ようこそ、ランランタウンへ
ランランタウン。ここは豊かな自然とダンジョンに囲まれている恵まれた田舎町で、水も食料も豊富で平和な町。そして何より、疎まれし者たちにとって、希望となる街である。名物は、美味しい蜂蜜とヒメリの実をじっくり煮詰めて作るピーピーマックス。一日の始まりに食べれば、日暮れまで休まず働けると評判の味だ(実際は誇張表現だが)。
その街に、野宿を繰り返しながら、昼飯時を過ぎた頃にたどり着いた母娘が一組。
「ここが貴方の新しいお家よ」
その街は、怖かった彼女の街と違って、彼女を見る目がずっと優しい場所だった。美しい赤と青の花弁を両手に持つロゼリアの母親から生まれた彼女は、胸元に毒々しい紫の色。白いつぼみを手に持ち、全身の緑が薄い体で生まれてきた、いわゆる色違いという存在であった。この国では色違いのポケモンは大きな災害を引き起こすと言われて、そんな色合いの親子が並んで歩けば、石を投げられたとしても、場合によっては殺されたとしてもそう珍しい光景ではない。
だから、ここまでの道のりで街を歩くときは、雨の日用の外套を羽織らせ、満足に光合成も出来ないような状態で歩くしかなく、街中は酷く窮屈であった。だけれど、それも仕方ない。今まで家を一歩も出れなかった彼女が、その存在を街中にばらしてしまった以上、その街には暮らせなかったのだから。
「ねえ、お母さん。本当にここでお別れなの?」
潤んだ瞳で尋ねられ、ロゼリアの母親は涙が抑えきれなかった。母は崩れ落ちるようにして彼女を抱いてごめんねと言う。
「ごめんね……あなたを普通に産んであげられなくって……本当にごめん……」
『貴方は普通とは違うから、家の外に出ちゃいけないのよ』。当たり前のように家の外を歩く兄弟を羨ましがる彼女に、母親が幾度となく言ったセリフであった。それが何を意味するのか、よくわからない女の子だけれど、お母さんが悲しいと自分も悲しい気分になる。
二人揃って訳も分からず泣いていると、通りがかりの通行人も気になってしまうもので。その通行人の中でも、お人好しならば話しかけずにはいられない。
「あれ、お嬢さんたち……この家の新しいお客さん? 君は色違いかな?」
別れがつらいという気持ちは分からないでもないが、こんなところで泣かれていても、どうすればいいのやら。困ってしまって話しかけたのは、母親よりも一回り大きなパチリスであった。色違い、という言葉を聞いて母親は少し顔を引きつらせる。この街は色違いが歩いていても大丈夫という情報を聞いていても、色違いというだけで疎まれる苦い記憶は消えてくれず、ロゼリアは子供を守るようにぎゅっと抱きしめるしかなかった。
「あぁ……かわいそうに、怯えちゃって。酷い目にあったんだな……えっと、俺はここの孤児院の卒業生でさ。パチリスのユージンっていうんだ。えっと、ここはいいところだからそんなに泣かないでくれ。お母さんも安心して、ほら、俺もこうして元気に働いているんだけれど、それもこれも俺達の母さんのおかげだからさ。
お母さんとは別れることになっちゃうから寂しいとは思うけれど、それ以外は安心して大丈夫だから、ね?」
「お母さんいなくなっちゃうの?」
ユージンが泣き止ませるために言った言葉も、そこだけ切り取ってしまえば逆効果でしかない。今まで兄弟と両親が全てだった子供には、家族と別れる生活など考えることも出来ず。優しかった家族がいない生活など怖くて悲しいだけでしかないのだ。その気持ちはユージンも痛いほどに分かるので、彼女の言葉には会頭に詰まってしまう。
「あ、あー……えっとね。そうだね。最初は辛いけれど、皆がいるから大丈夫だよ、きっと……寂しさなんてすぐになくなるよ」
なんとか絞り出すユージンだが、しかしそんな慰めなどなんの意味もなくて。彼女が泣きだすのは、お母さんと別れなければいけないという理由一つで十分なのだ。ワンワンと泣きじゃくるスボミーの女の子に、それを慰めるロゼリアの母親。余計なことをしてしまったのだろうかとおろおろしているユージンは、すごく気まずくいたたまれない気持ちになる。
この孤児院の前で、親子がこうして別れを惜しむことは珍しい事ではない。その悲しみを知り合いでもない誰かがどうこうすることなど出来るはずもなく、ユージンはずっと泣いている子供と、それを宥めながら静かに涙を流す母親を、一歩離れたところからに見守るしかなかった。
幾度となくごめんねと謝る母親たちの元に、孤児院からその主が出てきたのは、ようやく子供が静かになった時である。
「おはようございます。お手紙にあった、スボミーのお子さんですね」
優しく声をかけてきたのは、彼女らにとっては見上げるほど大きい体を持つポケモン。薄紫の太い尻尾と、銀白色の体毛。そして、肩から頭に繋がる、首ともう一つの管を持つポケモン。四肢と首には革のベルトのようなものを巻いており、それが異様さを引き立たせている。そんな大女が身を屈めながら、丸っこい指先の三本指を差し出して、にこやかに笑むのだ。
「ようこそ、みんなのニコニコハウスへ。私は、貴方を歓迎します」
前述のとおり、彼女は身を屈めている。だけれど、それでもでかい、でかすぎる。なんせ、彼女の身長は、立ちあがれば二メートルを超えている。それが、身をかがめたところで、その大きさは母親の六倍以上。スボミーの女の子にとっては、一〇倍近い差があるわけで。身を屈めたところで威圧感は半端なものではない。
「あ、母さん。おはようございます……その、あの、いつも通りすごいプレッシャーですね。子供が怖がっちゃいますよ」
昔、母さんに威圧されて怖くて泣いてしまった事があるユージンは、小声でみんなのお母さんに注意を促す。
「いや、プレッシャーを与えるつもりはないのだけれど……やっぱり、取り繕っても難しいのね」
そうはいっても、スボミーの女の子は驚きのあまり硬直して、鳴き声すら出せそうな感じではない。
「母さんは存在自体がプレッシャーみたいなものですから、無理ですよ。えっと、お嬢ちゃん……この人が、俺達みんなのお母さんで……ミュウツーの、シャムロックさんです。こんな人だけれど、全然怖くないし、優しい人だから……ほら、笑顔笑顔」
「お、お母さん……お母さん!!」
ユージンが必死でシャムロックのフォローをするも、恐れをなした子供の恐怖心が、見ず知らずユージンの言葉でおさまることなどあるはずもなく。スボミーの女の子は、堰を切ったように泣き出し、母親に縋る。
「……あーらら、やっぱりこうなるよなぁ」
ユージンは、白い目でちらりとシャムロックを見る。
「わ、私は悪くないからね? 生まれ持ったこの体格だけはどうにもならないのよ?」
「分かってますよ。えーと……お嬢ちゃん、大丈夫?」
怖くて震え上がるスボミーの女の子に、ユージンは歩み寄る。しかしながら、スボミーの女の子は泣くのに夢中で、ユージンの言葉なんて聞いちゃいない。全く、困ったものである。けれど、そのままではいけないという事を、ロゼリアは知っている。これ以上迷惑をかけないためにもと、ロゼリアは意を決してスボミーから体を離す。
「ねぇ、カノン。よく聞いて」
涙をこらえ、母親は彼女を見つめる。いつになく真剣なまなざし、それでいて落ち着いた声に、雰囲気の違いを感じ取ったのかカノンと呼ばれたスボミーもようやく泣き止んだ。
「私が、貴方を普通に産んであげられなかったせいで、貴方は私達と一緒に、あの街に暮らせなくなってしまった……それは辛い事だけれど。でも、ここの人達は皆いい人だって聞いている。あそこにいる大きなお姉さんも、怖いかもしれないけれど、とってもいい人だから。だから、泣いちゃだめ。お母さんがいなくっても、強く生きて欲しいの」
どうにか涙を押さえ付け、鼻をすすりながら母親は言う。カノンは躊躇い、長い間をあけながらも、静かに頷く。
「じゃあ、あのお姉さんに挨拶をして」
ロゼリアがシャムロックを指さし言う。それまで身を屈めたまま待ちぼうけだったシャムロックは、怖がらせないようにと務めて笑顔を作る。
「ニコニコハウスへようこそ、カノンちゃん。私はシャムロック……ニコニコハウスで、みんなのお母さんを務めているミュツウーよ。これから、ここが貴方のお家になるから……皆と仲良く出来るように頑張ろうね」
母親に宥められて落ち着いたカノンは、シャムロックに見下ろされても何とか涙を流すことなく見つめ返している。
「ほら、カノン。挨拶よ。こういうときは、よろしくお願いしますって」
まだ、カノンの体は震えている。だけれど、母親に背中を押されたら、少しだけ勇気も出てきた。
「よ、よろしくお願いします」
声も震えて、顔も俯いて、それに加えて上ずったようなよれよれの小声だったが、それでも挨拶をする事だけは出来た。
「よし、ちゃんとあいさつ出来る、偉い子だね。行きましょう、ニコニコハウスの皆が待ってるよ」
言いながら、シャムロックはカノンを優しく抱き上げる。カノンは体を強張らせたが、暴れるようなことはしなかった。
「カノンちゃんは私が怖い?」
シャムロックの問いに。カノンはうんと頷いた。シャムロックはその際若干悔しそうな表情を見せて首を振るが、すぐに取り繕って笑顔を見せる。
「ここに来るまでに、大人に怖いことや痛い事をされたのかな?」
カノンはまた頷いた。
「子供達にも同じようなことをされた?」
これにもカノンは頷いた。
「大丈夫。私達は怖い大人じゃない。怖い子供でもない。あなたの家族と同じで、きっと貴方に優しくするから。だから、泣かないでいられるよね?」
そう尋ねると、カノンは母親の方を振り返ろうとする。スボミーは首がないため振り返ることは出来ないが、足をばたつかせる動作でそれの意味するところが分かったシャムロックは、彼女を降ろして母親のところに向かわせる。
「大丈夫、カノン? お母さんが何度も説明した通り、貴方はこれからこの街の、このお家で暮らさなければならないの。きっと、お母さんがいなくなって寂しい思いは何度でもすると思う。けれど、そんな時は皆に励ましてもらいなさい。みんなで仲良くすれば、きっと寂しくないから」
これから親元を離れて生きなければならない子供に、母親は自分を安心させるためにも、子供によく言い聞かす。
「カノンは、いい子だから出来るよね?」
母親に問われて、若干の間。重い沈黙を破るまでには、深呼吸が必要なほどカノンも決意に時間を要した。
「うん。出来る」
それを見守るユージンは、当事者と言うわけでもないのに息が詰まる思いだ。当事者でもないのに、カノンの答えを聞くまで呼吸を忘れていたような息苦しさである。彼女の答えを聞いてほっと一息ついたときは、ユージンも思わず息切れしていたくらいだ。
「……お嬢ちゃんえらいぞ。お母さんも、きっと安心できるよ。えっと、ロゼリアのお母さん。俺はもう卒業しちゃったけれど、何か困ったことがあったら、カノンちゃんのためにもいつでも駆けつけられます。ですから、安心してください。あなたの娘さんは、ニコニコハウスできっちり育てますので」
ユージンはカノンを褒め、そして母親に安心してもらおうと必死でこの家の良さをアピールするが、ユージンの言葉には具体性に欠けるため、母親は彼の言葉の勢いだけでしか判断することが出来ない。ただ、ユージンの真剣なまなざしや、カノンに対する優しい態度などはとても演技には見えない。きっと、優しさや熱意に関しては本物なのだろう、とは母親も理解できた。
「分かりました……娘を、お願いします」
この国において、色違いの子供は忌み嫌われる存在である。であるが故に、普通の街では育てることは出来ない。この街は、シャムロックが支配する街、ランランタウン。かつてはシャムロックが色違いの子供を育てるために、一時期は恐怖で支配された街。今ではこの国で色違いでもまともに生きられる唯一の街して旅人などに知られ、疎まれる者には希望の街だ。ロゼリアの母親が縋れる場所はここしかない。
「カノン……いつかまた会えるように、元気でね」
「うん、お母さん」
二人は、声こそ上げなかったが、涙はこらえきれずに溢れている。その泣き顔で子供を不安にしないように、母親は踵を返すと振りむくことなくカノンの視界から消えた。ずっと家にいて足腰の弱いカノンのために、ずっとカノンを抱っこしていた彼女は、ひどく疲れている。カノンの重みが消えてその感触が消えた彼女は、カノンに見送られる最中、しばらく腕の震えが止らなかった。
ランランタウンのニコニコハウス。色違いでも、そうでない者でも、どんな子供だって受け入れる孤児院。数日前まで家から一歩も出ることがなかったカノンの人生は、ここから始まるのだ。