Phase 27 訣別
波導使いヒイラギとポケモンハンター・Jの二者を、宿命じみた因縁が繋いでいるというわけではない。あくまでも、任務上の障害という話で、敵に対する一種の特別な思い入れは存在しない。
だが客観的に見れば、Jは悪党を束ね上げるカリスマだ。依頼人の求める仕事内容のハードルを、合理的かつ能率を計算した策略で軽々と飛び越えていくJ。
彼女が国際警察に逮捕され、獄中で死を遂げたとすれば、罪人たちによってその価値を祭り上げられ、英雄視されるだろう。
だからこそ、完璧にこだわるJが犯したたったひとつのミスを、簡単に片付けてはいけない気がしていた。
それは、自らのポケモンを易々と手放したことだ。ボーマンダが完全な敵に回り、フリージオを撃破した今、Jは自軍に属していたポケモンがどれだけの功績を残して来たか、痛感しているのではあるまいか。
或いは、貴重な戦力を惜しげも無く敵に明け渡してしまったことを、何らかの形で表情に出さずとも悔いているのではないか。ヒイラギは神殿内に漂う殺意の気流にあてられぬよう、Jの波導だけを読み取ろうと集中を絞る。
何やら話しかけてはいけない時の態度が背中越しに感じられて、イトハは黙りこくっていた。
ヒイラギの察知が機先を制して、ドラピオンのミサイル針は虚空を撃つ。ボーマンダの軌道は、少しずつJに迫り行く。Jはバイザー越しに、攪乱を繰り返すヒイラギやボーマンダ、そしてマナフィを視線で逃がさないように捕捉する。
凍結した泉に沈められた、海の王冠が視界をよぎった。これこそ、争いの種である。
「あれが王冠か」
数分の沈黙を経て、ヒイラギが口を開いた。考え事は終わったようで、彼のまなざしは任務達成に向けて輝き出した。形勢が不利だろうと、諦めることを微塵も考えていない。ヒイラギはミッションの最中、クリアへの最適解だけを追い求める。彼が諦めない限り、わたしも諦めない――イトハは至近距離からそっと囁く。
「あの中にスレートのブルンゲルもいる」
「救出するぞ」
「了解」
ボーマンダが外郭を一周したことで、ヒイラギは辺りの情勢を把握した。
円形の足場を滑空し、ボーマンダがJ目掛けて火を吐き散らす。Jはさっと腕を伸ばし、ドラピオンを向かわせた。
サインを繰り出してポケモンに命令を送るスタイルは、ある程度知っている。ヒイラギはJの手元を注視した。第一・第二関節を曲げ、握り拳をつくるようなサインから、導き出される技は――。
ドラピオンの牙が、パキリと音を鳴らし、鱗さながら、きめ細かく紋様を帯びる。ヒイラギは、はっと目を開き、瞬発的に叫んだ。
「飛び降りろッ!」
轟き渡る掛け声を受けて、咄嗟にボーマンダから飛び降りる。不安定な着陸は接地の際に足を負傷しかねないが、直撃の巻き添えを食らうよりはましだろう。
ドラピオンは全身を平らにくねらせ、火炎放射をしゃがんでかわす。口元に蓄えられた吐息は、ドラゴンポケモン特有の硬い鱗を貫くだけの氷点下に達した。ヒイラギが予期した通り、「氷の牙」がボーマンダの翼の付け根を突き刺す。
ヒイラギは手負いのスレートを背負ったまま、何とか柱に着地。脚力も今や衰えており、脚に伝わる振動が秒刻みの動きを鈍らせる。
イトハも、倒壊して寄り添う柱の淵に辛うじてしがみつく。ボーマンダは痛みと困惑に黒目を縮ませ、螺旋階段に背中を引きずられながら落下していく。
「やはり、完全に敵扱いか」
かつての手持ちであろうとも、手を離れてしまえば他人の商品。ポケモンは、生き物ではなく売値で捌かれるモノというわけだ。人間とポケモンが共存する常識の枠でJを見ようとすれば、その欠落に閉口する。
アプローチは違えど、ヒイラギはJを自分と異質な存在として切り離すことが出来ない。どこか、近しさを覚えるのだ。
他者のポケモンを強奪して利用するヒイラギ、ポケモンを石化させ商いの道具に換えるJ、二人は「強奪」というキーワードで繋がっている。
野放しにしておけないのは、ポケモンを商売道具にすることの是非、といった倫理観ではない。むしろJに対する同族嫌悪が、ヒイラギの必要悪を目覚めさせる。
すっかり動きの鈍った体で、Jを倒し切れるとは到底思えないが、それでもモンスターボールを構えた。
崩れ落ちていく体の悲鳴を押し退けてまで、何が彼を駆り立てるのか、といった壮絶なまなざしだ。ヒイラギの瞳はいつも前を向いている。後ろを振り切るように、前だけを凄む。
「カメックス、……波導弾」
地に足をつけ、ヒイラギは命令と同時にボールを放り投げる。
イトハは思わず声を漏らす。
ヒイラギの投擲にはまるで力が込められていない。ふわり、と刺々しい彼には似合わない緩やかな弧を描いたかと思えば、落ちて来る目蓋の重力に抗い、意識を繋ぎ止めるように持ち上がった片足で足場を踏み抜くほかない。それを見たJは、うっすらと口端を緩める。
ドラピオンは波導弾を両の腕で受け止め、力にものを言わせて分解してしまう。
主人を案じたカメックスとドラピオンが、互いの爪を食い込ませ、腕力をじりじりと比べ合う。Jはその時間をたっぷりと吟味して、銃口のレーザーサイトをヒイラギに合わせていく。今度は口で命じた。
「クロスポイズン」
ドラピオンはJから見て左側に重心を落とす。途端に、左と右腕の高さがずれた。釣り合っていた力の均衡は急激に落差が生じる。カメックスの劣勢を見るや否や、ヒイラギは口を開いた。
「回転角度45度!」
思わずバランスを崩し、よろめくカメックスを立て直させる。誤差を見逃さず、ドラピオンの十字剣が襲う。
だが、カメックスは直前に脚を組み換え、吹き飛ばされる位置と角度に修正をつけた。ドラピオンのクロスポイズンで吹き飛ばされた烈風の衝撃ごと、蒼海の王冠、そしてブルンゲルの沈む氷結の海へと向かう。カメックスの硬い甲羅が、氷の強度にひびを入れた。
ひとつの指示にふたつの目的を持たせる技量に、改めてイトハは感心する。即決であの指示は出せない。指示を淀みなく実行するカメックスも戦士の鑑だ。
ヒイラギはすかさず、カメックスにメガシンカパワーを送り込み、支援を試みる。グローブに漲る波導を集中させた。
「波導は――」
常の口上を唱えようとするも、自分の魂が根こそぎ吸い取られるような不快感が突き上げ、即座に儀式を中断した。
イトハはヒイラギの限界を悟る。自分を守ることで精一杯だが、助けねば。柱に引っ掛けている長い爪が折れそうだ。
なんとか片腕に装着し直したスタイラーのストリングを口で噛み、首を引いて射出する。ドラピオン目掛けて、予備のディスクが滑走を始めた。
正直、視界が薄れて、焦点すら定まらなくなりつつある。体の節々が悲鳴をあげている。喉が枯れ、唇は渇き切っている。ホオズキは取り返しのつかない置き土産を残して行ってくれたものだ。今の状況が人生で何番目に大変だろうか、と思考が逆に渦巻きすぎた頭で格付けを始めだす。
イトハは何処に行ったのか。スレートは逃れたのか。マナフィは無事か。
体の警鐘は諦めろという合図だと思う。実に邪魔だ。後先考えずに戦うことは、何度もやってきた。
まだ果てるわけにはいかない、ヒイラギは目を瞑る。余計な情報が入るなら、逆に遮断してしまえば良い。
波導使いの心眼が五感の務めを果たす。ハンターからすれば、撃ってくださいとアピールしているように映るだろう。
Jはそう実に都合良くヒイラギの執念を曲解して、動く的に自身の完璧な狙撃精度を重ねていく。面白い作品が出来るだろう、と紅いリップに期待を込めて、撃ち放った。
ヒイラギは探り当てた左肩に右手を添え、痛みを堪える。瞬間、ヒイラギの靴先をディスクの起動音が疾駆した。
近くに、いる。共に戦っている――。
里の修業で磨き抜いた反射神経と、傭兵人生で培ってきた直感が、最後にヒイラギを救う。首を傾け、Jのレーザーを紙一重で回避した。彼はそこで体力を尽くして、倒れ込む。
感情を解読させない術に長けたJも、今の反応には目元を険しく揺らす。
「……死にぞこないが」
海の神殿に訪れ、Jが初めて発する私語であった。
ヒイラギが倒れた。
にじり寄るドラピオンだが、彼方からの砲撃がドラピオンの前進を阻んだ。
きっと、カメックスだ。足元に撃ち込まれたハイドロポンプが地盤を抉り、水の矢が死角から襲い、ヒイラギを始末する以前にカメックスの素性を暴かねばならなくなった。イトハは慎重にスタイラーを操作し、ドラピオンを一気にキャプチャするため、息を張り詰める。次のレーザーが照射される前より、速く。
その時、階下から咆哮が聴こえた。Jはすぐさま声の主に石化銃を向ける。
一時だけ、主人の代わりをしても良いだろう。ヒイラギが頻繁に使う手だ。イトハは吊りそうな細指に鋭角を描き、柱に差し込む。暗がりから好機を窺うスナイパーに今が時宜だと告げた。
「竜の波導!」
ドラピオンはJを護るため、自身の判断でクロスポイズンを繰り出す。氷壁に開いた穴から、二色の光が瞬いた。あえて見せずにおいた技、双頭の竜を模る波導がドラピオンの頭部と尾に噛み付き、爆散する。
ヒイラギとカメックスが窮地を切り抜けるために用いる技・竜の波導だ。
「何をしている。こちらが先だ!」
珍しくJが声を荒げ、判断を誤ったポケモンを叱りつける。
螺旋階段から飛翔したボーマンダが、Jを見るや否や、弾丸の如く飛び掛かる。
怯んだドラピオンを尻目に、カメックスの放つ矢が、ボーマンダの首筋の裏にヒットする。
刺激に敏感なボーマンダをわざと怒らせれば、狙い通りの技が出るはず。理性というリミッターを外すことで、はじめて発動可能な技を命じる。
「逆鱗!」
地響きが伝わり、Jは重心を崩してよろめいたまま、光線を放つ。焦りが生んだ誤差は、簡単にボーマンダを外した。
司令塔とポケモンを分断したことにより、ドラピオンはカメックスからの一方的な応酬を受ける。心地良い形勢逆転の爆風が、辺りを取り巻いていく。
無意識に、ヒイラギのような挑発を口走っていた。
「自分が逃がしたポケモンにしてやられる気分はどう?」
「トップレンジャー……。貴様もか」
ブラックリストを数え間違えた、二人だ。シルフカンパニーの時に楯突いてきた有象無象の内に、突出した精鋭が二名いた。
Jは歯軋りしつつ、大きく跳躍して、ボーマンダの攻撃範囲から距離を置く。
鉄面皮が剥がされていけば、やがて焦燥を露わにした表情を自ら晒す。仕事に対するプライドが高ければ高いほど効果は覿面だ。相手の逆上を利用するのは波導使いヒイラギの十八番だった。
イトハの中にヒイラギのイズムが流れ出し、息づく。これまでいついかなる時も、ずっと傍で彼の戦い方を観察し、焼き付けてきた相棒にしか、この逆転劇は起こせない。
ボーマンダが首を曲げ、勢い任せにドラピオンを殴りつけ、支柱に吹き飛ばす。もはや理性も何もあったものではない。目に入るものを焼き払う、という本能だけを残し、それ以外を捨て去った技が逆鱗である。
Jは倒れていたドラピオンをボールに戻し、退散させた。その回収は一種の敗北を認めたことと同義である。彼女は王冠の確保へと向かった。
ボーマンダをこのまま放っておけば、周囲にも被害が及ぶ。追跡せねば、と足を進めかけたところで、ボーマンダの背中より命からがら逃れてきたポケモンが靴先に当たって躓く。
「あなたは」
イトハの視界に映るマナフィは、原形を留めず、形を変える水のようだ。思わず、眩暈のする頭を支えた。神経を使いすぎて、ヒイラギ共々無事ではない。
イトハの足元で転がるヒイラギが、マナフィに向かって手を伸ばす。親でもないのに、浅黒い掌を、頭にぽんと収めた。五本指が液体に沈み込んでいきそうだ。
マナフィの目線に合わせて首を上げ、目まぐるしく映り行く局面への恐怖心に寄り添ってやる。
イトハはしゃがみ、ヒイラギの手をとった。名前を呼ぶ響きは、それとなく、今生の別れのような哀愁を漂わせている。
「イトハ……おまえは強い、本当に」
「ううん。ヒイラギのおかげ」
この場にいる誰よりも、自分こそが互いを知っている、という同族じみた気分の目線が交わった。
眉をしかめて首を動かし、王冠の方角を見据えるヒイラギに対し、簡潔に問う。意固地な男は、何を言っても聞かない。
「行くの?」
「ああ」
常軌を逸した闘争心だ。会話することすら、辛そうなのに。マナフィはじっとヒイラギを見つめていた。
「ボーマンダは、任せたぞ」
ヒイラギは震える腕を酷使して、ベルトからボーマンダ用のボールをほぼ無理矢理、彼女の手元に捻じ込む。イトハの手首の位置すら探り当てるのに、数秒かかった。
卑怯だ。
こんなことをされては、満身創痍の彼を止め切ることは出来ない。醜い部分すら見せ合ってきたからこそ、ヒイラギを止めることは、彼に対する侮辱を意味した。
オツキミ山での共鳴は今日まで確かに繋がっていて。誓いの重さが容赦なく、彼等を引き裂こうとしている。
イトハはボーマンダを託されたことを理解し、仕舞い込みつつ、訝しげに続ける。
「あんた――」
「悪い。話し込む余裕は無い」
それ以上聴きたくない、と言いたげに、ヒイラギはイトハの語尾に自分の言葉を重ねることで断ち切った。
イトハの華奢な手首を、痕が残るほど強めに掴む。肘を突き、反動を利用して、右足を針のように伸ばす。左脚を立て、息を弾ませ、大事を為すように起き上がる。
一時でも力を抜くと、体がぐらりと傾き、イトハの膝元にそのまま身を預ける形になった。触れ合う情緒は場違いな甘美さと切り捨て、相棒の体を壊れ物のように扱う。顔を離し、腰を上げながら淡々と説明をはじめた。
「いいか、自分が有利になるように立ち回れ。そのためなら、おれの立場も利用しろ。それと、ホオズキは白だ、頼りになる」
ヒイラギは以前、チームを離脱することになったとしても、と仄めかした。イトハも本気を受け取ったからこそ了承した。
しかし、いくら御託を並べても、いざ現実を突きつけられてしまえば、迷いが生じるのは、当たり前じゃないか。
イトハも彼の手に薬を入れ込んだ。
「これ、スターのみを薬にしたもの。人間が使えば、思考を活性化させる。もしものために」
ヒイラギは預かりものを確かめるように、ぐっと拳を握りしめる。
「助かる」
「……どこにも、行かないよね?」
いつの間にか目線は、いつもの高さに戻っていた。届かない身長の分だけ、距離が生まれる。
イトハが探るように、それでいて下から掬い上げるのではなく、まっすぐと、斜めに切り込むように見つめて来る。見開いた時よりも睫毛の間隔が狭い。
ステンドグラスの反射を受けて照り映えるその瞳は、ずっと見ていたい程に痛々しかった。この光輝を見られず、この波導を感じられなくなるのだ。
自分がこれから為すことの結果によっては、戻って来られるという確証も得られないから、返事すら出来ない。
何か気の利く励ましを送るべきかと数秒悩んで、気障でも良いから今の自分で出来る最も伝えやすいやり方で、自分の我儘を押し通そうとする。
ヒイラギは立ち上がり際、ポケットに入っていたネックレスを取り出し、指から首にかけて、絡ませていく。屋台のそう高くない安物を後生大事に持っていること自体が、華の無い彼等の微笑ましさだ。イトハからの贈り物を、体の一部に着けた。
行くぞ、とマナフィに告げてからは、有無を言わさず距離が離れていく。
しばらく床を見つめていた。
近付いた瞬間、遠ざかる。これは何の定めなのだろう。仄かに黒い感情が湧き出て来る。
「馬鹿」
本人に聴こえない声量でそう呟き、別々の道を歩き出す。
アリアドスの糸に縛られたカメックスの甲羅が不吉に軋む。無様に逆さの吊し上げを食らった巨体に満足したか、Jの機嫌は少しばかり落ち着いた。
だが、すぐに不快感へとメーターが振り切れる。アリアドスには待て、と合図を出し、糸のコントロールに集中させた。
隠せない足音は、簡単に正体を割らせる。マナフィは水中に忍ばせた。
「まるで不死身だな」
人間離れしている、という評価だ。もし、彼の半生を知っている者なら、軽々しく口には出せないであろう言葉を口にした。
ヒイラギは、自分の体が、最高効率を求めて弾き出された計算の賜物だと思っている。最も戦闘に適した姿。誰かを抱き締めるよりも殺すことに特化した肉体。
不死身という表現は言い得て妙だ。何故なら、イトハが時間を稼いでくれた分、ほんの気休めに過ぎないが、多少の集中力を取り戻せている。今ならJと戦える。
互いに膠着、何もしてこない。反撃のため意図的に設けたタイムラグだとすぐに見抜き、レーザーを生成する。ヒイラギは呼応するように、コートのボタンを弾き、内から取り出したプレシャスボールを、Jのバイザー目掛けて投擲した。
「ぐあっ!」
普段ポケモンで戦うからこそ、咄嗟の飛び道具は意表を突ける。
失明も石化よりまし、というわけか。Jは割れたバイザーと流血を抑えながら、いよいよ感情を剥き出しにした。
「き、さまああ……」
アリアドスが主人の困惑に気を取られた拍子、カメックスは甲羅に仕舞い込んでいた大砲を伸長させた。焦点をアリアドスの角に、ぴたりと据える。糸による揺れの誤差には、目を瞑るとしよう。
「ナイトヘッドッ」
Jは腕が塞がってサインが使えない分、いつになく声を荒げ、命じた。
だが、砲撃なら、こちらが速い。三秒の遅れを無かったことにする射撃速度だ。
「ハイドロポンプ」
迷い無き指示が冴えた。
破裂音と共に、勝敗は決する。アリアドスの体は泡が弾けるように勢いよく吹き飛んだ。
スナッチを避けるため、Jはアリアドスを回収する。加えて、黒装束から何かを取り出そうと手探りしている。容赦はしない、追い打ちをかけるまでだ。
「もう一発行け」
宙吊りの体勢から、正確なロックオンは至難の業。しかし、カメックスもまた波導使いである。アリアドスの波導を見出した砲口の黒い穴は、小刻みなぶれを繰り返し、その度修正で上塗りして、敵の右脚を抑えた。
一筆をはらうような血飛沫が舞った後、ハンターはその場に倒れ伏した。白く染めた毛並が、疲れ切ったように乱れる。
ヒイラギの、断罪者としての碧眼が、これまで実ること無かった勝機に揺れる。
「捕らえたぞ……」
「要求は」
飲み込みが実に速い。Jは抵抗手段が潰えたことを自覚し、ヒイラギの交渉に応じる姿勢を見せた。今なら脅しが成立する。必要な情報を引き出せるかもしれない。
脚を撃たれた程度の出血で死ぬとは思えない。それに、ヒイラギ自身のスタンスは、リニアの時から変わりない。あくまで彼女を監獄に叩き込むという一点にある。
「スナッチャーに送り込んだ、内通者の名前を言え」
音を立てて外れたバイザーから、Jの瞳が切れ味良く睨みを利かす。何人もその刃物にひれ伏すのだろうが、今回ばかりはヒイラギが残酷に見下ろす番だった。
「知らんな。わたしの関与するところではない」
嘘はついていない。であれば、Jは内通者とのコンタクトを持っていないことになる。内通者を操っているのは、Jよりも上位の存在という問題が浮上した。その名前を問いただす。
「では、本件の黒幕及び支援者の名前」
カメックスの体から滲み出る波導が、糸を焼き切るために、白線上を走り抜ける。
「次は答えを間違えるなよ」
「……わたしは、あくまでも、支援に徹する立場だ。命まで懸けて、奴等に忠誠を尽くすつもりは無いのでな」
Jは自らの発言により、バックの存在を肯定した。かなりの情報獲得量である。
薄々感じてはいたが、やはりポケモンハンターは独力で動いていなかった。
そうでもなければ、一ハンター組織如きに、国家の暗部たるスナッチャーが手を焼かされる程の大規模騒乱を起こせるはずも無い。「奴等」という言葉の規模からは、背後の暗部がそれ相応の勢力であることも推量出来る。
ヒイラギは確かな手応えに迫った。真の敵はまだ暗闇の中で、組織を弄んでいる。
「わたしには、現在クライアントがいる」
「名前は」
「J2」
ジェイ・ツー。
この期に及んで、嘘をつく気力が残されているとは、悪党ながら見上げた精神だ、という思いとは別に、冷たく言い放つ。
「名前を言え」
「名前だとも」
波導に嘘が無いからこそ、余計に頭がおかしくなりそうだった。受けた印象をありのままに告げる。
「それではまるで、もう一人の貴様だ」
Jは口端を緩めた。
「そうだ。Jは”二人いる”」
尋問は打ち止めとなった。
お喋りはそこまでと、ヒイラギの視界を白い霧が覆う。だが、霧の発生するような条件は満たしていない。また、霧が誤った見当であることは、命を持ったように蠢くそれの気配を感じたからだ。Jを掌で転がしていた、それは錯覚。真実は逆だ。
波導使いは自身を取り巻く「ポケモン」を観測する。白く霧散する蒸気が一定の輪郭を模り始める。
霧ではない、水蒸気だ。気付いた時には、半分の鎖を千切られた結晶体が、小賢しく蘇った。形を為し、カメックスとヒイラギの距離間に割って入り込んだ。
「フリーズドライ、カメックスを始末しろ」
フリージオはひらりと裏返る。
ボーマンダの火炎放射を利用して、固体から気体に「昇華」した。蒸気と化すことにより身を隠していたのだ。フリージオというポケモンの特徴に、ヒイラギは頭の回転が行き届かなかった。
応戦しなければ、カメックスの身が危ない――。
ボールを取りこぼした。
こんな時に、と地を叩く猶予も無い。カメックスが甘さで残した腕をしならせ、レーザーを撃ち込んだ。
しかし、レーザーはおろか、カメックスとフリージオの攻撃すらスローモーションと化した。文字通り、水泡も冷気も、宙に浮いたままだ。
「何だと!?」
Jは本任務一番の驚愕ぶりを見せ、狼狽える。ヒイラギの策略とカメックスの包囲網すら出し抜いたというのに、まだ伏兵は潜んでいた。
ヒイラギは、カメックス用のボールを拾い上げようとする動作が、突如として、やけに重くなった感触を得る。まるで黒い鉄球をポケモンに持たせたような、急転直下の重力に抗えない。
弱り果て、おぼろげな波導は、助けを差し伸べるポケモンとトレーナーを指し示していた。
行動速度に制約を加える、この現象は、まさしくトリックルーム――技を使うポケモンには思い当たる節があった。
凍り付いた地表を割って、船首が顔を覗かせる。ブルンゲルが、船を導く澪標のように、宙に一片舞う。
かつて大陸を氷結させた砲撃は、フリージオという一ポケモンでは比較のレートに乗らない。化学兵器の威力をイッシュ全土に知らしめた悪夢の戦艦・プラズマフリゲートが、永き眠りから目を覚ました。
氷の顎――まるで、イッシュ地方の伝説ポケモンを彷彿とさせる――を船首に備え、水没都市で崩れた尖塔のように迫り上がって行く。氷の素材は、ジャイアントホールの地盤を切って、そのまま取り付けた凍土に等しい透明度だ。
プラズマフリゲートが起こす震動で泉から止め処なく溢れ出す水の勢いに、飲み込まれないよう、意識を保つのがやっとだ。流水はあらゆるものを押し流す。
Jは、退き際を弁える。何せ、水には良い思い出が無い。
Jはかつて、リッシ湖の底に沈めかけられた経験を思い出し、歯噛みする。
ギンガ団の要請に応じ、エムリット・アグノム・ユクシーという三柱の捕獲に取りかかった。散り際、神々が時空に託した「みらいよち」の攻撃は、飛行艇を撃ち抜き、沈没させた。Jは手駒の数多くを失った。生き物の命を散々弄んできた彼女に、下された罰であった。
その時、J2と出会わなければ、ハンター稼業に戻ることも無かっただろう。
「これまでだな」
手負いのJは判断する。これ以上の追撃は不可能。ワイヤレスマイク、反応よし、まだ機能することを確認した。
糸を解いたカメックスは上手く波に乗り上げ、ハイドロキャノンをヒイラギの手すり代わりに伸ばす。両手で掴み、波が落ちて行かんとする方向に抗った。
「あれが……」
口に水が入り、腹を浸すのも構わず、感嘆を述べる。
プラズマ団が残した遺産。その意義が、正の遺産に寄るか、またしても負の遺産に傾くかは、未来の所有者次第だ。
時代は、畏怖のシンボルも味方につけた。フリゲートの両翼に開くソーラーパネルへと泳いで行く。
一方、Jはフリージオの縁を掴んで、怒涛の水流から脱出を図る。まだJを救い出すだけの余力が残っていた。
今回でポケモンハンターの首魁を捕らえられなければ、もう彼女を公平な裁きの場にかける機会は訪れない気がしてならず、必死になって叫ぶ。
「カメックス、奴を撃ち落とせ!」
揺れる波間を縫って、消え行くJに照準を定めることは不可能に等しい。
「総員に通達。王冠を棄却し、撤退せよ。本任務は失敗した。繰り返す、総員撤退せよ」
吉報は、同時に安堵と歓喜を湧き起こす。
Jは無機質な業務連絡を繰り返した後、人差し指と中指の間に、小さな結晶らしき粒を挟み込む。光の粒子が立ち昇ると、Jの輪郭が残像に見違えるほど淡く消えかかる。「テレポートによる戦線離脱」だ。
ヒイラギは最後まで足掻くように空しく、そして見苦しく叫び続ける。
「J! 二人いる、とはどういうことだ!? 答え……ろ!」
ソーラーパネルがみずポケモンで言うところのヒレになって、ヒイラギとカメックスを拾い上げた。パネルに腰を下ろし、ヒイラギは思わず憎まれ口を叩く。
「消えたと思ったら、そこにいたとはな」
もちろん、スレートの機転で局面を打開出来た、本心では感謝している。ヒイラギの力だけでも、イトハの力だけでも、Jに勝つことは出来なかった。
甲板に上がると、フリゲートを泉に停泊させたスレートが、操舵室から姿を現し、ブルンゲルをボールに戻すところだった。
「この任務では、一瞬のチャンスが命取りになると分かっていましたから。おかげで、フリゲートを拾い上げることが出来ましたよ」
飄々とした余裕が、声色にもう宿っていない。どこか覚悟を固めたような声だった、というのはヒイラギの考え過ぎか。
至るところから喝采が聴こえてくる。生き残った別働隊の人間だろう。ボーマンダの破壊的な怒声が鳴り止んだ辺り、恐らくイトハもキャプチャに成功したはずだ。
「Jは去ったのね!」
「ハンターが撤退していくぞ。おれたちの勝ちだ」
「蒼海の王子を御護りしたぞ!」
「戴冠を!」
ヒイラギとスレートに対して、キナギ民が求めるのは、戴冠式だ。生誕の次には、戴冠が来る。蒼海の王子の宿命。
マナフィの戴冠は、長の宿願にして、キナギの悲願である。そのために命を懸けてきた。どんな苦境にも立ち向かう勇気を養ってきたのだ。ヒイラギとスレートは、彼等の好意に、これから背く。
「聴いたか?」
「今からぼくたちは、彼等の敵になるでしょうね」
分かっていたが、気持ちの良いものではない。泉の底から円弧を描き、臣下らに笑顔を振りまくマナフィの姿が、なんとも痛々しい。
ヒイラギは王冠を厳かに乗せる。文字通りの王冠だ。飾り気のあるミニチュアにしか思われず、こんな道具のために命を張らされたかと感じてしまうと、不快感が夏の雲のように盛り上がる。
儀礼的な足運びで、慎重に進み出る。マナフィは理解している。自分に着いてきた時点で、より大きな因果のために戦う決意は完了済みだ。ならば、捕獲を拒まない。
ヒイラギの動向を、生き残った誰もが注視していた。スレートにしか聴こえない会話を交わす。
「ジュノーを誘き出すために、わざと目につくよう捕獲する。そうすれば、おれが裏切ったことになるだろう」
本件においてジュノーは直接参画せず、スナッチャーを派遣するという支援に留めた。故に全権は、キナギの長に移譲されていた。しかし、派遣先の構成員が事件を起こしたとなれば、たちまち責任と矛先の所在は司令官に向かうだろう。呼び出しを利用して、内通者容疑を突きつける。一対一、介入無しの対決だ。
「ヒイラギさん、あなたはそこまで」
マナフィが可愛げある所作で、頭をぺこりと預け、ヒイラギは無感情に冠を被せる。偽りの儀式が、あまりにも馬鹿馬鹿しく遂げられた。
海の王冠は、帰るべき持ち主の場所に戻った。冠に散りばめられたルビー・サファイア・エメラルドが光を帯びる。
水を得たかのように、マナフィが精力を取り戻し、神殿の中央に吸い寄せられていく様を、ヒイラギは目で追う。そして、片手にプレシャスボールを構え、捕獲に取り掛かった。
「ええ、ヒイラギがマナフィを捕獲しました。彼の行動は……、任務を逸脱したものです。……分かりました、はい。失礼します」
そう告げ、イトハはジュノーとの通信を打ち切る。
告発しろ、と金切声で叫んだ横のキナギ民を放っておけば、唇の蒼白さが全身に転移して、倒れてしまいそうだった。
一部始終を見ていた者は、神殿を壊せそうなほどブーイングの嵐を起こした。
裏切り者。
信じていたのに。
ハンターと同じなんだな。
このプラズマ団が――等、多様な罵詈雑言が飛び交う。イトハは、いっそのこと、鼓膜を破ってしまいたい獰猛な衝動に駆られた。小を犠牲にして大を救うという行為が、裏切られた者たちには果てしない虚無感をもたらす。彼等の怒りは実に正当で、責められるような謂れは無い。
これほど後味の悪い任務は初めてだ。
悟られず、気取られないように。あくまでヒイラギの行動が予測不可能な裏切りだと、周囲に自分の潔白を知らしめるべく、イトハは率先してヒイラギを審判にかけるべき罪人へと晒し上げてみせた。自分がチーム・スナッチャーという欺瞞の渦で生き残り、内通者を突き止めるために。
表情一切を漂白して殺し、彼の一字一句を張り裂けそうな胸の中で、許しを乞うように諳んじる。
――いいか、自分が有利になるように立ち回れ。そのためなら、おれの立場も利用しろ。
利用したよ、ヒイラギ。
本当にこれで良かったの?
もう彼と言葉を交わす機会もしばらく無いだろう。イトハの告発によって、ヒイラギは任務終了後すぐさま司令官の尋問にかけられるはずだ。
二人の予想を超える形で、失望の声が上がった。すべては真実を突き止めるためだと、これまで言い聞かせて来た。しかし、そうまでして突き止めたい真実とは何だ。
仮に内通者の特定に成功し、撃破したとして、何に繋がって行くのか。ポケモンハンター軍団を第一線から退けたとしても、戦いはまだ終わらない。それが分かってしまった、今となっては。
スナッチャーという組織に、護るだけの価値があるのか。真実を知るために、人々を呆気なく裏切るならば、これまで自分を裏切った者たちを否定など出来ようか。ヒイラギは、もはや同じレーンに立ったのだ。
未だ気配を見せない敵――ヒイラギは実質Jに勝利を収めた。しかし、その勝利は、途方も無く長い道中で拾った欠片に過ぎない。切れ目無く、五里霧中の状態で続いている。
「スレート。おれたちは、一体何と戦っているんだ?」
マナフィの入ったプレシャスボールを握り、ヒイラギは船外の様子に目をやる。その一部から、フリゲートに乗り込みかねない殺気をひしひしと感じる。
「……それをぼくに聴かれても、困ります」
スレートにも返す言葉は無かった。
ヒイラギの質問は配慮に欠けていたのだ。スレートとて、内通者に記憶を改竄されている。誰よりもその「正体」を突き止めようと努力した人間にかける言葉としては、取捨選択があまりにも雑だった。
ヒイラギは俯き、ぽつりと零す。
「すまない」
「いえ、言葉が足りませんでした。……ただひとつ言えることは、きっとぼくは罰を受ける」
「そしてこのおれも、いつか報いを受ける」
「ヒイラギさんが? 何故」
「人のポケモンを奪うことなど、理由はどうあれ認められないからだ」
自分は、強奪者だ。
勇者とは真逆の行動を取っている。誰かに平等な幸福を分配して歩くのが勇者なら、ヒイラギがやっているのは恐怖と力による一方的な支配だ。いつになく、強く拳を握り締めた。
「だが奪って奪って奪い尽くすしかない。すべてを失くすことになってもな」
すべて、とは何だろう、とスレートは思った。ヒイラギにとってのすべて、彼が失うことを願わないものがあるとしたら。
それこそ、ヒイラギより野暮な質問だと感じ、スレートは首を振る。そろそろ逃げる準備が要りそうだ。スレートはここで捕まるわけにはいかない。故に、スナッチャーの命運はヒイラギに託す。
「デンチュラを宜しくお願いします。きっと、あなたを護ってくれる」
ヒイラギは頷いた。
波導使いは、チーム・スナッチャーの叛逆者と化した。地獄のような阿鼻叫喚の後に待つ戦いは――司令官ジュノーとの、一騎討ちだ。