Phase 13 攻勢
ハナダの岬と反対方角に進むと、濃霧が腰の高さまで張った草地に差し掛かる。奥へ、奥へと下るにつれ、ポケモンリーグ古豪ですら立ち入りを禁じられた洞窟が見え隠れする。偶然迷い込んでしまった者は血の気が失せ、命からがら逃げていくという。
色々の噂が立った。物好きな陰謀論者は必ず時期を見て声を大きくする。殺されたポケモンたちの骨が埋められているとか、ポケモンリーグが不都合な事実を隠蔽するためだとか、枚挙に暇がない。噂は尾ひれを付けて勝手に人々の思惑を超え、肥大化していく。
人々は正体不明の洞窟をハナダの一部としても扱おうとはしなかった。結局、名無しの洞窟もとい〈ハナダの洞窟〉という地名だけが独り歩きしたのである。
「その真実を知る者は一握りである。しかし、わたしは知っている。この洞窟が本来何のために封鎖され、協会は何を隠したがっていたかを」
男は初めて訪れる土地とは思えないほど慣れた歩みで、傍らのポケモンの毛並みを撫でながら、高らかに紡ぎ、聴かせる。
額に埋め込まれた宝石の美しさには目を見張るものがあり、脈動する鮮血のような生命力に満ちた輝きをたたえる。四足歩行で、毛色は白というよりもむしろ金にすら近い。
「何故なら、我々こそが、この洞窟にとあるポケモンを封じ込めたからだ」
丁度話を終えると、男はすっかり地盤沈下した洞窟「跡」を眺める。
生息地としての形は崩れ去り、巨大な戦闘が勃発した痕跡を悟る。探していたポケモンがもう去ってしまったであろうことも、瞬間的に察せた。
シルクハットを被り、オールバックに固めた頭髪をほんの少しだけ覗かせる。
開いたスーツの上に淡いブルーのマフラーを垂らし、コートを着込み、何者をも塗り潰す漆黒で固めている。挑戦的な容姿は、敵として立ち塞がるものなら何であれ返り討ちにする――絶対の自信と矜持を体現していた。
「用は済んだ。行くぞ、ペルシアン」
ペルシアンと呼ばれたポケモンは、男に着いていく前、もう一度だけ最強のポケモンが眠りに就いていたという跡地を見やる。アメジストの残骸が無造作に転がるだけだ。人々が手を加えた形跡はなく、腫れ物扱いである。
男とペルシアンが進もうとしたときに、霧に紛れ、全身触手のポケモンが降りてくる。下半身の発光のみならず、双眸の薄目が妖しげな色を纏う。
野生ポケモンにしては、カントーで目撃例の少ない種族だ。やたらと殺気めいているし、最初から男しか焦点に入れていない。まるで狙ったように、だ。
男は拳銃式モンスターボール射出機を二丁取り出し、それぞれトリガーを引く。銃身を通り抜けたモンスターボール開閉スイッチが、発射の衝撃で開く。弾よりも強力な武器、それがポケモンだ。
ペルシアンは自分が出る幕でもないというように座り込み、あろうことか背中を足で掻き始めた。緊張の欠片もないが、それだけ男の腕前を頼りにしているという風にもとれる。
「殺しに来るなら、こちらも正々堂々やるつもりはない。命を賭して来い」
霧では姿を覆い隠せないほどの巨躯が浮かび上がる。一万年前の地面から発見されたと云われる太古の魂が壁のように立ちはだかった。左右に戦闘能力を凝縮させたような牙を携える〈2ほんキバポケモン マンムー〉だ。
マンムーが息を吐くだけで、足元から冷気が這い上がり、地表が冷却されていく。
並のトレーナーなら体温を失う危険があるほど極寒地帯で真価を発揮するポケモンだけのことはあり、地上は制圧された。故にカラマネロは上空へと退避する。
眼下を望むと、既に幻想の世界に迷い込んだような光景が展開されていた。
一面、霧の雲海が余すことなく行き交い、今も拡大を続けている。白の支配下に置かれた世界、そこにはいくつものメカニズムが絡み合っていた。
男は霧のフィールドを利用すると決めたときから、マンムーをチョイスした。
ここら一帯は〈ハナダの岬〉と呼ばれると同時に、山に囲まれた盆地でもある。このような土地柄は珍しい。風が遮られ、気温も熱しやすく冷めやすい。しかし、海から風や水蒸気の補給も絶えない。濃霧の発生に適した好条件が揃い踏みだ。
そもそも霧とは、空気中の水蒸気が凝固し、浮遊したものである。マンムーの吐息が後押しして、低地に広がった霧が急速に成長を遂げているのだ。
敵の視界を奪うために、男は一連の流れを戦闘前に練り上げた。
カラマネロは、人の命令なしに動く自立型ポケモンである。生活に重宝されるエスパーならではの高い知能を持ち、一介の野生ポケモンとは違う脳のはたらきをする。合理的に物事を考えられるからこそ、トレーナー不在のリスクと差をおのずと感じたことだろう。
フィールドを利用して戦いを組み立てる。男のタクティクスはこの時点で上を行った。
「つららおとし」
氷の息吹によって精製された氷柱が、落果のように襲い掛かる。カラマネロは降り注ぐ氷塊をぴたりと制止させ、三叉に解き放つ。マンムーの鈍重さではその身をもって受け切るしかない。男はマンムーの足跡が後ろへずれたことに目を付ける。技は見切られた、ならば戦法を変えるまでだ。
柔軟に触手を絡め、霧へと潜り込む様は、氷との美しき共演を見ているかのよう。しかし、攻め手に欠けるカラマネロの動きは単調で、呆気なく捉えられてしまう。
「ガマゲロゲ、エコーボイス」
空気を伝う振動に、痺れのような激しさを覚える。気の錯覚ではない。木々と濃霧が共鳴するようにカラマネロの神経を苦しめる。どこに潜んでいるかも分からないポケモンにここまで弄ばれ、優秀な頭脳は戦況把握及び処理の限界を声高に告げていた。
カラマネロから見えずとも、雲海に立つ男は天地鳴動する中で平衡感覚を崩さずにいる。
「指示もなしによく一匹でここまで戦ったものだ」
男の称賛は皮肉中の皮肉。これでチェックメイトだという冷酷な響きにしか聴こえない。
相手を完膚なきまでに叩き潰し、二度と起き上がれなくするまでが男の戦いだった。
神経を刺激し、貫くような痛みは、引くどころか増す一方だ。カラマネロは頭を抱え、絶叫しそうになる。これ以上は身が持たない。満身創痍の中、唯一離脱という選択肢を取ることが出来たのが奇跡に等しかった。
「戻れ」
敵の気配が消えたのを感じ、モンスターボールにポケモンを戻す。雲海はマンムーの冷却機能を失い、元の濃霧へと薄らいでいく。
「このサカキを倒したくば、もっと強いポケモンを連れて来い」
何も言わず歩み出すのが合図となり、やっと終わったのか、と目を覚ましたペルシアンが後ろからついてくる。
スナッチャーには、マボロシ島での出来事を整理する時間が必要だった。
虚無の船旅から帰港し、一同は本部に戻る。苦しいリザルトに目を背けたくなるが、自分たちで招いた現実だ。
破壊の遺伝子保管・解析は、これまでにも化石復元作業などを成功例に持つ、遺伝子工学に秀でた〈ニビ科学博物館〉を拠点として秘密裏に行う。ジュノーとアクロマ、ふたりのブレインが参画することとなった。
ヒイラギ・イトハ・ホオズキの三人はニビでの休息を命じられた。破壊の遺伝子を敵に奪われれば一巻の終わりだから、最低限の防衛ラインは敷いたままだ。
「ニビ非常事態宣言が発令されるまでは何も動かなくていい。とにかく身体と心を落ち着け、次に備えるように。我々はあなたたちがいてこそ、力を発揮出来るのだから」
とオペレーターからの伝言だ。それなりに考えられた文面、気持ちの入った言葉である。
しかし、ヒイラギは毛頭従うつもりなどなかった。これまで死地を渡り歩いてきた彼からすれば、そんな言葉は慰めにもならない。
内通者の意向次第では、今にもニビが奇襲を受けるかもしれない。何の抵抗力も持たない一般人はテロ行為に巻き込まれ、昨日までの平和は塵と消える。自分たちには休む時間などない。戦いの次には戦いが待つ。一度や二度の失敗に打ちのめされるほど、やわに育てられた波導使いではない。彼の立ち直りは異常に早かった。元々、頭を悩ませる問題を抱えていたからだ。
内通者の存在。
イトハ・ホオズキ・ジュノー・オペレーター・アクロマ……誰かが嘘をついている。少数精鋭なのが不幸中の幸いだった。
内通者を倒さなければ、スナッチャーはそもそもチームとしての始まりすら迎えられない。ヒイラギにはとりわけ裏切りを嫌う理由がある。だからこそ、邪悪の化けの皮を剥がし、白日の下に晒してやるという執念に燃えていたのだ。
そこで、行動を開始することにした。
これまで曲りなりにも共闘してきた面子が現状での有力者である。一騎打ちは避けて通れないだろう。攻めに転じるのは、一種の賭けだ。一気にヒイラギが窮地に立たされる可能性もある。だが、波導使いは虚偽を許さない。例え、真実が残酷なものだとしても、解明しないよりはましだ。
憔悴し切っているイトハを叩くならば、今が好機。
これまでの経緯からして、イトハは良くも悪くも疑うことを知らない。そう見せかけているだけかもしれないが。
と言いたいところだが、事態はそんな単純ではない。
スナッチャー技術顧問としてメンバー入りしたアクロマ、彼はジュノー曰く「記憶を改竄」されている。内通者本人だとしても、記憶を改竄されていれば、気付かないまま良いように操られていることになる。記憶改竄自体が本当に行われたかどうかは、あくまでジュノーの一説によるもので、確認されていない。それではアクロマも怪しくなってしまう。彼は波導の尋問にかけて無罪だと考えているのだが。
内通者は誰か――この問題は背負うに重すぎた。独りプラズマ団と邂逅してしまったヒイラギは今や、四面楚歌だ。諸々の可能性を突き詰めれば突き詰める程、袋小路に叩き込まれた気分になる。情報量に頭が破裂しそうだ。弱音を吐きたくなるが、辛抱のときだ。
ヒイラギはまだ、己にとって本当に必要なものが何か、理解していなかった。否、理解していなかったとは、語弊があるかもしれない。到底、認められなかったのだ。
イトハを誘き出す場所は〈オツキミ山〉を選択した。ニビ近辺の有名な山地で、中腹部には開けた窪地のような広場があり、運が良ければピッピたちの踊りを見られる。
時勢が時勢のため、登山者も減りつつあるそうだ。部外者の介入はまずない。
スナッチャーは「休め」と言われている。思いやりではなく命令である。特にイトハを慮ったものだ。逆手に取れば、命令を変更すれば良い。
策は以下の通り。
メタモンを使い、サント・アンヌでプラズマ団(アクロマや女性)が用いた変装術で司令官・ジュノーに化ける。このとき、メタモンの個体はジュノーを認識していることが条件だから、証明写真の類を見せれば姿自体は変えられる。
メタモンの変身能力とは、与えられた情報を蓄積した記憶や経験が補強して、細胞変形を繰り返すという仕組みだ。細胞組織を一瞬でコピーすることから、声帯も同様のものになる。一種の変声機としても役立ってくれるわけだ。故に、変身さえ完了してしまえば、多少不完全な点が残っても構わない。直接会わず、通信機から指示を送れば良い。
あとは違和感なく、ジュノーを出来る限り真似る。台詞はこうだ。
「先に言っておきますが、これはあなただけに出している指示です。回復に専念させるため、誰にも伝えていません。オペレーターにも、です。もし体力が回復したならば、頼みたいことがあります。わたしへの応答は不要です。ここから先、オツキミ山に破壊の遺伝子の残留思念らしきものの影響を受けたポケモンが確認された、との報告が入りました。まだ被害は薄いようですが、野生ポケモンの被害を鑑みて、キャプチャしていただきたい。反応はオツキミ山の中腹部からとのことです。健闘を祈ります」
もちろん破壊の遺伝子の残留思念など、ヒイラギの作り話に過ぎない。しかし、ミュウツーが生息していたハナダの洞窟からオツキミ山はそう遠距離ではなく、理由にも合理性が伴う。イトハは使命感から極秘任務に携わり、見事ヒイラギの罠にはまるだろう。
問題は、どうやってメタモンを確保するかだ。
アクロマ、プラズマ団の女性、ヒイラギはどちらかのメタモンを使える。アクロマとコンタクトを取れば怪しまれる。プラズマ団の女性を保護しておいたのはやはり正解だった。「女性の様態を確認したい」と言って、面会を申し込む。
女性の身柄は重要参考人として、スナッチャーの庇護下にある。目が覚めたとき、当時の状況を知るヒイラギがいなければ話が通りにくい。
カードキーを差し込み、隔離部屋に入る。緊急で設えたため、古代ポケモンの化石や琥珀と一緒に研究材料の如く安置されていることに申し訳なさを覚える。
点滴を手の甲に繋がれ、酸素マスクをつけられ、厳重な機械がおびただしく点滅している。必要な物資以外は窓すらない、閉鎖空間だ。
真っ新なベッドに寝かされ、未だに目を瞑ったままでいる。
ヒイラギはあのときの様子を鮮明に覚えている。身体が宙に浮き、磁石のように引っ張られていく中で、顔色をなくしていく。あんな芸当が出来るのは、エスパーポケモンの仕業としか思えない。
現代医学においてエスパータイプは人知を超えた側面があり、超念力にあてられた人間はポケモンより回復が何倍も遅く、症状次第ではあるが全治一、二年を費やす。治癒後も後遺症を発症する場合が多く、年齢如何によっては社会復帰も困難になると言われる。
名前も声も知らないこの女性は、まだ自分と同じぐらい若く、未来がある。こんなところで人生から脱落させたくなかった。ヒイラギは女性に向かって語りかける。
「おまえが命を懸けて伝えようとしたことを、おれは今から突き止めるつもりだ」
ベッドの傍、モンスターボールが回復装置に繋がれている。コアを修復しているスターミーと、正体を内通者から隠そうとしたメタモンだ。
「こいつは借りて行くぞ。必ず返しに戻る」
ヒイラギはメタモンの入ったモンスターボールを外し、ポケットに忍ばせた。
ヒイラギの作戦は滞りなく進行した。
「分かりました。……行きます」
思考力が低下していると窺わせる、ゆったりとした口調の中に、どこか決意と執念のようなものすら滲ませて、イトハは指定場所までやって来た。
風雨の侵食に幾度となく晒された結果、鋭利に磨かれた岩が不規則に生え、切り立った崖を構成している。橋のように岩場が連結し、顔面かと錯覚する岩石が飛び出す。無骨で荒削りどころか、月見に見合った光沢で、宝石のように反射した場だ。
待ち受けるは、破壊の遺伝子に侵された野生ポケモンなどではない。片目に二度と開くことない傷痕を刻んだ戦士のカメックスだ。後ろではそのトレーナー・ヒイラギが仁王立ちを決め込む。
ヒイラギがいるはずもないと思っていたイトハは、真っ先に疑問を口にする。
「なんでここに?」
「はるばる御苦労。おまえだけに出した命令をよく守ったな」
「司令官の名を騙ったの……!?」
「そうだ」
イトハは信じられなさそうに息を呑んだ。ヒイラギは禁忌を犯したのだ。指導者の権力を利用するなど、本来は言語道断、資格剥奪に相当する振る舞いだ。
唖然としてものも言えない。突飛な行動を取る馬鹿ではなかったはずだ。ヒイラギのやることは必ず理由がある。任務では確実性の保証された事柄以外口にするなと言った男だ。
じりじりと詰め寄るカメックスは、普段から当たり前のように味方だと思っていたからこそ、違和感を覚える。少なくとも、ジャローダの束縛から解いてくれたときのようなポケモンではないと。
イトハの腰につけたボールが揺れる。光と共に、主人の危機を察知したサーナイトが現れた。前のめりに片足をつき、警戒心も剥き出しだ。
「サーナイト!」
「主人を守るためか。涙ぐましい」
真顔で言うあたり、相変わらず言動が一致しない適当な態度だ。
サーナイトはイトハに指一本触れさせまいと、制止の姿勢で腕を広げる。
「だが、迂闊に出て来るべきではなかったな」
ヒイラギは指を鳴らし、カメックスに威嚇の数発を命じる。
サーナイトは、足元に突き刺さる水の矢がほんの麻酔程度の威力しか持たなくとも、過剰に反応し、障壁を張る。イトハが理解するにはあまりにも唐突すぎた。
「やめて! どうして、味方なのに」
味方。ヒイラギは用いる語彙の浅はかさに辟易した。誰も味方などいない――。
自然に笑いが込み上げてくる。自身が悪党を演じるかのように高笑いし、真顔に戻る。
「味方。チームメイト。信頼。そんなものはおれが打ち砕いてやる」
「真実はこうだ。偽りのチーム。記憶の捏造。騙し騙され、やがて次の人間に移っていく」
高尚な演説でも唱えるように、ヒイラギは一歩石段から降りながら言う。
「おれが知ったことだ」
「何を言ってるの?」
目の前にいる人物は、本当に波導使い・ヒイラギなのか。
「自分で何を言ってるか、分かってる?」
病人をいたわるような口調だ。
サーナイトは業を煮やし、カメックスを吹き飛ばそうと手をかざす。スナッチャーへの冒涜を考えれば、煮え滾る激情に駆られても仕方ない。ましてや、ヒイラギがこれまでイトハというサーナイトのおやにしてきた仕打ちの数々を思えば。
「サーナイトやめなさい!」
「やめなくてもいいぞ。さあ封印を使え。おれの手足口、すべて封じてみせろ。そのときがおまえたちの最期だ」
ヒイラギの挑発に乗っては駄目だが、サーナイトは見境を失いつつある。
何故だかは分からないし、認めたくもない。それでもヒイラギは「敵」と会話している。
或いは、押し殺すあまり募りすぎていたものが片鱗を覗かせ、悪を許さんとする正義感以上の何かを感じさせる。
イトハは努めて冷静に、事情を聞き出そうと試みる。サーナイトが下手に攻撃すれば、戦闘開始も厭わない一触即発状態だ。
「封印? 確かに覚えているけど」
「おまえたちが追い込まれたとき、必ず力を発揮する」
「身を守るための技でな」
言われていることに覚えがない。イトハは眉を顰め、ますます偽物かと疑う。
「サーナイトにそこまでの力はない」
疑いの原因が〈ふういん〉既修得という事実にあるなら、ヒイラギが考えている用途はサーナイトの及ぶ力の領域を遠く離れている。
「エスパータイプのポケモンなら、五感を封じ込めることぐらい容易いはずだ」
「あんた……ヒイラギじゃないでしょう」
サーナイトはイトハを見やる。あの男をまだ信じるのか、と言いたげだ。
逆に正体を疑われたヒイラギは、無言でメガグローブを構え、メガシンカの圧力を見せた。その迫力に、思わず飲み込まれそうになる。紛れもなく別人と化した本人だった。
イトハはふうと息をつくと、懇願するように零す。
「何があったの? 話してよ。いつものあんたみたく、皮肉交じりでいいからさ」
この反応は当然予想済みだ。内通者候補とはいえ、まず話に耳を傾けようとする人間である。だが、話し合いで解決出来るなら、とっくにそうしている。
彼女の願い通り、すべてを吐き出して僅かでも重圧から解放されたかった。茶番で不信を煽るより数段手っ取り早い。しかし、臆病な記憶がこびりついて離れないのだ。
目の前でプラズマ団が始末された事実。
自分もまた標的かもしれないという強迫観念。
あれからヒイラギはまともに生きた心地がしない。元々止まっていた時計が更に壊れてしまったような感覚だった。常に誰かから見張られ、逐一行動を監視されている、そんな気がしてならなかった。秘密を知らなければ、今まで通りの気丈な自分でいられたのに、そう考えないこともないわけではない。
すべてをありのままに伝えようとすればどうなる。同じように始末されるのではないか。そうなれば、スナッチャーは戦力を失う。躊躇いが一歩を踏み出させてくれない。少なくとも眼前の手順を踏み違えば、自分は殺される。
どう出るのが最善か。頭が回らない。策士気取りもここまでか。
否、まだ手はある。最強の切札を忘れているじゃないか。
ヒイラギが繰り出したポケモンに、イトハもサーナイトも驚きを禁じ得ない。
何故なら、彼が持っているはずのないポケモン・メタモンが最初からスナッチャーの一員だったという顔をして現れたからだ。
サーナイトという種族を脳内で認識すると、無いはずの骨格が軋んだように、粘り気をもった身体が伸び上がっていく。人間の女性と似たような髪も、ドレスのような白衣も、華奢な体躯も、合わせて寸分の狂いなく、完璧に再現された。胸の前で腕を交差させ、振り切るように前を向く。サーナイトの生き写しそのものだ。
「……今までずっと、隠していたの?」
「こんな簡単な話に気付かなかったとはな」
メタモンの特性〈かわりもの〉は、モンスターボール出現時、一番先に視界に入れたものの特徴をトレースする。ポケモン相手には絶大な効果を発揮するのだ。覚えている技や能力まで、そっくりそのまま使うことが出来る。
頑なにふういんを撃たせようとする状況を作らなくても良い。思考を転換するのだ。こちらのメタモンがふういんを撃てば、サーナイトのふういんにどんな効果があるか分かる。
「おまえを苦しめることになるのは分かっている」
この局面、命じるべき技はただひとつ。ヒイラギといえど、さすがにメタモンを慮る。
メタモンにとっては、自分の主人・プラズマ団の口を塞がれた、忌々しい記憶なのだ。
しかし、イトハが内通者であるかどうかを明らかにするためには、これ以上的確かつ迅速な方法は見当たらない。黒なら、かけた術が跳ね返り、メタモンは同じ技で復讐したことになる。ヒイラギはこれまでも、悪党に情けをかけたことはなかった。
逆にイトハが清廉潔白なら、何も起こらず、互いの技が使えなくなるだけだ。
「だが、忘れるな。おまえもおれも、必要悪だ」
いつか牢獄のボーマンダに言い聞かせたときと同じ台詞を口にする。スナッチャーも、今となっては元プラズマ団も、悪ではない。しかし、善などでは、断じて有り得ないのだ。
サーナイトことメタモンは、口を引き結び、ヒイラギに向かって頷く。
「封印しろ」
すっと二本の指を突き出した。真実を手繰り寄せるように。
「もう一匹の」サーナイトは指示を仰ぐ。イトハは無言で首を横に振った。
「受けて立ちましょう」
ここまで来れば、何をしても無駄だ。
これはトップレンジャー・イトハに叩きつけられた果たし状だ。
サーナイトは一切の抵抗をやめ、両手を腰のあたりにぶらさげ、無防備と化す。隠すものは何もないと言わんばかりに。
「良い覚悟だ」
サーナイト――もといメタモンが腰を折り曲げ、天を仰ぐ。女神の姿勢で祈りを捧げた。
イトハとサーナイトは審判の雷を浴びたようにショックで硬直する。
僅か数秒だった。
イトハとサーナイトは生存の喜びを噛み締めるように、わなわなと震える両手を握っては放し、足や口が自由自在に動く感動を味わっている。何も異変はない。
「何か技を出せる?」
サーナイトは両腕を翼のように広げるが、何も起こらない。障壁を出そうと力むも、かえって気の抜けた空気が漂うだけだ。
結論は出た。イトハは、内通者ではない。
内通者であるはずがなかった。
答えが分かり、カメックスは珍しく安堵したように片目を瞑る。先程までは脅しの演技、本心からではなかったのだろう。メタモンも、ほっとしたのか胸をなでおろす。
イトハは腕を組み、これで済むなら見逃してやるといった呆れ顔でヒイラギを見る。
「さ、事情を話してよね。人を疑っておいて、すみませんでしたじゃ許しませんよ」
事の顛末に一番衝撃を受けているのは本人たちではなく、ヒイラギだった。
彼は場全体に漂う解放感など意に介さないというように、顔にあて、皮膚に爪が食い込むほど押し当てた指の隙間から、燃え盛るような双眸で、イトハただひとりを見据える。
敵であればひと思いに躊躇いなく倒すことが出来た、と後悔するような表情だ。
ヒイラギの深い闇を垣間見た気がして、イトハは徐々に石になる。
何らかの原因で疑われていたときよりも、遥か強く、存在を否定されている。手足も痺れ、目も渇く。唇が重く感じられる。
「なんなの」
カメックスとメタモンまでも、そこまでするかとヒイラギの執念に言葉をなくしている。
ヒイラギは何も言わず、立ち尽くすのみだ。イトハはそれが耐えられなかった。
サーナイトが苦しそうにイトハを見る。
ふたりの関係は、まだマボロシ島の延長上にあった。出会った時から、今まで。一度たりとも真の意味で心通じ合った試しはなかった。
「あんたは、そういう人間だよね。わたしをずっと、ずっと目の敵にしてきた」
あらゆる感情を凍り付かせれば、今のイトハのような表情が出来上がるのだろう。
ヒイラギに負けないぐらい底意地悪い発言の自覚があるまま、一旦身から切り離してしまった想いは槍のように相手を串刺しにする。
「今すぐにでも、悪者にしてやりたいんでしょ。そうだよね」
ヒイラギは手を離し、ようやくイトハを見た。ぞっとするような、暗く渦を巻いた瞳だ。その中心にイトハがいるのかさえ、もう分からない。
メタモンとカメックスは目線を寄せ合う。もはやポケモンではなく人間同士の問題だ。このまま続ければ、今までの関係にすら戻れなくなってしまうかもしれない。
しかし、きっと止めてはいけない、漠然とした不安や期待が、ポケモンたちを包む。
イトハは潤む瞳を片手で拭う。
何より恨めしいのは、その眼差しだった。自分は絶対で、正義だ。一点の曇りなく主張し、暴力のように振りかざす。分かってもらえると決めつける。本当は臆病者のくせに、弱みを認めようとしない。感情だけで物事の解決がつくと思っている。力を持ちながら、甘ったれた考え方しか出来ない。
反吐が出る程、嫌いだ。
こいつが内通者じゃないせいで、自分はまた泥沼から這い上がろうと必死にもがき苦しむ羽目になった。こいつが、こいつがいるから、こいつのせいで、こいつさえいなければ。
どれだけ醜く、自分勝手な考えか分かっていても、芯の部分が決して譲ろうとしない。
相成れないのだと、手を取り合う余地はないのだと、囁く声がする。もう取り返しのつかない地点まで来ている気がした。イトハを拒絶することが目的化され、拒絶する自分こそが正しいと思い込んでいる。
彼女はすべてを持っている。自分にはない、すべてを。
「波導使いに騙し合いで勝てると思うなよ」
結局、そんな苦し紛れの捨て台詞しか出て来なかった。
まだ内通者ではないと完全証明されたわけではない、と言っていることと同じだ。さすがに度が過ぎた悪足掻きにもかかわらず、イトハはいたって真剣に受け止める。
「なら、わたしを波導術にかけてみれば。アクロマにやったみたく」
胸に触れ、きっと睨みつけた。瞬間、彼女の波導が意思を持ったように輝く。
「なに?」
ヒイラギは思わず顔を上げる。
「サント・アンヌで言ったよね。いつかおまえの心も掌握してやるって。冗談じゃないんでしょ、本当は」
まさか自分からそんな提案をしてくるとは。
もう決着はついた。もし波導に不純物が混ざっていれば、ヒイラギはきっとイトハを容疑者から外さないだろう。彼女にとっては何の利益もない、不利な賭けでしかないのだ。
最後の可能性を買って出たわけだ。その根性だけは、認めても良いだろう。
「どんなに馬鹿にされても、貶されても、見下されても……我慢してきた」
「でも、レンジャーであることを否定されるのだけは、許せない」
培ってきた誇りがそうさせるのだろう。
イトハはヒイラギに認めて欲しいのかもしれない。彼女も引き下がることを知らない、無謀な人間なのだ。サーナイトが介入する余地はなかった。小細工なし、意思の対決だ。
「わたしの波導を見誤ったら、死ぬまで呪ってやる」
言葉に嘘は見られない。本当にヒイラギを憎み続けるだろう。
「……良いだろう」
呪う、とまで言い切ったのだ。
彼女に近付き、手を触れ、波導を見るだけでいい。それだけで済む。
しかし、素直に一歩を踏み出させてくれない。
「何も仕掛けたりしない」
イトハは吐き捨てる。
「どうかな……」
最後の最後まで憎まれ口を叩かねば気の済まない、損な性分だ。
結果は見えていた。イトハの芯は間違いなく確立されたものだ。悪意が忍び寄り、付け入る隙など与えないほどに。
今更のように思い出す。これがトップレンジャーかと。
ヒイラギが全身を掻き毟って死にたくなるほど、清らかで、優しい波導だった。
終わった。もう疑う余地などない。
初めて受け入れた瞬間、心を許しそうになった。あれほど疎ましく思っていたのに、何故。心の奥では彼女を望んでいたというのか。そんな結果を認められるものか。断じて、認めてなるものか。
狂っている。
自分で自分が分からず、戸惑いがちに、それでも何かを言葉にせずにはいられなかった。
「おまえは――」
ふと気を緩めた瞬間、何か自分の波導にこそ、不純物が混じる感覚を覚える。
弱々しい痛みが走り抜けた後、動悸が止まらなくなった。いつかのラティアスのように、胸を抱えて、顔面を半分歪め、膝を突き、手で地面を探して、のた打ち回る。
感覚が一気に奪い取られ、自分だけが周囲から遮断される。
消される、この世界から。
ポケモンたちも一斉にヒイラギを助けようと動き出すが、間に合わない。イトハはすぐにしゃがみ、彼の手を取ろうとする。
おまえか、やはり、おまえなのか。
疑い続けるべきだった。信じてはならなかったのだ。
この場所に誘き寄せ、念力の射程範囲に持っていくことが目的だったとは。
生まれてから死ぬまで、独りで生き続けていれば良かった。そうすれば、今感じているもののほとんどは取り除けたはずだ。
今や最大限に達したイトハへの敵意は、全力で払い除けた。イトハは尻餅を尽き、ヒイラギに向かって、絶え間なく首を横に振り続ける。
「謀ったな」
「違う」
「謀ったなぁぁ……」
憎しみを掻き立てるヒイラギよりも、イトハの方が事切れそうなほど弱々しい声だ。
「やっぱり、信じる、んじゃ、なかった」
「違う!」
ヒイラギは重心を崩しながら、何もないどこかに向かって手を伸ばす。
そして消えかかりそうな声はひとつひとつ響き、両目だけはイトハを捉えて離さない。
「一度でも」
「おまえの」
「矜持」
「なぞ」
「信じた、おれの」
「敗けだ……!」
横顔を強く打ち、三白眼を寄せ、倒れる。
巨岩が目を覚ます瞬間、地盤が崩壊した。