幻影
強くなるため、有名になるため。恵まれた環境の生まれでも無ければ、才能があったわけでもなかった俺は、ただひたすらに努力し続けた。
技を磨き、身体を鍛え上げ、いかなる時も冷静かつ的確な判断で相手を倒す。俺の求めた理想のポケモンだ。誰にも負けない、最強のポケモン。
俺自身も指示する側として常に成長を目指して鍛錬を積み重ねてきたつもりだった。
相手の技を知り、癖を読み取り、ポケモンの死角をカバーする指示を出してやる。実際にその成果も現れてきていた。
バトルの勝率もぐんぐんと上がり、いつしかトレーナーの間でもそれなりに有名になっていた。だがまだ「チャンピオン」と呼ばれる地位にはほど遠く。
立派なトレーナーになる、そう言って元気に旅立っていった、幼い俺の見ていたあの広い世界。それが今は随分と狭まってしまった、そんな気がした。
見えるもの、見ているものは最強の座ただ一つ。バトルの楽しみも何もない。手持ちのポケモン達との触れ合いもいつしかほとんど無くなって。
回復はいつもポケモンセンター。それも瀕死寸前になってからしか足を運ばない。
時間の無駄は徹底的に省き、朝から晩まで、ひたすらバトルに没頭していた。それこそ、ポケモン達が疲れ切って倒れる寸前まで。
俺とよくじゃれ合っていたポケモン達も、そんな俺を恐れるようになり、俺と目を合わせることも少なくなった。
皆とわいわいがやがや大冒険をしていたあの時の笑い声、鳴き声が懐かしい。
しかしそんなことはどうでも良かった。俺に見えていたのは戦うことただ一つ。そしてそこでヘマをするポケモンがどうしても許せなかった。
当然失敗すればひたすら叱る。時には多少の暴力を振るったこともあった。
トレーナーたるもの強くなくてはいけない。強さこそがトレーナーに必要なもの。そんな思いしか抱(いだ)いていなかった。
今思えば、どれだけ自分が愚かだったことか。悔やんでも遅いのは分かっている。それでも悔やんでしまう。
……あんなことになったのは、何も見えていなかった俺の所為。
ここはどこだろう。いつの間にこんな所に来たんだろうか。寝ていた記憶もないのだが、なぜだか瞼は閉じている。
そして身体はまるで水中に浮かんでいるかの様に、ふわふわと浮かんでいる感覚がした。
「……まだあのことを悩んでるの?」
誰かの声。目を開けるとそこには白黒灰の身体をした大きな鳥ポケモンが。
鶏冠の朱色の先端が二つに分かれている、ちょっと変なムクホーク。俺はその姿を、恐らく誰よりもよく知っていた。
そして、誰よりもよく知っていたからこそ、何故目の前にこのムクホークが立っているのか、その理由を全く理解することが出来なかった。
なぜなら絶対にあり得ないからだ。そう、だって彼女はもう……。
声の主はどこだ。そいつならきっと何か、このことについて知っているに違いない。
俺は辺りをくまなく見渡すが、この不可思議なただの空間には本当に何も無かった。彼女以外には、何も。
「ああ、そっか。誰か居ないか探しちゃうのも無理ない、よね」
声のする方向を向いた。誰もいない。彼女はいる。彼女の口は声の主が喋るのに合わせて開いたり閉じたりしている。
まだ俺には納得できない。理解は出来ても、こんなこと納得できるはずもない。
喋る? ポケモンが? どうして? そんなはずはない、現実にこんなことが起こるわけが……現実?
ああ、そうか。この不可思議な空間は現実じゃなく夢なのか。これが意識のはっきりした夢、いわゆる明晰夢という奴だろうか。
それならば全て合点がいくじゃないか。彼女がここに居る理由も、喋る理由も、全部。
「一応言っておくけれど、私は幻影。それ以上でもそれ以下でもなく、ね」
「幻影って……幽霊とかの類か?」
幻影というとそんなイメージだったのだが。彼女は頷いてくれない。何故呆れた表情をされないといけないんだ。
幻影、幻影……と、頭の中を探ってみる。ひょっとしたら過去どこかでその言葉に出会っていたのかも知れない。
しかしそんなに多く思い当たる節はないし、それと彼女とが結びつきそうな気もしなかった。
「げ・ん・え・い。分かる? 今は貴方の望む形をしているだけなの」
「幻影……ゾロアークとか?」
今度は笑われた。こっちは大まじめだというのに、何も笑うことないだろう。
「幻影は幻影。私にはそうとしか言えないから」
「……夢、ってことにしとくよ」
やれやれ、とでも言いたげな目だ。しかしそれ以上突っかかって来ることはせず、彼女はそこでただ黙って佇んでいるだけ。
時折翼を繕うその仕草も、何から何まで彼女そのものだ。やっぱり彼女には違いない。
身体に傷もなく、元気な彼女を見るのは随分と久しぶりのこと。本当は今にでもその胸に飛び込んで抱き締めてやりたい。
だが、今の俺にそんな資格はない。そもそも彼女は、きっと俺のことを憎んでいるはずだから。
「……救われたいんでしょ? その為に私はこの姿をしているんだから、遠慮は要らないよ?」
彼女は一歩こちらに踏み出してきた。少し近くなる距離。触れたい、という思いをぐっと堪えて、俺は出しかけた手を後ろに引っ込めた。
ここで触れても、何も解決しない。俺が求めているのは。
「救われたい、か。そうだな。俺はお前に許しが貰いたい。……楽になりたいんだ、俺の犯した、罪から」
渾身の"ブレイブバード"。オーラを纏ったムクホークが、四本の腕を持つ巨体を吹き飛ばす。
地面で数度回転し、仰向けに伸びたその身体が、もう起き上がることはなかった。
「……勝負あったな」
バトルの相手、どこぞの青年が多少残念そうにその巨体に向かってボールを差し向ける。赤い光の筋が巨体を包み、それがボールへと吸い込まれていった。
差し出された賞金をひっつかむと、俺は未だに起き上がってこないムクホークの元へと歩み寄った。
まだ戦いを始めてから2時間も経っていない。まだへばるのには早すぎる。だというのに。
「何をやってる、立て。……使えない奴だな、くそ」
よろよろと起き上がってきたものの、とても戦えそうなコンディションではない。
今日はこいつを鍛えるために綿密な予定を立ててきたのだが、このままでは全てのメニューをこなすことは出来そうにないな。
"ブレイブバード"は確かに使い手の体力を消耗する技だ。しかし、こいつはまだまともに攻撃を食らっていない。
そんな状況で、二度"ブレイブバード"を放っただけでこんなに体力が削られるとは情けない。
募るイライラを足に込めて、軽く翼を蹴り飛ばす。
震えていた足はその身体を支えきれず、蹴り飛ばした方向へその身体は再び倒れ込んだ。クルル、と力なく鳴くその声が腹立たしい。
「……休みたいなら休ませてやる。ただし、自分でポケモンセンターまで飛んでいくんだな」
再び立ち上がったムクホークの背中に乱暴に跨る。立ち上がるだけの元気はまだあるんだ。
どんどん戦わせて、もう少し体力を付けさせないとこの先戦力として使えなくなってしまう。
こいつはなかなか優秀な個体。鍛え上げれば恐らくかなりの戦力になるはずだ、と育て始めたのは良いが、どうも体力に難がある。
その弱点を補うためにも、今は経験をひたすら積ませる必要がある、そう考えたのだ。
翼が大きくはためき始めた。やがて足が地を離れ、徐々に空高くへと舞い上がっていく。
やはり体力が厳しいのか、多少姿勢制御が甘くなっているが、これ以上言ったところでどうにもならないだろう。
眼下に見える道路を後にして、最寄りのポケモンセンターへとムクホークは空(くう)を切る。
傷だらけの身体だが、ポケモンの生命力はたいしたものだ。なにせ瀕死になっても一部の技は使える。
もちろんこの"そらをとぶ"も例外ではない。いずれは別の技を覚えさせることになるだろうが、今はこれを覚えてくれていた方が便利というもの。
ふわり、と身体が浮く様な感覚。どうやらムクホークが徐々に高度を落とし始めたみたいだ。
ポケモンセンターも見えてきた。いつもより時間が掛かっているが、そこも目を瞑ることにしよう。全く、手のかかる奴だ。
ポケモンセンターのちょうど入り口のところで地面すれすれの高度に。そこで俺は背中から飛び降り、ポケモンセンターの入り口のちょうど目の前に足を付ける。
後はかざしたボールに向かってくる彼女をボールの中へと収めるだけだ。だが、いつもなら舞い戻ってくるはずのムクホークが一向に来ない。
少し奥の方を見ると、力なく翼を広げたまま倒れているムクホークの姿があった。手の掛かる奴だな、とイライラしながらその場へと駆け寄る。
ムクホークを気にして集まってきた野次馬数人を押しのけて、倒れたムクホークに手を触れた。
その時ようやく、俺は事の重大さを理解した。ムクホークの呼吸が明らかにおかしい。
こんなか細い呼吸をしている彼女を見るのは初めてだった。しかも嘴の端からは紅の液体が零れている。
「……お、おい、大丈夫か? おい?!」
……後のことは覚えていない。必死になってポケモンセンターに彼女を運んだような気もするし、俺以外の誰かが運んでいった気もする。
ただ、俺がはっきりと覚えているのは、ジョーイさんから聞いたたった一言だけ。
「残念ですが、もう……お別れ、です」
あの時俺が体調の異常に気づいていれば、あそこまで無茶はさせなかっただろう。
そもそも俺がもっとポケモン達のことを気遣っていれば、あんなことになっているはずはなかったんだ。
後悔は今でもしていた。もちろん後悔したところでどうにもならないのは分かっているが、それでも後悔せずには居られなかった。
それほど俺自身がやってしまったことに対してのショックは大きいものだったんだ。
あれから俺はトレーナーとしての夢を捨ててしまっていた。強さだけを求めるのは間違っていた。
そう思うと、もう戦うことが……ポケモン達を戦わせることが怖くなった。もしかしたら、また――。
結局、今まで傷つけてしまっていたポケモン達には謝って、別の引き取り手に引き取って貰った。
きっとどこかであいつらは幸せに暮らしているはずだ。いや、そうであって欲しい。少なくとも、俺の所に居たときよりは。
そして残された俺は何をするでもなく、日雇いのバイトで生計を立てて細々と暮らしていた。
罪の意識を背負い続けたまま、夢を失ったまま、ただただ苦しみながら生き続けていた。
俺はずっと、残ったままだったその重荷から解放されたいと、そう願っていた。
だからこそ俺は、彼女に会いたいという実現するはずのない願いを心のどこかで抱き続けていたんだと思う。
「私は貴方のこと、恨んでなんかいない。許すも何もないわ。……尤も、私はあくまで幻影だけどね」
「幻影、幻影って……お前はお前だろ? 確かに実体じゃないだろうけど」
「だから……ま、いいわ。とりあえずもう、悩むのは終わりね。あのことでいつまでもくよくよするのは、もう終わり」
柔らかな翼が俺を抱く。俺は膝立ちになって、胸元のもふもふとした毛に顔を埋め、一呼吸。
彼女の匂いだ。背に乗って空を駆けていたときにほのかに漂っていた、懐かしい匂い。
やっぱり彼女に違いない。幻影だの何だのはどうでもいい。ただ彼女がそこにいる、それだけで俺は嬉しかった。
……ああ、初めて一緒に空を飛んだのはいつだっただろう。いつしか彼女への感謝を忘れていた俺を、彼女はそれでも運んでくれていたんだ。
俺がどんなに厳しく接しても、ずっと付いてきてくれていたんだ。
徐々に毛が湿気を帯びてまとまっていく。もふもふとしていたはずの胸は、いつの間にか濡れて縮んできている。
いつの間にか泣いていたみたいだ。……彼女には迷惑かも知れないけれど、今は少しこのままで居たい。
ずっとどこかへしまわれていた感情が、少しずつ零れて止まりそうにない。
そんな俺の涙を彼女が感じ取ったのか、背に当たっていた大きな翼が、撫ぜる様に上下に動いた。
「我慢はしなくて良いの。全部、全部吐き出して良いから」
ありがとう、の言葉は喉で閊(つか)えて出てこない。代わりに出てきたのは、止まることのない涙と嗚咽だけだった。
夢を失って、手持ちのポケモン達も手放して。まるで抜け殻の様にふらふらとしながら、俺はただそこに生きているだけの状態。
一応バイトをして生計は立てている。このまま死んでしまおうとまでは思わなかったが、生きる意味はどこにも見いだせていない。
全てが嫌になっていた。街中を歩くトレーナーとポケモンを見る度に胸が痛む。あの嫌な思い出が、倒れていたムクホークの辛そうな顔が目の前に浮かんでくる。
だから街に出ても表通りを歩くことなく、出来る限り誰も通らない様な薄暗い路地裏を選んで歩くようになった。
誰にも出会うことなく、ひっそりと生きる様になっていた、そんなある日の昼下がりのこと。
一人のトレーナーだった。ポケモン達もそのトレーナーも、実に幸せそうな顔をしている。
それだけで俺は胸の奥が痛くなった。だがそれと同時に、張り付いた様なその顔に、少し違和感を覚える。
「暗い顔、しているねえ……?」
帽子をしている上に、路地裏の暗さも手伝って、正確な年齢は分からない。だが恐らくまだ20代前半の男だろう。
そいつは不気味な笑顔を浮かべながら、俺の手を掴んで何かを握らせた。何かが入った袋の様だ。
「兄ちゃん栄養足りてないみたいだからなあ……これ飲んで元気出しなよ?」
何かのサプリメントだろうか。訳も分からず呆然と立ち尽くす俺を余所に、その男とポケモン達はふらふらと路地の奥へと消えて行ってしまった。
彼は何者だったのだろう。だが悪い人では無さそうだ。人相だけで人を判断するのはよくないかも知れないが、特に何かを盗まれたわけでもないし、疑う必要もないだろう。
とりあえず、貰ったこのサプリメントを帰って飲んでみるとしよう。確かに栄養が取れていないと元気も出ない、か。
いつかまた心が癒えたら、その時には……彼女や他のポケモンと目指した、最強のトレーナーをまた目指してみたい。
……だから、その日のためにも、俺は。
いつまでそうしていただろう。子どもの様に泣きじゃくる俺を、そっと撫でてくれていたムクホーク。背中を撫でる翼が、そして顔を埋めていた胸元がふっと離れる。
「……そろそろ時間、みたいね。名残惜しいけど、これで終わり。もう二度と、私に会わないでね。……約束よ?」
そんなの嫌だ、どうして、と声に出したつもりだったのに、その言葉も溢れる感情に押し流されて消えていく。代わりに口から出てくるのは、啜り泣く自分の声だけ。
なんで、どうしてもう会ってくれないんだ。やっぱり俺のことが嫌いなんだろうか?
やっぱり俺のことを恨んでいるんだろうか? 会えないんじゃなく、会わないで、と言う理由はどこにあるんだろうか?
「貴方のことが憎いんじゃないの。貴方のためにも、二度と会うわけにはいかないから……。だから、もう悩まないで、今度こそ広く、前を向いて……生きて……」
溶ける様にぼやけていく彼女の身体に手を伸ばしても、もうそこに身体は無くなっていて。
彼女の笑った顔に、嘴に手を伸ばそうとしても、それさえ叶わず。待ってくれ、という声を出す間も無く、鶏冠の先端までもが見えなくなって。
そうして全てが消えたその瞬間。自分の思いも、身体も、全部が勢いよく崩れ去って、闇へ。
「おいおい兄ちゃん、今度はそんなに買ってくのかい? 一度にたくさん使うなよ、下手すりゃ死ぬんだから」
死ぬ? 莫迦を言うな、この薬さえあれば、いつだって幸せになれるんだ。全ての悩みも疲れも吹っ飛んで、自由になれる。
そんな魔法の薬で死ぬ事なんてあるものか。きっとこいつは嘘をついているだけなんだ。
苦しい、辛い。手が震える。早く帰って、買った分の薬を丸ごと全部飲んでしまいたい。
この前一気に飲んだ量よりもさらに多くの薬を買ったんだ、そうすればもっと長く、彼女に会えるはず。
あれだけの量を飲んだのは初めてだった。けれどそのおかげで、今まで見えなかった彼女を見ることが出来た。
俺の部屋にずっと残っていてくれた彼女に、ようやく出会うことが出来たんだ。
それもこれも全部、最初にこの薬を教えてくれたあの男のおかげだった。
最初の一回はただ心地良いだけだったが、量を増やしたおかげで、彼女の幻影……魂を見ることが出来たのだから。
だから今度はもっと、大量に、薬が欲しい。薬が。薬が。クスリが。クスリが。くすり、くすり、くすり――。
――本日未明、元ポケモントレーナーの男性が、自宅アパートで亡くなっているのが見つかりました。
床には大量の麻薬の錠剤が散らばっており、死因は麻薬の大量摂取による急性中毒と見られる、ということです。
現在、警察が入手ルートを探る為に、詳しい捜査を開始しています――
身体が重たくて動かない。どうしてだろう、あれだけ薬を飲んだのに、ちっとも良い気分になれない。
それどころか、何だか意識が朦朧としていて、息をするのも苦しい。
ぼんやりとした意識の中、目の前に何かの輪郭が薄(うっす)ら現れる。
だが俺の残った力では、瞳に映ったそれが一体何なのかを認識することは出来なかった。……何か、喋ってる、のか?
「言ったでしょ? 私は幻影。貴方が許されたいと願ったから出てきた、幻」
「二度と会わないで、って言ったのはきっと……貴方自身が心のどこかで薬をやめたいと願っていたから、じゃないかな」
「……いずれにしても、貴方の表の心じゃない、幻影の私には関係ないけどね。それじゃあ、本物の所へ、行ってらっしゃい」
聞こえていた声が途切れて、目の前の光も見えなくなって。ムクホーク、俺は、おれ、は――。
-幻影- 了