Phase 46 形なき愛にさよならを
「あなたがたはわたしを追い詰めたと思っているでしょうが――」
その物言いは、スナッチャーが遺した財産を貪り尽くそうとする悪食の態度だ。
根拠なき、と思われた自信の正体は、戦艦から撃ち出されるような開口の勢いとなり表れた。
『反転性の床に、石化光線銃が取り付けられています』
到底凌げる総数ではない。改造の手は司令室にも及んでいた。内通者が潜伏している、という事実が発覚した時点から、憂慮すべき案件だった。
波導使いの圧倒的な感知力に備え対策プロテクトを張り、穴だらけの本部を堅牢に見せかけていた。魔術さながらの芸当は、同じ波導使いが教え込んだ知恵だろう。
自分たちがしっかと踏みしめている、と思っていた中央司令室は、最初から裏切り者の一味だった。
『逃げて!』
具体的なオペレーションを放棄した通信が、これまでの任務上でも一、二を争うエマージェンシーを告げる。人体の反射から来る速度で退避を試み――何処から何処まで、と足を止めた。ずらりと隊列を整えた上で発射を待つそれは、命じられればいつでも縦横無尽に乱舞するよう仕組まれている。
「逃げろアクロマッ!」
まずは一人目を。
司令官の座は、オペレーターもろとも、一瞬にして再びジュノーへと移譲された。
光の乱舞が止む。
わざとらしく司令席を立ち退き、幾度となく手を焼かせてきた最後の獲物を直々にいたぶるため立ち上がった。
「ホオズキよ、ネオロケット団に逆らうことがいかなることか、得心しましたね」
この悪魔に、少しでも自分たちの知恵が及ぶと逸ること自体過ちだった。科学と神、世界を支配する双璧たる組み合わせに、敵う者などいなかった。
「ヒイラギといい、あなたといい……。戦場というものの構造を理解していない。自分にとって有利なフィールドを築き、そこに相手を招き入れるだけで、おのずと勝敗は決するのです」
『ホオズキさんっ』
「観念なさい。あなたは地上でなく、楽園で家族と再会するのです」
滅多刺し寸前の的は、思考力が急激に鈍化し、家族というワードにのみ反応を示した。
ホオズキが無抵抗で石と化す。
「やった。やりました」
完全なる勝利を、マルバに捧げた。
ネオロケット団は、チーム・スナッチャーを倒した。
残るオペレーターの現在位置把握は、時間の問題だ。すぐにスナッチャーの後を追わせてやると息巻く。
「これで、わたしの、勝ちだ――」
ジュノーは至上の笑みをたたえる。
ホオズキが破れた世界へと導かれる前、その勝ち誇った笑みだけが心に焼き付いた。
「わたしを倒してから言え」
ジュノーは絶頂のあまり、最大の危険因子を失念し、放置していた。
「足手まとい」がいなくなり、力を抑える必要はもう無い。雷の落ちるよりも激しい地震、真上から劈く。床に備え付けられた石化銃が耐えきれず、次々破裂していく。
ターゲット三名の石像背後より、地獄の形相をもって迫る。悪魔ならぬ悪鬼を、乱れ飛ぶ髪先と視界の隙間から、しかと見た。
「これでお得意の技は使えんな。貴様を殺してやる。マルバの理想を叶えられず、死んでいく……。それがおまえにとって最大の恐怖だろうからな」
聖水のように淀みない殺意を、サカキとその下僕が浮かべていた。
アクロマは未知のリーグを観戦していた。
エンブオーvsダイケンキ、白熱最中のサンセット・スタジアムを飾り立てていた。イッシュ地方のサザナミタウン湾岸部に建造された競技用スタジアムは、一日の終わりの象徴である夕陽を感慨深く迎え入れる。
互いに控えはゼロ。会場の客入りも絶好調であり、これからこそが醒めない夢の始まりだ。
アクロマが注目する選手は、ダイケンキ側の少年である。彼とは幾度も旅先で出会いバトルをし、何より、計画成就の前に立ちはだかる壁となった。彼こそ、アクロマの価値観を根こそぎ覆した張本人に他ならない。
「ダイケンキ、おれたちの全てを出すぞ……。行くぞ、もっともっと強く――!」
意気軒高だが彼はキーストーンもメガストーンも「有していない」。にもかかわらず、ダイケンキの姿がトレーナーごと憑依したかのように移ろいゆく。
会場の至るところから絶叫が噴火する。
『〇〇〇選手のダイケンキ、見たこともない姿だ!』
「見たこともない、『シンカ』――」
アクロマは、これだ、と確信した。遂に、彼の研究は結論を導き出した。
究極の関係性は、メガストーンもキーストーンも必要としない。
*
心を入れ替えたプラズマ団の残党は社会慈善事業に携わる一環で、ホドモエシティのハウスにてポケモン保護活動を一手に引き受けていた。
トレーナーに虐待されたポケモンや、親を亡くして行き場のないところを彷徨っていた野生ポケモンなどを保護し、傷心を癒してもらう。何か、特別なケアをするわけではない。そっと傍にいて、同じ時間を過ごすことに意味がある。
そんなハウスに、誰かが訪ねてきたようだ。七賢人は出払っている最中だから、彼女が応対する。
「はい」
開けた扉から、ふぁさっと流れる毛並みが人間のロングヘアーに瓜二つ。眼を凝らしていると、向こうは手招きを始めた。
「ゾロアーク……?」
連れ出されるようにして扉を飛び出す。
鍵を持ち出して、街の片隅に佇む緑髪の男性に向かって声を張る。
*
時空が流れては巻き戻されるようなうねりをもたらす大宇宙に、何の罰か、ひとり立たされた。鏡がひとりでに降下してくる。
鏡面の背後に飛び立つ、影と同化した生き物が映り、神なる羽ばたきが止んだ。
ふと、たまたま寄り付いたから覗いただけにすぎないホオズキの足を射止めたのは、鏡の向こうにいるもう一人の自分が、ひっくり返ってしまうほど対照的な笑みを浮かべていたからだ。皮肉さも、卑下も、何もありはしない。ただただ、幸せそう、の一言に尽きた。
在り得たかもしれない、もう一つの人生が狂おしいほど欲しくなって、手を伸ばす。
映し鏡は拒まない。運命を「反転」させるように、両の鏡の真実と理想を、翻す。
*
ドアノブを捻ると、どれだけ時が経とうとも見飽きることない姿たちが、ごくごく自然な様子で振り向く。
「おかえりなさい」
妻の間から顔を覗かせ、ぺたぺたと走ってくる愛娘に合わせ、しゃがみ込んだ。
「おかえり!」
可愛い娘だと、親馬鹿がはたらくのも、少しばかりは許してほしい。
食卓でイチジクの関心が向かうのは、肝心の手料理ではなく、父だった。
「なんかね、おとうさんに見せたいものがあるんだって」
親相手でも気恥ずかしいのか、どこか根拠不明にためらう。
「ええ? なんだろう」
よしきた、と父からの助け船に乗り合わせたイチジクが持ってきたのは、学校のテストで、赤ペンはさりげなく最高点を記録している。
「みてみて、満点」
「ほんとだ」
抱っこしてやろうとすると、ぷいとそっぽを向かれた。
「それはいい」
「あっ、そう……」
この頃、親離れが始まっていないか?
と心配になる。イチジクは近所の小等部スクールに通っており、友達付き合いも悪くないらしい。激動の人生を送ったホオズキからすれば、娘が平穏無事に過ごせることが何よりだ。少し、羨ましくもあるが。
「おかあさんにすこし近付いたかな?」
「イチジクの方が頭良くなるから大丈夫だぞ」
「こら。そこ何言ってるの?」
娘を応援こそすれど、自分が追い抜かれるのは自負が傷付く模様。食卓に笑いが咲いた。
*
「ハチクさーん!」
「ああ、いらっしゃい」
クマシュンにほっぺすりすり。
ジムでは、いつもハチクのポケモンと遊ばせてもらっている。ツンベアーの背中で滑り台を下り、バニプッチから即席のアイスを貰い、フリージオと氷上を滑走する。
児童の父と、元舞台俳優のジムリーダーは、観客席からそんな一時を見守っていた。
「いつもすまんな」
「構わん」
椅子を小机代わりに、酒を酌み交わす。
「ポケウッドに、復帰してみようかと思う」
ハチクは俳優生命を左右する大怪我を負った。その後しばらく治療に専念し、舞台から一線を退いた。元ロケット団員の男女がセッカに逃避先を求めたのは、丁度ハチクの情熱が消えかかっていた時だった。彼は二人を匿い、素性を隠したまま職を斡旋してくれた。親身な理解者だったのだ。失うことを恐れる二人に何かシンパシーを感じたのかもしれない。
「あくまでも俳優に生きたいのか」
「勿論、ジムリーダーの責務も全うする」
この男はいつも生真面目で、責任の所在を全て自分で抱え込む癖がある。
「そういうことを言ってるんじゃねえよ。怖くないのか、って話だ」
「ポケモントレーナーと同じだ」
「これまたジムリーダーらしい例えで」
「挑戦もせずに、在りもしない恐怖に立ちすくんでしまったら、道を最初から閉ざしてしまうことになる」
「まあ、確かにな」
「ポケモントレーナーは『自分が何者にもなれないかもしれない』という恐怖と、日々戦っている」
「何者」というワードはホオズキの中で酷く印象的に焼き付いた。
「そういうもんかね。おれには、夢にまっすぐな少年少女ばかりのように見えるんだが」
遠慮なく、煙草を灯す。
副流煙ではなく、偏見からなる総括に、ハチクはやや不快を示した。
「それは事の本質を見ていない証だ」
「面倒臭え。ジムリーダーに火を点けちまった」
「強くなるためには己が内に生ずる恐怖と戦わなくてはならない。自分は『何者』かになれると信じ込まなければ、とてもやっていくことは難しい世界だ。ポケウッドもそれと同じこと」
「そうか、なら頑張れ」
「うむ」
「おれはもう、満たされちまってるからな」
「その言葉、真とは思えぬな」
ハチクのマスクから鋭く。ここではない、どこかを見通すような眼光が覗く。
「お主はまだ満たされておるまい」
「何言ってる……」
*
タワーオブヘブンへと花束を運ぶ。イチジクが初めてゲットしたコジョフーの母親の、墓参りだ。
死後の安らぎを願い地上に残る人々と、隔たれたポケモンの魂が交信果たす休息の場。シンボルとしての石碑が並び立つ光景は、侵してはならないものがあると、自然に足を止めさせる。
死者との対話を終えると、鐘が鳴った。
ハマユウは、頂上から沈む夕日に目をやる。
「もうこんな時間だ」
娘とコジョフーを呼び、塔を降りようとする。ホオズキ只一人が落ち着きない。
「どうしたの。おとうさん、さっきから心ここにあらずじゃない?」
「何か、忘れてる気がして」
「何も忘れてることなんてないよ」
「それもそうか」
「今日のご飯を炊き忘れた、とか!」
おっと、夫婦の会話を盗み聞きされていた。娘の無邪気な当て推量が本当なら、確かに愉快な死活問題だ。
*
降り積もる雪は、この地域ならさして目を輝かせるまでもない現象だが、たまには雪を踏んだ時の、あのザクザクという感触を味わうのも悪くないと思った。
「ちょっくら外、出てくるわ」
親指でドアの外を示す。
食後の家庭は、テーブルを拭く妻と、食器を運ぶゴルーグ。テレビのお笑い番組にかまけながらドンカラスの毛並みを梳く娘と、腕組みし真剣に画面と向き合うコジョフー。
「暗いから気を付けてね。あ、そうだ」
ハマユウは手を合わせた。
「ゴミ出し頼んでもいい?」
二つ返事で受けると、やはりイチジクとドンカラスに役目が行った。せっせとゴミ箱を持ってきた娘は、うっかり階段を踏み外す。嘴で間一髪、襟をつまみ、ゴミだけがころがる連発のごとく悲劇的に散乱した。
「ちょっと大丈夫!?」
回収戦線異常なしを告げると、ハマユウは溜息をつく。まあ無事ならよかった、とホオズキが袋を広げ捨てていると、コジョフーがじっと見つめてきた。
「半分持ってくれるか」
ゴミ捨て場の大群と、わたわたと出て行くヤブクロンを見間違えた。
これが自分の望んだ生活だったはずだ。イチジクもハマユウも元気に暮らしている。それを観るのがホオズキの生きがいだった。
ここには、全てがある。ここには。けど、何故だろう。何を憂うことがあるのか。
コジョフーはこれみよがし、素振りを行う。ゴミを先に捨てろ。と思いながら、何のアピールか手探った。
「エオフ、おまえ『波導弾』使えるようになったのか。ああ、それで見せたかったんだな」
腕を袖の中に収納し、こくこく頷く。袋を手渡すと、撃ちたそうにうずうず揺れる。
「間違ってゴミに撃つなよ。……今度イチジクとジムに挑むか?」
コジョフーは途端に縮み上がった。
「ははは。大丈夫だよ、ハチクはちゃんとレベルを合わせてくれる」
ちょっと冗談半分でからかったつもりだが、その気になった可愛い奴だ。ポーズを取り、静止の後に確かな気功を発する。見上げたものだ。しっかりと技になっている。
コジョフーから発射される波導弾を見ていると、何故か、涙腺が潤んだ。
「なんだ、ゴミでも入ったか」
擦った眼に飛び込む、真摯なまなざし。
小生意気に挑みかかり、評価を欲している。どうだ、俺の波導は。
何か、絶対に忘れてはいけない人に、見つめられた気がした。
居ても立っても居られない。
長靴だったらバランスを崩して垂直にこけていた。無様に腕を振り回し、降り積もる雪空の彼方に向かって叫んだ。
「ヒイラギ!」
叫べども、誰も出てこないし、何も奇跡は起こらない。
コジョフーはいなくなっていた。
セッカシティを、後にする。幸せな家庭を振り返ることなく。
ホオズキは街灯から離れ、独り夜の雪洞を歩く。我が家に戻り、反論し、ヒビを入れる必要を感じなかった。それでいい、と思えたからだ。わざわざホオズキの夢に出てきた立派な家族像を壊すことなんてない。しかし、自分がその中の一部として組み込まれるのは、耐えがたい違和感を覚える。
「それでいいのか?」
タイミングを見計らったように、ダークトリニティの一人が現れた。プラズマ団の神官に仕える一人で、常に三位一体で行動する隠密部隊である。そんなダークトリニティが何の用なのか。ホオズキは、その意味を分かっている。
「おれの夢にあいつが……ヒイラギが、出てきたんだよ。なら、応えないわけにいかないだろ」
あいつ、最後になんて言ったと思う。
*
ヒイラギは残る腕力で、ホオズキを突き飛ばし、血走るほど己の腕を咬む。
一瞬の、そのままショックで死んでしまいそうな激痛を好機に変えて。全身の波導を強制的に起こし、体中の枝を一気に開き、蒼い血脈を迸らせる。ルカリオのブレイズキックほど威力は出せないが、人間一人ならこれで充分。
力の限り、ホオズキの腹に蹴りを加えた。
息が出来なくなるほどの器官が閉ざされる衝撃に、急速な吐気と眩暈を覚える。胃の中をぶちまけずに済んだのは、腹部に叩き込まれた拒絶の真意を推し量り、戦士の鑑を案じたからだ。
一度で二人分を仕留めようとした石化光線の照準から逸れれば、次の充填までの間を縫って逃げ出せる。
残り一発が狙うのはイトハだ。
全滅なんてさせやしない、必ず一人は生きて帰す。ヒイラギの決意が、チーム・スナッチャーの命を繋ぐ。
「ヒイラ、ギ――」
た
た
か
え
ホオズキには、口がそう動いているように見えた。よもや読唇術の心得が無かったことを後悔する日が来るとは思わなかった。
だが、その時、確かに、ヒイラギとホオズキは通じ合った。
*
たたかえ、って、そう言ったんだ。
ダークトリニティはまたしても対話者の心を読む。
「では、おまえが戦う理由は?」
「妻子を取り戻すためだ」
「妻子なら此処にいる」
「いや、あれは違う。おれが作り出した……」
言葉に出すのは苦しいが、認めざるを得ない。
「幻だ」
「おまえはそれを望んでいるんじゃないのか?」
ホオズキは答えない。
「なら、留まればいい」
「おれだけの問題じゃない」
「ヒイラギとイトハは、夢を見続けることを選ぶかもしれないぞ。おまえのことなど忘れて、帰ってこないかもしれない」
「来るさ。あいつらは来る」
「なぜ言い切れる?」
「ここには『全てがあって』『何もない』」
イチジクを抱き締めた時の感触も、ハマユウの笑顔も、嘘に塗れている。
「おれが欲しいのは、形ある愛だ。おれにとって都合の良いものじゃない。相手の気持ちと感情から生まれる、予測不能の愛だ」
ダークトリニティは一瞬ホオズキの貌をとり、すぐに消え失せた。彼はホオズキ自身の生き写しだったのだ。
*
「わたくしは与えられるのではなく自ら解き明かしたい。究極の進化は、この手で実現させたいのです」
「夢から醒めれば、その方途すらも忘れてしまうかもしれない」
「そうだとしても……ゼロから解を導き出します」
ダークトリニティは一瞬アクロマの貌をとり、すぐに消え失せた。
*
「人間とポケモンが共存する世界はきっとこれからも造られないかもしれない」
「なら、留まればいい」
「ここでは、全てがおまえの思うがままだ。王でさえも、理想という呪詛のもとに縛られる」
「そんな世界は……わたしの理想じゃない」
「なら空虚な真実に撃ち抜かれるがいい」
「撃ち抜かれないわ。わたし『たち』は、勝機を奪い取る」
ダークトリニティは一瞬エクリュの貌をとり、すぐに消え失せた。
沈黙と秩序保たれた破れた世界にて、三本の映し鏡が同時に割れる。
叛骨神・ギラティナはそれを垣間見た。
自分の築いた世界の一部が砕かれる様を。神という絶対存在に抗う者達の存在を、この時初めて目視した。
ホオズキ、エクリュ、アクロマの意識が再び現実世界に誘われる。自由になった手足を動かし、まず発するのは驚き以外の何物でもない。
「実に、非科学的でしたね」
エクリュもあからさまに困惑を表明する。現実離れした超常の戦いに巻き込まれ慣れた今、最も理解不能な事態に直面している。
しかし、自力で石化を回避したミュウツーのことを思い出せば、一縷の望みは最初からあったのだ。
「つまり、意思の問題か」
権力や欲望には屈しないという叛骨精神の有無が鍵だったのか。
「それにしても、奇跡では」
『奇跡ではありませんよ。夢は、醒めるものです』
「醒める?」
石化を逃れたオペレーター・スレートの声色は、一同の生還を受け、歓喜に打ち震えている。
『スナッチャー以外の人間ならば、例外なく映し鏡の誘惑に屈してしまうでしょう』
破れた世界に招かれる命は、深層心理の具現化された夢を見る。永遠に解かれることのない催眠術を受けた状態だという例えが分かりやすいだろう。
夢の睡魔は絶大で、普通の人間なら欲望に負け、まず戻ってくることはない。
スナッチャーはネオロケット団と戦う内、使命感が宿っていった。彼らを倒せるのはもはや自分だけだという使命感。
もし彼らが集合していた段階で石化していれば、即座に決着はついただろう。その時点で、スナッチャーが破れた世界からの帰還を果たすことは万に一つも有り得ない。
『ネオロケット団はひとつだけミスを犯しました』
「それは?」
スナッチャーをずっと見守ってきた者の答えはいたって簡明だった。
『スナッチャーを侮ったことです。我々がこの戦いから得たものは、何も絶望だけではないのです』
不殺主義が無ければネオロケット団の理念となる根幹が成立しないにせよ、頑なにそれを貫いたことは、スナッチャーに敗者復活の機会を与えてしまう意味で最大の失策だった。死んでしまっては骸しか残らないが、記憶をどれだけ消しても、魂に夢を見せても、人が立ち上がろうとする意思だけは決して滅ぼせない。
まだやり残したことがある。その一心がホオズキ、アクロマ、エクリュを夢から現実へと引き戻した。そして蘇った彼らが、真っ先に目に留めた人物といえば、勿論。
「ちょっとやそっとのことでは驚きはせん」
「サカキ」
「装置は壊しておいた。ジュノーの奴は逃がしたが……まだ経路がある」
偽りの司令塔が使い倒した司令席の跡から、更なるアンダーグラウンドへの接続が見える。スナッチャー構成員誰一人として知り得なかった極秘研究室への入口を、サカキは顎で促した。
「行け」
「ここまでだ、スナッチャー!」
けたたましい警告音を聞き付けたネオロケット団員が駆け付け、総勢に取り囲まれる。
「そうだな。確かに、ここまでだ」
サカキは咀嚼し、嚥下するように言い放った。選ばれし三名を、後方の司令席側に追いやるドサイドンの砂塵が、向こうの警備用ポケモンごと地に叩き落す。
物申したげなホオズキよりも素早く、上から威圧的に被せる。
「わたしには、スナッチャーの都合など関係ない」
「何言ってる」
仲間など軽々しく表現するのは侮蔑に値するが、それでも共通の敵を追ってきた因縁がある。サカキはここで腐れ縁を根こそぎ断ち切りたいかのように、一ミリの愛着ごと吐き捨てた。
「こう言わないと分からないか! 上の者を囮に使うぐらい狡猾になれ」
「それは」
「心から右腕になったつもりでいたか。わたしと心中出来るかタイタン。え!?」
言葉に詰まる。
「見え透いた嘘を吐きやがって。アポロと違って、安いプライドだな。おまえはどこまで行っても、ロケット団からすればただの裏切り者だ。貴様の居場所などない。ここには、な」
饒舌なサカキを目の当たりにし、そんなことを考えていたのか、という、感慨にも、驚きにも至らない自失をおぼえる。とにかくそれ以上、口を利いたら牙を剥くぞと言葉の勢いが恫喝していた。
「おまえがここでくたばるとは思えないが」
「さっさと失せろ。足手まといが」
『サカキさん、あなたという人は……』
離別を惜しむ耳元の声に対しては、素直な一定の敬意を表する。
「スレート、オペレートはタイタンとエクリュ、それからあの科学者に集中しろ。わたしは自力で抜けられる」
『……分かりました。同じ組織員として、あなたと任務を共にできたこと、光栄に思います』
元ロケット団首領サカキは石化されても、ただでは転ばない。この世の損を利得に変える、そういう男だ。きっとどこかで、また思いがけず会うことになる。
「スレート、おれは自分が恥ずかしいよ」
向こうの夢は心地よかった、と少しでも考えてしまう自分自身が怖い。
「これが、マルバのやろうとしていることなんだな」
全を与え、全を奪う。彼の施しはまさに神への冒涜であり、便乗だ。
『ギラティナの呪いには、誰も逆らえません。ホオズキさんが屈したとしても、それは無理もないことです』
スレートは必死に庇ってくれるが、ホオズキはそうではなかった。
「いや、これは屈しちゃいけないんだよ。夢のあいつらを認めるってことはさ、今生きてるあいつらを否定するのと同じだ」
『ホオズキさん……』
「おれが助けたかったのは、あんな楽しそうな顔してるふたりじゃない。おれたちが向き合ってるのは実像であって記憶じゃない。夢には記憶しかない。だからマルバの世界を認めるわけにはいかないんだ」
『ホオズキさん』
一際拓けた空間に、仇の姿があった。哀れにもうずくまり、厳しい頭痛を抑えられず、赤子のように暴れ回る。運命を弄んだ道化師にふさわしい醜態を晒していた。
「馬鹿、なッ。奇跡でも……うっ、あああッ」
頭を抱え、白目を剥く。
『……度重なる記憶改竄の影響でしょう。ジュノーの脳は、壊死寸前です』
内通者として潜伏するにあたり、ジュノーは自らの記憶を幾度となく微調整・修正し続けた。度重なる改竄は、人間のもてる自然治癒力の限度を超えた。ジュノーは自らの作戦で自らの脳を死に追いやった。シロガネ山の任務時には、既に不治の兆候が出ていた。だが、敬愛すべきマルバのために任務遂行を選んだのだ。
「ホオズキ……たすけ、たすけ……てくれ……」
手を伸ばし、手駒に助けを求める。情けないとは思わせない、迫真の演技でもない、心からの請願を、ホオズキは。
「おまえは、おれの妻と娘を殺そうとした……。そのまま静かに。地獄に堕ちろ」
跳ね除ける。
この手は、もっと救いを求める者のためにある。ジュノーの傍らを通り過ぎた。
アクロマが声を張った。
「いけません、それ以上進んでは!」
湖面と思しき景色が一挙に展開される。
スナッチャー本部から強制転移させられたかのように、一面の銀世界が体温を削ぐ。鋭利に切り付ける極寒が備えなく襲い掛かる。スナッチャーを怯ませるジャブが入った。
『座標地点、変化なし。本部のままです』
アクロマは唯一の可能性を推察する。いったい何度目か分からない、もう考えたくない可能性だ。
「もしや、ユクシーの、『神通力』ですか」
「倒したはずでは……?」
『とにかく、分析を急ぎます。待機を』
エクリュの顔色はたちまち足場と同じ白に替えられていった。慎重に動きを決めなければ離散を免れない局面で、ただ一人は制止命令を振り切ってまで飛び出す。
ホオズキではなく、父としての役目を思い出したからだ。
「おとうさん!?」
雪原に取り残された愛娘は、其の場にあるはずのない幻影が信じてもいい輪郭だと分かった瞬間に、落ち込んだ頭を跳ね起こした。
「おとうさん!」
「イチジク! イチジクッ!」
「おとうさん! おとうさん!!」
家族のこととなると、人が変わったように荒々しく頼もしく手を取ろうとする。不安定な流氷が真っ二つに割れ、重力に吸い込まれた。娘の息が気泡となり零れゆく。
間に合え、間に合え――他に何も要らないから。解き放たれたゴルーグのボディから、蒼海の王子のベールが広がる。
「怖い思いをさせたな、イチジク」
体はガタガタに震え、唇も青ざめている。夢で見た姿と、あまりにもかけ離れている。
だが、愛しいと思えた。ホオズキが知っているイチジクと何も変わりがないままでいてくれたから。それが嬉しくて、有難くて。
「おとうさん、おかあさんを助けて。おとうさんに助けてほしいって、おかあさんも思ってるよ」
「ああ。ああ……」
マナフィの加護のもと、親と娘は再会を打ちのめされないよう、体温を分かち合った。この一秒は一ヶ月、一年よりも長い。
しかし、時間は寸分たりとも待ってくれない。
『来ます』
大波が、来る。
崇めよ、この威光を。
そして平伏せよ。
過去・現在・未来。
全知の眼をもって見通す。
全てを識る神だ。
『ジュノーはもはや我々を認識していませんが……。恐らくユクシーはダークポケモンです』
「ダークポケモン?」
『はい。破壊の遺伝子を利用してネオロケット団が造り上げようとするポケモン兵団……その尖兵でしょう。彼らをスナッチとキャプチャで助け出す。それがスナッチャー本来の在り方でした』
「なるほどな……。おれの役割も見えてきた」
二枚がかりのエース・ヒイラギとイトハのサポーターに、ホオズキは配置された。
スナッチとキャプチャ無しに、強大な伝説のポケモンとどこまで競り合えるか。しかし、ホオズキには新たな、いや、発足時からの同志がついている。
「オペレーター、これで最後だ」
『はい』
この戦いを、スナッチャー要人救出任務における最終戦闘と位置付ける。
ホオズキの隣に、小さな波導使いがついた。
「エオフ、手伝ってくれるのか?」
コジョフーは気合満タンにうなずく。
「おとうさんのなかまにも、波導使いがいるんだ」
「そうなの?」
「帰ったら、その人の話をするよ」
水「宙」に浮かぶユクシー本体。
ホオズキとコジョフーが同時に構えをとる。戦闘開始だ。