第八話:これから
悪いのは誰? アオ達防人はゼクロムが街を襲ったあの夜まっすぐ住処に帰り、ロゼは情報収集のために人間に化けて街へと戻って行った。
「アオさーん!!」
そうして一夜明け、ゼクロムが街を襲った翌日。しばらくはロゼからの情報を待つ日々かと思われたのだが、予想に反して森には訪問者が現れる。その到来を告げるケンホロウのカイジは、全速力で飛んできたのか激しく息切れを起こしている。
「どうした、カイジ? 人間か?」
「人間ですけれど、木を伐りに来たとか大挙してきたとかそんなんじゃなくって……あの、最近何度も来てくれた人。アーロンさんです……すぐにアオさんを呼んできてくれって、ピジョットに乗って……」
「アーロンだって?」
久々に聞いた名前に、アオは驚き声を上げる。それと共に、色々と大切な事を思い出して、アオの中に怒りが湧き上がる。
「カイジ。ヒスイとミカゲとレンガを集めろ。あっちが舐めた態度をとってきたら、すぐにでも殺せるように」
歯を食いしばり、こめかみに力のこもったアオの表情。うわぁ、怒っているなぁと思うとカイジも気が重い。
「わかり、ました……というか、最初に伝えたのがヒスイさんなので、もうヒスイさんは接触していると思います」
「わかった。じゃあレンガに頼んだぞ」
言い終えて、アオは顎でカイジを促して飛び立たせる。カイジは、ピンク色の仮面のような飾り羽を揺らして空に飛び立っていった。
「くっそ……アーロンめ……あいつにはいろいろ言いたい事があったんだ……」
思えば、タイミングが良すぎたのだ。ミズキとミソギが来てからすぐに、あの大火事。あの時もしもミズキがいなければ、この森は全焼していてもおかしくなかったであろう。そうすれば防人であるアオ達でさえ生き残れるかもわからない事を思えば、ミズキをこの森に連れてきた意味というのもわかるというものだ。
つまり、火事を起こしても防人達を生かすためのミズキだったのだ。防人達の身体能力ならば、炎に巻かれても逃げる事は可能かもしれないが、やはりミズキがいてくれた方が防人の生存可能性も高まるというわけだ。
あの旗からはアーロンの匂いはしなかったが、アーロンが何らかの形でかかわっている事は間違いない。文句を言わないと気が済まないし、何かごねたら殺してやる。ぶつける場所のないアオ達の憤りは、ゼクロムが街を襲って以降有耶無耶になってしまったが、アーロンというぶつけやすい的の出現で再びぶり返す。
とりあえず、姿が見えたら第一声で罵倒してやろうと、息巻いて山を駆け下り、森のポケモン達に細かい位置を確認しながら目的の場所に尋ねるが、そこにいたアーロンの姿を見ると罵声を浴びせる気も失せてしまった。
彼は、アオとの接触に先んじてヒスイに向けて土下座して謝罪をしていた。冬でもインナーを少し増やしただけで、外装のほとんど変わっていない紺色の服を着ており、外したテンガロンハットには少し雪が積もっている。
手の甲に宝石のはめ込まれた手袋を地面につけた四つん這い。土下座の体勢から、すまなかったと口からは言葉少なに、背中からは後悔の念があふれていた。ここに走って来るまでに用意しておいた十の罵声、百の侮辱も、喉の奥に封印されて、アオは反応に困った。
「ヒスイ……アーロンは何か言っていたか?」
「いえ……まだ何も言っておりません……母上。私も、一発や二発ぶん殴ってやろうと思ったのですが、なんだか毒気も抜かれてしまいましたよ……連れの超獣も、ピジョット以外は今は街で瓦礫の後片付けの手伝いみたいです。ルカリオも、メタグロスも」
ヒスイはため息をついて肩を竦める。
「……仕方ない。レンガ達が来るまでこの態勢をされていてもばつが悪い。……アーロン、顔を上げろ」
いきなり調子を崩されたアオは、やれやれとばかりに面を上げさせる。
「本当に、済まなかったと思っている……この森を荒らして、言葉もない」
苦虫をかみつぶすような表情でアーロンは絞り出す。しかし、言葉がないと話が進まない
「言いわけがあるなら聞いてやる……というか、言い訳の一つでもしてみろ。でないと、こっちは八つ当たりしか出来ない! 悪いのは誰だ!? はっきりしろ!!」
痺れを切らしたアオの呆れたセリフ。まだ数分も経っていないというのに、ここまで飽き飽きとした態度をとるのは、それだけ喰らった肩すかしが大きいという事か。アオはアーロンを罵倒したくてたまらないのか、自分でもよくわからないが、驚くほどせっかちにアオは急かす。
「私が、ケルディオのミズキを連れている時に、軍師のベルセリオスは私に接触してきたのだ……」
「軍師というのはあれか? 私達に焼き討ちの警告をしたという……」
アオの質問に、アーロンは頷く。
「あぁ。ついでに言うと、ミズキを連れてゆけと言ったのも、ベルセリオスだ……」
そうして、アーロンは森林火災への経緯を語り始める。
この一首大陸では、超獣を兵力として使う技術が遠い豊艶の地よりもはるかに劣っているらしい。代わりに、兵器の運用に関して、一首は豊艶に大きく勝り、超獣が使う技である自然の力を利用したクラボの木を使った火砲の威力は一首における戦場の主力を担っている。
そのためアーロンの仲間は、兵器の運用に関する勉強と、新たな兵力としての超獣の捕獲のため(メタグロスやルカリオもこのために捕獲したものらしい)。アーロン自身は、治世術や治水術、呪術や政治の運用方法などを学びにこの地へと来た。
一首の政治や建国史の勉強をしていたアーロンにとって、それに詳しかった勉強家の軍師というのはとてもありがたい存在である。当のベルセリオスはミズキの事が珍しいからという理由で接触してからというもの、二人が互いを友と呼べる関係になるまでそう時間はかからなかった。ゼクロム派の者達が、偶蹄の英雄を敵視して森を焼き払うという話が出たのも、その時の事である。
ベルセリオスは、防人達が森林火災を乗り越えるためにミズキを利用し、またアーロンの言葉でゼクロム派の軍を疑わせる準備をさせ、ゼクロム派の軍が使用した旗と、自身が持つウルガモスの怒りの粉。そしてゴチルゼルのサイコパワーによる暗示と、三重の策でゼクロム派に怒りの矛先を向けさせる。
そこから先の、双龍が壊滅状態になる所まで、アオ達はよく踊らされていたというわけだ。
「……それで、そのベルセリオスとやらは?」
「私が殴ってきた……だが、その後にゼクロムが来て……私は必死で逃げたが、多分あいつは逃げ遅れて死んだだろう……私はピジョットに乗って逃げたからな……」
悔しさに歯を食いしばりながらの言葉であった。
「そうか……では我らは、憂さ晴らしをする相手すらも失ってしまったわけか」
ここまでくると、意気消沈も酷すぎて言葉が出ない。話の途中でここにたどり着いたレンガは毒づいてため息をつくしかなかった。
戦争は終わる「八つ当たりなら私が甘んじて受けよう……奴の目論見を見抜けなかった私にも、一抹の責任はある」
武器(杖)を置いて、帽子をはずして無防備な体勢でアーロンが言う。
「よせ。いまさらお前を殴っても気は晴れん」
頭を下げたまま自虐的になるアーロンをアオは笑う。
「そうか……では、これだけではなんだからな。二つ、知らせがある……」
防人達は、何を話す気だろうかといぶかしげな視線をアーロンに向ける。
「双龍の街もレシラムに襲われた……籠目も、細波もね。ほかにも、吹寄、程萌、雷門をゼクロムが立て続けに襲ったし、つまるところ……主要な町は粗方襲われた。これにより、実質戦争は続ける事が不可能になり……それに、都市に生きる人が少なくなった分、都市へと食料を集中させる必要もなくなった。
食料を税として徴収される量も少なくなったからな……この森が荒らされるような事も、もうしばらくはないだろう……森はこんな事になってしまったが、君の守るべきものは……今ならば守られるはずだ」
「……それは本当か?」
「残念ながらな……いや、君達にとっては嬉しい事に、本当だ。故郷の土地ではないとはいえ、こうまでたくさんの人間が死ぬとは……もう言葉も出ないな。津波や噴火よりもひどいよ……」
もう謝るための、謝罪の意を前面に出した顔をするのは疲れたのか、アーロンは憔悴しきった顔を浮かべる。対するアオは笑っているのか、悲しんでいるのか、複雑な表情を浮かべる。
「森が平和になるか……もっと嬉しいと思ったのだがな」
その表情にふさわしい言葉がアオから漏れた。
「実感がないせいもあるのだろうが……意外にも、あまり嬉しくないものだな」
アオは魂が抜けたようにため息をつく。
「そしてもう一つの知らせだが……悪い知らせだ。これから、おそらく戦争が変わる……」
アーロンが淡々と語る。防人達は頷き、固唾をのんで話を聞く。
「私達は、兵器の運用法や治世術を学ぶためにこの一首に来た。そして、逆にこの一首から豊艶に、超獣の使役の仕方を学びに行った者がいる……。私の故郷、豊艶ではあらゆる超獣が、当然のように戦争に参加している。そこでは、伝説の超獣ですら生きて帰る保証のないような……地獄絵図のような戦争風景が広がるんだ」
「あぁ、そんな事をロゼが言っていたな。戦争がこれから変わると……その前に人間の争いを治めなければ大変な事になると」
「いずれここもそうなる可能性がある……その時は、肉食の超獣を養うために、一首の人間は今以上に自然を荒らすかもしれない。しかも、自然を荒らす際にも超獣を用いるのだから、君達防人には苦労を強いるかもしれない」
「ロゼは、人間をどうにかして減らすくらいしか止める手段はないと言い張った。人間から見て。止める手段はないのか?」
「わからない……私の故郷の豊艶では、自然は大事にするものだと思っていたし、自然を敬いながら生活していたから……そういった心がけのないこの地方では、止める方法はおそらくはない。そうだね、君の言うように人間の数を減らす手段があるならば、あるいは……でも、減らしても人間はまた増える」
アオが尋ねた内容は、アーロンの口からきっぱりと否定される。
「だから、今後しばらく、この森が人間に侵される事がないと言っても……結局は、いつの日か君達に辛い仕打ちが待っているかもしれないんだ……」
「そう……か」
アオは、虚空を見つめる。そして、次にヒスイを見る
「ヒスイ……今の話を、理解できたか?」
「ええ、理解しましたよ……母上」
ヒスイは頷いた。
「お前にも、ミカゲにも……もしくはその子供か、孫かはわからんが……苦労を強いてしまうな」
「我々人間のせいで……本当に、申し訳ない」
沈黙が時を貫いた。寒空の下で、じっとしているのは寒いだろうに、アーロンは身震いこそすれ、座ったまま微動だにしない。
戦争が終了したという事を告げられてから、生気の抜けたようなアオは、数分の沈黙の後、そっとアーロンに寄り添う。凍えないように、包み込むように。
「なぁ、アーロン。人は、戦争を正しい事だと思ってするのだと聞いた……それは、本当のところどうなのだ? お前にとって正義とはなんだ?」
萎れた草のような針の失われた表情でアオが尋ねる。
「確かに、戦争を正しいと思っている奴もいる……誰が、とかそういう風に個人ではなく、国全体でそういう流れになっている……」
アーロンは伏し目がちに淡々と答えた。
「どうして……そう思う? なぜ、戦争が正しいなどと思うのだ?」
アーロンが語る言葉に、アオは何か思うところがあるのか、歯を食い結んで尋ねる。
「そうしないと、心が耐えられない。自分がやっている事が正しいのだと確信しないと、申し訳ない気持ちで一杯になる。……でも、自分がやっている事が正義だと信じているうちは、どれだけ人を殺しても心が痛まないし、いくらでも残酷になれる。
正義というのは、罪悪感から逃れるための一つの手段でしかないんだ……たぶん、君が聞きたい事はここなんだろう。その正義を遂行するために、被害をこうむる者がいても、人間達には関係ない……正義なら、罪悪感を感じなくて済むからな……
正義というのは、悪を挫く事もあるかもしれない……けれど、それは結果論だ。正義というのは、総じて間違いを正す事……その間違いが、善に対する間違いであるならば、それは悪を討つ事になるかもしれない。
けれど、間違っていないものを、正す事……その行為は、悪を挫くわけではないから善ではない。正義というのは、その対称にあるのは許す事……寛容であり、慈悲であり、受け入れる事なんだと思う。だけれど、受け入れた結果が、自体が良い方向に転ぶ事もあるけれど、それで相手が増長した結果、理不尽な要求を突きつけられる事も、許したせいで相手が前回以上の間違いを犯す事だってある。
だから、戦わなくちゃいけない。そして、戦ったその先にある罪悪感を隠すために、正義という理論武装をしなければならない」
「そう、いう、ものか……」
アーロンの語る言葉がよほどショックだったのか、アオは途切れ途切れに独り言を漏らした。
必要悪「酷なようだけれど、それは君も同じ事なんだと思う」
打ちひしがれるアオに追い打ちをかけるようにアーロンは続ける。
「アオ……君も何度か人間を殺した事があると、以前話してくれたよね……その時少しでも申し訳ないと思わなかったかい? そして、それを何かと理由をつけて正当化しなかったかい? たとえば、森を守るためだとか、罰を与えるためだとか……」
「それは、人間が先に手を出したから……」
「人間もそうだ。先にどちらかが手を出して、やり返しあっているうちにどちらが始めたかわからなくなる……そして、それが正義だと信じて、あくなき戦いをつづけるんだ。君の言い分はわかる……森の住人は人間の縄張りを侵す事もないのに、人間は森の縄張りを荒らしていると。それを排除するのは、君にとっては正しい事なのだろう……
けれどね。人間は超獣を人間よりもはるかに下の存在だと思っている。肉食の超獣が自分よりも弱い超獣を喰らうように、草食の超獣が草を食べるように、人間が超獣を虐げる事を正当化して……この森を食った人間も、きっとそうだったのだろう」
「違う!! 人間は、森を敬わないじゃないか!! 我々は草も、肉も、虫も、魚も……喰われるものを敬って食べているんだ。敬う事で生きているんだ……だから……だから……人間が森を敬っているころはこんな事もなかったと、伝わっている。この一首に移民してきたやつらがすべて悪いんだ……」
アーロンの言葉にアオは声を荒げる。そしてアオは助けを求めるようにレンガを見るが、レンガは首を振って否定する。
「もういいだろ、アオ? 我らも、正義という言葉を盾に、いろいろ罪を犯してきたんだ……それを認めよう」
そうして荒ぶるアオを、レンガは諭して落ち着かせる。アオはレンガの言葉で、首の皮をつままれたチョロネコのようにおとなしくなった。
「私が……」
アオが独り言のように語る。
「私が、かつて正義と思い、しかし間違いだと考え直していた事を、ゼクロムとレシラムがやったんだ……」
虚空を見上げて喋りはじめたアオは、思い出したようにアーロンの方を向く。
「人間を
鏖にする事……昔はそれを正義だと思っていた。それは間違いだと気づかされて、戦争を終わらせるために、兵士だけを殺すのが正しいと思い込んで……しかし、我ら防人よりもはるかの上位に位置する神のような存在が、かつての私の正義を肯定するように……人間を殺した。
だから、正義というものがわからなくなったのだ。神ですら、道を間違うのか、それとも神はかつての私が正しいと仰ったようなものなのか……。それがアーロン。お前のような人間ならば、わかるんじゃないかと思ったが、なるほど、耳の痛い話だ……私の信じた正義も、アーロン……お前の言うとおりか。正義なんて言葉はただの、申し訳ない気持ちをごまかすための言い訳でしかなかったのだな……
たぶん、私は最初からそれをわかっていたんだ……わかっていたからきっと、認めたくなかったのだろうな……アーロンもレンガも困らせて、気持ちの整理一つ自分一人で付けられないとは……情けない」
言い終えたアオは、枯れた葦のように触れれば折れそうなほど頼りない表情をしている。
「情けなくはないさ、アオ。こんな事でいいなら、困った内にも入らないさ」
沈むアオにレンガはフォローを入れるが、今度はアオがうつむいて首を振るばかりだ。
「ねえ、アオ。正義でも、森は救えるだろう……国も救えるだろうね……でも、正義だけでは何もかも救う事は出来ない。世界を救う事は出来ないよ。いや、出来たとして、別の世界が滅びるか、もしくは被害をこうむるだけだろうね」
沈んだアオに、言い聞かせるようにアーロンは語る。
「ベルセリオスにとっては、ゼクロム派を倒す事が正義だった。そのためにならば、この森がどうなろうとかまわなかった……そんな風に、正義というのは自分勝手なものだと思う。その一方で、ベルセリオスが、本当に自国の領民を思いやっていて、軍師としてのみならず領主としても優秀だった……優しいやつだったし、自分の超獣は大事にしていた。
君が、この森を大事にして、いつくしむようにね……それでも、そんないい奴でも……私は、ベルセリオスについて少なくともそう思っていた。そんないい奴でも、この森を火事にし、君達を利用する事をいとわない程度には、正義は自分勝手なんだ。
だから、正義で救えるものなんて、自分達くらいなものさ。君が、それを正義という呼ぶのが嫌ならば……『必要悪』とでも呼べばいい。最悪の事態を防ぐための悪……毒を以って毒を制す……正義とは、案外それを言い換えた方便なのかもしれないね」
アーロンは淡々と語った。
「……そうか、私がしてきた事は悪だったのか……毒だったのか」
「は、母上……そんな事はありませんよ」
何かが壊れたように涙を落としたアオを励まそうと、ヒスイは彼女の言葉を否定する。
「だけれど、悪は……毒は、いけない事なのかな?」
しかし、ヒスイの浮ついた言葉よりもよっぽど重みのある言葉でアーロンは尋ねる。
「『汚いものを家に置きたくないか?』と聞けば、大抵の人は家は綺麗なほうが良いと答えるだろう。では、『雑巾は汚いから、家に置きたくないか?』 と、聞けば……あぁ、ごめんごめん」
雑巾というものに理解を示していないのか、アオは首をかしげていた。それに気がついたアーロンは、苦笑して別の例えを捜す。
「そうだね……肉食の動物がこの世界に存在するのはどうしてだと思うかい、アオ? 肉食動物がいなくなれば、草食の者達はどうなるだろうね……飢えて死ぬんじゃないかな? 多くのメブキジカが常に飢えに苦しみながら生きるのと、肉食動物に怯えながら生きる事……どちらが幸福なのかはわからないけれど、飢え死にはかなり辛い死に方だと聞くよ。
それが、必要悪さ。肉食の超獣に喰われて死ぬのは嫌だけれど、餓死が蔓延るよりかはずっとまし。そうは考えられないかい? そして、毒は時に薬にもなるんだ。心臓が破裂してしまうような毒も、少量ならば弱った心臓を脈打たせて命をつなぐ事になる」
「……あぁ」
「悪い事が、必ずしも存在してはいけない事ばかりではないんだ……それが必要悪、正義と言うのだと思う。けれど、必要悪がよい結果を呼ぶとは限らない。誰しも、すべてを救う事がなんて誰にも出来ない……出来たとすれば、それは英雄でも防人でもない。
救世主というんだ。愛と、善だけで誰かを救う……理想的だけれどね、それはあくまで理想でしかない。
実現が極めて難しいのと言える理由はね、人間にも、英雄はたくさんいる……レシラムやゼクロムはそれぞれ、白き英雄、黒き英雄と呼ばれている。そうやって数えきれないほどの英雄がいるのに、救世主の数を数えれば、片手で足りる。救世主になる事が難しいのは、そういう事実を鑑みてもわかる事さ。
でもそれは、仕方のない事だ。救世主は敵も、悪人も、善人も……全部救わなければならないんだ。愛と善意で……そんな事は、きっと神でも出来やしない。だからね、アオ……正しくあろうとする事はいい事だ。けれど、神以上の存在を目指したって、無理なものは無理なんだ……だから、出来る事をやっていけばいい」
「では、アーロン。私のやった事を、お前はどう評価する? 森を守ろうとして、人間達の争いに介入して、その結果一首そのものが危機に陥ったこの状態を、お前はどうみる?」
アオはもっとも聞きたかった事をアーロンに尋ね、心に救いを求める。
つるぎあわせ「そうだね……君の正義は、揺らいでいる。それは優柔不断ともいえるけれど、しかしそれは自分の行動をきちんと反省出来るという事でもあるのだと思う。こうして、君が私なんかに正義とは何を尋ねた事も、自分が正しいのだと思い込んでいない証拠だ。
確かに、君は殺したのかもしれない。そして、ベルセリオスが策を講じたせいとはいえ、無実の民を殺したりもした……だが君は、そうして人間が死んでしまった事に少なからず心を痛めている。それは人間も守りたかったって事に他ならないんじゃないかな?
そして人間を守るために人間を殺す事をした。矛盾しているかもしれないけれど、しかし殺す人間は最小限にとどめるよう努力した。さっき言ったように、救世主になるのは難しいけれど、君は……救世主に近づこうと努力出来るじゃないか。きっと、どんなに頑張っても救世主にはなれないだろうけれど、それに近づこうとする姿勢がある限り……私はそれを評価したいと思う。
君は
鏖った。そして、結果を残した。その結果がこんな焼跡の森では確かに残念かもしれない……でも、これで終わらせたらもったいないんじゃないかな?
これから、人間が超獣を戦争に参加させるかもしれない。それに対し、何か出来る事をやるべきだとは思わないかな? 今回、レシラムとゼクロムが暴走したおかげで、超獣と人間の関係について皆が何らかの考えを持つだろう……この焼野原を見て何か思う事があるならば……自分の答えを探してみるといい。
その答えによっては、超獣と人間の関係がよい方にも悪い方にも転ぶはずだ……」
「自分なりの答え……か」
アーロンの答えに、アオはオウム返しに呟いてから少し考える。
「なあ、皆。ロゼが戻ってきたら、今後の事を決めよう……この焼けてしまった森を抱えた私達が、これから何をどうして生きてゆくべきなのか……」
結局、アーロンの言葉は具体的な案もアドバイスもなかったが、何か吹っ切れたようにアオは改めて仲間に頼む。
「構わんぞ。というか、元からそういう手筈だろう」
と、すまし顔でレンガは笑う。彼はアオを非難しなかった。
「母上。母上がやった事で出た損害もありますが、良い事だってたくさんありました……ですから、これからもそうあれるように話し合いましょうか」
ヒスイもレンガに続いて、アオを励まし力強く笑む。
「そういうわけで母さん、よろしく……その、あんまり気に病む事もないと思うよ」
そして二人の子供であるヒスイやミカゲも同じく非難はしない。
「ありがとう、皆。少しだけ元気が出たよ……アーロンさんも、ありがとう」
そういったアオの表情は力ない笑みだったが、その目には先程まで一切感じられなかった覇気が、わずかに回復しているような気がした。
「……私は、謝りに来たんだがな。なんだか、変な雰囲気になってしまったね」
申し訳ない気分でここにきて、今なぜかお礼を言われる。どうしてこうなってしまったのかと暢気な思考を抱えながらアーロンは苦笑した。
「アーロン……いつの間にかお前に対する怒りも失せてしまったからな……もう、頭を下げる必要もないから、好きにしてくれるといい」
アーロンと話す事で胸のつかえが取れ、アオはすっかり翳りの消えた顔で告げた。そのまま、アオとアーロンは見つめあって、不意にアーロンが口を開く。
「なあ、アオ。私も、故郷に帰ったら、出来るだけ……故郷がこの一首のようにならないように、尽力したいと思う。兵器の運用方法を学びに来たものが大半の我らだが……必ずや、今回の顛末を豊艶に伝え、戦争を防ぐ一つの足掛かりにしたいと思う。
だから争いを止めて、死者も瓦礫も出さないように、出来るだけ。私は貴方の事を応援するから……貴方も、良ければ応援してくれないか?」
眦を決したアーロンの視線が、アオの視線と交差する。
「応援……か。わかった、共に頑張ろう……お前とは、立場が違うが……争いを止めたいという思いだけは同じようだからな。だから、アーロン……まぁ、なんだ? 今年の秋に、愚痴を聞いてくれてありがとうな。お前ほど話しやすい人間は初めてだった」
「君達こそ、オウリンにテレパシーを教えてくれてありがとう。以前よりもずっとうまく話してくれるようになったよ」
二人は互いの存在を確かめるように見つめあった。
「なぁ、アーロン。剣を交差させて、誓わないか? ともに力を合わせる証として。お前のその杖と、私の角で」
「まさか……アオが人間と『つるぎあわせ』をやるのか?」
「ダメか、レンガ?」
レンガの問いに、アオは問い返す。
「いや、ダメではないが……意外だなと……だが、こいつならばあるいは……こんな日が来るとはなぁ……」
レンガは驚愕して、笑って誤魔化した。ミドリと不仲だった時のアオの様子を考えれば、彼の驚きも不思議ではない。
「そう言えば、人間とつるぎあわせをなんてやるとは思っておりませんでしたね……でも、良いんじゃないでしょうか?」
ヒスイの言葉も感慨深そうに、声が笑んでいる。
「ちょっと待ってくれ……私を抜きに話を進めないでくれ。つるぎあわせと言うのはあれか……角と角をぴったりとくっつけるあの……」
「あぁ、そうだよアーロンお前は角を持っていないから、その杖を代わりに使ってくれればいいだろう」
「頑張ってください」
アーロンがつるぎあわせについて尋ねると、アオが答えるよりも先にレンガとヒスイが答えた。
「仲間もこう言っている……やろうか。アオ」
アーロンが隣に置いていた杖を構え立ち上がる。
「あぁ、やろう」
これ以上ないくらいに嬉しそうな顔をしてアオも立ち上がり、角を突きだして突進の前準備となる体勢をとる。コツン、と小気味よい音。アーロンの杖についた2本の釣鐘型の装飾が鈴のように鳴り、擦れ合った角と杖が音を奏でる。
アーロンは掌に、アオは頭蓋にその音の振動を感じて、その振動の余韻を、音の余韻を、互いのつるぎが離れあった後もずっと感じていた。
アオはじっと正面を見据え、アーロンがつるぎに見立てた杖の石突きを地面に突き立てる。互いに見つめあう二人を外野の三人は固唾をのんで見守っていたが、やがてアーロンは思い出したように言う。
「最後に一つ、頼みがあるんだ……君達の仲間のロゼ君は、まだ瓦礫の中に埋まった人達の救助を続けている……私の超獣も一緒に救助を続けているんだ……」
アーロンは口のなかの唾を飲み込み、決して噛む事の無いよう口を開く。
「手伝ってはくれないか? もしも、人間を助けてもいいと思えるのならば……」
「なぁ、レンガ。あの、人間が崖から落ちた冬のミドリのように……ならないだろうかな?」
アオは座っているレンガをちらりと見た。
「わからない」
レンガの答えを聞いてから、アオはしばらく沈黙し、レンガに一瞥だけしてアーロンに視線を戻す。
『私は行く。応援するなり同行するなり好きにしろ』と。彼女の視線は大体そんな意味だったのであろうか。
「アーロン。お前はピジョットに乗って一足先に街へと戻れ。私も追いつくから」
アオは仲間を見もせずに走り出す。彼女は命令して強制するのではなく、『ついて来たければついて来い』と言い残す。後ろでは気恥ずかしかったのか、アオが森の木立に紛れて見えなくなる頃、ようやく立ち上がる防人達の姿が。
彼らは、この話し合いの様子を見守っていたケンホロウ達に会釈をして、アオのたどった轍を歩み、雪花の街を目指した。
人助け その日、アオは瓦礫に縄をかけてもらっては、強靭な四肢でそれを引っ張り退ける。ヒスイやレンガも負けておらず、特にレンガやミカゲはその巨体に見合った怪力と、物を堀り返すのに適した角の形状で瓦礫を壊し、瓦礫を払いのけ、多くの生還者を出した。
もちろん、掘り返してすぐに死んでしまうものや、匂いだけで誰かがいると判断してみたが、すでに死んでいた者などたくさんいる。この寒い冬に、雪ならばまだしもゼクロムが降らせたのは雨である。まとわりついた水分が容赦なく体温を奪っていけば、衰弱した人間達が死に至るのは想像に難くなかった。
肉親の死体を前にした者は、涙するならまだいい方だ。凍りついたように固まった死体を前に、自身まで凍ってしまったように立ち竦む家族達。原型すらわからなくなった死体から自分の子供を探そうと半狂乱になる親、逆に親を探そうとする子供。
しかして、原型すらわからないのだから探しようもなく服が似ているというだけで、家族かもしれないと思い込んで、ずっと立ち竦む事しか出来ない人間達。家族そろって生存出来た者達は、ある程度の精神的余裕を持ってそれらを励ましたり気にかけたりするのだが、その数も圧倒的に足りず。
「ここまでひどいのは中々ないだろうが……戦争の後の惨状なんて大体こんなものなのだろうな」
その光景を、同情はすれど、もらい泣きする事もなくアオは冷めた視線で見つめる。
「人間は、増えすぎたら自身で殺しあって個体数の釣り合いをとるのだろうかな……そうする事で優れた者だけが生き残るし、世代交代の回転率もいい。愚かな生物なのかもしれないが、意外に……理にかなっているのかもしれないな」
だから、せいぜい自分達防人に迷惑にならないように殺しあってくれればいい。優れた生物になりたいならばなればいいさと。そう思えればアオも気が楽なのだが。口に出して冷酷になろうとしても、目の前で泣き崩れる者をまともに視認してしまうとそうもいかなかった。
(……ミドリの人間好きが伝染ってしまったかな)
アオは子供の死体を抱いたまま死んでしまいそうな父親を蹴り飛ばし、喝を入れる。冷たくなった母親の腕の中で出ない母乳を啜っている子供を咥え、逆に子供を失って泣き崩れている母親に押し付ける。
無駄だとは思ったが恩を売っておくという大義名分もある事なので、救える命くらいは救ってやる事にした。
(こうして恩を売っておく事で、人間が防人を尊敬でも何でもいいから、森に手を出さないでくれればいいのだがな)
そうこうしているうちに時間は進み、疫病を防ぐための死体の片付け作業もひと段落ついて、アオ達は廃墟となった街を後にした。同時に雪花の森に戻ったロゼとスターはゼクロムが攻めてきたあの晩以降に得た情報を語り始めた。
あの夜、被害を受けたのは雪花のみならず、双龍の街も同様の被害を受けていた。双龍の街では、レシラムが街を焦土に変え、雪花におけるレンガのような邪魔が入らなかった分、生存者はここよりも遥かに少ないそうだ。
他の街の様子を見て来たスターは人間の生活に溶け込めないために集められる情報は少なく、そんな最低限の情報だけを持って帰ってくるのみであったが『もう戦争は続けられないだろう』という旨の報告は、防人達にとっては大きな朗報であった。
そして、ロゼが持ち帰ってきた情報はこんなところだ。生き残った人間達は、ゼクロムに対する不満を何かにぶつけなければ気が済まず、もちろんゼクロムへぶつける愚痴もあれば、レンガ達に投げかけられる愚痴も数多い。生き残った者達は瓦礫の山と化した街に戻ったが、無事な家はまるでなく、雪の降る寒空の下で身を寄せ合って夜を過ごす。毛布などで防寒対策をしてみても美しい雪の花が咲く街と呼ばれる雪花の街である。
ゼクロムの降らせた雨はやがて雪に変わり、濡れた上に薄く雪が降り積もってしまえば。団子状に寄り集まった人間の外側や内側に関わらず、自然の驚異が人間を冷たい骸に変えるのは容易であった。体の弱い子供も、それをかばうように抱いていた母親も、無慈悲に命が奪われて。この街を襲った黒き英雄も、助けてくれなかった偶蹄の英雄に対しても、恨みの声や嘆きの声は止まない。
食料は、最初こそ剣と甲冑を纏った兵士達が独占する形をとっていたが、民衆達が瓦礫と間に合わせの投石器、建材に使う角材に釘を打った物を手にして兵士達を攻撃し始めると、備蓄していた食料は数で圧倒的に勝る民衆が奪い取る形になる。
「と、言うわけでして……最初アオさん達は、ものすごく評判が悪かったですね……。こうなったのも、偶蹄の英雄のせいだって……口々に。何がどうなって、アオさんのせいなのかっていうと……『偶蹄の英雄達がゼクロムを本気にさせたのに守ってくれないというのはどういう事だ』って感じですよ。
理不尽なもんですよね……やったのはゼクロムだし、ゼクロムもきっと……この森の火災に関して憤慨したんだと思うんですけれどね。『人間同士の争いで自然にまで迷惑をかけるのは何ごとか』って」
一気に語って、ロゼは一息つく。
「そんな理由でゼクロムは人間を攻撃していたのか?」
ヒスイがロゼに尋ねた。
「わかりませんが……双龍ではレシラムが街を焦土にしていた事からもわかるように、完全に喧嘩両成敗って感じですね。スターからの情報ですが、こちらの地域にレシラムも動いたという情報が広まるのには、まだ時間がかかるでしょう……そんな自分達人間の問題からも目を背けて、民衆達は皆勝手にアオさん達を貶すばっかり。
『彼女らはお前らのために戦ったわけじゃないんだ』って……思わず正体晒して言っちゃいましたよ……」
ロゼは自嘲気味に言って肩を落とす。ロゼの周りには、アオ、レンガ、ヒスイ、ミカゲの四人。皆口数も少なく気が滅入っている。
「そしたら……どうなった?」
ろくな答えを期待していない様子でアオが尋ねる。
「まずあのコバルオンは『女だったのか』って、言われました。人間達はアオさんの事を男だと思っていたみたいです。それで……その後『超獣だから奴らの肩を持つのか』って……言われちゃいましたよ。この森の事を考えれば、こっちだって被害者だってのに……
だから、この際もう……すべて打ち明けてしまいましたよ。『偶蹄の英雄達は戦争のせいで森にまで被害が及んでいるから、戦争をさっさと止めてやろうと思っただけだ』って。ほかにも『ゼクロムもレシラムも関係ない、本当ならあのままゼクロムが街の住人皆殺しにして、人間が全滅してくれた方がよかったんだ』とか、『ゼクロムはテラキオンとコバルオンに恐れをなして逃げたのに、飽きて帰ったとか勝手な事を抜かすな!!』とか……」
「そしたら?」
やけくそな気分になり始めたアオは、力なく笑っている。
「石投げられたから、お返しに気合い玉ぶっ放してやりました。死なない程度に……それでまた石を投げられる前に逃げました……その後、別の人間に化けて街を歩いてみましたが、どうやら意外にも私の言葉をまじめに受け取ってくれた人は多いらしく……アーロンさんが来てくれて、上手く皆を統率してくれたおかげで、どうにかこうにかまとまっていた状況です。
アーロンさんがピジョットに乗って貴方の元に飛び立ったのも、その後ですね……」
「そうか……よくやったな、ロゼ」
アオは燃え尽きたように無気力に言う。
「これから、人間はどうなるのだろうかな……人が少なくなったから備蓄した食料だけで冬も乗り越えられるだろうか……」
「十分足りますよ。兵士達は嫌われていたので、装備を外して土下座して、頼み込んだら、瓦礫を片付ける事を条件にやっと食料にありつける有様ですがね……立場が逆転してしまって哀れなもんですよ……食料なんて、今や余るくらいあるというのに。
人間は良いですね……食料を貯蔵出来る技術があって」
ロゼは肩を落とし自嘲気味に笑う。呆れと失望を含んだ笑いであった。
子供達の時代「で、どうします?」
ロゼはわざと軽い口調で尋ねる。
「さっきも言ったとおり、街の火事はゼクロム自身が起こした豪雨で静まりましたからね……人間の食料は焼け焦げる事もなく十分足ります。ですから、盗みますか? 折角よくなった評判も落ちるかもしれませんが、少しくらいなら人間も目を瞑ってくれるかもしれませんよ?」
ロゼは尋ねる。もうどうでもいいやとでも言いたげな投げやりな尋ね方だが、内心断ってくれる事を望んで。『そんな事出来るわけないだろう』と言ってくれる事を望んで。
「やってしまおうか? 自分勝手な人間だって生き残れる程度に食料があるならば問題あるまい」
アオはヒスイ、ミカゲ、レンガ、ロゼを見回し、不敵な笑みを浮かべる。ロゼは期待したものとは違う答えを言われ、とっさに目をそらす。
「我々は、我々の必要な分だけ食料を奪おう。人間の不始末は、人間に突っ返せばよいのだ……」
言い終えると、アオは自嘲気味にため息をついた。
「と、言えれば楽なんだがな」
そんなアオの言葉は、つまらない冗談であった。楽観的な言葉をあえて言って、その道が『楽でない事』を強調するためのつまらない冗談だ。
「だが、現実は楽じゃない……そして、これはよしんば成功したとして私やレンガのような親の世代はよくとも、ヒスイとミカゲとミソギ……そしていつか生む事になるであろうコバルオンの弟か妹がツケを払う事となる可能性もある。
ヒスイ、ミカゲ……ミカゲはまだ大人とは言えないが、将来の事を考える事も不可能ではないはずだ。だから今回の事はお前達が決めろ……今年は森に住む超獣達を見捨て、餓死するに任せるを良しとするか、それとも人間達の敵となるか」
アオは二人を見回し、尋ねる。
「……ロゼさん。食料を盗んだら、人間はどうなります?」
ヒスイが尋ねる。
「盗むだけなら人間は死にませんよ。でも、森の住人が必要な分だけ盗んだら確実に人間も半数以上が死にます……まぁ、そこまで盗む事が出来るかという話でもありますがね……」
事実だけを淡々と伝えて、ロゼは返答を終える。ヒスイとミカゲはお互いに顔を見合わせ、黙り込んでしまう。そうしてお互い喋らないものだから、しびれを切らしてヒスイはアオの目を見る。
「母上、レンガおじさん……少しミカゲと話をしたい……良いか? あと、ミソギとも話がしたいんだ」
「もちろんだ。後悔しないように話して来い」
言い終えて、アオはレンガを横目で見る。
「構わん。じっくりと話しておけよ」
もちろん、ヒスイの問いにいいえという回答がつくはずもなく、二人は同意する。重要な決断とあって、気分も重いのであろうか、ヒスイは座っていた体勢から無言で立ち上がり、『行くぞ』とミカゲを促す声も酷く小さなものであった。
◇
防人は、親の代の防人が、子の代の防人を全て産む事で交代する。今、アオはビリジオンのヒスイとテラキオンのミカゲを産んでおり(次の代からはケルディオも含まれるであろうが)、あと一種、コバルオンを産めばアオの仕事はほとんど完了したと言っていい。
一年後か二年後か、それとも十年後か。この森にコバルオンが生まれ、そのコバルオンが一歳を迎えた暁には、アオはこの森を去り、自由に生きる権利と、二度とこの森に戻ってはいけない義務を背負い、あてのない旅に身を
窶すのだ。
子の代の防人が幼い場合は教育役として誰か一人を残す事もあり、アオ達のように立て続けに防人が生まれた際は、モエギがその役割であった。だが今回は、最年長であるヒスイが十分な年齢に達している事もあり、その必要もないだろう。
これからしばらくは戦争が起きる事はない。それは朗報であると同時に、もうこの森に対して自分が出来る事が少ないという事を意味していた。
「子供達が行ってしまったな……」
残されたレンガが呟く。
「ああ……二人で話し合って、奴らはどんな結論を下すのであろうな……」
まるで他人事のようにアオが返す。もう、今の世代で起こせる行動なんてあとわずか。そろそろ防人も新しい世代へと移行しなければいけない時期である。
だから、次の世代の子にも、そろそろ自分達で決める事も覚えさせなければいけないとは思いつつも、その最初の決断がこれというのは少々酷なものであっただろうか。
「ところでアオ。お前だったらどうする?」
ふと気になって、レンガが尋ねる。
「そういえばそれ、私も気になってましたね」
ロゼもレンガに追従してアオの方を興味津々に見る。
「私は何もしないな……いや、むしろこんな時こそ人間にメブキジカを狩ってもらいたいくらいだったよ……」
そこまではロゼとレンガの方を見ながらアオは言う。
「その人間も、もういないがね……ゼクロムのやつらめ……誰がここまでやれといったか……」
アオは目を合わせる事すら出来ず、項垂れてため息をつく。
「どうしてこうなっちゃったんですかね……」
項垂れたアオに対して、ロゼは胡坐をかいたまま手を後ろについて空を見上げてため息をついた。
「我と同じ答えか……お互い気が合うものだな、アオ」
レンガが言えば、アオは『まあな』と肩を竦める」
「もしも、『父さん達ならどうする?』って子供達に聞かれたら、同じに答えような」
「そうしよう」
レンガの提案にアオは同意する。同意した後、沈黙の中で思いを馳せるのは、子供達がどんな選択をするのか? 子供達がこれからどうなって行くか? 森はどうなるのかという事である。ヒスイはアオに負けないだけの才能を秘めているし、ミカゲだって決して弱くない。
きっと、きちんと仕込めば防人が弱くなる事もないのだろう。その証拠にミドリだって晩年はアオに届かないもののかなりの強さを得ていた事だ。だから、コバルオンを産んだ後にアオ達がこの森を去る事になるとしても、戦力に関しては問題あるまい。
今年は確実に多くの者が飢えて死ぬだろう。飢え死にというよりは、飢えてやせ細ってからの凍死という方が表現としては正しいが、そうなる前に弱った草食の超獣を肉食の超獣達がどれだけ頑張ってくれるだろうか。
食料というのは人間と違って一様になくなってゆくから、草食の超獣は一様に飢えてしまうわけだ。それは狩られて死ぬのよりも、ずっと性質の悪い苦痛を伴う。雪の中でも育つような強い草を奪い合いながら、一人、また一人と力尽きてゆくのだから、修羅のような地獄絵図である。
そうして草食の超獣が大勢減れば、今度は肉食の超獣が減ってゆく。何度かそれを繰り返すうちに、この森が回復するのは5年は先になるだろう。
プロポーズ「私は……こんな事なんて望んでいなかった……なんで、なんでこの森が火事で焼けなければならなかったんだろうな?」
空しさに打ちひしがれたアオの声が漏れる。
「私だって望んじゃおりませんよ。誰も望んでいなくっても、悲劇は起きる……この世界なんてそんなもんです」
月並みな励ましは出来ず、ロゼは無難な答えで返す。
「全くその通りだな……ロゼ。しかし、何も行動しなければ、もしかしたら放火が起きなかったと思うと……やるせない」
後悔しているような言葉。しかし、言葉の字面とは裏腹に、声色は寝言のように平坦なものであった、
「ですからこそ、これからどうするかをまじめに考えなきゃならないんですがね……アオさん達、先ほどは『自分達なら何もしない』とおっしゃっておりましたが……もしも、子供達が人間から食料を奪う道を選ぶならどうするおつもりで?」
ロゼが不安そうな面持ちで尋ねる事に、アオは笑う。
「説得するさ。私が感心するほどの意見で論破されるか、強引に事に及ぶまでは……」
力強い笑みであった。不敵な笑みであった。
「ロゼ、お前だって出来ただろう? 私を説得する事が……きちんと状況を把握し、相手の気持ちをわかった上で説得すればいい。感情論に流されそうになったら、それを救ってやればいいのさ……レンガやロゼがそうしたように。今度は私もやってみる」
「その意気込みが役に立たないといいがな……いい意味で。あいつらが、何も言わないでも正しい道を選んでくれるならば……」
レンガが笑う。
「ですね。親に頼らずとも良い答えが導けるならばそれに越した事はないですし……」
髪を掻きあげながら、のんきな声でロゼがつぶやく。
「あぁ、我らも、こいつらなら大丈夫だと思える状態で旅立ちたいものだ」
出来ればその時は来て欲しくないと思いつつも、レンガはいずれ来るであろうその時に思いを馳せた。
「その時は、私がコバルオンを産み、そのコバルオンが1歳となったときか……」
「いつになるのでしょうね?」
「発情期が来ない事にはわからんさ……ああ、だが……」
アオは気分もよさそうにそこで一旦言葉を切る。
「コバルオンの後継者を残すとき、旦那の候補がレンガかロゼなんだが……なぁ、ロゼ。私と子づくりをしないか?」
時間が止まったかのようにロゼとレンガが顔を見合わせて止まる。
「……レンガさん。私の耳、おかしくなっていない事を確認したいんですけれど、良いですか?」
「ま、まぁ……構わんが」
そんな間抜けな会話を繰り広げる二人を、アオは上機嫌で笑う。
「とぼけるなよ、ロゼ。お前、男なら私と番えよ……お前とならば、子供を残してもいいと真剣に思えるんだ。それにあれだ……近親相姦を防ぐためには、なるべく1人以上は防人以外の誰かと番ったほうがいいというのは……」
「もちろん知っております」
「だろうな。お前も以前話してくれた事だし……現に、ミドリだってモエギという名のビリジオンと、メブキジカの女との間に出来た子だし、ミソギだってそうらしいしな。
だから、私も防人以外の男と交わるのであれば……ずっと、お前しかいないと思っていたんだよ。ずっとな」
「そ、そうですか……」
いまだ現実を飲み込めない様子で、ロゼは頷く。
「お前との間に出来る子供が、ゾロアなのか、それともコバルオンなのかはわからない……だが、お前との子供ならば、なんであれ育てたいと思える。お前が、私の子供をあやしてくれたように……今度はそれが、お前の子供でもあるのだ。素敵だとは思わんか?」
「そりゃ、素敵ですけれど……レンガさん……メブキジカ以外とじゃ、やりにくくないですかね? 私、アオさんとは全然体型違いますし……」
レンガに許可を取るようにロゼが顔色を窺うと、レンガはアオの言葉にうなずきながら笑む。
「良い考えだと思う。私も、これまで我らを支えてくれたお前ならば……アオを預ける事も出来ると思うぞ」
ロゼは今までアオと何度も番う事を望んでいたが、いざ本当に言われてみるとひどく緊張する。
「ロゼ。私の目を見ろ」
「そうだ。真剣に向き合ってやれ、ロゼ」
レンガにも勇気づけられたはいいが、アオとまともに目を合わせるのが怖いくらいだ。
「はい……」
ロゼはアオの言葉に、はいと答える。答えて、意を決するために、心を落ち着けるために深呼吸を挟む。
「どうぞ」
そして、まっすぐにアオの目を見る。絶対にそらさないように、決心して。
「ロゼ。お前は、私のために役立ってくれたし、辛い時には励ましてくれた……たったそれだけかもしれないけれど。それだけで我らは行動の幅も広がった……何かを決める際には、私達を導いてもくれたし、きちんと意見を出してくれた。
指揮官のつるぎがいない我らにとって、ある種の指揮官の役割として活躍してくれた……」
「しかし、実際の指揮官はアオさんでした。私がしたのは微々たるものですし、戦争の情報を提供出来たのも数回だけ……」
「かもしれぬな。だが、謙遜はいらない……どのみち近親相姦を防ぐために、レンガ以外の誰かと番う予定なのだ。それとも、その辺のメブキジカに私が犯された方がよいというのならば話は別だが……だが、そんなのは私も御免こうむるよ。
だから、ロゼ。番え……お前が誰よりも熱心に私に恋心をぶつけて来たではないか? 断るにしろ、受け入れるにしろ、私がその恋心に答える義務があるとするのならば……私はお前にとって最高の答えで恋心をお返ししたいのだ。今でもお前が私を想うのならば、番え。それが私を喜ばせる最も有効な手段だ」
アオは、発情期でもないのに歯の浮くような言葉を。一切の照れも、恥じらいも、戸惑いもなく、まっすぐにロゼに向ける。
「わかりました。いずれ、貴方に発情期が訪れたその時は……番わせてもらいます。私の全身全霊で以って」
少々戸惑い、ためらいながらもロゼは言い切る。アオへの想いは、偽りではない。
「決まりだな」
お互い見つめあったまま、アオは確認するように口にする。隣で見ているレンガは、声もなく頷いて新しいつがいの誕生に喜びを露わにする。
そうして見つめあいながら、さすがに馬鹿らしくなってきたロゼは、立ち上がってアオを見下ろす。見下ろされるのが嫌なので、アオも立ち上がる。そこから先はお決まりの、熱い抱擁であった。アオの胸にある、羽毛のように柔らかな白い体毛のモフモフに、モフモフと顔をうずめてモフモフを堪能する。そのモフモフをアオは拒む事なく、いつまでもモフモフに身を任せて、ロゼの好きなようにさせていた。レンガは見ているのが恥ずかしくなって、その場を去ってしまう。
やがて、それにも飽きると、ロゼは顔を離して散歩がてらにアオと共に森の見回りを始める。お互いに、恋人である事を意識して歩いてみると、見慣れた森の景色も少し変わって見えるものだ。
アオも発情期の時は何度かこうして番と寄り添い歩いた事もあるが、発情期以外の日にこうして恋人同士となった事は初めてで、それが何ともこそばゆい。互いに、黙ったままというのもばつが悪く、先に口を開いたのはロゼである。
正義の心「アオさん、正義ってなんなのでしょうね……」
唐突な質問だったかもしれない。しかし、こうして沈黙が続くのならば、せめてその沈黙も何か有意義に使いたいと。難しい質問を投げかけ、その答えを考える時間にする事で有効活用するのもいいだろう。
「正直、わからない……アーロンは、自分の罪悪感を振り払うための……自分の悪い行いを正当化するための方便だと言っていた」
だが、アオはロゼの思惑を無視して即答する。
「私もそれを納得したよ。自分は、悪い行いを正当化するために正義という言葉を使ったとね……」
「何をもってして、そう思いました?」
「昔正義だと思っていたものが、今は正義ではなくなっている。そして、人間の言う正義というのが私には理解出来ない……」
「きっと、アオさんの正義というものも、人間は理解出来ないのでしょうね……」
ロゼがそう言うと、アオは『まあな』と苦笑する。
「アーロンさんも言っておりましたが、正義ってのは勝手なものです……私達が人間を殺したのも正義。レシラム派の奴らが私達を利用するために森を燃やしたのも正義……ゼクロム派の奴らがこちらを攻撃するのも正義。正義って本当に難しいです……同じ言葉なのに、誰もが違う手段と結果を描く」
「同じ人間でさえも、違う正義を描く……今の私、過去の私、もっと過去の私……そして、未来の私も。昔の私だったら、あの時……ゼクロムが雪花の街の人間を次々と殺していった姿に対して、『あれが正義だ』って声高に叫んだのだろうかな?」
「怖いですね。あんなのが正義だったら、この世界は簡単に滅びちゃいますよ……」
「そうだな……だからこそ、お前もミドリも、人間だって生かすべき奴はいると止めたじゃないか……なのに、私はそれを理解しようとしなかった。しかしまぁ、なんだ。神は賢いものだと思ったが、神でさえもあんな暴力的な選択をするのだな……それとも、神のやる事だからあれが正しいとでもいうのだろうかな?」
ゼクロムの大虐殺を思い起こしながら、アオは取り留めもなく疑問を吐露する。
「違うと思いますよ……だって、正義なんてものは人間のお偉いさんでも意見が分かれます。今回の税金の件だって、お偉いさん同士が自分が正しいと思った事を主張しているわけですから……神だって、間違うし、意見が対立する事もあるはずです。それがレシラムでもゼクロムでもね……だからアオさん。
ゼクロムやレシラムがした事を絶対的に正しいと思う必要なんてないですよ。確かに、あいつらの方が上位に位置する生き物である事には変わりませんが……。というかね、あの2柱の行いは正義である必要すらないんですよ……ただ目障りだから憂さ晴らしをしただけかもしれないし。だから、貴方の特性が正義の心だからって、気にしすぎです」
「正義の心……か。いまさら、だな……」
力ない笑みを浮かべて、アオは雲の多い冬空を見る。
「『正義の心』なんてものはかつて我ら防人と人間が仲の良かった時代にそう呼ばれていたというだけの話さ。侵略者を倒すために悪タイプのポケモンを利用する特性……まだ防人と人間の仲が良かったころ……この大陸の先住民達と我ら防人が、侵略者と戦うときにそう呼ばれたのだと聞いている……結局、防人は先住民を守りきれなかったがな」
「へぇ……」
アオが力なく笑うとロゼは興味浮かそうに、感嘆の声を上げる。
「その侵略者、コバルオンと戦ったわけでしょう? どうやってアオさんみたいな化け物を打ち破ったのでしょうね……」
「たった一人を倒すための作戦というのが、我ら超獣にはある……まぁ、一人どころか三人いたわけだが。大軍同士の戦いでは、実用性に乏しいから規格外の大将格がいない戦争では使われないが……まぁ、私達を相手に使うのであれば無駄ではないだろう。
呪いや滅びの歌、黒い眼差しにとおせんぼう、頑丈の特性を利用したダゲキの抱きつきや、電磁波の飽和攻撃。水の誓いと草の誓いの合わせ技と、飛行するポケモンの波状等々……それに、もしかしたら食料に何か薬を混ぜられていたのかもしれん。
そんな手段を用いれば、我らを殺す手段もなくはないよ。超獣も少数ならば使役する技術があるし、秘伝の技術として伝わっている……お前の昔のご主人……超獣使いはもともとこの大陸の先住民だと言うが、それが一人でも裏切れば、私達を殺すためだけに全力を尽くすような作戦を行う事も不可能じゃないのかもしれない。
不可能じゃないけれど、そのたった一人を倒すための作戦は準備には時間がかかるから……そうだな、準備する時間がたくさんあったのだろう、その侵略者は。我らもこのまま戦いを続けていればいずれ対策される。レシラムもゼクロムも、かつてはそう言うたった一人を倒す方法にやられた事もあるのかもしれないな」
先祖から脈々と語り継がれる物語を上機嫌で語って、アオは微笑む。
「話が逸れた……正義の心なんて特性の呼び名は、その頃の名残だ。今となっては、私がやっている事は正義なのかどうかもわからんよ……そして、正義の心なんて関係ない。私は自分が正しいと思えなければ、つるぎを振るえないくらい臆病なだけだ……『勇敢じゃないですか』、なんてつまらないフォローは入れるなよ?
自分が間違った事をしていると思いながら、行動を続ける事が出来ないのだから……臆病とは違うかもしれないが、私の言葉じゃそれくらいにしか表現出来ないんだ……」
「善人であれば、すべてが救えるならば、この世界は上手く回るのですがね……」
「すべては救えないだろうよ。病気や災害、飢饉は善人だから防げるものではない……それでも、この世界が善人ばかりならば、あるいは戦争くらいはなくなっていたかもしれんがな……私は、正義を振りかざし悪を行った事もあるし、今は善人にすらなりきれないコウモリのような存在だ」
「確かにコウモリかもしれませんが……」
ロゼがいいかけて首を振る。
「それでも私は……貴方の為そうとした事を評価します。貴方とともに歩みたいですよ……臆病だっていいです。人間との関係を変えようと思った貴方と共に……善人であろうとしたっていいじゃないですか。
獣はどうあがいても鳥になれなくってもいいじゃないですか。たとえ羽をもたない鳥、空を飛ぶ獣……中途半端な偽善者だとの知られようと、コウモリとして胸張って生きていきましょうや……アオさん。私は命ある限り、貴方についてゆきます」
言い終えて、肩の荷が下りたようにロゼは微笑を浮かべる。
「なんだ。私に迫られた時は消極的だったくせに、きちんと言えるではないか。私と番って伴侶になると」
「そういう意味ではありませんから……だから、恥ずかしがらずに言えるのですよ、アオさん」
「じゃ、そういう意味でも言え。いまさら私との交尾など恥ずかしがる必要もなかろうに……」
「発情期でもないのに、そんな事を言うとは淫乱な防人様ですね」
冗談めかしてロゼが言う。
「お前こそ玉無しか」
それに、アオは噛みつくでも恥ずかしがるでもなく甘噛みで返して得意げに笑う。
「熟年のくせにいい年して」
気付けば、二人とも声を荒げる事の無い、穏やかな口喧嘩が始まった。子供が甘噛みしてじゃれあうようなその口喧嘩は、二人の毒舌のボキャブラリーが尽きるまで行われる。
「……ほら、何とか言ったらどうだ、ロゼ?」
そうしてしばらく経つと、お互い出せる言葉もなくなってゆく。
「アオさん、そちらこそ……くく」
「ふふ……お互い、口が悪いものだな」
「えぇ、喧嘩じゃ絶対に勝てないけれど、口喧嘩だといい勝負になるのが面白くって、つい熱くなってしまいました……」
唐突に始まった口喧嘩が終わると、二人とも健闘をたたえあうばかり。それも終わった後はもう言葉もなく大いに笑い合った。
そんな口喧嘩を終えたころには、あたりはもう真っ暗だ。
「なぁ、ロゼ……私は防人としてこの森を守ってきた……まだその仕事を終えるのは最低でも二年以上先になるが……もう人間もあんな状態だ。人間と武器を構える機会も、もう有るまいな……」
「そうでしょうね……アオさん、肩の荷が下りたような……最近そんな感じです」
「実際、肩の荷も下りた。もう、子供の世代まで人間との諍いもなかろう……もちろん、森を襲うボルトロスやトルネロスには気をつけねばならないだろうがな……私達の保護者も、トルネロスにやられたから……」
「でも、アオさんならば楽勝でしょう? ビリジオンじゃあ、確かに相性の関係で無理かもしれませんが……もしもボルトロスやらトルネロスが現れたのならば、私も死ぬまでお供しますよ。アオさんが死ぬところなんて想像出来ませんがね」
「ふふ、頼むぞロゼ……」
上機嫌でそう言って、アオは一度深呼吸。
「防人の仕事を終えれば、私はただの強くて長生きな超獣として、背負う立場もなく身軽に生きる時が来る……防人をやめた後も、お前はついてきてくれるか?」
「アオさんが望むのならば、このままヒスイさんやミソギさんに仕えるでもいいです。ですが、私は……その……アオさんにそのままお仕えしとうございます……」
「ロゼ……ありがとう」
「何をいまさら。貴方の感謝はいつだって感じております。そんな風に改まらずにいつものように軽い気持ちで言えばいいのですよ」
ロゼはアオの首を叩いて笑う。
「なあ、ロゼよ。私は、防人として生まれたおかげで気軽にじゃれあいながら喧嘩して、勝手気ままに草を食べながらその日暮らしをする事が許されなかった」
「それは、貴方にとって不幸でしたか?」
突然、自分のこれまでの内情を明かすアオに、ロゼは質問で切り返す。
親密 いいや、とアオは首を振る。
「こんな強靭な体を持って生まれてきた。この体のおかげで、メブキジカには出来ないような事をしてきたし、これからも出来る。さらに言えば狩られる心配もないと来た……それを考えれば不幸だなんてとんでもないさ……だが、憧れていた。
何も背負う事の無い身軽な生活に、ずっと憧れていた……そして、お前は擬似的にそれに引き込んでくれたな。防人を防人とも思わない、胸の体毛を味わうためのあの抱擁で」
「あれはただの下心です。それをすごい事のように言われては複雑な気分ですよ」
「そうだ、私に下心を持てるお前だからこそなんだよ。……我ら防人は、死んだときにその死体の処理をこの森の住人にお願いしても断られる。
防人様の死体など、畏れ多くて食べられない……とな。だからわざわざ、遠くに住むバルジーナに頼まなければ死体の処理も出来んのだ……しかし、お前ならば……」
「縁起でもない事言わんでくださいよ……」
「私が死んだ時にその死体を食えとは言うつもりはない。防人をやめた後の放浪の旅でも、お前とならば気兼ねなくなんでも話せそうだと思ったんだ……さっきの、悪口の言いあいも、楽しかったぞ。
私に暴言を吐くなど畏れ多いからって森に住む者は皆が言うだろうからな……だから、お前以外の他の誰とも出来ない、暴言合戦は最高のひと時だった。楽しかったよ……またしたい。旅先で、どこか知らない場所を巡りながら……」
「そのための、私……ですか?」
ロゼの問いに、アオは頷く。
「私と番うのは、その準備段階のようなものだ……いきなり私と一緒に旅に出ようなんて言うのも不躾だからな。だからこうして、お前と親密になる機会が欲しかったのだ。正直に言おう……お前が好きだから、一緒に居たいのだ。
防人としての役割を終えると、自由に生きる権利を得る代りに、この森へ戻らぬ義務を与えられる。そして、レンガとも別れなければならぬ……その時に、隣にお前がいてくれるのならば……私は嬉しい。人にとって、空間は居場所となり故郷となるかもしれんが……私は旅に出なければならないからな。だからこそ、お前という人物を居場所とし、故郷としたいのだ。常に傍にある、心の帰る場所に」
「お供します」
「今日のように、じゃれあってくれるか?」
「もちろんですよ」
自信に満ちた表情を見せつけてロゼは笑う。アオはこれ以上の言葉を必要とせず、歩きながら体を寄せると体を傾けてロゼに体を寄り添わせる。ロゼは、肩に掛る金色の飾り毛を避けてそれに応え、互いにぬくもりを味わいながら森を練り歩く。
そのうち、ロゼの腹の虫が鳴る。
「腹が減っているのか?」
それを感じ取ったアオは、笑ってロゼに尋ねた。
「えぇ、まぁ……」
「行ってこいよ。私はその辺の草……は、今年はもう無いかぁ。木に登って木の葉でも食べているからさ」
「わかりました……それでは、失礼します」
そうしてロゼは、アオと別れる。アオは引き続き森の見回りへ。ロゼは、食料の確保のために狩りへと赴いた。
餓死者が出るくらいなら食べてしまえとアオは漏らしたのだ。あとはこの森にいるうちだけでも出来るだけ狩り殺そう、残酷な行為ではない。むしろ、餓死の方がよっぽど残酷な死に方なのだ。
もう草も食べつくされ、木の皮を剥いで食料としている焼け跡の森で、これからの食糧をどうするか、いっその事若い者にこの森を残して引っ越そうかなどと途方に暮れる年老いたメブキジカに狙いを定め、ロゼは樹上から爪を振り下ろす。あわてて逃げて行った若い仲間を見送りながら年老いたメブキジカが最後に見たものは、絶望だったのか、それとも安堵だったのか。
(……苦しみ抜いて餓死させるくらいならば、殺してやった方が幸せなのだろうか)
そんな風に考え始めてしまうと、本当に何が正義なのかわからなくなる。苦しまずに殺してやる事が正義なのか……だったら、わざわざ運動して腹を減らしてまで食う事は正しいのか? たとえ普段は正しくないとしても、今のような確実に飢餓が訪れる状態ならばどうなのか?
(わからないな……何が正義で、何が正しいのか……)
森は、これからどうなって行くのだろうかと一丁前に心配しながら、ロゼは年を取って味の落ちた肉を食む。
「私が、アオさんと番い、その後もずっとご一緒するのか……ならば、体力をつけておかないとな」
そのために、必要以上に食べる事もありかななどと、ロゼは大義名分を用意する。今年の冬の餓死者の数を想像していると、ロゼはもう味なんてわからなくなってしまった。
指揮官のつるぎ「それで、話は決まったのか?」
一日を、ずっと話し合って過ごしたらしいヒスイとミカゲは、話し合いに参加させる予定のなかったミソギまで引き連れて、アオとレンガに結論を言いたいと言ってきた。
三人はもったいぶってレンガとロゼを集めるまで待って、防人とそのお付きが集まったところで、アオが切り出した言葉にヒスイ達は頷いた。
「結論としては何もしません」
ヒスイは真っ直ぐに母親を見つめて答えを述べる。
「なぜそう決めた?」
「我々は今年、多くの者が飢えて死ぬでしょう……しかして、それを人間の食糧で補ってどうするというのです。それでも到底足りない事は目に見えておりますし、たとえそれで生き延びたとして、来年もまた食糧が足りなければ意味はありません。
森が戻るまでの間、人間から食料を奪ったり、貰ったり、そんな事を繰り返すわけにもいきませんし……人間に弱みを見せず、毅然とした態度で接して初めて、我らは人間に自分達が同じ身分であると示す事が出来ると思うのです。
同じ身分、同じ階級、同じ次元に属するものと認められ、初めて対等であり、対等でなければその弱みに付け込まれる。そんなのはごめんです……人間より優位に立って、人間を支配しようなどとは思いませんが……互いにお互いの存在を尊重しあえるようにはしたいと思っております」
ヒスイはそう述べる。
「だったら、こういう時余計に助け合うべきだとは思わないのか? 人間から、食料を貰うというのは考えなかったのか?」
そして、アオはヒスイに対してより突っ込んだ質問を投げかける。
「我々には我々の、向こうには向こうの暮らしと、都合と、世界があります。簡単に踏み越えてはならないし、踏み越えさせてはならない……ですから助け合うときは、双方に利益のある事だけで良いのではないでしょうか?
確かに、私達がアーロンに乞われて街の手助けに行ったあれは、タダ働きでしょう。ゼクロムを追い払ったレンガさんのあれも、タダ働きでしょう……でも、伝えたい事を伝えられました。ロゼが、伝えてくれたんです……『我々にとって人間は敵ではない』そして、『我々は人間の敵ではない』と。
でも、同時に超獣は『味方』ではない事も明確に伝わってしまったはず。困った事があれば助ける事もあるけれど、人間が困った事をしてくるならば容赦なく牙を振るうと、ゼクロムやレシラムの行動でそれを理解したはず。
味方でも、敵でもないけれど、目の前で死なれれば後味が悪いから助けるくらいの事はしてやっただけ……我々は、『何もしない』事で、その態度を示そうと思っています。あちらが何もしなければ助けもしないし、殺しもしない……アーロンさんはまだしばらく雪花に滞在しているはずだし、それを上手く伝える方法もあるはずです……」
「なるほど」
ヒスイの答えを聞き、満足気にアオは頷いた。
「ヒスイもミカゲも、きちんと自分なりの答えを出したんだな……」
「ワシじゃ」
感慨深く、レンガがヒスイとミカゲに向けて口にした言葉を横取るように、ミソギが言う。
「ヒスイの言い分などワシの受け売りじゃ……のぅ、ヒスイ?」
まだ1歳に満たないはずのミソギは、幼さを排した口調をしていた。まだ角も生えそろっていない、赤い鬣が生え始めたばかりの若輩者だというのに、まるで母親が乗り移ったかのような口調にアオとレンガと、ロゼは驚いた。
「母親が死んだ影響なんですかね……まだ火事から1ヶ月も経っていないのにいきなりこんな感じで、生意気になってしまって……でも、ミソギの言い方はちょっと語弊がありますね……
最初に言った、人間から貰った食料で補っても、また次の年に食料に困窮したら意味がないと。その点だけは、ミソギの発言です……」
「むぅ……」
ヒスイにいいとこどりを阻止されて、ミソギはむくれた。
「こらこら、むくれない、ミソギ。ミソギの発言は子供らしい率直な発言ですが、言いえて妙です。そこら辺の事を話し合いが始まってすぐに言ってくれたミソギは……良い指揮官のつるぎになるんじゃないですかね」
「なるほど。こんな年端もゆかない子供にすべての案を先取りされたなんて言われたら、母さん泣いてしまうところだったぞ」
自分の事を久しぶりに母さんなどと自称して、アオは笑う。
「では、何もしないために、我々は何をするべきだ?」
「自分の問題は自分達で解決する事です。食料問題は……まぁ、無理ですね。酷な言い方ではありますが、草食の超獣が死ぬ事、殺される事でしか解決はあり得ない……我ら防人ならば殺す事は可能ですが、それも手段としてはありえないでしょう……。
何もしない。何も出来ない……我々は無力かも知れません……ですが、外部から害をなそうとする者がいるのであれば、その時だけは我々防人は全力で以って、事の解決に当たります。何かしましょう。
その、外部から害をなそうとする者が人間であれ、何か未知の超獣であれ……それをどうにかして、立ち向かえばいいんじゃないでしょうか。もともとは、そのための防人なんですから……」
「良い答えだ……」
ヒスイの答弁を聞いてアオが満足げにうなずく。
「どうやら、我らの代が去ってもこの森は安寧らしいな」
続いてレンガがそう言って、かつて番い合った二人の男女は微笑み合う。あとは、アオがコバルオンを産み、1歳まで育てれば防人の仕事も終わる。それまでの間に、人間の動きもないだろう。モエギが死んだあの時のように、外敵が攻めてくる事もあるかもしれないが、戦力となる防人も多く、ロゼのような頼もしい仲間もいる。
この森が平和なまま親の代は去るだろうと、誰もが予想しそれを願う。
世代交代という新たな時代の夜明けは、緩やかに近づいていた。
番う 翌年、アオはロゼを木が生い茂る人気のない木立へと連れ出して、毛繕いをしてもらう最中に改まった表情で口を開く。
「なあ、ロゼ。実は今日な……発情期が来てしまったんだ」
ロゼが指で体毛を梳く手が止まる。
「匂いがしても気のせいだと思っていましたが……去年、番うと決めた翌年にそれですか……今年は暖かいですが、アオさんの体は不作を予言しているのですか?」
「いいや、自己暗示で何とかした……」
「あのですね……自己暗示でどうにかするとか……そんな事ばっかり毎年やっていると、いつか体悪くしますよ?」
本来、寿命が長い防人達は、食料が不作の年を狙って発情期が来るように体が出来ている。冷夏のような不作が見込まれる年の冬には発情期が訪れ、その時に雄達にもようやく発情が伝播するのだ。
危ない時に子孫を残そうとする本能が、強く働く時こそ交尾のチャンスとばかりに、防人達は代々そうやって血を受けついで来たのである。
アオが以前言ったように、雄がメブキジカなど防人以外の雌と交わる事で深刻な近親相姦を防いだりする事もあり、事実ミドリはそうして生まれた子供であり、昔ミドリとレンガの間に子供が出来た時もミドリはこっそり一人のメブキジカと番っていたりもしたのである。
ただ、その時に防人。つまるところのビリジオンが生まれるとは限らず、結局生まれたのは普通のシキジカであった。今回も、ロゼとアオが番うと言ってもコバルオンが生まれる保証はどこにもないわけある。
「だからお前が元気なうちに、子供を産んでおきたいのだ……それがたとえ、ゾロアであってもコバルオンであってもな」
なんて、アオが思っている間は不作の年を待つなんてのんびりした事は言っていられない。ロゼももう11歳、若くはないのである。そう思って、発情期になってしまおうという自己暗示の末、彼女は見事発情期を強引に引き起す事に成功した。まだまだ、発情期も初日。今のところ雌の匂いは薄いが、明日になれば熟れた果実のように濃厚な雌の匂いを放って雄を誘う事であろう。
普段は防人が優先権を得る防人との性交だが、栄誉ある例外にありつけるロゼは幸せ者であると、森中のメブキジカから嫉妬の嵐。しかして、彼なら仕方ないとする声も声高に、祝福の声は止まない。
たとえ、ゾロアークという狩る者と、メブキジカという狩られる者の関係であっても、森の一員として緩やかな仲間である事は変わらず、また防人のお付きとして尊敬される立場なのである。
「これで、コバルオンが生まれればアオさんはこの森を去るわけですよね……」
「それが義務だからな……」
「なんだか、寂しいですよね。愛着のあるこの森を離れるなんて……」
寒い冬空を見上げて、ロゼは物思いに浸る。先ほどまで止まっていた毛繕いを再開させて、ため息をついた。
「なあに、心配するな。旅先で、同じように旅をする防人達を見つけたならば、その者達と話し合って新たな森に定住する事は認められている……私の三代前の防人も、そうして森に住みついたのだからな……
運が良ければ、きっと新しい森が見つかるさ……我らが住むにふさわしい、新たな森が……」
「それとこれとは、別問題ですよ。アオさんはサバサバしすぎです……あ、ノミだ」
「かゆいと思ったらやっぱりか……とってくれ」
「はいはい」
ロゼはノミを潰して取り去りながら苦笑する。新しい住処が見つかればいいのではなく、知り合いがいなくなるのがまずいのだとロゼが説明すると、彼女は仕方がないの一点張り。寿命が長い防人は、防人が1世代交代する前に、同じ年に生まれた知り合いが誰もいなくなる事だって珍しくない。
「だから寂しくはないさ……別れには慣れているんだ。お前ともいずれ別れる事になるだろうし……」
死別と言わずとも、老いた相手と若々しい自分。それだけでも別れに等しい感覚のすれ違いが生じてしまう。老いた友に合わせる顔もなく、気まずくなって疎遠な関係が続けば、いずれアオの知らないところで訃報として耳に届く。
「それでもお前は、命ある限り私についてゆくと言ってくれた……それが嬉しいからな。たとえ、お前が私の寿命についてこれなくとも、お前の子供が一生傍にいてくれるだけでも私の心は救われるし……お前とならばどこで野垂れ死のうとも、悪くはない」
「そう言ってもらえると嬉しいのですがね……でも、先に死ぬのはほぼ確実に私なんですよね……あぁ、でも死ぬまでアオさんが一緒なのかと思えば、悪くないかもしれないな」
「嬉しいならば抱き付け。死ぬまで一緒に居たいなら抱き付け。もふっと、胸に顔を預けて見せろ。いつものように……そしてその腕を離すな」
いまいち乗り気ではないロゼを見て、緊張をほぐしてやる必要があるとでも感じたのであろうか、アオはそう言って笑う。
「お言葉に甘えましょうか」
齢23を迎えてなお若々しい彼女の笑顔を見て、ロゼもつられて笑う。胸の真っ白い体毛を見据えればもうやる事は決まっていて、アオの大きな体に上体を預けるのみである。
肩に、首に腕をからませ、アオの胸のモフモフにモフモフと顔を埋めてその匂いを、感触を存分に味わうのだ。そうすると、普段は幼い子供のように無垢な香りだというのに、金属と草の匂いが混ざるいつもの匂いの中、確かな雌の匂い。
普段は性別を意識させる事も無く、メロメロの技も使えず、惑わされる事も無いアオだが、彼女の体臭がまぎれもない雌のそれとなり、ロゼは思わずいつもより深く吸気する。
肺の中に雌の香りが充満する事で、何とも心地の良い魅惑の感覚。雲のように大きく、柔らかな綿の上に寝転ぶような安心感と浮遊感。このまま眠ってしまいたくなるような脱力が襲う。しかし、アオは棒立ちのまま、微動だにせずにいる事で、このまま続けろとばかりの無言の圧力。
母親に甘える子供のように胸の中に顔を埋め、気づけばどれだけ経ったであろう。時間を飛び越えたのか、本当に時間が経っていないのか、眠っていたかのように時間の感覚が皆無であった。
正気に戻ったわけではないが、ようやく自分がアオに何をしているかを思い出して顔を離すと、顎に力が入らないまま弛緩したロゼの顔。見上げてみるとアオの顔は明らかに笑いをこらえていて、そこでようやく自分の情けない顔に気付く。
「なんという顔をしているのだお前は……くふっ……」
「……貴方のせいですよ、アオさん」
「人のせいにするな。自分の気が緩んでいるからそうなるのだ……」
アオは口元にたたえた笑みを顔全体に及ばせ、一言付け加える。
「だが、嬉しいな。私の女としての魅力はまだ枯れていないようだ」
「えぇ、貴方はいまだ美しいままです。もう11歳の私はもうおじさんで、若ぶってはいられませんがね」
「だから早めに発情期を来させたんじゃないか。お前が番える年齢である内にな……」
「まだまだ下半身は機能しております。心配しないでくださいな」
「ほう、ならば私をきっちりと孕ませてくれよな」
「望むところです。あのモフモフのせいでこっちもその気にされちゃいましたし、今すぐにでも」
「ほう……楽しみだ」
「うわ、何か失言したかも」
ロゼが俄然やる気を出してみると、アオは非常に面白がった顔でロゼを見下ろす。
そうして2人は、アオの求めるままに何度も交わる。確実に子を為せるよう、日に何度も、疲れ果てるまで。
アオとの間に強い防人が生まれるようにと、行為を繰り返しているうちに、ロゼがあらかじめ狩っておいた食料も瞬く間に尽きてしまった。
発情期が終わり、多くのメブキジカが飢餓状態から凍死へと移行する。ロゼは、やせ細りまずくなったその肉を食みながら、アオとの情事で失った脂肪を取り戻し、必死で太った。いつもよりも必死で食べ、太った。
そうして冬が過ぎる。
季節が巡る。