この想いだけは無駄なんかじゃない!
…奴は言った。「人間は無駄なことをするのに時間をかけるものなのか」と。
私たちからしてみれば、奴のしでかしたことのほうが無駄に思えてしかたがない。私たち家族をこのような空間に閉じ込めて、7年に上る年月をかけて力を奪っていって、あたかも自分で手にしたかのように喜んで。サバイバルナイフの峰に舌なめずりしながら襲いかかるサディストのように、陰湿で、醜悪な
悪意だ。
…奴は言った。「その無駄な想いをかの人間に託したというわけか。愚かなことだ。かの者が我のもとに到達する前に貴様が死してしまえば、残された者がどういう思いをするか。
幾年月の時をともに過ごしてきた関係のかたわれである貴様がわからぬはずがあるまい」と。
そう。私たちが先に死んでしまえば元も子もない。おそらくあの子のことだ。涙が
涸れるまで
慟哭するであろうし、墓前から離れようとしないかもしれない。
あの子はやさしい子だ。私たちの、自慢の子どもだ。だからこそ、いずれ訪れてしまう別れの時に、お互いが後悔せぬよう、わずかな体力・精神力をもってして、あの子と過ごすことにしたのだ。奴がいくら「無駄無駄」と
醜詆の言葉を
呪詛のごとくかけてこようと、私たちの耳からはシャット・アウトさせるまでのこと。
それに、私の洞察力に狂いはなかった。彼ならあの子を託すことができる。まあ、別れの時がきた際、彼に、「それは託したのではない。自分たちで護ることをあきらめただけだ」と非難されるかもしれないが。
…奴は言った。「だが、それも
一興というものか。万物の
営みから無駄をなくしてしまえば、残るはただそこに在るだけの
肉塊でしかなくなるのだからな」と。
あるいは、奴も自分のしていることが無駄だとわかっているうえで、事を荒立ているのか。もしそうであっても断じて赦されることではない。奴はその万物のうちの、人間の大多数に手を出してしまったのだから。
奴の無駄のために
同胞が
亡んでいく。その流れだけはなんとしてもふせがねばならぬ。ついには私たち家族だけとなってしまい、守り手である私も奴の手にかかった。いま、
眼前で、わが愛しの妻が、奴の魔の手で抱きかかえられながら、奴の毒牙にやられている。人をなんだと思っている!
生命をなんだと思っているんだ!
…奴は言った。「しょせん貴様のような人間は、口先だけで生きられると思っているような能なしだ。無能は無能らしく、そこで指をくわえながら永遠の時を楽しむがいい」と。
無能。たしかに私は
肝腎な時に動くことができないでいる。奴に力を奪われたからだけではない。残された力で立ち向かう勇気がない。中途半端な覚悟で突撃すれば、彼女がどうなるか、あらかた予想がついているから。私は、怖いのだ。
私が踏みだす一歩で未来が大きく変わる。
前人未踏の大地はどのようなものか。動植物ばかりが生い茂る太古の島か。はたまた、それらの気配がなく、前後左右のどこを踏んでも足もとが崩壊するような地盤の悪い土地か。いずれにせよ、いままでにない波乱が待ちかまえているのはたしかで、起こりうる可能性のすべてを予測しても無意味であることもたしかだ。私は、私たちは、未来の住人ではないし、ましてや
占星術師でもない。何が起こるかを予測できるなんて、本来なら不可能なはずなのに、どうして私たちは1分1秒その後の将来を知りたがるのだろう。
…奴は言った。「貴様が
手指のすべてをしゃぶりつくしたときには、貴様も、この者も、かの者も、貴様らがたいせつにするあの子とやらも、わが力の
糧となりえているであろう」と。
そうか。私は楽になりたいのだ。赤ちゃんのように、楽をしたいのかもしれない。指をしゃぶる赤ちゃんは無意識に防衛機制をはたらかせて、自身を護る行為に出る。私はあの子のことが気がかりである。それは本心だ。だが同時に私自身も
生命が惜しいと思っていたようだ。まったく、無能者という人種は自分のこととなると、とことん頭の回転がよくなるらしい。
未来の一部を知りえていたい気持ちも、きっとそういう
怠惰から生まれるのだろう。痛くて苦しいいばらの道を歩むよりも、
平坦な坂道を速く進んでいくほうが楽でいい。どうやら私は知らず知らずのうちに、あの子の気持ちを置き去りにして考えを進めていたようだった。なんという不出来な父親であるか……。
私はこれまであの子のことを想ってきたつもりだが、肝腎のあの子はどう思っているのか。知り合いから引き取ったポケモンを新たな家族として迎えいれ、少しでもあの子の笑顔が長くつづくよう、
細心の注意を払ってきた。結果的には大の仲良しになってくれ、私はとても安心した。互いが離れ離れになるのが想像できなくなるくらいに過ごせていて、ひとまず第一段階に終わりを告げることに成功したわけだ。
さて、次の段階で急にハードルが高くなる。
夢の中で苦しんでいる間、私はあの子に悟られぬようせいいっぱい元気そうにふるまってきたが、翌朝、彼を仕事現場へと送り届けたときが、私がこの世界で生きられる最後のひとときだ。あの子に直接会うのも、そのときが最後だ。
私は、私ひとりであの子に無限の愛情を注げたつもりだ。それが実になったかどうかはわからないが、あの子は心の底からやさしい女の子になってくれた。そしてあの子は、彼と出会ってからずっと、意識をひたすらに向けつづけている。本当によい関係になりそうだ。
…奴は言った。「それでもよいというのなら、我は貴様のことを
軽蔑しつづけよう。子を想う親の気持ちはいつ見てもよいが、貴様だけは父親でいる資格もないし、男の
風上にもおけぬ最低の生き物なのだからな」と。
言いたい奴には言わせておけばよし。事実上、私はあの子の父親であるし、立派といえはしないが最高の父親でありたいとはつねづね思いつづけていた。
だから、私は反論した。
「お前が私のことをいくらでも
謗るのは勝手だ。好きなだけ
罵るがいい。だが、私たちの子にいちどでもふれてみろ。私は絶対にお前を赦さないからな」
「ほほう、無駄な悪あがきがまだできるとは、貴様もなかなかしぶといではないか」
「打たれ強さはゴキブリ並のものでな」
「……よかろう。貴様のいう覚悟、しかと見届けさせてもらおう」
「ふん、
殊勝な心がけじゃないか」
「ただし、我がおとなしく時々の状況を見守るとは思わないでくれたまえよ。かの者が到達したあかつきには、貴様の子に手を出すのは考えておいてやる」
「その言葉、忘れてくれるな」
「我はちかぢか頂点に立つ者となるのだ。それぐらいの約束を守れぬようでは
鼎の
軽重を問われるというものだ」
奴は高笑いを挙げた。
やはり奴は、異常だ。自分のことを優れた存在であると、本気で信じこんでいる。自力で手にした実力ならばまだしも、私たち家族や同胞の力をえて成り上がった者がえらそうな口を利いているだけだ。買ったものを使うのではなく、買うことじたいが目的で、自分の身の周りに置くことで
充足感をえるような小心者となんら変わらぬではないか!
奴だって怖いのだ。自分を信じられず、はては他の存在も信じられない。信じられるのだとしたら、それは武力であって、自分以外の者を敵と見さだめて
過剰防衛に走っているだけなのだ。
おそらく奴は、「約束はしたが、護るとはいっていない」とでも言って、なかったことにするはずだ。自分を護るためなら手段を選ぶ必要などないと思っているであろうから。
いまのうちに彼のことをたっぷりと軽んじるがいい。黒幕みずからが攻勢に出るようになれば窮地に立たされたも同然なのだから。
…もう夜明けが近い。話のつづきは、きみが目覚めてからすませることにしよう。