本編
第5話「開幕! ローズシティ ポケモンバトルトーナメント」


 チャンピオン。
 それは、少年少女に夢と希望を与え、同時に困難と絶望をもたらす、表裏一体の称号。ポケモントレーナーの頂点たる栄冠を勝ち取るために、トレーナー達は競い、切磋琢磨する。
 そしてまた、ポケモンと共に遥かな高みを目指す――一人の少年がいた。


 『  名前も声も知らない 第五話  』


 今日は待ちに待った「ローズシティ ポケモンバトルトーナメント」開催日。現在、セイエイ全土の注目は専らこの大会に集められている。我こそは、と意気込む強者共がセイエイのみならず、世界各地からやって来る。規模だけで言えば、もはや世界大会に勝るとも劣らない。運営側としても、観客に良質なバトルを提供出来るわけだから、これほどオイシイ話はない。需要と供給が一致して、この大会を開催しようという動きが高まったわけである。無論、そんな裏事情などトレーナー達が知るはずもなく、彼らが見据えているのは二文字――優勝――を示すトロフィーただ一つ。

 ここでレギュレーションを確認しておこう。
 ルールはいたって簡単。トーナメント制のバトルが選手数に応じて数回行われるだけだ。ただし、一回戦は一対一のシングルバトル。二回戦以降は三対三のシングルバトル。決勝戦は六対六のフルバトル、という形で行われる。
 使用ポケモンは事前に用意した六匹を申請しておく必要があり、パソコンルームでトレーナーのデータとして閲覧が許されている。各トレーナーはデータを分析しながら、相手を対策するチームを組めるというわけである。原則は、事前登録した六匹を回して戦うのが常である。これは「トレーナーが一度に連れて歩けるポケモンの上限は基本的に六匹である」という大学の研究発表に基づく規定である。つまるところ、トレーナーは自らのポケモンを疲弊させないよう上手に立ち回ることが要求されるのだ。これもトレーナースキルを試すため、と言える。無論、重傷によりポケモンが痛手を被った場合にはメンバー変更も可、という応急的措置が設けられている。選び抜いた六匹を重点的に育てるトレーナーが非常に多い今日の事情を鑑みて、このようなルール決定が為されたというわけだ。

 そして、今大会の目玉といえば、チャンピオン・ライゾウとのフルバトル、という点を挙げねば始まらない。優勝者だけの特権である。
 ライゾウはセイエイ地方公認最強のポケモントレーナーにして、じめんタイプを最もよく知る者として「グランドマスター」の称号を授けられた英雄だ。四年前にセイエイを震撼させた事件においても、少年少女と共に悪の脅威に立ち向かったとしてよく知られている。そんなライゾウとのバトルは、大きな契機をもたらすに違いない。彼は先代を下してのチャンピオン就任以来、一度も防衛戦において敗北を喫したことがないのだ。
 ライゾウに今現在最も近いと期待される未来のスーパースターは恐らく、四天王のシンを置いては他にいまい。彼はこおりタイプ使い最高の誉れである「アイスマスター」の称号を若くして得た。シンは齢十八にしてこの称号を授与されたが、セイエイでは例を見ない最年少記録である。まさに、時代が要請したスーパールーキー。
 そんな化物かと見間違える強さを誇る二人が、大会に列席することとなった。選手達は極限のプレッシャーの中で、己の死力を尽くさねばならない。
 さて、ここまでの説明で、この大会はただ開催することだけに主眼を置いたものではないことが分かっていただけただろう。


 *


 どこぞの漫画でありそうな光景が繰り広げられていた。少女はパンをくわえながら、ポニーテールを振り乱しての全力疾走。息を切らした少年が手を伸ばしながらそれを追う。本日、雲一つない晴れ空。しかし、定刻に間に合うかどうかの試練を課せられた彼らは、いよいよ宇宙の表情とかけ離れていた。
「だからっ、あんなにゆっくりしてていいのか聞いたのに!」
「お前だってコーヒーおかわりしてただろ!」
 ドンカラス夫婦の口論の如く喚きながら、辺りの視線には目もくれない二人。
 ポケモンセンターから少し離れたところに聳え立つ聖地。そこが今回の舞台である。アユムとユウリの運命は、開会式に参列出来るかどうかの分かれ目にあった。というのも、度重なる特訓に気を取られ、開催時刻をうっかり失念していたという、いかにも自身を疲労困憊の被害対象であるとみなす少年少女にありがちな失敗のせいだ。スタジアムになだれこむ長蛇の列を掻き分けながら、アユムの緊迫感は早くも絶頂を迎えようとしている。
「すみません、すみません、すみません」
 自ら活路を切り拓かなければ、他人は道を譲ってはくれない。こんなところで彼は世の中の無情を思い知るのだった。ユウリもパンを消化する努力だけは怠らず、群衆とポケモンの間を縫ってスタジアムへと急ぐ。
 肌を射るような逆光に照らされ、その光を一身に受け止める会場は、古代の闘技場かと見違える風格を放つ。ケンタロスとバッフロン、どちらの角が強いかを競い合う催しが行われていた、という伝説があったとしても何の疑問も抱かずに頷くだろう。アユムは思わず足を止めて見上げる。一刻と針が指し示す時間的な概念を乗り越えた先にある、安楽の境地を一足先に堪能するのは気持ちが良いものだ。
「着いた……」
「まだゴールじゃないぞ!」
 ユウリの甲高い叫びに突き刺され、汗だくの髪を掻き分けて靴音を鳴らすアユム。霞む視界で過ぎ行く景色を捉えるのは難しい。息を切らしながら思うことには、これほど走ったのはいつ以来だったろうかという、払底されていたはずの自覚。旅といっても移動全般はオンバーンにまかせっきりで、冷風を突っ切る相棒の努力を露知らず、トレーナーは空の旅を堪能していた。己の力で踏み出すことを忘れた身体はいつの間にか言うことを聞かなくなっていた。それに対してユウリはゴウカザルの如き身軽さである。髪が靡くことで初めて覗く白い肌に、アユムは手を伸ばしたくなるような熱情を投げかけていた。

「遅かったね。もう開会式が始まるよ」
 若干の呆れを顔面に張り付けて、皮肉と共に歓迎したのはシューティーである。偶然にも知り合いと隣になれたのは運が良かった。今日の運をここで使い果たした、ということにならなければよいのだが。アユムとユウリは半ば地面に顔を擦りつけたい気持ちだったが、さすがに多くの面前で非常識の程を晒すのは躊躇われたため、行動を常人の範囲に規定するべきだと確信する。
 眼前に広がる背中は、カロス地方に爪痕を遺した戦争に駆り出された兵士かと錯覚するほど順序正しく整列していた。なるほどこれから行われるのは確かに、一種の闘争である。それは血生臭さと青臭さを同時に匂わせ、人々を魅了してやまないだろう。一部は敗北という冷水に漬かり、一部は勝利という酒に溺れる。ポケモンバトルを統治する女神がいるならば、彼女ほど冷徹で醜悪な生き物はあるまい。問われるものは、力。求められるものは、結果。その者達が歩んできた過程など、はなから問題にされてはいないのだ。女神は自分が差し出す杯に一杯の満足を注いでくれた者へ、祝福の花束を贈るのだから。
 だが、テルマとのバトルを通して、アユムは一つ心に誓った。例え女神に微笑みを貰えなくとも、己の全力を尽くす。自身のポケモンと、剣閃を交える相手に敬意を表するため。そして、独りではなくポケモンと共に戦い抜く。
 彼がすべきことは、能力をひけらかすことでも、優秀な采配を振るうことでもない。自分がなりたかったものの、原点に立ち戻る。忘れかけていた感情の欠片を取り戻すのだ。
 炎天下を考慮し、トレーナーとポケモンが最高のコンディションを発揮出来るよう、バトル自体は室内のドームで行われる。天井は高めに設計されており、ひこうタイプのポケモンでもフィールドを持て余すことはない。内装は古代の城にでも迷い込んだと思われるほど精巧に完成されており、戦いの士気を高めるのに十分な役目を買っている。既にどのトレーナーも貪欲に目を光らせ、始まりの合図を今かと今かと待ち受けている。準備は万端。後はひとたび猛々しい号令が発せられさえすれば、自分達の強さを誇示するだろう。

 ようやく意識が現世の流れと合流し始めた折、トレーナー達は一斉に息を呑む。マイクから放たれる音声が人々を震え上がらせるのは早々見られる光景ではない。
「四天王のシンです。皆さん、本日は暑い中お集まりいただき、ありがとうございます。まだ開始時刻まで長いですので、トレーナーの方々は楽にしていてくださいね」
 檀上に起立するのは、誰もが憧れてやまず、その地位から蹴落としてやりたいという野心の標的にされる男。凛々しい声が、スタジアム全体に響き渡る。焦らすのが好きなのか、まだ客の動員に取り掛かっている主催側としては、大号令を温存しておく魂胆のようだ。しかし、トレーナー達を退屈させないために現れた存在としては少々お遊びが過ぎる。この場にいる誰もが有象無象を突破して、あの男と戦いたいと願うことに間違いはない。人間という動物にも眠る野生を焚きつける目論みがあるとすれば、潰し合うための籠に閉じ込められた者達は見事その策略に陥ったといえる。
「シンさんまで、ここにいるんだな」
「……そうだね」
 ユウリがぽつりと呟き、アユムはいつになく唇を引き結ぶ。森林に通り過ぎる風のようなざわめきが、一声にしてやんでしまった。シンは満足そうに見渡すと、檀上を降りて、主催と思しき人物にマイクを渡す。彼の出番はそれだけで、裏方に引っ込んでしまった。
「四天王とチャンピオンは、高みの見物ってことか」
「いいじゃん。うずうずするよ」
 ユウリの言葉に、横のシューティーが反応する。アユム、ユウリ、シューティーは近辺に並んでいたが、シンジらの姿は確認出来ない。あの中にはホクトやタクトも潜んでいる――そう思うと、やはり大会にかける想いも強くなる。
「ボクとキミが当たることもあるかもしれないね」
「あたしのポケモンに度胆抜かれるなよ?」
「そっくりそのまま、お返しするよ」
 十八番の挑発で、互いの闘志を確かめ合う。アユムはそんな二人を眺めていた。それは他人事のように遠くへとあしらう視線ではなく、密接な関わりを持った者だからとれる態度である。


 *


 まばらだった人が気を遣って詰め合うようになるほど、いよいよ特等席は占められていく。アユムは滲む汗を拭いながら、まもなく誰かが開会式の打ち合わせをする様子を見つめる。やがて、余計な口を叩く者は少なくなっていた。敵の談笑に付き合ってやるほど、彼らには余裕があるわけではない。裏を返せば、今になって軽口を叩き合うような者達は真っ先にふるい落とされるということ。ここにいる誰もが、己のことで精一杯だ。厳しい双眸にて見下ろすチャンピオンも、それを理解した上で玉座から待ち侘びている。巨大な群衆の中から一太刀を浴びせる勇者が現れることを。
 不思議な感覚だった。喉から手が出る程欲しがっていた到来の時を、いざとなればやって来ないでほしいと思うようになる。だが、時間は前にしか進まない。階段を上がる音がする。
「本日は、ローズシティ ポケモンバトルトーナメントにお集まりいただき、感謝の意を申し上げます。これより、開会式を始めたいと思います。司会進行は私――」

 自販機の洗礼を受けて冷え切ったカイスジュースをキャッチする四天王のシンは、頬を緩めて空き缶の蓋を開ける。そんな高揚感は、普段カメラのフラッシュを浴びる彼がまだ成り立ての大人であることを示している。
「ったく、先輩をこき使うとはとんでもない奴だ。将来有望だな」
 不平を垂れながら隣に腰掛けるのは、チャンピオンのライゾウである。スタジアムを退屈させる社交儀礼のようなつまらない話には目も暮れず、飲み物を片手にしている。トレーナーの模範となる行動を示す気はさらさらなさそうだ。既に特等席は、彼らがいかに快適な環境下で戦を見届けられるかに重きを置かれていた。
「そこで買ってきちゃうところが甘いんですよ。ライゾウさんって、奥さんの尻に敷かれるタイプでしょ」
「あ、そういやしばらく連絡とってねえな。まあ、元気にやってるだろ」
 ライゾウは荘厳な雰囲気を根こそぎ取っ払い、話題に花を咲かせ、遠くの地で夫の帰りを待つ妻を想う。この場ではただの親父と小生意気な青年が、仲良く友達に興じているだけだ。
「そういうところが駄目なの」
「なんだよう。第一、手紙なんてオレの柄じゃねえぞ」
「直接顔出せばいいじゃない。それまでリーグはボクが預かっておいてあげますよ」
「うわっ、不安だ! 田舎から帰ってきたら、城が凍ってたりしてな」
「そのジョークはあんまり面白くない」
 二人共、しょうもない冗談を並べるばかりだが、そこには愛嬌がある。プロならではのあらゆるしがらみから解放されるこの一時を楽しむ彼らは、誰がどう見ても唯一無二の戦友である。
 そこへまた一人が加わることで、酔っ払いのような奇妙な盛り上がりを帯びる。
「ちわっす!」
「おーう、来たか」
「ライゾウさん、ご無沙汰してます」
「久しぶりだな。テルマ、こいつはシンだ。一応四天王の大将」
「一応か。参っちゃうな」
 ライゾウは本当に軽い調子でシンを指し示す。シンは苦笑しながら、テルマに手を差し伸べる。一瞬でモードを切り替えたことにテルマは気付く。テルマを一人の戦士として畏敬するも、氷の眼差しは既に彼を捉えて離さない。
「セイエイリーグ四天王のシンと申します。四年前の事件解決のことはライゾウさんからよく聞いています。本当に、ありがとうございました」
「ど、どうも恐縮です。カチヌキファミリーのテルマと言います。このたびは、大会の重役に招いていただき、えー、その……」
 あまり使い慣れていないのか、ぎこちない敬語にシンがくすりと笑みを零す。初対面ならではの互いを遠ざけていた壁が消え、団欒の空気が戻ってくる。
「固い、固い。まあ座れ。暑かっただろう?」
「ここは涼しいですね」
「ボクのユキノオーが、冷気を出しているからね」
 テルマは目を剥く。このスタジアムは、シンのポケモンの影響下にあるのか? ライゾウはそれを聞くや否や、すぐに彼の肩を小突く。
「なんてね。冗談」
「性質の悪いことを言うな」
 テルマは一応自身の性格も褒められたものではないと自覚していたが、ここに来てそれを上回る者がよもや現れようとは予想だにしなかったため、苦笑と共に口端をひきつらせていた。仮にこの男を怒らせては命がいくつあっても足りなさそうである。
「さて、そろそろ切り替えましょうか。ボク達がこんなんじゃ示しがつかない」
「正直オッサン共のつまらん話なんか聞きたくもないがな」
「チャンピオンにあるまじき発言ですね。上層部にバレたら何を言われることやら」
「チャンピオンは聖人じゃないぞ」
 延々と零される愚痴に、テルマは大人社会の一端を垣間見る。シンは黙って、凍て付く瞳をスタジアムに向ける。
「まあ一理ある。ボク達はポケモントレーナーだ。御託を並べるよりも、バトルでしか語り合えない生き物……。あの中に埋もれている原石を、早く磨いてやりたいね」
 シンは瓦礫の山から光る宝石を摘みあげるように人差し指と親指をくっつける。光沢をつけるのは自分の役目だと言わんばかり傲慢さに、彼という人間が表れていた。


 *


 対戦カードの決定は、ランダムシャッフルにて行われる。既に参加申請したトレーナーのデータをスクリーン上に画像として映し出し、人数内での調整を行うのだ。ローズシティの重鎮達がようやく腰を下ろし、バトンは実況や解説へと引き継がれる。実況の登場が幕開けと同じだけの価値を誇る。
「えっ!?」
 発表された一枚目のカードは、ある意味残酷な結果。隣にある二人同士――ユウリとシューティーだ――が、揃って画面に映し出されていた。
「ユウリとシューティーが、一回戦から……」
 アユムをすり抜けるように、シューティーが無言でその場を後にしようとする。そうだ、もう馴れ合いの時間は終わった。いつまでも知り合った友達ではいられない。これは分かりきっていたことでもある。数十人だろうが、数百人だろうが、勝者として君臨するのはたった一人だ。積み上げられた屍の上に立つことを許されるのは、たった一匹のポケモンなのだ。
 スタジアムに整列する勇士達が、揃って首をもたげる様はある意味貴重かつ珍妙な光景である。カードを配るような速さで、次々に公開されていく対戦票。自分の出番を見逃さないよう、トレーナー達は目を凝らす。二人分のアイコンが表示され、奥に引っ込んだと思えば、次には新たなるカードが発表されるという仕組みで、試合予定が組み立てられていく。
 アユムの対戦相手は、髪留めを付けた金髪の女の子だ。紫を基調とした服を着ているようで、写真にも自我の強さが宿って見える。彼は深呼吸して気合を入れ直す。人を気にするよりも自分の優先順位を高めるべきだ。足元を掬われては話にならない。

 控え室にユウリとシューティーはいなかった。東西南北に用意されているから、会わないのも無理はない。簡素なロッカーが用意されただけの室内には、張りつめた空気が巡り、少しの衝撃を与えるだけで、脆くも崩れてしまいそうな危うさ。アユムは、作業員が念入りに調整しているスタジアムを画面越しに見ていた。偶然居合わせたシンジがやって来る。
「シンジはこの部屋か」
「ああ。一回戦、あいつらがあたるようだな」
 アユムは席を詰めるが、シンジはそれに構わずテレビを見上げる。
「だからって何も、いきなり二人を鉢合わせなくたって」
 この一週間、ユウリはもちろん、シューティーも特訓に励んでいたことはよく知っている。だからこそ、知らぬ間に生まれた親近感が、アユムを戦場に赴かせないよう繋ぎとめていた。
「甘いな」
「えっ?」
 座っている者と立っている者の目線から生じる違いだが、その時アユムにはシンジが自分を見下しているように思われた。彼は雑念を切って捨てる。
「お前達の馴れ合いなど、他のトレーナーには関係ない」
 言い方こそ辛辣だが、真を得ている。分かっているとも。アユムはすっかり見透かされているのがどうにも面白くなくて、あえて何も言い返さない。まるで幼児がだだをこねるように。
「中途半端な気持ちは捨てることだな」
「よっ、余計なお世話だよ……」
 アユムはなんとなく居心地が悪くなり、勢い任せに控え室を出て行く。もうすぐ試合が始まるというのに。後先省みない行為ほど愚かしいものはない。シンジは諭すでも咎めるでもなく、そのまま視線を上げるのみだった。

 一度出て行った以上、何もしないで戻るのは格好がつかない。つまらない体裁をうじうじと気にしている時点で負けなのかもしれないが、アユムは無意識に知り合いへと入れ込んでいる事実に気が付く。
 アユムが恐れているのは、ユウリが負けることだ。彼女の特訓にずっと付き合い、ゴウカザルの進化を間近にしてきたアユムは、いつの間にかユウリに対し想像以上の敬意と憧れを払うようになっていた。だからといって、負けて欲しくないと願えるのか――。
 一応名目をつけるため、自販機で飲みたくもないジュースを買っていると、呆れたような声が飛んでくる。
「お前、もう試合始まるぞ」
 自販機の稼働する音だけが重々しく鳴り響き、ウブのみを摩り下ろした果汁百パーセントのジュースが押し出される。それを見て、アユムは思わず顔をしかめる。ユウリは試合前だというのに、アユムの気持ちも露知らず、気楽なものである。
「もしかして、間違ったとか?」
「なんでもないよ。もう試合なんだろ。早く行きなよ」
 少し不機嫌に言ってやると、ユウリは彼の傍を通り過ぎる。少なくとも、これで大会が終わるまではもう顔を合わせることもないだろう。束の間であった一緒の時間も、今度は敵同士という形で跳ね返ってくる。何か気の利いたことを言おうとして咄嗟にシンジの言葉を思い出し、ジュースごと飲み下すように押し込む。前はこんなこともなかったのに――アユムは戸惑う。こんな時、兄ならば、テルマならばどうするのだろうか。
「分かったよ。じゃあな」
 ユウリはいつもより静かな声で、別れを告げる。一歩踏み出して、爪先を軸に横顔をこちらへ向けた。
「試合の前に、アユムと会えて良かった」
 どこまでも他意のない表情で、ユウリはそう言い残す。変に気取っていた意地が、その一言で全身を軽くするような感慨に変わる。これ以上、余計な会話は必要ないだろう。アユムはこころなしか、ユウリの背中が一回り大きくなった錯覚に囚われる。口にしたジュースは、少しばかり甘酸っぱい味がした。


 *


 二人の選手が入場すると、たちまち耳を劈く熱量の拍手をもって迎え入れられる。これを快感ととるか、重圧ととるかは、各々の胸に問いかけてみると良いだろう。
 バトルフィールドを隔てて、ユウリとシューティーが向かい合う。スタジアムの俯瞰図があるとして、左がユウリ、右がシューティーのポジションである。適度に保たれた室温と、威風堂々ポケモンの足跡を迎え入れようと鎮座する砂地のスタジアム。
 喧嘩っ早いユウリは、腰につけたモンスターボールを手に取る素早ささえ意識せずにはいられなかった。だが、それは今までの彼女ならば、という前提が意味を為した上での話だ。ユウリはまず深呼吸をすると、胸を張ってフィールドを一望する。目を瞑り、審判の旗が振り下ろされる刹那をしっかりと受け止めようとしている。葉に滴る雫が垂れる時のように、それはやって来た。
「――これより、第一回戦・第一試合、イリマタウンのユウリ選手と、カノコタウンのシューティー選手の試合を始めます。試合、開始!」
 両者がボールを放つのは、同時。
「行くぞ、ゴウカザル!」
「頼むよ、フライゴン!」
 ユウリのボールからは、辛酸を舐めて一皮剥けたであろう炎の闘士が見参。
 対して、相手。食糧も底を突き、ペットボトルにきらめく一滴の雫が太陽光を眩しくさせるような砂漠。舞い降りたのは、聖霊の歌声だった。軽やかだが芯のある羽音。苦境をさまよう者に差し伸べられた、救いに思われたことだろう。
「綺麗……」
 思わず口にしていた。この一時ばかりは、見惚れることを許して欲しい。ゴウカザルも瞳孔を見開く。敵が百戦錬磨の強者であることを手に取るように感じているのだ。
 多くの者の予想とは裏腹に、静かな始まりを告げた第一回戦。ゴウカザルとフライゴンが一歩でも踏み出せば、小さな闘技場の景色は様変わりする。後戻りは出来ない。気合は十分。呼吸も悪くない。波打つ鼓動も落ち着いている。
 先手を取ったのは、ユウリではなくシューティーの方だった。
「お手並み拝見といこう。接近してほのおのパンチ!」
 フライゴンが甲高い声を響かせながら、地を滑る。摩擦によって生じた熱を纏うかのような拳が繰り出され、ゴウカザルは当然グロウパンチでの真っ向勝負を挑むだろう、と思われた。
「受け止めろ」
 その時、ユウリを知る者全員が目を丸くする。ゴウカザルは腕を十字に交差し、奇襲の衝撃を最小限に食い止める。多少の火傷など、ほのおタイプには痒い。フライゴンが反動でふわりと浮かんだところを見計らって、ゴウカザルは後攻からグロウパンチを繰り出す。頬へのクリーンヒット。見事なカウンターに、拍手が起こる。無論、ユウリは控え室で壁にもたれかかっていたホクトがあまりの衝撃に背筋を放したことなど知る由もない。
『ユウリ選手、冷静なカウンター。初発を封じられたフライゴンはどう出るか?』
「怯むな、まだまだ手はある! スピードで攪乱するんだ!」
 フライゴンが舞えば、砂塵が共に踊る。砂漠があれば、聖霊は生きていける。ユウリは取り乱すことなく状況を分析する。
「弾き返せ」
 ゴウカザルは掌底を叩きつける。砂は波の如き奔流を描いて、敵の視界を封じんと襲い掛かる。蠢く砂利。ゴウカザルが飛び出した。相手は視界を乱され、反撃には厳しいはずの体勢だ。だが、シューティーは口端を吊り上げているではないか。
「それで視界を封じたつもりかい。ほのおのパンチ!」
「しまっ……潜り込んで、尻尾を掴め!」
 フライゴンの瞳は、レンズの裏に隠されている。鋼のような赤いカバーに守られた小世界をそう簡単に破れるはずなどない。ゴウカザルは尻尾に手を伸ばすが、叩きつけられた羽によりバランスを崩し、背中に拳を食らう。バトルの展開は百八十度引っ繰り返る。
「ほのおのうず!」
「すなあらし!」
 ゴウカザルは頭の業火を振り乱して、焼き尽くすべき獲物を焦がれる竜巻の生成に取り掛かる。負けじとフライゴンも上空へと舞い上がり、砂という砂を一身に集めていく。ユウリは歯軋りする。明らかにこのスタジアムではフライゴンの方に分がある。砂嵐を自在に操る術を封じなければ、ゴウカザルは数分ともたないだろう。
「見つけるんだ。突破口を……!」
 ユウリは目を凝らし、フライゴンの動きに全ての注意を払う。フライゴンを親のように慕う砂。それらを吸い寄せていく機能を果たすのは――二枚の羽だ。
「あれだ! ほのおのうず、一点集中!」
 ゴウカザルが頭の暴れ竜を抑え付け、鑓の如き一撃へと昇華させる。フライゴンは砂の防御壁を築き上げた。炎が四方八方、あらぬ方向へと飛び散り、決死の攻撃は空しく終わる。
「お返しだ。フライゴン、キミの力を見せてやれ!」
 ゴウカザルは手首を震わせる。その動作が何を物語るかがユウリの中で克明に描かれ、その危険予知から彼女は退避を命じる。
「まずい! かわすんだ!」
「逃げ場はない!」
 フライゴンは、逆さまに置いた時計から零れ落ちる砂のようにぱらぱらと落ちていくそれを、鋭利な武器へと仕立て上げていく。念入りに磨かれた粒の一つ一つが、ゴウカザルを断つ規模の砂の剣を構成する素体になる。フライゴンはそれを手に取り、大空を制する剣士として襲い掛かる。
『これがフライゴンの底力! 砂の得物を携えた竜騎士が悠然と挑みかかる!』
 シューティーの想定していた反撃はこれか。ユウリは一歩後ずさりする。フライゴンは空間ごと切り裂くような勢いで、太刀を振るう。振動が伝わり、スタジアムにひびが入る。確かに回避への専念がやっとだ。逃げ場はない、という宣言は正しい。
「どうすれば……。フレアドライブか? でも、それは……」
 自らをも滅ぼしかねない、諸刃の剣。

 彼女は勝利を求めるために、必殺技を放棄した。アユムに負け、ホクトに負け、シンジに負けた。ゴウカザルの連敗は、自分の指示の甘さ故に招かれたことだ。
 ユウリは知っている。長年共に過ごして来たパートナーの底が、目測如きで他人に知れるものではないことを。だからこそ、この一週間はゴウカザルを知ることから始めた。派手な目先の威力に頼るのではなく、ゴウカザル自身のポテンシャルを引き出すことに専念してきた。戦い方も一から見直した。出来るだけ多く、防御を取り入れるよう練習を重ねた。必殺技を得たからといって、彼らは舞い上がっていたのだ。
 何がポケモンバトルを楽しむだ。そんな余裕はなかったのだ。アユムに説教など出来た身ではない。完全なる復活を遂げた今、戦いたい相手は恐らく決勝まで勝ち上がっていくだろう。置いて行かれたくない――少しでも、自分を振り向かせたい。口には決して出すことのない、包み隠さない気持ちは、いつの間にか彼女を縛り付ける枷となっていた。

 ユウリが口を開こうとした瞬間、ゴウカザルは腹で剣を抑え込む。犬歯を剥き出しにしたゴウカザルの執念を恐れたか、砂の剣は霧散する。まだまだ、諦めない――反撃の狼煙だ。
「ゴウカザル!」
「やるね。だけど容赦はしないよ。フライゴン、そこにほのおのパンチを決め込むんだ!」
 容赦ないシューティーの追撃。彼とて、ユウリを倒すために出し惜しみはしないという腹積もりだろう。それでいい。手加減などされたら、癪に障る。ここまでやって来たユウリとゴウカザルに対する侮辱だ。だが、ユウリとてここで終わるつもりは毛頭ない。指示もなしに無茶に走ったゴウカザルが何よりその証明である。彼らは意地と焦燥で結びついていた。
「慣れないことは、するもんじゃないな」
 ユウリは呆れたように笑う。身体を張ったスタイルの方が、やはり彼らのバトルに合致している。沸き立つ本能を抑え切れない未熟な彼らは、野生を雄叫びに乗せる方が似合っているのだ。
「フレアドライブ!」
 ゴウカザルは跳躍し、その指示が来るのを待っていたとばかりに頭の炎で全身を燃焼させる。フライゴンの拳は空を切り、その火花まで取り込むかと思わせる勢いでゴウカザルの必殺技が発動。シューティーは手を高く上げ、フライゴンに更なる技を命じる。
「りゅうせいぐん!」
 フライゴンは軽やかに飛び上がり、頭上の球体を優しく、花弁が開くようにそっと包む。テレビ越しから観戦していたアユムは、オンバーンに勝るとも劣らないドラゴンタイプきっての大技が予感出来ただろう。ゴウカザルの応手次第では、勝負が決まる。
 スタジアムを打ち砕かんとする、裂空の訪問者。業火を伴って、戦場に無慈悲の爪痕を残す。ゴウカザルは無我夢中で道筋を紡いでいた。突破口は障害を越えた先に切り拓かれる。一つ、二つ、三つ――怒涛の猛追が、平衡感覚を狂わせる。魂ここに非ず。目の前に見えるのは、翡翠色の翼竜ただ一匹だ。
「羽ばたけ、フライゴン!」
「負けるな、ゴウカザル!」
 会場が一体となり、身を翻すトレーナーや骨を砕くポケモン達に声援が送られる。
 その時、フライゴンは目を疑う。降り注ぐ天空からの審判を潜り抜けたゴウカザルには――もう炎が纏われていない。シューティーは咄嗟に叫ぶ。
「まさか! フレアドライブを加速に使ったのか!?」
 ユウリはこのバトルで一番野望を秘めた表情になる。自分らしさを残しつつも、彼女は勝つために講じられうる最大の作戦を捨てなかった。フレアドライブは囮。本物は――。
「そのまさかだ。受け取れシューティー! これがあたしと、ゴウカザルの、積み上げてきたものだッ!」
 振りかぶって撃ち出す、渾身のグロウパンチ。
「ボクにも……ボク達にも、積み上げてきたものはある。負けるわけにはいかない!」
 シューティーの想いに応えようと、意気を発するフライゴン。スタジアムに地響きが走る。否、これは地鳴りか? ゴウカザルは白目を剥きながら衝撃波の巻き添えとなり、勝利ごと飲み込もうとするじわれの中へ落下していく。
『一撃必殺が炸裂ゥゥッ!! ゴウカザル、万事休す!』
 実況のヒートアップ。バトルは最高潮の佳境を迎えた。ユウリもシューティーも、自らの拳を取って戦っているわけではない。それでも汗を流し、肩で息をしている。ポケモンに想いを託して、彼らもまた立派な戦士としてそこにある。
 ゴウカザルは崖に捕まろうとするが、フライゴンがそれを許さない。鬼の形相で始末に向かう。ユウリはグロウパンチを、シューティーはほのおのパンチを指示。断崖絶壁にけたたましい爆発が噴き上がる。ゴウカザルが奈落の底に落ちて行ったことを、フライゴンは見届ける。
「終わった……のか?」
 シューティーはスタジアムを見下ろす。審判もまた彼に倣う。ゴウカザルが戦闘不能になったと断定出来る証拠がなければ、このバトルは続行が認められる。スタジアムに沈黙が降りる。この会場に集った全員が結果を欲していた。その中でユウリは待つ。相棒の帰還を。

 それは、業火のきらめきを手に入れて。
 地中という名の地獄から、這い上がる。貪欲な瞳で、残された可能性をその手に収めようと。最初に察知したのは、好敵手たるフライゴンだ。信じられない様子で瓦礫の底を見渡す。
 ゴウカザルは生きていた。瞼を晴らしながら、不格好な体勢で突き出た岩肌にすがりついていた。その姿は、たった一人ユウリの胸を打つ。周りがどう思おうが、彼女にとってはゴウカザルが一番の脚光を浴びている。
「そんな……」
「待ってたぜ」
 ユウリには分かっていた。だから、一言だけを簡潔に告げる。虚ろにフライゴンを見て、獰猛に笑うゴウカザル。試合はまだ終わっていない。水を打ったような静寂が、熱狂にて解かれる。
『これが、本当に第一試合なのでしょうか……? 私達が見ているバトルは、トレーナーとポケモンの、意地と意地のぶつかり合い! どこまでも魅せてくれます!』
 ゴウカザルは炎を天にまで放つ。火の粉が降り、フライゴンは羽で自らを防護。膨張し行き場を失った火炎が暴れ出そうともがいている。その光景に、一部の者は心当たりがあった。

「シンジ、あれは……」
「もうかだ。オレとバトルした時よりも、遥かに桁違いのな」
 淡々と語るシンジ。だが、その瞳は揺れていた。
 
「反撃行くぞ!」
「フライゴン、最後まで気を抜くな。ここからが本当の戦いだ!」
 ゴウカザル、フライゴン。両者、雄叫びをあげる。
 フライゴンはやはり砂を集め、防御手段に出るかと思われた。それが賢明な判断である。しかし、ユウリが予想したそれよりも、砂嵐は聳え立つ塔を彷彿とさせる。フライゴンも持てる力の全てでゴウカザルを迎撃しようという算段である。
「フレアドライブ!!」
「すなあらしで迎え撃て!!」
 ジェットのように炎を噴出させ、赤かったはずの炎が、より純度の高い蒼へと洗われていく。猛火の神髄。負けたくないという彼らの気持ちが、昇華を生み出した。
 しかし、何よりもユウリとゴウカザルの晴れ晴れとした顔つきにこそ、その理由があるのではないか。重圧を乗り越えた彼らはまさに、ポケモンバトルを楽しんでいる。
 蒼炎のフレアドライブは、すなあらしを螺旋階段のように駆け上っていく。壁を破れば、その先にはフライゴンが潜む。猛火のパワーが、ゴウカザルに最後の後押しをする。あともう少し。台風の目から、一本の矢が伸びる。フライゴンは目で追い切れるほど反応に間に合わなかった。鋼のカバーから絶え間ない亀裂が起こる。
 だが結局、フライゴンが最も愛する大地――その恩恵こそが、ゴウカザルに叩きつける切札であった。炎は掻き消され、後には退けず、後も先も見えぬ状況で、ただぶつかり合いだけを迫られる。ポケモンバトルの原点にして、戦いにおける終着点である。

 地割れの足場に降り立ち、睨み合いを利かす二匹。トレーナーにとっては、一秒も百に増して感じられるこの瞬間。
 もう、身体が動きそうにない。ユウリのために、何より自分のためにやるだけのことはやったが、敵は一枚上手のようだ。
 それは誇張でもなんでもなく、まだまだ自分達の及ばない次元があるという悟り。
 閉じ行く眼に、翡翠色の勝者を称えて。
 相棒は力尽きた。


 *


 声援が遠ざかっていく。ゴウカザルはよくやってくれた。ユウリはゴウカザルの潜在能力を引き出したように見えるが、見方によっては逆にゴウカザルがユウリの真価を引き出したのかもしれない。全く、これではどちらが主人か分からない。
 ユウリは前髪を掻き上げ、すっかり力の抜けた足取りでポケモンセンターに戻ろうとする。途中の自販機にまたもや人の像が結ばれて、アユムだろうかと期待する。
「あな、たは……」
 ユウリは固まる。セイエイで最もポケモンバトルの強い男が、そこにいたのでは当然だろう。ライゾウはロメジュースを購入しているところだった。
「見てたぞ、今のバトル」
 ユウリは自信なさげに目線を逸らす。チャンピオンの前でどう自己評価したらいいか分からなかった。良いバトルだった、まだまだ未熟だ、がんばったが惜しかったな――どんな言葉が投げかけられるのか。そもそも、この男の眼鏡に適う存在なのかと、己をつくづく矮小化してしまう。
 ロメジュースを豪快に飲んだ後、ライゾウはサングラスを外す。年期のついた皺が、目元に刻まれている。
「お前さん、バトルは楽しいか」
 意外な質問。ユウリは答えに詰まる。いつもならば間髪入れず頷いていた。果たして、本当に先程までのユウリというポケモントレーナーはバトルを楽しんでいたのだろうか? 勝利を意識するあまり、相棒の調子を崩し、本来の戦いを演じきれなかったのではないか――振り返ったところでもう遅いのに、こうしておけばよかった、ああしておけばよかった、もっと結果は違ったかもしれないと思う自分がいる。ゴウカザルが頑張ってくれたことは言うまでもない。しかし、これほど勝利という概念を欲したのは初めての経験であった。それを突っ撥ねれば、正直な悔しさに嘘をつくことになる。
「正直、自分が楽しめていたのかどうか……分からないんです」
「ほう。オレには、お前さんがとても楽しそうに見えたけどな」
 思わず顔を上げる。ライゾウはサングラスを服に挟み、フィルターを通さずユウリを見つめる。
「楽しめればいい。違うか?」
「あたしは――」
 今まではそう思っていたし、恐らくこれからも根本は変わらないだろう。しかし、そこに一つの決意を付け加えたい。それがユウリを更にトレーナーとして成長させていく。
「勝ちたい! もっと、強くなりたい……!」
 堰を切ったように、涙が止め処なく溢れて来る。ライゾウはユウリがこの言葉を口にするまで、どれだけの葛藤があったかを既に察しているようだった。
「そうだな。お前さんに足りないものは、勝利への執念だ」
「でも、アユムにはバトルは勝ち負けじゃないって……」
 ライゾウはからかうように髭を摩る。数ヶ月前にバトルを受けたアユムのことも、しっかり記憶しているようだ。
「お前さん、人にはそれぞれ欠けているものがある。それを補うことで、より完璧なトレーナーに近付くってもんだ。勿論、勝利に対する執念は必要不可欠だ。でもそれだけに囚われれば、ポケモンのことが見えなくなってしまう。肉体に傷をつけるのは、ポケモンであってオレ達じゃない。トレーナーがそのことをよく理解してなきゃ、ポケモンをいたずらに傷つけちまうだろ?」
「それで、アユムに――」
 明かされるライゾウの真意。アユムが一家の重圧でバトルを義務に感じていたことも、この男はとっくに見透かしていた。たった一度のバトルを介しただけで。
「だが、お前さんは勝利に対する執念がまだまだ甘い。バトルを見ていてそう思った。ゴウカザルの力、もっと無理のない形で引き出してやれるはずだ」
 ユウリはモンスターボールを改めて手に取る。透明なガラスから寝息を立てるゴウカザルが覗く。かけがえのない相棒を究めたい――ユウリは涙を拭いて、ライゾウと向き合う。
「あたし、ジムリーダーになりたいんです」
「負けを知っているトレーナーは、負けを知らないトレーナーよりも沢山のことを教えられる。きっとお前さんは、良いジムリーダーになれる」
 チャンピオンが、直々に認めてくれた。だが、素直な悦に浸ることは出来ない。今はまず、この悔しさを受け止めよう。その後、ライゾウが示してくれた指針は、これからの自分を見つめ直す契機となるだろう。
 ライゾウとユウリが沈黙していると、次の試合開始を報せるアナウンスが響く。ライゾウは慌ててロメジュースを飲み干し、ゴミ箱に缶を捨てる。先程までの威厳はどこへやら、親しみやすく老成した男の姿がそこにある。
「おっと、次の試合が始まるみたいだな! じゃあ、達者でな。がんばるんだぞ」
「ライゾウさん!」
 手を振り、和装を翻すライゾウに、ユウリは声をかける。
 深々と、頭を下げた。今出来る最大の礼節。
「ありがとうございました」
「チャンピオンリーグに来る日を楽しみにしている」
 振り返らずにそれだけ言い残し、頂点は消えて行った。ユウリもまた、その光の向こうへと進んでいく。


はやめ ( 2014/05/22(木) 21:50 )