ロズレイド編
シャムロックに出会えなかった者




 アルトとポルトと話をして仲直りできたあの日から、カノンは自分を呼ぶ声が気にならなくなり、修行にも集中することが出来るようになった。相変わらず自分を呼ぶような声は聞こえているが、『ちゃんと行くから待っててね』という気持ちでいるだけで、随分と相手の声も気にならなくなった。
 急かされることがなくなれば気分も楽なもので、カノンは卒業するまでの期間を修行と、人助けと、後輩たちの相手をすることでゆっくりと、それでいて充実させて過ごしていた。アルトとポルトの家に居候することとなったアイロンは、慣れない果樹園の仕事も頑張ってこなした。器用な手と、切れ味の鋭い刃を持つためか、道具の扱いも刃物の扱いも長けている為、長く続ければ果樹園の大事な戦力になるだろうとのこと。
 よく親や祖父が邪険にしているという報告も上がっていたが、アルトとポルトは本当に反省していたようで、『色違いを産んだ汚い雌め』と突っかかるたびに彼女を守っているのだとか。仕事中、子供のスティールはニコニコハウスに預けているが、毎日子供に顔を見せては、遊んであげる時間を作って、アイロンはいつも笑顔でいる。
 そんな光景を見ていると、家庭を持つことについての憧れも強くなるというもので、いつになるかはわからないものの、カノンはユージンとともに築く家庭を想像しては、ちょっと照れくさくって顔を赤らめるのであった。

 カノンはと言えば誕生日が近くなる前に、光の石を持っていることはあらかじめみんなに伝えておいた。イレーヌ達の性格だと、サプライズパーティーだとか言って黙って光の石を購入される可能性があるからだ。実際、メラ先輩が卒業するときには、それでマグマブースターが無駄に三つもあるような状況になってしまったという酷い過去がある。
 シャムロックは全ての進化道具を一通りそろえていて、メラは自力で購入しており、イレーヌ達がサプライズで購入し……そんなこんなで三つのブースターがそろってしまった時は、なんとも微妙な雰囲気になったものである。今回もシャムロックに購入した旨を伝えると、揃えてあるから買わなくともよいのにと苦笑されたが、カノンは『ならば、私が買った物はまだ見ぬ後輩のために使ってください』と笑顔で言う。
 それに対するシャムロックの答えは、「十年か二十年かわからぬが、また同じような事を言われる気がしてきた。あぁ、一年後かもな」であった。光の石に限らずに言えば、進化道具を使う必要がある子供は、直近だとテラーを進化させる闇の石がある。シャムロックの言う一年後とは恐らくテラーが卒業する時の事だろう。

 そうして、数ヶ月。卒業できるようになる年、十三歳の誕生日を明日に控えて、カノンはオノノクスの弁当屋、ホリィの下を尋ねていた。話す内容は、今はもう亡きホリィの娘、ロディについての内容だ。シャムロックに引き取られた彼女は、強すぎる程強いシャムロックというもう一人の母親の下で、いじめっ子たちに負けないように強く鍛えられた。
 シャムロックのしごきは、それはもう強烈なために、彼女が涙する日は少なくなかったが、泣いた日は一杯抱きしめて慰めてもらい、そのおかげでロディは強く、そして賢く育った。一歩間違えれば、ギスギスタウンのダンジョンを作った者と同じ運命をたどりかねなかった彼女は、シャムロックとホリィ、二人の母親や父親。兄弟代わりであったユージンの親、スティーブやそのほか色々な年上にも、ニコニコハウスの後輩など年下にも恵まれ、いつしかシャムロックの様に孤児院を作りたいという夢を持つようになった。
 シャムロックの最終段階一歩手前、首と脚のバンドを外した状態にも勝利できるほどの強さを持っている為、何かあっても乗り越えてくれるだろうと安心して送り出したが、しかし結果は芳しくなかったという。シャムロックが誰にも見せなかった涙を、唯一流した瞬間が、行方不明の彼女の死を確信して帰宅した時だという。
 行方不明のロディを探した際にはランランタウンを襲撃されてユージンの両親や、他の多くの友も失ってしまっており、同時にたくさんの大事な人を失ったシャムロックは、しばらく口もきけないほどにショックを受けていたという。
 シャムロックにとっても大きな存在だったロディは、当然のことながら今でも行方不明である。そのせいなのだろう、シャムロックは色違いの者に対して、ロディのようにはなるなと言い聞かせているし、何はなくとも体を鍛えておいて有事の際に反撃できるように鍛錬もさせている。ミックが街を出る事を諦めた理由も、ロディのようになるなと言われ続けたのが一つの要因だった。
「私の子供は、ロディ以外にもいたけれど、それぞれが普通に、平凡に生きてしまって、穏やかだけれど、つまらない人生を送っているよ……ロディだけは稲妻のようにあっという間に過ぎ去ってしまった人生だったけれど、あの子はきっと幸福だったわ」
 そんなロディの人生を振り返って、ホリィおばさんはそう語る。
「やっぱり、そう思いますか?」
「うん。他の兄弟の誰よりも、あの子は強くたくましく育ったし、笑顔も素敵だったから。だから、孤児院を作りたいと言った時、危ないから止めたい気持ちももちろんあったけれど、応援したい気持ちが勝ってしまったの。他の子供に、あんなに目をキラキラさせた子は、他にいなかったから……ロディが若くして死んでしまったのはもったいないけれど、それでも私は自信を持って言えるわ。あの子は、色違いに生まれて幸福だったって」
「私も、みんなからそう言われるくらいになりたいな……」
「何言っているの。あなたの事、時折見ているけれど、貴方だって幸福じゃない。イレーヌちゃんやパチキ君、テラー君。あんなに素敵な仲間に囲まれて、不幸だなんて言っていたら贅沢だってみんなに叱られちゃうでしょ。でも、今よりも幸福になることを誰も咎めはしないから、やりたいことがあるなら何でもチャレンジしなさい。でも、うちの息子みたいになっちゃだめっていうのは私もシャムロックさんと同意見だから。
 危険なことをするのなら、絶対に誰か協力者と一緒にやること。貴方ならばみんな協力してくれるでしょうから、無理はしないのよ?」
「はい。そうですよね……私も一人じゃ今の自分にはなれなかった。だから、これからも仲間を頼ろうと思います……」
「頼るって言い方だと、ちょっと違うかもしれないかな。一緒に、同じものを目指すの。頼るだけじゃなく、頼り合う。助け合うっていう関係になれるのならば、きっとそれが一番理想的な関係だと思う。貴方の兄弟は皆自分のやりたいことを見つけたけれど、その合間に出来ることがあれば、きっとみんな協力してくれるはずよ。
 だから、カノンちゃん。貴方が色違いのポケモンに対する理解を深めてほしいと思うのなら、それは皆と行いなさい。一人では出来ないことも、皆とならきっと出来る。何か大きなことを始めるときは、皆に相談して、手を貸してもらって、そうして挑みなさい。貴方が出来ることは少なくないけれど、一人で出来ることは多くないから」
「はい、わかります」
 ホリィの言葉に、カノンは頷いた。
「こうして、こんな話をしに来たってことは、何か思う事があるんだろうけれど……明日は、貴方の誕生日よね? 私も料理のお手伝いを頼まれたから覚えているけれど、それに合わせて何かやるとか?」
「最初は、その……進化パーティをやるだけのつもりだったんですけれど。でも、それとは別件で、私は行きたい場所があるんです……なんというか、分かるもんなんですね、何か悩んでることがあるのって」
「女の勘よ。悩んでいる女の子っていうのは、人に話を聞いてもらいたがるものだからね」
 そう言って、ホリィは笑みを浮かべる。やはり年を経た女性にはかなわないなとカノンは苦笑した。
「私ですね、ギスギスタウンに行こうと思っているんです。今は寂れてしまって誰も行かなくなってしまった街ですが、その街でこそ、私にしか出来ないことがあると思って……もちろん、かなり危険なので、仲間と一緒に、それなりの準備をしていこうと思っています」
「ギスギスタウン……あそこは色違いの子には危険な場所だっていうけれど、大丈夫なのかしら?」
「仲間たちがいますから」
 ホリィの心配する声をかき消すかのように、カノンは笑顔で言い切った。パチキやイレーヌ、テラーが居れば大丈夫だと、今は確信をもって言える。みんな素敵な仲間なのだから、それだけで何の問題もないのだと。


 翌日の誕生日パーティは盛大に行われた。このニコニコハウスでは、子供が多いために毎年誕生日を祝うというのは基本的にせず、今日のように一三歳の誕生日を迎えた日以外は誕生日も普通の日である。誕生日が分からない子供は、このニコニコハウスに訪れた日を誕生日の代わりとして祝われるのだが、カノンは親であるノブレスがきっちりと誕生日を覚えていたために、雪も降らない穏やかな春先に誕生日を祝われるの。
 その場で革袋越しに光の石を取り出し、口付けするように石に触れたカノンは、真っ白な光に包まれて、今までと比べて約三倍ほどの大きさになるまで急成長する。目元はマスクのような葉に覆われ、頭の棘帽子は白く可憐な花となり、両手の黒と紫の花弁はさらに美しく成長し、背にはマントのような器官を背負う。
 成長した花びらの中には棘の生えた蔓が仕込まれており、それを伸ばして鞭のように敵をひっぱたいたり、その棘を鉤代わりにして噛ませて、拘束することも容易である。ロゼリアのころからあった毒も健在で、その棘から分泌される毒を敵の体内に直接打ち込むことも可能だ。
 そうやって、比べ物にならないほどに成長し、美しくなった姿を見て、先輩も後輩も、我先にとカノンに抱き付いた。一番早かったのはシャムロックで、いつの間にか手・足・首につけていた力を抑える革のバンドを外していた彼女は、ご丁寧にメガシンカまでしてカノンをさらっていた。
 非常時でもないのにメガシンカをするものだから、その場にいる全員から『あんたは街を滅ぼす気か!』とツッコミを受けるのであった。それに対して、シャムロックは不敵な笑みを浮かべて、カノンをなでなでしているだけである。やがてそれに満足するとカノンは解放されるのだが、するとまず最初にイレーヌにもみくちゃにされ、パチキに乱暴に頭を撫でられ、テラーに冷たい手で首筋を触られ、散々な目にあってから、ようやくふらふらとユージンの下に倒れ込むのであった。
 もちろん、ふらふらなのは演技ではある。精神的にそれくらい疲れたのだという抗議の意味を含めたその行動に、みんなは大いに笑うのであった。

 そうして、大盛況のうちに誕生日パーティーが終わり、晴れてカノンは卒業が可能となるが、今のところはまだ卒業の予定は未定である。とりあえずはシャムロックが首に付けた革のバンドを取り外した状態で勝利できた時に卒業しようとしているが、その前に片付けなければならない問題が一つある。
 パーティーの片づけが終わり、落ち着いたところでカノンは皆を集めて、これからの話をする。
「もう夜も遅いのに、集まってくれてありがとうね」
 テラー、パチキ、イレーヌ、そしてシャムロックとユージンを見回し、カノンは微笑む。
「なに、良いってことよ。めでたい祝いの席なんだ」
「そうねー。たまには夜更かしもいいものよ」
「むしろ僕は夜の方が調子いいし」
「未来の嫁なんだ、何だって付き合うさ」
 パチキ、イレーヌ、テラー、ユージンは口々に言う。
「だが、明日はちゃんとよく寝るんだぞ」
 シャムロックは皆に言い聞かせるように口にする。皆はそれにはーいと応えた。
「それで、今日集まったのは何の用かしら?」
 シャムロックが尋ねて、カノンは頷く。
「私ね、ギスギスタウンのダンジョン……『血塗られた川』に行こうと思っているの」
 カノンがその言葉を口にすると、皆の表情が険しいものに変わる。
「また、なんでそんなところに?」
 一番最初に尋ねたのはイレーヌだ。
「私ね……以前にも言ったと思うけれど、スティールを救出しようとあの街に行ったときに、帰り道で私を呼び止めるような声が聞こえたの。それについては、テラーが残留思念のような者が私を呼び止めたんだって説明してくれたと思うけれど……」
「うん。そして、その残留思念が君を選ぶ何かの理由があるんだと思うって、言ったのも覚えているよ。それが、君が色違いだからなのか、それともそれ以上の何かの理由があるのかはわからないけれど……そういうのに敏感なはずの僕が聞こえずに、君にだけ聞えるという事は、特別な何かがあるのだと思う」
 テラーの言葉を聞いてカノンも頷く。
「私はテラーに言われたことの意味を考えてみた。いくつか予想は立てているけれど、とにもかくにも私が色違いであるという事が理由の一つであることは間違いではないと思う。それで、私を導く声があるなら、それに誘われてみようかなって、私はそう思ったわけ。それでね……その時は、貴方達にいて欲しいの。イレーヌ、パチキ、テラー、ユージンに」
「私はダメなのか?」
 カノンに仲間外れにされて、シャムロックは眉を顰める。
「えっと……母さんはその、なんというか、色々台無しになっちゃう気がして。その、あまりに楽々とクリアしちゃったら、何か私をダンジョンに呼んだ声の人が、不満になっちゃうんじゃないかと思ってさ」
「むぅ……なら仕方がないか」
 シャムロックは不満げだが、カノンの言葉に渋々と納得する。
「それでね、シュリンさんやナオさんみたいに、プロのダンジョンエクスプローラーと一緒でもいいんだけれど……多分、それじゃ意味がない。あの人達にも色々お世話になったけれど、私が一番お世話になったのは貴方達だし、私を支えてくれたのも貴方達だから。あのね、私が誘われている理由はね、きっと私が色違いってだけじゃない。色違いで、なおかつ『みんなと仲良くしている』ってことだと思うの。
 だからこそ、私と最も仲がいい、貴方達に頼みたいの……かなり難しいダンジョンだけれど、私達はすでに一流のダンジョンエクスプローラーと比べてもそん色のない実力を持っている。だから、いける」
 カノンが皆の顔を見まわして言う。皆は頷き、微笑んでいた。
「なるほど……そりゃ僕たちしか出来ないわけだね。最近あんまりダンジョンに行っていないけれど、腕落ちてないといいなぁ」
 と、テラーは言う。
「じゃあ、いつ行くかしら? 明日? 明後日? 予定開けておくよ」
 イレーヌが尋ねる。
「あー、俺も親方に言って予定開けてもらわねーとな……ともかく、カノンのためなら何でもやるからな」
 と、パチキはぼやく、
「それなら、俺も一日予定開けなくっちゃな。あの、シャムロックさんはその日はランランタウンの治安を頼みますよ」
「分かっている。平和な街だから、そう心配する必要もないと思うがな」
 ユージンが言って、シャムロックはそれに頷いた。
「ところで、ギスギスタウンの血塗られた川と言えば、確かまだ誰も奥地に到達したことがないダンジョンなのよ。出来た理由が理由だけに、奥地に宝物が隠されているだとかそんな事は特にないし、色違いのポケモンの魂が眠る不吉な土地だとかで、誰も行きたがらないからって。
 当然ね、赤い川の源泉などに行ったら、真っ赤な血液が湧いている場所があってもおかしくないわけで。そんなに気味の悪い場所に、わざわざ危険を冒して進むようなことは誰もしたくないというわけ。要するに、何が起こるかわからないわけだけれど……それでも大丈夫?」
 と、シャムロックがカノン達に問う。
「うん、大丈夫。一応、それなりに準備はしておくよ。なにがあっても逃げられるようにさ」
 それに対しては、カノンが真っ先に答えた。
「うーん、怖いけれどそんな素敵な場所があるなら見て見たいかも」
「だな。危険ならば準備すればいいだけだ」
「夫の俺が逃げるわけにはいかないだろ?」
「えぇ、私もカノンの妻候補として頑張らないとね」
 そしてカノンに続き、テラー、パチキ、ユージン、イレーヌが言う。
「いやあの、妻って、私とイレーヌは女同士だからね?」
 カノンはイレーヌの言葉にすかさずツッコミを入れるが、イレーヌは悪びれずにクスクス笑うばかり、
「妻が二人でも俺は構わんが……」
 ユージンも悪乗りしてそんなこちうものだから、カノンは焦る。
「ちょっとユージン、浮気はダメだからね!?」
 思わず声が大きくなる彼女に、その場にいた全員はいおお笑いするのであった。
「貴方達ほど仲が良ければ大丈夫そうね。ならば危険についてはこれ以上言わない事にする。それと、いい機会だからダンジョンエクスプローラーの調査員を連れて行くといいんじゃないかしら? ダンジョンに出現するポケモンの種類や、ダンジョンの様子、広さ、深さ、難易度などを記録する仕事なんだけれど、前人未到のダンジョンならば調査員と一緒に行動すると、協会の本に名前が載るのよ」
「そうなの? でも、コネは……あるの? 色違いの私と、不吉なダンジョンを調査してくれるようなもの好きなんて……いないでしょ?」
「コネならあるわ。ミル・オホス学園長兼、ダンジョンエクスプローラー協会会長よ。あの方ならば、色違いであることも、呪われたダンジョンであることもどちらも問題ない。これ以上の人選は私はしらないわ」
 カノンが心配そうに尋ねる言葉をさえぎって言ったシャムロックの言葉に、全員が驚きで目を見開いた。
「マジですか? めっちゃ重役じゃないですか」
「さすが母さん……すごいコネですね」
 パチキとイレーヌが驚きながら口にする。
「もちろん本当よ。というか、長生きしていると長生きの友達が欲しくなるのよ……みんな死んじゃうから」
「あー、それは確かに寂しいですもんね」
 シャムロックがぼやくと、ユージンはそれに同調する。
「ともかく、色々あって彼と知り合いになったわけだけれど……彼は、部下の監視の仕事が多忙だから……本当の姿で来ることはないでしょうね。だから、ダンジョンエクスプローラーの身分証バッジに描かれているヘルガー体型か巨竜体型の状態でなら来てくれると思うわ。あの方と一緒ならば、例え色違いであろうと狼藉を働く者はいないでしょうね。
 ミルに睨まれたら、千の目に監視され、追い詰められるともっぱらの噂だから、誰も怖くて手を出せないし、私ですらあの人を怒らせるのは怖いから。それでね、カノンが良ければ、ミルを調査員として連れて行ってほしいのよ」
「良ければって……むしろ、そんな人物をこの目で見られるのならば、ぜひとも。実物見て見たかったんだぁ」
「そんな人物って、私もこう見えてミュウの亜種みたいなものなのだけれどねぇ……私自身もすごいポケモンのはずなのに、あんまり注目されないのってなんか寂しいわ」
 カノンの応答に若干ショックを受けつつ、シャムロックはぼやく。
「いいなぁ、それなら私グランドフォース覚えなきゃ」
「お前はそればっかりだな、イレーヌ……技マニアも重症だぜ」
 イレーヌのつぶやきにパチキが呆れたように言う。
「だってイレーヌからスケッチを取ったらただの置き物でしょ?」
「こら、人聞きの悪い事を言うな」
 パチキのボヤキに、テラーとイレーヌは仲良くそんな事を話す。そんな三人を見て、ユージンとカノンは二人で顔を見あわせながら微笑んでいた。
「じゃあ、ミルさんを呼ぶのは決まりね。まだミルさんは起きているでしょうから、ちょっとテレパシーで連絡してくるわ……」
 そう言って、シャムロックは外に出る。皆はそれを見送って、ふぅと息をつく。
「行っちゃったね……皆、私のためにありがとうね」
「良いってことよ。俺はお前の可能性に惚れているんだ。俺達には出来ないことが、お前には出来るんだから」
「うんうん、可愛い妹を助けるのに理由は要らないでしょ? 貴方が笑顔なら、もっと可愛くなるんだから」
「カノンになら、僕はどこまでも憑いていくよ」
 いつもの仲間は、カノンを信頼してそう言った。
「そういうわけだ、カノン。お前の兄弟が頑張るのに、旦那の俺が何もしないわけにはいかないからな。お前の笑顔は、俺の笑顔でもあるんだから。お前しか出来ない事なら、胸を張って挑めよ。俺達が絶対に成功に導いてやるからな」
 ユージンが微笑み、ウインクをする。一晩で見下ろす身長になってしまった彼だが、彼の表情はいまだ頼もしい。カノンはそれに静かに頷き、仲間がいる事へのありがたみを噛み締めるのであった。


 数日後の朝早く、カノン達の下に、黒い犬のような体型と、緑のマフラーのような器官を携える、特異なポケモンが現れた。口周りや足先、そして前脚の付け根も緑色で異様な雰囲気のそのポケモンは、名乗る前からシャムロックが言っていたミル・オホスなのだとわかる。なにせ、ダンジョンエクスプローラーが身分を証明するバッジの裏面に描かれた通りの姿をしているのだから、見間違えるはずもない。
 ニコニコハウスの門の前でたたずむそれは、なるほど、確かに姿形や体型がヘルガーと似ている。闇夜で見れば大きさなどから見間違えてもおかしくはないだろう。シャムロックがヘルガー体型と言うのも頷ける。ベルを鳴らして呼ばれたが、明らかに怪しい人物なので庭で遊んでいた後輩たちは警戒していたため、ニコニコハウスで彼を待っていたカノンとイレーヌが応対にあたった。
「おはようございます……えーと、もしかしなくてもミル・オホスさんでしょうか?」
「あぁ、貴方はカノンさんだね。以前見た通り、美しいお嬢さんだ、あの時はロゼリアだったが、今はさらに美しくなっていらっしゃる。イレーヌさんも、愛らしいお嬢さんだ」
「はい? 私は初対面のはずですが」
「ですです、お会いしたことありましたっけ?」
 いきなり訳の分からない事を言うミルの言葉に、カノンとイレーヌは首をかしげる。
「私の目は、大陸中にちらばらせている。この周辺にも一匹私の目を潜り込ませていてな」
 言いながら、ミルは自分の体を見る見るうちに崩していく。ノコッチにも似た体型の、緑色の塊に別れた彼は、胸に赤いコアがある個体が本体のようで、代表するようにそれが語り始めた。
「このようにして、体を分けて監視し、部下の様子を見守って指示を下すのが私の仕事だよ。私の分体は中々可愛いだろう?」
 小さくなって甲高い声になり、ミルは自慢げに言った。
「へぇ……お初にお目にかかりましたが、すごく独特な身体をしておられるんですね」
 そう言ってカノンはぺこりと頭を下げた。
「グランドフォース使えます?」
 イレーヌは相変わらず、自分の技を増やすことばかりである、
「あぁ、使えるよ。だが、ここだけの話、この体型だとあまり強くないからダンジョンではあまり前に出られないかもしれないが、よろしくな。今日は一人の調査員として、立ち回らせてもらう」
 カノンとイレーヌにそう言って頭を下げ、ミルは挨拶を終える。その後、ニコニコハウスで待機していたユージンやテラー、パチキとも合流し、少々の休憩時間を挟んだ後に一行は出発した。
 ヘルガー体型の彼は素早さを活かして戦うスタイルではあるが、彼が弱いと自称するように、その攻撃は威力不足で動きも悪く、道中の簡単なダンジョン程度ならば問題のない強さでも、血塗られた川の難易度では辛そうだ。グラウドフォースも威力はそれなり、地震の技を少々便利にしただけというような印象で大したものではない。真の姿でなければこんなもんかと意気消沈する一行だが、イレーヌはその技に秘められた可能性を理解してスケッチし、数分後には真似してグランドフォースをを放って見せた。これにはミルも驚きである。


 そうして、ギスギスタウンにたどり着いた一行は、街の近くでヒメリの実を食べて一休みしてから、いよいよ難関ダンジョンである血塗られた川へと向かう。かつてこのダンジョンに挑んだ者は、その難易度の高さと広さ、そしてのしかかる重い空気に耐えかねて、たまらずダンジョンを脱出したという。
 なんせ、足元を赤い川が流れているのだ。口に含めばかすかに血の味もして、あまりの気味の悪さに、体調を崩してしまいそうだ。

 難易度の低いダンジョンならば通り道にもなるが、どうせこの難易度では通り道にするにも適さないと、ここの調査は打ち切られる。ここに来るのは指名手配された犯罪者くらいだと吐き捨てて、ベテランの探検隊も穴ぬけの珠を使って匙を投げる始末だ。肝心の内部だが、食料はリンゴなどのそのまま食べられる食料は少なく、ベトベタフードが多い。そのため肉食のポケモンでなければまともな食料にありつくことも難しかったため、それも難易度の上昇に一役買っている。
 誰も攻略したことがないというのも頷かざるを得ないほどに難易度は高い。ユージンが先頭に出て、攻撃を引き付けてパチキやイレーヌ、カノンの援護を受けるという戦略で進んでいったのだが、きちんと役割を決めてそれを遂行できるような仲間でなければ、とてもじゃないが乗り切れるようなダンジョンではないだろう。
 幸いにも、カノンは特殊、パチキは物理、イレーヌは両刀、テラーは補助、ユージンは囮といったように、役割がきちんと分かれているために上手く運用していけば突破は十分に可能だった。ちなみにミルは蛇睨みをすることで相手の行動を制限するのが得意なこともあり、補助に徹して攻撃は大体カノン達に任せている。

 最初の方は順調だった一行だが、進むごとに得体のしれない雰囲気がまとわりついてくるような気がして、テラーとカノン以外はその重苦しさに精神を削られる。テラーはともかく、カノンがその影響を受けないのは、やはり彼女がここに呼ばれたからであろうか。
 階層を進むごとに水はより赤く濁り、空気には体に悪い物が含まれているかのような嫌悪感すらある。それについてはミルも感じており、ねっとりとした空気の重さに、皆集中力が奪われ、細かいミスが目立ち始めて行く。
 そうなると、唯一その空気の悪さの影響を受けていないカノンとテラーが前に出ることで皆を引っ張るような長出が自然に出来ていた。前衛になることで必然的に狙われる機会は増えてしまったが、仲間の命を背負ったカノンは普段以上に強く、集中力も増している。敵の攻撃を紙一重で縫うようにして攻撃を叩きこむ彼女の勇姿には、イレーヌが思わず絵にかいてしまいたいと思ったくらいだ。

 そうして、カノンが率いる一行は、助け合い、励まし合い、傷ついた味方を庇いながらダンジョンを突破していく。持ち込んだ道具を使い果たして、ダンジョンで手に入れたピーピーエイダ―や食料で疲れをいやし、腹を満たし、受けた傷は自然回復に任せることもあれば、オレンの実や癒しの波導で急速に癒すこともした。

 状態異常の治療はカノンが一手に引き受け、睡眠や混乱などの緊急性の高い状態異常に対してだけは、テラーが味方に木の実を投げて、カノンがアロマセラピーを行うよりも素早く治療を行う。道中、その基本的な対策法を守りながら進軍した一行は、苦労の果てについに最深部の到達を果たす。フロアにして五一階、一つのフロアが広く階段を探すにも手間取るダンジョンでこれだけの階層、しかも敵が強いという三拍子の上に食料もまともなものが少ないと、あまりの難易度に最深部に差し掛かった一行は、思わず倒れ込むように座って休憩を取った。
 最深部の床は、もはや血液にしか見えないほどにどろどろの赤い水が足元を流れている。生えている草花も赤く染まり、まるで地獄のような光景で、体は休まっても心はとても休まりそうな場所ではない。
「奥に、何かいるな……すさまじい気配だ。しかも、禍々しい」
 その気配について最初に言及したのはミルであった。彼の鋭い視線は、壁の向こうにいるであろうまだ見ぬこのダンジョンの主に注がれている。
「母さんと違って、隠そうとする気配がないからよくわかる。禍々しくって……それでいて強い」
 ユージンはそう言ってため息をつく。
「でも、待ってくれるだけ良心的だね。一人だけ見張りを立てて、少し寝よう」
 テラーはそう言って、バッグの中にある食料をつまみ始める。
「見張りならば私に任せておけ。いくつかの分身に任せて、私は寝る」
「本体が寝てても分身は問題ないんだ……」
 ミルは寝るのだか寝ないのだかよくわからない事を言うが、自信満々なので、イレーヌ以外は彼の申し出に無言でうなずいた。ミルは少しため息をつくなり、四体の分身を周囲に置いて、たどり着いた部屋の入り口を見張る。それを見て安心した一行は、食事を終えると仮眠に入った。
 待ってくれるだけ良心的と言ったテラーの言葉通り、敵は悠然と待ち構えたまま、こちらに攻めてくる気配もない。ダンジョンでは傷がすぐに回復するように睡眠の効果も高く、数分だけ眠った一行は、大きく伸びをしてもう一度食料を胃袋に放り込み、立ちあがる。


「はっきりとわかる……これは、私を呼んでいた気配だ。きっとこれは……自殺したゲッコウガと……殺されたケロマツの……思いが……形になったものだ」
 言いながら歩いていくカノンの目には、意味もなく涙が浮かぶ。
「悲しい気分が伝わって……私にも涙が……」
「大丈夫? カノン……僕も、この悲しい気配は分かるけれど……その、無理しちゃだめだよ」
 突然意味もなく泣き出すカノンに、テラーが気を使って話しかける。カノンは大丈夫と頷き、それでも前に進む。そうして、曲がりくねった廊下を進んだ先にある、どれだけ暴れまわっても問題がなさそうなくらいに大きな部屋ににそれはいた。
 足先が影に解けてしまいそうな不安定なフォルムだが、しかし上半身はしっかりとした形のゲッコウガだ。舌を首に巻いてマフラーのように姿も、太ももにある水手裏剣の発生器官も、普通にその辺を歩いているゲッコウガと変わりはない。だが、彼の体色は青色ではなく、暗闇にもよく溶け込みそうな夜の帳の色。ゲッコウガの色違いのそれである。
「貴方が、私を呼んだのね?」
 恐る恐るカノンが問う。周りの者は誰も口を挟まなかった。ゲッコウガは静かにカノンを見下ろしながらゆっくりとカノンの下に歩み寄るだけで、頷くことすらしない。禍々しい気配を放つそれが悠然と進む光景には、どうしても恐怖が付いて回る。
「カノン、気をつけて。奴から憎しみと、嫉妬の感情があふれている……」
 テラーがそう言っている間に、ゲッコウガはカノンに蹴りが届く位置まで歩み寄る。息が詰まるような緊張の中、カノンはじっとゲッコウガを見つめていた。
「殺気だ! 来るよ皆」
 突如あふれ出したその感情に、テラーは大声で警告する。彼の警告を聞いて全員が身構え、一瞬遅れてゲッコウガが水手裏剣を放つ。全員に向けて放たれたと思ったその水手裏剣だが、唯一ミルにだけは投げられておらず、彼は眼中にないようだ。
 狙われたのは、カノン達ニコニコハウスの仲間のみ。テラーの警告のおかげで身構えていた全員は手裏剣を避けることが出来たが、それも相手が無茶な体勢から全員を狙って投げたからである。一人にきっちりと狙いをつけた状態では、きっと避けられる攻撃ではない。
「こいつ、母さんよりも強いぞ! 一瞬でも油断したら負ける!」
 ユージンが叫びながらこの指とまれを発動する。それによりゲッコウガの意識はユージンに向いた。同時にユージンへ向けた攻撃が開始され、ユージンはただ避ける事、受け流すことに徹するしかなかった。敵の攻撃を守って、緑の障壁で弾き、その効果が尽きたら神通力からすり抜け、熱湯を躱し、悪の波導からは全力で距離を取る。その猛攻に、クリーンヒットこそないものの、僅かにかすった攻撃もあり、ユージンの体には確実にダメージが蓄積されていく。
「ユージン、壁を張るわ!」
「頼む!」
 イレーヌが叫ぶようにして光の壁を張り出す。その横を、地響きを立てるような勢いでパチキが走り抜けていく。
「いくぜぇ!!」
 と叫び、パチキも自慢の頭を振りかざしてゲッコウガの横っ腹を叩き潰す。か細いボディのゲッコウガなど、彼の諸刃の頭突きを喰らえばひとたまりもないはずだが、しかしゲッコウガは吹き飛ばされて猶立ちあがる。
「混乱させる!」
 ダンジョンの中では効果が高い不思議枝も、こう言った最深部やダンジョンの外では効果が薄い。そのため、前に出たテラーは怪しい光を用いて、自身の力でゲッコウガを混乱させる。
「っしゃあ! 行くぜ!」
 一瞬ふらついたゲッコウガに、攻撃を叩きこんだのは他でもないカノンである。
「イレーヌ、仲間づくりを!」
 叫びながら突撃して放つ技は花びらの舞い。体を回転させながら、一切の手加減無しで攻撃を叩きこむ。この攻撃は連続で強力な攻撃を叩きこむ代わりに、疲れによって平衡感覚を失ってしまう技。だが、イレーヌの特性であるマイペースを仲間づくりで移してもらえれば、混乱することなく問題なく撃ちつづけられる。
 舞い散る花びらが、ゲッコウガの体を削って行く。敵の体は実体がないらしく、血が飛び散ることもなかったが、体のそこかしこが砂のようにさらり空気に溶けて消えて行くところを見ると、ダメージはある。だが、一緒になってミルも攻撃しているのだが、ミルの攻撃ではダメージを全く受け付けないようで、彼の攻撃は素通りするだけであった。
「私の攻撃が素通りだと!? 私は、蚊帳の外と言うわけか……舐めおって」
 最初の攻撃でミルだけ水手裏剣が投げられなかったのも、眼中にないという事なのだろう。
「ミルさん、下がって見ててください! きっと相手は貴方をお呼びじゃないんです」
 と、言いながらユージンはこの指とまれを解かずにいるが、カノンの攻撃を受けていたゲッコウガは、ユージンの行動に気付いていないようだ。ゲッコウガはユージンの方を見向きもせず、腕を顔の前にかざして防御していた腕を下げ、カノンを睨みつけて神通力で攻撃を加える。あの猛攻から反撃に転じるなどありえないと思っていたカノンは神通力に掴まれ、投げ飛ばされる。投げ飛ばされたカノンは、地面に強烈にたたきつけられたのち、地面を転がって草や木の枝で皮膚を切り裂かれた。
 光の壁を全員に張り出していたため、投げ飛ばされる力も弱体化していたが、それでも体が壊れそうなその衝撃。いまだこの指とまれを使用するユージンすら目に入っていないゲッコウガは、止めを刺さんとカノンに襲い掛かろうとする。
「させない!」
 イレーヌがそれを阻止せんと、前に出て空中で緑色の障壁を張りだした。『守る』の使用中は動けないが、空中で発動すれば慣性でそのまま飛んでいき、体当たりとなる。イレーヌの体当たりで行く手を遮られたゲッコウガは、守るが解けたイレーヌを長い舌を叩きつけて払いのけた。
 防御し損ねて吹っ飛ばされるイレーヌと入れ替わりでユージンが立ち向かい、彼はゲッコウガとすれ違いざまに頬を擦る。それによってゲッコウガの体には電流が流れ、ゲッコウガは一瞬の硬直。
「でかしたぜ、ユージンさん!」
 その瞬間、再度のパチキの強烈な頭突きで吹き飛ばされた。
 だがまだ終わりではない。普通のゲッコウガならばこれで倒されているだろうが、こいつは明らかに普通ではない事はパチキにも分かる。よって念入りにゲッコウガを破壊するべく、攻撃で吹っ飛んだゲッコウガが立ち上がる前に再度の追撃を仕掛けるべく、跳躍してからゲッコウガの体を踏みつけた。ゲッコウガの体から黒い砂のようなものが大きく散って行くが、それでもまだ終わりではない。ゲッコウガは寝転がったままにパチキの胸を蹴って、その反動で後ろに回転しながら立ち上がる。
 パチキはその蹴りでバランスを崩して転んでしまい、水しぶきを立てながら地面に転がった。その方向を見もせずにゲッコウガは水手裏剣を放ってパチキを攻撃する。攻撃に使う足を傷つけられてしまい、パチキはもはやこの戦いでは役に立つまい。
 その攻撃が終わるころにカノンは立ち上がり、ゲッコウガを睨みつけている。その間にイレーヌはリフレクターを張り、テラーはゲッコウガの死角から忍び寄る。立ち上がったカノンを見たゲッコウガは、そうこなくちゃとばかりに笑みを湛え、黒いオーラを放つ水の刃を手の平から作り出した。浮いているために足音を立てずに忍び寄ったテラーだが、息遣いでばれたとでもいうのか、ゲッコウガは目の前にいるカノンよりも先に、後ろから十万ボルトで攻撃を仕掛けてきたテラーの方へ振り返り、攻撃する。結果は、ゲッコウガは電撃を喰らいつつも斬撃をテラーへとクリーンヒットさせる。辻斬りはゴーストタイプである彼には効果が抜群で、傷は内臓までは達していないものの、腹を大きく切り裂かれたテラーは痛みに耐えかね地面に落ちる。
「この指とまれ!!」
 ユージンが声を張り上げ注意を引く。彼の目論見通りゲッコウガは彼の下に向かい、彼の体を水の刃で切り裂かんとする。両手のみならず舌や脚による打撃も含めたその猛攻のすさまじさたるや、ユージンは長い時間」凌ぐことが出来ないと直感するほどだ。出来ることは、緑色の障壁を張り出し、一時しのぎをするだけだった。
「させない!」
 その障壁が消え去る前にカノンが声を上げて動く。彼女の蔓がゲッコウガの脚を引きずり倒し、転んだところを他の蔓でも縛り上げて行く。計六本の蔓が相手のいたるところに巻き付いて、ゲッコウガはそれを解こうと物凄い力で暴れまわる。このままでは蔓が引き千切られるのも時間の問題、誰かの援護を期待して、カノンは棘の付いた蔓に力を籠める。
 その期待に応えてくれたのがユージンとイレーヌであった。ユージンは雷、そしてイレーヌは地割れ。縛りつけられていたゲッコウガは、雷で体が硬直したその一瞬に、抵抗することもままならずに地割れの中に落ちて行き、ダンジョンの床にたまった血のような赤い水がその中に流れ落ちて行く。それによりゲッコウガは地面に挟まれ身動きが取れなくなり、地面に全身が圧迫されて呼吸も不可能となる。
 普通のポケモンならば地割れで挟み込んでしまえば勝利は確定なのだが、それだけではまだ安心できない。ゲッコウガからあふれ出る禍々しい殺気は未だそのままだ。
「これで、終わりだ!」
 ユージンの雷が少し流れてダメージを負ったカノンだが、まだ体は動く。カノンは痛覚のない蔓の雷で焼けてしまった部分をを引き千切って腕をフリーにし、血だまりとなった地割れの中に手を突っ込み、地面に挟まれたゲッコウガへと向けてギガドレインを放つ。身動きできない敵の体から体液を吸い取っているうちに、ようやく敵の体は全て黒い影となり、空気に溶けて消えてしまう。
 あまり実感はないが、どうやら勝利したようだ。

「勝ったのか? 見た目は勝ったような感じだけれど……」
 見た目は、とユージンが言う通り、周囲にはまだ禍々しい気配が残っている。ひとまず敵が消え去ったことで、テラーとパチキは安心してオレンの実を傷口にこすりつけている。ただしユージンの言う通り、禍々しい気配は未だ部屋の中を漂っている為、油断はせずにカノンの方を見ている。当のカノンははと言えば、落ち着いた様子で深呼吸をしていた。
「大丈夫……気配はまだあるけれど、今は……憎しみも、嫉妬も感じない。テラーはどう?」
「確かに、感じるのは悲しみだけ。ただ、さっきもこの状態から急激に襲ってきたわけだし……油断は出来ないよ」
 テラーはそう言って、周囲を警戒している。
「いや、大丈夫。あっち……」
 そんな中、カノンが何かに気付いて部屋の奥を指さす。カノンが指差したその先には、先ほどのゲッコウガから溶けていった黒い影のような者が集まり、形を成している。黒い靄のような塊は、部屋の奥、階段のすぐ手前で静かに鎮座している。見ているだけでも、めまいを起こしそうな嫌な気配が
「あれが私を呼んでる……」
 ふらりと引き寄せられるようにカノンが歩きだすと、ミルは慌てて前に出る。
「待て待て! あれは危険だ! あれは……アンチハート。負の意識の塊が形を為したものだ。あれが集まると、ピュアイーヴィルやら氷触体やらダークマターやら、大変な存在へと変化する材料になるんだ……触るとその感情に支配されて自我を失うぞ?」
 ミルがカノンの事を遮る形で警告するが、カノンはそれに首を振った。
「大丈夫、あれは危険じゃない」
 カノンはミルを手で払う動作をする。
「いやいや、こういうのはダークライとか、湖の三精霊のような心の扱いにたけた者達に任せるのが得策で……あれは本当に何とかできる代物じゃないんだ」
 なおもミルは説得するが、カノンはもう一度彼を手で払う動作をする。有無を言わせないカノンの態度に、ミルも仕方なく道を譲る。
「どうなっても知らんぞ。お前が自我を失ったら、縛りつけてでも知り合いに引き渡すからな」
「うん、そうして」
 厳しい態度を取るミルに、カノンは望むところだと頷いた。そうして、カノンはゆっくりと歩いてく。覚悟はあるく間に済ませ、目の前にたどり着いた彼女は一度だけ深呼吸をして黒い塊に触れる。途端、カノンの体に黒い塊が取り込まれ、彼女は膝から崩れ落ちて地面にうずくまる。
「彼女に近寄るな! お前達も影響を受けるぞ」
 すぐさま走り出そうとする仲間達に、ミルが警告する。
「いや、これは大丈夫だ……」
 ミルの警告を受けてなお、テラーは首を振り真っ先に走り出す。
「僕にもはっきりわかるぜ……問題ない。むしろ、行かなきゃ!」
「なら、俺が行くぜ!」
 テラーの言葉を聞いて、ユージンは誰よりも早くカノンの下にたどり着く。短い手足で彼女の花弁に触れると、カノンの体は少し震えており、ユージンが触れるとその震えも徐々に収まっていく。
「大丈夫、カノン?」
 イレーヌが心配そうにのぞき込む。流石に警戒しているのか触れることはしなかったが、カノンは無言でそれに頷いた。見ると彼女は、歯を食いしばって震えている。その顔は血走っていて、とても正気とは思えないが、それでも何とか感情を抑えているようだ。
「まだちょっと無理そうだけれど、これなら問題なさそうだね……。カノン、辛いかもしれないけれど落ち着いて……」
 テラーもカノンの手に触れて、彼女を落ち着かせようとする。
「あぁ、ミルさん……これなら多分大丈夫。アンチハートが危ないのは知っているけれど、全部が全部危ないわけじゃない……」
 カノンの事を気遣いながら、テラーはミルに振り返り言う。
「だからと言って勝手に行動する奴がいるか……危ないものは危ないのだ。頑固者と呼ばれるかもしれんが、お前ら年寄りの言う事はちゃんと聞け」
 テラーの言葉に、ミルは呆れてため息をついた。

 カノンはしばらく蹲ったまま、不意にすすり泣きを始めた。大丈夫かとユージンが尋ねたが、カノンは頷いて大丈夫と即答する。彼女は、意味もなく悲しい気分になり、涙があふれはしたものの、悲しい以外の感情はなく、憎しみや嫉妬は感じられない。
 泣いていればいずれ収まるよとテラーが言うので、テラーとユージンで傍にいながら彼女の花弁を握ってあげて、カノンを落ち着かせた。数分してようやく落ち着いたカノンは、涙をぬぐって立ち上がる。
「ありがとう。もう大丈夫……ミルさんも心配してくれてありがとう。でも、憎しみとか、そういう嫌な感情はなかったから……だから大丈夫」
「全く、無茶をしおる」
 力を使い果たして枯れたようなカノンの声を聞いて、ミルは呆れていた。

 そうしてカノンが落ち着いたところで、ようやくイレーヌも彼女に近寄って行く。
「カノン、色々怪我してるし、私が傷口を舐めてあげるね」
「あのね、イレーヌ……そういうのはいいから普通に治療してね? 塩水とか癒しの波導使えるでしょ?」
 疲れ果てた彼女の下ににイレーヌが語り掛けて来るが、カノンは強張った笑顔で彼女の申し出を断り、ため息をつく。そうして俯けば、カノンはあることに気付いた。
「ねぇ、皆……これ。ダンジョンの水の色が変わってない?」
 地面に目をやれば、血液そのものだった地面の水たまりが、徐々に透明に澄んだ色へと変わっている。
「確かに、見るからに変わってるな……」
 カノンに言われてユージンも気付き、地面を見る。
「さっきまで飲む気がしなかったけれど、これなら……いや、まだ飲む気がしないわな」
 パチキは徐々に澄んでいく水を見て、苦笑する。
「血まみれの床、結構好きなんだけれどな……でもま、皆が好きな水の方がいいよね」
「うーん、確かにこれはこれで芸術的よね。特にカノンの頭の白い花弁が赤く染まっているの、美しいやら残酷やらで……素敵!」
 テラーとイレーヌは芸術や好みの面でこれはこれで良かったと語る。そんな二人を、何言っているんだこいつとばかりにユージンは手を広げる。
「ふむ……なるほど、素晴らしい結果だな。これは経過を見守って、きちんと大々的に発表しなければいけないようだな。色違いのポケモンが災厄を運ぶなどという馬鹿な事を言う輩も、私の言葉ならば耳を傾けるはずだ」
「賛成! ギスギスタウンが寂れた原因の一つが消えるんだもんね! 私達だけの秘密にしてたらもったいないよ」
 ミルの言葉を聞いてイレーヌが声をあげる。
「そうだな。そうやって、色違いへの偏見を解いていくことから始めよう」
「いいじゃねえか! そうすりゃカノン達もきっと、いい事になるぜ!」
 適切な表現が思い浮かばないのか、パチキはあいまいな表現で盛り上がる。
「……こいつは、大当たりな女を嫁に迎えられそうだ」
 同年代の子供達と盛り上がるカノンを見て、ユージンは彼女らをそう評する。徐々に澄んでいく水に体ごとつかり赤い血糊を洗い流す後輩たちは、いつまでも笑い合って、勝利の余韻に浸るのであった。




Ring ( 2015/12/31(木) 21:36 )