Phase 47 家族
水中でも呼吸が続く。
加護を与えた王子は、二股に分かれる先端を瞬かせ、掛け値なしの神格に挑んだ。
ハートスワップ――以下の効果を発揮する。
「脳の記憶を一時解体し、マナフィの触覚が感知し得る至近距離で、対象となった二者間の記憶交換の仲立ちとなる技」
知識の神ユクシーという存在意義を乗っ取り、操る。しかし、プロセスは即座に打ち切られた。いつの時代も、王は神の奴隷以上になれやしない。マナフィが海底に沈むのと対照に、主人とその愛娘たちを持ち上げるべくゴルーグはうんと推進した。
「マナ、フィ……」
思わず声をあげたホオズキは、肺に逆流し自由を失い咽返る。ポケモン一匹に馬鹿な愛着を、と他人が嘲ろうとも、イチジクは恥ずかしい親の姿と思わなかった。
『ユクシーの記憶容量が大きすぎます。記憶を転移させれば、転移先の脳が破壊され、生命機能が即座に停止します。ユクシー自身とのハートスワップは適切と言えません』
ジュノー戦でもマナフィは生命の危機を感じた。あの場合は、改竄されすぎた記憶がもはや原型を留めておらず、交換可能な材料に乏しかったためだが。
「ユクシーは自立行動しているのか?」
『見たところ、ジュノーは指示を送っていません。知識の神ともなれば、自分自身で動けるとも考えられますが……』
からくりの種明かしは早かった。薄氷を踏む白衣の女は、この局面にきて初登壇の役者となる。スナッチャーに専属研究員がいたことは既知の範囲だが、その実像を知る者は一握りの権力者のみ。しかし、身内となれば話は別だろう。
最も望んでいた再会であり、最も望まれなかった形での再会。
ユクシーのトレーナーとして現れた女性は、ホオズキ生涯のパートナーだった。
「……そうか。分かってはいたさ。無事であるはずがない」
ネオロケット団はホオズキを戦意喪失させるため最も適格な方法がハマユウの洗脳であることを知っている。ハマユウはユクシーの研究を強制され、ジュノーに次ぐトレーナーとしての役目を担わされた。
先に石化し、既に他界していることも幾度となく考えた。イトハには強がってみせたが、本当は二度と会えないことも覚悟の上だった。それでも、信じ続けることでハマユウを自分の命としていた。
感動の再会、とはいかなかった。
これなら、会えない方が仕打ちとしてはまだよかったのではないか。
「この眼で見るまでは、認めてはいけないと思って、いた……」
『ホオズキさん……』
とても家族を一瞥する視線ではない。赤の他人に向ける、買い物帰りのエレベーターで乗り合わせただけの一過性な無情が突き刺さる。少し垂れ気味の目尻も、母親になってからは落ち着いたブラウンベースのロングヘアーも、随分と色褪せた。一通りの辛酸を履修し、当たり前だがあの頃の輝きは戻ってこない。お互い、歳を取った。でも変わらないものもある。ホオズキは戦いの中でその答えに触れてきた。
「ユクシーに指示を出しているのはハマユウか?」
『ユクシーはトレーナーを操っていますね。ポケモンに指示を出すのが人間であるように、人間にユクシーが指示を出している』
「ポケモンが人間を従えているのか」
それは翻せば酷く奇妙な構図である。
『ネオロケット団はこのポケモンが人の手に収められる存在だと思っていたのでしょう。ですが科学と人間の知恵はそこまで及んでいなかったようです』
ユクシーは膨大な知識量を誇り、それを思い通りにしようとするだけで、人間には想像以上の負荷をもたらす。
『ハマユウさんの知識を吸い上げ、破壊の遺伝子の暴走を意図的に抑え込んでいます』
「人間はポケモンの道具じゃない」
人間が獣の唸り声を真似るような迫力だった。突き詰めれば、どちらもエゴイズムをもって行動する存在には変わりない。
『仰る通り、どちらも道具扱いしていいものではありません』
「おれへの罰だな。散々、ポケモンを戦いの道具にしてきたおれ自身への……」
『神経が衰弱しています。一刻を争う状態です』
「おれがハマユウの体を借りる」
ホオズキは迷いなく言い切った。
『それは……ハートスワップする、ということですか』
「そうだ」
スレートは一拍置いてから改める。
『最初に、このミッションは命の保証はないとお話しました。ですが、ぼくは死のうとする戦士を見過ごすようなオペレートはしないと誓ったのです。ユクシーによって操られているハマユウさんにスワップすれば、ホオズキさんの記憶が死ぬ危険の方が高い』
「大丈夫だ、おれには波導使いの経験もある」
海底神殿での経験を大きく騙り過ぎだ。ヒイラギが聞いたら鼻で笑うだろう。
『お言葉ですが、比較になりません……』
「この局面を打開するにはそれしかない」
イチジクには到底意味を汲み取れない会話が繰り広げられていた。しかし、見たことも無い父の切羽詰まった横顔と、マイクから響く音声が不穏な響きを奏でようとしていることは、幼心だからこそ抽象的に察せる。
イチジクもまた、スナッチャー本部に囚われ、ホオズキを絶望の淵に落とし込む最終手段として特別部屋にて厚遇されていた。
ホオズキが悲惨な目に遭っていること自体、その内情を詳しく知らされることはなかった。ただ、父の戦いは家族のためになるとだけ吹き込まれ、それを頑なに信じてきた。ホオズキが助けに来ることで、ハマユウに行われていた所業を目の当たりにしたのだ。
『現時点では、その方法しかない……か』
司令塔が折れかけた、その時。
ハマユウが、否、ユクシーが右手をかざした。
「未来予知」
『ミュウツーを上回る出力!?』
未来から「スナッチャーは敗北の定めにある」という預言を受信する。プラズマ団やホオズキのポケモンたちが一掃され……。
「ゴルーグ、まだ戦ってるよ!」
エイチ湖面で、ゴルーグが吹かす。
万事休すかと思われた。まだだ。水飛沫を上昇の勢いに換え、ジェットを加速させる。ボディに施した古代の文様と傷痕の判別とがつかなくなっていく。
「ヒイラギ……」
「どういうことですか?」
エクリュ、そして何よりアクロマが疑問符を浮かべた。
「ヒイラギの吹き込んだ命が、味方している」
海底神殿で異物を出し切り、ゴルーグは真の巨人に転生した。
『ゴルーグは生命力を波導で代替しています。今のゴルーグは、波導使いに等しい』
――おまえはいつだって自分の意思で戦ってきた。
――ならおまえは操り人形か。その言葉をどう解釈すればいい。
――好きにしろ。だが、おれにも護るべき宝がある。
今の自分は、妻を助けるために偽者を名乗り、戦っているのではなかったか。
なら絶望している暇はない。
「ポケモンに教えられたな」
『生身では力を持てないぼくたちにとって、ポケモンは戦士の剣(つるぎ)そのものです』
「マナフィの救出に行きます」
「支援する。エオフ、波導でマナフィの現在位置を探り当ててくれ」
エクリュがスターミーの「ダイビング」で幻想湖に潜り、ホオズキはコジョフーと捜索にあたる。
イチジクは祈るように手を組んだ。
縋るはずの神は操られ、人の悪意に飲み込まれようとしている。それでも別の神が微笑んでくれると信じたいようだった。
氷塊を伴った嵐を、稲妻が走り抜ける。ボディが落盤し波紋を立てては沈みゆく。水没した都市が建造物の尖端だけを氷山の一角へと伸し上げるように。土塊で造られたゴーレムの化けの皮が剥がされていく。ジェットの噴射が不規則になろうとも、加速をやめようとはしない。
『ゴルーグのHP、低下していきます。推定イエローゾーン……危険区域です』
ユクシーの神通力下によって形成されたエイチ湖畔の幻覚は、常にエスパーポケモンの微弱な念波を受け続けているのと同義だ。種族としてポケモンであるゴルーグたちならばよりその影響下に敷かれる。
雪原に足をとられず済むのは、日々の鍛錬とトレーナーデビューを夢見た賜物だ。コジョフーは掌を開く。精神統一、マナフィの気配を辿る。頭で思い描く線は、獲物に翻弄される釣り竿状態だった。自然と同化し、声を聴く。それが波導使いの極意であり、最も基本的な心構えだと、あの戦士も言っていた。集中、一点のみを追い掛ける――視えた。
水中のスターミーが念を受信し、瞬くコアの点滅が生存を報せる。
「マナフィ!」
冷たい海の底で産まれた。自分が産まれた海の底へ長い距離を泳いで帰る。蒼海の王子にとって、湖など、ほんの庭にも満たない。
彼岸のハマユウを見据える。
出会った日から、このように睨み合うことになるのは今日が初めてだった。
おまえは、腐れ切った人生に差す光明。唯一の。
「相棒……」
飛沫をあげ、水底から舞い戻るマナフィ。触覚が、今、ふたりを繋ぎとめた。
『触覚器官、大脳皮質への連結確認。ハートスワップ5秒前』
スレートはあくまで勝利のための最善を尽くす。自分が最も信頼する戦士を送り出すためのカウントダウンを開始した。
『4』
『3』
『2』
『1』
「今行くよ」
『0――スワップ開始』
ホオズキの肉体にハマユウが宿る。互いの細かい部分まで知り尽くし愛した肌にいざ触れても、違和感や親しみより止め処ない後悔が押し寄せてくる。
「そんな」
「おかあさん? おかあさんなの?」
「イチジク……」
『ハマユウさん。旦那さん……ホオズキさんは、あなたの体と自分の体を交換し、あなたをユクシーの手から助け出したのです』
「ホオズキが……?」
ハマユウは夫の体のまま、崩れ落ちた。
「波導……忌々しい」
錯乱が止まないジュノーの脳裏には、楯突き、散っていった波導戦士が浮かぶ。
「全て消してしまえ!」
暴走するユクシーの眼が開こうとしている。全ての記憶を奪い、全てをもう一度リセットする。
このままでは敵味方もろとも、ユクシーが神の権能を振るうだろう。
開眼だけは、防がねば。
「だめ。瞳を開いちゃ……」
『何が起こるんです?』
「一斉記憶改竄」
室に籠り、子との接触を禁じられ、死んだ檻の中で魂に魅入られるようにありとあらゆる文献を洗った。ここにいる人間とポケモンから記憶を搾り取る。そうなれば、もはやネオロケット団の障害は無くなるに等しい。
スレートはしばし黙考し、提案する。
『ハマユウさん、ユクシーの開眼を止める方法は思い付きますか?』
ハマユウは自身が研究していたユクシーの能力を思い出す。そこに、もうひとりの科学者が声をかけた。
「ユクシーの能力が開眼によってもたらされるのであれば、眼力系の技でなければ干渉は難しいでしょう」
ハマユウは、知る人ぞ知る「あの」アクロマがいる事情をすぐに呑み込み、同じ科学者よろしく分析のメイズに入る。
「可能性を握っているのは……」
「ホオズキの」
ハマユウは愛する夫の名を述べ、
「ドンカラス」
アクロマはポケモンの潜在能力を信じた。
ハマユウは腰元のベルトやホルスターに視線を配る。あてがう指先には、武器の扱いに慣れない、関節の硬さが残る。
悪魔に魂を売ってでも葬りたかっただろうロケット団時代を彷彿とさせるようなマフィアの黒装束に身も心も落とし、悪を貫き、家族のために戦っていた……。
「ホオズキ」という潜伏名は彼にとって、逃れられぬ呪いであり。新たなる生であり。己の価値であり。二人で背負うべき業であった。
この気持ちは伝えなければ収まらない。
しかし、再会はすなわち別離で。
ハマユウは二つ装備されたボールの内、空のひとつを通り過ぎ、ドンカラスを繰り出す。
「イチジク、ピントレンズを外して」
もう片方の眼を露わにする。ロケット団に改造実験を施されたドンカラスは、特別な技を習得している。
「いっておいで」
帽子を調整するドンカラス。こんな時でも、こんな時だからこそ、いつも通りのナルシズムに励まされる。
「ドンカラス、『黒い眼差し』!」
頷き、ドンカラスが希望を総身に受け。
飛翔する。
ユクシーに持てる限りのエネルギー放出を試みる。命令系統から外れた動きだった。
『ゴルーグの命令違反。波導を破壊光線に置換しています。生命維持力と等量の波導を観測。このまま放出を続ければ、ゴルーグが生命活動を停止する恐れがあります』
自分のポケモンの異変をいち早く察知したのは、元のおやよりも、今のおやだ。
「ゴルーグやめろ! そんな命令……出してない!」
「命令に逆らってる」
「おとうさんを、助けたいから?」
母であり妻は、黙ってうなずく。
「駄目だ! ゴルーグを死なせるなッ! ハマユウ、グリーンバッジを使え。胸ポケットだ!!」
ゴルーグの意思を無理にでも背けさせようとする。本来、規格外の敵に向けようとした秘密道具を、自分のポケモンのために使う。本末転倒だ。そんな甘さを向けられるようになった夫の変化が眩しい。ハマユウの知らない死線がここまで道と成り続いている。
あなた、ポケモンを愛せるようになったのね。夫婦の視線がぴったりと、同じ高さで重なった。
ユクシーと精神を合体させた時、誇張無しに無尽蔵の情報が流れ込んでくるような悪夢の襲来を感じた。世界の土台が吸い取られていくような居場所のなさと必死に彼は戦っている。それが人間性を喪失するということだった。
「おまえはこんなトレーナーに尽くそうってのか……。どうして、そこまで」
幾度も道具として使役したのに。恨み言ひとつ述べず。ポケモンという一個の命なのに、使い古されていい命ではないのに。
最初からゴルーグは人間の守護を盟約としてこの世に生を受けた。ゴルーグは人やポケモンのために生き、人やポケモンのために散る。そんな生き様もあるだろう、と他人事を悟り肯定出来ない。覆してもいいはずの命令を遵守させることが戦いに勝利という旗を突き立てる。その二択に縛られ、消え入りそうな意識の中、ホオズキは何を思うのか。
エクリュのスターミーが反応し、勝手に飛んでいく。
「スターミー?」
ホオズキは耐えきれず手を突く。湖面に映るアルファベットを幻視し、首を跳ね起こす。長髪がはらはらと靡き。
ポケモンたちの声に、耳を傾けたい。中空の星標――スターミーが意思伝達に用いる古代文字だ――は答え応える。
「おとうさんっ!!」
「イチジク!?」
「――って言ってる!」
学校の図鑑で見た、アルファベットと瓜二つの姿をしたポケモンを覚えていた。
涙ながら、願いを届けた。
お互いは、もはや語るべき言葉を持たなかった。ホオズキは自分のポケモンと関係性を結べていないと思っていた。ポケモンにはしっかりと伝わっている。
彼とゴルーグは、一端にトレーナーとポケモンの関係だ。
「ゴルーグ、これが最後の命令だ」
今更、真人間の衣を着飾るには全てが遅すぎる。施しの勇者から最も離れてしまった人種だから。
*
誕生の島ではこう思った。
ゴルーグ。おまえは一体、何を考えているんだ? もしかして、ずっと憎悪を溜め込んできたんじゃないのか。本当のおやでもない男にこき使われて、命の危機に晒されて。そうなら、そうだと言って欲しい。
*
【 K A Z O K U W O T A N O M U 】
家族を頼む
【 I K I T E K U R E 】
生きてくれ
【 W A T A S H I N O B U N M A D E 】
私の分まで
それがゴルーグの声なら。否定出来るほどホオズキは強くなければ弱くもない。いつだって目の前の状況に左右され、揺れる船のような心許なさで、大切なことを選んできた。
初めて声を聴かせてくれた。
視界が落ち窪む。微睡みの淵で、ホオズキはその身に烈々とした光の爆裂を浴びた。
行くのか、とすれ違いざま、ドンカラスはアイコンタクトを交わす。
ゴルーグには確固たるアイというものが無いが、ニヒルな鴉のエールを受け取ってくれただろうか。
ドンカラスが紅き眼を擦り込むと、ユクシーの瞼が重力に従って閉ざされていく。
『黒い眼差しの効果により、ユクシーの開眼が防がれていきます』
ジュノーは、この両腕を切って差し出さんとばかり、歪な願いを託す。
両者の命令が行使され、ポケモンは指示に従い、戦う。
波導を放出するたび、壊れゆく。エイチ湖のテクスチャに皹が入り、それは神代の終焉を告げた。
ホオズキは眼を開けようとする。
ヒイラギとイトハ、若き風が先陣を切り。プラズマレムナントが足掻き。皆が這い上がろうとした。
「『波導の、嵐』」
この一撃は、スナッチャーの集大成。
一同は、助けられず、倒すしかなかったユクシーの死を看取る。神通力が完全に溶け、また無機質な研究室に戻った。同時に、ハートスワップも解除される。
「知識の神」は最後の最後まで破壊衝動に抗い、その身をダークポケモンに堕とすことなく泡沫の魂を散らしていった。
『我々は激しすぎる戦いのあまり、ポケモンが生き物であることを失念していました。ゴルーグにも、無論、ユクシーにも感情がある。ゴルーグは人間に従い、ユクシーは人間を利用した。ユクシーが人間と手を取ろうとする存在であれば、話はまた違っていたかもしれません。知識の神、やはり我々とは目線が違うのでしょう』
ただし認められるだけの器を持った人間であればですがね、とスレートは付け加え、今回の死闘を総括した。
アクロマ、エクリュ、イチジクは立ち尽くす。
「ゴルーグ、もう動かないの?」
子供心ながら、死という概念に触れる。
ホオズキはそっと、亡骸の前でしゃがみこみ、手をあてた。
「家族……そう言ってくれたな」
本当なら、おれたちが言わなきゃいけないことだった。
「ゴルーグ……。おまえに、ニックネームをつけておけばよかったな」
トレーナーとポケモンは痛みを分かち合い生きていく。ここがゴルーグの終点ではなく、始点となるように。
「おれの半分をおまえに預ける。うん、今日から『タイタン』だ。安らかに眠れ」
グリーンバッジを墓標代わりに差す。サカキが見ていたら、せせら笑うだろうか。笑われても後ろ指をさされても構わない。これが正しい生き方だったと胸を張りもしない。ただ、ゴルーグは。自分の為すべきことを為していった。強いて言えば、残された者たちはそれを問い続ける必要がある。
一輪の祝福に、マナフィも溶け込み、三匹のポケモンがここで命を使い果たした。
ジュノーは理解に苦しむ。
何故、人を助けるためにそこまで己を犠牲に出来るのか。血迷った者ばかりだ。
「終わった」
内通者作戦の失敗を予感した。これだけ有利な状況を作るため立ち回ったにもかかわらず、小賢しいポケモンと人間の足掻きに敗れ去った。
もう、マルバのもとには戻れない。
そのとき、彼の心は壊れた。
「は、はは。ぁ、あぁっぁぁぁぁァxxxッァxxxッァぁxっぁああああああああぁあぁぁぁぁぁっぁxっぁああああ」
自我が、崩壊していく。
「わたしの楽、楽園が……。崩れ、オォ、崩れ、ていく……。神よ! 神よォーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!! 救いたまえ、この世界を。浄化してくれェェェェェェェェァァァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアァァァァァァァ……」
何を言っているのか自分でも分からない。他人に推し量れるはずもなく。ジュノー憎しと思っていたスナッチャーすらも異様さに顔を覆いたくなるほど。
「マルバ……波導の勇者よ……。ネオ、神成るロケットに……栄光、アれ……!」
ホオズキだけは一人の人間が灰と化していく過程の中で、最後まで意思を通わせようとした。
「おまえは絆を捨てられる人間じゃないんだ。マルバと繋がりを保っていたいと望んでいる。だが、おまえの主君はそれすら切って捨てるような奴だぞ」
ジュノーは否定していたが、終ぞ認める。
殺すことでしか生きられなかった。そんな自分が初めて誰かに認めてもらい、人間としての価値を与えられた。
「マルバは……わたしに人間としての価値を与えてくれた……」
カロス紛争地域にて、人やポケモンを殺すことでしか生きられなかったジュノーが、初めて人間になれた。一人の波導使いとの出会いによって、機械を卒業した。
――ジュノー。殺すのではない。生かすのだ。救いを与えるのだ。
「それが……マルバの崇高な理想を叶えようとするうちに……わたしは、マルバを求めていたのか……。右腕失格だ。もう、死ぬしか、ない」
『ホオズキさん!』
錯乱したジュノーは、ハマユウの首を絞める。
動けば命は無い。
そう、今度こそ本当の意味で彼女を人質にとってみせた。ネオロケット団の矜持をかなぐり捨て、一人の男としてホオズキを陥れようとする。
しかし、ホオズキに迷いは無かった。
アクロマたちはジュノーの足掻きに対して慎重に出方を伺い構える。ホオズキは静かに止めた。
「待ってくれ」
ホルスターからニードルガンを取り出す。
「イチジクには見せるな」
この場で人質をジュノーの足枷にするには、ハマユウを撃つしかない。でなければ、ハマユウを人質にとったまま、ジュノーは逃げ延びてしまう。それでは白紙に戻るだけだ。
スレート、エクリュ、アクロマ、ヒイラギ、イトハ……スナッチャーの想いを背負った戦いに、決着をつけなければいけない。
個人と世界を今こそ天秤にかける。
エクリュが頷き、眼を伏せようとする。イチジクはそれを捕まってはならない拘束のように振りほどこうと駄々をこねた。
「いやだ! ゴルーグが、タイタンが死んだあとなんだよ! おかあさんまでいなくなったら!」
「瞑ってろ」
それは親としての物言いではなく、一人の女性を一生懸けて護り抜くと約束した男の口調だった。
「おれはハマユウを生かすために撃つ」
「わかんないよ!」
これ以上は無理だ。スターミーの念力で、コジョフーごと束縛をかけた。
「すまん」
「いいえ」
「どうするつもりだ? おまえには撃てまい。ボスを、殺すことが出来なかったおまえに」
ホオズキは、ハマユウと目が合う。
すまんな。
分かってる。
ふたりだけのアイコンタクトが、彼に決断させる。
トリガーに指をかけた。
「う、嘘だ」
本気なのか。正気の沙汰ではない。
「やめろ。やめろォッ! あなたの妻ですよ。彼女に会うため全てを投げうってきたのでしょう。それでは水の泡だ!」
ここで銃口を引けば、彼女ともう一度会える日はまた少し遠ざかる。しかし、ホオズキには最愛の人を撃ち抜き、そして生かす覚悟がある。
ジュノーを倒すために。この瞬間、命よりも大事な人を切り捨てる。
自分がずっと下に見ていた存在から、遥か前より実は見下されていた気がして、堪え切れない。
「何がそうまでさせるんだ」
「おまえには分からんだろう。いや、おまえは……知っていたはずだ」
ホオズキはジュノーの一挙一動を見逃さず、そして、最愛の妻の、足首を正確に撃ち抜いた。
人質としての利用価値を失わせたことで、今のハマユウはジュノーにとって逃げ出すための枷でしかない。
赤く、跡のついた首筋から腕が離れていく。意識を失うハマユウ、同時にエクリュやアクロマが走り、すぐさま応急処置にかかる。
「スナッチ、ャー……」
怨敵の名を、自分が支配し、そして下克上を許した組織の名を、刺青のごとく全身に刻みながら。
内通者は、斃れた。
逃げ延びることだけを考え、地を這う。駄目押しに肢体を踏みつける者がいた。
あえて後ろを振り返らないように、気配を消すように息を殺したつもりだが、まるで隠せていない。
まもなく望まぬ声が降ってきた。
「逃げられると思っていたのか? ロケット団は獲物を逃さない。ましてや、我らの矜持を冒涜した者であればな。わたしはスナッチャーほど甘くないぞ。貴様が行くのは楽園ではなく地獄だ。たっぷりと、苦しんでから死ね」
断末魔ひとつ紡げない。
サカキの、いや、ロケット団全体の怒りを代弁するような咆哮が意識を脳天ごと劈く。
「岩雪崩!!」
ジュノーはもはや自分が分からず、瓦礫に飲み込まれていく。それが愛を知らずに生きた男の末路となった。
始末に何の感慨も湧かず、サカキはつまらなそうに息を吐いた。
プラズマフリゲートの甲板にて。
渇く唇、物寂しい口元を、煙を吸い誤魔化す。本当に潤してくれるならば、煙草なんかじゃない愛の証が欲しかった。
次に白煙が晴れる頃には、もの言いたげな青年が控えていた。
「ホオズキさん」
「何と言ったら」
「よせ。互いに泣きつくのは無しだ。おれがそうするのは一人と決めている」
「言わせてください……ありがとうございました」
スレートなりのけじめだろう。こちらが呆れを通り越して、申し訳なさを覚えるほど、どこまでも義理堅い。
だが会話はそこで終わりではなかった。
「ホオズキさん」
「今度はなんだ?」
「ミッションクリアです」
「ぼくたちは、内通者に勝ったんですよ」
どれだけの偉業を成し遂げたのか、漠然としない。それがこの途方無き戦いにとって、どれほどのアドバンテージとして作用するのかも。正直、今は何も考えたくなかった。
勝利は必ずしも喜びだけを運ばない。刻み付けられた呪いを唱えた。
「スナッチャー……『強奪者』か。その名の通りだな」
心底恨めしそうに。
「おれたちは奪うことで勝利する。トリガーは既に引いた。後戻りは出来ない」
「ええ、きっと、これからも……。多くの人やポケモンが消えていく戦いに」
「なら、おれが」
ニードルガンを空に向けた。
「この糞喰らえの戦いに終止符を打つ」
その針はどこまでも高く高く標的を見据えて。今は見えない明日、手探りの中。
闇を貫き、いつかの夜を明かすだろう。