Phase 35 始まりの色に、黄色い花が咲く
「――わたしは、次の作戦が、スナッチャーにとって最後の戦いになると予感している」
「最後の戦い?」
むしろ始まりと言うべき局面で下す判断とは到底思えず、ホオズキは語尾を吊り上げた。
サカキを危うく冤罪に落としかけたジュノーに向かい、帰還早々グリーンバッジを叩き付けた。ロケット団の思惑を超えた組織に、サカキは未関与だと伝えた。暗殺の必要性は微塵も無くなった。
挽回の策を用意する、そう言った司令官の次なる一手は、果たしてネオロケット団に王手を打てるのか。
誕生の島任務を終え、数日後。
司令室への召集に応じるレンジャーは、覚悟していた時の到来を悟る。
「新たなスナッチャーを手配しました。名はマルバ。『波導使い』です」
モニター上の人物は、あからさまに機械的な装甲を纏う。
心臓を鷲掴みされた気持ちになる。
イトハの世界ではヒイラギこそが波導使いの代表であり、概念だった。彼ひとりしか波導使いを知らないがために、イトハの中の波導使いとヒイラギは等符号で結ばれていた。
しかし、究極、スナッチが使えれば、誰でも構わない。
個人に対してとことん思い入れも執着心も無いジュノーに対し、内心、軽蔑をぶつける。
「マルバとの合流のため、マサラタウンに向かってください」
「それが今回のミッションか?」
「いいえ、次の任務はシロガネ山で行います」
スナッチャーのラストミッション――シロガネ山はそれを飾るにふさわしい舞台だろう。
何せ、金vs赤、ポケモントレーナーの両雄が頂点を決めるために激突した場所でもある。そういった真偽のおぼつかない話がどういう経路を辿って伝播するのか、シロガネ山の「聖地」を巡って屈強な野生のひしめく地にわざわざ物見遊山に来る者さえ後を絶たない。元来は、リーグ公認バッジ16個を有する者でなければ、立ち入ることさえ許されなかった。
近年のシロガネ山はまるで角がとれたように一般人を迎え入れる観光地という方向性へシフトした。かつての選ばれし者だけにとっての限定性は失われ、舗装され開けた観光ルートが大人しく客を待っている。
ただし山頂となれば話は別、治癒効果の顕著な秘湯の辺りは、一般人が立ち入れば命の保証は無い。
「そこに、ネオロケット団とおぼしき勢力が結集し、伝説の鳥ポケモン・ファイヤーを狙う動きを捉えました。あなたがたには捕獲を阻止してもらいます」
溶岩に浸かり、消えかけた翼を再燃させる鳥ポケモンは、たちどころに効能を発揮する秘湯に惹かれるのか、翼を休める先として選ぶという。
シロガネ山や灯火山といった熱源に姿を現し降り立つ伝説は、動きの周期性から捕捉されやすい。よって、スナッチャーによる保護が必要だ。
そして、ここからが大事と告げるようにジュノーは一拍置いて改まる。
「今まであなたがたには、沢山の任務に赴いてもらいましたが、今度の任務には敵組織のボスが姿を見せると情報を得ました」
ボス直々のお出ましというわけだ。ネオロケット団というJの背後が露見した今、スナッチャーを早々に叩こうというプランまでもが明け透けだ。だが思考を転換すれば、好機に他ならない。
「ここで敵の頭を叩けば、戦況は一変します。組織の力を一気に疲弊させることが出来る」
ジュノーは高説を唱えるように、力強く、喉に込めた。
「それだけ重要な任務の前に、ヒイラギではない新メンバーを投入する、その判断は正しいのか」
ホオズキの疑問はもっともだ。チームワークが完成しきる前に離脱したヒイラギの前例もあり、波導使いは曲者のイメージも強い。スナッチャーにすぐさま適応出来る戦士でなければ任務もリスクを孕む。
「新たなスナッチャーはカロス地方の南部紛争地域で戦っていたところを招聘しました。実績で言うなら、ヒイラギよりも上位の戦士ですよ」
実力は司令官のお墨付きだ。しかし、ホオズキは、ジュノーが件の戦士に全幅の盲信を置いていることを訝しみ、鋭く切り込む。
「なら、その戦士にもミュウを見せるべきだ」
ホオズキの提案にはイトハも頷く。
ミュウの可視不可視は、スナッチャー全体を貫く信頼の要素となり得た。同時に視えないことが不信を呼び起こす。
スナッチャーがミュウを保護したとあれば、参画する人物が白に値するかどうかを確かめるのもまた道理だ。
「この間のミュウに誓って、わたしはあなたがたの潔白を信じることに致します。ですが、マルバが清廉とはまだ限らない……その説は一理ある。いいでしょう、ミュウはホオズキ。あなたに任せます」
司令部側からミュウを引き剥がすことが出来れば、内通者の解明にも一役買ってくれるだけでなく、ホオズキとしても行動範囲が広がる。ジュノーは諦めたように庇護下の幻種をホオズキへと一任する。この一言を引き出せたのは大きい。
暗部の輸送ヘリが真っ白な原に淀みをもたらしながら着地する。大樹がずしりと根をおろすような重みをもって、搭乗機のエンジン音が切られた。
着陸に伴う振動は草原を払い、旧友との再会を待ちわびる研究者の白衣を靡かせる。ヘリのドアから、忘れもしないキャスケット帽と黒衣が覗き込んだ。
「久しぶりだな、ユキナリ」
「ホオズキ。ホオズキなのか」
歳を取り疲弊の張り付いた顔も、昔を思い出せばすぐに元気を取り戻した。
組織の縁が縁の切れ目とはならず、それからも旧交を暖め続けてきた。ホオズキにとって、タマムシ大学名誉教授にしてカントーきってのポケモン博士オーキド・ユキナリは……心許せる友のひとりだ。
ホオズキは親指で、後続を示す。
「連れがいる。入れるか」
「少し待っとれ」
一方、髪崩れを気にしながら出てきたイトハは、ホオズキの意外な交友関係に知ってはいたとはいえども驚きを隠せない。
ブラウザ機能の恩恵に与るレンジャーからすれば、貢献者にも等しいからだ。事実、ユニオン顧問のシンバラ教授が開発したキャプチャ・スタイラーの一部には、ポケモン図鑑をリスペクトした生態捕捉モードが搭載されている。
ポケモン図鑑を世界で一番最初に開発したのはオーキド博士だ。イトハからすれば、言葉を交わすだけでも壁のある功労者だろう。
「あの人って、ポケモン研究の権威……」
「オーキド・ユキナリ。ふたを開けてみればただのポケモン愛好家だよ」
オーキドは、普段は遠い耳をそこだけそばだてたのか、胡散臭そうな紹介に我慢できず振り返る。
「余計なことを言うな!」
「ジジイ、とぼけてやがるからな。なにがポケモンは151匹だ」
「いいえ、博士の説は正しかったわ」
意外な擁護者が現れる。ちょっとした戯れのつもりが、うっかりレンジャーの辞書をめくってしまったようだ。
イトハは学術論文を読み上げるような流暢さで諳んじる。
「ポケモン起源説が発表された当時、カントーと諸国の国交は薄かったし、研究体制も今ほど整ってはいない。つまり、各地方の博士号取得者が、それぞれ自分達の地方にいるポケモンがすべてだと思っていた。しかし、それはデオキシス論文によって、ポケモン宇宙発生説を求めることで、ポケモン最大数に関する議論は止んだ」
ホオズキがあっけにとられていると、ぱちぱちとたった一人、小講義を拝聴した人物は拍手を贈っていた。
「よく勉強しておる。氾濫する時代錯誤な情報に惑わされず、常に疑いの目をもって真実を探究しておるな。学徒に欲しい姿勢だよ。名前は?」
「イトハです。トップレンジャーをしています」
「おお、トップレンジャー」
オーキドが握手を求めると、イトハは光栄ですと両手で挟みながら笑顔で応える。どうやらこの二人は波長が合うらしい。
「見たかホオズキ。おまえとは違うぞ」
「こいつの本性を知らないでよく言うぜ。とんだ食わせものだぞ」
したり顔というかニタリ顔というか、ホオズキは遊びがいつまでも抜けない御老公の軽口に軽口で返す。
「ちょっと。本性ってなに?」
今度は違う方向から小突かれる。いい加減面倒になったホオズキは口を半開きにしながら明後日を見上げた。
「ねえ」
微笑ましげな視線を投げつつ、オーキドは一足先に研究所へと戻る。
「お茶の準備をするから、待ってなさい。それと、客人が待っておるぞ」
ドアノブに手をかける前、イトハとホオズキは、この廊下の向こうに「もう一人の波導使い」がいる事実を改めて噛み締める。単なる新顔との初対面、にもかかわらず、尋常でない緊張が彼等を取り巻く。
扉を開いたが最後、世界は一気に変わる。
向こうのオーラが扉の隙間から漏れ出て、それで萎縮するような気さえした。ヒイラギと共に任務を遂行してきた二人は、波導使いの強かさ、そして恐ろしさを既に熟知している。
「相手は波導使いだ。こちらも心を試されている。隙は見せるな」
「了解」
「行くぞ」
短く切れ端のように告げ、一気に開く。
指を組み、肘を膝につけ、背筋を丸め、大物の如く鎮座する。客を待たせる椅子は玉座という役割に変わり、戦士の来訪に備えて設えられたものとしてあった。そうでなければ研究資料の棚がひしめく日常空間は、不釣合いがすぎる。
生身の肉体は死地に置いてきた、暗に告げる橙色のアーマー。人の皮にそのまま鎧を着せた輪郭は思いのほか、まだ人間としての有様を残している。
ポケモンでも人間でも、初めて会ったときには相手の顔を確認し、安堵か警戒のどちらか両極端な感情を抱くものだ。マルバはそのコミュニケーションを断っている。人の吐息でマスクがくぐもることもなく、正体を悟られないよう機械と一体化したボディ。背中から羽ばたくマントとも似つかぬ衣が椅子にまとわりつき、鎧を魅せる。
第一印象は、命を機械に預けた人間。
「コードネームは」
「『チーム・スナッチャーNo.003・マルバ』だ。カロスより派遣された」
003――元はといえば、ヒイラギの番号だ。新たにマルバがここへとナンバリングされ、以降イトハとホオズキはこのマルバとミッションを遂行していく。その資格があれば、の話だが。
「では、マルバ……入団テストをします」
波導使いは一ミリも微動だにせず、イトハの非情な宣告を受け入れる。
言われた通り、ホオズキはボールからミュウを繰り出した。ミュウが視えなければマルバは失格だ。
もし、ジュノーがミュウの容姿を予め伝えてあったとしても、メタモンのように「変身」を使って誤魔化す。誕生の島ではメタモンがサカキの銃やオニドリルに化けていたが、今はミュウがオーキド邸の庭で見かけたフシギダネに化けている。しかし、実態は幻のポケモンそのものであるため、要件を満たさなければ邪な気持ちで覗くことは叶わない。
イトハは問うた。
「あなたの前に、今。何が見えますか」
「ポケモン……『フシギダネ』だ」
マルバが音声を発すると、マスクの模様に電光が走った。ピシャリと正解を言い当てるように瞬く。
現スナッチャー両名は目配せし合う。
嘘はついていない。
ただし、最悪の場合は何通りも仮定できる。例えば、ジュノーがミュウの変身能力を予め説明したケース、オーキド邸で管理するポケモンの数まで把握しているとは考えられない。ミュウという神秘存在を出し抜く方法を持っているとも考えがたい。マルバの波導は紛れもなく本物であって、そこまで邪推することはないだろう。
ホオズキはひとまず、キャスケット帽を脱ぎ、出会い頭の無礼を詫びる。
「いや、これは突然に失礼した。なにせ、前波導使いがとんだ厄介者でね」
「心を試すのは波導使いとて同じこと。案ずるな」
マルバの思慮ある返答に辛うじて救われた。空間に煮詰まっていた緊張は、窓から出て行くようにほどけていく。
「話は聴いた。事態収拾に向け、任務を遂行する。戦士の志は古今東西等しきものだ。そのためここに来た。少しでも力添えしたいと考えている」
「改めて、トップレンジャーのイトハです」
「元ロケット団のホオズキだ」
二人は順番に、マルバと握手を交わしたのち、促されて着席する。
タブレットに記述されたマルバの詳細プロフィールを閲覧しながら、ホオズキは簡潔に問いかける。
「カロスで、波導使いの任務を?」
「左様。カロスでは三千戦争が起きたことは、そなたらも御存知だろう」
「古代兵器によって終結したといわれる……?」
カロス地方の歴史を語る上で、大昔の戦争は避けて通れない。イトハとホオズキの知識レベルを把握しつつ、マルバは淡々と解説した。
「そのとき撒かれた種は今でも遺恨を残す。故に、カロスの南部ではまだ紛争が絶えぬ。北部は今やKallos――すなわち美を体言する地方となったが、南部の状況はほど遠い。我は紛争の中で慈善活動を行う団体と協力し、鎮静化に務めてきた」
「その体も、紛争地帯の任務を乗り切るための武装ってわけか」
「生存率を上げるためには最適な鎧だ」
マルバは、アンバランスに膨張し気味の肩部を示す。
波導使いの右半身は、おぞましいウイルスに侵されるかのように、取り付けられた機械がガッシリと固定されている。
「この、スナッチマシンについても承知している」
「『マシン』か」
納得までに妙な間が空く。
「いや、前回の担当はグローブだったもので」
「戦士によっても適する形は違う。我の場合、鎧との親和性が高い」
マルバの厳めしい外見は、意図せずして威圧感を与えかねないが、一パーツずつの理屈をふまえれば、戦闘用アーマーとして過不足無く、それほどけったいな格好ではない。
隣席からタブレットを渡される。プロフィールの隅々まで素早く目を通すイトハは、一箇所で手が止まった。
「所属はなんという団体に?」
「『黄色い花』という」
「黄色い花……」
赤い絆の輪が広がれば
青い我等の星の希望が輝き
黄色い花が咲く
「これが、黄色い花の事業理念だ。絆の輪を広め、争いをなくす。この星の希望となるべく、活動を行っていた。黄色い花とは一時的に協力しただけで、その後彼等がどのような理想を実現させていったのか、我には推し量る余地もない。上手くいったことを願うばかりだ」
イトハはそれ以上追及点が浮かばなかったのか、タブレットをホオズキに返却した。
「手持ちの情報も確認しておきたい」
「よかろう」
マルバはテーブルに、モンスターボールを置いてみせる。
「拝見します」
「我の手持ちは『はどうポケモン ルカリオ』だ」
初回ミッション後の会議で、ヒイラギは一族の特徴を解説していた。
波導使いは、主にリオルやルカリオを育て、任務に駆り出す。マルバは世間一般の波導使いイメージと違わず、ヒイラギのカメックスよりは、こちらがメジャーな手持ちである。
よくよく観察すれば、スナッチマシンにも、中核を構成する眼球のようにメガストーンが組み込まれている。
マルバもまた、メガシンカを操る戦士なのだろう。これだけの条件が揃っていれば、スナッチャー構成員として参画することは無理ないどころか、充分すぎるように思われる。
しかし、ホオズキは諸手を挙げてマルバを絶賛するほど、お人好しではなかった。
次なるミッションまでの待機時間中は研究所内に限り、自由行動が許される。
各々が英気を養う中、ホオズキは昔のよしみから、仕事中のオーキドを訪ねた。
「ユキナリ、すまん。ひとつ頼まれてくれないか」
マルバの波導は疑いようも無いが、念には念を入れ、ホオズキはたったひとつの懸念事項を伝える。
「どうした」
「あのマルバという波導使い」
「疑っておるのか」
「マルバが関係していた慈善団体『黄色い花』について調べてくれ」
組織には裏がつきものだ。
ホオズキが知りたいのは、黄色い花の表面的な情報ではない。おそらく、マルバは一時的な交流を持っただけに過ぎず、プロフィール以上の情報を引き出すことは不可能だろう。ならばこちらで動く。
友人を巻き込むのは心苦しいが、ミュウツーの研究で一緒にロケット団へ反抗したことを考えれば、今更咎められる縁でもないだろうと甘えてみる。
オーキドはやれやれと溜息をついた。この男が何も手土産を持たずにやって来たことは無い。
「分かった」
「すまんな、巻き込んで」
「こうも有名になると、迷惑な話ばかり飛び込んでくるからの」
ホオズキは失笑でこの話を終わりにした。すると反面、オーキドは真面目な顔つきに戻る。教授モードだな、と感じた。
「それと……ミュウを捕獲するとは、驚いた」
「そういう任務だったからな」
オーキドはパソコン作業の手を止め、回転椅子を話し相手の方向に合わせる。
「わしが図鑑完成を託したトレーナーは、149匹のポケモンを記録し、図鑑を完成させてきたよ。それでも、ミュウツーとミュウを記録することだけは叶わなかった。見つけられなかったんじゃよ」
オーキド博士からポケモン図鑑を貰い受け、旅に出た三人の少年少女がいる。
一人は強さを極め、一人はトレーナーの模範となり、一人は気ままに旅をしているそうだ。その中の一人は、オーキドの宿願を叶え、データが埋まった図鑑を満面の笑みで見せてきたという。
しかし、そんな話はホオズキにとってはどうでもよかった。
「149匹を捕獲した主人公と、2匹を目撃した悪の組織ってわけか?」
昔から、こういう皮肉癖は直らない。オーキドはある意味、愛嬌だとも感じていた。最初から悪意を持っているわけではなく、ホオズキ自身の自動的な卑下がレッドをこう評価させてしまうのである。
だが、レッドにもまた、潰れそうな時期があったことをオーキドは思い出す。
「主人公か……。確かにそういう子だった。だがなタイタン、おまえが今いるチーム、もしかすると化けるかもしれんぞ」
ホオズキはそのとき、オーキドが何を言わんとしているのか、見知ったふりに努めているようで、実のところ、何ひとつ真意を得てはいなかった。
イトハは、研究対象として世話されるポケモンたちを、のんびりと眺めながら見て回る。せっかくオーキド研究所に来たのだ、楽しまなければ損である。
ポケモンレンジャーには24時間あっても足りないスペースだった。独自の生態系が確立されており、何者もそれを乱しはしないような仕組みが整えられている。
自浄作用というべきか、群れや似た種族ばかりではなく、例えばベイリーフやヘラクロスといった全く生態の異なるポケモン同士でも、きちんと交流が保たれているのは純粋に感心すべきポイントだ。
研究所という檻の中であっても、ポケモンたちが快適に暮らせるよう、かつて住んでいた場所と変わらない景観を用意し、食物・気候までも可能な限り、再現している。
果樹園に入り、ドードリオが木々の隙間から興味津々な様子でくちばしを順番に突き出してくるのを、イトハは優しく人差し指で触れてやった。
ビニールハウスの天井が揺れ、おどろおどろしくはためいたかと思えば、カイリューが郵便配達に出発したところだった。
本当にたくさんのポケモンたちがかつての生息地とは違う場所で、のびのびとした日々の暮らしを送っている。
「ここは良い場所だな」
入れ替わるように、マルバの鎧が生活音と変わらない程度の音量を立てるも、ポケモンたちを急に驚かせないよう最大限配慮していた。
「そうですね」
「戦の無い世界は想像しがたく、得難きものだ」
その一言を聴いて、マルバはこれまで夢想も許されない、ただ現実だけが襲い掛かる場所にいたのだと察する。
スナッチャーの任務を必死に生き抜く最中のイトハにとっても、この一時は激動の中に訪れた僅かな楽園だった。ホオズキがあんな風に笑うところを見られたのも収穫だ。
「ここには、殺意が無いんです……。敵意も、喧騒も。いつの間にか、それが在ることを当たり前だと思っていたけど」
「恐怖の中に身を置き続けることで、恐怖はやがて薄れていく」
イトハはそのとき、マルバの内にヒイラギを見つけた気がした。
当然、ヒイラギはどう足掻いても行方不明のままだし、マルバが鎧を脱げば実はヒイラギだった、という陳腐な展開など来ない。
マルバはイトハのフリーズに戸惑うこともなく、心配しているようだった。
「どうされたか」
「いや、前のチームメイトと似たようなこと、言ってるなと思って」
ホオズキに聴かれたら、いつまでいなくなった元同僚に情をゆだねているのか、切り替えろ、と叱られもしそうなものだ。
イトハは確かに、海底神殿の別れの瞬間、もう二度と会えないかもしれない未来を割り切った。
だが、マルバは逆に歩み寄り、閉じ込めていたものを、そっと開けようとする。
「聴かせてはくれまいか。その、我の前にいたという波導使いのことを」
研究所を一周しながら、当たり障り無く、ヒイラギの話をした。彼がいかに問題児であり、強く在り、脆弱だったか。本当に、かいつまみながら話した。
マルバを相手にしても、もちろん、内通者に関わる事柄を漏らすほど、愚かに口を滑らせたりはしない。
小高い丘までやって来た。ツタージャがそろりと草を縫って移動する様を目で追う。アサナンは精神統一に励み、ヒメグマは手のひらについた蜜を舐め取っていた。
マルバは日を望める位置に立つと、イトハに「ヒイラギという波導使い」への感想を返す。
「もし出会うことがあれば、その波導使いと我はきっと、志を同じく出来るだろう」
マルバはヒイラギに何らかのシンパシーを感じる要素があったようだ。それは、波導使いとしての在り方か、はたまた戦いへと赴く姿勢か、聴いてみたいという好奇心がはたらく。
いっそ、こう尋ねてみたくなった。
「マルバは、波導の勇者になりたいと思いますか?」
「勇者とはなるものではない。その行いが結果として勇者足らしめる。そなたの、レンジャークラスのように」
研究所の門前で、二人が帰ってくるのを、ホオズキは待ちわびていた。ジュノーがこれから任務概要を説明する。スナッチャーにとっては、これが最後になるかもしれないミッションだ。
先に帰ってきたのは、マルバだった。随分と長いこと外を散策していたようだが、イトハと何を話していたかが気がかりだ。
帰宅直後、すれ違いざま、ホオズキがそれとなく尋ねる。
「何の話を?」
「『勇者論』だ」
「なるほど、おれじゃ単位は取れないな」
「そんなことはあるまい」
「御世辞はごめんだ」
ホオズキという人間を知らないマルバには、何が機嫌を損ねたのか、分かるはずもなかった。