第二十七話:決別の決意
8月17日。
「俺、どうすればいいのか分かんない……」
俺の家に訪ねてきたカズキは、開口一番にそう言ってきた。あの、いい加減で子供をぞんざいに扱う母親が帰ってくるのだと聞いた。それに対して、自分はどのようにすればいいのか分からないと、カズキは言っていた。
そして、避難のために仲良くしている女の子の家に泊まる約束も取り付けたとも言っている。それも一時しのぎに過ぎないが……カズキはそれほど追いつめられているという事なのだろうか。
まず、俺としてもカズキのことはほうっておけず、その子の家への宿泊を終えても状況が改善しないならば、俺の家に泊まれといっておいた。隣の家だから、タイミング悪く親と顔を合わせることはあるかもしれないが、一緒の部屋に居るよりはずっとましだろうと。そう持ちかけると、カズキはうんと頷いた。
そこから先、長い沈黙が流れる。何かを言いたいのだろうけれど、カズキは何も言い出せなかった。考えがまとまらなかったカズキは、なにが分からないのかも分からないと言うことを告白した。それはさっきの言葉と同じく、『俺、どうすればいいのか分からない』という事なのだろう。
『馬鹿言うな、俺だって分からないよ』と、カズキに言ってしまいたくなった。
「とりあえず、母親とその男を、これ以上ないくらいに迎えてやれ……俺も手伝うから、料理と掃除をして、迎えるんだ……」
「……うん」
長い沈黙の後にカズキが頷く。
「それでな……もしそれだけのことをしても、お前の母さんやその男とやらがお前に対してぞんざいな態度を取るようなら……」
口にするのをためらうような言葉だった。
「母さんのことは、もうすべて諦めろ。息子が母親をもてなす気持ちを無碍にするようなやつを、母親と認める必要はない」
希望は持たせないほうが、彼にとってはプラスになる気がした。あきらめたほうがいいことも、この世にはある物だ。
「でも、それって……俺どこに行けば……俺、働けないから1人じゃ生きて……」
「……俺の給料は」
なんだか、弱みを握られているような。弱点をさらしているような気がして言いよどみながら俺は続ける。
「給料は半分以上、貯金している。もとから、俺の手取りは十分ある……給料も高い職場だし、この家の家賃も低い。お前を養うくらいなんてことないし、家政婦の一人でもいれば楽だと思う……お前がその気なら……俺が世話してやったって……いいんだぞ」
そこまで言ってみたが、カズキは何も言い返してこなかった。
気が遠くなるくらい、長い時間を沈黙のまますごしていた。冷蔵庫がヴーンと低い音を鳴らし、時計の針の音が五月蝿かった。
「めし、食ってくか?」
やがてカズキの腹の虫がなったところで、俺は声をかけた。カズキは小さく頷いた。俺はカズキのことが、ひたすら心配だった。
◇
ユウジさんはやっぱり優しかった。あの時、風邪を引いていたあの時と同じ言葉を俺にかけてくれた。
「めし、食ってくか?」
彼の料理は、普通に食べても美味しいけれど、今日は涙が出るほど美味しかった。この人が、父親だったら……そんな風に思わずにはいられないくらいにいい人だった。ユウジさんは、20日の予定を、昼から夜ではなく、夕方から深夜にシフトを切り替えてもらったらしい。
前日になっていきなり休もうとすると文句を言われるが、これくらいならば大丈夫だと笑って、昼間に料理を手伝ってくれるそうだ。それで美味しい料理を作れたとして、それで母さんが心を開いてくれるならばいいけれど、きっと……無理なのだろうということは分かっている。それでも、この最後の望みに俺は賭けたかった。
それがだめなら、ユウジさんの言うように……諦めるしかない。
そのことについて、俺は呆然と考える。諦めたとして、俺は何をすればいいのか? ユウジさんの手を煩わせて生きるのは、申し訳ない気がした。だからといって、他に頼れる大人がいるとしたら、スバルさんくらいしかいない。そんな人たちに、頼りながら生きてゆかないといけないのかと思うと……凄く憂鬱だ。
だからといって、自分は1人だけで生きていけるものではない。ブラックシティならば10歳でも働ける場所くらいあるだろうが……嫌だし。
出口のない答えが、ぐるぐると回りだす。自分はどうすればいいのか、本気で分からないのだ。ユウジさんやスバルさんに頼るのは悪いと思いいつつ、しかしそれしか道はない。その他の道を探そうとなれば、あの腐れた母親と一緒に暮らすしかない?
それは、スバルさんやユウジさんに頼り続けることよりも嫌な選択肢だ……狩りでもして暮らせばいいのだろうか。食費くらいは狩りでまかなえばいいのだろうか。無茶だ……
<カズキ、大丈夫?>
そんな事を悩んでいると、後ろから聞こえてくるテレパシーの念。
「あぁ、アイル……」
我ながら、生気の抜けた声であった。
「だめ……かな。俺、何にも考えられないや……」
<そうか……>
いいながら、アイルが俺のことを抱きしめる。死ぬほど暑苦しいというのに、なんだか少し嬉しかった。
<僕はいつでも、君の味方だからな? だから、辛かったら頼っていいからな?>
「お前、俺より年下のくせに……」
その割には、アイルが言っていることがやたらと頼もしいなと思い、俺は笑んだ。
<それは気にするなよ>
アイルも苦笑する。
「大人びているから。あんまりそういう感じはしないけれどさ……大きい体」
俺はアイルの胸に体重を預ける。ふわりとした毛皮の感触が、暑いけれど心地よい。
「ポケモンはいいよな……すぐ大人になれる……」
<子供の時間が少ないともいえるぞ?>
「うん……もしかしたらそれは、不幸なことなのかもしれない。けれど、少なくとも俺は、早く大人になりたいよ……」
俺が俯くと、アイルはぎゅっと俺のことを抱いてくれた。ゾロアークの獣臭い匂いが漂ってくる……体温が伝わってきて暑いけれど、抱かれているという感触が俺を安心させてくれる。まったく動いていないのに息苦しくなるような、なんだか不思議な気分だった。
頭がぐわんぐわんと上下しているような、不思議な感覚。そのうち、俺はアイルの呼吸で上下する胸に抱かれて、うとうととまどろんでしまう。気付いた頃には食事の用意は出来ていて、料理が盛られた皿から湯気が立ち上っている。
「起きたか、カズキ?」
母さんが、これくらいいい人だったらなぁと、思わずにはいられない。ユウジさんは、本当に俺の理想そのままだった。ただ、普通においしいだけの料理なのに、食べていると涙が出てくる。どうしてこれが普通に手に入らなかったのだと、恨まずにはいられなかった。
8月18日
俺は当日までに料理に必要な材料を買出しに出る。香り付けのために蒸留酒を買おうとしたときは年齢確認が必要だといわれたが、料理に使うんですと泣きついたら、子供の俺でも酒を買わせてくれた。店長も話が分かる人である。
そうして、20日当日を迎えるまでの間、俺は夜も眠れないからクルマユの時にあまり練習していなかったママンの草笛に、強引に眠りに誘ってもらった。戦闘中には使用に耐えないが、夜眠るくらいならば問題なかった。
当日になると、母親を迎え入れるための料理を作る。別れ際ユウジさんからは家の合鍵を渡されていて、もしどうしようもなさそうならば、この合鍵で俺の部屋に入って避難してろという。何から何まで至れり尽くせりなユウジさんに、俺はありがとうと言う。ユウジさんは、どういたしましてと言って笑っていた。
本当は笑っている状況じゃないけれど、明るく迎えなきゃ意味がない。そういうことを理解しているのだろう、表面的なことだけでも明るくしようと、ユウジさんは料理の最中もたくさん話しかけてくる。育て屋のこととか、キズナとの事とか、色々話したけれど、何だか自分が話しているんじゃないような気がするくらい、俺は話に集中できていなかった。
どうしても、どんな顔をすればいいのか? 逆に母さんたちがどの面を下げて家に来るのか、気になってしまう。そんな事を考えて手が止まってしまうと、俺は何度もユウジさんに注意された。考えても仕方ない、今はやるだけやってみるしかないんだと、背中を押してくれる。
最後のチャンスなのだから頑張らなきゃと、気合を入れるしかないのだ。
そうして、8月20日。
「それじゃ、俺は仕事行ってくるから……」
「いってらっしゃい……」
冷めても美味しい料理。暖めなおせば美味しい料理……それらを美味しくできる限り美味しくしてユウジさんは職場へと向かっていった。
母親は、午後10時くらいには戻ってくるという……そして、それまで起きていなさいと母は言う。勝手なものである。10時ということは食事もしているのだろうか……ついさっき連絡があったから、俺には知る由もないけれど……。一口も食べてもらえないとなったら、俺のやってきたことも全部無駄になる。だから、せめて一口だけでもと思うのだけれど……どうなることかは分からない。
待っている時間、ポケモンを出して心を落ち着けてもらえばよかったかもしれないけれど、匂いで何かを言われるかもしれないと思うとポケモンを出すこともためらわれる。だから、俺はひたすら待った。テレビもない部屋で、低い音で唸りを上げる冷蔵庫と時計の音を聞きながらひたすら待った。
そして、待ち焦がれた音がする。足音……男と女性の二人分だった。俺の家の前でその足音が止まる。心臓が握りつぶされそうなくらいに、ぎゅうっと痛くなり、自然と鼓動が早まってゆく。気持ち悪いくらいに緊張して、視界が揺れた。母親は黙って帰ってきた。少しウェーブのかかった、茶色に染まるロングヘアー……タバコ臭い匂いがここまで漂ってきて、服装は長そでなのに、肩のあたりがはだけたふしだらな見た目のもの。なんというか、いかにも男と関係を結んでいそうな、ドラマとかでは男がらみのトラブルで色々巻き込まれる役とか、そういう役割で出てきそうな格好だった。
その右隣には屈強そうな男を連れている。男は、何がいいのやら、強いことをアピールするようにブラックキュレムの刺青を彫っていた。肌はそんなに黒くないところを見ると、あまりアウトドア派ではないのかもしれない。スポーツジムで鍛えたのだろうか?
「……お帰り、母さん」
床から立ち上がった俺が発した言葉は抑揚のない声で、声量も乏しかった。飲み込むつばも出ないほど、口の中が乾いている。
「寝てなさいって言ったのに……。私達は寝室で寝るから、あんたは他のところで……」
男は俺の事なんて眼中にないようだった。俺のほうを睨んでくるだけで、邪魔な置物くらいにしか思われていないのではないだろうか……というか、ただいますら言ってくれないなんて。
「あ、あのね!」
男の視線が怖かったけれど、母親の言葉を遮って、俺は大事なことを伝える。
「俺、母さんのために食事を作ったんだ……もう、食べてきちゃってお腹いっぱいかもしれないけれど……たべt」
「いらない……片付けときなさい」
俺は言葉が出なかった。
「一口だけでもいいから……」
俺も、食い下がる。けれど、それも無駄だった。
「うるせえんだよ、糞餓鬼。とっとと片付けて、隅っこで寝てろ」
あぁ、無駄なんだなと悟った。俺は黙って片付ける。
「おい、何とか言えよ……」
何も返答せずに片付け始めたのが、相当に食わなかったらしい。怒気を込めて男が俺に詰め寄ってきた。
「そんなのどうでもいいじゃん、早く部屋に行こうよ」
母親が言う。どうでもいいってなんだよ……。
「どうでもよくねぇ! 餓鬼のくせに大人を無視するとどういう目にあうか……おいコラッ!!」
それでも無視を続けた俺に、男は掴みかかってくる。俺は肩を掴まれて強引に振り向かされる。
「何?」
たった一言、俺は尋ねる。
「てめぇ、舐めてんのか? ぶん殴られたいのか!?」
決まり文句のように捻りのない台詞と共に、俺は左手で胸倉を掴まれる。
「や、やめなよタカヤ……こいつ、怒ると何しでかすか分からないから危ないよ」
「うるせぇ、てめえは黙ってろ!!」
母さんの制止も聞かず、タカヤと呼ばれた男は掴んだ胸倉を引き寄せる。
「顔殴るの? どうぞ、そしたら俺は警察に駆け込むから……」
俺の言葉で、男は堪忍袋の緒が切れたらしい。
「上等だ!!」
パンチが俺の腹に突き刺さる。けれど、痛みにうめいたのは俺じゃなく、男のほうだ。力任せに腹を殴るつもりだったのだろうけれど、それくらい予想済み。丈夫で軽量な穴あきの鉄板に細かい小石を接着剤でくっつけたものズボンと体の間に挟みこんでいたけれど……本当は役立てたくなかったけれど、役立ってよかった。
「生まれた順番が早いか遅いかだけでさ……」
俺はすかさず膝で相手の股間を蹴り飛ばす。男の弱点にクリーンヒットだ、まず立つことも出来まい。
「こんな風に横暴が許されるの? 殴られても泣き寝入りしなきゃだめなの?」
相手が悶絶して股間を押さえている間に、俺は相手の無事な左腕に、洗っておいたフライパンを取って力任せに叩きつける。三回叩き付けた。縁を当てて叩き斬るように振ったため、えぐれた筋肉からは血が漏れた。
「大人って、年齢が高い人のことを指すわけじゃないだろうがよ……子供を守れるようになって、初めて大人だろうがよ……」
次は足も叩く。腕だけ使えなくしたんじゃ、蹴られるかも知れないから怖い。
「大人だったら偉いと思っているんじゃない……お前より若くて、お前より優しいやつなんていくらでも知ってるぞ!!」
気付けば俺は肩で息をしていた。きっと眼も血走っていたと思う。フライパンは柄が曲がりくねり、もう使用するのは困難な状況になっている。まったく、酷い状況だ。
「だいたいお前は何なんだよ!?」
曲がったフライパンを構えて、脅しにかける。
「気に入らなきゃすぐ殴る……そんな大人が子供の見本なのか? え!? アンケートでもとってみるか? 胸張って大人だって言えるのかよ?」
体中痛いのだろう。それに加えて、ここでヘタなことをいえばまたフライパンで殴られるのが分かっているみたいだ。多分、タカヤとか言う男も自分が同類なのだろう。怒った人間が何をするか分からない事を、こいつは分かっている。だからこそ、男は何も言えなかったのだと思う。
「だんまりかよ……ところで母さん。あんた相変わらずだね」
タカヤのほうへの注視を解かず、俺は続ける。
「自分の子供ほうっておいて、こんな男にかまけるだなんて、どうかしてる……」
「五月蝿いわね!! あんたなんて生まれてこなきゃ今頃……もっと違う人生歩めていたのよ!!」
「今頃? へぇ、タカヤ君だっけ? もっと違う人生を歩んでいたら出会っていなかったであろう男が目の前にいる今、ここでそのセリフを言う? もっと違う人生を歩んで、こんな男とは付き合いたくなかったの?」
「そ、それは……」
本音が出やがった。母親はこの男を愛してなんていない、男なら何でもいいんだろう……少なくとも息子以外の男なら。母親は、眼をそらして動揺していた。
「酷い女だね。俺が生まれていなかったら、このタカヤ君には会えなかったんだよ? 母さんはタカヤ君に、会いたくなかったんだって、酷い女を捕まえたもんだね?」
気付けば俺は笑っていた。母さんは反論できなかった。
「子供がどうして生まれるのか。ポケモントレーナーになっている俺が知らないとでも思ってるのか? 母さんさ、俺に何も話しかけてこないから知らないだろうけれどさ。俺は育て屋の経営者の手伝いを最近やっているけれどね……その人はいろいろぶっ飛んだ人だけれど、ポケモンの交尾はまだ早いからって……見せてくれなかったよ。
あんたは、そんな配慮もなく、俺がいるすぐ近くでズコバコやってたよね……そうやって俺も生まれたんでしょ? 避妊具なんて、便利なものがあるのにさ、それでも子供が出来ちゃったのは、使わないで交尾したわけ? それとも、使い方が間違っちゃったの?」
スバルさんは、正直むちゃくちゃで常識はずれだけれど、あの配慮だけは思えば常識的だったのかもしれない。俺に、交尾を見せようとしなかったのは……
「どちらにせよ、自業自得じゃん……俺が生まれてこなければよかっただって? 甘えんなよ、作らなければいいのに……いや、産む前に堕ろせば良かったじゃない。それも出来ないくせに、他人に責任押し付けるなよ。大体、生まれたってことは避妊対策を甘く見ていたんだろう? 交尾ってものを甘く見ていたんだろ? そんな馬鹿が大人を気取るな」
「あ、あんたねぇ……今まで育ててやった恩を何だと……大体、両親の許可がないと未成年者は中絶なんて……」
「そんなの知るかよ! 両親を説得できないだけの馬鹿が説教を垂れるな!! だいたい、育て屋ではね、『生まれてきてくれてありがとう』って、ポケモンに言うものだよ。あんた、子供に感謝したことなんて一度もないじゃないか? 育ててやった恩? 元気に、健康な体で生まれてきくれたことに対する恩返しも出来てないやつがよく言う……」
驚くほど言葉がすらすらと出てくる。以前、俺が殺した男に言いたかったこと、母親に言いたかったこと。それらがこの機会に爆発したようだ。
そのおかげで、自分の思考がだんだんとクリアになってくる。
「それと母さん。なんであんた、長袖の服を着ているの?」
「これは、ファッションの……」
目をそらして母親が言う。
「……目が泳いでいるよ、あんた。わかっているんだよ、いけないお薬の注射跡が二の腕あたりにいっぱいあるんでしょ? その上、そのせいで食欲がないから痩せているんでしょ? 骨ばった腕なんて虫みたいじゃないか。人間すらやめて、屑の屑にまだ落ちたダニめ。そんなダニが母親面をするな」
「言わせておけば……」
「何、やるの?」
俺がフライパンを構えてみせると、母さんはうっと声を上げて黙り込む。
「腕を見せてよ。注射跡がなかったら、俺のことを何発でも殴ればいいさ。それぐらい失礼なことは言っているつもりだ。腕まくり出来ないのは、あるからでしょう? 注射の跡が……」
母は何も否定しない。出来るはずもない。
こいつらは、殺そう。生かしておいてそ知らぬ顔を出来ればいいけれど、こいつらは絶対に害をもたらす……俺に、そして俺と同じ存在を産み出して害をもたらすはずだ。
「クズはクズ同士仲良くやってろ……」
俺は曲がりくねったフライパンを放り投げ、腹に入れていた鉄板を捨てて外へと飛び出した。もうあの部屋に、いる意味はない……
「まて、この糞餓鬼……」
股間の痛みから解放されたのだろうか、脚も攻撃したからその痛みでよれよれだったけれど、タカヤが立ち上がって追いかける。
「やる気?」
俺はゼロを繰り出す。弱ったやつが相手なら、こいつが一番だろう。ゼロは、一度シャッと短く鳴いて威嚇したかと思えば、目にも止まらぬスピードでカマをタカヤの首にあてがった。そのおかげで怯んだタカヤは動くこともできず、それをいい事にゼロはその足でタカヤの足の甲を踏み潰した。
タカヤは悶絶して足を抱えるが、恐らくポケモンを持ってはいないのだろう、あだ討ちのためにポケモンを出すこともしないし、追いかけてもこなかった。
だから俺は、悠々と歩いて家を後にする。そのまま近くの公園で時間を潰してから、こっそりと合鍵でユウジさんの家に潜り込んだ。電気をつけずに盗み聞きしてみれば、母さんは案の定タカヤから暴力を振るわれている。『お前の育て方が悪いんだ』とか、『あんな餓鬼を野放しにしておくな』とか。
育ちが悪いのはどちらだと言いたい、俺にいきなり暴力を振るおうとしたくせに。そして、いまも母さんに暴力を振るっているくせに……ユウジさんは母さんのことを病気だって言っていたけれど、本当に病気なのかもしれない。あんな男のどこがいいのやら、わけが分からない。
そして、盗み聞きをする限りでは、あそこで性行為に及ぶつもりだったけれど、どうやら今はその気もなくなったらしい。ところで俺の料理はどうなったのだろう……もうしまったのか、それとも放置されたままなのか。
程なくして、結局その気になったのか性行為が始まり、その後寝静まる。ユウジさんはまだ帰ってこない……。
まずは、ママンに草笛をやらせた。クルマユのときに練習していなかったおかげであんまり上手くはないけれど、眠気を誘い、より深い眠りを与えるには十分だ。十分に草笛をかき鳴らしたところで、俺は家の様子をうかがい、入り込む。
母親もタカヤもよく眠っていた。俺はおもむろに酒瓶を取り出し、先日買ったばかりの700mLのブランデーを開ける。アルコール度数は42度……一気に飲めば死ぬのは簡単だ。ママンの草笛はまだ続いている。耳栓をしている俺と違って気絶するように眠っている二人は、繰り返しチャイムを鳴らしても起きなかったあたり、まず問題ないだろう。
ゆっくりと聞かせれば、草笛や歌う技は睡眠薬並みの効果はあると聞いたが、睡眠薬というのはこれほど深く眠りにつくものなんだな……
育て屋に持っていくスポーツドリンクは、粉を溶かして作るやつであった。もちろんそうしたほうが安上がりだからであり、粉をこぼさないためにも俺は漏斗を使って確実にペットボトルへ粉を投入している。
今回は、それを2人の口に差し込んで、そこからブランデーを流し込む。少しずつ、少しずつ。嚥下させるために鼻をふさいだり気道を確保したりしながら流し込んでゆく。人間は反射的に口に流されたものを飲み込む反応があるから、少しずつ飲ませると、意識がなくても飲み込んでゆく。
それを、タカヤにも同じく行った。ママンの草笛のおかげで、どちらも目覚めることなく、料理のためにと言って購入した700mLのビンを1本ずつ綺麗に飲み干してもらった。きちんと計算して、確実に死にいたるように狙った数値だ。運がいいことに、奴らは結局いけない薬をやっていたらしく、使用済みの注射針がキッチンのシンクで洗われて乾かされていた。こいつのおかげで、俺はより疑われにくくなることだろう。
このブランデーは自分が買ってきたものだから、自分の指紋がついているのは当然として……注ぎ口の封印の下などに指紋が付いていてはおかしいので、その部分にはきちんとタカヤと母さんの指紋をそれぞれつける。自分はもちろん手袋着用だ。
こんなんで警察が騙されるのかどうかは分からないけれど、ブラックシティの警察は、こんな事件よりも麻薬やら人身売買やら、違法売春の捜査で手一杯だから、どうしてもこんなちんけな事件には現場検証も適当になると、スバルさんは言っていた。彼女も殺人の経験の一つや二つあるのかもしれない。流石にそこまでは語ってくれなかったけれど。
そもそも、この殺害方法もスバルさんから教わったものだ。彼女が語った例では、『催眠術で意のままに操って酒を飲ませたことで、とあるコレクターがコレクター仲間を殺し、その遺品を引き取った』らしいのだけれど……まぁ、似たようなものさ。催眠術で自殺させることは出来ないが、大好きな酒を自制無しに飲ませることは可能らしい。そんな、催眠術の盲点を突いた殺害方法だとかで、ブラックシティでは都市伝説的に語られるエピソードの一つであるという。
後はもう、待っていればこの2人は死体になっているはずである……今日の夜をユウジさんの家で過ごしたら、あとは何食わぬ顔でしばらくキズナの家にお世話になろう。次に会う時は、2人は死体だろうけれど……後悔なんてしてやるものか……後悔なんて、しない。
周囲には酒の匂いが充満している。自分が今やったことがどういうことなのかを物語っていた。
「ママン……戻ろう。ユウジさんの部屋に……」
自分でも声が震えていたのが分かる。取り返しのつかないことをしたのだから、当然かもしれないけれど。立とうと思ったけれど、膝が笑って立てなかった。というか、思えばよくもまあ一滴もこぼさずに酒を全部飲ませられたものだと思う。
ママンが心配して俺の顔を覗き込んでくれる。だめだ、手足が震える……我ながら、色々可笑しい。
「ふふふ……」
声が震えて、なんだかそれが笑っているように聞こえる。いや、笑っているのかもしれない……分からない……なんかやばい。心臓が、さっき以上に恐ろしく高鳴っている。この心臓の高鳴りなら、100kmだって休みなく走れそうな気がするのに、なぜか足腰が立たなかった。
「ママン、ごめん……俺、ちょっと立てないかも……支えて、くれるかな。ふふ……」
だめだった。笑いがこみ上げてくる。どうなっているんだか、本当に分からない……平静を保って、キズナと一緒に何食わぬ顔で遊ばなきゃならないんだ。こんな調子でどうするんだよ……まずい、下痢なのかな。おしっこもしたくなってきた……俺の体、どうなって……
「ママン、ありがとう……」
ママンが差し出したカマにつかまって俺は立ち上がり、そのまま壁に寄りかかって歩く。こんなんじゃまるで、老人のようだ。眼が回るような気分だった……地面が揺れているような気分だった。酒の匂いで酔ってしまったのかと思うほど。トイレにいさせるのはどうかとも思ったけれど、誰もいない状態が堪えられないので、その間ずっとママンに付き添ってもらう。ママンは俺に落ち着いてもらおうと必死で背中をさすってくれている。
吐き気もするし、出したばかりなのに尿意も便意も止まらない。ずっとユウジさんの部屋のトイレにこもって、吐いたり、下痢をしたり、いろんなものを出し尽くして、今度は布団に入ってみたが、まったく眠れない。仕方なく、ママンに草笛を頼んで眠ったら、朝起きた時にはママンが隣で添い寝してくれていた。ユウジさんはというと、パンツ一丁でアイルの髪を枕代わりに、フローリングの床で眠っている。俺なんかに布団を使わせなくってもいいのに……メールでも帰ってきたら起こしていいって言ったのにな。床で眠るのは慣れているし。
実は寝袋もあるのだが(あの冬の日はそれで眠っていた)、この季節では暑いから使わないようだ。それはいいとして、俺がいる前でパンツ一丁で眠るのはどうかと思うけれど。
俺は、有り合わせの材料で朝食を作る。タマゴがあったのでツナ缶とあわせてツナ入りのオムレツとサラダを作り、3種の野菜で作ったサラダはオリーブオイルと塩で食べた。ユウジさんの分はラップをして冷蔵庫にしまいこみ、俺は朝食を作っておいた旨を書き記して、外へ出る。
午前九時……ヒートアイランド現象が頻発するこのブラックシティは、もう灼熱の気温を帯びていた。隣の部屋で、2つの死体がどうなっているのかを確認する勇気は俺にはなかった。ただ、2人が死んでいるならば、それでよかった。
浮かない気分で、俺は自転車を漕ぎ出してゆく。鼻の奥をくすぐるような酒の匂いが、まだ記憶の片隅に眠ったまま、俺の脳裏を離れてくれなかった。
8月21日
「カズキ……」
育て屋の近くを抜けた先にある、小さなスーパーマーケットで待ち合わせたキズナと顔を合わせる。開口一番で、キズナは俺を心配する声を出した。
「先日は、お前が俺に大丈夫かって聞いてたけれど、お前こそ……大丈夫なのか?」
何を言っているのかわからなかったけれど、キズナがそういうからにはきっと、酷い顔をしているのだろう。
「そんなに俺の顔、酷いかな?」
「ゾンビみたいだ……何があったか知らないけれど……いや」
キズナが俺から眼をそらす。
「お前のこと、俺は何も知らない……そんな俺を、お前は頼るのか……カズキ?」
キズナが唇を食い結んで、こめかみが動く。
「うぅん……キズナは俺の事を知ってるよ。少なくとも、俺の母さんよりかはずっと」
俺のことを知っているから、こうやって付き合ってくれるんだもの。そう思いたい。しばらく、キズナは沈黙する。
「中に入ろうか……クーラー効いてるし」
「うん」
しばらく言葉が出なかった俺たち二人は、そう言って中へと入っていった。
スーパーの一室。カードをスキャンして対戦できるゲームや、お菓子をすくって取るようなゲームが置かれた、小さなゲームコーナー。そこにある背もたれのないベンチに、俺たち二人は並んで座る。
「何も言いたくないなら、俺はそれでも受け入れるよ……ただ、出来れば元気になって欲しいけれど」
キズナはそう言って、天井にある蛍光灯を見つめる。真っ白い涼しげな光は少しまぶしい。
「キズナ……俺ね。母親から、虐待受けてたんだ……」
「それで、火傷やらあざやらがあったんだな? ピクニックの時に、あんな水着を着ていたのも……そういう事なんだろ?」
「うん……知ってたんだ」
「普段着を着ているときにちらって見えてた……もしかしたらと思ったけれど……」
「そっか……しっかり見てみる? キズナにならば見せてもいいよ……」
「ちょっとだけ」
流石に、シャツを全部脱ぐわけにもいかないので、キズナに言われずとも最初からちょっとだけのつもりだけれどね……わき腹にある傷を見せる。小さい頃に、馬乗りになってタバコを押し付けられた火傷のあとが生々しく残っている。
「酷いな……こんな火傷、正気の沙汰のやつが付けるものなのか……」
「うん、酷い。背中には、ストーブで暖められていたやかんからお湯をかけられた火傷もあるよ……」
キズナはなにも言わなかった。多分、何もいえないのだろう……自分とは、住む世界が違いすぎて。キズナとアオイは凄く仲がよさそうだし、お泊りの件を親に相談できるってことはきっと、親子の関係もよいのだろうから。
「母親が家出していたのは、前も話したよね……その前後のお話もしよっかな」
「あ、あぁ……」
「俺の母さん、誰の子かも分からない子供を身ごもっちゃってさ……キズナ、初めて育て屋に来たときの反応がアレだったけれど、子供がどうしたら出来るのか知ってるよね?」
「まぁ大体……ポケモントレーナーになるには、性教育が必須だし」
「母さんは、援助交際をしていたんだ。一晩限りの恋人になって、それでお金を貰う……その過程で、夫婦の真似事もしたんだろうね。子作りの真似事をやっていたら、それが真似事じゃすまなくなったんだ……
そうして、俺が生まれた。『お前なんか生まれてくるんじゃなかった』って、何回も言われた。手足を縛られて押入れに閉じ込められたり、水をぶっかけられて寒空に放置されたりもした……そうやって生きていた。
そんな時にユウジさんっていう……俺の面倒を良く見てくれるとであって、俺は色々言われたよ。特に母さんが家出した後、料理なんて我流だった俺に、きちんとした料理を教えてくれている時に、どんどん俺の腕が上達していくからさ。ユウジさんから『お前が生まれてきてよかった』って言ってくれた時は、本当に涙が止まらなかった。
その母親がね、昨日帰ってきたんだ……何でも、相手の男が家賃を払えなくって追い出されたらしい」
話があっちこっち飛んでしまった。どの母親だよと、自分で言って自分で思う。
「それ……大丈夫なのか!?」
驚きながら、焦ったような態度でキズナが食いついた。色々と心配してくれて……母さんにはこんな風に俺を心配するなんてことは出来ないから、本当に嬉しいや。
「だめだった。ユウジさんは、精一杯もてなすつもりで迎えて、その時の態度しだいではもう諦めろって言ってきた。で、案の定……母さんは俺のことなんてどうでもいいって感じだったわけ……俺ががんばって料理を作ったのにさ、一口も食べてくれないんだ」
「そっか……辛かったな」
「だから、今回のお泊りはね。避難の為なの……あの家には、もういたくないから……」
俺はズボンをぎゅっと握った。涙が零れ落ちてきた。俯く俺の肩に、キズナの手がそっと添えられる。
「なぁ、カズキ。俺の家に、いつまでいるつもりだ? あえて聞かなかったけれど」
「キズナの親はなんて?」
「カズキの様子がおかしいから、期間は決めないほうがいいかもって言っておいた……母さんは、カズキ君が礼儀正しく頼むならいいよって言ってくれていた。だから、絶対泊って行けよ……絶対に」
「そう、ありがとう……」
こんなところで、キズナが思いもかけないくらい気を使ってくれるとは思わなかった。まだ涙が止まらない……そんな事を思っていると、キズナは俺の手を握ってくれる。
「カズキ。俺、虐待されるってのがどれくらい辛くて怖いのか、分からない……だから、どう声をかければいいのか分からないけれどさ……俺はお前の味方だよ。ずっと。おまえがさ、俺にとってそうであるように」
「そう言ってくれて、嬉しいよ……それでもって、頼もしい……」
キズナの肩に、俺の頭を預ける。キズナは俺の腕を抱いてくれた。
「ありがとう、キズナ」
涙が枯れるまで、俺は泣かせてもらった。他の客にはきっと奇異な眼で見られていたと思うけれど、そんな事で俺の目頭は冷めなかった。キズナはその間、あくまで優しかった。ずっと、何も言わずに俺を抱きしめ、癒してくれた。
「落ち着いたか、カズキ?」
「うん……」
涙が収まった頃、俺はキズナに優しく語りかけられる。
「もう諦めろって言われたそうだけれど、カズキはこれからどうするんだ? 母親との関係は諦めたのか?」
「うん、諦めた……これからどうするかは、決めていないから、今から考えるしかない……」
「そっかぁ……いくら母さんがパートをはじめたからって言っても俺んちも、流石にこれ以上養う余裕があるかって言ったら微妙だから、どうするべきかなー……」
「……そこまで、考えなくっていいから。経済的にまずいなら、俺もきちんと身の振り方を考えるし」
「で、でもよ。困ってる友達を放っておけねーじゃないかよ……俺は、お前のこと……友達だと思っているから」
キズナがそう言ってくれるのは、正直嬉しいけれど……
「でも、それは大人が決めることだ。キズナが悩むことじゃない」
「そっか、そうだよな……」
「だから今回は、泊めてくれるだけでいいんだ……少し、色々考えたいことがあるんだ。それに、俺のお隣さんも、なんだかんだで助けてくれるようなことは言ってくれたしさ」
「そうか……俺も出来ることがあれば、何でもするからな?」
だから頼れよ、とばかりにキズナが言う。
「何かあったら頼るよ……」
「任せとけよ」
キズナが俺の手を強く握る。その感触に、少しだけ勇気付けられた気がした。
「行こうぜ、カズキ。俺の家にさ……手話でポケモンに挨拶ぐらい出来るように教えてやるからさ……」
キズナがそう言って手をつなぐ。親にも、ユウジさんにもつないでもらった事のない手を。女の子の手とは思えないくらいごつごつした手だったけれど、引っ張られていく間にその不思議な感覚に俺は酔いしれていた。
自分はキズナに」愛されているんだなと、胸の奥が暖かくなった気がした。
「あ、その前に……トイレ行ってくる」
「あ、うん……いってらっしゃいって……キズナそっちは……」
「どした? 連れションでもするか?」
キズナが入ろうとしているそっちは男子トイレなんだけれど……キズナ、俺のほうに微笑んでいたけれど、もしかして分かっていて男子トイレに入って行った……?
まさか、キズナは……。あの狩りの日に俺が言ったこと、真に受けているんじゃ……。