Phase 32 非力な償い
思わぬ、或いは必然の登場に、フーディンは目をぱちくりとさせた。情報の海の彼方にいたはずの首領がいる。誰もが崇め、足元に跪き、恭順の意を表せる、という幸せを噛み締めさせるだけの男が。
だが、フーディンは熟知している。携帯獣を文字通り携帯し、使役する――ポケモンの存在意義を上記に一括して豪語する――この人間に、ポケモンへの慈悲などという感情は存在しない。不要とあれば切り捨て、邪魔となれば始末する。
フーディンはサカキに畏怖の念を恭しく示し、テレポートにてその場を後にした。
「まだこの場所にも、ポケモンがいたか」
サカキはフーディンを、実に懐かしそうに見送る。だが、かのボスが郷愁に浸る時間を打ち切ったのは、かつての部下だ。
「フーディンに変調をきたしたのは、おまえではなさそうだな」
「無論」
サカキは横柄な態度で、その必要性が無いと言い切る。今度はイトハが訊ねた。
「裏切り者、と言ってましたね。『この島に来てから裏切り者を目にするのは、これで二回目だ』――あれはどういう意味ですか?」
「言った通りの意味だ」
いちいち、そこまで指を運ぶのも面倒そうに、サカキは特定人物を指し示す。
「一人はそこにいるだろう」
元首領の口から、組織の叛逆者として断定されたのは、他の誰でもないホオズキだった。チームメイトに浮かぶ、困惑と納得が、手に取るように読み取れる。
鎖をがんじがらめにして、その上、鍵を何重にもかけた封印は、今日まで大事に持ち歩いていた秘密だ。サカキは、土足でホオズキのテリトリーを荒らし、イトハに未知の事実を暴露していく。現在という武装は、過去という一撃の前には、敵わない。
「タイタン、味方を欺くのは、相変わらず得意だな」
「余計なことを吹き込むな」
ホオズキは単に、嫌悪と侮蔑をかつての師事した男に向けるのみ。味方を欺く、というサカキの言葉選びがなんとも嫌らしい。
「ホオズキ……」
先程まで、少しでも、共に戦ってきた感触を実感出来たのに、また距離が遠ざかってしまった気がする。
本来ならば、ミッションをスマートに遂行するための精鋭同士に、馴れ合いは不釣合いだ。
彼、ホオズキが、根っからの悪者でないことは、出会った時からおのずと分かっていたはずだ。常にチーム全体を俯瞰し、一歩退いた目線とアドバイスで、ヒイラギとイトハをフォローしてきた。皺と顎髭には憂いが帯びていて、年輪を刻んだ落ち着きが漂っている。
先までも、イトハをミッション中ずっと案じていた。彼はまるで、実の娘に与えるような目線を、イトハにも配っていた。
正体不明の壮年にチーム間の情ごときで心を許す、得策とは言い難い。けれども、突き放されて傷付く自分がいる。イトハ自身の心に対して正直になれば、ホオズキはもう少し味方として頼ってくれればいいのに、と思う。
「それが『今の』貴様の名か」
サカキは、イトハの呼ぶ名に反応する。与えられたコードネームを捨て、含蓄の無い名称に固執している、と言いたげに。
「黙れ。今更何をしに来た」
「もう一人の裏切り者の、始末だ」
サカキの矜持に満ちた台詞回しの中で、末尾だけが気弱な音を放つ。
「自分の組織で起きた過ちは、自分でけじめをつける。それが、部下に対する、せめてもの償いになる」
サカキの口から「償い」という言葉が飛び出すとは思ってもみなかった。
償いとは、犯した罪に対して、金品や行為で埋め合わせをするという意味だ。罪という道を歩いたサカキから放たれれば、天秤が釣り合うどころか、壊れてしまう。
しかし、彼は真剣だった。ヒイラギがその場に居れば、即座に肯定するほどの凄みをもって、「償い」という無力感を口にする。
「この島に潜伏しているのは、元ロケット団なのか」
サカキは厳かにうなずく。
「わたしの部下が、敵に寝返ったという情報を聴き、ここまでやって来た。気付いているだろうが、この一連の事件、我々ロケット団の、かつての動きを模倣しているように感じられる」
ホオズキも薄々勘付いていたし、第一回・暗部会議でも、その懸念は指摘された。
シルフカンパニーの侵略を、十年前と寸分違わずに再現したことは、言うなれば、ロケット団に対する不遜な挑戦である。
「そして、このわたし自身も命を狙われている」
サカキはカラマネロに狙われ、返り討ちにこそしたが、少々厄介な遠回りを強いられた。
かつての首領の苦心を、ホオズキは、ざまあみろと、心底愉快そうに笑い飛ばす。
「天罰だ」
「そうだな。どうやらわたし以外にも、この戦いに首を突っ込む部外者がいるらしい」
サカキの眼の色が変貌した。
銃口を据えられているにもかかわらず、カバルドンは地均しを実行し、ホオズキ側の地盤を揺るがす。
地面タイプのエキスパートと震動は友人関係にある。ホオズキが狙いを外す一方で、サカキは安定しない条件下の照準を見事正確に突きつけた。
いつ撃たれるかも分からない緊張と静寂の中で、当たり前のように繰り広げられていた大人の交渉は、決裂する。
以前カラマネロを死の淵に追い込んだサカキが銃を向けるということは、淀みない敵意の表れだ。
かつて寵愛したはずの部下にくれてやる一瞥には、光が宿っていない。
「ホオズキッ!」
イトハは規格外の敵と鉢合わせ、叫ぶことでしか無力感を解消出来なかった。
ホオズキがフーディンの記憶で辿り着いた、ヒイラギ除名の夜。
一匹のポケモンが、ホオズキの下に命からがら逃げ出してきた。今にも蒸発しそうな王子を迎え入れ、子をあやすよう、腕の力に気を払いながら抱き締める。持ち上げる時、アクーシャでのやり取りが蘇った。
「行きたいならそいつの所に行け。おまえを護る気持ちは本物だ」
「……ああ。だけど、おまえの所に預けた方が安心だ」
蒼海の王子は、ヒイラギに着いて行った。
ゴルーグの命を救われるという、半ばトレーナーからすると屈辱的な出来事の後では、そうすべきだと感じたし、無力な自分ではマナフィを護ることが出来ない、なら力のあるヒイラギに預けるのは正解だと退いた。
ホオズキの部屋に逃避してきたマナフィは、80%の水分で構成された体の上に、涙を上乗せしながら、助けを求めてきた。
単刀直入に、彼は事実を悟る。ヒイラギの身に何かが起きた、と。そして、ヒイラギ失踪の今、マナフィを護るのは今度こそ自分の役目であると。
サカキの二丁拳銃から高速で飛んできたモンスターボールが鳩尾に突き刺さる。そのまま角ドリルを回転させ、骨まで彫り抜く魂胆だろうが、ホオズキは敵の先手をこそカウンターのチャンスと捉えた。
喉に突き上げるような衝撃が伝わる頃には、ボールは高く空を舞う。白き外装を纏い、主人の命令を忠実に遂行するゴーレムポケモンが現れた。
幼少期、サカキに刷り込まれた戦闘技術が、思わぬところで功を奏する。
ボールが放たれ、ホオズキの元に移動するまで1秒。出現したポケモンがホオズキを押さえ込むまで1秒。計二秒もの余裕があれば、ホオズキは銃声と同時にゴルーグを召喚し、思惑を実行に移せる。
イトハは、ゴルーグのボディから、うねるような触覚が生えるのを見た。
ホオズキは口に出さず、波導使いが躊躇無く断行した勇気の後追いをする。
――ハートスワップ。
サカキの敵意は嘘偽り無く本物で、銃弾と化した紅白の球体から繰り出されるニドキングは、一撃でホオズキを貫こうとした。
無防備で戦場に赴く者はいない。ポケモンの攻撃に対処出来るよう、ホオズキは何重にも防具を重ね着込んでいる。それはヒイラギとイトハも同じことだ。
だが、発砲により加速をつけた攻撃となれば、体を後方の壁に打ち付けるまで吹き飛ばすほどの勢いを持つ。
サカキの体を乗っ取ったホオズキは、平然と立ったままでいる。代わりに体を押し付けられたサカキは、意識が戻った瞬間、自身のポケモンに引き裂かれるという苦痛を味わい、何が起きたかを理解させられた。
錯誤を狙ったのだろう。
自分の体が自分のものではないことには、すぐ気付いた。強制的に転移させられたような気持ち悪さを覚えつつ、もう一人の自分に目を向ける。
ゴルーグに指示を送ったとしても、従わないだろう。ゴルーグの内に宿る生命体が今の現象を引き起こしたから、向こうはからくりを当然熟知して使っている。
「やめろ。こっちが『わたし』だ」
サカキは至極、冷静に、ニドキングの誤解を解く。
強烈な一撃にも動じず、唇から垂れる血を無作法に拭う様は、ホオズキ本人とは別の貫禄を放っていた。
何故だかは分からないが、理解を超えた現象のもたらす因果によって、ニドキングは気付かぬうちに、あろうことか主人を貫く罠に嵌められた。
敵がサカキの体を乗っ取った以上、「ホオズキ」への攻撃は、「サカキの肉体」への攻撃となる。酷くうろたえた様子で、ニドキングは前後を確認した。
サカキとホオズキは、特異体質ではない。だからサカキ同様、ハートスワップ後、ホオズキの意識は明瞭だ。
カバルドンをモンスターボールに戻し、銃弾として装填し直す。手に入れたアイテムの動作を認識し次第、銃口を向ける。同時に、ゴルーグが手足を収納し、こちら側に襲い掛かってくる。
一般のトレーナー相手ならば、マジックのように鮮やかな逆転を得ることが出来た。しかし、百戦錬磨の男は、瞬時にくだらないトリックの種を見破り、対応する。
サカキはトレーナーを狙うことにした。
「腕に数針、毒針を撃て」
サカキの体に毒を回せという指示だ。
ニドキングは躊躇を見せず、背筋のラインに力を込める。背中の棘が毒液を滴らせ、流れるように紫の鎧を縫って、床に染み込む。溶解する音と、臭いとに分かれた。
一本の槍と化した棘を引っこ抜くと、ニドキングは毒素が敷き詰められたそれを投擲しようとする。肉薄したゴルーグのジャイロボールを、なんとか片腕で押し留める。
「加速しろ」
ホオズキが端的に命じた。ゴルーグはジェットを吹き上げ、ニドキングを少しずつ後退させていく。
応手を考える最中、ノイズが混じる。
『ニドキングがあなたの指示に従っているのは不可解ですね』
雑音ではなく手掛かりだった。
サカキはすぐさま、手のひらを開き、制止の合図を送った。ニドキングが肘を曲げ、槍投げの体勢で止まる。
『恐らく「心の交換」でしょう。彼は自分の立場を心底理解していないようだ……。わたしは、あなたをサカキだと仮定してお話します。あなたは、我々スナッチャーにとって障害となる敵です』
ホオズキの貌をとったサカキは、ほくそ笑む。敵で上等だと。
サカキは対話を気取られぬよう、出来る限り早口で、空気に溶けるように囁いた。
「部下を使って何をさせている?」
あの裏切り者が、こんなきな臭い司令官に仕えているのは、サカキからすれば、それこそ不可解だった。
『あなたがよくやっていたことですよ。破壊と殺戮、人間の営みで当たり前のこと』
「わたしを狙っているのは貴様か」
『彼等の命を奪おうとしたのは、あなたがたも同じでしょう。わたしは、彼を再利用する価値があると見込んでいる』
「部下のために死ねと。同情を売るなら無理な相談だ。わたしは奴に思い入れは無い。これ以上わたしを狙うなら、その首を近い内獲りに行ってやる」
サカキはジュノーに殺害予告を送り、ホオズキの通信機を放り投げ、ニドキングの毒針に打ち砕かせた。
ゴルーグの軌道がずれ、方向が逸らされる。巻き添えを食らったイトハが咄嗟に横跳びした。後は壁面を崩していくゴーレムが自滅するのを待つだけだった。
ニドキングは背中に生える内、上から二番目の棘を抜き出す。
自分を殺すために、か。健気で、涙ぐましい努力の賜物である。
部下を強くなった、と褒めたたえてやるには及第点だ。だからこそ、惜しいと思わずにはいられない。
ロケット団を裏切ったこと、そしてジュノーのような人間に、まんまと利用されていることが。
タイタンは抜きん出て有望な人材だった。サカキは、部下に満遍なく寵愛をくれてやるだけの器を持っている。それでも、ロケット団内のサラブレッドと称するにふさわしいタイタンには、特別目をかけていたのである。戦闘技術を一から叩き込み、若い内から作戦に参加させるなど、英才教育の数々を施した。
両親はマフィアの家系で、ロケット団の有力者たる血筋を受け継いだ。ゆくゆくはサカキを追い抜いて、次期ボス候補の一人には名を連ねる、と有望視されていた。
しかし、タイタンは、遠い過去からも、現時点のサカキに向かって銃口を向ける。それが、サカキの誤解した成果。タイタンの言う「育ててくれてありがとう」という感謝の気持ちだった。
わざわざ、生まれ持った素養と約束された将来や地位を拒絶し、満を持しての計画に泥を塗った。
「肉体を失っても良い、というそれだけの覚悟がロケット団『であった』時にもあれば、おまえは組織の重鎮に昇りつめられたものを」
サカキには到底分からない感覚だろう。
生まれた環境が違うだけで、普通が分からなくなる。タイタンはロケット団の器だが、ロケット団に向いていない性格だった。
卑屈で心根の優しい、自分の本当の名前さえ忘れてしまった少年。
暗黒街のゴミ箱を突いていたヤミカラスに餌をやって可愛がっていたら、そのうち懐くようになった。支給されたポケモンを使えと命令されていたにもかかわらず、こっそりと持ち帰り、秘密で世話をしていた。
ある日、ヤミカラスは改造された。
目玉の片方を黒い眼差しに変えるための実験だという。殺処分は免れた。ヤミカラスが無事、黒い眼差しを習得したからだ。
反抗的な子供に育てた覚えは無い、と親に言われる。何故は、こっちの台詞だった。何故、ポケモンを無闇に痛め付ける。自分は何故、銃を握らされている。
机の上に散乱する、名前も効果も不明瞭な錠剤に慣れ親しむ大人たちが、醜悪な息を吐いて、グラスを薦めて来る。
タイタン少年には、嬌声のパーティから抜け出して、道端で餌をねだる野生ポケモンを慰めている方が、いくらか気が休まるのだ。この組織をいつか抜け出してやろう、とヤミカラスのもとに通い続けた。
「身の丈に合わない服を着せられて、重鎮だと? こちらから願い下げだ」
「ジョークだ。裏切り者を惜しむほど、腐っちゃいない」
後者が本音なのを隠そうともしない。
「だろうな」
ニドキングがタイミングを見計らって、毒針を投げ込む。サカキの体を操るホオズキは、咄嗟に二丁拳銃を放り投げ、串刺しにした。中のモンスターボールは、開閉スイッチごと故障しただろう。
サカキは潜ませていた対抗手段を失った。
イトハは物音に気付く。ゴルーグが起き上がろうと、手のひらを瓦礫にかけている。
「おれはおまえと、おまえの作る組織と、それを馬鹿のように崇拝する連中が、何よりも嫌いだった」
「わたしの口を使って言いたいことは、それだけではなかろう」
「おれの人生に、おまえと関わったという汚点さえ無ければ」
もっと、ましな人生を歩めたはずだ。
言外のニュアンスは、言語化せずとも、痛いほど伝わってくる。
「わたしもおまえには怨みがある。我が組織の情報を、旅立ったばかりの小僧どもに渡し、裏から組織の壊滅に一役買った。自分を育ててくれた組織を、自分の手で終わらせようとした」
ミュウツー製造プロジェクトに参画した老齢の研究者と、タイタンは繋がっている。
その孫たちの代が、ロケット団を討ち果たした。齢10のトレーナーに敗れたサカキは、組織の解散宣言と共に、雲隠れした。
「親殺しの不孝者め。さぞかしヒロイズムに浸れたろう。え?」
犯罪組織の分際で何を偉そうに。ホオズキは本気で猛り立つ。
「自分たちを正当化しやがって。ロケット団なんぞに誇りも糞もあるか! 無くなるならそれが世界のためだ!」
彼はボスの前で、ボスの顔そのもので、ロケット団の価値を全否定した。全否定してもなお足りず、鳴り止まない音のように咆え続ける。
「潰されたのは、それこそ弱かったからだろう。おまえとその部下が、旅立ったばかりの小僧にすら及ばなかったんだからな」
どこまで煽るつもりだと、イトハはいよいよ肝を冷やす。
元からロケット団の件が絡むと、ホオズキは我を忘れる癖があった。まるで、この時のために、溜め込んでおいたような罵詈雑言の応酬は、声すら汚れて聴こえる。
「昔ならば首を飛ばしてやるところだったが。生憎、わたしも歳を取った」
喧嘩のとばっちりは、思わぬところから飛んできた。イトハは咄嗟にストリングスを引き、ニードルガンから射出された毒塗りの針を打ち落とす。地に降りたキャプチャ・ディスクは、静かに回転音を飲み込みながら踊り続ける。
反応が遅れれば、イトハは腕の一本を失っていただろう。
しかし、サカキは分かりやすく手を抜いた。撃ち殺すための引き金には、とてもではないが、当てはまらない。彼はほんの戯れのように、イトハに一瞥くれたのだ。
続いて、ニドキングのしなる尾を、ゴルーグの回転が払った。戦闘は、なお続いている。
「よくおまえには聴かせたはずだ、戦場に散らばる要素すべてを使い、戦闘を組み立てろ、と」
ホオズキが敵のように顎をあげて、サカキが味方のように言い淀むのは、どこか滑稽でもあった。
だが、入りにくさを感じていた会話に対して、当事者意識を蘇らせてくれたことには感謝する。イトハの目の前で繰り広げられる口論に、彼女もまた黙ってはいられなくなった。
勘違いした大人・ホオズキにぶつけてやりたい台詞が浮かぶ頃には、二人の入れ替わった体も戻ろうとしていた。
二人は胸元を激しく掴み、前触れもなくやって来る記憶の交換にさらわれた。
イトハはホオズキとゴルーグに割って入り、ディスクを駆る。ニドキングをキャプチャし、鎮静化させるつもりだ。
オツキミ山の時のような恐怖は、もう掠れた筆圧並に薄く、麻痺している。
ホオズキは記憶の復元中であるせいか、酷く歪んだ顔つきは、イトハの凛々しく張った背筋に皺を寄せる。
過度な挑発で、危うくイトハを人質に取られるところだった。
「おれは何やってんだ」
巻き込むものかと、決めていた彼女の方から、戦渦に殴り込ませてしまった。
ニドキングが地盤ごと叩き割る。
ゴルーグが飛行形態に移行し、イトハは咄嗟にしがみついた。大地の力が文字通り蹂躙の牙を突き立て、跡には何も残らない。
サカキは夢にも思わない様子だ。悪党人生が、もうじき呆気なく奪い取られることを。自分の死期は、ここではないと、確信している。だから、余裕面を浮かべる。
ポケットに手を挟み、帽子の鍔でも整え出しそうだ。四方八方から殺意で磔にしても、この男はきっと動じないだろう。
ジュノーの声は、通信機が破壊された今もなお、彼の脳内にこびりついている。
――あらゆる手段を使って、彼を抹殺するのです。
――でしたら、『ハマユウ』と『イチジク』の身は保障しかねますが。
人殺しになれば、忌み嫌うロケット団の底辺まで堕ちる。ホオズキはまだ、人を殺したことが無い。
銃口から昇る煙と、頭蓋骨に銃弾を食い込まされた人間の痛みの乖離を、知らない。
サカキを始末出来なければ、イチジクとハマユウの身は保障されない。
イチジクとハマユウがもし、もし、ホオズキの最も恐れる状態にされれば、スナッチャーには不要と切り捨てられ、ジュノーの駒である口実を失う。
何を戸惑うことがあるのか。殺せばいい。殺してしまえば、済む話ではないか。相手はただの罪人で、多くの命を自分達の身勝手な都合で奪い、その利子を回収して、平気で生き永らえているような、無価値の骸ばかりだ。
サカキの頬を泥が掠めた次には、ゴルーグとニドキングがもつれ合って落下した。
ニドキングがタマゴの殻のような、膜に包まれていく。キャプチャ完了の合図だった。
イトハは瞳の覗かない前髪を無造作に散らし、ゆっくりと起き上がる。これでサカキのポケモンがキャプチャされるのは、二回目にあたる。だが、前回ほど手間取ることはなかった。
「流石はトップレンジャーだ」
「ニドキングはもう動けないよう、命令を下しました」
イトハが好機を作ってくれた。後は引き金を引くだけで、数秒後には血飛沫が舞って、視界から不快なものを一掃出来る。
しかし、やはり撃てない。
傷付けるための銃撃と、明確に殺すための銃撃は似て非なるものだ。そんなことは、最初から分かっていたはずなのに。
ホオズキは乾いた喉を、乱暴に潤した。呼吸が荒み、焦点が固定され、唇が青む。地と足が離れて行く。既に覚悟を決めた若い戦士と、未だ引き金を引く勇気すら持てない壮年、イチジクが今の彼を見たら、何を思うのだろう。
サカキは太い指で、頚動脈をつつく。
「この首が欲しければ、自力で獲れ」
ポケモンではなく、彼自身にやらせることに、意味がある。
そういう風に、けしかけるだけ、けしかけておいて、ホオズキには出来ないと自覚させた。そうすれば、二度と元首領相手に逆らおうなどという、間違った気を起こさないからだ。
ミュウを視られなかったことを指摘された時のように、手が不規則に揺れ動く。
「ホオズキ」
ホオズキ。
タイタンではない、自分自身の名前。誰がその名を、必死になって呼んでいるのか。
「あなたのことは、よく分からない。でも」
どんな表情で、語りかけてくるのか。
「『あの人』が、前みたく笑えなくなってもいいの?」
訴えというには、切実さが足りない。その決断に後悔は無いのか、と念押しするような、真摯さだった。
ホオズキは意図的に瞼を落とす。あらゆる情報を遮断するように。
若造流の下手糞な人情に取り繕われた説得など、もう聴きたくもなかった。
若造の説教など、海底神殿で懲りた。ホオズキは覚えている。銃口を向けられたヒイラギは「そのおもちゃを下ろせ」と言ってのけたのだ。おまえに人を殺す覚悟なんて無いだろう、とあの時から笑われていた。
このニードルガンは玩具ではない。命を強制的に奪うだけの威力を誇る武器だ。
「やっぱり覗いてやがったな」
イトハは、若干申し訳なさそうに眉を伏せる。今になって責める気は湧かなかった。
「ハマユウもおれも、昔みたく笑えなんてしねえよ。おれたちには、元々笑顔なんて似合わなかった」
イトハは何かを言いかけて、口をつぐむ。
ホオズキはサカキを殺すために、自分が組織から与えられたステータスではなく、自分の力で掴み取った数々の喜びにさえも嘘をつき、根本から崩そうとする。
一回きりの殺しを肯定するため。
たった一回、だ。だが、その一回が、ホオズキを人間から悪魔に変える。
落ち着かない邪魔な片手をいっそのこと離し、脇の角度を直角にした。
「ロケット団だからおれの人生は滅茶苦茶になった。ロケット団じゃなければ、今頃は――」
「アリアンと、共に居られたと思うか?」
サカキが口を挟む。彼はホオズキとジュノーの情報を統合して、大方の事情を推し量ったようだ。
「ロケット団に属していなければ、おまえと彼女が知り合うことは無かっただろう」
「おまえの言葉で、ハマユウを語るなッ!!」
ホオズキは叫んだ。だが、威勢の良さが一向に実行へと結びつかない。
そこまでだと判断したのだろう。サカキは痺れを切らして舌打ちした。
「もういいぞ」
イトハは、一体誰に向けた言葉か、と勘繰る。不可思議なことに、毒針に貫かれたはずの二丁拳銃が翻り、サカキの手元に帰って来るではないか。
「ニードルガンに『変身』しろ」
サカキの曲げた人差し指に、「紫色の」粘液がぴたりと張り付くようにして、ニードルガンの輪郭をとっていく。地には、モンスターボールが散らばった。
あの挙動には見覚えがある。
「ポケモン!?」
サカキは本当にホオズキを殺すつもりなのか。イトハは急いで振り返る。
一方、抹殺任務に失敗した男は、口を半開きに、背中を丸め、息を激しく吐いている。
イトハは内心で罵った。この馬鹿男、いつまで煮え切らないのだろう。
望むものを得られないのは誰だって同じだ。そこに見切りをつけるか、つけられないか、それだけの違いだろう。
「善人になったからといって、幸せになんかなれない。ヒイラギの何を見てたわけ!?」
ホオズキの歯が上下がちりと音を立て、サカキの指が止まった。
「『ヒイラギ?』」
「また、ヒイラギか……。ヒイラギヒイラギヒイラギ」
内通者に立ち向かおうとする者同士、ホオズキにとってヒイラギは恩人であり、ただの生意気な小僧であり、プロフェッショナルの手本であり、憎らしい戦士だ。
フーディンの記憶では、ヒイラギの行方を血眼で捜し求めた。しかし、チームメイトにしても、その名前を挙げるのは逆効果だと言いたくなるほど、今の状況に適さない感情を沸き立たせる。平静をもって、彼を考えることは難しい。
「思い出した、オツキミ山の波導使い」
サカキは上の空で口にしながら、引き金を引いた。ゴルーグが加速し、裏拳で針を弾き飛ばす。
ホオズキは、悪夢から自分を救い出してくれる唯一の従者に、助けを求めた。
「ゴルーグ、その男を……」
今こうしてゴルーグが満足に戦えているのは、己の過失を、ヒイラギが清算してくれたからだ。張り裂けそうな劣等感から、命令など出せるはずもなかった。
ホオズキは、そのままレーザーに照射されれば、まず間違いなく石化したであろう隙を晒して、完全に硬直する。
サカキは口を引き結ぶと、ニードルガンを再び二丁拳銃に「変身」させ、モンスターボールを拾い始めた。
先程までの物騒な挙動が嘘のようで、イトハは困惑を隠せない。戦いは終わったということなのだろうか。
ボールを装填しながら、サカキは語る。
「殺す覚悟も無い奴を殺しても、銃が腐るだけだ」
見逃してやる、という宣言だった。
サカキは十数年ぶりに現れたホオズキを始末することで、ロケット団の失敗を取り返そうとしたが、さして意味の無いものだと痛感したのだろう。
既にマフラーを巻き直し、件の「もう一人の裏切り者」の始末に向かおうとする。
サカキは背中越しに吐き捨てる。
「おまえに殺しなんぞ無理だ。マフィアの道を捨て、微温湯に漬かり切った『ホオズキ』という、裏切り者にはな。もう二度と、わたしの前に現れるな」
「待ちなさ――」
「砂地獄」
サカキは銃弾を地面に放つ。
三つ連なる小さな山脈のごとき影が見えたかと思えば、砂塵が吹き荒れる。接触を拒否しているかのような激しさだった。
イトハが、自分は飛ばされないように両脚を踏みしめていたら、嵐はホオズキから帽子を掠め取っていった。
ミッションは依然、遂行中であるという事実を、忘却の彼方に追いやりそうな出来事が通り過ぎた。
ジュノーらとも、またしても通信が取れない状況に陥った。その犯人であるサカキを追おうにも、後方で少し萎んで見える壮年を放ってまで、走る気にはなれない。
というイトハの気遣いとは裏腹に、追い払おうとするのが意固地だ。
「任務を続行しろ。後で追いかける」
醜態という醜態の限りを暴かれて、イトハと一緒に居たくない、というのが正直な感想だろう。
イトハは己に課したシークレット・ミッションを優先する。顔を上げる気配の無いホオズキを見下ろした。
「……裏切り者ってどういうこと。あなたはなんでスナッチャーにいるの?」
「私情だ、関係無い」
「ある」
「それを知ってどうするつもりだ。ジュノーに楯突くのか? ヒイラギのように」
キャスケット帽のとれたホオズキの髪を一本一本注意深く眺めると、僅かだが白髪が生え出している。彼の心労は、今や厳冬の積雪と変わらないはずだ。
「あいつはただの大馬鹿野郎だ。事態を引っ掻き回しやがって、余計なことしかしなかった。強くてもただの餓鬼だ」
「そうかも」
降下した目線が、徐々に上がってくる。
意外だったのかもしれない。イトハはヒイラギの肩を持ちがちだ。
イトハもイトハで、ヒイラギについていけない部分とて、それなりにある。極限状態でなければ、ここまでの接近は在り得ない。
「でも、あんな馬鹿だから、放っておけない……なんてね」
イトハは胸の前で肘を組み、我ながら気障な響きが跳ね返ってくることになった気恥ずかしさのあまり、おどけて視線を逸らす。
「サカキはあなたを見捨てたみたいだけど、わたしはまだ、チームメイトだよ」
「小娘に拾われるほど、落ちぶれちゃいない」
ホオズキは咄嗟に、感じたことと真逆の憎まれ口を叩いていた。
「あっそ! じゃ勝手にすれば。あなたなんかもう知らない」
差し伸べた親切を心無い言葉で叩き落とされ、遂にイトハは沸点に達する。我慢の限界だ。譲歩するのが馬鹿馬鹿しくなった。こんな男のために、時間を割く必要など無い。彼女は彼女の世界に戻ろう、と踵を返した、その時である。
「おれは昔、ミュウツーを逃がした罪状から、組織に命を狙われ、イッシュ地方に逃げおおせた。その時、一緒に逃走を図った研究員が、コードネーム・アリアン……本名は『ハマユウ』、おれの妻だ。娘は『イチジク』という」
司令部からの通信は、幸か不幸かサカキが断絶した。伝えるなら今だった。
ホオズキは、誰にも伝えられず、盾にされていた事実を、イトハの背中に次々と剣山のごとく浴びせに行く。
「おれは今、妻子を人質に取られている。会話は勿論、コンタクトの一切を許可されていない」
「ロケット団の過去を掘り返され、反論も許されず、償いという名目でスナッチャーに放り込まれた」
「おまえたちとは別行動で合流したな。おれはNo.001。ジュノーの腰巾着として特殊なポジションにつけられた」
「おれのミッションでの動きは、妻子の安全にそのまま直結する。おれがジュノーに不都合な動きを少しでもとれば、あいつらの身は保障されない、最初にそう言われた」
「サカキの抹殺命令も、その一部だ」
つまり、ホオズキは、リニアでヒイラギ・イトハと合流するその遥か前から、実の家族との交流を許されず、かつ自身の行動如何によって、人質の命を左右される罪を、一人で背負い続けてきたのである。
家族という単語は、イトハにとっては、どうしても後ろめたさが残る。
「生きてるの? 奥さんと娘さん」
「分からん」
言葉だけなら、随分と薄情な物言いだ。
或いは、既に殺されている……ホオズキを従わせるために、生存報告を偽り、先延ばしにして。0%だとは、誰も言い切れない。
「だが、おれが信じないで、誰が信じるんだ」
ホオズキの記憶で、愛妻・愛娘との日々は息づいている。二人を記憶の窓から締め出してしまった時こそ、本当の死が訪れる。
ハマユウとイチジクを生かす者は、家族であるホオズキしかいないのだ。
家族を救う、たったそれだけ――彼にとっての全部――のために、戦ってきた。
イトハは気が滅入り、涙すら零れそうになりかけた。
境遇に同情したのではない。
ホオズキの話を聴いて、もうそんな家庭が一生戻らない現実を、改めて突きつけられ、認識せざるを得なかった。
「……わたしに家族はいない。いない、というか……別れた。だから、家庭なんて想像出来ない」
自分こそが不幸の最下層であるかのように振舞っていたホオズキに一泡吹かせることが出来て万歳、なわけがない。
ホオズキが手に入れられなかったものを、イトハとヒイラギは持っていた。
イトハが失ったものを、ホオズキは持っていて、けれども唐突に奪われた。
「スナッチャーに来たのは、希望じゃなくて左遷」
正義と建前は、いつだって紙一重だ。
ホオズキは、どんな顔をして、告白を相殺されているのだろう。
「善人、そんなに良いものじゃないよ」
喉を痛め付けながら通り抜けたイトハの結論は、二十一歳に導かせて良いものではない。若者の泣き笑いは、年齢に不釣り合いな、造られた色香を寄せる仮面だった。
彼等は余計なものを見聞きし、摂取し、成熟した。多分、自然に笑うという感覚も薄いだろう。いつも、どこかに、嘘が紛れてしまう。
お節介だろうが、やはり願わずにはいられない。彼等には未来がある。ホオズキにだって未来はあるが、色鮮やかさが比べ物にならない。スナッチャーが救おうとしている世界は、色褪せた未来しか映してくれない。
しかし、そのような浅い思考を口にすれば、またあの尊大な波導使いに笑われてしまう。
「善も悪も、無いってわけか」
認めるのには勇気が要るが、一度認めてしまえば、後は楽になれた。
「あなたを陥れた本物の悪党がいる」
イトハは最後の事実確認を行う。
ジュノーはホオズキの妻子を人質に取り、彼を脅すことで、自由自在な操り人形に仕立てていた。
義憤に燃えやすいイトハではあるが、怒りさえ疲れてしまったホオズキには、本人に代わって共有してもらえることが、何よりの救いになっただろう。
十中八九、内通者はジュノーだ。
「だが、奴を追放する手立てが無い。ヒイラギはジュノーの弱点を見つけられなかった。だから、やられた」
大人の賢さで対抗するしかない。怒りに身を任せれば、ヒイラギと同じ末路が待っていることは明白だ。
「なら、わたしが暴いてやる」
「それがヒイラギとの約束なのか」
「あいつは、わたしに全部託して消えた」
ホオズキは密かに感心した。
ここまでの強固で密な関係を、一朝一夕で築けたとは、やはり信じ難いものがある。
きっと似ているのだろう。
ホオズキは、イトハとヒイラギのような、切っても切れない糸で繋がった二人組を知っている。
――なあ、ハマユウ、若い頃のおれたちみたいじゃないか。
ハマユウと会えない寂しさ、そしてヒイラギとイトハの瑞々しく、初々しいこそばゆさを、ホオズキは自然と重ねていたのかもしれない。自分は妻の声も聴けないのに、何故彼等だけは、と。
しかし、イトハも会えない苦しさに身を焦がしている。
「ヒイラギは、今も生きていると思うか」
「さっき自分で言ってたでしょ」
「そうだな」
「悲しむよ……もしわたしが行方不明になったとして、死んだ、と思われていたらね」
その答えを聴いて、ホオズキの心は決まった。サカキ抹殺のシークレット・ミッションは放棄する。彼は後を追わず、反対の方向へと歩み出した。