お菓子を買うためにお小遣を稼ごう
夜の自由時間が終わって消灯時間になり、遊び疲れたカノンは藁の上に寝転がって、数秒と持たずに死んだような眠りについてしまった。体はとっくのとうに疲れているのに、興奮しているせいで疲労に気づくこともなく元気に遊んだのだから、当然だ。ここに来る前は家では何もせずにごろごろしながら過ごしていたため、こんなに疲れてしまったのも初めての事。それだけに、眠りの深さ、気持ちよさも人生で初めてのものだった。
そうして迎えた。二日目の朝。ニコニコハウスはお掃除から始まる。皆が起き出してからは、全員で寝具の藁を片付け、箒で藁の屑を取り除き、雑巾がけをして床を綺麗にするのだ。その間、シャムロックは朝食を作り、掃除の間にいい具合にお腹がすいた子供達の腹を満たす準備をするのだ。
朝一の掃除は、適度に体を動かすため、それだで体も目覚めてくれる。眠っている時に休んでいた体も、そうして血の巡りが良くなったことで完全に目覚め、食欲も湧き上がる。食べるのが遅い子は特に、起きてから少し時間を置くのがいい。
世間知らずなカノンと言えど、掃除は家でもしていたために手慣れたもので、人数の多さに混乱しながらも立派にそれをやり終えた、朝食は、昨日の夕食に比べれば見劣りする者の、種族の違いを考慮したメニューの豊富さは健在で、一人で作ったとはとても思えないようなレパートリーだ。サイコキネシスを用いて何本もの包丁を空中でふわふわと動かしているため、作っている風景を見ればひとりで作ったというのも納得と言えば納得なのだが、恐らく同じように調理ができる者は、同じエスパータイプでもそう多くないはずだ。
そうして朝食を終えた後は、低学年の子供達の勉強タイムである。とはいっても、カノンはまだも字は読めないため、テラーと一緒に遊ぶことになるのだが、テラーはすでに文字を覚えているために、彼女に一緒に勉強しようと持ち掛けてくれた。
「アイツのなまえはアイアント」
「アイツのなまえはアイアント」
「いつもいっしょだイルミーゼ」
「いつもいっしょだイルミーゼ」
「うつくしいはねだよ、ウルガモス」
「うつくしいはねだよ、ウルガモス」
テラーが絵と文字の書かれたカードの文面を読み上げ、カノンもそれに続く形で読み上げ、そして文字の形を覚える。何度も何度も繰り返すうちに、絵柄と文の内容が一致し、そして分の内容を覚えたら、そこから文字の形を覚えて行く。そうすることで、テラーも、他の子供達も文字を覚えてきたのだ。今は、同年代の子供達はチョロネコのミック先生指導の元、年齢に合わせた勉強の指導を受けている。
そんなのずるいとカノンは言いたいが、しかしいくら吠えたところで文字も覚えていない状態ではノートも取れない。早く追いつくためにも、カノンは懸命にカードに書かれた言葉を暗唱し、時折それを書き写しては暗記するのであった。
勉強タイムが終われば、昼食を経て、自由時間である。当然、同年代の子供達と遊び倒すのだけれど、いつもドッジボールと言うわけにもいかず、今日は野山に繰り出し、種を残したタンポポを集めてみんなで吹き飛ばしたり、みんなで近くの小川まで行って、石を投げてははねた回数で競い合ったりなど、遊びの数は無限大だ。
木の枝倒しという、枝を守って見張る鬼の隙をついて枝を倒せば福の勝ち。枝を守りつつ福を見つけ出し、その名前を呼ぶことで福をアウトにし、全員をアウトにすれば鬼の価値と言うルールのゲーム((いわゆる缶蹴りだが、この世界に缶などないのだ))ではした時は、カノンは草タイプであることを活かして、擬態しつつ枝を倒すなどの頭脳プレイも見せつけた。
それだけで勝てるほど甘くはなく、特にテラーはかなり擬態を見破ってくるのだが、手を変え品を変え鬼を打倒し、福を出し抜こうとすることで、カノンも大いに楽しめた。
途中でお菓子タイムを挟みながら、四人は大いに遊び、暗くなって帰らなければいけない時間になると、体もクタクタになってしまっていたが、しかし一晩眠ればまた元気に遊ぶ気分になれそうな心地の良い疲れであった。カノンは今日もよく眠れそうだと思った。
そんな日々が、三日ほど過ぎたころには、流石に母親の顔が恋しくなり、あちらはどんな暮らしをしているのだろうかと、少しぼやけて浮かぶ親兄弟の顔に思いを馳せることもある。それを相談すると、シャムロックは忘れろとは言わず、黙って彼女を抱きしめ慰めてあげた。
物心をつく前からこのニコニコハウスに暮らしている者もいるのだ。みんな本当の親子と会えなくって寂しがっている。だから寂しがることを我慢しろとは言わないが、そんな時は甘えればいいのよと、優しく言って抱擁する。シャムロックは、微細な体毛の生えた体でカノンを抱きしめ、そのふわりとした感触で彼女を癒す。母親が抱きしめる感触とはだいぶ違ったが、こうして大きな存在に甘えてもいいという安心感は、カノンにはとても大きいようで。
難しい事を考える必要はない、甘えられる相手はお母さんだけじゃないのだと、何となく理解は出来たようだ。そんな包容力は、カノンの他にもたくさんの子供達がお世話になったものである。両親の突然の死を受け入れられなかったユージンや、兄弟に追い出されて両親に会えない日々を嘆いたメラなど、シャムロックがこうしていなければ、今よりも少し卑屈な性格にでもなっていたかもしれない。
そんなこんなで、カノンがニコニコハウスに入ってから五日。まだ彼女の持久力は乏しいが、それでも大分運動にも慣れてきたころ、ズガイドスのパチキがこんな事を言いだした。
「そういえばさぁ、みんな。そろそろお菓子も尽きちゃうし、買いに行かなきゃダメじゃね?」
「あー、そうだねぇ。でももうお小遣ないよ? 少しだけしか買えないはず……」
パチキの言葉に対して、テラーはそういった。
「じゃあ、今日はお小遣い稼ぎに行こうよ」
それに対するドーブルのイレーヌの結論がこう。
「お小遣? って、何?」
「お前お小遣いも知らねーのか?」
すっとぼけた質問をするカノンに、パチキがそう言って大袈裟に笑う。
「こらこらパチキ。カノンは今まで外に出たこともなかったんだし、買いものだって出来るわけもないじゃん……えっとね、お小遣って言うのはお金の事なんだけれど、それは知ってるよね?」
「うん、知ってる。お母さんが不思議枝を売って、お金を貰ってたから。旅の途中も、お金を使ってなんかいろいろ買ってたよ」
「で、私達もお金を稼いだりして、それでお菓子を買ってるの。ほら、いっつも食べていたクッキーとかみたいに日持ちする奴をね」
イレーヌの説明を聞いて、カノンもようやく理解する。
「あれかぁ……あれ美味しいよね。たまにだけれど、お母さんも買ってきてくれていたし」
「うん、でもそれを買うにはお金がいるんだけれど……私達、皆のお母さんからお金をもらえないのよね……自分なりの方法で考えてお金を稼げって言われてて。だから、私達も私たちなりの方法でお金を稼がなきゃいけないわけ」
イレーヌの説明を聞いて、お金を稼がなければいけない理由は分かった。しかし、カノンにはまだわからないことがある。
「お金って、どうやって稼ぐの?」
「うん、それについてなんだけれど、例えば何か物を作ってみるのもいいし、畑の手伝いをするのもいいし。でも、私達はね、ダンジョンに入って、いろいろ役立つものを手に入れて、それをお金と交換するって方法が一番かな。みんなで行けば、ダンジョンも乗り越えられるし。カノンちゃんは不思議のダンジョンを越えた経験はある?」
イレーヌに尋ねられて、カノンは元気よくうんと頷く。
「あるよ。お母さんに守られながら……ずっと後ろをついていった。簡単なダンジョンだから大丈夫だろうって」
「なら、問題ないじゃないか。なに、少し注意することはあるけれど、今から俺達が行くところも簡単なダンジョンだからな」
パチキも安心したようにそう言って笑う。
「でも……私、上手く戦えるかなぁ? 攻撃技とか、出来ないわけじゃないけれど、自信がなくって……」
「カノンはどんな技を使えるの? 僕ねー、こう見えて怪しい光とか使えるんだよ。あとは、驚かすとかサイケ光線も」
今まで、バトルごっこの一つもしてこなかったカノンには、戦うなんて未知の領域だ。それでも、年下であるテラーが自信満々とあっては、何だかそのまま黙っているのも恥ずかしい。
「使える技は……吸い取るとか、痺れ粉とか……あとヘドロ爆弾も使えるよ」
「あら、それだけ使えれば十分よ。パチキなんて頭突きと諸刃の頭突きと思念の頭突きしか使えないもの」
控えめな技構成のため、恥ずかしそうにカノンが言うと、イレーヌはそれだけ使えれば十分と笑う。
「ちなみに私だけれど、サイコブレイクと、トライアタックと蝶の舞いとバークアウト。特にバークアウトは相手の特攻を下げることが出来るから、皆をサポートできるんだ。その他メインでは使っていないけれど、グロウパンチと恩返しも使えるの。私はあんまり体は強くないけれど、器用さが売りだからね、がっつり戦うよー」
イレーヌは誇らしげに自慢する。彼女は道場を開くのが夢だと言っているだけあってか、体を鍛えることに余念がなく、その上技も器用でたくさん使えるのが特徴だ。年齢の割には、強いと言える部類に入る子だ。
「そういうわけだ。ま、戦闘に関しては俺とイレーヌに任せ解けば問題ねえよ。テラーとカノンは、後方支援を頼むぜ」
「う、うん。頑張る」
カノンはパチキに言われ、イメージが分からないままにうんと頷く。ダンジョンは怖いところだが、それでも皆が大丈夫というのならば大丈夫だろうし、断れそうな雰囲気でもないので、カノンは半ば強制的に参加が決まるのであった。
準備の段階となって、まずはイレーヌ達をはじめとするニコニコハウスの面々で準備をする。ダンジョンに出かけるという事が明らかにわかるような準備を目撃されても、先輩たちは特に咎める事もなく、あら頑張ってねと笑っている。きっと、こうしてダンジョンに出かけようとするのは日常茶飯事なのだろうというのがカノンにもわかった。
「ねぇ、私は何を持って行けばいいのかなぁ?」
「うーん、そうだねぇ。後方支援をやってもらうからには、道具持ちも仕事の一つだけれど……カノンちゃんはまだ道具を持っていないだろうから、私が適当に選んでおくよ。それとも、ダンジョンで使える道具はある?」
「あるよ、お母さんが持たせてくれた縛りの枝とか。他にも、ふらふらの枝も作ったの」
「え、カノンって不思議枝を作れるの? 僕はまだ作れないのに……」
カノンが自分の特技とも思っていなかったことを語ると、テラーが驚いて目を剥いた。
「私はお母さんに出来ることは、木の枝を作ることしかなかったから。だから私、木の枝を作らせてもらってたの。最初はお母さんが仕上げていたけれど、今は簡単な物なら最後まで作れるよ」
「へー……そりゃすごいなぁ。僕も手先は器用だけれど、まだまだ木の枝を削っても何の効果も出なくって……お手本を見ながら文字を刻んでいるんだけれど、全然ダメなんだ」
「本当? じゃあ、私が教えてあげるよ」
「本当? 本当に本当? 絶対教えてよカノン!」
「いいよ。絶対の絶対教えるよ」
本題を忘れて、テラーとカノンは盛り上がる。放っておくとどんどん話し始めてしまうため、それではいけないとイレーヌは苦笑しながら二人をたしなめた。
「ねぇ、話の続きは後にしよう? 今は、とりあえず一緒に行こうよ」
イレーヌの言葉に、二人はハーイと、あまり気が進まなそうに頷くのであった。
そうして、前衛の二人よりも重めの道具を持たされて、カノン一行はダンジョンへと向かう。慣れ親しんだお小遣い稼ぎのためのダンジョンは、近所の小川から入り込めるダンジョンだ。中に入ると、急速な空腹感を覚える代わりに、傷はすぐに癒され、痛みには鈍くなる不思議な感覚が体中にめぐる。この感じは、親と一緒にランランタウンまで訪れた旅路で一回感じたきりで、その時は母親も急ぎ足だったためあまり堪能している時間はなかった。
今はこの不思議な感覚を存分に堪能出来る。いくら走っても疲れないからいくらでも走れる。けれど、腹がすぐに減って行くから、非常食は欠かせない。前を行くイレーヌについていきながら、アイテムや金属クズを拾っていると、今まで感じたこともないくらいに空腹が訪れてくるのを感じた。
イレーヌは、ダンジョンではどれだけ空腹になっても、普段と変わらないコンディションで動くことが出来、本当にもう歩けなくなるほどフラフラになって初めて行動に支障が出ると、カノンに教える。痛みにも鈍感になるから、きちんと自分のコンディションを確認しないと、気付かないうちに致命的な傷を負っている場合もあるから気を付けなさいとイレーヌは注意した。
さて、このダンジョンは、水辺のダンジョンということもあって、水たまりが豊富で、足元はびちゃびちゃに濡れている。草も多く生えており、季節によっては蚊が多く不快極まりない。そんなダンジョンではあるが、レベルは低いため、子供が冒険するにはぴったりな場所ではあるが、普通ならこんな年齢の子供達が、子供だけで入るダンジョンではないともいえる。
ニコニコハウスの子供達は、こうやってダンジョンにはいったりすることで、同年代の子供達と比べて大きく鍛えられるのである。ダンジョンという場所は、怪我な治ったり腹が減りやすいという特徴の他、そうして成長しやすくなるという面でも特異で、不思議な場所である。
そんなダンジョンで鍛えてきたイレーヌとパチキは、さすがの強さであった。敵に行く手を塞がれようとも、お得意の頭突きや、蝶の舞いであらかじめ高められた特攻から繰り出されるトライアタックで敵を叩きのめす。たまに、地面タイプの敵が相手になる時は、パチキは素直に退いて浮遊の特性を持つテラーや、地面に強いカノンを前に出させたりなど、後衛の子供にも仕事を与えることは忘れない。
相性的に得意と言う事は分かっていても前に出るのは怖かったが、自分よりも年齢の低いテラーが相手の格闘タイプのポケモンが繰り出すパンチを真っ向から受け止めているのを見れば、自分も前へ出ないと格好悪かった。こんな時に、ドッジボールの練習が実を結んだのか、カノンは敵の攻撃を見切り、いなし、そして冷静に痺れ粉を嗅がせて自由を奪い、追撃をイレーヌに任せるなどの連係プレイも上手く出来た。
イレーヌのフォローが的確なのはもちろんの事、カノン自身が先ほどまで戦っていたパチキの動きをよく見ていたことで、自分がどのように動けばいいかを学んでいたことが大きい。カノンがきちんと他人の動きを見て、そして学んで考えたからこそ自然の動きを合わせることが出来たと言えよう。パチキは、敵に攻撃を成功させたら、相手が怯んでいるうちに離れて、イレーヌの攻撃の斜線を通りやすくしている。同様にカノンも、痺れ粉で痺れさせた後は、道をあけて味方に攻撃をしやすくさせる。
こう言った連携動作を誰に言われるでもなく実践してしまったため、誰もそれを気にすることはしなかったが、後になってそれが彼女の才能の片鱗だったと、気付かれるのである。
そうして快進撃を続けるカノン一行の前には、あまり顔を合わせたくない敵が現れる。
「げ、ラグラージだ……」
大きな部屋の隅っこの方で眠るラグラージ。眠っているし、近くを歩いても起きないような寝坊助なため、放っておけば害はないのだが、そうやって眠りこけていられるのは、まぎれもなくその強さの証拠であった。要するに、眠っているラグラージは、眠っている隙に襲われても、寝首を掻かれるどころか返り討ちにするだけの実力があるという事だ。
事実、鍛えていなければ大人でさえも不覚を取りかねない強さを持っており、このダンジョンの中では最強と言える敵である。このダンジョンでこいつを発見した時は、ともかく刺激することなく逃げる事。それが最優先するべき事項である。
「だから、絶対攻撃するなよ。攻撃したら、シャムロックさんにお尻たたきしてもらうから」
と、パチキは言う。一度、先輩たちの保護の下、戦いを観戦したことがあるが、クリムガンのシュリンが一撃では仕留めきれず、僅かながらでも傷を負って勝利したという光景が目に焼き付いている。もしも自分があの攻撃を喰らっていれば、一撃で敗れていただろうなと思うと、パチキは怖くてたまらなかった覚えがある。
だから、単純で脳筋なパチキでも、誰かのうわさ話や言葉を信じて恐怖を感じているのではない。実体験をしたうえで、このラグラージは危ないと告げている。
「分かった、攻撃しなければいいんだね?」
「分かってるとは思うけれど攻撃以外もしちゃだめだからね?」
こういう時、ひねくれた子供に『攻撃はしないよ』と言って補助技でも何でも使われたら困るため、イレーヌはきちんと確認を取る。ダンジョン外の話ではあるが、街の子供達が似たような事をした経験があったのだ。
「分かってるよー。痺れ粉も何もしないよ」
だけれど、カノンは人を困らせて楽しむような性格ではなく、イレーヌやパチキの言葉には素直に従い、通り抜ける。その時は通り抜けることが出来たのだが、階段を下りて奥へ奥へと突き進むその先にある、このダンジョンの最後の階層にて、問題が発生した。
「テラー、格闘タイプは苦手だ! 頼むぜ」
「了解!」
敵はキノガッサ。ノーマルタイプであるイレーヌや、岩タイプであるパチキには苦手な相手であり、格闘タイプの攻撃を無効化できるムウマである彼ならば最適な相手だ。その彼が、キノガッサに怪しい光をしたまでは良かったのだが、それにより運が悪い事に、キノガッサはタネマシンガンをふらふらとしながら撃ってしまい、その流れ弾がよりにもよって、眠っているラグラージの太ももに当たってしまったのだ。
「あ……やばい、逃げるわよ! みんな逃げて!!」
それにいち早く気づいたイレーヌが、皆に逃げる事を促す。テラーは焦って逃げ、カノンも焦って逃げるのだが、慌てすぎた彼女はイレーヌ達がいる方ではなく、別の方向へ逃げてしまう。
「逃げられる相手じゃねえよ! くっそ」
と、パチキが縛りの種を投げてラグラージの動きを封しようとするが、敵はすばやく避けてパチキ達を追う。これによりカノンが狙われる心配はなくなったが、いまだにピンチは続いている。
「舐めてんじゃねーぞぉぉぉぉぉ!!!」
耳をつんざくような大声でイレーヌが叫ぶ。悪タイプの力を伴って放たれたそれはバークアウトとなって、敵の特攻を避ける。
「うるせー、畜生!」
種を投げて逃げるのが遅れたパチキもその大声を聞いてしまうが、彼の特攻が下がったところで大した問題ではない。
「来るよ、ハイドロポンプ!」
ダンジョンには通路と部屋という大まかなくくりがあるが、そのうちの廊下に並んだ瞬間は必然的に一直線に並んでしまう。そんな時こそねらい目の技があって、その技こそ『ハイドロポンプ』だ。
その威力たるや、立ちふさがるものをドミノ倒しの様になぎ倒して行き、一列に並んでいたら後ろにいる者まで攻撃してしまうほど。イレーヌが味方の被弾を防ぐべく緑の障壁を張り出して『守る』と、苛立ったラグラージは距離を積めて腕を振り下ろす。
間一髪でそれを避けたイレーヌは、パチキとテラーが遠くまで逃げたのを確認すると、自分も一目散に逃げだした。
「カノンも何とか逃げて!!」
カノンが付いてきていないことは分かっていた。あんな初心者を一人置いて自分達が逃げてしまう事に罪悪感はあったが、しかし全滅だけはなんとしても避けなければならない。結果的にイレーヌも、ハイドロポンプを一発喰らいながら、這う這うの体で逃げるしかなかったのである。
最後の階層であったため、階段を下りた先はダンジョンの出口である。テラー、イレーヌ、パチキはカノンが帰ってくるのを待っていたが、しかしカノンはいつまでたっても現れなかった。ただ、いつまでたってもとはいっても、彼らの焦りが時間の感覚を無くしているだけであり、隠れながら、迂回しながら慎重に進んでいるのであればむしろこのくらいの時間は普通に経ってもおかしくない。
「どうしよう、やべーよ! カノンがダンジョンを出てこない……」
「どうしようって、こうなったらもう大人を呼ぶしかないよ。敵は倒れたポケモンに対しては興味を無くすけれど、このままじゃダンジョンの崩壊に合わせてカノンが酷い怪我をしちゃうし……そうなる前に助けなきゃ」
焦るパチキと、冷静なイレーヌ。テラーは意見を出すことも出来ず、黙ってしまった。不思議のダンジョンは入るたびに形が変わるが、その際に特殊な素材で出来た物質や、理性を持ったポケモン以外の全てが消滅し、無くなってしまう。例えば、探検隊バッジやら、警備団エンブレムや金塊など、そう言った身分を証明するための物質は前述の特殊な素材で出来ているために問題なく排出される。だが、オレンの実やらその他いろいろな道具は消滅し、またはじき出されたポケモンも肉体的、精神的に大きなダメージを負い、しばらく失語症や失読症に陥ったりということも珍しくはない。
「でもよー、こんなことを大人に知られたら、俺達は尻叩き十回コースだぜ?」
もちろん、カノンがそんな事態に陥ったら、年上の二人が責任を取らされることは当たり前である。とはいえ、慰謝料を取るとか、そういうわけにもいかない年齢であるため、代わりに課される罰がパチキの言うような、シャムロックによる尻叩きである。
「……畜生、もう一回ダンジョンに入って探し出す」
その痛みたるや、悶絶ものだから、それを被るくらいならば救助に向かうとパチキが勇む。
「待ってよ、すぐにダンジョンに入るって、疲れているのにそんなことしたら無茶だから。素直に大人を呼んだ方が……」
「うるさい、俺は尻叩きは嫌なんだよ! お前らはそこで待っていろ! 行ってくる!」
イレーヌはパチキを止めるが、しかし彼はイレーヌの制止を振り切って行ってしまった。しかも、困ったことに荷物の大半はテラーが持っており、今の彼が持ち歩いているのは、攻撃力を上げる効果のある腕輪、攻撃リングルと、僅かなカゴの実、ピーピーエイダー程度である。
PP切れも心配な状態で無茶して出撃すればどうなるかなど火を見るよりも明らかなのに、走り出した彼を止めるのは難しい。
「どうしよ……」
彼まで再びダンジョンに突撃してしまい、イレーヌは途方に暮れる。一人で突入したりなどすれば、スタミナも持たずにじり貧になることは確実。
「とりあえず、大人に言ったほうが……」
「ただいまー」
途方に暮れる二人に、間の抜けたカノンの声。身を伏せていたりした影響だろうか、彼女の全身がひどく汚れているが、体の方は五体無事だ。
「カノン!?」
テラーとイレーヌの驚きの声が重なった。
「よかったぁ、助かったんだね……いったいどうやったの?」
酷く安心した声でテラーが尋ねる。
「えっと……ふらふらの枝で混乱させてラグラージから逃げて……ちょくちょく草の中に隠れながら、ひたすら木の枝と種を投げて何とかしてたの。かなり遠回りしちゃって怖かったけれど、何とかなったよ」
三人の心配をよそに、カノンはあっけらかんとした様子で言ってのける。
「ところでパチキは?」
カノンはパチキがいないことに気付いてイレーヌに尋ねる。
「えっと、それなんだけれどね……カノンがダンジョンを脱出できなくなっていることに気付いて、そのまま再突入しちゃったんだ……だから、その、どうしようかな……どうにもならないよこれ」
「やっぱり、大人に言うしかないよぉ。お尻叩きは嫌だけれど、でもパチキがひどい目にあうのはもっと嫌だし」
「お尻叩きってなぁに?」
イレーヌとテラーが怯えている様子を見せるとカノンは少々恐ろし気に尋ねる。
「あれは……ねぇ。昔、私達ニコニコハウスの子供達を馬鹿にする子供が居たのよ。『親に捨てられたいらない子、色違いの悪魔とその仲間が偉そうに街を歩くな』って。そういう事を言われて怒った私とパチキで、五人を相手に喧嘩を挑んじゃって……その頃のテラーはまだ、流石に喧嘩には加わらなかったけれど……でも、やりすぎちゃってね。
相手が降参して、謝っているのに大声でバークアウトしてたのがいけなかったみたい。その時は尻叩き五回だったけれど、結構その痛みが強烈でその日眠れなかったから……きついのよ。シャムロックさん、叱る時は尻たたきが定番だから、だからパチキはあれだけ恐れているのよ。ちなみに史上最高記録は三〇回連続らしいわ。それはもう、辛かったそうで……」
「ひえぇ……なんというか、大変そうだねぇ」
「大変とかそういう問題じゃないよ……ダンジョンで喰らうよりもよっぽど痛い攻撃がお尻に集中して、座ることも立つことも、仰向けになることすらも出来ないんだもん……」
「あの……そんな事よりも、パチキが危ないよ。どうしよう?」
パチキの事を話すつもりが、尻叩きの話にシフトしていくのを見て、テラーは話の軌道を修正するべく尋ねる。
「そうだよ、大人に助けを呼ばなきゃ!」
カノンが言う。
「でも、パチキは大人は呼ぶなって……尻たたきは嫌だからって」
それに対してテラーはこう返答する。実はパチキはそんな事は言っていないが、しかし言わずともパチキがそれを望んでいることはイレーヌにもテラーにもきちんと伝わっている。
「そんなの知らないよ。パチキが怒られるなら一緒に怒られるよ! だから、助けを呼ぼうよ。このままダンジョンにいたらひどい目にあうんでしょ? そんなの見過ごせないよ」
「……あーもう。どうにでもなれよ! わかった、私も一緒に怒られるから。テラーも、助けを呼びに行くよ!」
カノンがいきり立つのを見て、イレーヌも半ばやけくそ気味に
「僕も? 僕怒られるのはやだよぉ……」
「いいから!」
テラーは尻たたきを恐れているが、しかしそれを強引に命令する形でイレーヌが急かす。こうなってしまうとテラーは何も言えず、ついていくしかなかった。
こうして走って行った先、とにかくいの一番に見かけた先輩に声を掛けようとしたところ、見かけたのはチョロネコのミックと、パチリスのユージンである。パトロール中にばったり会った二人は仲良く話している最中で、お仕事はどうだとか、最近入った後輩の様子はどうだとか、他愛のない話だ。そんな時に、慌てた様子で掛けて来る後輩達。彼らが声を上げてミック達を呼ぶので、何事かと二人はカノンたちに掛け寄った。
「おい、お前らどうした?」
「えっと……今ね、濁った小川ってダンジョンに行ってきたんだけれど、強いポケモンに追いかけられて、カノンがはぐれちゃって。中々帰ってこないから……パチキが助けに行くって言って、飛び出しちゃったの。でも、一人じゃちょっと難しいダンジョンだし……だから、もしかしたらどこかでやられてるかもしれない。
だから、助けてほしいんです。カノンちゃんは帰って来たけれど、パチキがいなかったら大変なことになっちゃう」
イレーヌが涙目になりながら早口でまくしたてる。
「分かった、濁った小川だな。ミック、行くぞ」
ユージンはミックに有無を言わせず命令する。
「えぇ!? 俺はこれからシャムロックさんと勉強なのに。警備団なんだから一人で行ってほしいもんですよ……あぁもう、仕方ない。イレーヌちゃん、遅れるってシャムロックさんに伝えておいて」
ミックはそれに文句こそ言ったものの、しかし大事な後輩が危機的状況とあっては放っておけない。
「分かりました。パチキをお願いします!」
「お願いします!」
「お願い!」
イレーヌ、カノン、テラーと、口々に頭を下げて後を託す。もしかしたらこの後尻叩きかも知れないが、もうそんな事を考えるのは止めだ。パチキを助けてもらわないと、パチキが尻叩きよりも恐ろしい目に逢ってしまう。それは怒られるよりも辛いような気がした。
二人が去って行く姿を見つめるカノンは、一も二もなく飛び出して戦いに向かう姿を見て、それを格好いいと憧れる。人のためにすぐ飛び出せるだなんて、自分もそんな風になりたいなぁと。それが胸の中に芽生えても、言葉にするのが難しく、それが憧れなんだと気付くまでにはこの先すこしばかり時間がかかるのだが。
けれど、このダンジョンデビューの日、それが彼女の人生を左右する強烈な経験になったのは、確かな事である。
一方その頃、パチキはPPが切れて、疲労困憊していた。敵に追い詰められ、逃げ回りながら敵の隙間を強行突破しようとするが、PP切れの頭突きなんかで大した威力が出るはずもなく、押し返されて囲まれて、立ちあがることも出来ないほどに叩きのめされていた。
今の彼は、起き上がろうとすれば敵に叩きのめされ、一歩も動けない状態だ。ずっと死んだ振りでもしていなければいけないが、たとえ死んだ振りをしていても、少しでも意識があるそぶりを見せれば敵は攻撃してくる。まさに地獄のような責め苦が続く。
「この指とーまれ」
パチキがどこの階層にいるかは、匂いでわかった。二人の鼻はそれほど良くないが、それでもパチキが血を流して倒れているのならば、その匂いを感じるくらいのことは出来る。
「来たぜ、ミック。やられんなよ!」
「こんなもん、一人で十分だっての!」
軽口を叩きながらミックとユージンがこの指とまれに誘われた敵を迎え撃つ。ミックは、荷物を捨てて身軽になると、その本来のポテンシャルを存分に発揮して、目にもとまらぬ連撃を放つ。そのために、有用な効果を持つ装飾品を装備できない不利はあるものの、敵に一切の攻撃のチャンスを与えすらしない素早さの恩恵は大きい。
ユージンはその小ささを活かして、敵の足を切り裂いていく。機動力を奪いさえすれば、いかなる敵も恐るるに足らず。肉を抉り血が飛び散った敵は、よろめいてしまって話にならない。そうなってしまえば、後はゆっくり電気で料理してやればいいのだ。
瞬く間に敵を屠りつくした二人は、自分達よりも大きな体の後輩の首をを担ぎ上げ、オレンの実を口移しにした。
「まったく、パチキの野郎め……こいつは無茶しやがる」
ユージンが呆れてため息をつく。
「こんな男よりも可愛い女の子を背負いたいもんだぜ、全くよう」
「可愛い後輩だろ、ミック?」
「へ、可愛いけれど、男の体を触っててもなんも面白くないからなぁ」
ぶつくさと文句を言いながらも、ミックは嫌な顔一つせずにパチキを引きずって行く。パチキの皮膚は丈夫なので、草に削られるのはそれほど問題なく、意識を取り戻すまでの間、パチキはずるずると音を立てて運ばれるのであった。
そうして、夕方。カノンたちの行動は全て伝えられ、お叱りタイムの始まりだ。
「まぁ、カノンとはぐれてしまったのは不可抗力だ。それについて咎めるつもりはない……けれどな、パチキ。私に怒られることを恐れて、自分で無謀にも事件を解決しようとして、さらに被害を広げるとは一体どういう了見だ?」
どうやらシャムロックはとても怒っているらしく、口調はいつもよりも荒っぽい上に、非常に低く威圧的な声となっている。
「ご、ごめんなさい……」
「カノンも無事に帰ったことだし、仕方のない部分もある。イレーヌだって見捨ててしまうような状況だ。誰の責任でもない、むしろ逃げてしまうのが正解の状況だ。だからこそ大人に頼り、助けを求めることこそが正解で、それに怒るつもりはなかったが……それを怠ることには、きちんと制裁を加えねばな。カノンもよく見ておけ、これが私の叱り方だ」
途中からどんどんと声が低くなるシャムロックの口調に、お仕置きされる恐れなどないはずのカノンまで恐ろしさで震えあがっている。
「では、今日はお尻叩き一〇回だ。パチキ、覚悟しろよ」
そう言って、シャムロックが嗜虐的な笑みを浮かべると、手足についている革のバンドを外して放り棄てる。革のバンドはシャムロックの強さを抑制するための器具であり、これを外してしまうとシャムロックは無敵である。
パチキも覚悟を決め、ぐっと目を閉じながら歯を食いしばる。シャムロックに逆らっても無駄なことは、カノン以外の皆が知っている。興奮状態になったシャムロックは、相手を呼吸すら許さないほどに固定することが出来、関節を無視して捻じ曲げることも出来る程のサイコパワーを発揮できる。
当然、そんな固定のされ方をするくらいならば、観念してされるがままに尻を打たれた方がよっぽどましである。そんな決意を折るようにシャムロックはパチキの尻に風で扇いで煽ったり、息を吹きかけるなどしていじめにかかり、それで相手の意識が緩んだ瞬間に予期せずパァン! いい音が鳴り響く。パチキは声にならないうめき声をあげ、歯を食いしばる。
「一発目だな。あと九発」
シャムロックが耳元で甘く囁いた。こんな痛みが後九発もあるのかと、パチキは早くも涙が出てきた。この時間が速く過ぎ去って欲しいと思うのに、しかしシャムロックは焦らすのが好きだ。
「あ、あの……」
そんな時、前に一歩進み出たのはカノンであった。
「どうしたカノン? やめてと言って聞く私ではないぞ」
「え、えっと……もともとパチキが無茶をしたのは、私が原因だから、だから私も……尻叩きを、受けなきゃいけないんです。その分、一回でもいいからパチキの分を減らして欲しいって」
「ふむ。なるほど。確かに、一理ある。そこまで言うなら、パチキの尻叩きの回数をあと八回にしてやってもいいが……」
「お、お願いします」
「その意気や良し。褒美だ、手加減無しでやってやろう」
にやりと笑い、シャムロックはカノンに囁く。
「分かるか、カノン。誰かを庇うという事は、そうやって、他人の痛みを自分が請け負うという事だ。決して、何かが帳消しになるという事ではない……本当に、叩いてもいいんだな?」
シャムロックが脅しかける。
「おい、やめとけカノン。俺が耐えればいい話だから」
パチキがカノンに言うも、カノンは首を振る。
「大丈夫、私も悪かったもん。だから一緒に罰を受けるべきで……」
「パチキ。他人の覚悟や好意を無碍にするのは良くない。せっかくこう言っているんだ、お言葉に甘えるといい」
にやり、シャムロックは笑い、カノンをふわりと浮かせて目にもとまらぬ腕の動きで彼女の尻を叩く。乾いた音が周囲に響きテラーが目を背けている。ただし、イレーヌとパチキはその様子をしっかりと見て、歯を食いしばって痛みに耐えるカノンをじっと見守っている。
「痛いだろう、カノン? お前がパチキを庇う気があるなら、まだお前の尻を叩いてやってもいいが……どうするかい?」
「もう一回……」
「親しい者を庇いたいという思いは立派だが、後悔しないな? 死ぬほど痛いぞ?」
脅しをかけるシャムロックを前にして、カノンは退かなかった。まだ叩かれてもいいから、パチキを助けたいと、彼女は頷いて意思表示をする。
「あの、お母さん。私も、パチキをきちんと止められなかった責任があります。ですから、パチキにだけその責任を負わせたくありません」
声は震えていた。しかし、イレーヌもカノンの行動に感化され、パチキを庇う。
「絆の強い事だ。だが、かばい合う事が必ずしも良い結果になるとは限らん。パチキの言う通り、あいつ一人が罰を受けるだけでよいのではないか? そうは思わぬか、イレーヌ」
「間違いは誰にでもあるから……私も、パチキを落ち着かせてあげられなかったのが間違いだもん、だから私も悪いから!」
一歩前に出たイレーヌを見て、シャムロックはため息をつく。
「そうか、それがお前の答えならば……」
ひゅ、と息を吐いてシャムロックの平手打ちがイレーヌの尻を襲う。長い尻尾を持ったイレーヌの尻がはじけ飛ぶように振動し、衝撃が脳天まで突き抜ける。痛みはその瞬間に生きていることが嫌になるくらいで、庇う事を後悔したくなる。
「だが、言うまでもなく痛い事は、お前らならば知っているはずだろう、イレーヌ。人の痛みを庇う事は、それだけ自分も痛いという事だぞ? 今のお前の尻が痛い事と同じようにな」
「分かってる。でも、パチキやカノンにだけ痛い思いをさせたくないから……私は、痛みから逃げたくない」
シャムロックに凄まれてなお、イレーヌは気丈な態度を崩さなかった。
「全く、無茶をする奴らだ。じゃあ、あと七回だな」
二回分庇われ、パチキは安心したような、逆に申し訳ないような複雑な気分だ。『テラーは同じ事を言ってくるなよ』と思いながら、残りの七回を待つしかなかった。
結局、その心配には及ばず、テラーは自分もパチキを庇うと言いだそうとしても言い出せなかった。イレーヌやカノンにはわずかながらに責任もあったが、彼には全く責任もなく、それに幼いということもあって誰も咎めることはしなかった。
カノンはもう一発その身に平手を受け、パチキに与えられる一回分を減らしてあげた。パチキは残りの六回を歯を食いしばって受けるのだ。それを耐えきった彼は、こらえきれずにこぼれた涙をぬぐって気丈に振る舞っていたが、汚れた体を拭く時でさえも歯を食いしばって痛みに耐えていたのを、観察力に優れたイレーヌはきっちりと見ていた。それはカノンも同じで、彼女に至っては体を拭いてもらう事すら嫌がったくらいだ。イレーヌも似たようなものである。
結局、三人はうつぶせになって眠るのだが、痛みのせいでなかなか眠ることも出来ず、翌日は寝不足で、座ることも難しいので授業には全く集中できなかった。事情を知っているミックもその様子に苦笑して気遣ってあげるのであった。
そしてその日の午後の事。四人はなんだかんだでダンジョンで手に入れた物をお金に変えて、全員で分け合ってお菓子を買う。オノノクスのホリィおばさんが作った日持ちするクッキーや、マグマッグのローラお姉さんが作る燻製肉、近くの採石所のダンジョンで採取された美味しい石など、残留思念たっぷりのお札や、乾燥した果物など、思い思いのお菓子を買う。
「おい、カノン。これをやる」
そんな中、パチキがぶすっとした表情でカノンにお菓子を渡す。それは、草タイプ用に味を調整した焼き菓子で、カノンは食べたそうに見ていたが、値段と量で相談して結局諦めたものだ。質よりも量を求めた彼女はおいしそうな匂いを放つそれを諦めていたのだが、それをパチキから貰えたことで、カノンの表情は驚き、そして笑顔に変わる?
「いいの?」
「いいよ。本当は、俺の分が減るから渡したくねーんだけれどさ。でも、昨日の事は嬉しかったから。だから受け取れ。俺はこんなの食えねーんだ、せっかく買ったけれどお前しか食えねーんだ」
無駄にするくらいなら食えと、パチキはそれを押し付ける。
「あの、パチキ。私も何かお菓子のお礼をしたいんだけれど、何か欲しいものはある?」
「いいよ、そんなこと考えないで。俺がこうしてお前にお菓子を与えるのは、昨日俺の事を庇ってくれたお礼だから。だから、大丈夫。もしお前が何かお礼をしたいことがあるのなら、それは俺がお前に何かした時でいい。分かったか?」
パチキにお菓子のお礼をしようとするカノンに、パチキは強めの口調でそれを拒否する。
「え、でも……」
「分かれよ!」
言い訳なんて許さない。パチキは強引に話を打ち切る。カノンはお礼に何かを買って返せる雰囲気ではないとわかり、もやもやとした気分を抱える。パチキは次にイレーヌへ同じようにお菓子を押し付けるが、その時のイレーヌは『うん、ありがとう。これでお互いチャラね』と、軽い調子だ。それを見て、不思議なカノンはもやもやとした気分の事をイレーヌに相談する。
「うーん、難しい事を考えなくっていいのよ。パチキがお返しをしないで欲しいなら、そうすることが一番いいの。意地を張っている男の子に、意地を張り返すことなんてないからね。別にパチキは悪い事をしているわけではないんだし、相手の気持ちを汲み取ってあげなさい」
イレーヌは笑顔でそう言うのだ。なるほど、パチキは意地を張ってるのかとカノンは理解して、とりあえずイレーヌの言う通りにすることが正解だと信じてみることにした。