第7話「決戦前夜……それぞれの旅路!」
あれからいくつの涙が流れ、夢が散っていっただろう?
選ばれし者だけが辿り着ける階段。ただし、盃を前にして、階段を上る道は一本しか用意されていない。
『数々の死闘を潜り抜け、栄光に近付く権利を手に入れたのは、この四人だ!』
参加者を一定の人数まで切り落とす戦いがようやく終わり、会場が同じ方角に注意を向ける。スクリーンに表示されるのは四人の猛者だ。
若々しくあどけない顔つきの少年。紫髪で色黒の凛々しい少年。斜に構えた金髪の男。己の素性を隠すように前髪を垂らす男。一斉にシャッフルされた未来を甘んじて受け入れる。
『準決勝はこのカードとなりました! 第一試合、アユム選手対ホクト選手。第二試合、シンジ選手対タクト選手です。以上で、本日の日程は全て終了しました。観客の皆さん、トレーナーの方々、お疲れ様でした』
無慈悲なアナウンスが流れ、時の止まった四人を差し置き、世界は流れ行く。
『 名前も声も知らない 第七話 』
アユムとホクト、そして鎬を削り合う二匹以外には、その場に誰もいない。暗闇が渦巻く空間でヘルガーの頭突きが決まる。弾き飛ばされたバシャーモは屍のように動かなくなった。アユムは肩で息をしつつ、ヘルガーに視線をやる。
「やった、ヘルガー。勝ったんだ、ボク達は!」
アユムはガッツポーズを取り、無邪気に勝利を体感する。すると、ホクトはさぞ愉しいことに遭遇したとばかり肩を揺らす。
「見せてやるよ。本当のバシャーモの姿を」
むくりと起き上がるバシャーモ。あまりにもあっけなく立ち上がったので、ヘルガーはすっかり立ち竦んでしまう。
「駄目だ、ヘルガー。正気になるんだ!」
「もう遅い!」
次の瞬間、バシャーモは様変わりしていた。白い羽毛が今にも飛び立ちそうな格好を作っている。足には黒い刺青が刻まれ、手首の炎は鞭のようにしなる。アユムは喉を鳴らし、変な声を出す。ヘルガーをいとも簡単に片手で突き飛ばしたと思いきや、アユムにまで迫ってくるではないか。
「次はお前だ」
まさか、ホクトは自分を葬ろうとしているのか。アユムは泣きそうになって、その場から逃れる勇気も忘れてしまった。
眼前の魔王が無垢な少年を押し潰そうと――。そこで、意識は途切れた。
「夢、か……」
胸から脚に至るまで、嫌な汗をかいていたことに気付く。咄嗟に時計を叩いて時間を確認すると、朝の始まりが近いと分かる。もうじき、ヤヤコマがさえずり始めるだろう。醒めてしまえば、一笑に付しておしまいのような非現実的悪夢でしかない。
しかし、これから自分が戦うトレーナーは、全国から結集した大会のベスト4にまで生き残った強者の中の強者である。一度は引き分けに持ち込んだが、今回は果てしなく自信がない。それに、負けてしまえばアユムの挑戦は終了する。後ろは振り返れない。前を見る余裕しか与えられていないというのは、一人の人間を追い込むに足りた状況だ。
彼は上着に袖を通し、ふとモンスターボールの中身と目が合う。マフォクシーは主人を案じているようだ。ちゃんと服を着れるかどうかすら心配する始末。それに気付いたアユムは、ボール越しの小さなパートナーに優しく語りかける。
「大丈夫だよ、マフォクシー。明日に備えてゆっくりしよう」
ホクトとの試合は明日だ。準決勝までには僅かなインターバルがある。第一試合の翌日には、第二試合が執り行われる。極限の緊張にあるのは、他の三人も変わらないはずだ。気丈に振る舞えるだけの応援を受けたとはいえ、心の奥底ではまだ根本的な部分に整理がついていない。
そう、自分は何のために戦っているのか。
足掻いて足掻いて、大会のベスト4まで生き残った。ポケモンバトルへの迷いも断ち切った。それでもアユムは何のために戦うのか分からない。何故トレーナーはポケモンを戦わせるのだろう。その行為が人間とポケモンの相互に、一体どんな意味を為すのだろう。
カーテンを勢い良く開き、眼下で散歩に勤しむハーデリアと老人を眺める。年半ばもいかない少年のように戦うことの意義に悩んでいる様子は見られない。少しだけ、喧騒に関わりを持たない彼らの姿が羨ましいと思えた。
実に変な気分だった。望んでいたはずの領域まで漕ぎつけたにもかかわらず、胸の内から溢れるのは焼け付くような苦しさだ。これを勝者の傲慢と取られてはそれまでにせよ、前日のコンディションにふさわしくないことは、火を見るよりも明らかだ。
恐らく、シンジもタクトも――認めたくはないが、ホクトも。トレーナーとして譲れない信念を抱いて、それを誇示しようとここまで勝ち上がってきた。依然空白なのはアユムだけだ。そんな者が準決勝のステージに上がって良いのだろうか。アユムは食事中もそんなことを考えていた。フレンチトーストを切り刻むナイフをそっと皿に置く。
「何を怖がってる? ホクトのやり方を、間違っていると証明するためのバトルじゃないか」
その後、日課通りヘルガーを散歩させる。大会の最中でもヘルガーの日光浴を怠ったことはない。口数の減ったアユムを訝しみ、ヘルガーはちらちらと後ろを見やるので人やポケモンにぶつかり、その度アユムが頭を下げる。こんなに示しのつかないおやと散歩していても、何も面白くないだろう。ヘルガーに申し訳ないと思いつつ、早々に散歩を切り上げる決意を固める。
「ポケモンセンターに戻ろうか」
声をかけるが、ヘルガーは上の空だった。座りこんだようにじっとしている。置物になってしまったのかと軽くつついて、ようやっと何が立ち止まらせたのかを理解する。
「シューティー」
*
アユムとシューティーは石段に腰掛け、ヘルガーはその場に座り込む。相変わらずのお祭り騒ぎで、今日もショーが催されている。題材には事欠かないようだ。火吹き野郎とブーバーのコンビが、友達のように炎を操っている様は見事というほかない。明るみに横顔を照らされるシューティーは、アユムよりも落ち着いて見える。泣き腫らしたような痕もなかった。何と言葉をかけるべきか、言葉が喉まで出かかっては唾と共に飲み込まれていく。
「次の対戦相手、ホクトだね」
「そうだね」
アユムは臆病にも引っ込んでしまい、自分を誤魔化しながら見物するふりを装う。しばらくして、シューティーの方から切り出された。
「もしかしてキミ、気遣ってる?」
「ごめん」
ますます俯いてしまうアユム。こんな話をしたいわけではない。シューティーにはもっとたくさん、尋ねたいことがある。彼とて変な遠慮を嫌うだろう。こちらから誘っておきながら、言葉もかけられやしない。意を決して、現在の精神状態を最も的確に表す単語で吐露する。
「怖いんだ」
「怖い?」
逆に聞き返されてしまう。シューティーは眉を上げて、こちらの疑問に関心を寄せているようだ。
「シューティーは怖くなかったの?」
少し思索に耽った後、シューティーはバトルを振り返る。タクトの前に立つや否や襲い掛かった極度の緊張感。炎の化身は、まるで自分のバトルを歯牙にもかけなかった――。
「怖くなかったといえば、嘘になる。でも、ボク達はまだまだ強くなれる、それが分かっただけ良かったよ」
やせ我慢をしているわけでも、本当の感情に嘘をついているわけでもないと、アユムは直感的に確信する。シューティーを支える芯が、トレーナーとして彼を完成させている。
「シューティーは強いな」
アユムの感嘆は溜息に溶けた。
「ベスト4まで残った人に言われたくないよ」
ベスト4。聞こえは立派だが、その称号は果たしてどんな意味を持つのだろうか。
アユムは物心ついた時から、一家の教えを絶対のものとして、その身をバトルに捧げて来た。だが、アユムを取り巻く環境と彼自身の心には、いつ何時も、家族のためという名目が付いて離れなかった。一家に恩を返し、更なる栄華を届けて花道を歩かせることを差し抜いてしまえば、アユムは空っぽの器と同じだ。
「ボクは何のためにポケモンバトルをするのか、分からない」
ホクトも、シンジも、タクトも。皆一様にして、信念をもって戦っている。いわばアユムは異物だった。不協和音をもたらす存在が、闘争心を満たそうとする輪に入ってしまったのだから大変だ。アユムは彼らほど血気盛んなわけではない。
「旅立ったばかりの頃は、ボクもそうだった」
「シューティーが?」
とてもそうは思えなかった。否、そう思うのは、アユムが今のシューティーしか知らないからだ。彼とて、荒々しい波を越え、険しい山岳にしがみつき、ようやく答えを見出したのだろう。それは暗がりの洞窟で何度も迷いながら、やっと一筋の光明を見つけることと同義。
「アデクさんに認めて欲しかったんだ」
アデクはイッシュ地方のチャンピオンだ。豪快かつ自由なバトルで挑戦者を圧倒すると言われている。なんだかシューティーの気持ちが分かるような気がする。最初ライゾウにバトルを挑んだ時、アユムもそうだった。チャンピオンに自分のポケモンを見て欲しかった。そして褒められたかったのだ。
「ボクもだよ。なんだか似てるね」
「似た者同士だったりしてね」
腹を割って話すことで、微笑み合う二人。賑やかなショーの中でも、シューティーの姿は色褪せず、声ははっきりと聞き取れる。
「優勝したらアデクさんと戦える。そのトーナメントで、ボクは優勝した」
シューティーの出場したトーナメントは、セイエイのそれと近似している。優勝すればチャンピオンと戦える。シューティーは既に葛藤の先駆者だったのだ。
「それで、アデクさんとバトルを?」
「ああ。でも完敗だった」
清々しそうに言い放つ。一片の曇りもない。負けたのに不思議だ。アユムは今でもライゾウとのバトルを思い返す度、歯痒い思いに駆られる。過ぎ去ったことを悔いても仕方ないのに。
誰だって負ければ悔しい。何かにあたりたくもなる。周りからは常に勝つことだけを求められている。良い反応を貰うために、勝つことだけを考える。すると、だんだん楽しくなくなっていく。そうして負の連鎖に陥ったアユムは、いつの間にかバトルを楽しむことを忘れ、義務であるかのように取り組んでいた。
「ボクは、自分で自分を苦しめていたのか……」
図星を突かれ、アユムは言葉をなくす。自分の心をここまで開いたのはシューティーが初めてだった。ユウリやテルマですら掴みあぐねていたアユムの心を彼は共有している。
アユムは俄然興味が湧いてくる。シューティーというトレーナーの骨子を完成させた信念が具体的に何であるかを知りたいと思った。アユムの求めに応じるが如く、彼は教訓を伝授する。
「強さよりも大切なことがある」
「それは」
「ポケモンの気持ちに、応えられているかどうかだ」
「ポケモンの、気持ち……」
「準決勝、楽しみにしてるよ」
そう言って、シューティーは立ち上がる。すっと伸びた背筋は、アユムよりも少し高いだけには到底思えない。
アユムはポケモンの気持ちに応えられているだろうか。テルマやリザードンとの試練の中で、マフォクシーは不甲斐ない自分を信じ、最後まで戦ってくれた。彼の中で、薄暗かった問いへの答えが、少しずつ剥がれを伴って現れ始める。
「シューティー!」
振り返らない。だが、これだけは告げておきたい。今もって彼が誇れる確信を伝えることが、出発だと信じられたからだ。ヘルガーを一瞥し、誓いを立てる。
「今は分からないけど、だけど、きっと、いや絶対だ。ポケモンの気持ちに応えてみせる!」
先導者は、手を振り返した。
*
今朝、シューティーに言われたことが、ずっと頭の中で渦巻いている。
あれから宿に戻ったアユムは、個室のベッドに寝転がって、ポケモンジャーナルに目を通していた。字面を眺めるだけで実は上の空だ。内容など微塵も頭に入っていない。ヘルガーは尻尾をクルクル巻いて、気持ちよさそうに寝息を立てる。
今まで信頼という言葉を軽々しく使っていたが、考えれば考える程、それは深い意味を持っている。理解していた語意はあくまで氷山の一角をかじっただけのものに過ぎない。
マフォクシーのモンスターボールをかざす。カーテンの隙間から漏れる夕日色が混じり合って、赤と白のカプセルにグラデーションを描き出す。パートナーは杖を両手で大義であるかのように抱え、精度の劣化具合を確かめている。
「色々あったけど、明日だよ。マフォクシー」
杖を抱えながら、目線をこちらに上げる。母性の宿る瞳に何度救われてきたことか。彼女の体毛は触ると滑らかで、きめ細かい一本一本が金糸のように輝いている。顔を埋めたら、そのまま心地良い眠りへと誘われるだろう。そうしている内、本当に瞼が落ちて、彼は微睡みの世界に入った。
仄かに白く、夜明け前の日差しが光の道筋を作っている。
アユムとマフォクシーが歩いていると、後ろからユウリ、そしてゴウカザルが肩を掴む。飛び掛かって来た衝撃でよろけそうになるのを、シューティーとフライゴンが呆れた顔で飛び去って行く。豆粒のように消えていくそれを追うと、蒼い背中に突き当たる。怪訝そうな顔でシンジがこちらを振り向く。ユウリがシンジにちょっかいを出すと、彼は困ったような反応を返し、そして微かに笑う。向こうではテルマが手を振っている。シンジは行け、と促しているようだ。アユムとユウリ、マフォクシーとゴウカザルは競うように走り出し、身を切る風に叫び声をあげながら、思いっ切り笑い合う。ゴールに着いた二人を、テルマは兄貴分として両腕で抱きしめる――。
穏やかな夢だった。時計の針は六時を指している。すっかり眠ってしまったようだ。アユムはぼさぼさの頭を直しながら、背伸びをする。杖の手入れを終えたらしいマフォクシーは、入れ替わるように眠っていた。みんなに飯を食べさせる前に、少しランニングでもして身体を暖めよう。アユムはそう考えて上着に腕を通すと、ヘルガーが寄って来た。
「ヘルガーも行くかい?」
聞くまでもなかった。扉が静かに閉められ、静寂だけがその場に残る。
*
世間は夏真っ盛りというだけあって、まだまだ日が落ちるには早い。人もポケモンもまばらに散っており、虎視眈々と明日への鋭気を養っているように思われる。世界は、嵐の前の静けさにあった。
ベンチの続く街路を、アユムとヘルガーは走る。そうしなければ、収まりがつかない気がして。景色が後ろに遠ざかる。直線の果てに吸い込まれ消えていく。地平線を目指せば届きそうだ。ふと手を出したくなって、空を掴む。そこでブレーキがかかった。身体中が宙に浮いたような感覚。頬が上気して、胸は波打ち、連続した鼓動を刻む。汗が影に向かって落ちていった。アユムとヘルガーは、高大な敷地の中心にいる。そう思うと、なんだか世界は自分のために回っているのかと錯覚してしまう。思い上がりも甚だしく、自分の発想の幼稚さに苦笑する。
「帰ろうか、ヘルガー」
ヘルガーも良い汗をかいたのか、満足気に逆方向への歩みを進める。
その時だ。槌を打ちつけたような轟音が、微弱な揺れを伴って、彼らの闘争本能に語りかける。アユムとヘルガーが振り向くのは同時。音の正体を探るのはそう難しくなかった。
深緑の営みに赤が差し込んで、夕日というライトは切ない戦場を演出している。次々と叩き込まれる拳。砂地に窪みが生まれる。己の拳を痛めつけた数ほど頑丈になる。
「よし! 次はかみなりだ!」
咆哮が雲間を晴らすのではないかというほど、気合一閃。背筋から伸びる二本のコードに電流が絡み付き、一筋の矢となって空を真っ二つに切り分け、やがて余韻を残して収束する。ポケモンのコンディションが万全であることを確かめたシンジは、激励の一声を投げかけるのだった。
「よし!」
「シンジ!」
「戻れ」
アユムとヘルガーは、既に現れていたものの残滓とて見極められなかった。当然、敵情視察を避けたいという思いもあるだろう。彼らがシンジの定位置に辿り着いた時には、特訓されていたポケモンの判別はとうにつかなくなっていた。耳を劈くような轟音からしても、チーム内で相当の地位を占めるポケモンだろうと想像に難くない。
「何か用か」
「いや、近くまで寄ったら、凄い特訓してるからさ。見てみたくて」
「そうか」
「待って!」
普段からクールに取り澄ましたシンジは、そのまま場を後にしようとする。これで別れたら、もう彼と話す機会には巡り会えないように思われて、気付けば考えもなく引き留めていた。
「オレに話でもあるのか?」
「え、あ、その……う、うーん……」
難題に突き当たり、制限時間の全てを使い果たしてしまいそうな焦りを浮かべるアユムに、シンジは眉を潜めながらこちらの出方をうかがっている。アユムはわざとらしくおどけてみせた後、はっと浮かんだ質問を逃さないようにぶつける。
「シンジは、どうしてポケモンバトルをするの?」
長い沈黙。何か気まずいことを聞いてしまったかと、ヘルガーに助けを求める。シンジはポケットに手を入れ、直立不動のまま、シューティーと同じようにして語り出す。
「オレのバトルを作り上げるためだ」
「ボクには、自分のバトルが分からない」
「それはお前が見つけるものだ。オレが決めることじゃない」
さすがに厳しくも温かい言葉をかけてくる。隣に寄り添って親身に話を聞いてくれるというわけではなく、数歩を隔てた距離感をどれだけ縮めるかの勝負だ。自らを曝け出さねば、シンジという人間の輪郭はおぼろげに霧散してしまうだろう。
「ボクには、まだこれって言えるものがないんだ。今までは、なんでバトルするのかなんて、考えたこともなかった。恥ずかしいよね……でも、シューティーと話して、ちょっと気が楽になったんだ。家族のためじゃなくて、もっとのびのび、ポケモン達と戦いたいなって」
次の日に備えて精神を統一させたいのは山々だろうに、わざわざ現時点での出場選手をアユムの相談相手とすることには罪悪感を覚える。だが、シンジは赤面するほどこちらをまっすぐ見据えていた。戯言と一蹴せず、彼の言葉に耳を傾けている。
「オレは兄貴の出来なかったことを成し遂げるために、旅をしていた」
一瞬よぎった質問を口にしようとするも、決して中断すべきではないと思いとどまる。アユムの振り絞った勇気が、シンジにも伝わったからだ。
「ジンダイさんがトレーナーに出す課題、自分ならではのバトルを完成させるためだ」
「自分ならではのバトル……」
「だが、オレとは考え方、やり方、何から何まで正反対のトレーナーがいた。シンオウで何度もバトルをした奴がな」
「その名前は……?」
「サトシ」
サトシ。その名をなぞると、不思議と力が湧いてくる。
「覚えているか。オレは以前、ヘルガーの力を引き出せるかどうかは、お前次第だと言ったな」
「うん、そうだね」
ホクトと言い争いをしていた時のことだ。記憶に新しい。
「オレの手持ちには、ヒコザルがいた。そいつのもうかが欲しかったからだ。だが、オレの求める強さにはならなかった」
話の行き先が不穏なことに薄々気付き、シンジの言わんとする意図が浮かぶ。
「逃がしたのか」
「そうだ。だが、ヒコザルはあいつの下へ行き、ゴウカザルに進化して、もうかを使いこなせるようになった」
これではっきりした。シンジがユウリのゴウカザルに異常とも言えるほど執着していた理由は、シンオウでのライバル・サトシとの衝突によるものが大きかったのだ。だからこそ彼は、一概にホクトを糾弾しようとせず、静観を決め込む立場にいた。この話を聞くヘルガーは、心中穏やかではないだろう。それはアユムも同じである。
「オレはそれで良かったと思っている」
「シンジは、ホクトのやり方が間違っているわけじゃないって言いたいのか……」
「お前にはお前のやり方がある。あいつにはあいつのやり方がある」
「トレーナーの都合で良いように使われるポケモンは、どうなるんだ!」
啖呵を切るアユム。しかし、剣閃を向けるように切り返される。
「甘いな。オレもお前も、勝利のためにポケモンを戦わせていることは同じだ」
「でも……」
「あいつとバトルをすればいい。そうすれば分かるはずだ」
ホクトとは既に一度、野外でバトルしている。その時は、ポケモンに労いの言葉もかけず、まるで戦闘マシーンのようにしか見なしていないように思えた。それが準決勝という大舞台に変わったところで、スタジアムを取り換えただけに過ぎない。トレーナーの本質はそのままだ。
アユムにはまだ、シンジの言わんとするところが分からないでいた。納得いかないアユムは、拗ねたように相手の弱みを突く。
「シンジこそ、次の相手はタクトさんじゃん」
「タクトさんは準決勝を戦うトレーナーの一人に過ぎない。オレはオレのバトルをするだけだ」
突っ張った態度を思わず恥じるほど、シンジは平然としている。ポケモンの気持ちを優先するアユムとはまた一線を画した考え方の持ち主であることは明白。しかし、アユムは伝説のポケモンにも臆さない彼の強さを羨ましいと確かに感じる。それは主張を裏付けるものが虚飾ではなく、経験によって培われた確信だと教えるからだ。彼もまた、ポケモントレーナーに必要なものを兼ね備えている。そんな姿は自然とアユムを、本当の強者が集う世界へと招き寄せていた。
「シンジと、バトルしてみたい」
希望を叶えられるかは自分次第だとばかり、答えを返さない。そのまま踵を返す様に、アユムは初めから眼中にないのだろうかと不安になる。だが、その杞憂はすぐに払拭される。
「バトルフィールドで会おう」
それは一人のポケモントレーナーが突きつける、挑戦状という名の約束。それぞれに立ち塞がる障壁を乗り越えて、相見えようとする意志の表れだった。
*
ヘルガーの漆が星空に溶け込む頃合となった。シンジとの約束を胸に秘め、アユムは意気揚々と帰路に立つ。
ホクトとの戦いは、これまでにないほどの重圧を与える。しかし、シューティーやシンジがそうだったように、自分を信じ、ポケモン達と共に戦えば良い。とうに答えは出ていたのだ。だが、漠然と迫る決戦を間近にした時、唐突な不安に襲われ自問自答に耽るというのは誰しも有り得ること。何もアユムだけが特別なのではない。同じ道に躓き、そうして鍛えられていく。
「今日はいっぱい歩いたね。おつかれさま」
ヘルガーが高い声で労い返す。互いの親睦はより深まったに違いない。隠したい弱さを見せてこそ、頼れる間柄に昇華しうる。アユムとしても、ヘルガーと共にスタジアムに立ちたい、という気持ちが強い。しかし、そこには一つの問題があった。
「そろそろ明日のメンバーを決めないとなあ」
選出するポケモンだ。既に、アユムは六匹のポケモンを連れて旅をしてきた。そして、この大会においては原則その六匹を回して戦うことが義務付けられている。すると、七匹目に該当するヘルガーを挟む余地はない。最もリベンジを望むポケモンを出してやれないのは、トレーナーとしてはとても辛い。ヘルガーもそれを分かってこそいるが、切実な眼差しが良心に訴えかける。
「ごめんね、ヘルガー。必ずホクトに勝つよ。だから、見守っててほしい」
「アユム。どうしても、ヘルガーと一緒に戦いたいか?」
言われて、咄嗟に振り返る。そこには、大会の最中では見かけるはずのない姿があった。
「兄さん、それにリザードン。なんでここに」
「ちょっと散歩してたんだよ」
本当にそうなのか疑わしい調子で、テルマは面倒臭そうに言い放つ。そんなことはさておき、とテルマは至って真剣に切り出す。こういう時の兄を迂闊に刺激してはならないと知っているので、弟は黙って話を聞く。
「アユム。お前に、一つの可能性を授けるチャンスをやろう」
「か、可能性?」
「お前が望むなら、以前オレとバトルした場所に来い。だが、来なくても構わない。オレは十二時までその場所で待つ」
それだけ言い残し、背中を預けたリザードンに飛び乗り、山奥に向かっていく。いつ見ても力強い飛翔だ。アユムとヘルガーは顔を見合わせ、呆気に取られるばかりだった。
夕飯を済ませても、疑問は消えない。テルマが残した言葉にすっかり惑わされていた。ヘルガーと一緒に戦いたいと願うアユムに、一つの可能性を授ける――何のことだか、検討もつかない。兄は、人に伝わりにくい言動を好む悪癖がある。幾度となくアユムはそれに振り回され、損もしてきた。しかし、あの時の様子からして嘘だとは到底考えにくい。
夜遅く、パソコンルームでメンバー調整のために画面とにらめっこしていると、余所余所しくユウリが入室してきた。彼女はもうここを訪れる必要のない身だ。マウスを操作し、ポケモンのコンディションチェックの方に集中を傾ける。
トレーナーカードに登録されたポケモン情報は、運営側のパソコンに保存される。メディカルチェックを受けることで、情報は最新の状態に更新され、パソコンで診断結果を見ることが出来る。アユムも最新鋭の技術を余すことなく活用し、明日に備えていたところだ。
ホクトのチームは実にバランスが取れている。付け入る隙があるかどうか、果たして疑わしいほど。アユムは背もたれに甘えて、唸り声をあげる。
「やっぱりバシャーモが鬼門かなあ……」
「メンバー、決まったのか?」
後ろから、いつもより一歩退いたような調子でユウリがおずおずと尋ねてくる。画面を覗き込むが、後ろに回された両手がどこか意味深だ。彼女はそんな堅苦しい仕草をとる人間ではない。
「うん。とりあえず、二体はね」
「あと一体は?」
「見ての通り、どうしようか悩んでる」
アユムはあっけらかんと苦笑交じりに言い放つ。ユウリは開かれたページをマウスで操作し、もう一匹を表示するタブに切り替える。アユムの戦略に口を挟む様子はない。バトルをするのはアユムだ。彼の意思を尊重するのは至極当然だろう。
「だったら……!」
逸るように声をあげ、すぐに引っ込める。耳が痛いことまで一刀両断するいつものユウリとはかけ離れている。まるで彼女が決戦前夜の選手かと錯覚してしまう。
「どうしたの?」
「あ、いや……うん。なんでもない。明日、あいつに一泡吹かせてやれよ」
「もちろん。ボク達は負けないよ」
拳をこつんと当てて、ユウリは去って行った。再び画面に向かうアユムには、どこか釈然としないものが残ったが、気にせず作業を進める。
*
結論から言うと、アユムは自分に嘘をつけなかった。
彼とヘルガーは今、野生ポケモンも住処や穴倉に戻り始めた山道を登っている。まだ十二時までは猶予がある。
アユムにとって、これだけは譲れないものがあった。ホクトが見下し捨て去ったヘルガーで、ホクトに勝つ。
それこそが彼と戦うことの意味でもある。決意の双眸を秘め、身体は安息を欲しながらも、闘志は一足早く目覚めの時を待っている。わざわざ夜中に呼び寄せるあたり、テルマはアユムの体調などこれっぽっちも案じていない。すやすやと枕の柔らかさに夢心地でいたところを、無理矢理布団を引き剥がして鞭で叩きランニング十周を命じるような意地悪さ――それをあの馬鹿兄は兼ね備えている。
「だいたい、こんな時間まで待っている兄さんも兄さんだ」
ぶつぶつと文句を言いながらも、以前の道程は不思議と覚えていた。
仁王立ちを決め込む兄を見ると、やはりアユムにとってはいつまでも恐れを抱く存在なのだと改めて思い知らされる。
「やはり来たな」
「やはり来たよ」
腕組みを解き、ひょいとリザードンを招き寄せるテルマ。まさか、この期に及んでバトルをしようというのか? アユムは勢い余って、マフォクシーを繰り出してしまう。眠そうに睫毛を擦るマフォクシー。腹を抱えて笑い出すテルマ。ポケモン達の安眠妨害もいいところだ。この男は一度、スピアーの群れに追われる恐怖の一つでも味わうと良いだろう。
「お前はオレに勝った。継承者の条件は満たしている」
「何のこと?」
遠回しに焦らすことを愉しんでいるのではないか。テルマは腕輪を目立つように見せ付けると、二本の指を添えて、リザードンのキーストーンと呼応させる。しかし、光は相成れぬように弾き合い、再び黒きドラゴンの片鱗が現れることはなかった。それもそのはず、ポケモンバトルをしようとする意志、あるいは自らメガシンカをする意志がなければ、進化は成立しない。
「アユム。メガシンカがバトルの時のみ可能になるのは、何故だか考えたことはあるか?」
マフォクシーもヘルガーも首を傾げるばかり。アユムとて分かるはずもない。メガシンカを体験した者でなければ、そもそもそのような思想には行き着かないだろう。
「オレは、ポケモンバトルこそ、人間とポケモンが心を通わせるに近い瞬間だからではないか、と考えている」
テルマは一瞬マフォクシーを申し訳なさそうに見やってから、メガリングを外す。兄の旅路が詰まった結晶をいとも簡単に外したことが、信じられなかった。
「こいつはお前にやる。オレが持っていたところで、もう意味はない」
「でも、それには兄さんの旅が」
「旅か? 気にすんな。それはちゃんと、ここに入ってる」
テルマは頭をつつく。本当に大切なものは、いつまでも忘れたりなどしないものだから。シューティーとシンジの話を聞いて、テルマにも自分の旅を取っておいてほしいと思ったのだ。
「アユム。お前には天賦の才がある。何より、ポケモンを大事にする男だ」
「に、兄さん……」
物心ついた時からアユムを見守っていたテルマだからこそ、直球な言葉が心に届く。
気持ちは嬉しい。しかし、本当に受け取って良いものかどうか――そんな迷える思考を読み取る。
「何でここまで来たんだ? お前がヘルガーと共に戦いたいと思ったからじゃないのか」
この事実に一番驚いているのはヘルガーのようだ。話を総合すれば、テルマの譲渡するメガリングのパワーによって、ヘルガーはメガシンカを遂げる。
アユムはマフォクシーを見るが、彼女はこくりと頷く。お互い、やるべきことは分かっている。今はただ、兄の想いに応えよう――メガリングを手に取る。
「さあ、アユム。見せてみろ、メガヘルガーを!」
アユムは、腕にリングをはめる。夜だということにも構わず、あらん限りの力で叫ぶ。
「行くよ、ヘルガー!!」
ヘルガーがたちまち光に包まれ、屈強な角が生え、三つ首に分かれ――るはずがなかった。テルマは密かに決まった、と呟いていたが、何ら変化のないヘルガーを見て、今世紀最大の動揺を披露することになる。
「ば、馬鹿な……何故メガシンカしない? そんなはずは。ちゃんとメガリングは、キーストーンもあるし。絆はこいつらなら……。いや、ヘルガナイトが……ハッ! おい、アユム! ヘルガナイト。ヘルガナイトはどうした!?」
「ヘルガナイトって何?」
可愛らしく首を傾げるアユムに、今度こそ絶望へと叩き落とされるテルマ。マフォクシーとリザードンは旧知の仲としてほとほと呆れている。次の瞬間、テルマは憑りつかれたような声を腹の底から出す。
「ユウリの奴ゥゥゥゥ……!! 何やってんだァァァ……!!」
アユムには一体全体どうして理解出来るはずもない。具体的な説明を求めようとしたところ、ヘルガーがその場でびくりと毛を逆立てる。野生の勘か、気配を察知したのか。しかし、テルマは頭を抱え込んで訳の分からない呪文を唱えるばかりだ。マフォクシーとリザードンが動く様子もない。それに比例して、ヘルガーの瞳は細まり、研ぎ澄まされ、瞳孔を見開いていく。ヘルガーが後ろを向くと、こちらに走ってくる人影一つ。アユムは後ろで振り乱されるポニーテールに正体を見出す。
「ユウリ!?」
「アユム……ごめんっ。あたし、どうしても、強制出来なかった」
「てめえユウリッ! これはどういうことだ、おかげでプランが総崩れじゃねえか、説明して――」
牙を生やすが如く畳み掛けて、テルマは真顔に戻る。ユウリは辛そうな表情をしていた。
「アユムのバトルに、あたし達が口出しするべきじゃないと思ったんだ。でも、ヘルガーと一緒に戦いたがってる。それはいいよ? でも、マフォクシーや、他のポケモンだってきっとバトルしたいと思うんだ。だから、あたしがヘルガナイトを渡せば、って考えちゃって、それで……」
「ユウリ……」
パソコンの画面と向かい合いつつ、そんなことを考えていたのか。そして、アユムはヘルガーばかりを重んじていたことを反省する。みんな、かけがえのないポケモン達なのだ。そこには順列も地位も存在しない。
「ごめん」
モンスターボールに向かって、そっと囁く。それが分かったなら、言うことはない――マフォクシーはアユムを責めることなく、杖を取り出し、勢い良くヘルガーに振り下ろす。老朽化した枝が、マフォクシーの負ってきた傷と栄光の証に見えた。ヘルガーはまじまじとそれを凝視し、尻尾でタッチする。彼女らの意思はバトンのようにして引き継がれた。
一連の流れを見て、テルマが頭を掻きながら、ユウリの前に進み出る。
「その……なんだ。すまん! アユムやお前の気持ちを一番考えていなかったのは、むしろオレの方だった」
「兄さん、これは」
「ああ。ちゃんと説明する」
そもそも事の始まりは、ユウリとの初対面からだった。メガリングにはメガストーンを探知する力がある。メガシンカ使いとして、テルマはその時からユウリがリュックに隠し持つヘルガナイトの存在を探知していた。
後日、アユムのいない時に話を訊ねてみると、なんでもイリマの洞窟で発掘されたものらしく、ユウリが一人前のトレーナーになれるようにと願って、渡されたものだったのだ。だが、ユウリはこのメガストーンを持て余しており、誰かのために役立つなら、その人物に渡したいと思っていた。そこでホクトのメガバシャーモに対抗すべく、二人でヘルガナイトとメガリングをアユムに授けようというのが今回の計画として持ち上がる。そこに個々の感情や思惑が入り込み、ユウリとテルマの間で微妙なすれ違いが生じたことは否定するまでもない。
「オレはな、アユム。お前とホクトの、本気のバトルが見たいんだ」
虚空を仰ぎ、今は自分と違う世界を生きるかつてのライバルに思い馳せる。
「本気の、バトル」
「そうだ。オレは大会の主催側として、準決勝はメガシンカをルールに適用してほしいと打診した。無論、そのためのメンバー変更も許可されている。遅くなっちまったが、お前にもこのことはいずれ説明するつもりだった」
テルマは続ける。
「次の試合、十中八九ホクトはバシャーモをメガシンカさせてくるだろう。それに対抗するには、メガシンカしかない」
テルマの考え方はあくまでも現実の厳しさに即したものだ。それはいいとしても、アユムには一つ納得出来ないことがあった。メガシンカの可否は、トレーナーとポケモンが互いを信頼する絆が最大条件とされている。
「ホクトとバシャーモの間に、絆があるとは思えない」
「そいつはどうかな」
一転してライバルを擁護するテルマ。シンジといい、何故か彼らに甘い。ここまでくれば、その真意を自分自身で確かめるより選択肢はない。拳の力を解き、ユウリの方を向く。
「ボクが本当に怖かったのは、何もないことじゃない。きっと、ホクトやタクトさん、自分とは違うトレーナーが怖かったんだ」
「そうだな」
一見すると素っ気ない返事の中に、思いやりが見え隠れする。相手を突き放すような言い方ではなく、アユムの言葉を受け止め、吟味した上での返答だ。ユウリはもう全部分かっている。彼女とは、この町を訪れた時から、苦楽を分かち合った仲ではないか。
「ボク、戦うよ。ホクトを倒して、決勝戦に行く。バトルフィールドでシンジと会うんだ」
「その意気だ、アユム!」
改めて、拳をしっかりと合わせる。いつもより、彼女の気持ちが強く伝わった気がした。
「アユム、選べ。ヘルガナイトを受け取るも受け取らないも、お前達が決めるんだ」
「だってさ。ヘルガー、どうする?」
ヘルガーはとうに心を決めていた。ユウリの所持する石をそっと咥える。暗夜ではその煌きが際立ち、洞窟に散りばめられた宝石に等しい。
アユム達を決勝戦に連れて行き、シンジと戦う。そのために、ホクトと戦うための力を手に入れる――それがヘルガーの答えだった。アユムは頷き、そっと、指を添える。
「行くよ」
それは、静かな宣誓。
場にいる人間もポケモンも、否、寝静まった大地、川のせせらぎさえも。自然の中に産み落とされ、零れ落ちた石と歌う。石と石とが、惹かれ合う。
そして、焔が包み――。