Phase 48 受け継がれる友の遺志
「それでは、引き続きスナッチャーとして戦っていただけるのですね」
フリゲートの司令室を整頓しながら、アクロマは瞳を無邪気にきらめかせた。
ただし、チームに残留するための絶対条件がひとつある、と付け加え念押しする。
「ハマユウの治療を引き受けてほしい」
呑まなければ、ホオズキは確実にスナッチャーを去る。そうアクロマは直感した。半端な医者よりずっと頼りがいがあると信頼されての申し出だ。Win-winはお互い様。
しかしこの計算高く人の心を今になってようやく持ち始めた科学者は、是が非でも大黒柱を繋ぎとめておきたい。本棚に仕舞うはずの本をパタリと閉じた。
「そう来ると思っていましたよ」
ハマユウは一命を取り留めた。
「わたくしとしても支援の手は喉から手が出るほど欲しい。しかし、妻子は故郷に還さなくてもいいのですか?」
ホオズキは、集中治療室にて握った手の代わり、彼女が目覚めてから再び瞼を閉ざすまでに紡いだ数時間前の言葉を思い出す。
「『贈られてくる遺骨を見るぐらいなら、一緒に死にたい』」
「子どもは?」
「置いていくわけにはいかんだろう」
また離れ離れになる。一家にとっては、一番それが嫌なことだ。
「まったく、酷な親ですね。どうかしている」
「どうかしている、か。おれたちは確かにイカれちまってるかもしれない」
真顔で語るホオズキも大概だが、アクロマはもっと狂っていた。
「これだから絆という概念は面白い……」
『速報です』
司令室の掃除代わりのBGMが欲しく、アクロマが気紛れにつけたテレビからは思わぬ単語と不協和音の羅列が飛び込んできた。
『各国政府は、ポケモン窃盗行為を容認する組織「チーム・スナッチャー(Team Snatcher)」を結成し、秘密裏に活動させていた事実が判明しました』
ホオズキとアクロマは、一瞬当事者事と信じられず、突然艦内から宙に放り出されたような錯覚を受けた。
秒を待たず、スレートが駆け込んでくる。
「司令、大変です。スナッチャーの存在が全国ネットでリークされました」
「今、それを見ています」
アナウンサーは、全国的に有名なベテラン、カロスリーグ四天王の一角としても名を馳せるパキラその人だ。
『現在、カントー地方で活動する組織に対しての国家戦略と思われます。しかし、行為の倫理性、また国家主導での犯罪行為助長等、山積する問題点を厳しく追及されるものと推測されます。構成員に関しても、犯罪歴を有する人員の登用、また行為の違法性を自覚しながら参画する者など、政府の抜擢としてはあってはならないことです。引き続き、スナッチャーに関する速報をお届けします』
絶望、というよりも、問題の規模が一気に世界スケールへと拡張され、その変化の有様についていけない様子だった。自分たちはほんの淀みの中で戦っていたはずなのに、いきなり有象無象の眼に晒されたのだ。
「スナッチャーは国家機密のはずだ。報道規制が最初に敷かれると言っていたのも嘘だったのか?」
アクロマは片手でネット情報の荒波を駆け抜けながら、本の文章を一から十まで暗記したような早口になる。
「おそらく、ネオロケット団に加担するマスコミの仕業でしょう。この動きの速さ、ジュノーがやられたことは既に向こう側に知れ渡っていますね。ネオロケット団は自身の存在が明るみにされる前に、先手を打った……。自分達の組織への言及を避けているのが良い例です。こちらの違法性を突き、組織そのものを『社会的に抹殺する』手段に出たのでしょう。相手が国家だとしても、報道の自由は保障されていますから」
内部崩壊を免れたスナッチャーに立ちはだかる新たな壁は、世論の審判だった。
「厄介なことになったな……」
一同に闇が被さる。
『これでよかったかしら?』
「お力添えに感謝する、パキラ殿」
『お互いの理想のために、あなたとは手を組みました。でも、これでスナッチャーを潰せるとは思わないことです。現に、あなたがたは切札であるJ2を失いました』
「散り行く必定は覚悟の上。我らは絆を断ち切るために戦っているのだ。もし死の直前に絆にすがったのだとすれば、ジュノーは我々の汚点」
『お厳しい方』
笑いながら。この場でジュノーの死を悼む者は誰もいなかった。
「スナッチャーは主力を欠いた状態だ。とどめを刺すなら、今ほどの好機は無い。そなたと合流が叶う頃には、スナッチャーが壊滅していることを期待しよう」
『やれるだけのことはやりますが、くれぐれも期待なさらず』
そう言って、パキラはテレビ局のVIPルームにて極秘通信を切る。
破れた世界の映し鏡は、果たして英雄になった世界をも簡単に魅せる。神の力をもってすれば、造作もないこと。
人気薄い霧の里で生を受け、心の操作の術を教え込まれた青年ヒイラギ。彼の終生に渡る望みは、波導の勇者になることだ。
「此度は見事であった、ヒイラギ。そなたのおかげで、ひとつの国が護られた」
「はっ。有難き幸せ」
カロス地方、首都ミアレシティ。
錫杖をついた老戦士と、歳半ばもいかない若者が二人して、塔の頂上に佇む。
「波導使いとして、これからそなたは、誉れを浴びることになるだろう。その準備は出来ておるな」
跪く姿勢からすっくと立ち上がる。
波導一族の長は、和装の両腕を持ち上げ、戦士を祝福した。
「波導の勇者ヒイラギに、祝杯を」
ミアレシティ全土が一斉に点灯――
「ルーツ。『徹底抗戦』」
するはずの儀式が、中断される。それどころか、虚構の建物に向かって、真実の光が降り注ぐ。灯りはたちまちに止んでいった。
ヒイラギは咄嗟に後方を振り返る。長も、勇者の表彰を待ち焦がれた民衆もみな、跡形残らず消えている。
波導の勇者アーロンと、その従者ルカリオだけが、目の前にいた。
鍔広の帽子を目深に被り、静謐なジャケットはシルエットを絞り上げている。
「あなたは……」
「きみが今いない世界で勇者になるはずだった、哀れな男さ」
ルカリオはマルバの個体と異なり、神聖かつ厳かな真の波導使いの生き写しのように威風堂々とした佇まいである。
徹底抗戦は鋼タイプの中でも奥義に近い技と云われ、習得者は一族の歴代長と、このルカリオのみに限られる。また、自らの寿命を消費し力に換えることから、好んで使いたがる者は誰もいなかった。その硬質な波導の塊を放ち、ミアレシティからあまねく光という光を奪い去った。
「なぜ、生きている」
「生きているのでもなく、死んでいるのでもない。わたしは大樹を支えるミュウに宿った、波導の残留思念のようなものだ」
アーロンは見上げた。
「この破れた世界という場所は、非常に不安定な空間でね。死者と生者が唯一交わる場所でもある。波導使いがもし破れた世界に招かれたら、必ずわたしの存在が夢に現れる。それだけの影響力を里に遺してきたからね。きみの中に眠る夢や願望を触媒として、わたしはきみの元に渡ることが出来たんだ。未来の波導使いが来たら、必ず告げねばならない事実がある。その、最期の使命を果たすために」
例えば、ヒイラギは常に「波導の勇者になりたい」という深層心理を抱いていた。そこには必ずアーロンの影響がある。本来の波導の勇者であるアーロンは、少しでも彼の現出に関わるキーワードを媒介として、死者の立場から、人の夢に干渉することを可能とした。
しかし、その掟破りな顕現は、対象者が「波導使いであり、その波導使いが石化された夢見の状態である」というごく限られた制約のもとでしか行えない。アーロンは、死した概念と成り果てた自分自身がコンタクトを図れる波導使いの到来を何十年としぶとく待ち受けていた。
「アーロン……あなたは、夢から醒まさせるつもりですか」
ヒイラギが波導の勇者になるという夢に冷水を浴びせ、自分こそが本物の勇者たる人間だ、とわざわざ難癖をつけに現れたようなものである。
ヒイラギは長い夢幻の物語を楽しんだ。
自分がカロス地方を救う夢を、まるでフルコースのように堪能した。その後、ここぞというメインディッシュの皿を、スプーンとフォークとナイフをきっちりと揃え、今か今かと到着する直前で叩き割られたのだ。
とどめに、アーロンは「現実」という最強にして最悪のカードを突きつける。
「いつまでも夢想に浸ってはいけない」
「ようやく、ようやく手に入れたものを! あなたは、自分が勇者でなければ許せないのですか!」
アーロンは首を横に振る。そんな浅ましい私怨のために、ヒイラギの願望を阻止したわけではないと。
「違う。本当に倒すべき相手を間違えてはいけない」
願望器である映し鏡が統治するこの世界では、フレア団のボス・フラダリが発動させた最終兵器から世界を救った、という設定になっている。
カロス全土を滅ぼさんとする破壊光線から、生命ポケモン・ゼルネアスを駆り、フェアリーオーラで大陸ごと包み込んだ。ヒイラギは、その偉業のために波導の勇者となった。
長い前提をアーロンが振り返る。
「……そうです」
「本来のきみは、むしろ破壊する側に立つ。三千戦争で舞い降りた死の翼・イベルタルの方が、こう言ってはなんだが、きみにふさわしい」
「どういう意味だ」
「これからきみは、『本当の』世界を救うための戦いに向かうことになるんだ」
アーロンの言葉は、映し鏡が自動的に造り上げた役者の台本通りではない。叛骨精神に満ち溢れ、撮影を困らせようとするアドリブだ。この空間で只一人、ヒイラギ=波導の勇者である事実を断固否定する。
それが彼自身のためになると確信した口調だ。
「目が覚めてきたかい?」
ヒイラギとアーロンが対峙するプリズムタイルは、カロス地方の光景を映す。タワーに登ると下の様子が浮き彫りに見える、透明なあの床だ。
勇者になるため築き上げてきた短期間の歴史と積木が、ガラガラと崩れ去る。アーロンの言葉は、力を持ったように振るわれる。彼が何かしらの発言を行うことで、この世界に浸透する魔術を覆すことが出来るかのように。
「ギラティナの魅せる夢は、人間とポケモンを屈服させる『呪い』でもある。負けるな、ヒイラギ」
「あなたは……一体……」
そこまでして波導の勇者の誕生を阻む理由が、まだ見えない。
「話を続けよう。AZの遺した最終兵器は、もう一種類存在する」
「なんだと……!?」
フラダリがセキタイタウンにて起動した最終兵器は、古代戦争に用いられたオーバーテクノロジーである。それが世界にひとつ存在するという時点で、惑星を暗黒時代に陥れるほどの代物だ。たったひとつを阻止した程度で粋がるな、と暗に説教されているようだった。
「カロスを襲ったのは……」
「タイプY。イベルタルモチーフの兵器だ」
「もうひとつは」
「タイプX。ゼルネアスモチーフだ。そしてそれは、破壊ではなく終わりなき再生を与える」
「終わりなき再生? ゼルネアスの千本根が世界を救い、そして滅ぼすとでも言いたいのですか」
アーロンはこう続けた。ゼルネアスの千本根は、まもなく地の根を覆い尽くすように、世界中を石化で張り巡らしていくだろう。そのために、波導使いマルバはエネルギー源となるポケモンを無限回収している。ポケモンハンター・J を雇い、あらゆるポケモンを戦闘マシーン・ダークポケモンに換えようとしている。
「最終兵器を生み出した王は、カロス地方に伝わるポケモンからヒントを得た。タイプYはセキタイタウンにあった。では残りのタイプXがどこにあるのか。わたしはこのことを話すために、きみの前に現れた」
アーロンとの対話によって、ギラティナのかけた呪いがだんだん溶けてくる。
「もう、わたしのことが分かるだろう」
「アーロン……本当に、アーロンなのか」
「あの」存在であることを即答した。
「世界のはじまりの樹のことは、勿論知っているね」
「波導一族で知らない者などいません」
アーロンが死の直前、赴いた世界樹だ。
「世界のはじまりの樹は、ギアナ高地に聳え立つ大樹だ。その中には、ミュウが棲息している。ミュウは互いに群れで交信し、バランスを保ってきた」
ヒイラギが後を引き取る。
「それが今や、絶滅寸前」
「そう。きみたちは本物のミュウを視た」
歯軋りする。シロガネ山の決戦を思い出し。誕生の島でホオズキたちの前に姿を見せ、共に戦ったミュウは、やっとの思いでネオロケット団の魔の手から逃れてきた個体の一匹だった。そんなミュウを。
「護れませんでした……。わたしは、あなたになれなかった」
ヒイラギはいつの間にか、スナッチャーとしての自分を当たり前として話すようになっていた。
アーロンは決して怒らない。事の本質はそこではないと分かっているからだ。
「ネオロケット団はギアナ高地を標的に据えた。ミュウを手に入れるためにね」
「あなたの仰りたいことが見えてきました」
「タイプXは、ギアナ高地にある……そうですね?」
「もっと悪い報せがある。世界のはじまりの樹こそが、もうひとつの最終兵器だ」
ヒイラギは絶句以外の反応が思い当たらなかった。
「あなたは……あなたは、そんなものを護るために命を落としたのか!?」
「失望したかい。波導の勇者として後世に祀り上げられたわたしもまた、協会の傀儡に過ぎなかったのだよ」
はじまりの樹はゼルネアスをモチーフとし、ギアナ高地に元来棲み付いていたミュウをエネルギー源に形作られた。ミュウの数が減ったのは、最終兵器に利用され、少しずつ命と数を減らしていったからだ。いつだって、人間の欲望と、文明への執念が、生命を脅かす。
最終兵器タイプXとYは均衡を保っていた。しかし、各国政府は最終兵器タイプYの情報流出によりタイプXの所在地が割れることを恐れ、機密情報を隠し続けたのだ。
マルバの言っていたことを思い出す。
――頑なに今の世界にしがみつき、権利にこだわる者たちが、進化をやめて、世界の命運を握っていると、マルバたちは悟る。
権力の独占。
最終兵器というオーバーテクノロジーを私有することで、絶大な抑止力を有したことになる。惑星の命運を一握りにし、全生命を手中に収めていたのは世界の上層部もまた同じだった。
「わたしがミュウに波導を分け与えたのは、政府の命令によるところが大きい」
カントー地方・シオンタウンで家主をつとめるフジという老人がいる。彼はギアナ高地を訪れ、ミュウを放流した。ポケモン協会は動向を把握すべく、調査に波導使いのアーロンを動員。そこで衰弱したミュウに波導を分け与え命を落としたのである。アーロンの犠牲によって、最終兵器は再稼働を始めた。
ミュウが力尽きる時、最終兵器もまた停止する。彼らの命は連動するよう繋ぎ止められてしまった。
しかし、ミュウは政府陣の横暴に耐え切れず、絶滅危惧種に指定されるほど種族としての勢いを落とした。その代わりを賄うのは、罪も無きポケモンたち。一匹ではミュウほどのエネルギーを代用出来ないから、ハンターの略奪が行われる。
愕然とするヒイラギ。波導の譲渡は、アーロンの自由意思によって行われたと一族では聞かされていたからだ。古来より国の忠犬であった波導一族は、真実を語ったら立場が危うくなると脅され、口止めされていたのだろう。その中には長の断腸の思いもまた。
「だが、わたしには後悔が残り続けた。隠し続けた真実を、誰かに伝えなければ、やり切れないと。ミュウを助けたかったのは本当だよ。だが、自分の命を賭してポケモンを護ることに躊躇いがないのは、無償の聖人だけだ。このわたしとルカリオでさえ、躊躇いがあった」
ルカリオもまた頷く。彼らは、波導一族のために黙秘し、波導一族のために死の真相を明かした。
「すまないね、きみの夢を崩すようなことを言うべきではなかったかな……」
勇者など存在しなかった。
誰も、勇者などにはなれない。
人間の生んだ結果が、勇者という偶像を纏い、神格化され、語り継がれるだけの話。
「ネオロケット団は今、最終兵器の在処を突き止め、多くの生命を死に至らしめようとしている。このような、わたしやルカリオと同じ、死ぬに死ねない存在を増やそうとしている。それが幸福か不幸かは断じることではないが……大事なのは、人の意思だ」
アーロンは確信を問うた。
「きみはこの夢を、見続けたかったかい?」
願望などなかった。そう言えるはず。いや、ある。だとしても、叶えることさえ諦めていた。
二人で茂みの上のベンチに腰掛け、地上絵を見ようと約束したっけ――。
「きみの夢にいるわたしは、きみのことがよく分かる。どんな人と出会い、どんな戦いをしてきたのか……」
「良い人々と出会ったじゃないか」
それは、彼の旅路の全ての肯定であり。
「今まで、よく頑張ってきたね」
最も憧れていた人物からの、労い。
直接ではないが、こうして当然のように言葉を交わし合い、自分の戦友を褒められ、誇りのように思われている。
「同じ波導使いとして、頼もしい友が出来て嬉しいよ」
瞼の圧を抑えることが出来そうになかった。抑える必要もない。ヒイラギという人間の二十四年間を、アーロンは抱擁してくれる。
今、はっきりと分かった。
アーロンがヒイラギの戴冠を阻止したのは、そうでもしなければ彼が本当に夢の中へと飲み込まれ、映し鏡、破れた世界の住民の一人になってしまうからだ。アーロンとルカリオは、自身らに与えられし波導の勇者という功罪併せ持つ称号に決着をつけた。
「徹底抗戦」は、最後の最後まで宿命に抗い続けるというアーロンとルカリオの、遺志の一撃。
国の思惑にも、組織の陰謀にも、属さないというアウトローにして、一人の青年を照らし導いた背中だ。
これだけの慈愛をもってヒイラギに接してくれるにもかかわらず、彼はまだ疑いの余地を残していた。
「アーロン、あなたは自分でなくてもよかったのですよね。他の波導使いが来たとしても、同じことを教えていた。そうですよね?」
この質問がヒイラギという人間を象徴している。アーロンは顎に指をやった。
「もし、そうだとしても……。こうして出会えたのがきみだったことは偶然ではない」
次に、ヒイラギは勇者と敬われ続けた男の所以を知る。
「きみの人生こそが永い時を超えて、わたしときみを繋ぎ合わせたのではないかね」
ヒイラギは眼を見開いた。
一字一句をとても正確に発音できなかった。だが。
生きてきて、生きてきてよかった。
嗚咽を漏らすヒイラギに対し、アーロンとルカリオは優しく微笑み、見守る。
「わたしの役目はこれまでだ。次の世代に命を繋ぐことが出来た……満足だよ」
タイムリミットはもうとっくに過ぎ去っているとばかり、二人を容赦なく分かつ。
「アーロン!」
消滅の粒子が漂う。
「波導使いヒイラギ。わたしたち波導使いの、古からの教義を受け継ぐ者よ」
アーロンとルカリオは、破れた世界から。いや、それどころか、この世界そのものから永遠に消え去る。彼は最期の力を振り絞り、ヒイラギの前に現れたのだ。波導使いは使命に殉じ切った。
「行け。マルバにこの世界を奪われてはならない」
アーロンは自らグローブを外し、ヒイラギにキャッチさせる。そこには、新たなるキーストーンが装着されている。全てが幻で終わっても、生きた証をひとつだけでも残す。夢を、夢のまま終わらせないために。
「わたしとルカリオは先に行くよ。きみが心を通わせるであろうポケモンに、幸あらんことを」
アーロンのメガグローブに指を通し、関節を折り曲げ、此方の魂に換えた。
「波導は我に在り」
アーロンは静かにそう唱える。
「波導は、我に在り」
ヒイラギも最後の挨拶を返した。
さようなら、アーロン。
今日このときをもって、あなたへの憧れを捨てる。なぜなら、ヒイラギとアーロンはいつも共にいるからだ。
扉が開く。
破れた世界から出て行けと命じている。ルカリオは後ろを向くよう、そっと促した。
ヒイラギの行く道を、アーロンは、いつまでも、いつまでも見守っている。
「わたしたち、生きてる」
「そうだ」
変わり映えしないシロガネの岩肌は、今も厳しくヒイラギとイトハの前に立ちはだかる。
「おれたちはこの世界で、生き続ける。この、どうしようもない、だが護りたいと思える世界で」
イトハには、既に煤けて使い物になりそうもないコートと違い、新品同然に輝きを保っている宝石がすぐ分かった。
「ヒイラギ、それ……」
「アーロンと会った」
一瞬だけだが、彼女は驚く。でもそれは、ヒイラギの旅路として訪れてしかるべき瞬間だっただろうという理解を寄せた。
「よかったね、夢が叶って」
ヒイラギは今、一生に一度あるかないかの穏やかな顔つきになっていた。
「わたしも、会いたかった人と会えたよ」
イトハは誰と会ったのだろうか。今はその詳細を問い質すべきではないだろう。きっと、彼女の口から語る時が来るから。
「何を話したかもちゃんと覚えてる。これって、夢なのかな?」
「夢か、現実か……。どちらでもあり、どちらでもない。それが本当のところかもしれん。だが、今こうして話しているのは事実だ」
ヘリが一斉に飛んでいくのを目撃する。ヒイラギとイトハが表舞台から退場していた間に、世界情勢は大きく転換期を迎えていた。
「あの方角は……」
「カントーで何かが起きてる」
ヒイラギはゆっくりと歩き出す。
「行こう。おれはもう、生きてきたことを後悔しない」