第一章
邂逅
 5分ほどして鮫吉は戻ってきた。部屋の押入(おしいれ)の奥にでも仕舞ってあったのか、彼の手にもったA6サイズの電話帳らしきものはすっかり傷んでいた。表紙にはかろうじて「ADDRESS BOOK」とかすれた英字で書かれてあった。
 鮫吉は素早い手つきで亡父の電話帳をめくっていく。五十音順のインデックスでふられてあったため、さいわいすぐに該当の人物の所在がつかめた。
 「そう、この人だ……!」
 感慨深げにつぶやいたのち、鮫吉の思いあたる人物の住所と電話番号が載っているページを龍星らに見せた。
 「月城……、ナミキさんというのか。ルビは振ってあるが、なんとも難しい読みかたじゃな」
 「電話番号がいまでも使えればいいんだけどな……」
 それがもっとも肝腎(かんじん)であるにちがいなかった。ダイヤルすればわかることだが、まさに正念場であり、場合によっては龍星の今後をあらためて考えなおさないといけない。
 善は急げ、である。さっそく鮫吉は店内の端に設置された薄型テレビの電源を入れ、モニター画面の左上に「Tel」が表示されたのを確認した。それは龍星たちの座るカウンターテーブルの上にあるので、龍星らは身体を左に90度向けた。
 「……いいか? もし通信がかなったとしても、先方がこちらの事情を聞きいれてくれるとはかぎらねえ。それでもいいなら……」
 「お願いします」
 龍星の決断は速かった。ちゃんと席を立ってから鮫吉に向かって頭を下げたのである。相手が幼なじみであろうとここぞという礼節(れいせつ)は守らないといけない。鮫吉は黙って頷き、電話の本体の番号を慎重にプッシュしはじめた。
 必死の懇願を受けとめてくれたであろうと、龍星が顔を上げたそのとき、
 「ただいまー!」
 と、明るくて高いソプラノヴォイスが店の裏口から侵入した。あとからいくらかの生活音が付随(ふずい)し、今度はその美声の持ち主が姿ごと躍り出た。左肩にはスバメが愛らしく乗っかっていた。桃色でロングヘアーの女性がきょとんとした顔つきで尋ねる。
 「あれ、どうしたの?」
 すると、普段ならとろけそうな――鼻の下がのびまくった笑顔を振りまく諸刃のおじいさんが必死の形相(ぎょうそう)で人差し指を立ててきたので、桃色髪の女性は思わずのけぞってしまった。そして、たいしてうまくもないジェスチャーで指示を出された。彼女は瞬時に周囲の状態をたしかめると、いつになく真剣な面持(おもも)ちの酒好き老人の意図を理解し、それに従った。
 スバメは女性につづいてさえずるチャンスをなくされてショックを受けたが、甲高く()いたところで無意味だと悟ったのか、落ちつきなく視線を泳がせるだけにとどめておいた。
 「それにしても、どうしてこんなに静かにしているのかしら」
 ただ単にテレビ電話で会話するだけなら仰々しくする必要なんてないだろうに、と、女性は理解しがたい表情を作った。ふるえた手で受話器をもつ鮫吉、自分の好きな酒をひと口もつけずになりゆきを見守っている諸刃、そしてテレビ電話のモニター画面に鋭い目つきで構える弟の龍星。彼女は、龍星より3つ上の姉・天ノ川明美である。
 30分ほど前に買い出しに行って、たったいま帰った彼女は、当時の情景から修正がだいぶ加えられたことに気づいた。実弟の迷宮入りになりそうだった事件は解決の糸口が出てきたようだ。拳をぐっとにぎりしめて何分か経ったはずである。手汗による光沢(こうたく)が垣間見えた。
 静かにせよ、と命じられたせいで、直接関係がなかったはずの明美までもが緊張の綱渡りを強いられた。弟の話を聞いて共感はしたものの、下手なことを言って逆上させてもしかたがないと思い、前から鮫吉に頼まれていたことをこなしに外出したのだった。
 これからたくさんの常連客が押し寄せてくるであろう。今夜はまだ諸刃のみの来店であるが、大量の炭酸水のボトルを買い込んでおいて損はない。
 モニター画面の闇が払われた。そこに現れたのは、亡父の電話帳にあった名前のイメージからは程遠い、たいした美貌の女性であった。明美の緊張の糸はあっけなく切れた。
 「ちょっとキッちゃん、これはどういうことなの!?」
 (はげ)しい炎を吐くドラゴンのごとく鮫吉をにらみつけ、明美がにじり寄る。
 「ぬおっ!? ち、ちがうんだ、明美!? これはだな…………!!」
 「問答無用!!」
 鋭い発声とともに半ダースもの平手打ちを食らい、面長(おもなが)でとがり気味の顎を有した顔立ちの鮫吉は両頬を赤く腫らせるはめになった。ふん、と明美はそっぽを向き、裏口の外へと消えていく。
 「ま、待て、明美!!」
 屈強なのは面構えだけではなく、首から下も筋肉質で図体の大きな身体を有している鮫吉が、実姉の壮大な勘違いの被害に遭ってしまうとは。いろいろと手を貸してくれた彼には悪いとは思ったが、礼をいうより先にすべきことがある。現に、月城秘輝≠フ番号にはつながったのだし、モニター画面の奥にいる端麗な(かお)の女性をぽかんとさせたまま待たせるわけにはいかなかった。
 この機を逃すまじ、と真剣そのものの目つきで、龍星は鮫吉から受話器を受けとった。鮫吉も龍星に、
 「橋渡しはした。あとはお前がなんとかしろ」
 と、目で訴えてから明美の後を追っていった。
 そこへ、店の出入り口の引き戸がわずかに開いたのを諸刃が気づいて、そばに寄った。案の定、そこにいたのは仕事終わりの住民たちであった。
 「諸刃さんよ。まだまずいのかい」
 「もう少し待てぬか。まさにいまが、龍星の出番なのじゃ」
 さまざまにお膳立てされた舞台の上で、ポケモンレンジャーになって3年目めの青年が諸刃の背後で懸命なやりとりをおこなっている。これが愛の告白であったらクライマックスな展開で悶えていたであろう。だが、残念ながら、いまの駆け引きは宿の交渉であり、色気がなければ恥も外聞(がいぶん)もないものだった。
 小声で宴の延長を申し入れ、諸刃よりも下の世代の諒解(りょうかい)をえてから戸を閉めると、さらに若い龍星が、モニターに映る美女との話し合いに命を()している真っ最中であった。
 「あ、あの、そちらは月城さんのお宅で、間違いありませんでしょうか?」
 本来なら鮫吉に話を切り出してもらうつもりであったが、予想外のできごとにより脚本家が退場を余儀なくされ、完成度の高かったシナリオの変更がなされた。ヒーローは遅くにやってくるものだというが、龍星はべつにヒーローでもなんでもないし、もし画面の奥の彼女にこちらの事情を知られていたら、立場としては小悪党に近いものと捉えられたにちがいない。彼女の側に立てば、おぼろげな記憶のなかの人物の、知人らしい不審者≠トいどの見方しかできないはずであろうから。
 「は、はい、間違いありませんが…………」
 先方は明らかに動揺を隠せないでいた。無理もない。テレビ電話での対応を求められて受話器をとった末、ひとりの男と女の闘争劇が開演して、脇役だと思っていた演者が主演俳優になり替わったのである。あの状況で混乱しないほうが正常(まとも)ではなかった。
 「オレ、いや……、私は、あなたのお父上の知己(ちき)であったという人の息子の友人であります、ホウエン地方西部レンジャーベース所属のA級レンジャー・天ノ川龍星と申します」
 「…………」
 画面の彼女は何も言わなかった。というより、どのように反応していいのかわからない、といったふうであった。自分にたいする印象はどんなものなのか、真実は闇の中であるが、少なくともつかみ損ねた感はあった。なんとも言えない現況で退(しりぞ)くわけにもいかず、この際、あえて相手のようすを無視して話をつづけることにした。
 「突然のご無礼をお許しください。じつは私、仕事の都合でシンオウ地方に渡ることになりまして、あらかじめ宿泊施設に予約の電話を入れておいたのですが、あちらで手違いがあったらしく、私の希望はなかったことにされてしまったのです」
 「…………」
 依然(いぜん)として彼女は返事をしようとしない。ただし、まったく聞いていないわけではないようで、龍星の真剣すぎて血走った眼球に焦点を当ててくれてはいた。
 「そこで、月城さんには私の大変厚かましいお願いを聞きいれていただきたい!」
 そのとき、彼女は目を丸くせざるをえなかった。何故なら、天ノ川龍星なる人物がその場で土下座をしはじめたからである。そのような(きょ)に出るとはつゆ思わなかった。
 「恥を承知で申し上げます! どうか私を月城さんのお宅に居候させてください!」
 「……………………!!」
 「お願いします!!」
 「……………………!!」
 龍星の告げた話の内容は厚顔無恥(こうがんむち)そのものであったが、けっして不誠実な行動とは思えなかった。むしろ多分に迷惑をかけていることを承知のうえでプライドを捨てたはずであった。フリーダイヤルでかけてきた質の悪いセールスマンが相手であったら、かまわず受話器を置いて終わらせていた。しかし、まったく知らない仲ではない人の友人を名乗る者から誠意ある願い出を受けて、断るほうが難しいかもしれない。というのは龍星の妄想であるが。
 「……………………」
 「……………………」
 「……………………」
 「……………………」
 この沈黙はいつまでかかるのだろう。しびれを切らして猪口に冷酒を注いでしまいはしたが、酒宴の先延ばしをされて外で待ちぼうけをくらっている者どもの気持ちを考えると、あまり気分のいいものではなかった。もちろん、龍星の悲願が叶えばいいと思う気持ちも本気である。
 「……………………」
 「……………………」
 「……………………」
 「……………………」
 先に折れたほうが敗者であることは疑いないが、どちらのほうが折れやすいかといわれれば、断られたら後がない龍星のほうであろう。諸刃としては不幸を喜ぶ真似だけは犯したくなかった。
 「……………………」
 「……………………」
 「……………………」
 「……わかりました」
 「…………え?」
 月城さんの静かな宣告を、龍星は聞きそびれてしまった。だが、かえって間の抜けたそのリアクションが、先方のこわばった表情筋をほぐしたようで、このタイミングで彼女の天使めいた笑顔を見ることができた。
 「あなたさまのお願いを、わたしはお聞き入れいたします」
 注意が一時的に散漫した龍星のために、彼女は念を押して承諾(しょうだく)の旨を伝えた。すると、直談判をした側の表情もゆるんで、「ありがとうございます」を何度も言いはじめた。それぐらい龍星は純粋にうれしかった。
 あとは合流する日時と場所を決め、そのときを待つだけである。テンションが高くなった龍星は、態度はおろか声にもよく表れて、雪解けして頭が出た(たけのこ)のように春を迎えられたわけであった。
 こうして、10分足らずの長くて凍結してしまいそうになった話し合いは無事円満に終わった。電話を切る直前に、龍星はていねいに上体を折って一礼をした。月城さんもそれにならって一礼し、受話器を置いた。モニター画面がふたたび黒一色に染まった。
 「龍星」
 龍星は後ろから声をかけられ、振り返る。戸口からそっと席に戻った諸刃がスタンバイしていた。
 「やったのう」
 諸刃が左手で猪口を掲げる。それにたいして、龍星はしたり顔とガッツポーズのセットで応じた。
 「やったぜ!」
 龍星のそのかけ声が合図であったのか、店の戸口が大きく開かれ、大勢のおやじがおとなげない声で「酒解禁キターーーーーーーー(・∀・)ーーーーーーーー!!」と叫びながらはいってきた。そのあとに明美が、「あははは……」ととぼけたような笑いかたをしながら帰ってきて、最後に腫れた両頬にひっかき傷が加わったこの酒場の店主が、「誤解はなんとか解けたが、何だこの運命のいたずら……」とぼやきながら戸口を閉めた。
 居酒屋「鮫肌」の若い主人とその幼なじみはそそくさと厨房にはいり、ありったけのビール瓶と焼酎瓶を各座敷のテーブルに置いていく。待ってました、と言ったおやじがどこの誰だかはわからなかったが心底楽しみにしていたらしく、早々に(かんぬき)でふたを開け、仲間のグラスに注いでいく。
 全員のグラスが満たされたのを確認してから、本人の意思に反して顔面の凶悪さが割増ししてしまった鮫吉が、龍星の旅立ちを祈るかたちで祝杯の音頭をとった。
 「皆さん、大変長らくお待たせしました!
 無事に龍星の交渉がきれいに終わりましたので、ようやく今日一日の疲れを酒で流すことができましょう! ただ空虚な時を過ごすかたちにさせてしまいましたのは不徳のいたすところ!
 そこで今夜かぎりは酒代を免除することにいたします!!」
 「ウオオオォーーーーッ!!」
 青年といわれる男子の末期に突入した鮫吉の、気前のよい出血大サービス宣言を受けて、おやじどもの頬は上気して真っ赤になった。やや投げやりに聞こえた気がするが、双方の頬の染まりかたが健全であるかないかのちがいが可笑(おか)しくて語気が強まってしまっただけだろうと、龍星は思うことにした。
 「それでは皆さん、カンパーーーーイ!!」
 かくして、男だらけのむさくるしい宴会がはじまった。
 龍星は店の壁かけ時計を見た。午後8時半。明日の出発時間は朝5時。その30分後に出航する船に乗ってホウエン地方を発つのだ。
 ずっと放っておいた浅漬けのキュウリとハクサイを一気に頬張り、財布から千円札を1枚引き抜く。
 「いらねえよ」
 そこで、タイミングを見計らっていたように鮫吉が断ってきた。
 「いや、オレのせいで見栄を張るしかなかったんだろう」
 「そんなしみったれたことなんざ気にするな。出血大サービスにすることを選んだのは俺だし、その責をとるのも俺だ。お前は、明日に控える仕事のことだけを考えていればいい」
 「鮫吉……」
 男らしいいでたちで、男らしい包容力で、男らしい台詞を堂々と言ってのけるさまは、同性である龍星の胸をきゅんとさせた。そのときの感情をいま、鮫吉に知らせたら気味悪がられるだけなので言いはしないが、先の電話でのやりとりで醜態(しゅうたい)をさらした身としては、憧憬(しょうけい)の念を抱いてしまっても不思議ではなかった。
 「よかったな」
 思春期のど真ん中で海魔家と過ごすことになった龍星は、少なからず鮫吉のことを兄のように慕っていた。実の兄弟だと言い張るには何もかもがちがいすぎて、論破(ろんぱ)することは不可能であったが、ちがいがあるからこそ、自分には足りないものを兼ねそなえた者にたいして尊敬することができた。口の悪さと愛想(あいそ)のなさが玉に傷ではあるが、それ以外は龍星の能力ステータスをはるかにしのいでいた。
 「本当に、よかったな」
 「……ああ!」
 なんだか目頭が熱いと感じた龍星は、ミネラルウォーターをおかわりして、感激の涙ごと飲み干した。
 「龍星」
 今度は姉の明美が鮫吉の背後からひょっこり顔を出した。今日にかぎってはどじを踏んでばかりいたが、普段は明朗快活と意気揚々とが手を取り合ったような雰囲気の健康美人である。弟より色の濃い髪を優雅に揺らしつつ、陳腐(ちんぷ)だが常用されやすいエールの言葉を贈った。
 「しっかりやりなさい」
 「おう!」
 それから龍星は千円札を財布に戻し、明日の身じたくを備えるため、「鮫肌」をあとにすることにした。すっかりできあがった諸刃と握手を交わし、呂律(ろれつ)の回っていないおやじたちの声援が龍星の背を後押しした。
 最後に龍星が振り返って、手を軽く挙げると、「いってらっしゃい」の大合唱が店内に響きわたった。
 あたたかいひとときだ。龍星は今度こそ前だけを見て、自宅のあるカイナシティへと帰っていった。

野村煌星 ( 2015/02/22(日) 00:36 )