第一章
困ったときはお互いさま
 年中おだやかな気候を迎えるホウエン地方の南西にはムロタウンという小さな村がある。外来者がほとんど訪れず、「辺境」という言葉がしっくりところである。それを裏付けるかのごとく、村の総人口はきわめて少ない。
 だが、少人数であるがゆえに、住民たちは家族ぐるみの付き合いができた。ゆえに、都会ではあまり聞かなくなった「困ったときはお互いさま」の精神が芽生えないということは、彼らにとっては非常識であり、度しがたい価値観であった。
 「自分の身は自分で守れ」というもっともらしい台詞(セリフ)を吐くのが好きな自称常識人は、自分が窮地に立った際、即座に救難信号を発信する。他人はどうなってもかまわないが、自分は社会に有益をもたらせるのだから助かっていいはずなのだ、と、たるんだ面の皮のことなど気にせずに放言するのだ。親の保護下から離れて自分の力で生きていくという意味であるなら、だいたいの人が避けられないので合点がいくのだが、社会で生活していくのに自分ひとりの力で切り抜けていけると思うのは自負心が強すぎるであろう。
 社会の最小単位は、社会学の場合、「わたしとあなた」だ。社会に出る、という言いかたをすると、あたかも世界へと羽ばたくかのような緊張感と高揚感に見舞われそうになるが、家族の誰かとコミュニケーションをとろうとするだけで社会は簡単に生まれる。何人かの友人とアミューズメントパークへと遊びに行ったり、恋人を連れてディナーショーに出かけたりと、部屋にこもるなどしてひとりにならないかぎり、相手がいれば社会は成立するのである。むろんポケモンにも社会は存在する。人間とともに暮らす者、自然界に身を置く者、じつにさまざまである。
 いずれひとりになってしまうのは疑いないとして、それまで自分の力で生き残るのはほぼ不可能だ。自分にできないことは自分以外の者に委託し、相手に頼まれれば可能な範囲で引き受けてやる。「自分にできないことはない」と思うのは勝手だが、できもしないことをできるという自己肯定は将来の自分に禍根(かこん)(のこ)すことになる。先の常識人のように自分の力のみを信じて、他者に頼ろうとしない姿勢は、思わぬところで人生のぬかるみにはまるであろう。
 それはさておき、ムロタウンには情報交換の場として物置小屋のような建物がある。ゴシップのたぐいが好きな奥様方や、都会ではやっている言葉を聞いて共有を図る若者たちが、日の出ている時間帯に足を運ぶ集会所である。首都圏の流れについていけている自分たちを褒め合うさまは、地元の特色に誇りをもつ者たちから見れば滑稽であった。同じものを共有しようとする心理は理解できないわけではない。自分たちだけの色が絶対ではないし、何より自分たちの考えかたが正しいのかどうかをたしかめられる指標にはなりえるのだから。だが、都会の人口密度は比較するだけ損なほど高く、日常的に使用する人の数が多いと、たとえ一過性の語彙であっても正しいように思えてしまって、共有するというより義務づけられたものを守るほうに目的をすり替えられてしまうのではないか。同調圧力によって精神的全体主義の極致を目指そうとする者たちの思惑にやられてしまうのではないか。同調にたいして危機感をおぼえる人々は、そことは異なる時間帯に別の場所で姿を現す。
 居酒屋「鮫肌」。ムロタウンゆいいつの酒場である。そして生まれ故郷をこよなく愛するおやじどもの集会所でもあった。仕事に集中しているときはけっこうまじめなことを胸中に秘めている彼らだが、その日の仕事が終わると、顔を真っ赤にしながら鷹揚な声でしゃべりはじめるのだから、ちっとも説得力がなくなる。いかに己の信念が固いかを女房に語ったところで、「はいはい」と不まじめに返されてしまうのであった。
 午後6時。店の主人は戸口にかかった「準備中」の札を裏返して、1匹のポチエナにいつもどおり門番を頼むと、店内のカウンターテーブルに突っ伏す男の頭を小突いた。
 「時間だ。そろそろ来るおやじさんたちの気分を損ねさせるような座りかただけはなんとかしやがれ」
 「……もうそんな時間なのか」
 男は上体をなんとか起こしたものの、辛気くさいオーラを払うのは難しいらしく、テーブルに右肘をついて額にあて、気難しそうな表情を崩そうとしなかった。透明な飲料が半分はいったグラスを弄ぶようすを見やると、店主は皮肉まじりの語句を告いだ。
 「演出過剰もいいところだな。商売人の観点でいえば無益に等しいんだからよ」
 「明朝出発するんだ。はじめての圏外出張でしくじるわけにはいかねえんだよ」
 「すでにしくじったろうが」
 「……どうすればいいんだよ」
 男は深刻さを隠すことなく盛大なため息をついた。1時間前に出してくれたキュウリとハクサイの浅漬けは、ファミリーレストランの入口の前に飾られたレプリカさながらに放置されたままで、この店がおもに提供する酒っぽいそれはただのミネラルウォーターである。グラスにたっぷりはいっていたはずの氷はすっかりとけてなくなり、おかわりいらずのセルフサービスと化していた。
 男は右手の位置を桜色の頭髪のほうに移し、左手も添えて抱え込んだ。そもそも何について悩んでいるのかというと、彼が明朝に出かけるところでの宿の手配が不十分で、短期滞在にもかかわらず、拠点とする場所がなくなってしまったことだった。彼はポケモンレンジャーであり、名を天ノ川龍星という。
 出生地は都市部のカイナシティ。ポケモントレーナーの父とポケモンブリーダーの母、同じくポケモンブリーダーの姉の4人家族であったが、彼がポケモンリーグ決勝戦に挑む前日、サイユウシティにある会場へ応援に駆けつけようとした両親が海難事故で亡くなってしまった。そのときいっしょにいた姉は助かったものの、無念に終わった悔しさが絶えず、弟の龍星につらい現実を知らせるまで哀しみの咆哮をやめなかった。両親の訃報を聞いた龍星は、まだ多感な12才の少年であった。残された幼い姉弟は幼なじみの海魔家に引き取られ、10年近くの時をともに過ごした。その幼なじみこそ、いま目の前で龍星と付き合っている店主・海魔鮫吉その人である。
 そして現在、弟の龍星は独立し、かつて家族4人で過ごしたカイナシティの実家でひとり暮らしをしている。両親の亡骸は手厚く葬られ、公共の墓地ではなく、庭の片隅に父と母が寄りそえるように業者に設けさせた。10歳で成人になり、亡き父と同じポケモントレーナーとして旅をするようになってからまともに顔を合わせたのはいつの日であったか。たしかな愛情を受けて育ったのは間違いないが、無限に積み重ねられていく日々の地層に埋もれて記憶の化石へと変化する過程を断つことだけは、どうしても抗えない。皮肉なもので、忘れたくない思い出は知らず知らずのうちに消えてなくなっていることが多い。当時の情景を懐かしむために写真や映像を残しておこうとするのは人類の知恵であり、ある意味では賢い判断ではある。が、(よわい)21という青臭さ全開の龍星が、「昔はよかった」などと嘯くのは、人生経験を多く積んできた功労者たちの顰蹙(ひんしゅく)を買うだけだ。自分が生きているかぎり、苦楽の波が寄せては返すのだから、そう易々と悲観してもらいたくはないのである。むろん龍星はそんな人生観を持ちあわせてなどいないし、今後も拾う気はなかった。
 戸口が陽気な音をたてて開いた。一人めの常連が暖簾(のれん)をくぐってはいってくる。
 「おお、龍星が一番乗りか」
 「いや、こいつは客のうちにカウントしてないから」
 「そうかそうか。それじゃわしがいつもどおりの首位というわけじゃな」
 やたらと順位にこだわる白髪の老人が、「かっかっか」と快活に笑ってみせた。
 「いつものを頼むよ」
 「わかりました。今夜はよく冷やしておきましたよ」
 鮫吉は冷蔵庫から1本の酒瓶を取り出した。ラベルには「月の雫」とある。たったいま訪れたこの老人の愛飲する酒だ。
 「ありがとうよ」
 ガラス製のとっくりにきんきんに冷えた酒がテーブルに用意され、老人は謝礼を述べてから席についた。左隣には酒の気分を台無しにしそうな桜色の髪の男がいた。
 「なんじゃ、酔いがまわったのか」
 「奴はしらふですよ」
 「そうなのか。龍星よ、何があったのじゃ」
 老人はその日の1杯めをなかなか呷れないでいたが、傍から見れば祖父と孫の語らう図画みたいな状況で自分自身の欲望を優先するわけにもいかなかった。いくら酒好きでもやってはならないタブーにふれるのは矜持に反するらしい。
 それに気づかないわけがなかった龍星は、1時間前に年上の幼なじみに話した内容を反復して答えた。老人の反応は鮫吉とあまり変わらないものであったが、ひとつの提案を掲げてきた。
 「寄宿(きしゅく)ですか……」
 「まあ、宿まではいかずとも食ぐらいはなんとかなりそうな気がするんじゃが」
 「しかし、それが通用するのは身内か旅番組のリポーターぐらいですし、赤の他人を急遽受け入れてくれる人というのは、このご時世にどれぐらいいるでしょうか」
 「昨今のテレビはホームドラマをあつかうことが少なくなったしのう……」
 ひと昔前の時代であったら迷うことなく協力してくれる人が多かったかもしれない。最近では近所付き合いが希薄になり、町内会やら村民会やらが途絶えて久しくなってしまった。ここムロタウンはそのような世間の風潮に流されずにすんではいる。それが救いであるかどうかはわからないが、老人のアイデアが通る可能性が低いのは否めなかった。
 「世知辛い世の中になったもんじゃな……」
 ガラス製のとっくりの底に、少しずつであるが、水がたまりはじめている。店の中の温度のおかげで楽しみにしていた酒が常温に戻りつつあるようだった。ほのかに香る酒の独特のにおいが先ほどから老人の鼻孔(びこう)をくすぐってはいるが、店内で最年少の人物の問題が解決するまでは味覚を満足させられそうになかった。とっくりと老人の架け橋となるはずだった猪口(ちょこ)の存在が寂しそうであった。
 あいかわらず頭を下げたまま沈黙をつづけている龍星に苛立って、鮫吉が重量感のある音声で叱った。
 「おい、お前のために考えてくれている諸刃のじいさんが飲めないでいるのに、飲んですらいねえお前が何もしようとしねえでどうする!」
 鮫吉の言うことはある一面においては正しかったが、黙りこくっているからといって何もしていないと決めつけられるのは心外だった。彼なりに冷静さを努めつつ考えをめぐらせていたのだ。そして諸刃のじいさんこと黒鋼諸刃が提示した意見に、龍星は賛成であった。だが現実は彼らの都合どおりにいかないこともわきまえており、議論はいちからやり直しとなったわけである。
 「まあまあ、いちばん困っておるのは龍星じゃろう。当事者でない者が声を荒げてもしかたがない」
 「……迂闊でした」
 「じゃが、龍星もただ手をこまねいてばかりではいられまい。何か考えがあるなら言うてみい」
 さすが御年70才というべきか。思慮深い言いかたで若者たちを諭す黒鋼諸刃は、かつては凄腕のポケモントレーナーであったそうだが、ともに冒険した仲間のほとんどが先立ってしまい、いま現在はヒカルという名のピカチュウとともに、死神の宣告から逃れて必死に生きのびているところであった。
 話をふられた龍星は、とりあえず粘っこい口中を洗い流すべく、ぬるくも冷たくもない2分の1の量の水がはいったグラスを空けた。
 「鮫吉の知り合いはあっち≠ノいないの?」
 あっち≠ニは、これから龍星が向かうシンオウ地方のことだ。ポケモンレンジャーとして遠征する理由は、ポケモンとの関わりを強めるきっかけを作ったオダマキ博士に調査を依頼されたからであった。ホウエン地方の各地にある砂漠の遺跡=A小島の横穴=A古代塚≠ノ封印された3体の伝説ポケモンと深い関係のある存在が、シンオウ地方の最北端にある村の神殿に眠っているそうで、そのポケモンのDNAを採取してほしいというのである。クエストの内容じたいはシンプルなのだが、オダマキ博士が龍星だけに願い出たのはさらなる根拠に基づいてのことだった。
 おさまりの悪い桜色の短髪を惜しげもなく見せつつ、虚ろな目と覇気のない口調で問うた龍星に、鮫吉は腕を組んで「(いいや)」と答えた。
 「……打つ手がねえじゃん」
 ではポケモンセンターに宿泊を請うのはだめなのか、と、鮫吉は尋ねたが、あそこはポケモンの医療施設であって山小屋ではないと否定され、苦笑いするしかなかった。
 「まあ、親父の知り合いだったらいたかもな。「鮫肌」を開く前は漁師だったし、他の地方の船乗りの方々と飲んだことがあったらしいから…………!」
 途中で声のボリュームが落ちていった鮫吉を見て、龍星と諸刃は同じタイミングで顔をしかめた。ただし両人が怪訝な表情を作った理由は正反対である。
 「いや、待てよ、たしか俺がガキの頃、親父に連れられてシンオウ地方に住む船乗りの方に会ったような…………!」
 鮫吉とはじめて会った人の8割が、どこかの暴力団の幹部かと思われるくらい、彼は「強面(こわもて)」以外の言語表現が見つからない容貌をしている。いまの鮫吉は眉間にしわを寄せてしまっていて、さらに人相が悪かった。片目をつぶって威嚇されるよりおっかない怖さがあり、人によっては魔獣に見えたかもしれなかった。
 「鮫蔵の奴の電話帳に(のこ)っておらんのか」
 「ちょっと待っていてください。奥にあるはずなので探してきます」
 そういって鮫吉は厨房の奥に引っ込んでいった。裏口の閉まる音がした。
 「ふう、活路が見えてきたかもじゃのう、龍星」
 そろそろ我慢の限界が近いのだろうか、諸刃がとっくりを傾けて猪口に注ぎだした。開店時刻からとうに1時間が過ぎようとしている。そもそもの発端は自分の手配ミスであるというのに長々と付き合ってくれて、龍星は頭の下がる思いがした。
 「あ、ありが…………!」
 感謝の言葉は中途で断絶された。諸刃が左手を大きく開いて突き出してきたのだ。拒否のサインであった。
 「礼はいらんぞ。わしは、わしが正しいと思ったことをしたまでじゃ」
 「……それでも言わせてよ。こうも中途半端だと格好がつかない」
 「かっかっか! それもそうじゃのう」
 旧くからの付き合いだからこそ、互いを尊敬し認め合える。龍星と、その仲間たちはそういう間柄であった。

野村煌星 ( 2015/02/23(月) 11:31 )