プロローグ
6月17日
「師匠、お邪魔します」
足の裏を鍛えるためにと普段から裸足で過ごし、皮もすっかり厚くなった素足を晒して、俺は茶道室に入る。さっき足は洗っておいたから大丈夫なはず……だ。
茶道の作法がよく分からない俺は、とりあえず扉の前で一礼をして、師匠の反応を待った。
「どうしました、キズナさん? 話があるしならば、どうぞ座ってください」
師匠はよく、休憩中にここで一人でお茶を飲んでいる。たまに自分が点てたお茶と、作った茶菓子を門下生に振る舞うのだから、2メートルに届く身長と岩石のような筋肉の塊という見た目の割に意外な一面もあるものである。
「……ありがとうございます」
とにかく、俺は師匠の前で正座をする。ここまで走ってきた俺は、タオルで汗を拭いたというのに、余熱で新たに噴出した汗で畳を濡らしてしまった。
「話というのはですね……」
とにかく、同じ失敗をしないようにと手の平で汗をぬぐい、俺は続ける。
「俺の姉さん……三河アオイが……下半身不随になってしまった事は以前にも話した通りなんですが……」
そう話を切り出し、俺はこれまでの事情を話す。
俺の家族は、以前よりポケモンに手話を教えていた。昔から家族の一員だったポケモンも、最近家族の一員になったポケモンも手話を使うようになり、俺達家族は完全ではないがポケモンと会話できる稀有な家族となっていた。
そんなポケモンとの日々は順調だったのだが、ある日姉が事故に会い、腰を打ち付ける事故によって下半身が不随になってしまったのだ。最初こそ心を塞いでいた姉ちゃんも、ポケモンをきっかけに心を開くようになり――
「そして、先日ポケモンブリーダーになるっていう夢を話してくれたんだ……手話を売りにするポケモンブリーダーって事でさ。盲導ポケモンにはなれないけれど聴導ポケや介助ポケと、手話で意志疎通できるなんて素敵じゃないかって……」
「ふむ……手話を覚えた介助ポケ……ですか」
師匠は顎に手を当て、考える。話している間に口がカラカラになってしまった俺は、差し出された抹茶を飲んでのどを潤した。
「はい。そして、手話で意志疎通をするためのマニュアルが記載されたハウツー本には、手話を教えたり、介助ポケとして働かせるうえで最もお勧めのポケモンは……サーナイト、フーディンなどが挙げられていたのです。
フーディンは物覚えが良いので、手話をすぐに覚える事。また、シンクロの特性を持っているから、手話の意味を正確に理解しやすい事……サーナイトは、記憶力こそフーディンに大きく劣りますが、感情を感じる角の力で介助される側の欲している事を理解する能力があるとかで……その……」
「私の
衣を……譲ってほしいと?」
そう。師匠は、その名を
幸羽 といい、去年ホワイトフォレストにあるこの忍術道場をジム戦も行えるように改装し、ジムリーダーに就任したばかりの格闘家である。彼のポケモンであるクイナという名前のルカリオは、罰ゲームで体毛をプードル刈りにされた姿がお茶の間に流れた結果、一時期ちょっとしたブームになった事は記憶に新しい。
そして、コロモというのは彼のポケモン。ただいまエースメンバーとして活躍中の
袴という名前のエルレイドの双子の弟であり、言ってしまえばハカマよりもエルレイドとしての才能に乏しかったために、貴重な目覚め石を使ってもらえなかった子である。今では、エスパー対策のスパーリング相手や雑用などを任せられる立場として、道場では皆に慕われているポケモンだ。
「そういう事になります」
「ふむ……夢を目指す子供のためなら、どうぞ持って行ってくださいと言いたいところですが……何の条件もなしに与えるというのは不安が……」
そりゃそうだ。姉ちゃんは少し三日坊主なところがあるしな。
「でしたら、その……俺のタイショウなんですが……今度、介助ポケの申請を受けようと思うんです。今現在は、ポケモンを出す事を原則禁止にしているレストランとかお店も多いですが……介助ポケモンや聴導ポケモンの申請が通れば相当衛生面に気遣う場所でもなければ自由に出していられますので。
今、タイショウを専門の施設に預けて、介助ポケモンの検定を受ける交渉をしている最中なんです」
俺の手持ちのダゲキ、タイショウは姉ちゃんの介助を積極的にやってくれる気のいい奴だ。申請を通すには、数日の間専門の施設にポケモンを預け、健康診断から素行の審査を行う。そして、それに問題がなければ晴れて介助ポケモンとして仲間入りである。
無論、落とされてしまう事もある。そういった場合は、訓練で矯正可能であると判断された場合はさらに長い期間預けて申請が通る事もあるし、適性がないと判断されればポケモンを突っ返される事もある。
「それで……師匠が言うように。条件がない事が不安というのは…、確かにもっともな事だと思います。実際、俺の姉さんは三日坊主なところもありますし……ですから、その申請が通ったら……と言うのは、条件としてどうでしょうか?」
「そうですね。その申請が通るのがどれほど難しいかは分かりませんが……それほどのポケモンを育てるだけの腕があるなら、認めても良いのではないか……とは思います」
師匠は、気合いを入れなおすように『よし』と小声で言って肩を一瞬竦める。
「良いでしょう。貴方達が育てたポケモンがそれほどの域にまで達しているのならば……私は貴方達を信用して、私のポケモンを譲ろうと思います」
「あ、ありがとうございます」
すかさず俺はお礼を述べる。心からのお礼だ。
「いえいえ。それよりも、練習熱心な貴方には先に言っておきますが……再来週の水曜日にある祝日なのですが……このジムと道場はお休みになります」
「え、なんで?」
突然話が変わったと思えば、道場は休みとの連絡。まぁ道場でトレーニング器具を借りられなくても鍛錬の方法なんていくらでもあるから、1日くらいいいけれどさ。
「ブラックモールでポケモン関連のグッズの販促……あぁ、つまり宣伝のために、バトルテントという催しが開かれるのです。そこには、ポケモンソムリエやコーディネーターなどもお呼ばれするのですが……私もジムリーダーという事でお呼ばれしておりましてね」
「なるほど……」
「貴方も来てみませんか? ブラックシティ名物のローテーションバトルなんかも出来ますし、レンタルポケモンを使役して戦うバトルファクトリールールでの対戦も出来ますよ。一種のお祭りみたいなものです」
「師匠が行くんなら……行ってみようかな」
「えぇ、ぜひ来てください」
そう言って師匠はお茶を啜る。
「頼まれていた子も、その前には譲りますので……元気な男の子なのでお楽しみに」
マジか? と、思わず砕けた口調が出そうになって、俺は直前でその言葉を飲み込む。そう、まず最初にお礼を言わなきゃいけない。
「あ、ありがとうございます。師匠」
本当に師匠は頼りになる。それと、後でクイナに会ったら、あいつにも頑張ってくれたお礼を言わなきゃな。