第四十六話*覚悟
明るく、何処か浮遊感を覚える不思議な空間。
「…ここは」
見覚えのある、神秘的で幻妖なその空間の中に佇んでいたシェリルは、無意識のうちにぼそりとそう呟いた。
そこは、シェリルがポケモンの世界――【シェーレ】に来る直前にいた、夢の中の空間だった。
最近はこちらの生活に慣れることに手いっぱいで、すっかり忘れていたこの夢。もともと他人事に関して興味を持たないため、記憶から抜けていたのかもしれない。
全てはここから始まったというのに、とシェリルは忘れていたことに関して少しだけ後悔を覚えた。
その時、閃光が駆け抜けるかの如くシェリルの中に何かが流れ込んできた。
《助けてっ!!!》
「っ……!!」
跳ね起きたシェリルの目に飛び込んできたのは、いつも起きた時に見る光景だった。
瞬間的にシェリルが確認した先。その先には、幸せそうに眠るクローネと、静かに眠りについている嶺緒。
シェリルは安堵とも呆れともとれるような表情を浮かべた。
(起きては……ないね。起きてたらまたややこしいことになっただろうし……)
そして、シェリルはふと自分が汗ばんでいることに気づいた。ふと視線をやった布団を握る手は小刻みに震えていた。自分でも少々驚きを見せつつ、荒い呼吸を鎮めるためにゆっくりと深呼吸をする。強く腕を握りしめ、少し無理矢理に震えを鎮めようとする。
「「助けて」……か」
夢で聞いたその言葉を復唱する。
今日の夢で見たその声は、この【シェーレ】にやってくる前に見たあの夢の中の声と同じだった。
焦燥と恐怖を募らせ、逃げる桃色のポケモン。
追いかける三つ首の龍のようなポケモン。
追う者と、逃げる者。
そして――――
「っ………!!」
再び荒くなる呼吸。ガタガタと震えだす身体。心臓をわしづかみにされたような感覚に襲われたシェリルは、体を抱きしめ少しでもその耐え難い苦しみから身を守ろうとする。この苦しみが何なのか、シェリルにはもう分からなかった。
(あの『助けて』って声を聞いたのは…これが二度目だな……)
苦しみをなんとか紛らわせようと、シェリルは無意識のうちにそんなことを考える。
窓へと歩み寄り、そこから空を眺める。美しい満月が壮大に、しかしどこか儚く燦然と輝いている。
それをどこか遠目に見ながら、シェリルはぼんやりと思考を働かせる。
(……「ポケモンの世界を助けて欲しい」とかなんとか言われて…何だかよく分かんないままに【シェーレ】で暮らすことになって……とりあえずしばらく暮らしてはみてるけどさ。夢については進展なし、おまけではあるけど
アレについても進展なし。待ったく、気が滅入るったらありゃしない)
少し落ち着いてきたシェリルは、体を伸ばすとベッドの下をゴソゴソとあさり、家の外へと出る。
そしていつもの荒地へと向かい、崖を軽やかに上るとぺたりと座り込む。
冷えた空気は少し肌を刺すが、極北出身のシェリルにとっては何の問題もなく、むしろまだ夢の続きのようにふわふわとしていた思考をはっきりさせるのにちょうどよかった。
(……夢に出てきたあのピンク色。確かあのポケモンは、ムンナ。“夢”と密接な関係にあるポケモンだったはず。
だからこそ、遠くから僕に向けてあんな夢を見せている……ということか?)
落ち着いて思考を巡らし、夢について推察する。しかし、どうしても疑問に残ることがシェリルにはあった。
(どうして……何故、よりにもよって、僕なんだ)
シェリルは視線を手元へとやる。そこには、人間だった頃身に着けていてこの世界にやってきた時に持ってきていた首飾り。【シェーレ】にやってきた初日に藁の中に隠し、家が建った際にベッドの下へと密かに移していたのだ。いつもは早くこの世界に慣れる為にも意識しないようにしていたのだが、今日は何故か持たずにはいられなかった。
情熱を宿すかの如き緋色の石と、心を浄化してくれるかのような深緑の石があしらわれた銀のロケットのついたそのペンダントを、シェリルは月に翳す。月の光はロケットにあしらわれた赤と緑という、補色の関係性にある石を通すことでその色の光へと変わる。
シェリルはロケットを開くと中に入っていた写真をジッと見つめていたが、やがて溜息をついてロケットを閉じる。
(「助けて」……って。助けてほしい時に限って、誰も来ないんだよね。だから、僕だったってこと…?)
シェリルはペンダントに何かを見出すかのように、それをジッと眺める。
「気を強く持て。……だっけ」
ぼそりと無意識のうちに紡ぎだした言葉は、シェリルの心に様々な波紋を起こす。
(僕は人に関わるのも利用されるのも大っ嫌いだし、無理矢理この世界に引きずり込まれなきゃ夢のことだって絶対に無視してた。だけど……今は)
「ただの気まぐれだけど、今僕は……
あいつらと同じにだけはなりたくない気分なんだ。だから…考えといてはやる。助けるか、助けないかはその時の気分次第だ」
ぼそりというシェリルの瞳はどこか儚く、悲しげな光を湛えていた。
「まぁ、気が変わるかもしれないけどさ」と小さく付け足すと、立ち上がって思いっきり伸びをする。
と、刹那シェリルの瞳が鋭くなり、反射的に後方に向かって蔓のムチを繰り出していた。
パシィィンという軽快な音が地面を打つことによって鳴らされる。そして蔓のムチが打った場所にいた何かはムチが襲いかかる前にその攻撃を避けていた。
「…あっぶねぇな、ったく」
「そう思うなら突然近づいてくるの止めなよチビ助」
「チビって言うんじゃねぇ」
慣れたやり取りをしながらシェリルは不機嫌そうに後ろを振り返る。そこには銀色のイーブイ――嶺緒が立っていた。
「…で、何の用?」
「いや、まぁなんとなく起きたらお前がいなかったから脱走でもしたんじゃねえかと思った」
「僕が脱走しようがしまいがあんたには関係ないだろ」
「関係ないって……お前な……」
シェリルの言葉に嶺緒は何とも言えない表情を浮かべる。言い返そうとしたようだが中々良い言葉が見つからなかったのだろう、諦めたように溜め息をついただけだった。
嶺緒のことなどお構いなしに座るシェリル。嶺緒は何も言わず、少しスペースを取ってその隣に座り込む。
「……なに」
隣に座られ、シェリルはやや不機嫌そうに声をかける。
一方の嶺緒は思考を巡らしていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「……クローネが言ってた。「シェリルは、きっと昔何かあったんだ。だから、人を信用できなくなってる。でもボクには何となくわかる、シェリルは本当は他を思いやることのできる、すごく優しい子なんだ」ってな」
「………」
シェリルは、月を眺めていた視線をチラリと嶺緒にやる。何を言っているのかわからないというような眼差しに、嶺緒は苦笑したが、そのまま話を続ける。
「正直、俺にはそんな風にお前を理解することなんてできなかったよ。お前が訳ありなのは察していたが、それがなんなのかなんてオレにはわかんねぇしな。お前が他の奴に対してとんでもなく不器用なのはクローネに言われてやっと気づけた。
俺には、とてもじゃねえがクローネみたいにお前を理解してやることなんてできない」
「……何が言いたいのさ」
嶺緒の淡々と紡ぎだす言葉に、シェリルは怪訝そうにそう返した。
「……お前のこと、無理矢理聞き出そうとは思わねぇ。確かに俺はクローネほどお前のことは理解してやれてねぇが、でも……」
嶺緒は一瞬言いあぐねたが、スッとシェリルの目を見て口を開く。
「まぁ要するにだな……何かあったら言え、相談ぐらいならのる。
お前は俺のこと何とも思ってねぇかもしれねぇが、少なくとも俺は……お前のこと、仲間だと思ってっから」
「………!!」
嶺緒のこの言葉に、シェリルの瞳は大きく見開かれた。それどころか、完全に目が泳いでいる。普段見ることのできないシェリルの珍しい反応に、今度は嶺緒がきょとんとする番だった。
「は…はぁ?な、何言ってんのさ?バカじゃないの!?」
「…お、おいシェリル?お前ちょっと動揺しすぎじゃ――」
「だ、誰が動揺してるだって!?ふざけんなアホチビ助っっっ!!」
「ちょ――ぐほぉっ!?」
キレのある蔓のムチがクリーンヒットし、嶺緒は奇声を上げ吹っ飛ばされる。
「……ってぇ」
「自業自得だロイヤルグレート大バカアホたれ銀色チビ!!」
「なんかいつもより呼び方酷ぇ!?つーかチビって言うな!」
「チビはチビだバーカ!」
「小さくねぇっつの!!」
しばらく言い争いを続けていた二匹だったが、やがてお互い疲れたらしくその場に座り込んだ。
「あー……本当に鬱陶しい」
「うっせぇ…最初にキレたのお前だろーが……」
「あんたがやたらクサい台詞言うからだろ……」
何か言い返そうとした嶺緒だったが、結局は面倒になったらしく何も言わなかった。
妙な沈黙が二匹の間に流れる。
しかし、虚空を見つめていたシェリルは何かを決心したように真剣な表情を見せ「…ねぇ」と声をかけた。話しかけられるとは思っていなかったらしく、若干驚きを見せつつも「あ?」と返す嶺緒。
シェリルは少し言いよどんでいたが、やがて空に浮かぶ月を見つめ、握っていたペンダントをぎゅっと握りしめ口を開いた。
(誰も僕を知らないこの世界に来てしまったことで、僕は……知らず知らずのうちに甘えていたのかもしれない。
でも……それは、許されないことだ)
「……もし、僕が人間だったとしたら…どうする?」
(僕は、甘えからけじめをつけなきゃいけないんだ)
――後戻りは、できない――