第二章
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 午後6時にさしかかろうとしていた頃、龍星はずっと同じような姿勢で眠りつづけたせいで身体の節々(ふしぶし)ににぶい痛みを感じているところであった。半日以上を船の中で過ごせばこうもなるだろう。右手にある丸い窓の奥では、空の番を交代するかのように、太陽が水平線のかなたへと沈もうとしている。
 冷房を弱めて、龍星は座ったままかるく身じたくをととのえた。手帳とペンは制服の左の内ポケット、鮫吉に頼まれた手紙は右の内ポケット、ほかの荷物は腰のベルトに装着してあるケースボールに(すべ)てはいっている。ケースボールそのものを落としたら大変なことになるが、指紋・掌紋(しょうもん)を識別するプログラムが組み込まれており、誰かに拾われたり盗まれたりしても中身が出ることはない。無理にこじ開けようとすれば爆発するし、持ち主以外の人間が安全に開けられるとしたら、それを生みだした五十嵐雷次だけである。
 そろそろ船がシンオウ地方の玄関口といわれるミオシティの港に到着する。日が陰ったせいか、それとも北国の日常的な光景なのか、ホウエン地方にいたときより雰囲気が暗く感じられた。同じ9月上旬であるはずなのに、いかに環境がちがうかが如実に伝わってくる。
 アナウンスが流れた。
 「本日は当連絡船をご利用いただき、まことにありがとうございます。まもなくシンオウ地方・ミオシティの港に到着いたします。お忘れ物がないか、いまいちどご確認くださいませ」
 すでにしておいたことをもういちどおこない、龍星はホウエン地方から乗り越えた船が船着場にはいっていくさまを全身で感じながら下船(げせん)の時を待った。
 「なんだか肌寒いな」
 客席全体の冷房を止めることはむろん不可能だが、勢いを弱めることはできる。身のまわりを整理した際にそれをおこなったはずなのだが、どうしても鳥肌が立ってしまう。
 早く降りたいと船内の通路をあわてて進むほかの乗船客がこちらを見て、目を丸くした。その客は厚手のコートを羽織っていた。龍星と同じく、カイナシティから乗り込んだのだろうから、途中でコートにシフトチェンジしたのかもしれない。
 絶滅危惧種のポケモンでも見るかのような目で訴えられ、龍星は不快にこそ感じなかったものの、不思議には思った。そんなにおかしな恰好をしているのか、と。半袖の薄黄色のワイシャツに煉瓦色(れんがいろ)のネクタイ、その上には黒と赤が基調のダウンベストを着つけ、ダークブラウンのハーフパンツをはいていた龍星は、これが普段の恰好であり、非番の日の服装よりなじんでいたので、特別気にならなかったのである。そもそも身なりに無頓着なほうなので、たまの休みを利用してカイナシティの街中へ繰り出しても、すれちがう女子にちらちら見られることがなかった。
 「おしゃれに気を遣わないと女の子に嫌われちゃうぞ」
 そういったのはやはり姉の明美で、ポケモン以外のことにほとんど関心をしめさない弟をおもんばかっての忠告だったのだが、龍星は聞く耳を持とうとはしなかった。仕事中に関係ないことを考えられるのは集中力がない証拠だ。女性にはそれができるようだが、そうしたいのなら自分たちがすればいいのであって、したくないという者に強いるのは許されることなのか。この件について、龍星は(かたく)なに拒絶したのであった。
 連絡船は港湾内に静かに腰をおろした。搭乗橋を渡って船を降り、ミオシティの船着場のロビーに到着すると、龍星はまず月城キララを探すことにした。あれは空色というべきなのか、とても澄んだ青い髪をしていて、雪のように白い肌と黄金色(こがねいろ)の瞳が特徴的であった。ほかに思い出せるのは、フローラルピンクのエプロンを着つけていたことくらいか。肩のあたりがフリルになっていて、いかにも家庭的な雰囲気が漂っていて…………
 「なんだよ、けっこう覚えているじゃねえか」
 昨夜のバーボンが効いて忘却のかなたへと飛んでしまったかと思っていたが、そんなことはなかった。電話していたときは歯牙(しが)にもかけていなかったし、自分が思っている以上に彼女のようすを捉えていたことに驚嘆(きょうたん)の思いを禁じえなかった。
 「どこにいるかな、あの人は」
 ロビーの中央にある30の座席、壁際に設置されたステンレス製の長椅子、そのそばに立つ自動販売機、出入り口の近く、30の座席の後ろにある角柱の…………!
 「あ、どうも…………!」
 こちらが気づくと煌良(かのじょ)がうれしそうに微笑んだ。小走りで近づき、第一に謝礼を述べることにした。
 「昨夜は私の大変厚かましいお願いをお聞き入れくださって、本当にありがとうございました」
 すると、にこにことした笑顔を絶やさぬまま、とろけそうに甘くて可愛らしい声でていねいに対応してきた。
 「いいえ、困ったときはお互いさまですし、わたしたちはそういうの気にしませんから」
 世の中にはこのように都合のいい人なんていないと思っていた自分が、なんだか恥ずかしくなった。ただごく少数の人しかいないのは間違いないであろう。世間知(せけんち)の過半の、一を聞いて十を知ることができるのは達眼(たつがん)の士ぐらいで、凡人に過ぎない自分のなせる業ではないのだと、あらためて思い知った。
 「あの、失礼ですが、お父様も私がご厄介になることをご承知していただけたのですか?」
 「はい。あのあと父に伝えましたが、とくに咎められることなく終わりました」
 彼女も(きも)のすわった人だとは思ったが、その父親はそれ以上に懐の深いお人であるらしい。幼少期に両親と死別した龍星としては、父親の気持ちについて考えたことはなかったし、家庭はおろか恋人もいないので、その立場を思うにはかなり難易度が高かった。
 ホームドラマや小説にあるように、娘をもつ父親は、悪い虫に近づかれぬよう徹底的に護ろうとする。逆に、おとなになっても父親への愛着や執着心が消えずに残る娘もいて、そういう女性をファーザー・コンプレックス――通称・ファザコンという。月城家の父と娘はそういった傾向はないようだ。
 が、いくら自分が旧友の友人だからといって、簡単に承諾をえてもいいものなのだろうか。あるていどの線引きはしているにしても、ここまでアットホームにふるまわせていいものなのだろうか。
 「そうですか。それは助かります」
 とはいえ、彼女たちが「OK」と言った以上、不手際が発生すれば彼女たちにも責任の火の粉が降りかかるのだから、そこまで深刻ぶる必要もない。龍星はすなおに相手の厚意を受け取ることにした。
 「それで、あの…………」
 「はい?」
 そのとき、彼女の笑顔がわずかに引きつった。暖房の温度設定がちょうどいいので汗がたれることはないのだが、卵型の顔の左側にうっすらと水滴がついているのが見えた。
 「寒くないですか?」
 「いまのところは」
 「…………」
 煌良は手で口もとを覆い隠しながら、思案(しあん)げに下のほうを見つめている。やはりこの恰好は特異に見えるらしかった。たしかに船内にいたときに肌寒さを感じはしたが、左右の腕をさするほどにひどくはなかった。それに、ホウエン地方にもそれぐらいの涼しさをたもった場所は存在する。ただし個人で訪れる機会のほうが圧倒的に多かった。
 というわけで、これぐらいの寒さではへこたれません。そのように内心でアピールでしてみたものの、煌良が直感的に知ったそぶりはなかった。
 「や、やっぱりまずいですかね……?」
 いよいよ自信がなくなってきて、龍星みずからが話を切り出すようになってしまった。船上で風太と話していたことを思い返し、とっさに話題を転換させてみることにした。「自分は寒さに強い」という話から「ここがどれだけ寒いか」という話に。
 「天ノ川さんは上着をお持ちでしょうか」
 「ええ、いちおう……」
 そう答えると、彼女は左のほうを流し目で見た。そこにはフィッティングルームがあった。
 「でしたらあちらでお着かえになられたほうがいいと思います。わたしはここでお待ちしていますから」
 「……そうさせてもらいます」
 去る前に一礼してからフィッティングルームにはいると、C1とプリントされたシールの貼ってあるケースボールから鴇色(ときいろ)のジャージを放り出した。腹部に黄色くて縦長の菱形(ひしがた)模様がちらりと見えたり、羽毛のように(さか)ったアイボリーホワイトのファーが交差していたりと、やけに凝ったデザインであるが。
 長袖のものを着用したことが人生のうちに2、3度ぐらいしかなく、腕全体が布で覆われる感覚というのは龍星に違和感をもたらした。
 「ねんのため、このあたりの気温を調べてみるか」
 左腕に装備してあるキャプチャ・スタイラーを起動する。タブレット端末が直接はめこまれており、画面にふれて操作する仕様なので、デスクトップパソコンや従来の携帯電話のようなプッシュボタンはない。
 天気アプリを開き、シンオウ地方・ミオシティのいまの天気、気温、降水(降雪)確率を見て、煌良や周囲の視線が痛々しかった理由がわかった。
 「ここでは常識が通じないな」
 常識には2つの意味がある。社会の秩序・安全を守る手段としてあるものと、その人があたりまえに思う感覚である。昨今の若者の口からもれやすい「ふつう」という言葉が象徴的で、他人のものさしで測られるのを護ろうとする意志(おもい)から生じたのだろう。ただ大多数の人が使うとなると、いやであるという自己主張のほかに、自分の感覚こそ正しいという独裁者めいた感情(おもい)が見え隠れしているように思われる。世界中で多種多様な価値観が混在するいま、他者とのちがいを認める勇気が試されるところであるが、ほとんどの人はまだ異質な存在を許容できそうになかった。
 ところで、龍星がタブレット画面で見ているのは現在のミオシティの気温である。
 12℃。いまのところは屋内にいるし、暖房もかかっているから平気な表情(かお)をしていられるわけであって、ジャージを羽織らずに外に出ればどうなるか、いやでもわかることだ。軽率な行動は控えよう。龍星は本気でそう思った。
 煉瓦色のネクタイをはずし、薄黄色のワイシャツの上にはでなジャージを着、さらにダウンベストを羽織る。ハーフパンツは替えるかどうか迷ったが、上下そろうとどうなるかはわかっていた。
 「これでいいだろう」
 鏡で着かえた姿をチェックする。先ほどよりも赤が多い色合いになったが、どぎつく感じることはなかった。ネクタイをケースボールにしまい、龍星はフィッティングルームから出た。
 「お待たせしました」
 声をかけると、煌良はまだ不思議そうな表情を崩せないでいた。長袖になっても不安に思うところがあるようだった。
 「あの、何か……?」
 「い、いえ! さあ、行きましょう!」
 何故か顔を真っ赤にして言い、彼女は自宅への案内をはじめた。龍星はそんな彼女のミディアムロングヘアーに視線をあてながらついていく。ひょこひょこ揺れる空色の髪が白衣をまとう天使の子どもが跳ねているみたいで、とても可愛らしい。
 後ろから見ても美しくととのった体型をしている。背は姉より微妙に低かったが、活発なイメージが強い明美に比べて、おとなしくて控えめな感じがした。
 なかなか熱がひかないのだろうか、顔をのぞきこむように前に出てみると避けるように隠してしまう。この恰好の何がいけないのか、龍星としては答えを聞きたかったが、いまの彼女に何をしても無駄な気がした。
 ミオシティの街中を歩いていると、同じ港町であるカイナシティとちがって運河(うんが)が走っていた。町を縦半分に割ったかのように水路が通じており、そこに連絡船が碇泊したのだ。まだ船に乗っていたときには気づかなかったが、沖のほうに行くと巨大な跳ね橋があって、渡った先には宿泊の予約をなくしてくれた旅館・「波止場(はとば)宿(やど)」が、その手前には古くからあるという図書館が建てられてあった。任務が終わったらゆっくりまわってみたいものだ。
 「こちらです」
 煌良がこちらに振りむいて紹介してきた。赤かった両頬はすでに治まっていた。
 「大きい家ですね」
 「そんなことないですよ。広すぎるくらいです」
 コンクリートブロックの塀に囲まれた彼女の家の敷地にはいると、玄関前に1匹のリオルが立って待っていた。視界に家族の姿を確認するや(いな)や、うれしそうに飛びかかる。
 「ただいま、ルナ」
 「アンアン!」
 よしよし、と頭をなでてやると、ルナとよばれたリオルが両手から青白い光を発した。龍星にも宿る波導(はどう)だ。
 「へえ、この子はルナというのですか」
 「はい。とても可愛いですよね?」
 こういう場合は「可愛いです」と答えておいたほうがいい、と、実姉ではなく雷次が言っていたのをふいに思い出した。
 女は協調や同調を重んじる傾向があり、否定的な意見を言う人にたいして露骨ともいえる態度をとる。端的(たんてき)にいえば、「自分の好きなものが好きな人はいい人、きらいな人はいやな人」という方程式であろう。したがって、ここで龍星が、「そうでもないですよ」と答えてしまえば、龍星にたいする彼女の好感度は下落の一途をたどるのみなのである。
 「ええ、可愛いと思います」
 「えへへ、ルナ、よかったね!」
 「アンアンアン!」
 ルナが尻尾を振って喜んでいる。結果的にはよかったのかもしれないが、そのときはこうすれば機嫌がよくなるとか、あのような場面でそんなことをするとそっぽを向いてしまうとか、とても人としてあつかっているとは思えなくて、龍星は複雑な気持ちになった。
 「ルナ、こちらは天ノ川龍星さん。わたしの(ふる)いお友達のご友人さんだよ」
 「アン!」
 元気よく返事をしたルナが龍星のほうを見る。にこにことした顔は中性的な少年を彷彿(ほうふつ)とさせた。
 「ルナ、今日からしばらくお世話になります。よろしくな」
 龍星はルナと握手を交わした。その際、ルナと同調(リンク)するよう波導を展開させてみた。
 「えっ!?」
 「ルナ、オレの声がわかるか?」
 月城キララは目の前で起きていることが理解できなかった。ときおりルナが発していた青白い光を、彼も同様に発生させていて、しかもそれを以て会話を試みているではないか。
 「ルナ」
 『……天ノ川さん、ボクの声がわかるの?』
 「わかる。ルナの言っていることが、わかるよ」
 ……なんてことだろう。彼は、ルナと話している。ルナは、早くも彼に心を開いている。
 何年も前に会って、多少の恋心を抱かせたあの人がテレビ電話をしてくれたとき、自分はどんなに舞いあがったか。でも、ただ電話をしてくれただけに終わり、知らない女の人に往復ビンタをされて逃げられていた。女の人は、わたしのことを、浮気相手だとでも思ったのだろうか。彼がいまでもわたしのことを想っていてくれていたら、わたしはなんと言っただろう。ずっとお慕いしていました、と思い切って告白しただろうか。
 たぶん、いや、しなかったと思う。彼はあの女の人と幸せな生活を送っているのだろうし、わたしの出る幕はなかったように思えた。わたしの、昔から大切に想っていた恋はそのときに終わった。
 そしていま、わたしはこの人にときめいてしまっている。たった1本のテレビ電話で運命ががらりと変わってしまうなんて、そのときは思いもしなかったのに。この人は何か特別なものをもっている気がする。それが何なのか、現時点ではわかりそうにないけれど、わたしたちのことを、わたしのことを変えるきっかけを作ってくれるかもしれない。もし本当にわたしたちの、わたしの願いがかなったら、わたしは…………!
 「……月城さん?」
 「あ、は、はい、どうしました?」
 「いや、月城さんがとまどっていらしたから、心配になりまして…………」
 「あ、いや、その…………!」
 おそらく頭上でぼふんと、噴火した火山のごとく、湯気が立ち上ったことだろう。船着場のロビーで会って以来、恥ずかしさのあまりに顔を赤くさせてしまってばかりいる。あの人のときはこんなことにはならなかったはずなのに。
 「クゥン……」
 ルナが不安そうな表情を浮かべている。ああ、ルナにまでわたしのことを不審に思われたら、わたし…………
 「そうだ」
 龍星が突然大きな声を出したので、不自然な行動が絶えない煌良がびくっと肩をふるわせて驚いてしまった。そのことに気づかず、龍星は思いついたことを彼女たちに伝えた。
 「月城さん、ちょっとよろしいですか」
 「ふえっ!?」
 すると龍星は煌良の左手をにぎってしまった。彼女の頭上からもういちど水蒸気爆発(すいじょうきばくはつ)が起きた。
 「月城さん、ルナに話しかけてみてください」
 「……………………!!」
 「つ、月城さん?」
 「え、あ、はい!!」
 彼女の表情がめまぐるしく変化するのを、龍星は、「大変そうだな」と他人事のように思うだけだった。「変な人だな」と感じないだけまだましなのかもしれない。
 「ルナ、わたしのこと、わかる? わかるのならあなたの声を聞かせて?」
 『煌良! うん、煌良の言っていることがわかるし、聞こえるよ!』
 話せた。ルナといま、話すことができた。すごい!
 育て親として、個人として、煌良の喜びのバロメーターは急上昇した。ポケモンとの交信を図ることが可能なのは、テレパシー――いわゆる超能力者(サイキッカー)と呼ばれる人たちだけだと思っていた。ほかにも、離れた場所へと移動したり、障壁をとおして内部にある事物を感知したり、物体を念動・変形させたり。ただ、超常的な力を所有しているがゆえに、ちがいすぎて気味が悪いとも思っていた。
 しかし、家族である彼にあらかじめ備わっていたとなれば、気味が悪いと思っていたものがすばらしい才能に変化する。超能力者たちにたいする偏見とルナへの疑惑が解消され、煌良は、あらためて龍星に畏敬の念を抱いた。
 「よかった…………! ルナ、わたしはルナのこと、大好きだからね!」
 『ボクも、煌良のことが大好きだよ!』
 なんて微笑ましい光景だろう。親愛の情ではあるが、テレパシーか波導で介さないと実現できないことだ。煌良の左手とルナの右手を放すと、彼女たちはいっせいに抱き合った。煌良は頬ずりをし、ルナは彼女の頬を舐めまわす。
 「天ノ川さん」
 その声を発したのは煌良である。
 「ありがとうございます」
 「どういたしまして」
 天ノ川龍星、月城煌良、月城ルナ。この2人と1匹の絆は、快調の一歩を踏みだしたのであった。

野村煌星 ( 2015/02/27(金) 10:31 )