第一関門
波導でのパフォーマンスを終わらせた龍星は、すっかりごきげんになった煌良に部屋を案内された。そこは一流ホテルのような調度の8畳の和室であった。掛け軸はないが、充分な
風情があった。龍星の自宅にも和室はあるが、だいたい自室にこもってしまうので使う機会がなかった。
「ごゆっくりどうぞ」といって出ていこうとした煌良を、龍星は呼び止めた。渡さなくてはならないものがあったからである。
「これを月城さんにお渡しします」
「!」
また赤くなった。いったい全体どういうことなのだろう。
非合理的な反応に苦しむ龍星の手から離れたものを、煌良が大事そうに抱え込んだ。たかが手紙で、しかも鮫吉の熱い想い≠ェ
綴られたものだというのに、どうしてそのような反応になるのか。ポケモンひとすじで生きすぎた龍星にはわからない感情であった。
部屋の中心にあった足の低いテーブルを壁際に寄せ、さっそく龍星はケースボールの中身を展開した。C1は衣類やアメニティーグッズ、C2は仕事に関する道具類、C3は適宜適切な処置が可能なアイテム全般。残り2つは予備である。
10分が経過すると、部屋は子どもがおもちゃ箱をひっくり返したかのような散らかり具合になった。最初に制服のダウンベストをハンガーに引っかけ、アウターウェアとそろいのロングパンツをはいた。スタンドミラーに映せば、不完全なバシャーモのコスプレにしか見えない。デザインははてしなくけばけばしいが、服の生地が薄くできているため、見た目どおりの保温効果を発揮する。したがって、船着場のロビーのフィッティングルームで合わせなかったのは、龍星にしては正しい判断だったのである。
次にノートパソコンを開いて、ホウエン地方のミシロタウンのポケモン研究所あてにメールを送る作業にとりかかった。格式ばった挨拶にはじまり、無事にシンオウ地方に到着したこと、明日から調査に向かうことを文章にし、送信ボタンをクリックした。
ふう、と、ひと息ついたところで、パソコン画面が切り替わった。電話だ。通話ボタンをクリックすると金髪の悪友の顔がアップで現れた。
「よう龍星、なんとか彼女の家に着いたみてえだな」
「……その言いかただと
語弊を招きそうでいやなんだが」
「まあいいじゃねえか。お前の行動しだいで本当にそうなるかもしれないんだしさ」
「あのな……」
そのとき、背後でがたっと物音がした。まさか聞かれたか。渋い表情で扉のほうを見てみたが、縦長の隙間はできていなかった。龍星はほっと胸をなでおろして、パソコン画面に向き直る。
「それはそうと、お前に尋きたいことがあって電話したんだ」
「オレがなかなか連絡を寄越さなくて、しびれを切らしてかけてきたんじゃねえのか」
「人聞きの悪いことを言うなあ、龍星くんは。おれがそんなこせこせした奴に見えるとでも?」
「酒も女も
醸成したやつがいちばん楽しめるといったのはお前だったはずだぜ、雷次さんよ」
きわどい言い合いを画面ごしで繰り広げるさまを、もし煌良が見聞きしていたら終わりだなと、龍星は苦笑交じりに思った。
「そうさ。男は
狩人だ。できるなら脂がのった獲物を仕留めたいだろうよ」
「……その
台詞、いつも
通っている店で女の子たちに吹聴しているのか?」
「おま……、それやっちゃったらセクハラになっちまうよ!」
「そういう分別はつけられるのな」
今度は龍星がしたり顔をして、雷次を窮地に追いつめた。言われっぱなしでは情けないし、何よりばかばかしくなってくる。
「で、尋きたいことって?」
「ああ、お前さ、兄貴に会わなかったか?」
カイナシティからミオシティまでの船旅で、龍星はたしかに雷次の兄・五十嵐風太と会った。オフのときの装いではあったが、なにやら重要な任務の最中であったらしく、いくつか質問を振っても正確な
情報を知ることはできなかった。全容をかいつまんで教えると、雷次がその詳細を話してくれた。
龍星がシンオウ地方へと旅立ったあと、鮫吉に月城キララ≠フ詳細を聞こうとムロタウンに向かうと…………
「ちょっと待て」
「なんだよ。話ははじまったばかりだぞ」
「お前、いちど電話したんじゃねえのか」
「した」
「それで、なんで「鮫肌」に?」
「言ったろう。男は狩人だ。上質な獲物は
逃しはしねえもんさ」
彼は美形だからまだ許せるのかもしれないが、顔をさらさずにいえばただのセクハラ野郎だ。男にはどこまでも追い求める習性があることを心理学の本で知ったが、ヒトとしての本能に忠実というだけで、人間であるなら理性的に事を運んだほうがうまくいくのでは、と思ってしまうところが、龍星と雷次の決定的なちがいであった。
「ま、さすがに鮫吉は腹を割って話そうとはしなかったがな」
「自分の知っていることをぺらぺらとしゃべり散らすような男じゃないよ、鮫吉は」
「だろうな」
「……話が脱線してんじゃねえか」
「話の腰を折ったのは龍星だろう」
……ムロタウンに向かうと、兄の風太とすれちがったという。声をかけようとしたが、無視されたというより、考え事をしていたみたいで気づいてもらえなかったらしいのだ。
何かあったのかと思い、実の兄に直接聞くチャンスを失った雷次は、それも兼ねて「鮫肌」でいつものように仕込みをしていた鮫吉に尋ねた。彼は、龍星がシンオウ地方にいる旧い知り合いの家に泊まり込みをしつつ、その最北端の村のはずれにある神殿の調査に向かったことを、兄に話したという。すると
血相を変えて出ていき、駐在所を留守にして船着場のほうに向かってしまったのだそうだ。
「オレがシンオウ地方に向かったことが問題なのかな」
「さあ、おれには兄貴の行動の真意はわからない。だが龍星が会っているのなら、話の断片をちょろっと漏らしたかもしれないと思って、な」
あのハンサムな外見のわりにはよくしゃべる人だ。口の利きかたは弟とは正反対だが。
「ものの見事にはぐらかされたよ」
「ふうん……、じゃあどうにもならねえな」
「また風太さんに会えたら聞いてみるよ」
「そうしてくれ。兄貴はまじめだから、何でもひとりで抱え込もうとする
悪癖があるしよ」
女性にたいしては博愛精神をもって接し、男相手だと
大雑把な口調になり替わるこの男でも、血のつながった兄となれば心配もする。自分が自由に生きているからこそ、真逆の性質を有した兄弟の動きや考えかたがおのずと閃くのだという。龍星には兄や弟がいないので、そういう感覚はないし、理解しにくかった。
「じゃあ電話を切ってもいいだろう」
「おれの用件は終わったけど、お前からの報告を受けたおぼえはないね」
兄への心配と自分への関心を天秤で量ったら、後者がまさっているにちがいない。まったく、人間の好奇心というものに打ち
克てる挑戦者が現れてくれはしないだろうか。
「明日確認すると言ったのはお前だし、おれはけっこう期待していた。観客の望みを裏切るような真似は許されねえぜ?」
観客だと自覚していて、なお強気に攻めてくるのかと思うと、龍星は頭痛の種ができてしまいそうだった。
「……せめて仕事が終わってからじゃだめか?」
「だめだ。ドタキャンは社会での信用を失うおこないだってことを、社会人のお前がわからんはずがあるめえ」
「ぐ…………!」
「さあさあ白状しちまえ。息をとめて待つより、新しい空気をめいっぱい吸いこんだほうが楽になるんだからよ」
龍星は、今度は後ろの扉に身体ごと向けた。音はしていない。ひょっとしたら息を殺して自分たちの会話を聞いているかもしれないが、扉のそばまで行って息づかいの音が聞こえるかどうかをたしかめる気にはならなかった。
それに、もし不安ならば
相手にかまわずにパソコン画面の切ボタンをクリックして、会話を強制終了させてしまえばいいのだ。またかかってくるかもしれないが、電話に出ないようすればいい。本来、仕事の合間であろうと私的なやりとりをするのはマナー違反であるのだし、あちらが言いがかりをつけてきたら、警察に業務妨害の容疑で逮捕させてしまってもよいだろう。まじめな警察関係者である実の兄にたっぷり叱ってもらえば、すこしは性格が固くなるはずだ。
だがこのとき、龍星は雷次のしかけた
愚にはまってしまったのであった。
「……可愛らしい人だと思ったよ。とても落ちついていて美人という雰囲気をまとわせておきながら、家族のように大切にするポケモンの前では可憐な女の子になるところとか。あとはそうだな、髪の手入れがすごくきれいでよかったかな」
「……………………」
画面の奥にいる雷次の
表情は、まさに開いた口がふさがらない¥態になっていた。感想を述べよとは言ったが、そこまで律儀に答えられると反応に困る。自分でけしかけておいて最終的には絶句してしまうとは、油断大敵であった!
「……これでいいのか?」
「いや、それでよかったんだが、なあ…………」
「なんだよ、その煮え切らない返事は」
自分はこのていたらくだが、場合によってはいい結果につながるかもしれない。もし
煌良が龍星に好意を寄せていたら、正面切って褒められるよりも絶大な効果が期待できるのは間違いないと思ったからである。
称賛の声を挙げるのなら裏でこっそり言って、対立者に反論したいのなら表に立って言うのがいい。どちらも嘘くさく聞こえないので、良くも悪くも真に受けやすくなるのである。
それはさておき、いまだ気持ちの整理がつかない雷次を相手にする必要を感じない龍星は、さっさと切り上げてしまいたくなり、腕組みをしてこれ以上の会話は拒否したいというサインを送った。
「ま、まあ、約束ははたしてもらったし、今日のところはこのくらいで勘弁してやるよ」
雷次の独創性のない逃げ口上をもって、ノートパソコンでのテレビ電話は終了した。
「は、恥ずかしかった…………!」
冷静に努めて顔に出さないようにはしたつもりだ。えもいわれぬ緊張感と昂揚感と恐怖感に負けじと挑み、肺の中の二酸化炭素を
空にするほど言い切って、龍星は頭を少々ふらつかせた。
「慣れないことはするもんじゃないな」
頭を押さえながらノートパソコンを閉じ、そのまま
畳の上に倒れ込む。深呼吸して落ちつこうとしたところで、扉のノック音が鳴った。
龍星はばっと起きあがった。ついに年貢の納め時かと思った。「ひそひそ」という擬音語で表現できそうにない
音量で話していたし、男同士の
下卑た会話に耳を傾けたところで感性が腐るだけだ。どういう方向に転ぼうと、かなりの覚悟を決めないと、せっかく生まれた信頼感が音もなく崩れ去ってしまうであろう。左右の頬をはたいてから、龍星はノック音に応えた。
「お夕食のご用意ができました」
「ありがとうございます。ただいまそちらに向かいます」
対面して言われたのではないし、しかも扉ごしなので、多少彼女の声が
吃って聞こえたのはやむなしといったところであろうが、それにしては元気がなかった。やはり失望したのだろうか。
上下そろって暖色系のジャージと、桜色の髪と、ほんのちょっとだけ引き締まったボディと、波導と同じ色の瞳を所有しているポケモンレンジャーの青年は、
諦観めいた足どりでダイニングルームへと進んでいった。