サヨナラ
「煌良」
次に声をかけたのはあの岩村枹大だった。この場にいる全員に緊張が走る。これから告げることを察したのか、煌良が上体を起こそうとした。
「痛っ!」
褥瘡の激痛が効いたらしい。両瞳をぎゅっと瞑って
悶絶する煌良を、鮫吉と明美が片側ずつ支えてあげる。
「ごめんなさい……」
ふたりに気遣わせたことを謝ると、鮫吉は首を横に振って拒否した。
「そこはありがとう≠フほうがいいぜ」
「うん。あなたを支えたのは私たちの意思なんだから」
心強いフォローが煌良の表情筋を緩ませ、自然と
口角が上がる。
「ありがとうございます……!」
煌良の腕を
脇からはさむようにして支え、鮫吉と明美は彼女の近くに座した。煌良の視界がひろがり、幼い頃からの付き合いがあった青年の告白に応えられる姿勢をととのえる。
秘輝が小さなルナの身で龍星に近づいた。
『おそらく、枹大くんはもう二度と逢わない気でいるのだろうな』
「でしょうね」
未練がましくて弱かった過去の自分との
訣別。彼の瞳には煌良と、自分自身が映っていた。
「煌良、僕は子どものときからずっと君のことが好きだった。大好きだった……はずなんだ」
「…………」
煌良は真剣に枹大の言葉を聴いている。
「でも、どこかでボタンのかけちがいがあったのだろう。僕は幼なじみの皮をかぶった
道化師になっていたんだ。大好きなのに踏み出せない。大好きなのに恐怖じみた存在だと思うようになる。もう
煌良のことが好きなのかどうかも、僕はわからなくなっていったんだ…………」
恋に恋した男といえばいいのか。
相手に興味がないことはないのだが、どのようにアピールすればいいのかがわからない。とりあえず自分自身を磨いていけば自然と振り向いてくれるはずだ。そう思い込んで動いたまではよかった。
しかし、そんな自分に
陶酔して、いつしか自身の努力を自分で褒めるようになるのがあたりまえとなってしまった。そこには好きな
相手の存在などなかった。はじめから存在していなかったのだ。
恋は盲目≠ニいう語句が、枹大青年の脳内を
掠めたのだろうか。理性をなくし、分別を失い、本質を狂わせ、真実を歪めて。龍星という
邪魔者がはいって、彼はようやく気づいたのかもしれなかった。
時計の短針が7を差した。
「煌良が僕のことをどう思っていたか。いまの僕に知る権利はない。臆病者で、卑怯者で、邪魔者でしかない僕は、
煌良とはもう逢わないほうがいいのだろうね」
「そんなっ!?」
煌良が悲鳴に似た声をあげたが、枹大青年がひるむことはなかった。
「僕はもう逃げない。逃げないから、煌良も目の前の幸せから逃げないでほしい」
「……………………」
枹大は赤いヘルメットをとり、一礼した。それが関係性を断ち切る
合図となった。枹大は何も言わずに部屋を出ていく。
煌良が、「待って!」と勢いのない叫びを放つと同時に、細くなった腕をのばしたが、枹大が振り返ることはなかった。
人によっては一方的な
絶交宣言に聞こえたであろうことは疑いなかった。「逃げない」といっておきながら、
煌良の返答を聴く態度をとらずに去ってしまった。その場に居合わせたまではよかったのだが、どうしても自分を守ることを優先させてしまうあたり、
枹大に新たな出会いの芽が萌えるのはずっと先になりそうであった。
そんな息子の生き急いだ行動に耐えかねて、父親の冬瓜が謝罪を申しいれた。
「すまないな、煌良ちゃん」
「……おじさま」
左右の瞳からこぼれ落ちる涙が、白くて温かいかけ蒲団を湿らせていく。
「あいつはどこまでも不恰好で不器用な
息子だよ。あんまりな別れかたをされたら傷つくだろうに」
「いえ、おじさま、このほうが枹大くんらしくていいです」
「おいおい、あんなやりかたで貫いた
枹大を赦すのかい」
「……わたしはずっと枹大くんが何を考えていたのかがわかっていませんでした。わからなかったから近寄りたくなかったし、あの態を地で行くのならそのほうがいいと思ってもいました。
でも、あの枹大くんが覚悟を決めて打ち明けてくれて、なんだかほっとしたのです」
「えっ、ほっとしたのかい?」
「はい」
何も言わなくても心が通じ合う関係なんていうのはよほどの時間をいっしょに過ごして、かつ会話を重ねないとたどりつけない境地である。
加えて、そう考えるのはたいがい男のほうである。女も感づいてはいるのだが、いちおう確認をとるという名目でおしゃべりして
親睦をより深めたいものだった。
ということで、煌良の「安心した」という声に共感したのは明美なのであった。
「わたしたちとの関係が自然に消滅するより、どちらかが表して別れたほうが後悔しなくてすみますから」
「そうか……」
「ですから、枹大くんなりにけじめをつけたことをおじさまが気に病む必要はないのですよ」
「……そうだな」
煌良はやはり月城秘輝の娘なのだと、岩村冬瓜氏はあらためて思い知った。多少は心揺れたであろうが、すでに彼女は前を向いて歩こうとしている。ひょっとしたらいまは気が張っていて、
脆い面を人前で見せないようこらえているのかもしれないが、この気丈さはぜひ見習いたいものだった。