Phase 20 暗夜の礫
「待って!」
閉まり行く無慈悲なエレベーターに手を伸ばし、慌てて駆け寄る女性を目に入れる。手すりに手をかけ、転びそうなほど突っ込んでくる。
「生き返ったか」
「こっちの台詞」
弄られる方の女性が毒づく。以前ならば同じ空気を吸うだけで気分を害していた分、進歩……なのかもしれない。
このふたり、同組織に所属し、現在は”相棒関係”にある。以前はチームの士気を根幹から揺るがすほど相性が悪く、顔を見ては煽り合っていたものだが、転機は人を変えるものだ。波導使いのヒイラギに、トップレンジャーのイトハ。彼らは命令違反の処置として、出頭後一週間の謹慎を命じられた。今回、任務が発令し、召集がかけられたため、ふたりの禁錮も解除されたことになる。その間で、激闘の余韻も冷め、本来の任務に戻る心構えも整っただろう。
「その……わたしも手伝うよ。例の件」
「チェックは済ませてあるぞ」
エレベーターに監視カメラ、或いは盗聴器の類が取り付けられていないか、既にヒイラギが済ませた確認を効率悪く辿ってみたのだ。
例の件とは、あえてぼかす形にしたが、内通者疑惑以外の何物でもない。司令官ジュノーに向けて切らなかったカードのひとつ。
内通者を突き止めるという、孤独の向かい風に吹かれていたヒイラギに協力を申し出るも、淡い期待には応えてもらえなかった。
「おまえは司令官の指示通りに動け」
「またそうやって遠ざける……」
イトハが浮上するエレベーターの外に目線を落とすので、ヒイラギは真意を伝えた。
「いいか、世の中には役割というものがある。人を疑えないおまえが、おれと同じことをしようと、見破られるのがおちだ」
「おれには波導とスナッチが、おまえにはキャプチャがある。適材適所だ」
身も蓋もない言い方に、イトハは開いた口が塞がらない。
「相変わらずドライな言い方」
「でも、まあ、間違ってはいないけど。うん」
頑張って意訳すれば、危険には巻き込みたくないから、おまえは自分の任務をこなして、チーム内での地位と信頼を現状維持しろ、と言われていることに気付く。もっとも、イトハの辞書ではそこまで流暢に翻訳出来ない。が、ニュアンスは伝わる。
素直に言えば良いものを、ヒイラギの天邪鬼ぶりは今に始まったことではない。この捻くれ者に散々振り回されてきたことを思い出せば。未だ心の内を読めない人間ではあるが。
「ちゃんと情報は共有するから」
「分かった」
溜息をつきながら念押しするので、イトハもいい加減苦笑で妥協してやる。
話すこともなく沈黙していると、エレベーターの到着音が沈黙を破り、新たなるステージへの突入を告げた。
「時間だ」
先行するヒイラギに、後ろから声をかけた。
「ヒイラギ。健闘を祈る」
司令官の口癖を真似てみたところ、振り向かない握り拳が力強く応えた。
「揃いましたか」
レーザーキーボードを打鍵し、情報収集に努める未ださして会話を交わしたことのないオペレーターが二名。ジュノーのサポートとして傍らに座り込む元プラズマ団ボス。驚くべきことに、この男は闇組織の味方として吸収された。
モニターがジュノーの背中を占拠し、データが際限なく駆け巡る近未来のテーブルは厳かに設置されたままで、青白い鬼火が漂っているような司令室は、全部そのままの雰囲気だった。一同は破壊の遺伝子解析を遂に終え、本部にサンプルを護送し、作戦討議の場に舞い戻ったのである。
久方ぶりに、無機質だが何人かの気配を感じさせる一室に足を踏み入れるや否や、ジュノーが起立する。以前の険しい表情は消え、優秀な構成員を歓迎する常の態度だ。
既にスタンバイしていたホオズキは、細い眉をあげる。
「おや、ふたり一緒とは珍しいな」
処分時の報告は偽りなく内部に通したはずだが、それでも自分の目で見るまでは納得出来ないだろう。何故なら、彼の記憶が正しければ、ヒイラギとイトハは空前絶後の対立を見せ付け、チーム内部崩壊の危険性すら示唆した後、姿を眩ましたからだ。そんなふたりが肩を並べて歩いてきたら目玉が飛び出しかねない。
だが、ヒイラギはほんの挨拶をも攻撃の合図だと歪曲する人間だ。
「たまたま鉢合わせただけだ」
そっけない返しに、ホオズキはそうかと言わんばかり一文字で口を結ぶ。
鉢合わ「された」はずの方は、まんざらでもなさそうに、分かったような態度で通り過ぎる。不快を表にも出さないのは、ヒイラギという造形を大方把握したからか、それとも。以前なら些細な態度にも苦言を呈しただろうに、何かが違う。
ホオズキとヒイラギが、お互いずれたタイミングで把握し合う。
次なるターゲットを見つけ、思索の原に踏み入ったときの警戒を全開に上げた。
元ロケット団アポロ小隊長・ホオズキ、この男は謎が多すぎる。次はこいつを、暴く。
ジュノーはさて、と前置きしてから、ヒイラギとイトハに先生声で語りかける。この時ばかりはエリートならぬ子供を手玉に取るようだった。
「あなたがたの独断専行に対し、わたしから申し上げることはこの間の通り。我々は共に尽力すべき少数精鋭同士。世界のために頑張りましょう」
上手いこと飴と鞭を使い分け、ふたりに期待を寄せているという真意に行き着かせる。ジュノーという男はつくづく心理の取扱説明書を隅々まで読み込んだものである。
「寛大な処置に、感謝致します」
「よろしい」
その場で起立したヒイラギとイトハは、改めて頭を下げる。満足げな笑みを張り付けた司令官はリモコン片手にモニターを起動させ、本題を切り出すのだった。
「あなたがたには〈かいゆうポケモン・マナフィ〉の誕生から帰巣までを見届ける護衛を引き受けていただきたい」
一同のディスプレイにホログラフが映し出される。
頭部から生えた触覚に、透き通るブルーアローラの色彩が眩しく、存在そのものが終わらない夏を思わせる。抱きしめる力の加減を間違えれば水滴と化して手元から零れ落ちてしまいそうな弾力のある体はまだ幼く、原石にも似た一時の貴重な跡を残す。画面越しに見るよりも、曇りなき眼で確かめた方が何倍もの美しさを放つであろうことは容易に想像出来た。
スライドして、次に送られてきた画像データを拡大する。
海中に沈んだ古代都市、そんなロマンを想起させる一枚が、早くも深海に埋没したような錯覚を及ぼす。この中に神殿が沈んでいる、とジュノーは説明した。
「マナフィが帰省する海底神殿は、海の王冠と呼ばれし秘宝を納める場所です。海底の秩序を維持するだけの力があると云われている。ハンターは海の王冠に目をつけ、海域のポケモンを操ろうとしています。マナフィのタマゴは代々、キナギタウンで孵ります。そこで、手間はかかりますが、もう一度ホウエンに赴いてほしい」
「なるほど……それで護衛を装い、ハンターを叩くというわけか」
「真の目的はホオズキの言う通りです」
「あくまで護衛、だけなんだな? マナフィの捕獲は視野に入れているのか」
「そうだ、破壊の遺伝子のこともあるしな」
「スナッチャー側で引き受けるのが得策かと思います」
「あなたがたは、ラティオス・ラティアスのことをお忘れですか」
それまで淀みなく交わされていた会話に一石が投じられ、辺りは己の失態に静まり返る。
「マナフィの護衛は本来、キナギ海域の護神であるラティオス・ラティアスが行います。しかし、彼らは先の任務で石化、スナッチもキャプチャも通用しない。子孫が育つにはまだ時間を要する。わたしたちは後始末をしなければならなくなりました。マナフィとアクーシャ、海を司る力が奪われたとあれば、再び超古代ポケモン・カイオーガの覚醒が促される恐れもある。カイオーガが目覚めれば、グラードンにも飛び火する。カイオーガとグラードンが戦い出せば、レックウザが降臨するでしょう」
非現実的世界に存在するポケモンたちの名前が次々と紡がれるも、かえって他人事のような響きを持っており、関与することさえ想像は難しかった。
「まるでホウエン神話のようだ」
まさに地獄絵図である。
「十年前、ゲンシカイキの大災害を繰り返すわけにはいきません。我々が出陣することは、ホウエン大災害を未然に防ぐことにも繋がるのです」
「それだけの事態を引き起こせるとあれば、ハンターもこぞって出てくるだろうな」
ジュノーは頷き、議題を次の段階へと移行させる。
「アクロマ、例の新型ボール開発進捗は……」
道を違えた科学者も今では政府の直属部隊として正しき技術を振るうようになった。
話の流れが見えないと言いたげに、イトハやホオズキは顔を見合わせる。
「あなたがたにも伝えておきましょう。以前ヒイラギからの要望を元に、従来のモンスターボールを克服する機能性を追究しています」
ハナダの洞窟でJと交戦した時、体勢の不備やモンスターボール自体の形状によりスナッチを失敗している。そこで、ジュノーが水面下で新ボール計画を進めていたということだ。完成次第、新戦力として実験的に投入される。
台座が、敷かれた丁寧な布よりも高貴なボールを携え、中央からせり上がる。
アクロマは一段降りて、渾身の自信作を披露する構えに入った。
「”プレシャスボール”」
「ヒイラギ専用ボールを想定したものです。いかがですか、ヒイラギ。これがわたくしの技術の結晶――」
ヒイラギはひょいとプレシャスボールを持ち上げ、一通りの手触りを確かめる。モンスターボールは使ってこそ真価を発揮すると言わんばかりのぞんざいな扱いである。
グリップ部分となる中央ラインは少し弾力に欠ける。あとはデザインだが、スナッチャーのアイテムなのだから白は不釣り合い。ありったけの穢れを濃縮したような一品であってほしいと野蛮に望む。
「グリップ硬度をもう少し下げて、ラインを黒に、あとは赤で統一してくれ。デザインはこれでいい」
「はい。今の白ではいけないのですか?」
「自戒だ。カラマネロ事件を忘れないための」
彼の言葉の重みを知る以上、誰も異論を唱えるものはいない。
だが、ホオズキが完結しかねない会議に新たなる課題を提じた。
「いくら精度を高めても、ラティオスのような未対策の事態が起きれば一気に瓦解する。パーセンテージで計れる問題ではない。わたしたちが向き合うべきはスナッチ失敗の原因究明だ。違うか」
「もっともです」
「モンスターボールに入るポケモンは基本的に衰弱状態だ。これは弱ったポケモンが小さい場所に入ろうとする習性から来ている。破壊の遺伝子はそもそも意識を活性化させるものと考えられる以上、興奮状態でのスナッチは適切ではない」
ヒイラギが割って入る。
「つまり鎮静化を図るべきだと」
「そうだ。それが出来るのはこのチームにひとりしかいない」
「わたしは不安だ。ラティオスにキャプチャは通じなかった。他の対策も講じるべきだと提案する」
「だがキャプチャの実績は既に証明済みだ」
「破壊の遺伝子ポケモンを少しでも鎮静化すれば、スナッチ出来る可能性はまだある」
「やってみる価値はある」
「おれたちの力が通用しないと決めつける前に、パワーアップさせるんだ。だからこその新型ボール、スタイラーの強化」
指先から冷え切った男のはずが、端々から迸る雄弁な熱意は、以前よりも己の責務に対する自覚を感じさせた。
「……なるほど、そこまで言うならやってみろ」
「キャプチャ・スタイラーのパワーアップ?」
「そうだ。出来るか」
「わたしのスタイラーになくて一般トップレンジャーのスタイラーにあるものは、〈チャージ〉と呼ばれる機能です。シューター型の新スタイラーはチャージ分をシュート時に加算するための出力に回しました。ですが、まだ機能を付加出来る余地はあるかもしれません」
「オペレーター、スタイラーに関してはユニオンと連絡を」
「はい」
ユニオンという四音を聴いて、イトハの表情が曇り、頬の筋肉がそれまでの柔軟さを失ったのをヒイラギは見逃さなかった。そして、ヒイラギの強い視線を辿るホオズキもまたいつにない違和感を覚え、どこか胸騒ぎがした。
単なる杞憂で済めば、今までと何ら変わらない任務のための付き合いに落ち着いていた。だが、スナッチャーはコマンドを入力すれば意のままに動く駒から、少しずつ生を得始めていくことになる。突出した感情が絡み合い、個人を暴露させるまでに。
マナフィを護衛するには、まずタマゴからマナフィが孵らなくては始まらない。
そこで生誕祭に参列する。我々は招かれざる客だという意識を第一に持て、と司令官からありがたい警告を頂戴した。想像と裏腹にキナギ民は政府が役人をよこしたと信じて疑わず、彼らを疎んじる態度をおくびにも出さない。彼らは長に迎えられ、風通しの良い木造部屋にて歓迎される。
「御覧の通り、生誕祭準備の仕上げに取り掛かるところです」
長の話には、イトハが相槌を打つことで他ふたりの無愛想をカバーしていた。
慣れ親しみ当然のように享受していた都心の世界観から一新、キナギは桟橋で家々を繋ぎ、ひとつの区画として構成している。かなり広い敷地を誇るリゾート地、と想像しても差し支えない。羽を休めに来たキャモメやペリッパーにポロックをあげ、飛び去って行く様を見届けたり、浅瀬で釣りに勤しむ人からさまざまだ。都会のように用途を定めた場所としてはっきりさせず、あえて町と外の区切りを曖昧にして、共生の趣を感じさせる。
キナギ民は爽やかなひと夏の恋しさを思わせる白装束に身を包み、民族らしく統一を図っている。パールルの真珠を加工したネックレスや、サクラビスをモチーフにした貝殻のブレスレットは、海域内にある町だからこそ照り映える。
スナッチャーは相当な家屋の内から、二軒を割り当てられた。生誕祭は明日の夜、それまで空白の時間を持て余すことになるため、まずは護衛隊と顔合わせを行う。
夕方時だが、既にライトアップが辺りの影を裂くように白光りしている。少年少女たちと飾り付けを手伝う何匹かのチョンチーが明かりと同化して見える。
祭の舞台と思しき巨大な家屋の敷居をまたぐと、配置された木机の周りに人々やポケモンが寄り添っている。訪問時よりも堅牢で一筋縄にはいかなさそうな眼差しが迎え入れる。やはり護衛役ともなると厳かな雰囲気だ、と思いきや、ひとりが親しげに話しかけてきた。
「政府の役人が、あなたたちで安心しました」
「えっ。あっ、えっ?」
「……舞踏会の男だな」
ホオズキがさりげなく耳打ちし、イトハが頷く。目を白黒させているのが丸分かりで、頬がかあっと熱くなる。
オツキミ山では色々な意味で濃厚な時間を過ごしていたからすっかり昔のことのように思えるが、スナッチャーとしての任務はサント・アンヌ号が最後だった。ダンスパーティでイトハは前にいる青年とペアを組み、一度だけ踊った。すべては船内に潜り込んだアクロマを確保するための策略であったが。まさかここで再会することになるとは、奇妙な巡り合わせ。改めて世界の狭さを実感する。
船内任務でヒイラギは独自に行動していたため、彼とは初対面だ。だが、彼はヒールボールに入ったラティアスをイトハに託し、船内から姿を眩ましたことから、スナッチャーと只ならぬ因縁にある。舞踏会といえば、すぐに察しはつく。
白装束に、ひとりだけ橙色に染めた頭髪が目立つ。純キナギ育ちとは考えにくい。
「なるほどな」
ヒイラギは口を開いたかも分からないほどの静けさをもって、イトハと接触を図ったという男を品定めする。権利があるのは、向こうも同じだ。机に腰掛けていた、髪を結んだ大男が姿勢を正し、自分よりも背の低い青年に問いかける。
「スレート、知り合いか」
「サント・アンヌ号で出会いました。彼らがラティアスを託した方たちです」
「ほう、それならば心強い」
部隊の見る目が変わった。少なくともヒイラギは機微を察する。
今の発言で何故、スレートと呼ばれる人物がスナッチャーとのコンタクトを試みたのか分かった。やはりキナギの民は、ハンター対策に先手を打っていたのだろう。
しかし、それだけだろうか。プラズマ団という立場が、何か重大な鍵になる気がしてならない。彼は組織像を掴んでおり、その上で協力を要請したのか。だとすれば、キナギの民は正体がスナッチャーだと知っていて、マナフィの護衛など頼むだろうか……。ジュノーは自分たちに必要最低限の情報しか与えていない。それもそのはず、構成員は無言で任務を忠実に遂行するから存在意義を持つのだ。
その後は簡単な自己紹介と挨拶を済ませ、適度な会議で段取りを確認し合った。
イトハはコミュニケーションがてら少年少女らと遊びつつ飾り付けを手伝っており、早速気さくなお姉さんとして気に入られている。一方、ヒイラギは村人にキナギ海域のことを尋ねたかと思えば、すぐさま捕獲のテストプレイに向かって行った。夜までには戻るそうだ。ホオズキは武器の補充以外特にやることもないため、世間話をしながら、イトハや子どもたちをどこか生暖かさと冷たさの同居するまなざしで見守っていた。
「ちょっと失礼」
唐突に通信が入り、家の裏側で応じる。相手は耳が腐るほど聴いた声だ。
『ホオズキ、これはあなただけに回しています。ヒイラギに怪しい素振りがあればすぐ報告するように』
「……まさか、あいつをひとりにするためのテストプレイか」
『そうです。最初はヒイラギ単独で、次にイトハを加えてテストさせます。が、目的はデータ採取だけではありません』
「なんだ」
『彼は何かをわたしたちに隠している可能性があります。しかし隠したところでメリットには成り得ない。つまり筋が通らないのです』
「メリットになる理由を見つけろと」
『その通り』
「イトハはどうする?」
『洗ってもらって構いませんが、ヒイラギを優先してください』
「了解」
通信が一方的に遮断されたのち、自分に与えられた役目を今一度咀嚼する。ジュノーの命令はホオズキにとって絶対遵守だ。逆らうことは、許されない。一度、危険を承知で敵の内部に潜り込まされたが、あんな経験は二度と御免である。
「嫌な役回りだな」
ドンカラスが光を苦手そうに、翼で遮ろうとなんとか試行錯誤していた。相棒の気持ちが手に取るように分かる。祭――最も縁遠い空間と言ってもいい。
適応力の高いイトハはともかく、ヒイラギは何を考えているか分からないが、山里育ちならきっと嫌いな町並みではないだろう。ホオズキには明るすぎた。
「ゴミ溜め育ちには粗捜しがお似合いってか。畜生め」
主人を何十年と見て来たドンカラスには、硬直した男の姿が映る。沈みゆく太陽を一身に受け、黒衣にじりじりと焼け付く肩が熱い。唇を結んでも、裏では歯を食いしばる。
祭で賑わう歓声が、空高く透き通っていた。
キナギ近辺の潮流はその強さゆえに、ギャラドスほどの暴君でも油断ならない。ひとたび流れに乗せられれば、カイナシティ方面まで流されてしまうこともあるらしい。ヒイラギにはまるで関係ない話だった。バランスを全く崩さず、甲羅に騎乗している。カメックスが死線で得た力は全身に蓄えられており、いかなる海流でも位置を見失うことはない。
「突然捕まえて悪かったな。おまえは自由だ、野生に戻れ」
プレシャスボールに収めた野生のサメハダーを逃がし、怪しげな空模様から撤退の頃合だと推し計る。
「ボールの捕獲機能は無事作用した。カメックス、テストは終了だ。帰還する」
相棒がこくりと頷き、波に乗り出す。滝のような激流を登る中、明らかに水飛沫ではないものが髪に降りかかった。見上げずとも、篠突く雨が勢いを増していく。面倒なことになる前に到着すれば、こちらの勝ちだ。
「少し急げ」
加速が指示への回答となって返ってくる。
岩陰から一匹のポケモンが現れた。遠距離の輪郭は、雨粒のカーテンに紛れて把握し辛い。大方、海域を住処とするポケモンだろう。決めつけ、相手にもしなかった。
しかし、カメックスの泳ぎを映し鏡のように真似て来る。目印となる四つ目の巨岩を越えた辺りで、挙動をコピーしながらも接近と離脱を繰り返す。あからさまな挑発行為だ。
「スピードを上げろ」
試すようにハイドロアクセルを強く踏む。並のポケモンならドロップアウトする領域だ。海ならば、電光石火の素早さを誇るポケモンにも負けない。自分が一から育て上げたポケモンなのだ、絶対の自信をもって証言しよう。
これで振り切れる、その見通しが甘かった。泡立つスクリューを味方につけ、着々と差を縮めて来る。対角線は一点で交わろうとしていた。
「海でおまえに追いつけるポケモンがいるのか?」
ポケモンにおやの不安が伝わったのか、戦闘モードの挙動に切り替わる。しかし、焦ることはなく、着実に妨害地点を抜け、コースを攻略していく。
カメックスに自らの足元という全幅の信頼を預ける間、肌にへばりつく衣服の不快感にもめげず、必死に標的を捕捉しようと注意を巡らす。万が一、敵襲の可能性を考慮に入れる。小手調べは終わり。標的を障害物と認識変更し、排除にかかる。
「おまえはキナギに帰ることだけを考えろ」
何年、何十年もこうして付かず離れずやって来た関係に、歪はない。あるとすれば、この間解消したものがそれだ。ヒイラギは雨に隠れた波導を見抜こうと刮目するも、自然の猛威は心眼を簡単には許さない。髪から垂れた水滴が唇と歯の間に流れ込む。
遂には、後尾にぴたりと張り付かれた。が、騎乗する人間は黒衣に身を包んでおり、何者かの把握にとても務めてはいられる状況ではない。
「突き放せ!」
敵を見据えながら、思わず感情が零れ出る。自分のポケモンが正体不明のポケモンに独壇場で速度に劣りかけているという事実を、なんとか覆してやりたかった。
カメックスは随時、軌道を変更する。凄まじい海流の中でどれだけ自由に動け、最後までしがみついていられるか。幾つもの岩を潜り抜けてきたことか、キナギは目前だ。
ヒイラギはさすがに痛みで悲鳴をあげそうな網膜を労って目を瞑る。おぼろげな波導は、カメックスを追い越していく直前、現代に蘇る古代の魂の再来を告げた。
「アバゴーラ!? アクアジェットか……!」
度重なる加速の秘密がようやく分かり、歯噛みしたい思いに駆られる。
完璧に出し抜かれた。アバゴーラは荒削りな甲羅を見せ付け、去っていく……ように思われたが、ヒイラギとカメックスを高速の軌道で牽制する。
疑問は最も望まれない形で氷解した。この海域を知り尽くしている人間を、ポケモンが乗せているのだ。特定ポイントまで誘い込めば、渦潮を展開出来る。ヒイラギは最初から術中に乗せられていたのだ。このまま渦潮に飲み込まれれば、歴戦の覇者とて無事では済まない。みずポケモン使いが海の藻屑になる、それは決して有り得ない話ではなく、常に意識しなければならないリスクでもあるのだ。
「ボーマンダ!」
ヒイラギごと飲み込もうとする渦から脱し、第二手を繰り出す。空中からならば、アバゴーラの位置を特定し、迎え撃つ体勢に持ち込める。
渦潮で足を奪えば、空へと逃げる。一連の組み立ても予測済み、と言わんばかり、間髪入れず、雲を絡め取るような電撃が撃ち落とされる。急激に呼び出されたボーマンダは、不安定な飛行体勢でなんとか攻撃をやり過ごす。本気だ。命を狙われることには感覚が麻痺するほど慣れているが、どこか手の内を知られているような不気味さを拭えない。
やがて折れ曲がった翼が大海のように開き、海流を滑る。カメックスは波導を撃ち、アバゴーラのストーンエッジごとまとめて撃ち抜く。敵は直撃する直前に離脱したようだが、これで一匹は始末した。特殊攻撃に対する装甲は備えていなかったと見える。
残されたヒイラギとボーマンダを狙う無限の槌が唸りをあげる。悪天候すら、彼らを追い詰めるために用意された舞台装置だと被害妄想出来た。
電撃が瞬く前、エネルギーの巨大な放出が感じられた。雲を経由し、ヒイラギとボーマンダに直接撃ち落とそうとしている、これは明確な技の発動である。
だが、暗雲を利用したホワイトアウトまでは干渉の手が及ばない。ボーマンダの片翼が矢のような一撃に射抜かれ、全身に痺れが伝わる。ヒイラギは思わず手を突いた。思ったより手強い敵だ。否、これからは手強い敵しか出て来ない。マナフィ護衛にしても、先頭に立つのは自分だ。こんな状況、イトハと潜り抜けたあの時を想えば、何の危機にも値しない。波導使いは圧倒的に不利な局面であろうと、有利に捻じ曲げる力を持っている。
「まだ行けるな?」
ボーマンダは雨音を掻き消すように咆哮する。それだけで充分だ。
岩石に囲まれた海路の区画を俯瞰する。四つの岩のどこかにポケモンが隠れている。
渦潮まではよくやったが、ボーマンダに自分を乗せたことはかえって悪手だった――狙うは一点、勝利を確信し、腕をはらう。
同時に脳天を劈く雷光が閃く。タイミングが少しでもずれれば、互いを焼き尽くす、かに思われた。間に合え――夢中で念じる。
突如、旋回する意識と視線の中に、一条の熱線が棚引き、雷を受け止める盾と化す。
「ゴルーグ……!?」
彼にとって味方を意味する姿が加勢した。
ヒイラギたちに向けた攻撃だけが無効化された瞬間、襲撃者の末路は決定する。
背に跨る黒衣の男が、開いた掌から光弾を振り撒き、周囲がホワイトアウトに包まれる。光の玉による目くらましの時間稼ぎだったが、たった一度の隙こそヒイラギが今回欲するものであった。波導の深層海流に、獲物の影が瞬く。
「ボーマンダ、角度225度、はかいこうせん」
首を命じられた方向にぐるりと向ける。口内から射出された赤黒い束が命中した後の有様は、元から破壊後の景色であったと錯覚させるほど綺麗に抉り取られた。
岩盤から落下して溺れかけるポケモンを逃さず、コアを起動させる。宙に放ったボールをそのまま逆立ちに翻って蹴飛ばす。一発でスナッチの餌食となり、カメックスの甲羅に転がった。束の間の嵐が止み、気配は根こそぎ消失する。
ヒイラギは助けに入ってくれたホオズキとゴルーグに向けて手を挙げ、カメックスの甲羅に飛び降りる。プレシャスボールの透明なカバー越しに、丸く縮こまり、帯電した毛並を誇るポケモン……もう一匹、襲撃に加担していたのはデンチュラだった。アバゴーラで動きを止めたのち、巨岩に配置したデンチュラで始末するという手筈だったのだろう。何者の仕業か、計算されたやり口に、少しばかり空恐ろしさを覚える。
「複眼でより正確に敵を把握出来る、そういうことか」
戦力にはなりそうだが、ヒイラギはスナッチしたポケモンを無闇に加えない主義である。ポケモントレーナーと違って、少数精鋭を求めているからだ。ともかく、ジュノーに報告する必要はある。
「デンチュラに、アバゴーラ。どちらもホウエンというより、イッシュのポケモンだな」
そう言いながらゴルーグ越しに手を伸ばすホオズキに触った途端、痺れが全身を貫き、思わず反射的に手を離す。
「動けるか?」
「大丈夫だ」
ホオズキは死闘の跡を見やる。豪雨の中、正体不明の敵を相手どる……改めて若人の底力を悟る。彼ひとりでも、多少の傷を負ったとしても、いつも通りの仏頂面で戻って来ただろう。これまで何度も似たような場面に出くわして来たが、その度ヒイラギは不死身の地力で立ち上がった。
「もしかして、助けは要らなかったかな」
わざと皮肉るホオズキの深層を推し量るには、あまりにもこれまでの積み上げがなさすぎた。ヒイラギは端的かつ正直に、真顔で返す。
「いや、助かった」
ふたりの間には、釈然としない、微妙な緊張が残った。