Phase 26 罪の王冠
喪に服す間もなく、同胞たちが散って行く。モンスターボールが投げ放たれるよりも早く、戦士は戦士としての役目を終え、石に換えられた。
腕から先は、もはや人間の体温を有していない。重力に負け、無造作に地面へと打ち付けられる。ぽちゃん、と掌からこぼれおちては、段差を転がり行くモンスターボールになど、誰ひとり目も暮れない。だから、一匹だけはドレッドヘアーの主人を忘れまいと、そっと石になった頬を舐めるエネコロロが――今まさに、石と化した。
スレートは途切れる正確無比な線条の光源を追い、南の孤島で対峙し、敗れた敵の首魁を遠目に視認する。
ポケモンハンター・J。
キナギ選抜の親衛隊チームは、たった一人の手によって半壊を迎えている。人間としての息を辛うじて保っているのは、スレート、キナギの長、そして神殿各所で健闘する精鋭を残すところとなった。
気炎を上げて向かって行った増援は、軒並み返り討ちにされた。石像という名の死骸がそこかしこに転んでいる。
戦況は事情を介さない第三者の目線から見ても、一目しただけでどちらに軍配が上がるかは明白である。螺旋階段の踊り場で、長がスレートに向かって振り向いた。
「スレート、一族を永らえさせるには、蒼海の王子の戴冠を済ませるしかない」
「この局面を見て、まだそう仰るのですか」
指さすことも畏れ多い惨状を見よ、とスレートは促した。
アクーシャの最深部は、縦に続く螺旋階段だ。教会や聖堂を彷彿とさせるステンドグラスが円筒型の室内に飾り付けられ、原始時代におけるこの場所の正体や用途を、ほのかに窺わせる。キナギの長は、ここをモデルとして村の聖堂が造られた背景を知っていた。
ネオラントをはじめとした深海のポケモンたちが絵画に意匠をこらされている。いくつかのステンドグラスを跨ぎ、超古代ポケモンのカイオーガが巨躯を映し出し、遺憾なく威厳を発揮する。絵画を飾る壁の隙間はやはり紺碧で彩られており、生身で深海に飛び込んだ錯覚を無意識に抱かせる。
職人の手によって完遂された芸術は、最奥まで辿り着いた好奇のまなざしを魅了し、油断の隙に死のレーザーへと誘う悪魔的な誘惑かのようであった。
螺旋階段を上り詰めた先に「海の王冠」が設置されている。ジュノーが任務前説明した通り、マナフィが被ることにより、大海を総べるに足る力を得る源だ。ハンターはマナフィや王冠を先に奪取し、ホウエン全土に混乱をもたらそうとしている。
今回のミッション、本来の目的であるマナフィ帰巣護衛は失敗まで秒読みだった。
マナフィのために、キナギのために、ホウエンの平和のためにと、その身を捧げた者達の屍が随所に目を伏せたくなる形で、乱雑に放置されている。弔う者もおらず、ポケモンごと無造作に殺意を向けていく容赦の無さを、スレートは無秩序なる虐殺以外にどう評すれば良いのか分からなかった。
石化は死と違う、そう思っていた。確かに石像と化した者たちは、デボンの再生技術とやらで復活を遂げるらしく、死とは似て非なる現象に過ぎない。にもかかわらず、ホウエン指折りのトップ企業に手を焼かせており、石化した人間とポケモンが元に戻る日は遠ざかるばかりだ。活動が出来ないならば、生命が停止したも同じこと。一度失われた者が帰ってくるとは限らない。ハンターたちの行いは、一方的に生殺与奪の権利を奪い取るだけの殺戮に等しい。
スレートは遥かな眠りに就く者と、まだ応戦し続ける者の安否にそれぞれ想い馳せながら、苦渋を辛うじて絞り出す。
「これでは、死と何も変わらない」
「……皆、承知の上だ」
長は、スレートの義憤に震える両肩を不安そうに見やる。
長は、スレートの正体がプラズマ団であることを知らない。来る者を拒まず、去る者を追わずの精神で、エクリュと共に未踏の地へと流れ着いた彼を、養ってくれた。長いこと、彼の下で世話になった。素性も分からない人間たちを、若者という理由で置いてくれたのである。恩に報いるなら、マナフィを王に据えるべきだ。しかし、その選択は内通者を取り逃がすという末路を意味する。
スレートはこの後、長を裏切り、マナフィを内通者糾明の道具に使う。キナギから受けた恩を仇で返した時、長はどんな反応をするだろうか。
どうか、お許しください。
等とは、口が裂けても媚びない。スレートはヒイラギと同じく、必要悪として在る。裏切るために仕えていた、とはなんと悲劇的な忠誠であろう。もはや己の罪を隠し立てする気は無かった。
「スレート。大丈夫か、スレート。心此処に非ず、といった顔をしておるが」
スレートが青ざめる本当の理由を察する前に事を済ませてしまいたかった。
「大丈夫です」
長は蓄えた髭と、肩まで伸びる白髪から僅かに覗く小粒の眼で、しっかりとスレートを捉える。彼にまで自分の宿命を背負わせたくないとばかり、スレートは反芻した。
「大丈夫です。行きましょう」
スレートと長は、我々の出会いに確かな友情があったものと確認し合うように、ゆっくりと頷き、一段一段を犠牲の上、踏みしめていく。
螺旋階段が巻き付く塔は、最上部に泉を湧かせるための吸水装置となっている。
闘技場と思しき開けた旧跡の泉に、ふわりと花咲く蓮型の水晶。その内で、王冠は自らを被る者を待ち続ける。
その所有権を決するべく、イトハとJは相対していた。随所に立てられた柱で身を隠しながら、イトハは辛うじて空気を吸いつつ、やり過ごす。だが、現実じみた平衡感覚を取り戻すための呼吸は、許されて十秒である。それ以上油断すると、ドラピオンの腕が横薙ぎに飛び、支柱にひびを入れるからだ。倒壊していく柱は、トップレンジャーの輪郭を明かすかのよう。一呼吸ごとに、人々は石化されていく。
Jの戦闘技術はやはり並のトレーナーを卓越している。中でもタフネスのあるポケモンが厄介だ。彼女の手持ちであるカラマネロは以前、イトハとヒイラギが二人がかりで崩し、スナッチした。二人の内、どちらかが欠けたとしても倒せない相手だっただろう。
更に、最も強力だったボーマンダは、初期の攻防戦でヒイラギがスナッチした。
Jの残る手持ちで確認済みな個体は、ドラピオンとアリアドスの二匹だ。しかし、Jの手持ちでも恐らく歴の長い二匹は、かえってエース級のポケモンよりも小回りが利き、より彼女の意のままに動く。それに、ポケモンハンターとして各地に名を売る彼女ならば、戦力補給には困らないはず。手の内のカードを切るならば、追い込まれてからだろう。上手く誘発出来れば、Jの戦力削減に大きく貢献出来る。イトハの狙いはそこにあった。出来るだけ切札に近いポケモンを誘い出し、無力化する。
イトハはスタイラーを繰り、ドラピオンのターゲッティングを逸らすことで何とか被害を最小限に留めて来た。しかし、隠れ蓑が無くなれば、的は絞りやすくなる。
イトハの髪先に、ちりちりと焼け付く照準の気配を得る。彼女はすぐさま傍らのサーナイトと手を繋ぎ、瞬間移動した。後ろから駆けてくる足音の数からして、およそ二人の支援が来る。深追いせず、Jは無闇な発射を取り止め、次の獲物に照準を移す。
Jは足元の注意を疎かにしたことで、蓮の底から突き上げる衝撃に備える羽目になった。膝を曲げ、予報無しの突発的台風が彼女を取り巻く。
「……来た」
Jの上を取れる高度に転送先を設定したサーナイトとイトハは、自分たちと同じ目線まで噴き上げる嵐を視認する。
イトハの消失を見計らってスレートがボール越しに送り込む赤々とした光輝を、Jは見逃した。隙を利用し、水中にブルンゲルを忍ばせ、ダイビングを発動させる。ブルンゲルのような霊体は、その道に通じた者以外に察知されにくい。直下から台座を呑んで迫り来る竜巻は、呼吸を乱すと共に、それまで気取っていた平静を打ち崩すだけの不意を打ったはずだ。長が確認を取る。
「やったか」
「いいえ、まだです」
大船が暗礁に乗り上げる時の荒ぶる波濤を、結晶体の足場と共に乗りこなす様がすぐ両者の期待を破った。繋ぎ目の無い鎖を揺らすそれは、足場などではなく、れっきとした生命体であることが見てとれる。
「アイスボール」
長はボール越しに技名を囁き、ひとつのプリザーブドフラワーと化した海面に向けて投擲する。フリージオの軌道を迎え撃つ放物線を描き、高度を保ちつつトドゼルガが落下。水没する間際に繰り出された結晶ポケモン・フリージオの面積を占めるように、氷塊が円を描いてJに差し迫る。肉塊と化す前に、Jはフリージオからの離脱を選んだ。
敵方の回転力向上に付き合ってやるはずも無く、フリージオは九十度の傾斜をつけ、そのままトドゼルガを振り落とす。
フリージオの冷気によって創造された串刺しの造花に射られつつ、トドゼルガは身動きを取れなくなる。フリージオはブーメランの如き軌跡を描いたまま、Jの下へと馳せ参じた。迎えに来た結晶体の淵を掴み、体の平衡感覚を修正するよりも早く、狩人はトドゼルガを撃ち抜く。
長は自分のポケモンを囮にせざるを得ないほど追い込まれた戦況を恥じ、相棒にしか届かないであろう黙祷を捧げる。ここで情緒を揺さぶられていては、次の餌食となるのは自分たちだ。今のスレートには、長の悲しみに寄り添うだけの余念が無い。
フリージオは冷凍光線の勢いを利用して飛躍的に上昇した。無機質な視線は、上空に潜むレンジャーをマークしている。
「我々も上へ!」
温存されていたスレートのバルジーナは、背中に長を乗せ、主人の両肩を鷲掴みに上空へと運ぶ。
支柱が支えていた――今となっては過去形である――円形の足場に降り立ち、遂に敵を視野の内に収める。氷漬けの泉によって隔たれた距離感が、逸る脈拍を自然と高めていた。
「J……!」
スレートからすれば、因縁ある強敵。しかし、敵はわずか一名のプラズマ団残党に対して、何の障壁となる危惧も、再会出来たことの感慨も抱かない。ゆっくりと手をあげ、階下のドラピオンにサインを送る。指を一本、それから五本に広げた。
「何か来る」
指示の意図を理解したドラピオンの爪から放たれる猛毒が、研ぎ澄まされた針へと変わる――ミサイル針だ。その標的はサインが暗示するように、一人とは限らない。百八十度回るドラピオンの首に死角は無く、二つの眼で四方を捉えるからだ。
「バルジーナ、ドラピオンにボーンラッシュ!」
すぐさまバルジーナに飛び乗り、降り注ぐ針の応酬を掻い潜り、ドラピオンへと肉迫する。Jはその顛末を見届けず、続けざまにサインを出した。フリージオに向けて、指先を揃えた掌を水平に回してみせる。長がイトハに向けて叫ぶ。
「気を付けろ、回転に攫われるな!」
サーナイトのサイコキネシスで中空に浮かぶイトハたちは、フリージオが部屋の構造を利用して、ステンドグラスごと巻き込んで葬り去らんとする殺気に勘付く。高速スピンの直撃をまともに貰えば、肺を砕かれるだろう。イトハは眼下を見据えた。Jがテレポート地点に向けて、銃を構え、隙を漂わせない。
サーナイトが空間に打ち込む座標を間違えれば、イトハは現れた瞬間に石像と化す。ならばフリージオに骨を砕かれる方がまだ生存の確率は上がる。イトハはフリージオ目掛けてディスクを射出し、ステンドグラスと壁面の隙間にディスクを捻じ込む。軸先から火花を迸らせながら、独楽がフリージオに飛び移ったのを確認してから、通信マイクに告げた。
「これよりフリージオをキャプチャします」
「無茶だ!」
無茶と言われようとも、やるしかない。イトハはもう逃げないことを誓った。キャプチャに臆する自分とは別れを告げたのだ。
ドラピオンのミサイル針から逃れ、バルジーナとフリージオの回転が交差した。この対面は非常に良くない結果をもたらした。バルジーナの左翼、羽先から冷気が機動力を蝕んでいく。着々と希望をへし折るJが階下にて、落下を待ち望むように嘲笑う。
「イトハさんっ、あなたは生き残るべき御方だ……!」
スレートが叫ぶも、フリージオとイトハの対決は既に始まってしまった。しばらく思慮ありげな表情を浮かべてから、長は込み上げるふがいなさと共に告げる。
「スレート、儂をイトハ殿の盾に使え」
「何を仰るか」
「どのみち、ポケモンのいない儂など荷物でしかない。さあ、やるのだ」
「キナギは誰が治めるのです!」
「キナギは。お主がいる限り芽を絶やさない」
スレートは絶句した。
長は未来のキナギを担う者として、スレートに全幅の信頼を置いていたのだ。キナギをプラズマ団専用の活動拠点にしていたなどとは、露も疑わず。年長者の無垢な心を弄んでいるような罪悪感に苛まれた。
知らず知らずの内、愛着を深めた故郷と匿ってくれた恩人に対して出来る最後の恩返しが、盾代わりに使う、などとは信じたくなかった。記憶で燻る内通者からの仕打ちと同じぐらい、長の死に様はスレートの心に傷を残していくだろう。
だが、感情的になって長を救ったところで、残すべき戦闘員のパワーバランスを考慮した時、イトハを欠いてはそれこそ特殊チーム崩壊である。長は自分が足手まといになることさえ屈辱と思わず、永い目で見たとき一族を繁栄させる選択をしたに過ぎない。長を犠牲にする、これが必要悪を名乗るということの意味。
齢二十半ばで道を違え、黒装束にて再決起したプラズマ団に属した。テロリズムに加担していたはずのスレートは、今になって贖罪の意思に目覚めた。壮絶じみた決意を、戦士の前で声高らかに掲げてみせるところまでは良い。
しかし、いざスナッチャーと共闘するという己の使命を遵守せよ、と迫られた時、彼は実行を躊躇するだけの気弱さもまた兼ね備えていた。
解放というテーマに愚直ながらも各々向き合っていた時代のプラズマ団ではなく、「捨てる」という行為の本質を理解しないまま、ただ復讐の炎に抱かれてイッシュに反旗を翻したプラズマ団の立場では、何が捨てることなのか、捨てることでいかなる代償を払わねばならないのか、ヒイラギのように言葉に表して理解することが出来ない。
だが、彼は長を切り捨てることで、初めて奪い、奪われることの意味を理解するだろう。切れば血の出るような痛みをもって、失う悲しさと、取り戻すための執念に寄り添えるようになる。天罰が自分に降り注いだことを悟った時、スレートは突如目元が曇り、声にならない呻きをあげた。
「スレート、どうした。お主こそが戦士だ。生き残れ」
この期に及んで、長に口ごたえする気は無かった。
「バルジーナ、イトハさんを援護しろ」
その身を燃やせ、と命じる。甲高い鳴き声をあげ、片方の翼を機能停止に追い込まれたバルジーナは追いすがるようにしてフリージオの下へと向かう。ブレイブバードの信号を神経に送り込み、麻痺していた翼の感覚を甦らせていく。
イトハは接近するフリージオに飛び移り、例によって本体を翻させ、放られたところから、生み出されるキャプチャ・ラインを絡み付ける。サーナイトは念力を絶やさず、空中で自由自在な挙動を維持出来るようにイトハを支え続けた。フリージオの応手も一辺倒ではなく、鎖を伸ばしてイトハを逆に絡め取る。サーナイトとフリージオの圧がそれぞれかかった結果、不自然な方向に鎖が捻じ切られる。痛いほどの冷気が肉体を軋ませ、嫌な予感がよぎった。
「あ、ぐっ」
イトハはそのままステンドグラスに打ち付けられ、背中を刃物で裂かれたような衝撃に劈かれる。フリージオは冷凍光線の準備に取り掛かっていた。
そこにバルジーナが間一髪乱入する。ガラスもろともフリージオが粉々になるかと思われたが、ある程度の装甲を備えた結晶体はまだ倒れない。だが、破片が一部零れ落ち、罅を入れることには成功した。直接の打撃で攻め立て続ければ勝機はある。しかし、バルジーナは既に息を切らしている。突進したことで余計に凍り付いた双翼も限界を物語っていた。スレートは文字通り捨身の一撃を放たせたのである。
「頼む、イトハさん……!」
サーナイトの念力が持続時間を超えて、薄れかかっていることを感じながら、イトハは今度こそ、フリージオに精神攻撃を仕掛ける。背中から落下しつつも攻勢に転じ、一か八かの勝負に臨む。
一般のレンジャーはポケモンを円形に囲むことでラインを描く。しかし、イトハが繋ぐ光の軌跡は、円形ではなくトライアングルだ。トップレンジャーが迅速なキャプチャを行うべく、効率を突き詰めた果てにある型。瞬きの間に二、三周するラインを打ち砕ける者は少ない。
しかし、フリージオの意識に集中を傾けるイトハでは、死角から迫る毒牙に気付かない。スレートは、Jが石化銃からレーザーを放った事実を視認した。予断を許さない光芒は、対角線上にトップレンジャーを貫こうとする。
バルジーナは目蓋が落ちそうである。それでも二名の搭乗者を支え続けるべく、脚に力を込めた。
「スレート」
「はい」
背中からそっと降りかかる声が、長の最期を意味していた。有無を言わさず、恐れと躊躇無く、一族を束ねて来た功労者としての勇姿を見せ付ける。レーザーの本命を逸らすべく、長はバルジーナから一挙に飛び出す。
「ぼくは、プラズマ団です。昔も今も」
スレートはいつの間にか叫んでいた。長は自身を石に変えようとする一閃ではなく、自身を欺き、罪を告白した男を凝視した。
死の直前になって告げる狡さを、長は天で憎むかもしれない。本当はもっと時間をかけて知ってもらい、飲み込んで許しを乞うべきだった。プラズマ団、という単語が長の脳裏に何を刻んだかまではスレートの知るところではない。タイミングと、意図的な言葉の削り方、すべてにおいて卑怯と罵られて然るべき、最低の告白だった。
しかし、これだけは言わねばならない気がした。自分の本性すら隠し通して彼と別れることは、キナギで過ごしてきた日々にすら嘘をつく気がして、仕方なかったのだ。
長は衝撃に見開かれた瞳のまま、全身を硬直させ、やがて、柔和な笑みを浮かべた。
「そうか」
ここで散るのが運命ならば、受け入れようとばかりに無抵抗で目を瞑る。末端から侵食されていき、重石となった長は、自然と墜落していった。石像自体は重くとも、人の価値の軽さにスレートは耐え切れない。
記憶改竄を施された自分は、やがて今の別れすら忘却の彼方に追いやってしまうかもしれないのだ。
長が最期に覗かせた笑みを見た時に、スレートは確かに安堵した。だが、過ちの禊がそれだけで済まされるならば訳も無い。
これからも自分は罪を重ね、誰かを傷付けながら生きていくだろう。抹消出来ない過去と向き合いながら、罪の刻印を刺青のように焼き付けながら、光とは縁遠い世界を歩いていく。
「告げるべきではなかったかもしれない」
体が小刻みに震え出す。果たして、今の告白は正しかったのか。長との思い出すら忘れてしまう未来が待っているのならば、やがて訪れるであろう忘却に身を焦がす恐怖など生み出す必要はあったのか。そして、今の自分が抱く発想が所詮エゴイズムを出ないことに気付き、おぞましさに絶望する。
結局、どこまでいっても、自分本位でしかない醜い生き物なのだ。長ではなく、自分が死ねば良かった。黒きプラズマ団として罪を犯し、他人にハートスワップを強要し、長まで盾に使うことを最期まで止めなかった。自らは直接手を下さず、他人が犠牲になるのを傍観者気取りで眺めている。
青ざめ、渇いた唇から洩れる息。生きた心地がしない――。
バルジーナが強く鳴いた。
現実を見据えろ、と鳴いている。スレートは酷い隈でも付いたかと錯覚させる怯えた目元で、イトハの方を振り返る。彼女はスレートの罪の意識を一蹴した。
「いい加減に、して」
フリージオとの格闘はまだ続いている。千切れた鎖に囚われ、不安になるような咳をするイトハは、スレートを向き、叫んだ。
場にヒイラギがいたら、これほど熾烈な訴えを聴いたことは無いと言わんばかりに目を丸くするだろう。
「任務は、まだ終わってない。あなたの義憤で、わたしのパートナーを失敗させたら、許さない」
元を辿れば、マナフィから王の位を簒奪せよ、とミッションの本義を翻したのはスレートに他ならない。イトハにとって、策謀した本人が燻っている様が、言いようもないほど腹立たしいのだ。
彼が長の死に打ちのめされる理由は、察することぐらいは出来る。しかし、ここで前を向いて戦わなければ、長が石化したことも時間次第では意味をなくしてしまう。
彼の死は無駄だった、と敵に嘲笑われないためにも、戦わなければならない。自分たちはスナッチャーだ、奪う者である。奪って奪って奪い尽くす、それしか出来ないのだから。
スレートは表情を引き締める。
「目が覚めました」
イトハとサーナイトは、精力を取り戻したフリージオによって放り投げられる。本来ならば気を抜けるはずもない相手なのに、集中力を逸らし、スレートへの叱咤に精神を傾けたからだ。キャプチャ・ラインは途切れ、戦闘力を削ぎ切るための機会は失われた。
現在スレートの手持ちポケモンは、アバゴーラ、バルジーナ、ブルンゲル、デンチュラの四体。その内、アバゴーラは道中のハンター戦で戦闘不能になった。デンチュラは、現在ヒイラギがスナッチし、所持している。ブルンゲルはJを奇襲した後、フリージオの氷に閉じ込められたままだ。
つまりスレートに残されたポケモンはバルジーナだけだ。こうして自分を心から支えてくれているポケモンの闘志にも応えたいと思った。
一度でも戦士として生き抜くことを決めたならば、もう目を背けない。ヒイラギやイトハのように、過酷な現実を受け入れてみせる。
しかし、現実はどこまでも、予想を覆して、非情だった。
毒素を十字に固めた飛翔体が急接近する。ドラピオンのクロスポイズンであることを、スレートは直感した。反応が間に合わず、バルジーナもろとも、ステンドグラスに打ち付けられる。
張り詰めた気持ちのままでいれば、この痛みは味わわずに済んだかと、怒涛の後悔が押し寄せる。ようやく戻ってきた虚ろな視界、光源から一筋の光が閃いた。
スレートとバルジーナはガラスに深くめり込んだ後、いとも容易く散り行く芸術の破片と共に崩れ落ちていく。その様子からほぼ戦闘不能になったと判断したか、フリージオは鎖を解き、イトハをスレートたちの下に投げ捨てる。二人もろとも、始末しようという魂胆が見えた。
サーナイトの手が間に合わない。あともう少し伸び切れば、テレポートで態勢を立て直すことが出来る。
今や上空は砕け散るステンドグラスに覆われ、夥しい宝石の一粒一粒が瞬いているかのような凄絶な光景である。
Jの銃口から届く光線が、チーム・スナッチャーの一名を戦線離脱させようと牙を剥く。
「そうか、反射――」
イトハは、何故Jがステンドグラス近辺での戦闘に固執したのか、ようやく真の意図を悟る。フリージオを壁際に寄せ、ドラピオンのミサイル針やクロスポイズン、J自身の銃で何度も威嚇し、こちらの挙動を牽制していたのは、たった一発の為にあったのだ。
鏡は光を反射する。レーザーは一面に散りばめられた鏡と幾度も反射を繰り返し、ターゲットであるイトハとスレート、そしてバルジーナを石に変える。
終わった。
珍しく、イトハの心内に諦めが宿る。実際、頼りのスレートが意識を失っているのでは、もはや手の打ちようが無い。何度か似たような場面に都合上遭遇したことはあれど、今回ばかりはあまりにも呆気なく死を予感させた。
ここで倒れるわけにはいかない。
――前言撤回する、確かに聴き届けた。ヒイラギに何かあった時は、このわたしが代わって内通者を暴く。
そう言ったのに。先に自分が消えてしまったら、十年も「消えない人」を求めていたヒイラギに、石像として、どんな顔を向ければいいのか。
せめて死の際までは足掻く。奇跡などこの世に在りはしない。在るものは、確率と因果関係だけだ。偶然を望むような弱い心はとっくに跳ね除けたのだ。
イトハはスタイラーを外し、投げつけた。打開策でも何でも無い、苦し紛れの血迷った判断。しかし、鏡の位置をずらせば、レーザーの軌道自体を曲げることが出来る。無闇に投げつけたスタイラーが鏡の破片を攫い、レーザーの軌道変更に僅かながら成功した。
石化が失敗したことを、即座に自身で判断し、フリージオが氷の息吹を放つ。
死闘における命綱は一瞬を稼ぐことだ。諦め半分の足掻きこそが、反撃の好機を呼び寄せた。宙に響くその声がきっと相棒に届くと信じてイトハは叫ぶ。
「サーナイト、守る!」
「ボーマンダ、火炎放射!」
その命令に合流する、もうひとつの命令。二つの声が重なる。双方が双方の存在に気付くまで、時間はかからなかった。
「結晶体の中心を撃て!」
ボーマンダに乗るヒイラギは、瞬間的にフリージオの急所を見極めた。迫真の咆哮で命じ、ボーマンダもかつての主人のポケモンに容赦を加えない。
フリージオを地の底まで沈めるような剣幕の焦熱が炸裂し、敵はそのまま姿を眩ました。共に騎乗するマナフィが、ボーマンダを促し、落下していくスレートとイトハの回収に向けて旋回する。ボーマンダ一匹の背中に乗せるにはかなり不安定な人員数だったが、スレートはヒイラギが背負った。
彼のモンスターボールを外し、すぐさまバルジーナを代わりに戻す。イトハも倣い、サーナイトを回収した。
ハナダの洞窟でもこんなことがあった。二人がかりでJのカラマネロに応戦した任務は、そう古くない記憶である。
イトハは痛みを噛み殺しながら、自分をいつでも護りに来る背中を見つめた。ヒイラギとて本調子ではなく、味方と一戦交えた後の満身創痍だ。また、マナフィが共にいることも気がかりだったが、情報交換を行うだけの判断力が霞んでいる。
お互い、顔を合わせれば、常に死に損ないの表情である。心と骨を一本ずつ砕くほどの戦いぶりに、改めて苦笑が滲み出る。
「来てくれた……」
「言っただろ、おまえのために戦うと」
ヒイラギは実に、素気なく返す。その無骨なやり取りの軽快さが妙に心地良かった。
「じきに加勢が来る。よく持ち堪えたな」
イトハの善戦は報われたのだと、ヒイラギの言葉が暗に告げる。
チーム・スナッチャーの戦闘員は計三人。ホオズキ不在の今、イトハとヒイラギが再び同じ戦場に立った。三人の内、誰かの魂が生き続ける限り、スナッチャーは何度でも再生を果たす。
ヒイラギは羽ばたきの中でJと目が合う。
「波導使い……」
「ポケモンハンター・Jか」
意を決し、ボーマンダはミサイル針の包囲網に向かって行く。