンアン」
 ルナは何といっているのだろう。知りたくても知ることができない。煌良はそれがもどかしかった。
 左の手のひらを見せると、ルナが右手を置いてくれた。何度か繰り返して、手を高くに上げた状態にしたらハイタッチしてくれた。「いい子いい子」となでまわす。
 ルナがひと声、「アン」と答えた。左手を挙げている。今度はこちらがタッチする番だ。「タッチ」と弾んだ声で言いながら手と手を合わせる。ルナが、「アンアン」と喜びの波導(はどう)を表してくれた。
 「ふわあ…………」
 「アン?」
 ちゃんと左手で口を覆い、ルナには見せないようにしたが、煌良は大きなあくびをしてしまった。龍星(かれ)の前でやらなくてよかったと思った。
 「ごめんね、ルナ」
 「クゥン?」
 「お父さんの分だけじゃなかったし、龍星(あのひと)の分は多めにいれておいたからかな。少し疲れちゃったのかも」
 「アンアン」
 このとき、ルナに、「少し休む?」と言われたような気がした。気がしただけで本当にそう言ったのかは不明だが、いままで波導の存在を知らずして過ごしてきたのだし、煌良は自分なりの解釈で受け取ることにした。
 「……うん。そうしようかな。じゃあ、ルナにお留守番を頼んでもらってもいい?」
 「アン!」
 「うふふ、ありがとう、ルナ」
 ふたたびルナの頭をなでたのち、あらかじめまわしておいた洗濯機の中の衣類をベランダの物干し竿にかけたり、1階と2階の両方を簡単に掃除したりして、ひととおりの家事をすませてから、煌良は自室のベッドに横になった。
 「ルナ、あとはよろしくね」
 「アン」
 ……以後、煌良が目を覚ますのは、ずっと先のことになるのである。

野村煌星 ( 2015/03/04(水) 17:09 )