決断の夜に
暗い部屋に明かりを灯し、ただいまとつぶやく。
その声に応じて黒い影がふよふよと宙を舞いやってくる。俺から漂うアルコ-ルの香りに、またこいつ飲み帰りかよといった目でこちらをじっと見ている。元々一人暮らしだったはずの部屋に勝手に住み着いたそんな居候を、家主の生活にケチつけるなよといった目で睨み返してやる。
今日もいつものように、彼女と一緒だった。
相変わらず彼女の話題はアイツのことばかり。
彼女はアイツの話をしながら、子犬のように瞳を潤ませて、僕にすがりついてくる。
その瞳に僕は何度も吸い寄せられそうになる。でも、吸い寄せられてはいけないなんてことは、よくわかってる。
彼女が見ているのは、僕じゃないんだ。
そのことはよくわかっていた。彼女とこうして杯を交わしあう仲になってしばらくした頃から、ずっと。
彼女とは元々アイツを経由して知り合った。だからこそ、彼女は僕にアイツが好きだけどどうしたらいいのかということを相談してきたのだろう。僕自身、初めはアイツに惚れる女がいるのかと驚きながら、大切な友人にいい形で彼女ができるよう、手伝おうという思いで彼女の相談に乗っていた。
いつからだったのだろう。そんな彼女に僕が恋してしまったのは。
アイツになかなか想いが届かない彼女は苦しそうに見えた。現に僕の隣で何度も泣いた。でも、その涙の中にも、片想い特有の幸せさみたいなものが窺えて。とても綺麗な涙だった。
そしてその美しさに、僕はどうしても惹かれてしまう。
こんなに近くにいるのに、彼女は誰よりも遠い。
そのことが痛感されて。でも、それでもここから離れられなくて。
僕は一生「良き相談相手」のままだ。
悲しいことに、どうあがいても僕が望む結末は現実に現れそうになかった。彼女はアイツが好きだ。それはどうしても変えられない。彼女は周りにいる他の誰も見えなくなっているくらい、あまりにもアイツに恋しすぎている。そのことは、僕と二人きりで飲みながらひたすら僕に恋愛相談してくることからも明らかだ。ちょっと端から見てみれば、僕が彼女に惚れてること、そしてこの状況がどんなに罪作りかなんてことくらい、すぐわかるのに。
だからこそ端から僕の様子を見ていた他の友人には、はっきり言ってしまえよと何度も言われた。でも、未だにできずにいる。
隣にいる彼女を抱きしめてしまいたかった。でも、できるはずがない。そんなことをしたら、もう二度とこうして会うことなんて、なくなってしまうだろうから。
だって、今の関係を誰よりも甘んじて受け入れてるのは他ならぬ僕なのだから。
そして今日、彼女はようやく決断を下した。
アイツに告白する、と。
そのことを僕に宣言した彼女の目は誰よりも強く、そして美しかった。
きっと彼女の告白は、成功するに違いない。僕のアドバイスもあって、彼女とアイツは徐々に距離を縮めていた。あとはどちらかが踏み出すだけだろう。そしてそんな状況で、彼女は踏み出すと決めたのだ。
彼女は強い人なのだ。自分の想いを貫くために、自分で道を切り開くことができる人なんだ。
だから僕はここで、彼女が自分で思うように進んでいくのを見送ることしかできない。それ以外に何もしようがない。僕はきっと、その強さにも惹かれてるのだから。
さあ、行っておいで。君が選んだ道へ。
君が決断したこの時が、僕との別れの時なんだね。
だから僕はここで、君を送り出すよ。
君の勇気に拍手を送るために。
気がつくと、僕の瞳は潤んでいた。先ほどまでの彼女がそうであったように。
笑ってくれよ、カゲボウズ。
おまえ、人の負の感情食うんだろ。
いますぐ僕の感情食っちゃえよ。
こんな惨めで情けない奴なんだぜ。
居候は僕の言葉を理解しなかったのだろうか。意に介さぬ顔で僕の感情を食うこともなく、ただむせび泣く僕の隣にいるだけだった。
*
……全く。世話の焼ける奴だ。
でもオイラにできることは、なんにもない。
それにしてもおめでたい奴だ。
叶わない恋を抱えている状況だというのに、アイツの感情には「恨み」も「妬み」も見当たりゃしない。
あるのはただ、「悲しみ」だけ。ただの「悲しみ」はオイラの管轄外だ。
しかもアイツ、本当は自分でもわかってるんだ。
「瞳を輝かせて想い人を語る」彼女のことが好きなんだって。
だからこそ、現状を恨むことも妬むこともせず、ただ悲しむだけ。しかも、彼女が想い人と結ばれることを、本当は心の底から、誰よりも一番願ってるんだ。
自分の思いが報われないって言うのに、相手が幸せになるならそれで幸せだと心から認識してるなんて、ほんと人がいいと言うか何と言うか。
このことを実感させるためにも、今はただ泣かせておくしかないだろう。
まあ、そばにくらいはいてやるよ。オマエの気が済むまで、な。