叛骨の強奪者






小説トップ
Second Stage - EX-Team Rocket part -
Phase 38 Δの破片
 途方もない数のオーベムを狩る。義務的に、形式的に。
 旅人がこぼしていった荷物を拾い上げるように、オーベムをキャプチャしていく女性が、後をついてくる。
 スレート曰く「戦場において、あなたが唯一肩を貸せる仲」だったという。今の自分が知らない以上、距離感を詰められることに警戒心しか覚えない。
 六合目、七合目、八合目、この険しい山道もただの飾り気ない岩壁と化す。クライミングとキャプチャを同時に行い、波導使いに食らいつく身体能力は評価に値する。大自然というフィールドにおいて、レンジャーの本領が余すことなく発揮されている。
 逐一後方に気を配り、手を差し伸べる必要はないと考え、自力で這い上がってくる彼女をただ見つめるに留めた。
 看板にはこう書いてある。
「九合目」
 石段の途中に、ポケモンセンターが設置されている。平常時は、トレーナーが寝泊りに使うための施設だ。
「こんにちは、ポケモンセンターです」
 の挨拶代わりに、石像のジョーイとハピナスが出迎えた。丁度、ハピナスを庇うような体勢だった。回復エリア横のショップ店員も巻き添えを喰らっていた。
 ポケモンセンター内部は土足で踏み荒らされていた。
 商品棚が散乱し、パソコンは上半分が切り落とされている。ノイズがバックグラウンドミュージックとして、気分を盛り下げてくれた。壁紙は随所に斬撃の痕が見てとれる。
 近付いてしゃがみ、痕をなぞった。切り込みに指を入れると、V字型の凹みがある。
 オーベムにこんな芸当は不可能だ。別のポケモンが放った技だと考えられる。
 ポケセン内にはオーベム一匹さえも巡回していない。しかし、一際強力なエネルギーを発しているポケモンがいた。恐らく、軍団のブレインだろう。
 自動ドアの開閉音から、イトハが中に入ってきたことが分かる。波導はその場でしばらく立ち尽くした後、こちらに向かってきた。
 ヒイラギは例の斬撃痕を見せた。
「この攻撃をした者が、ポケセン内に潜伏している。敵の推測を立てられるか」
 イトハは腰を折り、もみあげを耳にかきあげてから、まじまじと傷を見る。
 サーナイトが手を触れた。特性「テレパシー」から、攻撃に込められた思念を解読する。
「『カラマネロ』……」
 推測に挙がるはずのない種族名だった。
 カラマネロは、他でもないイトハとヒイラギがスナッチしたからだ。オーベムのように、単一ではない別個体の可能性も捨てきれない。
 しかし、ジュノーが仮に暗躍しているとすれば、管理側に預けたカラマネロを再び悪用される恐れは十分にある。それに傷痕はサイコカッターだと説明もつく。
「指揮官はそいつか」
 イトハとサーナイトの言いようもない表情を相手にせず、ヒイラギは断定し、カメックスに移動を促す。
「覚えがあるのか?」
 その質問を、出来れば彼の口からは聞きたくなかった。
「本当に覚えてないんだ」
 オツキミ山のことも……。
「おれの質問に答えろ」
「……前に、スナッチした」
「これか」
 ヒイラギは胡散臭そうに眉を顰め、左腕のグローブにはめ込まれた物体を眺める。半信半疑に物色する姿は、その使い方を熟知していた戦士とは思えない。
「人のポケモンを奪う。それがあんたに与えられた役割」
 言うまでもないが、この世界で他人のポケモンの窃盗は重罪にあたる。
 強奪者というカルマを告げられても、自分なら受け入れる選択だろうと、実に他人事のように澄ました顔だ。
「わたしは……そう、強いて言うなら、あんたのパートナー」
 今の氷点下よりも冷め切ったヒイラギに、イトハの言葉は何一つ響かない。水にどれだけ石を投げ込んでも、波紋を起こさずにその重さで沈んでいってしまう。
 スナッチ、役割、パートナー、これらのワードに関して真剣なイトハとサーナイトに対して、ヒイラギとカメックスはアンダーラインを引かずに見過ごしてしまいそうな空気感を纏い、それは前提として世界観そのものが違っていた。
 この時計に対してこの針では組み合わせとしておかしいことを、決して嘲笑するわけではなく、諭すように言う。
「パートナーと言ったな。おれがパートナーを作るとすれば、それは『クレオメ』只一人だ。おまえの中にいる『おれ』が認めていたとしても、心からそうは思っちゃいないさ」
 サーナイトがすぐにでもヒイラギを引っ叩きそうだったので、イトハが手で制す。
 あの時と同じだ。
 イトハに戦士としての敬意を持ってこそいるが、今のヒイラギは本質的にイトハを嫌っている。だったら、何を言われても心から憤る方が阿保らしい。
 出会った瞬間に二人は戻った、戻ったどころか、戻り過ぎた針が今に追い付いてしまった。
 そんな姿を見る方も辛い。でも、見せる方も――スナッチャーのヒイラギはそんな意図せぬ醜態を見せたいなどとは思っていなかったはずだ。
「おまえ、おれの何を知っている」
 自分は、ヒイラギの一体、何を知っているのだろう? 言われたことを真に受けた。 
 クレオメなんて、初めて聞いた。彼と二人三脚で戦ってきたつもりでいたが、実際ヒイラギは知り得る情報しか手札にしない人物だ。
 ホオズキが自身のことを打ち明けてくれた今、ヒイラギは氷山の一角しか自分に見せていない気がした。
 自分とて、隠し事はある。一から十まで何もかも教える関係などこの世に存在しないだろう。出来れば知ってほしくない弱みや、過去もたくさんある。人は、平然と「今」という仮面を被り、社交する生き物だ。
 それで相手を理解した振りなど、浅ましいにも程がある。うわべだけの傷口をなぞり、舐め合っているに過ぎない。
「知らないのか」
 ヒイラギは溜息をついた。それだけ強く言うからには、レスポンスがあると期待した、相手への、自分への、若干の失望を滲ませながら。
 イトハは、手袋の中の感触を覚えている。あれは夢現のような出来事だったが、後のやり取りが現実だったと語っている。
「知」
 唇を震わせ、半ば意地を掘り出した。
「……ってる」
 ずいと前に出るカメックスを抑え、ヒイラギは心底聞きたそうな態度を示す。
「過ごした日数はとても短いけど……」
「そんなのより、もっと大事な」


 *

 グランドホテル・シュールリッシュが用意したロイヤルスイートルーム専用ソファで、脚を組む。それが彼女の癖だった。
 裏世界を見透かす、闇い瞳をサングラスの内に秘め、視線を与える。
「たった数日の付き合いでしょ」
 そう、かの上司が言うように、ヒイラギと彼女の付き合いは日数でいえば、たった一ヶ月にも満たない。所詮はお遊び。
 しかし、ヒイラギは誰よりも傍にいた。彼女がカフェで客に気を遣っていた時よりも、顔を綻ばせた形は自然で、何の力みも、憂いもなくなっていた。
「おまえらといた数年間よりは長かった」

 *


 ヒイラギが急に、眩暈を覚えたように、うつむきだす。
「ヒイラギ!」
「それ以上、寄らなくていい」
 心配は無用、それと、これ以上パーソナルスペースを侵害するなと、開いた掌が伝えている。
 ヒイラギは、自分の体内から悪い菌を追い出そうとするかのように、弱気なリズムで呼吸を整える。
 言葉の何が引き金となって、苦しみだしたのか、イトハには分からない。だが、疼くスタイラーを乱暴に抑えつけた。
 今すぐにでもシグナルビームをぶつけて、ヒイラギの記憶を取り戻したい。
「ヒイラギ聞いて」
 これ以上貴様の言葉など耳を貸すものか、と眼力が訴える。だが怯まない。ヒイラギばかりに主導権があるわけではない。パートナーを謳うなら、いつだって立場は対等だ。
「分かってるでしょ、記憶を改竄されてる。わたしはスナッチャーの記憶を取り戻すよう、スレートから指示を受けた」
「痛みを負わせてでもか」
「そうよ」
「なら、貴様がこの痛みを受けてみろ!」
 主人の想いを代弁するように、カメックスが砲台を向ける。すかさずサーナイトが立ちはだかった。
 カメックスは本当に躊躇せず、波導弾を繰り出した。「守る」で弾かれると、落盤寸前のポケモンセンターが一層荒れた。
「あの頃のヒイラギなら、『今すぐ撃て』って言ったよ」
「あの頃? おれには無い、いつの話だ。今のおれには、もう何も無い」
「いや……。絶対にある」
 イトハは、ヒイラギの首筋を指し示す。
「絶対などこの世には無い!」
 ヒイラギとカメックスは、イトハを振り切ろうとする。東西南北逃げ場などないことに気付き、機能しないエスカレーターを逆走して、二階に怒鳴り込んだ。
 一瞬狼狽えるサーナイトに目配せし、イトハは後を追いかける。
 オツキミ山の頃、ヒイラギが波導使いの定めから来る喪失と、眼に映る全てを信じ切れない強力な疑心暗鬼に駆られていた。
 しかし、今はよりその記憶に接近しており、ヒイラギにとって良い状態とは言えない。下手をすれば、オツキミ山よりも酷い。

 扉を片っ端から開きつつ、波導の源へと近付いていく。慎重さは失われ、血の上った頭が獲物を求めていた。
 全く覚えのない記憶を前提に語られ、今の自分からは想像もつかない行動の数々に出たようだ。
 自分が自分ではなくなるような恐怖が迫ってくる。
 家具の砕け散った一室で、カラマネロがオーベムと交信しているようだった。ほぼ八つ当たり的に攻撃を命じる。
 カラマネロは思念を纏った触手で、水流を突き、真っ二つに貫く。やはり、サイコカッターを覚えていたか。
「甲羅に入れ」
 カラマネロの突きを崩し、収納した顔と足を出す。四つん這いで押し倒すと、圧力に屈した声が漏れる。カメックスは顔面にキャノンを密着させ、早期決着を試みた。
 しかし、カラマネロの頭部から毒が発射される。カメックスはキャノンに流れ込んだ毒にのたうち苦しんだ。嘴を曲げたカラマネロは、馬鹿力でカメックスをヒイラギめがけて投げつける。ヒイラギはすんでのところで身をひるがえした。
「毒か」
 階段を駆け上がり、トレーナーの民泊スペースに入ってくるイトハを見つめる。
 ヒイラギとカラマネロはもう、戦わずに済むことになったはずなのに。全ては巻き戻されていく。
 イトハは、スタイラーから打ち出すディスクをカチリとはめ、認識させた。
「オーベム……アシスト、セット」
 味方を撃つ。
 心苦しいが、ヒイラギは何度も自分が有利になるように立ち回れ、そのためには自分さえも利用しろ、としつこく言ってきた。
 今がその時だ。
「シグナルビーム」
 ヒイラギとカラマネロは腕と触手を組み、ポジションを取り合う。シグナルビームの盾にカラマネロを使った。シグナルビームはカラマネロに命中する。
 外した。
 イトハは、カラマネロが「ヒイラギとイトハを覚えていない」状態を把握していなかった。それを彼女自ら戻せばどうなるか。
 エスパータイプの脳は、通常タイプのポケモンよりも段違いの情報処理力を誇る。
 カラマネロは、むくりと起き上がると、ヒイラギやイトハを見るや否や、尋常ではない殺気を漂わせる。
 ヒイラギが警戒し、のけぞった。
「なんだ」
 触手が勢いよく飛び掛かる。首を絞められるヒイラギと、首を絞めるカラマネロ。
 デジャヴを感じる光景だった。
 ヒイラギを壁に、無残なほど、何度も打ち付ける。気が済まないカラマネロの触手は、次にイトハを捉えた。
「しまっ――」
 カラマネロは、既に息も絶え絶えの中で、燃え滾る憎しみの在処を探し当てたといわんばかり、イトハを締め付ける。
 ヒイラギがめりこんだ壁から抜けると、アシストのオーベムが無残に薙ぎ払われた。
 カラマネロに捕獲されたイトハ、カラマネロの波導は憎悪で急上昇している。カメックスは毒にもがき苦しむ。
「何が起こった……」
 ヒイラギは状況の変化についていけなかった。いつの間にか形成は逆転されている。
 追い込まれているのは自分だった。
 サーナイトがイトハの腰元のポーチを外し、ヒイラギの手元に送り届ける。中に差し込まれた試験管には、モモンのみを調合してつくられた解毒剤が入っていた。
「使え、というのか?」
 サーナイトは力強く頷く。
 つまり、カメックスを回復させ、イトハをすぐにでも助けろということだ。
 しかし、カメックスはサイコカッターの餌食になり、窓ガラスを豪快に割る。
「カメックス!」
 窓から顔を出す。カメックスは粒となり、奈落に飲み込まれたかに見えた。
 急速に接近する波導が二種類。ひとつは、カメックスのものだが、もうひとつは。
「ポケモンか?」
 ベッドを粉末と木材まで分解しながら、荒れ狂う回転を纏い、カメックスが部屋中を反射する。激突したら全身が粉骨する重量を、ヒイラギは必死でやり過ごす。窓に黒い影が被さり、このポケモンがカメックスを吹き飛ばしたのだと悟る。
「おまえは……」
 脚に掴んでいるのは、銃だ。ドンカラスは脚を開き、無造作に蹴って渡す。
『ヒイラギさんっ!』
 インカムが拾った声は、ようやく知人の声だった。
「スレートか」
『遅くなりました』
「何があった?」
『オーベムがこちらにも……。しかし、凌ぎました。それより、大変なことになっていますね』
「考え得る限り、最悪の状況だ」
 次に、また見知らぬ者の声が挿入される。
『今、ドンカラスにニードルガンを届けさせた。そいつを使いな』
 小型の銃だが、先端に針が取り付けられている。甚大なダメージを相手に与えるための武器だと予想出来た。
 カラマネロの急所である触手の付け根部分を狙うには、確実な狙撃スキルが必要になる。
「外せばあの女性の命は無い」
『なら外すな。おまえの手であいつを助けろ』
 ホオズキの有無を言わさぬ圧力に、ヒイラギは押される。
 サーナイトといい、ドンカラスといい、ヒイラギを予め助けるように動いている。自分は彼らに敵意を放ったにもかかわらずだ。
 ヒイラギは未来、或いは過去ともとれるヒイラギに向かって問いかけた。
 おまえはスナッチャーというチームに何を残してきた。戦いの虚無に飲み込まれてなお、まだ絶つべき悪の芽に立ち向かっているのか。
「おれは誰なんだ?」
 思わず通信越しに答えを求めていた。ホオズキは変に気取らず、ありのままを伝える。
『おまえはおまえだ。だが、そんなおまえが恨めしい。だけど感謝もしてる』
 何を言っているのか、かつてこの男とどのような関係を構築したのか、全く理解出来なかった。
 だが、インカムを通した壮年の語り口は波導が無くても飾りではないと思えた。
『だから、悔しいんだよ……。おれを倒して司令官に刃向かった男が、記憶改竄なんかに良いようにされてやがる』
「司令官に。刃向かっただと?」
『そうです』
 行動の無謀さは、まるで――。
 ヒイラギ、何一つ学習しない男だな。
 過去の自分の生き写しだ。さも自信ありげにこの作戦は成功すると、己の実力の値踏みすら出来ず、大切な人を死地に送り込んだ。同じことを二度繰り返すほど愚かなことはない。何がそこまで、立ち直らせたのか。
「おまえはそんなことを言わなかった」
『記憶の混濁とショックから、伝えるべきことは最小限に留めました。しかし、あなたはとても勇敢な戦士だった。それは、このチームの方たちにも受け継がれています』
『おまえは波導使いのしたっぱだけど、自分の意思で戦ってきた。だったら、最後までそれを貫け』
 まったく、何なんだ。ヒイラギは閉口する。ともかく、賢くない生き方をしていたであろうことだけは確かだった。
 ヒイラギは混乱しつつも、渡されたものを扱った。ドンカラスがカラマネロを引きつけ、サーナイトが食器類を念力で引き寄せ、コードで縛り付ける。カラマネロが解く、互いに牽制を繰り返す。
 二匹の支援を隙に、解毒へと取り掛かる。ハイドロキャノンに液体を流し込んでいくと、即効性が目つきにも表れる。
「カメックス、カラマネロを抑えろ」
 ヒイラギは景気づけがてら甲羅を叩く。頷き、触手に数発撃ち込もうとするが、敵は霧散してしまう。
 天井からけたたましく、今度はイトハを取り押さえたカラマネロが室内で嘲笑う。
「分身か」
 「身代わり」だ。同じ波導を形成し、分身術で認識を惑わせる。よく出来た芸当だ。
 触手の先端から念動力を撃ち出し、ヒイラギの首元を射る。ヒイラギは衝撃で銃を手放した。
 首元にかけていたネックレスが、偶然にもヒイラギを護る。
 Δ(デルタ)のチェーンが真っ二つにほどけていく様は、何か大切なものを失った感覚に駆られた。

 ――生まれて来たことを後悔しないで。

 ヒイラギは一瞬、脳内に電光石火を浴びる。目を眩ませた。
「なんだ?」
 流れ込んでくる記憶の答え合わせは、もうすぐそこまで迫っている。
 仕留められなかったことに動揺を覚え、カラマネロは左右の触手を抑えられる。
 カメックスが高速でスピンし、銃を再度ヒイラギの手元まで弾き飛ばす。それを彼はタイミング良くキャッチした。
 ふう、と息を吐く。今までカメックスに銃撃を任せてきた分、ヒイラギの狙撃スキルは特筆するほど高くない。
「しっかり狙え」
 自分に言い聞かせる。
「あの波導を」
 誰の波導か。
「あの波導だ」
 何処かで見たことのある気がする、あの波導を。果たして、何処で見たんだったか。
 イトハの波導は、透明だった。
「こんな波導があるのか」
 思わず、彼は口走る。
 全てを染め上げる真逆の色なら、浸かってきた。その波導の持ち主である彼女とイトハは違う。
「あの波導はクレオメじゃない」
 ヒイラギはそう確信する。
 記憶は改竄出来ても、波導までは改竄出来ない。
 針が、時を巻き戻すかのように突き刺さる。時空の一点を劈いた。
 イトハが解放され、カラマネロは窓から真っ逆さまだ。元々、人工心臓で持たせていた体に、長期戦闘は不向きだった。
「ヒイラギ!」
 イトハの呼びかけに応えず、ヒイラギは窓枠を伝って、飛び降りる。
 カラマネロの触手は、人間の髪さながら靡いていた。
 ヒイラギはボールを構え、スナッチ・コアを発動させる。これが与えられた役割だということを、知らない頃の自分にも刻み付けるように。
 知らない自分が知っている自分に戻ったとしても、この一投を忘れないように、足掻いた。

 
「カラマネロ、スナッチ完了」
 その報告は一同を湧き立たせた。スナッチャーのヒイラギは、そうでなければ始まらない。
 窓越しに、控えめな視線を寄せるイトハにも聞こえるよう、大きく告げる。
「おれとカメックスの記憶を改竄しろ」
 カメックスもまた頷く。主人であるヒイラギがそう望んだのなら、従者である自分は従うと。記憶が変わっても変わらなくても、波導使いたちは、波導使いだった。
 しかし、彼女の顔は今一つ吹っ切れない。
「どうした。おまえが会いたかったのは、『おれ』であって、おれではないはずだ」
「あんたは一人でしょ……。記憶をなくしても、記憶を取り戻しても、あんたの体は一つなんだよ」
 ビームひとつでその人の足跡を書き換えることの恐ろしさ、その力を有することの責任を今になって噛み締める。
 記憶を改竄するということは、過去であり今在るヒイラギをこの手で殺すことだ。
 自分の使命に正直でいたいからこそ、イトハは今のヒイラギに後悔しない別れを告げるべきだと考えていた。
「そうか」
 なぜ、スナッチャーの波導使いヒイラギは、イトハを信頼し、護り抜こうと決意したのか、少し分かった気がする。
 ヒイラギは陰の下に微笑みを隠し、プレシャスボールを、イトハに向かって投げつける。
「受け取れ! 餞別だ」
 イトハはカラマネロの入ったボールに目を凝らす。
 このポケモンとの戦いが、イトハとヒイラギを結び、解き、そして結ぶ。
 イトハはアシストに指示を出した。
「オーベム、シグナルビーム」
 カメックスとヒイラギを狙い、交差する腕から三条の光線が放たれる。キャプチャしたオーベムは、イトハの記憶を共有している。その膨大な死闘の軌跡を、今から生身の彼に送り込む。
 痛みに絶叫が響き渡った。

 記憶のフラッシュバックが始まる。


 *


 破片、Phase 4――。
 黒髪の、自分より幾分若そうな女性――これから生死を懸けたミッションを共にするチームメイト。未だに信じられなかった。同時に、何回も救われもした。
「お前とは、長い付き合いになりそうだな」
 ヒイラギがその言葉にどれだけの意味を込めたか、知る由もない。イトハの耳にはまず届いていないのだろうから、単なるひとりごとにしかならない。

 破片、Phase 6――。
「スナッチは、ポケモンを救うための手段だ」
「人から奪ったポケモンが、幸せになれると思いますか」
 迫真の問いに怯まず、ヒイラギはさも当然のように言い放つ。
「お前とおれがやっていることは、同じだ」
「どういう意味ですか」
「お前のキャプチャを見て思ったよ。あれは、ポケモンを屈服させるための手段だ」
「屈服……?」

 破片、Phase 12――。
 ホオズキは心底滅入ったように顔を手で覆っている。泣いてはいない、彼はこの場で誰よりも現実と先を見据えていた。
「餓鬼どもが……。出来なかったことを責めるな。何故出来なかったかを考えろ」
 返事はない。彼らは別々の方向を見ている。
「プロなんだろ!?」
 ヒイラギとイトハは俯くことしか出来ない。彼らが何を思うか、そこまではホオズキの立ち入る領域ではない。あくまで省みるためのきっかけとして叱ったのだ。

 破片、Phase 14――。
「わたしたちばかり言い争ってポケモンに気を遣わせて体も省みずに戦って! 独りでかっこつけたってあんただけじゃ何も出来ないんだよ!!」
 地盤が揺れる。ハガネール出現の予兆だ。
 ボーマンダは痛みにうずくまっており、これ以上戦わせるのは危険だ。
 ヒイラギは戦力を自らボールに戻し、カメックスとイトハを睨む。言い争っている場合ではないのに、ハガネールの波導を必死で追いながらも、想いのたけをぶつけていた。
「貴様もだろうが!」
「そうよ、わたしもよ!」
 独りだけでは、何も出来ない――ヒイラギもイトハも、認めるしかなかった。
「スナッチがないと戦えない」
「悔しいけど……それは事実だ」
「それだけじゃない」
 イトハはサーナイトのモンスターボールを突きつける。ヒイラギから貰ったボールを。
 ハガネールが現れても応戦出来るよう、カメックスは照準を合わせている。
「わたしたちは弱い。戦闘で役にも立てなかった」
「でも、ポケモンたちのことは分かる」
 ヒイラギは目元の皺を寄せられる限り寄せて、つまり何が言いたいかを理解する。
 足元からヒイラギを貫こうとしたハガネールをかわし、手招きした。
「即席ペアは解消だ。来い、カメックス」

 破片、Phase 18――。
「イトハ」
 初めて名前で呼んでくれた。もう”レンジャー”じゃないんだ。
「おれのパートナーになってくれ」
「慰め、支えてくれ」
「この戦いをふたりで潜り抜けるために」
 ヒイラギはグローブを外し、右手を差し出す。

 破片、Phase 22――。
「ならば、おれは捕獲を。おまえはフリゲート回収を任務の目的とする」
 スレートは頷く。
 双方共に、これで任務の命令を違反することへの躊躇いは無くなった。
 キナギを裏切ることになるのは心苦しく、裏切りを嫌ったヒイラギへのなんと皮肉なことであろうか。
 それでも、彼等は真実を突き止めるために、もう立ち止まることは出来ない。ましてや、引き返すことは許されないのだ。
「勝負は明朝からだな」
「はい」
 ヒイラギはそれだけ言うと、真夜中の密会を終え、踵を返した。

 破片、Phase 10――。
「まさか、言葉を話せないのか?」
 女性はその通りとばかりに頷く。遥か上に指を伸ばし、見上げるよう促す。
 ヒイラギが目線を上げた先では、スターミーがアンノーン文字を記していた。
 スターミーには〈星標〉と言って、空に古代文字を描くことで、意思伝達を助けたという話がある。戦時中にも信号や合図として用いられたそうだ。ヒイラギも数多くの死線を潜り抜けてこそきたが、実際に目にするのは初めてである。
 プラズマ団の女性はスターミーに自分の意思を汲み取らせ、何かを伝えようとしている。一文字書くのにも時間がかかる。端的に核心だけを記すつもりだろう。 
【 F U U I N S A R E T A 】
 ふういんされた
【 P O K E M O N N O W A Z A D E 】
 ポケモンのわざで
「種族は!」
【 W A K A R A N A I 】
 わからない
「分からない? 見そびれたか」
 もしこの女性が真実を語っているならば、ポケモンの技〈ふういん〉をかけられたということだ。スナッチャーに参加して以来、一番の胸騒ぎがした。
【 S N A T C H E R N O N A I T S U U 】
 スナッチャーのないつう
 そこまでで何を言いたいか分かる。スナッチャーの内通。
【 S Y A H A 】
 しゃは
 
 破片、Phase 21――。
「本当に御立派な自己犠牲精神ですこと」
「そう思うか」
「おれが何らかの理由でチームを離脱することになれば、真相は闇の中だ」
「苦しみは分かち合う……だったな?」
「ええ」
 そこで、ヒイラギはイトハの方を向いた。それまでの会話と異なり、二人だけにしか聞き取れないほどまで声量を下げる。
「おれの代わりに内通者を突き止めてくれ」

 破片、Phase 25――。
 腕時計の針が動く。ハートスワップはまもなく終わる。最後に、ヒイラギはどうしても、聴いておきたいことがあった。
「教えてくれ。おれの波導は何色なんだ?」
 ホオズキはその時、初めて人の波導というものを見た。
 ヒイラギは、まるで嵐が過ぎ去り、凪いだ海のように、透き通った蒼炎の波導をたたえている。切り立った崖に寄せては返す波のような雄々しさの底に、研磨を待つ宝石がぽつりと置かれていた。
 その波導が物語る。ヒイラギは、内通者ではないと。
 同じ人間でも、全く異なる世界の景色を見つめ続け、今日までこの肉体で生きていたことに気付いた時、ホオズキの中には敵意を超越し、ヒイラギへの敬意とすら呼ぶべきものが芽生え始めた。
 もう、平常心で言葉を交わせる。
「おまえの波導は、……」
 ヒイラギを視て、率直に、先程感じた通りのままを伝える。
 ヒイラギは首筋ひとつ動かさず硬直していたかと思えば、次にはひたすらに長い息を吐く。
「そうか。ようやく、ようやく知ることが出来た……」

 破片、Phase 27――。
 ヒイラギは預かりものを確かめるように、ぐっと拳を握りしめる。
「助かる」
「……どこにも、行かないよね?」
 いつの間にか目線は、いつもの高さに戻っていた。届かない身長の分だけ、距離が生まれる。
 イトハが探るように、それでいて下から掬い上げるのではなく、まっすぐと、斜めに切り込むように見つめて来る。見開いた時よりも睫毛の間隔が狭い。
 ステンドグラスの反射を受けて照り映えるその瞳は、ずっと見ていたい程に痛々しかった。この光輝を見られず、この波導を感じられなくなるのだ。
 自分がこれから為すことの結果によっては、戻って来られるという確証も得られないから、返事すら出来ない。
 何か気の利く励ましを送るべきかと数秒悩んで、気障でも良いから今の自分で出来る最も伝えやすいやり方で、自分の我儘を押し通そうとする。
 ヒイラギは立ち上がり際、ポケットに入っていたネックレスを取り出し、指から首にかけて、絡ませていく。屋台のそう高くない安物を後生大事に持っていること自体が、華の無い彼等の微笑ましさだ。イトハからの贈り物を、体の一部に着けた。

 *

 ヒイラギは膝から崩れ落ちた。
『ヒイラギさん!?』
「あ」
「あ……」
 彼はめまぐるしい激痛の中で、思わず顔面を覆う。
「ああ。あああ、ああああああ」
 襲い掛かる情報が、ヒイラギを、上から、横から、殴りつける。

「ああああああああああああああああ、あああああああああああああああああああああああああああ」

『ヒイラギは大丈夫なのか……?』
 ホオズキの懸念にも、スレートは何も言葉を発せない。ポケモンたちも息を呑んで見守っていた。
「ヒイラギ」
 イトハには、痛みよりも、悲しみの方が勝っているように見える。イトハは何もかも忘れ、窓枠から顔を出す。周りが注視する中、イトハは窓から飛び降りた。

 *

 破片、Phase 27――。
「では、本件の黒幕及び支援者の名前」
 カメックスの体から滲み出る波導が、糸を焼き切るために、白線上を走り抜ける。
「次は答えを間違えるなよ」
「……わたしは、あくまでも、支援に徹する立場だ。命まで懸けて、奴等に忠誠を尽くすつもりは無いのでな」
 Jは自らの発言により、バックの存在を肯定した。かなりの情報獲得量である。
 薄々感じてはいたが、やはりポケモンハンターは独力で動いていなかった。
 そうでもなければ、一ハンター組織如きに、国家の暗部たるスナッチャーが手を焼かされる程の大規模騒乱を起こせるはずも無い。「奴等」という言葉の規模からは、背後の暗部がそれ相応の勢力であることも推量出来る。
 ヒイラギは確かな手応えに迫った。真の敵はまだ暗闇の中で、組織を弄んでいる。
「わたしには、現在クライアントがいる」
「名前は」
「J2」

 破片、Phase 29――。
「ヒイラギ、あなたは本当に素晴らしい戦士でした」
 拘束から自由になったジュノーが告げる。
「真実だけを求め、悪を許さず、己の正義すら捻じ曲げ、より大きいものを救おうとする。あなたのような戦士を、わたしは待ち望んでいた」
 しかし、残念だ。まもなく、ヒイラギは叛逆者の烙印と共に、無き者にされるのだから。
 惜しい戦士を失くす……ジュノーのニュアンスは本格的な抹消を意味した。
 考えなければやられてしまう。考えろ、ただ、一点の解のみを求めて。誰も答えをくれはしない。カラマネロをどうやって操った。サイコキネシスか?
 内通者のポケモンは「封印」を覚えた個体で一匹。それに加え、誰かだ。考えろ、ここで負ければすべて水の泡となる。
 カメックスを繰り出そうとした瞬間、ボールは弾かれた。やはり、ヒイラギの監視網を出し抜ける能力を持ったポケモンが、この部屋には潜んでいる。
「その努力と視座に免じて、わたしのポケモンをご紹介致します。疑いを晴らしていただけるかと」
 ジュノーは指を鳴らす。出番が来ましたよ、と告げるように。
「とくと、目に焼き付けなさい」
「動けない!?」
 ヒイラギはジュノーにしたように、四肢を拘束され「返され」る。
 サイコキネシス、ジュノーは目に焼き付けろ、と言った。その意味は――。
 ヒイラギは無我夢中で叫ぶ。
「デンチュラ!」
 ――デンチュラを宜しくお願いします。きっと、あなたを護ってくれる。
 スレートの言葉を思い出す。
 お互い、命じる技の名前は決まっていた。

「「シグナルビーム!!」」

 一か八の、最終決戦。
 三原色の光線同士が、互いの領域を侵犯しては押し返し、拮抗する。ヒイラギはデンチュラに鼓舞を与えるように叫び続けた。
「いけえええええええっ!!」
 ジュノーは腕で顔面を覆い、眼を細めた。互いの間合いに、三原色が被弾する。
 ヒイラギの足元にボールが転がってくる。
 敵の拘束をデンチュラが緩めてくれている。シグナルビームが消える前に、一気に決着をつける。
「ジュノーを倒せ! ミラーコート!」
 ヒイラギはノータイムで指示を繰り出した。これまで培った戦闘技術の全てを駆使して、この戦いを制する。それだけの気迫をもってヒイラギは命じた。
 カメックスの地響きが部屋を揺らす。無機質な処刑場に命が灯されるがごとく。襞をつくったカーテンが、オーロラ状に広がった。三原色の光線・シグナルビームは、オーロラが消失するように天空へと舞い上がる中で吸い込まれていく。
 ジュノーは何が起きるかを察した。吸収されたオーベムの技は、「そのままの効果」をもって、持ち主へと跳ね返る。
 ジュノーとオーベムは、まともにこの応酬を喰らい、まるで断末魔のような叫びをあげた。
「馬鹿な」

「馬鹿な――」

 勝った。
 光には、光を。
 ジュノーの言葉から、視界に干渉する技が決め手だと読み取った。ヒイラギは光の技の勝負に持ち込んだ。
 シグナルビームは部屋全体にかけられたまやかしを解く。敵の正体が暴かれる。
「『オーベム』……」
 ヒイラギは勿論知っていた。
 記憶を改竄するポケモン、ビームを反射され、青のアイマスクが点滅している。
 アクロマとスレートの記憶改竄は、オーベムの能力を介して行われた。そして、ジュノーの手持ちであるオーベムは、ヒイラギからスナッチャーの記憶全てを奪い取ろうとしたに違いない。
 そのようなポケモンを司令官が所持していたという事実、これこそ、ヒイラギが身を犠牲にしてでも追い剥ぐべき、たった2割の勝率。

「まさかこれほどの戦士だとはな」

 ヒイラギは司令官ジュノーを倒し、その先にある「真実」を見た。
 第一に、悪寒が襲い掛かる。目覚めさせてはならない怪物を目覚めさせてしまった。シグナルビームの反射がこのような結末をもたらすとは、思いもしなかっただろう。
 ヒイラギの代わりに、ジュノーの記憶が改竄された。その衝撃は、司令官という立場に甘んじていた彼本来のスペックを呼び戻す。
 カメックスとデンチュラの方を振り返る頃には、再度硬直の術を施されていた。
 既に致命傷を負ったはずなのに、オーベムは俯きざまに電気信号を送る。
 五感の「封印」だ。
 エクリュが口封じされ、言語発声能力を失ったのも、このためだと直感した。
 ヒイラギもまた、五感を統御する波導に干渉され、相手の気配を察知出来なかった。だからオーベムの対処に遅れた。
 ジュノーは部屋に罠を仕込んでいた、当然ながら敵は一枚上手だ。
 それ以上に、信じがたいのは。ジュノーの波導に明確な悪意が宿っていくのを黙って見過ごすしかなかったことだ。
 味方の立場なら、彼の秘匿もまた神秘性という個性の範疇に受け止められた。
 予めこの敵意を察知出来れば、内通者だと断じるまでに一切の妥協は無かっただろうというほど、別人への豹変ぶりを見せる。
「これほどの『悪』の波導を、どこに……」
 ジュノーは内通者として送り込まれ、司令官という責任あるポストに就いた。敵の重鎮であることは間違いない。
 ヒイラギが知り得る情報で、該当するものがあるとしたら――。
「ジェイ・ツー……」
 Jの分身にして、Jの背後で蠢く、もう一人のJ。
 引っ繰り返った形勢を覆す奇跡は、さすがにもう訪れない。
 彼のポケモンは戦場で暴れる傭兵と比肩するほど強く育てられている。カメックスとデンチュラも相当な実力、それを二匹まとめて相手どれる超能力、切り返しの速さ、対象範囲の広さ、どれをとっても一流の仕上げだ。
 ジュノーが戦場を渡ってきたというのは事実だろう。ヒイラギが最終局面に辿り着いたからこそ、内通者は本気で迎え撃たねば、やられるのは自分の方だと危惧したに違いない。
 スナッチャーを内部から破壊しようとした男を目前にして、ヒイラギは文字通り手出しが出来なかった。
 やれるだけのことは、やった……。
 オーベムがシグナルビームを練る。恐らく、零地点、それ以下まで戻されるだろう。
 光は影を照らし出す――ヒイラギが解き放った意地の一撃は、影を表の世界に引きずり出すところまでは成功した。後は託すのみだ、バトンは既に渡してある。
 オーベムは二本の腕を、ヒイラギとカメックスに向ける。刑の執行が下るように、記憶をねじられ、操作されていく。
「ジュノー……!」
 ページが恐るべき速度で燃やされていく。火は燃え移るのが早い。
 ヒイラギは渦の中で手を伸ばすように、言葉を絞り出す。
「おまえが、どれだけ記憶を弄んでも……」
 ジュノーには戦士の断末魔にしか聞こえないだろう。それでも、彼は叫ぶ。

「消せないものは、あるぞ……!」

 その時、ジュノーは、かつて自分に刃向かい、同じ運命に陥った男の名を思い出す。
「アクロマと似たようなことを……」
 
 *


 ヒイラギはジュノーとの死闘の末に、記憶を改竄された。ヒイラギの行方を追って地下塔に潜入したプラズマフリゲートの手助けを経て、命からがら脱出を果たしたのである。あの、J2を司令席に残して。

 一気に30もの記憶を脳に叩き込まれた疲労は限りなく大きい。
 身を投げ出してしまいたかった。しかし、ヒイラギは戦場で倒れた者を抱きかかえ、必死に呼びかける側の人間だった。そんな彼自身を受け止めてくれる者は、誰一人いなかった。

 きっと、今回も――。

 還ってきた傷心の戦士を迎え入れる、無条件の温もり。体のつくりそのものが、あらゆるところが違っていて。
 これが欲しかったものなのか。
 ヒイラギはイトハの腕の中に身を沈めた。締め付けられても、痛くない。彼と彼女の腕力はあまりにも差があるから。
 安堵がきっかけとなって、ヒイラギは真っ先に己を責める。
「どうして、……どうして……忘れた……」
 この暖かさを。
 仕方のないことだ。人間の努力や抵抗でも、どうにもならない絶望を突き付ける。それがネオロケット団の恐ろしさでもある。
 イトハはイトハで、初めて見るヒイラギの表情に困惑する。
「クレオメ」という女性名詞はおそらく、オツキミ山でも話に出たヒイラギの元恋人だろう。
 イトハはヒイラギに、チームメイト以上の感情を持っていない。あくまで、ビジネスパートナーだ。彼に対する渇きや飢えのようなものはすべて、戦友意識がもたらす一時的な錯覚に過ぎない。
 でも、何故。
 やっぱりむかついてきた。
 心無い言葉を投げつけられたから? いつの間にか、チームの未来を背負わされたから? それらはヒイラギとイトハが二人で抱えると決めた負債だった。
 ヒイラギがイトハに弱さを見せたくなかっただろう理由と同じで、イトハも今の自分を幸い見られずに済んだ。彼とは吐息すら交わる距離にあったが、この小賢しく狡猾な部分を見られたくなかった。
 きっとこんなことばかり考えていると、ヒイラギは、波導の違和感に鋭く気付くはずだ。
「おまえ――」
 だから、とんっ、と。
 軽く突き飛ばした。
 イトハはさっきまでの体温を嘘のように手放し、髪をさらっと流す。
 ヒイラギは一体全体何が起きたか理解できず、ホオズキは思わず吹き出していた。
『何か要らんこと言ったな』
 ホオズキにからかわれ、ヒイラギは過去の自分がしてくれた失言に参る。
 イトハは若干眉をひそめた。
「……覚えてるの?」
「ああ……」
 彼は、無意識の自分が口走ったことをとてつもなく後悔しているだろう。少し苦しめばいい、とイトハは思った。
 それでも湧き上がるのは、喜怒哀楽を全部混ぜて、ぐちゃぐちゃに壊したような均整のとれない感情だ。いなくなったら、怒ることも出来やしないのに。
「寂しかった。生きてて、良かった。もう会えないかと思った……」
 イトハが背中を向けて、両手で顔を覆いながら紡ぐ嗚咽ひとつひとつに、ヒイラギは耳を任せていた。
 言いたいことが混ざっているぞ、とヒイラギは苦笑交じりに突っ込みかけたくなるのを抑えて。
 ヒイラギも話したいことはある。一刻も早く伝えるべき本題もある。
 しかし、何か言おうとしても、あの複雑な感情の奔流に半端な気持ちで立ち向かえば、たちまちそのパワーに押されてしまうだろう。
 迷いながら、どうにかして振り向かせたかった。ちゃんと顔を見たかった。
「ただいま」
 イトハは、ごくごく、普通に返す。
「おかえり」
「おまえのおかげで、おれは道を見失わずに済んだ」
 どう末尾を結ぶか、見切り発車だと言った後に気付く。

 ――……どこにも、行かないよね? 

 海底神殿での切実な問いかけ、あの時は返事出来るような状況ではなかった。しかし、今なら、もう去ることはない。これ以上、記憶改竄などという悪意に、負けはしない。
「おまえのおかげで……。どこにも行かず、済んだ」
「……なんだよ、それ」
 見慣れた、少しの間、見逃していた表情。泣いて笑って、ようやく彼女は応えてくれた。
 丁度、ポケモンセンターに残っているカメックスとサーナイト、ドンカラスたちも、再会を祝して、頷き合った。

 プラズマフリゲートの迎えが来た。甲板に黒装束の男が立ち、肘を引っ掛けている。
「独断専行、命令違反、組織追放、全ておまえのミスだ。取り返せ」
 ホオズキは言外に、遅いんだよこの野郎、という小言を張り付けて現れた。
「ああ」
 グローブを二本指で引っ張り直し、口端を柔らかく緩め、歩み寄る。
「波導使いヒイラギ、只今帰還する」

■筆者メッセージ
次回、「悪の出現」
はやめ ( 2019/02/21(木) 19:44 )