防人、アオ - 本編
第一話:アオとミドリのせいなるつるぎ
対立

 木々が生い茂る山の斜面のギャップ((木々の隙間。日光などが差し込む場所))から、二人は廃墟となった人間の集落を見下ろして、決めあぐねていた議題の話を始める。
「お前はこの平和がいつまでも続くものだと思っているのか?」
 この森を守る防人の働きで村が一つ亡びてからというものの、森はすこぶる平和で人間との小競り合いも皆無となった。
 しかし。雷紋と双龍を起点に二分にされたこの国の諍いは日々殺気を高めており、いつ戦争が始まってもおかしくない状況だ。
「そんな事は分かってる」
「そうか、じゃあ……」

 人間は、この世界に於いて神に次いで力のある生物だ。
 人間など先手を取れば、倒すのは容易だ。しかして、それは人間にも同じ事が言える。万全の準備を以って人間が自然に反逆し攻めいれば、準備のない獣は、例え抗う者が神に近しい力を持っていようとも蹂躙されてしまうだろう。
 人間も生き物であり、自然の一部である。しかし、人間が自然の調和を乱そうとする兆候はいつでもある。いや、現に人間はむしばんでいる。
 幾つか森が消えたという報告は、鳥達から風の噂で聞こえてくる。これが続けば、いずれ森が地上から消えるかもしれない。更に続けば、遠からぬうちに取り返しのつかないような大惨事を引き連れ、人間は他の種を道連れに自壊するだろう。
「確かにそうだが……」
「じゃあ聞こう。それを、知った上でどうしてお前は踏み出せない?」
 青色の獣が問い詰めるがしかし、(みどり)色の獣は決心がつかず踏み出せない。
「人間を殺す事が正義だというのか!?」
「正義だよ。確実にな」
 青い獣はきっぱりと答える。
 緑色の獣が問いかけるように、正義とは難しい。正義というのは敵がいなければ成り立たない。しかし、その『敵』とは『悪』であるとは限らない。なんせ、『悪』の対義語は『善』。人間は、悪意を持って生活しているつもりなんて無く、それぞれの思想に従って生きているのだ。
 悪ならば滅ぼす事は精神的に容易でも、敵ならば滅ぼす事に躊躇してしまう。敵にも正義があるのだと、一瞬でも躊躇してしまえば心の弱い者は手が出せなくなるのだ。そして、緑色の獣はそういう性格であった。
「ミドリ……お前の言う、守るための正義というのは不完全だ……森を受動的に守るだけでは、もう限界だ。能動的に攻め込んで守る事をしない事にはどうしようもない」
 青色の獣は言う。
「だが、人間を皆殺しにするだなどと、そんな事は私には耐えられないって何度も言っているだろうに……アオ。何度この話題を繰り返す気だ、アオ」
 ミドリと呼ばれた獣は首を振って反論する。
「その甘さが、悲劇的結末を許す事になろうともか? お前は甘すぎるのだ。大体、正義じゃなくてはお前は動く事も出来ないのか!? 自分のために、私利私欲のために動く、どんな超獣(ポケモン)も、人間だって普通にやっている事じゃないか」
 アオと呼ばれた獣は溜め息をつく。
「一人か二人……見せしめに骨の一つや二つ折ってやれば、人間は恐れおののいてくれるのか? そんな甘いものではなかろう……」
「だから殺すのだ。甘いのはどっちだ、役立たず。お前は自分が正義だと確信出来なければ傷を負わせる事すら出来ない臆病者なのか?」
 ミドリは若草色の体毛を揺らして折衷案を提示してみるが、アオは首を横に振る。
「中途半端にやれば、人間は大挙して攻めてくる……私も多少ならばそれを返り討ちに出来るが、いつかは負ける時が来る。それに、人間が攻めてきたところを迎え撃つにしたって結局は人間にそれなりの被害を負わせないと終わらない……守ってばかりでも殺す事は結局同じだ。
 火砲の材料になるクラボの木を伐採出来ず困窮した人間は、目障りな我らを排除しにかかる。二年前のあの時、お前だって死にかけたのをよもや忘れたとは言わさないぞ? あの時、レンガが守ってくれなかったら死んでいたんだからな、お前は!! 私だって死にかけた!」
「もうあんなヘマはしないし、私だって人間の誘いにホイホイ乗る事はしない……もう、私が死にかけた事なんていい加減気にする必要もなかろう?」
「それが甘いと言っているのだ。人間が本気を出すという事がいかなる意味を持つか……結束し、準備した人間は並大抵の事では勝てないぞ? 例えば、暴れる川を治められるのは、人間のみだろう? 人間が……暴れる川を治めるような力を、私達を殺す力に変えれば……ひとたまりもないだろうよ。それを放置するのは馬鹿な考えだ」
 ミドリをあざけるようにアオは言った。
「私は、敵対するもの達であれ殺したくは無い……」
「その思想が味方を殺すとしても同じ事が言えるのか?」
 意地悪な質問だと、アオ自身も思う。しかし、もう人間は数を減らさなければどうにもならない。
「この国の人間の数を減らせば、他国から侵攻を受けてしまう。私達が人間を殺してしまえば……そこに住む者達は蹂躙されてしまうのだぞ」
 と、ミドリは言うが、アオはそんな意見を鼻で笑う。
「知るか。我らに殺される原因を作ったのはどこのどいつだ? 人間だろう? 人間が人間に殺されたところで、こちらに何の被害があるものか。
 どちらにせよ同じ事よ。私達がひたすら人間から木を守っているせいで、木を切れなければこの国は負けるとか、そこまでの大局が決まるかは分からんが……この森の木を守る私達の存在が戦争の勝敗にかかわるのならば、ミドリ。お前が言う『ただひたすらここの木を守る』という行為は、間接的に人間を殺している事になるのだぞ? クラボの木は戦争時には高く売れるからなぁ……木クズを発酵させれば自然の恵みの原理を利用した火砲の火薬にもってこいだから、今や廃墟となったあの村も、不作の時には出稼ぎの代わりに木を切っていたじゃないか。
 あの村の住人、私達が木を切るのを邪魔したせいでいったい何人が飢えて死んだのだろうなぁ、え? 今はもう村自体がなくなっているが、そういう問題でもないだろう? 直接殺さなければ問題ないというのならば、その思想、歪んでいるとしか言いようがない。殺されるよりも飢えて死ぬ方がよっぽど残酷な死に方だ」
「だが、直接殺すというのは……」
 お茶を濁そうと、あいまいな言い方をするミドリの煮え切らない態度に、熱くなっているアオは容赦などしない。

「それに、むしろ人間が蹂躙されようと知った事ではない。人間が大量に死んで戦争がそれで終わるのならばむしろ歓迎すべき事じゃないか。人間同士が奴隷になったり、奴隷を飼ったり、それが我らにどんな影響をもたらすというのだ? 人間同士の関係なぞ、鼻で笑えよ、ミドリ。
 それに、この国の人間が奴隷になるのが忍びないならば他の国にでも攻めいってしまえばいい。私達が戦場をかき回せば人間同士の戦力も均衡して、消耗戦になれば人も減る。
 (みなごろし)とまではいかなくとも、人口が減れば人間の活動は可愛い物よ。人口さえ減れば……彼らは世界に影響を与えはしないし、戦争が終わればクラボの実の需要も建造物や砦の需要もあってないようなものだ」
「誰も死なない方法は無いのか?」
「あるわけないだろ? お前は夢でも見ているのか?」
 ミドリはアオに問いかけるが、否定の言葉は間髪入れずだ。

「草は、草食動物よりも遥かに多い数で繁茂し、草食動物は肉食の動物よりも遥かに多い個体数で存在している。世界は、多すぎる者は少なくされるように抑止力が働いてしかるべきものだ。
 しかし、人間にだけはその理が通用していない。自然がその理の役目となれないのなら……私達三つのつるぎ……自然の中でも高位の存在がでしゃばるしかないのだ。どうしてお前はそれが分からないのだ? それでお前は防人のつもりか?」
「分かっていても出来ない事は……」
「は、子供のような言い訳を抜かすな、この糞が。甘いんだよ、お前は……ミドリ。お前のその甘さで何人見殺しにする気だ? 人間も、メブキジカも、ミネズミも、ハトーボーも、ロゼも、レンガも、スターも、私もか!?……それだけ見殺しにするなら、いっその事人間を先に直接殺せば万事解決じゃないか」
「私には、殺して平和を勝ち取る事など無理だ!!」
「腰ぬけ!! 腑抜け!! 煉瓦(レンガ)はすでに了承して久しいというのに、何故お前だけ頑なに協力を拒否するのだ!?」
 互いに語気を強めて言い争う。腹這いになって伏せていた二人は、いつの間にか四肢でしっかりと大地を踏みしめ、首を下げていつでも角を相手に突き刺せる体勢をとる。相手に向けた鋼鉄の角と、堅木の角が鈍く光りを照り返した。

「私達は三人で一つ、三位一体になれば恐れる事なんて何もないというのに、臆病者も甚だしい」
「私自身が死ぬ事なら恐れていない!! 私が恐れているのは、罪なき者が苦しみに喘ぐ事だ!!」
「その犠牲が、自然の均衡を産むのだ。私達超獣という天秤の皿に急速に物を乗っける事が出来ないならば、人間という皿から物を取り除かなければ均衡は生まれない。そうだろ?
 何度でも言うぞ、ミドリ、協力しろ!!」
「無理だ!!」
 いつも、言い争いはこれ以上は発展しないし、二人もさせるつもりは無い。ミドリは戦いが嫌いだし、アオは人間との戦いに備えて五体満足でいなければならない。互いに、意見を押し通すために暴力を使う事が叶わないのがもどかしい。
 長い沈黙だった。お互いに首を下げて角を向け、いつ突進を始めるかも分からない緊迫した空気。やがてお互いに首が疲れてこの体勢が馬鹿らしくなると、互いに溜め息をついて間逆の方向に踵を返して歩いて行った。

発情期

 人間は数が増えすぎた。アオが何百回も口にしたこの言葉の意味は、ミドリも分かっているつもりだ。
 ミドリの種族名はビリジオンといった。正義を貫くために神から与えられた頑強な角を持ち、若草色の体毛で草原に溶け込みながら、道なき道を風のように駆け抜けては超獣達を守り抜く聖なる存在として伝説に語られている美しい超獣だ。
 ミドリ、と呼ばれている彼がそう呼ばれる理由は、なにも体毛が緑色だからではない。彼は、守るべき対象を看取る事をよしとしており、出産の際に絶命した名も知らぬメブキジカを生まれたその日に看取ったりもした死に敏感な男である。それゆえにミドリ(見取り)と彼は呼ばれている。

 死に敏感であるがゆえに、彼は虐殺もいとわないアオのやり方が気に食わないし、誰かとの戦いも嫌いである。
 確かに、アオの言う通り、コバルオン、テラキオン、ビリジオンの防人全員が一気に人間に向けて襲いかかるのであれば、その強さは計り知れず、仲間を失う可能性はまず考えなくともいい。しかし、仲間を失わないのはとても良い事だとして、ミドリは人間すらも守りたい。そうやって、どっちつかずな思考を抱いている自分が最も死者を増やす可能性を帯びているのだという事もなんとなく理解出来ていた。
「それでも私は……黒く生きたい(理想を追いたい)
 なんとかならないだろうか? 誰も死なない方法はないのか? そう考えても、ミドリの脳裏に案は浮かんでこない。案を一つや二つ考えてさえいれば、それがどんなに茨の道であってもアオはそれなりに彼を評価したであろうが、ミドリはあいにくアオから完全に愛想を尽かされている。
 ゼクロムは理想を求める者に力を貸し、その対象に人間や超獣という括りは存在しないとされるが、ミドリ程度の弱い理想では、ゼクロムも導いてはくれないようである。
「私の他に、ビリジオンがいればいいのだがな……いや、人間をアオ達が殺していると思うだけでも、心が乱れているような自分の、すぐにでも現実の前に揺らいでしまうような脆弱な理想などにきっとゼクロムは力を貸しはしないのだろう。
 それならいっその事、どこか自分のあずかり知らぬところで人が伝染病か何かで死ぬのならば悲しまずに済むのに……私の知らない所でレシラムでも降臨してくれればいいのに」
 そんな、他人任せで卑怯極まりない思考が頭に浮かんできて、ミドリは自己嫌悪を加速させる。
 溜め息をついて、ミドリは空を見る。満天の星空が、憎たらしいほど綺麗に輝いていた。

 ◇

 話が平行線をたどったまま天高く馬肥ゆ季節が訪れる。ミドリの体毛は段々と青みを排し、冬の毛が増えて、脂肪と相まって夏に比べてかなり太ったような印象を受ける見た目に。それでも、美しさや走りの鋭さに陰りは無く、本当にただ純粋に冬に適応するためだけの衣替え。健康的な体型は、戦う事が仕事である防人の鑑のように、均整がとれていた。
 見た目が変わっても神々しさは変わらず、しかしアオの心境には変化があって。
「なぁ、ミドリ……」
 その日はアオが妙に色っぽい視線を向けて来た。散歩がてら森の見回りの最中、ひょっこりと現れたアオがミドリと正対する。
「どうしたのだ?」
「久々に、発情期が来たみたいだ」
 適当に相槌を打とうと思って口を開いていたミドリはあんまりな台詞に言葉を失った。
「そ、そうか……しかし、何年ぶりだ?」
「大体三年くらいかしらね……あの、その……いつもは色々と言い争いばっかりだけれど……今日だけは忘れないかしらね? 人間の活動も、今は穏やかみたいだしさ……」
 そう言ってアオはミドリの横にすれ違いざま、ミドリの首と自信の側頭部を擦り合わせる。匂いを付けるマーキングの行為は普通雄がやるものだが、アオは随分と積極的なものである。
「いや、それは構わないのだが。その……なんというか、発情期の処理ならば……レンガの奴にでも頼んだ方がよくないか? あいつとは仲が良いのだろう……? 少なくとも、私よりは」
「みなまで言わせないで欲しいな。いつも火花を散らし合っているお前だからこそ、そろそろ本気でドツキ合いを考えなければいけないと思っただけの事だ」
 ミドリが首を曲げて、後ろに位置するアオと目を合わせていると、アオはそのまま体をこすり付けるように横に並び立つ。
「い、色仕掛けで私の意見が変わると思ってはいないだろうな? 一体ど、どういう風の吹きまわしだ……?」
 アオがミドリにこんな風にするのは気味が悪い。いつもは使わない女性の様な口調があまりに気味が悪い。性交渉の最中であの話を持ちかけ、YESと答えるまで終わらせてくれない……なんて、幼稚な要求をしてくるわけではあるまい。たまには腹を割って話す機会を設けようという事で交尾を要求しているのであれば、それはそれでミドリにはありがたいのだが。
「発情期だからこそ、お前と落ち着いて話したいと思った……それじゃ駄目か? まったりとした雰囲気の中でならば、意外とうまく話しもまとまると思うのだ」
「そ、それはとてもありがたい事なのだが……何か、裏があるんじゃないかと勘ぐってしまってな……」
「おや、女が美しい男を求めるのに、理由が必要か? 良いじゃないか、何でも」
 アオは並んだまま、ぐっと顔を寄せた。ミドリはビリジオン。中性的な顔立ちの牡鹿であり確かに美しい。彼の周囲に薔薇の花びらでも舞わせれば、一枚絵として完成しそうなほど線が細く美麗な顔。
「毛づくろいをしてくれないか? お前のそのかわいらしい口で」
 最初こそ食いつきを良くするために女性らしい口調を使ったが、アオは早くも女性の口調が出来なくなっている。慣れない事はするものではない。
「こんな風にな」
 だが、女らしい口調なんておまけの一つしかないようで。言うなり、アオが長い舌を伸ばして彼の唇を舐めるその動き、その目つきが言葉よりもよっぽど上手く誘っている。酷い挑発を見たミドリは、この舌捌き一つでそそられてしまう。
「え、あぁ……」
 いつもの口調に戻っても違和感に満ちたアオの仕草に戸惑いながらも、ミドリはアオの要求に応じる事しか、男としての選択肢は残されていなかった。
「懐かしいな。以前発情期が来たときは、こうしてレンガに毛づくろいしてもらったもんだ……」
「あの時はレンガとの喧嘩に負けて、私はお預けだったがな」
「相性はお前の方がずっと有利だというのに、喧嘩に弱いお前が悪い。レンガが喧嘩に買ったおかげで、童貞の卒業も先を越されてしまったんだっけか?」
 小馬鹿にするようにアオは言う。
「……年齢の事を言い訳にするには年を重ねすぎていたから言葉もないよ。だが、なんだ……今度の発情期は嫌に積極的じゃないか」
「お前にも、子供という守る者が出来れば変わると思ったのさ……私は、この森を守りたい」
「森を荒らす人間がいると、子供は守れないのか?」
「人間がいると、ではないが……そうだろうな。守れる気がしない。お前の言いたい事は分かっている……だが、肉食獣が増えすぎれば、草食獣は減る。そうして、草食獣が減りすぎたときにまた肉食獣は遅れて減り、肉食獣が減って初めて草食獣が増える。自然界は普通そういう風に出来ているのだが……人間は、肉食獣以上の肉食獣だ。
 奴らは……減るという事すら知らない。そんな印象を受けるんだ……それだけならまだいいが、増えた先にある大規模な争いと、それに関わる犠牲は我らが予想出来る範疇を超えている……奴らの戦争が生み出す破壊は、それだけ凄惨なんだ」
 アオの話を黙って聞きながら、ミドリは毛づくろいをする。毛づくろいの最中は口をはさめないから、ミドリは黙るしかない。
「人間がメブキジカを狩りに来るのを止めるつもりはない。しかし、火砲の火薬の材料となるなどとわけの分からない理由でクラボの木が切り倒されてゆく現実を……お前はどう思うのだ、ミドリよ?」
 その後も、アオの一方的な問答は続く。なるほど、このために発情期だなんだと言って毛づくろいさせたのだなと、ミドリは悟った。
 やがて、全身の毛づくろいを終えるころには、アオが紡ぐ愚痴のような問答は終わっていて、彼女はメブキジカが光合成をしている時のような恍惚とした表情を浮かべるばかり。
 湿り気を帯びたミドリの舌が彼女の剛毛を綺麗に梳いて滑らかにしてくれる舌使いは、初心者でありながらその紳士的な見た目に違わない細やかなものだ。舌や唇が疲れて動きが鈍ったところを見計らい、アオは逆にミドリの角を小さく舐める。
「いいな、この角。傷一つない」
 不等号のように後ろへ開いた角は、つるぎと化した際にはすれ違いざまに切りつける事へ特化したなで斬りのためのつるぎ。致命傷は与えられないが、複数の相手を掻きまわす場合には理にかなった形状だ。
「そして、この匂い……美味しそうな草の匂いに、ほのかに香る雄の匂い。お前を枕に眠りに落ちたいくらいだ」
 ミドリの顔は、男女どちらも魅了してしまう程に美しいばかりでなく、季節をとわず草原の匂いが漂う。草食の超獣にとってみれば食べてしまいたくなる、思わずむしり取ってしまいたくなるような香り高いその体毛に、アオは頬を寄せる。
 二人は、熱く交わりあった。

懐妊



「お腹が大きくなって来たな……この子、きちんと育ってくれるのかな……」
 唐突に発情期を迎えたなどと、アオが世迷いごとのように言ってから四ヶ月。目に見えて大きくなった腹を抱えてアオはふとつぶやく。
「大丈夫か、アオ? 食料は足りているのだろうな?」
 アオはミドリのように光合成出来るわけでもないし、冬という食料の少なくなる季節、身重の体には少々寒さが堪える。しかし、生まれたばかりの子供に冬を越えるのは無理と体が判断したせいで、妊婦として冬を越えなければならないのが、先祖が選んだ体の仕組み。空腹がどれだけ辛かろうとも、それに耐えて腹の子供を育まなければならない。
「レンガ……」
 アオが野太い声に振り向くと、重厚という言葉の似合う岩塊の如き体躯を持つ者、テラキオンがそこにいた。バッフロンよりもさらに横に広く、背も低い彼の体躯は非常にどっしりと安定していそうな、要塞を彷彿とさせるほどの安定感。
 彼の頭に生えるつるぎは、敵の隊列を乱し、肉の壁も岩の壁も突き砕き、穿ち、打ち破り、破壊するための露払いつるぎで、前に立てば肉の壁は触れる前から瓦解するだけの威圧感を放っている。事実、彼の体から繰り出される地震や岩雪崩といった技は、フルパワーで放つのであれば一瞬にして戦場を瓦解させるだけの力がある。
 丸太のように太い四肢は、テラキオン程の密度は無くともそれに迫る強度と、太さゆえにアオを遥かに超える質量と膂力を持ち合わせる。その丸太のように重厚な足で、レンガはしっかりと大地を踏みしめていた。

 見れば、彼は冬でも色褪せない針葉樹の葉を大量に咥えており、『まぁ食え』とばかりに差し出した。差し出す木の葉ははぎ取ったそのままの姿のものもあるが、半分消化された反芻済みのものもある。レンガは吐いた物のすべてと、持ってきた青い葉の半分を身重のアオに差し上げるのだから、荒々しい外見によらず紳士な態度だ。
 人間からしてみれば吐いた物など『そんなもの持ってくるな』と言いたくなるような代物ではあるが、一度吐いた食料を差し出すというのは彼らにとっては料理されたものを出すのに等しい行為であって、そういう理由で、むしろ生で差し出されるよりも彼の愛を感じながら、アオははにかみ笑う。
「食料はまぁ、足りているよ。私が食べようとすると、少しくらい腹が減っていてもメブキジカはみんなどうぞどうぞって私に優先してくるからね……そんな事して餓死でもされたら辛いのはこっちだってのに……」
「でも、お前は節度を知っているから……それをいい事に好きなだけ食べるなんて事は出来ないのだろう?」
 レンガはアオの隣に座る。
「まぁそうだね。あんまり取り過ぎても皆に悪い。護るべき者が飢え死にするのは忍びないから、じっとして無駄な体力使わないように注意している。でも、子供はそんな私の苦労なんて知ったこっちゃないみたい……お腹を何度も蹴り上げてきやがる。
 まったく、ミドリの奴も光合成しているから食料余っているだとかふざけた事をぬかしてなぁ……飽きもせずに木の皮持ってきてくれるんだ」
「それはそれは……子供が元気でなによりじゃないか。なんなら、もっと元気になってもらおうか? 我も脂肪なら秋の間に十分にため込んでいる、もう少し食料持って来てもいいのだぞ?」
 アオの近況を聞いてレンガは微笑む
「よせやい。お腹を蹴られる身にもなってくれ。私達の二度蹴りの強力さを知らぬわけではあるまい?」
「ほほう、お前の子供は子供の時からそれか……将来が楽しみじゃないか」
 レンガは鼻息を拭きつけて微笑む。枯れた草が息で揺れた。
「それで、元気な子が育つとして……お前はそれを……望んでいるのか?」
「望んでいるさ。私はな」
 レンガの方は見なかった。ただ遠く、山のふもとにある、滅びた人間の集落の方角を見やって、アオはきっぱりと宣言する。
「それが私の覚悟さ……例え、ミドリがお腹に顔を当てて、生まれる日を心待ちにした子でも。この子を産むために私がお腹を痛めようとも……もしも生まれた子供がビリジオンと、神が采配したのであれば。私はやるさ」
 戸惑いを隠せない口調でアオは強がる。それでも、揺るがない決意を以って、彼女はそれを口にしている。
「お前の選択肢は悲しすぎる。思わずコバルオンが生まれる事を祈ってしまうよ」
 レンガはアオに目を合わせる事が出来ずに口にする。
「人間に変な疫病でもはやって、適度に数でも減らしてくれれば苦労しないのだがなぁ……我も、出来れば人間を殺すなんて真似はしたくないよ。面倒だし、こっちにも少なからず被害が出る」
 そして、叶わぬ願望を口にし、変わらずに動く集落を見て溜め息をついた。
「それが理想()だな。だが、黒きが訪れる事がないのであれば……私は真実()を胸に生きるさ。レンガは、そんな私でもついてきてくれるのだろう?」
「まぁ、な」
 アオは空を見上げる。真っ白な雲が天を覆い、寒空をゆっくりとなびいている。腹の中でまた蹴られたのを感じながら、子を産む幸福と、その先にある不安や葛藤を想う。
「三つのつるぎが揃えば……私達は決して負けない。その一つ……ビリジオンに力を貸してもらえないというのなら……もう一つ、ビリジオンを……なで斬りのつるぎを作ればいい。私は幸いにも女なのだからな。後継ぎを作る事が出来る。ただ、それだけの話だ……なんて、割り切れればいいのだがな。
 腐っても、私も母親という事さ。自分がろくでもない道を歩んでいる事は知っているから、子供には綺麗に育ってほしいのに……自ら子供をろくでもない道に叩きこむなんて、皮肉なもんだ」
 レンガが先陣を切り、膨大な圧力で以って肉の壁を崩壊させる。切り拓かれたウイニングロードをミドリが駆け抜け、なで斬りにして手傷を負わせる。その後、アオが強力な相手を各個撃破し、それを繰り返して本丸にいる大将を叩く。
 この三位一体のつるぎが、アオ達が自身らを無敵と自負させる理由である。しかし、それもビリジオンがいなければ意味がないのだ。
 だからミドリの代わりに、自分が産んだ子供でその枠を埋めようというアオの考えは、非常に合理的ではある。だが、当然彼女自身良い考えだとは思っておらず、それだけ人間に対する危機感や憎しみが強いともいえる。
「お前の苦しみ、我が代わってやりたいな」
 『人間さえいなければこんな事をする必要もなかった』と、アオも苦しんでいるのだ。それを理解してレンガは溜め息をつく。
「やめとけ、子供を産む痛みは男には耐えられないとよく聞く……それに、代わるくらいならあんたも産めと言いたい」
 人間の様子は慌ただしく、時代が一つ変革する兆候を告げている。
「はは、厳しい事だが……違いないな。我も子供を産めれば、それだけ戦力が整う時期が人間の活動に間に合う可能性も高いだろうに……」
 レンガが喉を鳴らして、噛み砕いた木の皮を飲み下す。

「このままビリジオンが生まれたら、それはそれでありがたい限りだがな……そんなに悲しい事も、そうそうあるまい」
 もはや進展のない問答を続けるよりは、子供を戦場に向かわせるために育てるという(とが)を負う事になろうとも、アオは自分でビリジオンを産み、戦士として育てる事を選んだ。アオが最初から、ミドリの子種だけが目的だったなどと知ってしまえばミドリはどんな反応をするのだろうか。
 そんな事を考えてしまうと、アオもレンガも気分が重い。
「言われてみれば、レンガの言葉にも納得出来る。コバルオンが生まれてくる事を祈るって……なぁ。ずっとコバルオンしか生まれなければ、ミドリとは仲の良い夫婦ごっこを続けられる。
 ……それはとっても幸せそうだなって。そう思えてしまう。ほんとに、良い考えだよ」
 確率は二分の一。何度産み続けてもビリジオンを目に出来ない可能性もあるが、それでも平行線をたどるミドリとの参戦交渉よりかは、不毛でもないしギャンブル性も低い。もしも、自分の腹からコバルオンが生まれてくるのならば、次の発情期まで自身の目的を告げずに済むのだろうか。
「素直に人を愛せないって、辛い事だ。本当なら、貴方の子供を一番に宿したかったな……」
 アオはため息交じりに潤んだ瞳を瞼で絞り出す。目じりからは僅かに涙が漏れた・
「宿したかったか……」
 意味深に呟きながらレンガは寂しげに微笑む。
「処女は我が頂いたのだから、贅沢は言うな。我らは人間に交尾を邪魔され、一回では身籠らなかっただけ……そうだろう?」
「そうだな……」
 その発言にアオは溜め息をついて力なく笑い、白い雲がなびく空を見上げる。
「アオ。どのような結果が待っていようとも、泣くなよ……とは言えないか」
 レンガは溜め息をついて一言付け加える。
「泣いてもいい。でも、後悔はするなよ」
「分かってる。レンガ……ありがとう」
 上手くいかない世の中に、アオの瞳が潤んでいた。

出産

 春の夜、アオは横倒しになっていた。立ち会っている森中の超獣達は心配そうに遠巻きに見守り、期待の眼差しでこの森の新たな防人(さきもり)の到来を待ちわびる。その他大勢の立会人よりずっと近くでレンガとミドリも見守っている。
 アオはとても苦しそうだ。普段はいつでも走れるよう、決してうつ伏せ以外の休息体勢を取らないのだがこの痛みでは立つ事すら無理だ。
「くぅあぁぁぁ……っ」
 うめき声をあげるばかりで正気を保つ事なんて到底出来やしない、とんでもない激痛だ。雄を受け入れるのにもそれなりに痛みが伴うというのに、今産道を通るのは生まれてすぐに立ち上がるだけの成長を伴った子供だ。腹にいるのも限界だとばかりに、外の世界に解放されたがっている子供が、今強烈な痛みを伴ってもがいている。
 効果は抜群の二度蹴りだとか、そんな生易しいものじゃない。痛い、痛い、とにかく痛い!! 拷問以外の何物でもないその痛み、今まで泣いた事なんて一度も無いような自分の目から、珠のような涙がぽろぽろ零れ落ちるのを感じ、歯を食いしばり過ぎて顎とこめかみまで痛みが伴う。
「大丈夫か……アオ?」


 ミドリが心配そうな面持ちで語りかけ、アオの下顎を舐める。
「大丈夫じゃないよ……もう無理だ」
「そうか……とにかく頑張ってくれよ……」
「これ以上頑張れとか、あんたは私を殺す気か……」
 アオは死んだように横たわり、息も絶え絶えな呼吸を力なく繰り返しながらミドリに言う。アオの憎々しい視線が痛かった。
「す、すまん」
 今は波がない状態だが、体は本人の意思を無視して激痛を送り込んでくるから油断出来ない。
「あぁんあぁっが……」
 陣痛は何ら容赦などしない。こんな激痛、男どころか女だって耐えられる気がしない。体の中を、我が子という拷問器具が外へ出ようと必死なのを感じる。もう、子供の前脚は、外気に触れようとしていた。
 陣痛が一旦収まり、ハァハァと荒い息を付く。ようやく思考が戻ってくると、次で終わってくれないかな、なんて、胡乱な頭の片隅で思うが、そんな事は無いのだろうなぁと半ば諦観する。

「あっくっ……」
 またもや波がやってきた。痛い痛いとても痛い痛い!!
 ミドリやレンガが励ます声が聞こえるような気がするが、それが何を言っているのか全く理解出来ない。徐々に視界が真っ白になる。死んでしまうんじゃないかと思うような激痛の後、自然と終わってくれればいいのにやっぱりまだ産道に異物の感触は残っている。まだ地獄は終わらない。
「ビリジオンか……やった、まぎれもなく私の子だな」
 まだ胎盤に包まれている、ちょろりとはみ出た脚先を見てミドリが感嘆の声を上げる。その時見せたミドリの嬉しそうな顔と、レンガの見せる何とも言えない複雑な顔。
 二人の表情を見比べてみると、アオは自分のやろうとしている事がどれだけえげつないかが分かる。
「あー……早く終わんないかな……」
 陣痛が一時的に収まった際の沈んだ声が、アオの憂鬱な心情を露わしていた。
「風情もなにもあったもんじゃないが。早く終わらせる時は足を引っ張って無理矢理出すというのが人間の間ではよく行われているな。人間に飼われているバッフロンの中にはそうした体験をした者も多いと聞くが……」
「そうだ、それだよレンガ!! それならこの苦しみから解放してやれる!!」
 レンガのアイデアに、ミドリも賛成して小躍りする。
「何でもいいからもうやっちゃって……」
 そんな事が出来るなら早くやれやと、アオは力なく頼みこむ。
「いや、少なくとも今は無理だ」
 しかし、そっけなくレンガは残酷な宣告をする。
「我自身全く経験は無い上に……やるにせよやらないにせよ、もっと完全に脚が出てからじゃないと難しそうだからな。まぁ、もう少し待て」
「そ、そんなぁ……」
 もう、意識なんて無くなってしまえばいいのに。絶望に打ちひしがれながら、アオは拷問のような苦痛に身を委ねて、自分とミドリの子を産み落とした。
 結局、鼻先が見えるようになってからはレンガとミドリがビリジオンの脚を咥え、強引に引っ張り上げて出産を完了する。陣痛なんかよりも遥かに強烈な痛みで、失神しかけたアオは子供の顔を見て喜ぶより何よりも先に、まずはぐったりとして虚空を見つめていた。
 周りの者の祝福の声に答える言葉は曖昧で、虚ろな眼の色は出産で体力を無尽蔵に消費して精も根も尽き果てている。防人達伝説の超獣といえど出産は自分自身との戦い。
 そこいらの超獣が相手なら涼しい顔で圧倒出来ようと、自分自身が相手では普通の超獣と同様に消耗するのも仕方ない。普通の超獣であれば体が弱ければ出産で死んでしまう者もいるくらいだ、母子ともに健康という贅沢な結果ならこの苦痛も意味があるのだろう。

 傍らでは、羊水に濡れた体から水分を振り払おうとぶるぶる震える愛しの我が子。アオはふらりと立ち上がり、へその緒を噛み千切って血の味の残る胎盤を食べる。それによって暴かれた小さなビリジオンの濡れそぼる毛並みを、舐め取り水気を拭い去る。正直、何もやる気が起こらなかったが、体は以外にも勝手に動いてくれるものだ。
 やがて、後産も終わってあらかた乾いた体を引き摺るようにして幼いビリジオンは立ちあがる。葦のように頼りなく震える前脚をVの字に広げ、後ろ脚を立ち上げてからゆっくりゆっくり、足を伸ばそうと努力する。
 重力に逆らわせて体を持ち上げる。生きようともがいているその姿が自分の子供であると言うだけで、ミドリとアオは目を輝かせていた。アオは立ち上がろうとする息子の全身を舐め、水気を拭いながらそれを見守る。
「お、立ちあがったぞ」
 唯一冷静な顔をしているレンガも、子供が立ちあがって二・三歩程歩くと、その渋かった表情も笑顔に変わる。ビリジオンが立ち上がってから、アオは地面に手首をついて高さを調節、まだ乾いていないビリジオンの腹の体毛を舐め、引き続き水気を拭き取った。
 それが終わる前に、ビリジオンは早速お腹が減っているようで、よたよたと危なっかしい足取りでアオの腹に狙いを定めた。そんな我が子に母乳を飲ませようと、アオは寝転がって腹を晒す。胸の突起と、はち切れんばかりの乳の張りを見つけたビリジオンは、本能的にアオの体に首を伸ばした。

 母乳を吸われながら、幸せで浮かれる頭を冷やすように、アオの脳裏に思考がわき上がる。
「これで、ミドリとはお別れかぁ……私達が子供のころは、三人でうまく仲良く出来たのに……な」

決別

 遠巻きに見守っていた超獣達も、皆自分達の生活へと帰っていき、時刻は明け方。朝日が目に入り出産疲れで眠っていたアオが目覚めると、そばには寄り添うようにミドリがいた。
「アオ、よく眠っていたね……」
「疲れたから……な」
 太陽に隠されて消えかかった星を見ながら、アオは溜め息をつく。
「この子の名前はもう決めた?」
 ミドリが生まれたばかりのビリジオンを差して尋ねた。
「そうね……翡翠(ヒスイ)、なんて名前が良いかなと思っている」
「ヒスイ……か。可愛い子だなぁ……」
「ありがとう……ところで、ミドリ。ちょっとだけいいかしら? 二人で話したい事があるの……」
 体力も回復したアオは、太い脚で地面を踏みしめ立ち上がる。
「どうしたの?」
「子供を起こさないようにお話したいのよ」
 照れたような、はにかんだ顔でアオは誘う。
「分かった」
 ミドリは微笑んでそれに応じ、先導するアオの後へ付いて、子供からは見えない木の影へ隠れた。

「ねぇ、ミドリ。それでな……話と言うのはな、お腹の子に悪い影響を与えたくなかったから、最近このお話はしていなかったが……あの話はどうするのだ? 人間へ攻め入るお話、忘れたわけではないだろう?」
「人間へ……攻め入る話か……その話は、今はやめにしないか? めでたい日なんだし……」
 アオが唐突に持って来た話題をミドリは拒否する。
「今だからこそじゃないか。子供が生まれたとあれば、子供が暮らしやすい世界を作るためにも……何も、今すぐ攻め入れとは言わない。けれどね、いつかはやらなければいけない。戦争にどれだけクラボの木を使うのか、貴方は知らないわけじゃないでしょう? 自然の恵みを利用した火砲の材料として優秀なクラボの木の実は、肉食・草食に関わらず私達の大切な食糧でもあるんだ。それを切りに来る人間もいるし、建材として多くの木を切り倒し、川を通じて都市に運ぶルートも存在する。
 それを放置していれば、山がいくつも剥げる……その場所でいくつの餓死体が出るのか……お前は、一緒に見て来たはずだぞ? 私達がカバーしきれなかった辺境の森でメブキジカやシキジカが同族の角や皮を食べて生きながらえたのを、私と一緒にいたお前は見なかったのか?
 あばら骨も、目のくぼみもくっきりと浮き上がった死体を見てお前は何を思ったのだ? そりゃ、人間が木を伐らなくとも同じような死体はどうしても出るだろうけれどな。人間のせいでそうなったって思える事は一度や二度じゃなかったはずだぞ?」
「……分かってる。分かってるけれど」
 ミドリはそれ以上言えずに口を噤んで俯く。
「分かっているのなら、何故それで行動に移そうとしないのだ?」
 アオは顔を寄せ、ミドリの目をじっと見据える。
「お前は、他人にだけ戦わせて自分は何もしない臆病者か? そんなんで、どうしてお前は防人たる超獣に生まれて来たのだ?」
「私は……人間も守りたい。人間は、最も感情表現の豊かな生き者だ……彼らが苦しむ様はどうにもいたたまれないんだ」
 ミドリに睨まれた彼は、さらに目を逸らす。かろうじて吐き出した言葉は弱々しかった。
「腑抜けだな……逞しいのは下半身だけか、この狗が? 馬鹿言っているんじゃない、苦しませるのが嫌なら一瞬で殺せばいいだろうにっ!」
「そんな事言われたって……残された者はどっちにしろ悲しむだろ……」
「飢えて死んだ同胞を見て、悲しいと思わぬのか!?」
 煮え切らないミドリの態度に、アオは一度吠えると溜め息をついた。そのまま、どこを見るでもなく瞼を開けて独り言を始める。

「発情期って言うのはな……危機……特に、食料の危機を感じると早く来るものなのだ。寒い夏なんてとくにその傾向が強い……」
「いきなり、何を……?」
「ただ単にのほほんと生きていれば、あの晩秋に発情期が来るなんて事は……きっと有り得なかった。私は自己暗示で、ありもしない危機感を自分に植え付ける事で、人為的に発情期を来させた」
「それって、どういう……」
 あっけにとられた顔でミドリがアオに鼻を近づける。
「お前が腑抜けなら、自分でビリジオンを産んで、育てればいいってね……コバルオンが生まれる可能性も、もちろんあった……けれど、神はあの通りの采配を下した。神は言っている……人間を間引きしろと!!」

 アオは顎をしゃくりあげ、木の影にいて見えないヒスイを指し示す。
「最初から、そのために……?」
「貴方の体だけが目当て……いや、子種だけが目当てだったんだよ、最初っから。ミドリ、お前に子供が生まれても頑なに意見を変えないというのなら……お前はもう用済みよ。お前の蜂蜜のように甘すぎる思想は、私の子供に悪影響しか与えない」
「アオ……お前……」
「ハンッ」
 ミドリが思わず声を荒げるが、アオは鼻で笑い飛ばして見下した笑顔を見せつけた。
「思想を改めるまで、お前は私の子供に一切近寄るな!! 仲良し夫婦気分も、これっきりだ。とっとと失せろ」
 アオが半歩踏み込む。お辞儀するように首を下げ、ミドリにせいなるつるぎを突きつけた。格闘タイプを象徴する紅色に光るつるぎはミドリの首にあてられ、皮膚を僅かに突き破ったそこからは鮮血が零れ落ちる。
「次は、もう半歩踏み込ませてもらう。その意味は分かるな?」
 つつつ、アオの角に血が滴った。アオは顔を上げ、ミドリの首に舌を這わせると、二歩下がって舌に付着した血をミドリに見せつけた。
「この血が、お前への敵意、そして軽蔑だ。お前が意見を改めるまでは……もう二度と、私達の目の前に現れないでくれないか?」
 ミドリは、左を見て、右を見て、二歩下がる。彼は何かを言いたそうにしていたが、黙したまま口を開けない。やがて、目から溢れ出た涙を瞼で弾き飛ばすと、踵を返して脱兎のごとく逃げ出した。
「そうやって、辛いときに一人で殻に閉じこもる事がお前の悪い癖なのだ。そんなんだから、今ある問題から目を塞ぐ事しか出来ない。自分の親の体に虫が湧く様を直視出来ないのだ。お前は蛆虫を見たくないだけの生娘以下の屑だ。
 そんな事しか出来ないのであれば、一生目を塞いで雨と埃だけ食べて生きて居ろ」
 ミドリの去り際に、辛らつな言葉をかけてアオはため息をつく。子供の元に帰る足取りも弱々しく、俯いていた。

「ごめんね、ヒスイ……貴方のお父さん、居なくなっちゃった」
 沈んだ気分を子供の寝顔で癒してもらおうと、アオは縋りつくように子供に寄り添う。アオからはすすり泣く声が漏れ、涙が頬を濡らしていた。

決意を抱いて

「小さい頃は……私とミドリとレンガ……何も考えずに一緒に居られたのにね……どうしてこうなっちゃうんだか……」
 ヒスイの元に寄り添い、アオは蹄で、体毛で、鼻で、ミドリの気配を探す。少なくとも近くにはいないようなので泣いた。子供が起きないように声を押し殺して泣いているうちに、いつの間にかレンガが現れると、その重厚な背中にすがりつくように泣きはらした。
「お前は、覚悟を揺るがさない。偉いよ、アオ……我には真似出来ない……鋼の心の持ち主だ」
「偉くたって……私、最低だよ……例えレンガ。貴方にあんな事言われたら、私だったら……ショックで立ち直れないよ……」
「アオはそうしなきゃいけなかったのだろう? 大丈夫……お前の覚悟を知っていれば、お前を責める者はいないさ」
「うぅぅ……ごめん。もうきっとミドリは貴方とも顔を合わせられないと思う……そうなったらきっと私のせいだ……」
「気にするな……我もミドリとたもとを分かつ覚悟ならとうにしている」
 瞼をレンガの毛皮におしつけ、アオは涙をぬぐう。
「私、絶対にヒスイを立派な戦士に育てる」
 涙をぬぐったアオは目を見開いて鼻を啜り、力強く宣言する。
「最低な私だけれど、なんとかやって見せるから……だからお願い、レンガ!!」
 アオは跪くようにレンガに頭を下げ、続ける。
「私がくじけそうになった時は支えて。私、もう貴方と、ロゼしか頼れる人がいないから……」

「無論だ……だから頭を上げてくれ。我とて、人間の抑止力となる戦士を育てる事をお前に頼む立場なのだから……偉い立場でもあるまい。無関係なのに、我らのために尽力してくれるロゼの方が、よっぽど立派だよ……」
 レンガは顔面の前に張り出した逞しい角の先端でアオの顎を持ち上げる。促されるままにアオが立ちあがると、今度はレンガが首を垂れる。
「本当は我が頭を下げなければいけないくらい、お前は立派な事をしているのだ。誇れよ、アオ」
 頭を上げると、レンガは優しく微笑んでいた。
「我らは、我らの正義を全うしよう。我もそのために全力を尽くす所存は忘れておらぬ」
「うん……ありがとう、レンガ……今日は、甘えさせてくれて本当にありがとう」

 何度も頭を下げてアオはもう大丈夫だとでも言いたげに笑顔を見せる。
「なに、お安いご用さ。また泣きたくなった時は言ってくれ……我は拒まん」
 最後に微笑むと、レンガは振り返る事なくノシノシと草を踏みしめ歩いて行った。
「ありがとう……ロゼがいない間は……こうやって私を支えてよ……」
 その逞しい後ろ姿に人知れずお礼を言って、アオは眠っているヒスイの隣に寄り添う。身を縮めて瞼を閉じたヒスイの寝顔は、仲が良かった頃のミドリの面影を残しており、アオはしばしの間懐かしい気分に浸って現実逃避をした。

 ◇

5年後――
 私は、貴方を戦わせるためだけに育てた。でも、貴方を愛して居なかった日なんて一度も無いからね、ヒスイ。
 誰かに、見れば分かるよと言って欲しかったセリフを、アオは胸に留めたまま、その日は来る。


「我らが新たな防人、ヒスイは立派に成長した。人間達の対立はいまだ続き、戦争がいつこの森に影響を及ぼすかも分からない。そして今、ロゼより雪花の街で大規模な籠城戦が始まっているとの報告を受けた……今この時が出陣する時だ!! 皆、ついて来てくれ!!」
 アオが皆の士気を高めるために、大声を張りあげて奮い立てれば、森に歓声がわき上がった。

 ヒスイが5歳になる頃には、人間の歴史は新たな局面を迎えようとしていた。今まで、一部の超獣を従えるのみだった人間が、豊縁地方より訪れた大使の影響により多くの種類の超獣を、比較的安易に従える技術を確立しつつあるという。今はまだ、数がそれほどでもなく試験的に行われているくらいなため、さほど戦況に影響はないであろうが、このまま人間が超獣を繁殖させる事で、十数年もすれば戦争の主役は人間から超獣へと移ってしまいそうな勢いだという。
 今でも人間の歩兵や火砲、投石器といった兵器も現役で活躍しているし、そっちの方が主流だが、このまま超獣に戦力の主導権が移ってしまえばどうなるのか分からない。分からないが、人間はバッフロンやイワパレス一頭を養うのにもそれなりの経済的な余裕がなければ出来ないという。
 家畜としてそれらの超獣を維持するためにもそれなりに広大な土地が必要なのだ。戦争に使うためのそれらを養うために、さらに森を切り開くなんて事になればそれこそ目も当てられないではないか。

 そうなれば、流石のアオ達の三つのつるぎでも立ち向かえなくなる可能性は大きい。そうなる前に、ここら辺で人間の戦いを終わらせてしまわなければ。そのために、特に狩るべきは兵士。戦う力のある男性層だ。
 森の超獣達も、多くが自分達に賛同し、人間を打ち倒さんと士気を高めている。連れて行くのは少数だけだが精鋭ぞろいで、人間の軍にも負けないだけの力はあるはずだ。
 レンガが蹴散らし、ヒスイが薙ぎ払い、アオが大将の首をうちとれば、一気に戦線など崩壊させられる。そこを、ひきつれた精鋭達と共に敗走する敵を追撃、殲滅すれば軍隊も形無しのはずだ。
 超獣を率いる軍の大将を張るにふさわしいだけの力を、ヒスイもこの5年で身につけている。相性差があるとはいえ、アオを相手に互角に戦えるくらいまでに成長して、新たに防人として森の仲間に認められていた。
 ヒスイはミドリにそっくり(アオとは種族が違うせいもあるだろうが)で、端正な顔立ちをしている。ミドリとの違いと言えるのは体臭がアオの形質を色濃く受け継いだ形になり、ミドリよりも濃いめの体臭は女性達にしてみれば魅力的だった。

断固阻止

 協力者であるゾロアークの情報を受け人間が軍を進めている所に追いつくべく、ヒスイと並んで歩いて目的地に向かう途中。ヒスイの凛々しい顔立ちを見ていると、本当にミドリが仲間になってくれたように思えて、アオにとっては夢のような光景だ。夢のような光景だが、眺めているそれはミドリの顔ではなく、我が子であるヒスイの顔。
 夢のような光景が文字通り夢幻でしかないのが辛く思える。ミドリは山を一つ越えた森で生活していると風の噂で聞きはしたものの、本人自身は何の便りも無し。
 本当に、彼は逃げたまま行方をくらましていた。思えば、あんまりなフラれ方をしたものだからそれも仕方がないのかもしれない。
 そうは思っていても、子供の時からずっと一緒にいた相手である。こうまで味気がない別れ方をしてしまうと、流石に申し訳なくなってきた。出陣を始めた直後でさえこんな事を考えるのは、きっと未練があるからなのだろう。
 もしもミドリが、自分達が人間を殺しに旅だったと、後で知ってしまえば一体何を思うのだろう? そんな思考が、頭の中で空回りし続けていた。

 だが、
「そんな事を考える必要も……無かったか……」
 鬱蒼と生い茂る山間の森を抜け、平地へ出ようと道なき道を突き進んでいると、物陰から姿を現した草原色。息子と生き写しの彼の姿。
「ミドリ。息子の晴れ姿を見に来たわけでは……なさそうだな。何しに来た?」
 ミドリの顔は憤怒ではない。息子との再会を懐かしむ顔でもない。静かな怒りを湛えていた。ヒスイは自身の父親を見て敵意をむき出しにして唸り声を上げている。
「ヒスイ、威嚇の必要はない」
「でも、母上……」
「いいから」
 このままでは非常に話しづらい雰囲気なので、アオはヒスイに軽く耳打ちして唸り声をやませる。
「人間を駆逐しにゆくのか……」
「あぁ……でも、この5年間、私は色々考えた。人間はやっぱり間引きするべきだと思うのは変わらない……だがな」
「黙れ!」
 5年間音沙汰の無かったミドリを懐かしみながら語りかけるアオを、ミドリは突っぱねる。
「人間を駆逐しようというのなら……私は容赦しない」
「話しあう気は……無いのか?」
 ミドリは、昔のような温和な態度をまるで失っていた。その様子に戸惑って、気押されたような態度でミドリは尋ねる。
「無論だ」
 アオの変貌ぶりが、ミドリにはショックだった。ミドリは、アオにフラれたショックが余程激しかったのか、アオへの憎悪のせいなのだろうか、アオの話を全く聞こうとしない。
「あの時は焦り過ぎていた……だから、あんなふうに言ってしまった……子供を育てるしか方法がないという状況になれば、子育てを邪魔されたくなくってあんな事言ってしまったが……」
「黙れと言っているだろう!!」
 『本当は、お前の事を今でも心配だったのだ』と、アオは言えなかった。ミドリの命令を耳にしてアオは命令に従い黙るが、数秒後には口を開く。
「あぁ、お前の推測通りだ!! 私は人間を駆逐する、この戦争を、私の力で終わらせてやる!!」
 アオも、ミドリの頑なな態度を受けてやけっぱちな態度を取る。
「腑抜けたお前の代わりにね、私の可愛らしい子供と一緒に……私は人間を殺す!! それだけ分かれば満足か!? 満足して、お前は何がしたいのだ!?
 子供を抱きたいのならどうぞご自由に……ヒスイはきっと、お前の事は良く思っていないだろうがな」
 顎で指し示したヒスイの顔は、確かに自身の似姿を憎悪していた。母親に対して抱く感情が、親愛というだけでなく、崇拝の領域にすら達しているヒスイは、母親と意見を違うミドリを明らかに侮蔑している。
「ヒスイは私の半分でもあると言うのに……随分と嫌われたものだ」
 ミドリが頭を振って言う。
「お腹を痛めて産んだのは誰だ? 育てたのは誰だ? 私だろうに、ミドリ? 夫婦仲をよくしようなんて思わずに、私達を捨てて逃げた臆病ものが、親を語るな!! お前は糞にも劣る下劣な畜生だ!!」
 ミドリには失望した。腑抜けなだけじゃなく、分からずやで、意地っ張りで、あの時の事をまだ根に持っているだなんて、まるで子供のよう。
「親である責任を果たしていない私に、それに対する反論は思い浮かばない」
 アオの罵倒を甘んじて受け入れ、そんな事はどうでもいいとばかりにミドリは続ける。
「でも、我々は人間も含めて守ってゆくべきだ……駆逐するなんて、そんな考えは捨ててくれ……」
「ほう、面白い事を言う。人間はいずれ自壊するのだ。積み過ぎた砂のお城があっけなく倒れるようにな。だったら、人間を守るという事は大きくなり過ぎないうちに切り捨てる事だ」
「そんなわけあるか!!」
 本当にミドリは腑抜けだった。もう話す事は無いとアオは距離感を測り、一瞬だけ脱力してから頭を殆ど上下させずに踏み込んだ。
 踏み込みの瞬間を悟らせない、人間の剣術を模した擦り足からの接近。頭が上下しない事で、上手くやれば突然目の前まで接近させたとすら勘違いさせる移動法。鋭い接近から、眼前で首を沈み込ませ、首を上げる動作で角を紅色に光らせ、必殺のせいなるつるぎ。
 あの時よりもさらに一歩深く踏み込むだけではない。踏み込みの鋭さは息子との修行をするうちに、あの時よりも遥かに成長したはずなのだが。
 ガキィン。
(弾かれた!?)

殺し合い

 弾かれる金属音。網膜を焼くような紅く激しい火花と、格闘タイプの光が弾け飛ぶ。角の付け根がジンジンと痺れる感触。弾かれ、首がそりかえる感触。ゴキゴキと首を鳴らしているミドリを見て、ようやくアオは状況を理解した。攻撃を防がれたのだ。
「アオ、そちらがその気ならば……こちらも殺す気で行くしかないようだな」
「そのようだな……ミドリ」
 とうとう殺し合うまで来てしまったかと、どこか諦めるような気持ちでアオがミドリを見つめる。昔の仲が良かった自分達を思い出しながら、アオは涙をこらえる。
「人間を間引きするだなんてさせやしない……私は人間も守る事に決めたのだ!!」
「せめて少しでも話しあう事は出来ないのか?」
「問答無用だ!! コバルオンが居なくなれば三位一体のつるぎは使えず、人間を相手取っては勝てまい!? だからアオ……命まではとらないが……脚の骨の一本や二本……覚悟!!」
 先程、アオが問答無用で襲いかかってきた事を事前に知っていたかのように、ミドリは見事な角捌きでせいなるつるぎを受け止めた。油断をしていたとはいえ、殺すつもりでやった不意打ちを弾き返されたのだから、簡単に勝てる相手ではないわけだ。
「覚悟なんて……とっくに出来ている」
 アオとミドリ。二人は睨み合ったまま動かない
「加勢しようか、アオ」
「母上……私も」
 レンガとヒスイが一歩前に出てアオに並ぶが、アオはしゃくりあげた顎でレンガの視界を塞ぎ、加勢はいらないと意思表示。ヒスイにも同じ事をした。
「レンガ……ヒスイも手を出さないでくれ。今こそ……白黒決着をつける時だ!! こういう勘違い野郎は、徹底的に叩きのめしてやらないと分からないみたいだしな……」
「アオ、お前はレシラム気取りか……」
「お前こそゼクロム気取りか? ……うざったい!!」
 声を裏返しながらそう言ったアオの言葉が、生死を懸ける戦いの火蓋を切って落とした。
 頭を下げ、角を盾にしてアオは駆けだす。掠らせるように薙いだミドリのV字の角を、アオは角を盾にいなしてやり過ごす。
 ミドリの攻撃をやり過ごしたアオは、すれ違いざまに体を傾け肩口をミドリに当てる。相手がバランスを崩した所で急停止して、すぐさま二度蹴りに繋げるという離れ技。
 急停止により、勢いを殺しきれなかった後ろ脚が慣性で自動的に持ちあがる。その勢いで以ってして、ミドリの太ももを叩くとミドリが前脚を軸に後ろ脚が浮き上がった。
 ミドリも、レンガやアオに見劣りこそするが、かなりの巨体である事に違いは無い。鈍い音、吹っ飛ぶ体。それだけで普通はノックアウトものだが、ミドリは歯を食いしばって痛みに耐え、すぐに体勢を整えて起きあがる。

 アオの次の手は敵に後ろを見せながら逃げる事。普通なら追い掛ける方が前方に技を放てるので有利だが、草食系の体格をしている彼らは後ろを見せている時こそ油断出来ない。
 不用意に後ろから攻撃などしてしまえば、予想外の後ろ蹴りが飛んできて顎を砕かれるなんて事は似た体形のキリンリキを相手にしていればよくある事。特に、突然前脚を地面に食いこませてからの後ろ蹴りの威力は、大した加速を得られなかった先程の一撃でさえも筆舌に尽くし難い威力だ。
 下半身をフラフラと左右に振り、いつでも後ろ蹴りを飛ばせる様子を見せられては、追い掛ける方も不用意には近付けまい。今のスピードで走っていれば、アオが急ブレーキをかけた時は、アオの体の勢いと蹴りの威力が合わさって、とんでもない威力になる事は必至。

 もちろん、後ろから追い掛けるミドリが大きく距離をとって特殊技を使うのならばまた話は別。ミドリも安全策としてまずは特殊技で様子見だ。
 蹄が地面を勢いよく叩く音が絶え間なく森に響く中で、まずミドリはアオの後ろを走りながら、気合い玉を放ってみせる。しかして、元から命中率が低い技で、後ろに目が付いているも同然のアオの視野の広さの前には、あえなく外れてしまう。
 そうこうしているうちに、アオはリフレクターを張り終えると、一気にスピードを緩める。後ろ蹴りが飛んでくると思ったミドリは、大きく体を逸らしてアオの左側へ。一瞬速度を緩めたアオも、ミドリに追いこされる直前で再び加速、ミドリと肩を並べる。
 そのまま電光石火の如きスピードで駆け抜ける二人の間で始まったのは、壮絶な体当たり合戦だ。ぶつかり合い相手のバランスを崩す事で、その辺の木にでも衝突させるか、木の根っこにでも足を引っ掛けて転んでもらうか。
 鳥系統の超獣でも追いつくのに苦労する速度を以ってして走る二人が転びでもしたら、伝説の名に恥じない頑健な体も何の意味を為さない。
 時にはぶつかり合うのだけではなく、体を引っ込めてよろけさせたり、ぶつかったまま押し合いになったり。さながら押し相撲のようで、しかし遊びのレベルでは到底見られない激しいぶつかり合いをともなった駆け引きをする。

 その駆け引きが続くうちに、疲れが見えて来たのはミドリであった。アオは鋼タイプである上にリフレクターを張っている。体当たりするごとにミドリとアオの肩に掛かる負担は一発一発こそ軽いものであったが、リフレクターとタイプの相性差は無視出来ない。
 ダメージを積み重ねるうちにミドリの右肩へのダメージは甚大な物となっており、鈍い痛みに苛まれ徐々に肩の感覚がなくなって行く。自身の体が少しずつ敗色濃厚の状態へ移行していくのを感じて、ミドリはこの不毛な転ばせ合いから離脱するべく、大きく左へ跳躍。
 聳え立つ木の側面を蹴って右へ跳び、右の木を蹴っては左の木へ。ジグザグに跳躍して、アオを突き放すように先を行く。
 最高速に優れるミドリはアオの遥か先を行き、すっかりリフレクターの切れたアオを待ち構えて草結び。棘の生えるイバラのような蔦草が地面から伸び、超高速で走るアオを転ばせようと牙をむく。まってましたとばかりに、アオは自らその渦中に飛び込んだ――ようにしかにしか見えないほどにあっさりと、わずかに軌道をそらしただけでその草結びに掛かる。
 転んで空中を舞ったアオは死んでしまうんじゃないかと思うほど激しく転んで、ミドリのすぐそばへ。一見、即死しかねない派手さでいて、しかしきちんと受身は取れている。
 高速で滑り込んできたアオの体を、ミドリはバックステップで飛びのくがしかし、アオとの距離はとりきれていない。刹那、アオの体から閃光が(ほとばし)り、ラスターカノンにも似た銀色の波導がミドリを穿った。
「くあぁぁぁ!!」
 生命力を直接抉り取るような鋼の奔流。たまらず、ミドリが苦悶の声を上げてアオからさらに距離をとる。追撃するのも容易だったのに、アオは深追いしなかった。
「私のメタルバーストも忘れたのかしら……? いや、今まで使う必要もなかったから使わなかったっけ……切り札、だったもんね……思えば、ヒスイとレンガ相手にしか使った事無かったなぁ」
 淋しげに目を伏せ、アオはため息をつく。
「メタルバーストなど……捨て身の切り札までして、私の存在が気に食わないようだな……」
 否定するようにアオが首を振る。何に対しての否定なのかはアオ自身だけが知っている。『存在が気に食わないわけじゃないのだ』と。
「ああ、これ以上……お前に邪魔されたくないから」
 でも、本音は言えなかった。

決着

 そうこう言っているうちに、アオとミドリは互いに新しくリフレクターを張り合っている。会話の時間は、申し合わせたように近距離格闘への準備の時間として終始した。
「もう邪魔されたくないのだ……だから、話しあいたかったんだが……それも出来ないのなら、もうおとなしく道を譲れ、ミドリ!!」
「お前らが人間を駆逐するというのなら、私は人間を守るまで。その考えは変えない……お前と同じように……」
「ば……っ」
 アオが何かを言いかけながら突進する。ミドリが首を振りぬいてアオの渾身のせいなるつるぎを受け止める。一発目は、弾き返した。
 弾かれた二人は素早く切り返して二発目。今度は弾きあう事なく、互いの角を押しつけたまま角相撲が始まる。
「……っかやろう!!」
 消え入りそうな声でアオが呻くように声を上げる。首に、全身に力を込める。角の形状の都合により、コバルオンは振り下ろすだけなら上から下への太刀筋で可能だ。しかし、ビリジオンは右から左に振り抜く事しか出来ない。重力の味方するコバルオンの太刀筋とビリジオンの太刀筋では、純粋な一対一でならばコバルオンが必ずと言っていいほど押し勝ってしまう。
 ミドリとアオもそのご多分には漏れない。押し勝ったアオの角によりミドリはバランスを崩し、首がそっぽを向いた隙を突かれて地面に転がされる。アオが前脚を振り上げ、全体重を込めたメタルクロー。
 ミドリは弾け飛ぶように跳ね起きてなんとかそれをかわすが、アオは追撃に鋼の頭突き。ミドリは脇腹に堅い角の付け根が当たり、汚らしく唾を吐き出して苦しみを露わにする。
「く……何故だ。ずっと、強くなろうと頑張ってきたのに……」
 ミドリは悔しげに言葉を吐き捨てた。
「ヒスイが……ビリジオンの行動パターンを教えてくれたから……だから、ビリジオンの戦い方が分かるのだ……そして、ヒスイはお前よりもずっと強い」
 だから貴方とは違う、とばかりにあざけるような冷たく下品な瞳をミドリに向ける。
「だから……だからどうしたというのだ、アオ!? その程度で私を倒せるとでも思っているのか!?」
 ミドリは吠えながら首にひねりを加え、V字の角でせいなるつるぎを下から上に切り上げる。アオは首を逸らしてその太刀をかわし、切り上げる勢いで立ちあがったミドリへ対抗するように立ち上がる。双方、後ろ脚で全身を支える体勢をとって、殴り合いの構え。

 立ちあがったミドリは草の刃の伸ばした前脚の蹄でアオに殴りかかる。対抗してアオはメタルクロー。一方的に殴るのであればともかく、二人で立ち上がる体勢になってしまえばボカスカ殴り合うだけ。素早さや重さに違いはあるものの総合的には互角の威力だが、アオには草タイプの効果が今一つというタイプの相性差が出てしまう。
 それでも、間合いに勝るリーフブレードの方が相手の脚に深く切り込めるため、最初の方はダメージも互角。しかし、敵の体で徐々に研ぎ澄まされていくメタルクローの性質上、殴り合い続ければ、間合いの差よりも鋭利さの優劣が響いてくる。
 蹄による打ち合いを続けるうちに、簡単に肉を抉れるような鋭さにまで達したメタルクローは、文字通り手がつけられる攻撃ではない。
 この体勢で発動出来る技のタイプで、両者に大きすぎる優劣があるのは致命的。
 立ち上がったまま殴り合ううちに、徐々に飛び散る血糊はミドリのから出たものが多くなる。血が飛び散る様に気押され、後ずさるのも限界に達したミドリは2・3発引っ掻かれる事を覚悟で地面に前脚をつけて背中を見せ、二度蹴りで威嚇して離脱する。
 離脱するまでに深く顔を引っ掻かれ、額を伝った血が左目を塞いでしまった。

 アオはまだまだ平然としているが、ミドリの体はすでに満身創痍。早めに勝負を決めなければ非常にまずい。困窮きわまったミドリは、V字の角に力を込める。
 格闘タイプを象徴する、真紅の光が角を這う。鋼タイプであるコバルオン、アオに対しては効果が抜群の技。
「それでケリをつけるつもりか……? 弱点ならば倒せるだなんて、私も甘く見られたものだな……」
「なんとでもいえ……勝って、意見を押し通すのは私だ……」
 ミドリが虚勢を張って駆けだす。打ちあいになったら必ず押し負けるので、セオリー通りのすれ違いざまに切りつける太刀筋の右角でミドリは攻撃する。アオは、ミドリの攻撃に対し角を向けて急所を守るが、避けない。
 アオの行動にミドリが目を見開いて驚いた頃には、再びのメタルバースト。すれ違った後だからか、後ろから突き刺さったメタルバーストは肛門に当たってから全身を駆け抜けた。たまらず、ミドリは体を空中に放る。
 まともに受け身すら取れずに転がって、前脚も折れた。間違いなく、ミドリの負けだ。

「反撃の隙もないラッシュを受けるとか、急所を一撃されればメタルバーストも撃てない……のだがな。息子が私との戦いの最中にそれを発見して……それから、息子はすれ違いざまに切りつけるだけじゃなく、せいなるつるぎを連携の途中に的確に織り込む方法を発見した。
 貴方も、私と一緒にいれば……いずれは……みつけられたのだが……な。だが、な……お前が、意見を、変えなかった……から……多分、そう……昔の、ように……仲良く、並んで……歩く事は……もう、無理、なん……だよな……?」
「どちらかが……意見を――」
「そう」
 ミドリが前脚を振り上げる。
「変えない限りは……グフッ」
 ミドリが言い終える前に、全体重を込めたメタルクローがミドリの首を押しつぶした。
「残念、ね……貴方の事、生かしておいても良かったけれど……意見を変えない限り無理だとか言うのなら……私もいまさら意見を変えられない」
 痙攣しながら息絶えてゆくミドリを見て、アオは立ち尽くす。ただぼうぜんと立ち尽くす。立ち尽くす。

「母上……ミドリには勝ったのか?」
 不意に話しかけてきた息子の声を聞いて、アオは我を取り戻す。
「うん、勝ったよ……やっぱり、最低な夫で、最低な父親だった……」
 そういう風に思いこもうとして、ヒスイにも同意してもらいたくて、ずっとアオは子供に嘘をついていた。ミドリを捨てたのは自分だし、最低なのは自分なのに。その罪悪感を振り払うように、アオはミドリの首筋から溢れた鮮血を舐める。
「それでも、いつだって仲直りしたかったんだけれどね……ミドリ。色々とごめんな」
「……母上」
 心配そうな面持ちでヒスイが見つめる。
「大丈夫。私は人間と戦えるさ……体は疲れているから今すぐにとは言えないけれど……心はいつだって。戦える……」
 死んだミドリの首筋を顎で撫でて、アオは強がって微笑む。レンガは遠巻きにその様子を見守っていた。

感傷

 息子が戦力になるまで待ち続けたこの5年間のうちに、どういう人間を標的にして、どういう人間に手を出さないのかはすでに決めている。
 幻影を利用した諜報活動を得意とするゾロアークのロゼと、その相方であるシンボラーのスターからの情報を得て、戦争が起こる情報を聞きつけては、兵士と呼ばれる人種だけを叩く。『だけ』というのは流石に難しかろうが、少しだけでも横暴な人間の数を減らす事が出来ればと。
 むしろ、それで虐殺が行われないのならば人間の数は増えるかもしれない。しかし人間の数を減らすよりも、きっと人間が木を切り倒す必要のある戦争という行為をやめさせる方が重要なのだ……多分。
 戦争がなければ、木の防壁も木の船も、鉄を作るための薪も、火薬の材料となるクラボの実も必要は無い。兵隊としての家畜となる超獣を育てるために牧草や果樹園を作る必要もない。
 だから名君が国を収めれば人間が自然を破壊する活動も穏やかになるだなんて、少し甘いかもしれないけれどアオはそう考えている。とりあえずはそれで実験だ。
 まだ超獣を大量に動員した戦争こそ始まっていないが、人間はこの後も確実に多種多様な超獣を手なずける方法を見つけ出していく事だろう。結局そうなってしまえば、例え神といえども人間に真っ向勝負で勝つのは簡単では無いのだ。だから、無理に人間を滅ぼそうとせずに、生かしたい人間へ協力する形で上手く立ち回ってやればいい。
 人間はきっと、名君に支配される事で平和を保ち、自然と共存するのが真実の姿なのだから。だから私達はその姿を目指す手助けをしてやればいい。

 どんな道を選ぶにしても、人間を殺さずに出来る事ではない。でも、自分達つるぎが殺すといっても無差別に人間を殺すのではなく悪人だけというわけなのだから、きちんとミドリと話しあえば何とか分かりあう事は出来たのではないか? それとも、ミドリの中には『悪人』なんて者はいないのか。
 この5年間、ミドリが一度も自分達の元を訪ねてくれなかった以上、話しあいの席を持つ事も出来なくなったし、今回も聞く耳を持とうともしなかったので、結論は出ない。

「ふーー……」
 暴君として名を轟かせる、ゼクロム派の人間の領主が進軍すると聞いて、それを駆逐しに向かう最中。ヒスイやミドリと同じ色をした草原の中で、青々と茂る草を食んでの食事中。アオはそんなとりとめのない事を考えながら溜め息をつく。
 思考がまとまらないし、論点が二転三転していて、自分でも何を考えているのか全く分からなかった。
 結局、ミドリの死をまだ引き摺っているのだろう。だからアオはこんなに思考がまとまらない。
「疲れたのか?」
 レンガが尋ねる。
「いやなに、ちょっとした考え事よ……心配しないで、私は戦える」
 アオはそう言って微笑んだ。

 ◇

 アオは、なにも体が青いからアオと呼ばれているわけではない。アオとは(アオ)、激しく戦う事を意味している。激しく戦う事でしか、解決の道を見出せない。だから、彼女は戦いの道に自身を投じる。
 自身が選んだ道が正しいのか否かは、歴史が判断する。そして、その歴史を見守るだけの寿命を自分達は与えられている。ミドリの考えが正しかったか否かは、長い目で見ればいいさ。間違っていたのなら、自分達自身が歴史の証人となって思考錯誤してゆけばいい。ミドリとの間に出来た後継者、ヒスイもいる。
 行動しなければ実験すらも出来ないのだから。とりあえずはやって見るべきなのだ。だから、たとえ自分が汚名を被る事となっても、私は戦おう。私は白く(真実に)生きる(アオ)なのだから。
(看取る事も看取られる事も出来ずに逝ってしまったミドリのようには……絶対にならない!! 同情はするし、もっときちんと話したかったけれどそれだけは譲れない)

「時は来たれり。人間に粛清を与える時が来た……皆の者、我の後に続け!! 人間達にその勇猛果敢な姿を見せつけるのだ!! 進め!!」

 ゼクロム派の奴らが率いる軍は、風の強い平地で天幕を張って野営している。
 敵の数は数万で、こっちは千もいないが、我らつるぎは一騎当千ならぬ三騎当万だ。
 今夜は神が味方したかのような絶好の夜襲日和だから、きっと――
 天候を変える力すらあるレシラム様が見守っていて下さるのだ。この世界の真実の姿を目指せと。






Ring ( 2013/06/30(日) 14:22 )