本編
第3話「猛火の渇望」


 衰弱したヘルガーを乗せ、颯爽と町を駆け抜ける威光。茶色い毛並みはギャロップのように滑らかで整えられており、指の隙間から一本一本丁寧に磨き抜かれた毛が皮膚をくすぐる。あれほどの烈火を体内に灯しているにもかかわらず、今はただ落ち着きだけがそこにある。触っても、全く熱くない。改めて、ポケモンという生命体の神秘を感じずにはいられなかった。
 ポケモンって、こんなに早く走れるんだ。アユムもユウリも、口をぽかんと開けるばかり。
 こちらが乗っているというよりもむしろ、身体が引っ張られていくような感じがする。前へ前へと。ぐんぐん進み、一歩の重みがずしりと響く。正直言って、振り落とされないようにするのがやっとだ。身動き一つとらずにエンテイを乗りこなす――そんなタクトは凄いと思えた。過ぎ去る景観を楽しむ余裕などあるはずもない。風が真正面から吹きつけて、髪は乱れ、息をすると空気が入って息が出来ない。なるほど、オンバーンのおいかぜに立ち向かっていくポケモンの気持ちが少し分かるような気がした。
「着いたよ。すぐにヘルガーの治療を――」
 タクトがポケモンセンターへの到着を告げ、振り向く。そこには、ヘルガーと同じぐらいくたびれたアユムとユウリの姿がそこにあり、彼はようやく頑なだった顔をほころばせる。


 『  名前も声も知らない 第三話  』


「ここまで、ありがとうございました」
 アユムはロビーの一画でタクトに深々と頭を下げる。隣のおてんば少女はどこかぼうっとした様子だったが、ついでに鷲掴みにして下げておく。
 エンテイがいなければ、ヘルガーの容態は悪化の一路を辿っていただろう。タクトには本当に助けられた。ヘルガーを戦闘不能に追いやったのは他でもないエンテイだが、元々の傷がヘルガーを疲弊させる原因だったことは言うまでもない。ここでエンテイを責めるのはお門違いというものだ。だが、それを考えると、アユムはポケモンが死力を振り絞って戦うことに、また何の意味があるのだろうかと考え始めてしまうのだ。
 ヘルガーはすぐさまジョーイやラッキーに急患として運ばれ、今は集中治療を受けている最中だ。また、ゴウカザルとオンバーン、マフォクシーもセンターに預けて、回復の時を待っている。
 ローズシティはセイエイの中枢、故に揃わないものはない。ここの高度な医療はポケモン回復分野の最先端を行くもので、勤務する医者にしても選りすぐりの人材を登用している。
 間に合ったことは何よりだ。アユムとホクトのバトルの後、すぐにヘルガーは気を失ったので、一時はどうなることかと思われた。
「当然のことをしただけだよ。ヘルガーに何かあるようだったら、またすぐ呼んでくれると助かる」
「もちろんです。あの……」
「ん?」
 アユムが気になっているのは、他でもない。ローズシティポケモンバトルトーナメントのことである。
 優勝者には、セイエイ地方チャンピオン・ライゾウへの挑戦権が与えられる。
 主催側としては、ライゾウを持ち上げることで参加者を増やそうという狙いがあるのだろう。しかし、トレーナーは必死である。チャンピオンに恥じないバトルをしようと、ポケモンのコンディションを念入りに整える。優勝を逃せばチャンピオンと戦える機会などそうそう巡ってはこない、だからこそ敗北のプレッシャーに打ち勝とうと死にもの狂いで特訓に励む。恐らく、このトーナメントに参加するトレーナーは並大抵の実力者ではないだろう。
 ホクトにしても、あのバトルが本気だったとは到底思えない。テルマとバトルした時のバシャーモと、アユムとバトルした時のバシャーモでは、前者の方が明らかに段違いの強さだったからだ。今回は引き分けで済んだが、次相見えるとすれば、結果は分からない。そして、ポケモン達がそのエネルギーを受け切れるかどうか、自信がなかった。
「ああ、トーナメントだろう。参加の受付なら、もう始まっているよ」
「タクトさんも出るんですか?」
「もちろんだ。チャンピオンと戦える、またとない機会だからね」
 それが常人の考え方だ。アユムは違う。この場に満ちたトレーナーの中で、アユムだけが違う。タクトは煮え切らないアユムを見て、怪訝な顔つきを向ける。
「参加を渋っているのかい?」
「……すみません」
「ボクに謝ることなどないよ。まあ、まだ時間は残されているからね。ゆっくり考えるといい。それでは、失礼するよ」
 タクトは気さくに手を振り、アユム達と別れる。浮かない調子のアユムを、ユウリは横から何も言わずに見つめていた。


 *


 しばらくの間、二人は無言で連れ添って歩いた。なんとなく町並みを眺める。石造りの店が並び、和気藹々と話し込む店員と客。ニャスパーが女性用のドレスをしげしげと眺めているものだから、あなたには大きすぎるわよ、と微笑む夫人。隣の店では、青年とロズレイドが花売りに勤しむ。今日は妻の誕生日プレゼントだから、といって物色する男性。バニプッチ型のソフトクリームを手にしながら駆けて行く少年と、その後を跳ねていくペロッパフ。お祭りのような騒ぎだった。否、お祭り前のような騒ぎと称するのが、ここでは幾分正しいように思われる。激闘を一目見ようと、自分の財布から奮発してこの町にはるばるやって来た人々も多い。
 ローズシティは元々山岳地帯を切り崩し、再開発されたニュータウンである。人々の需要に応える形で巨大なデパートなどを設置し、生活の利便化を図ることに見事成功した。今やローズシティはセイエイで有数の近代都市として大きく取り上げられるようになった。前の閑静な町を好む住民からするといい迷惑かもしれないが、これもまた時代の潮流が選んだ道といえる。
 そんな歴史のある町を、アユムとユウリは情緒なく歩き続けた。お互い、何を言っていいか分からないから、声もかけない。時折、ユウリが服や屋台に目を奪われることもあったが、アユムは目も暮れず去っていくため、置いて行かれないようにするしかなかった。
 石橋を渡る途中、ホエルコやブイゼルに乗って河を泳ぐ人々を眼下に控えながら、あてもなく次の放浪に移ろうとした時、ユウリがとうとう痺れを切らす。
「なんか、言えよ」
 ユウリの第一声は打っても響かない。アユムは景色を眺めているようで、別の場所を見ていた。違う時間、異なる空間を。ユウリは黙ってアユムの隣に立ち、河を見下ろす。なみのりレースの真っ最中だったのか、丁度後方から来たラグラージとその選手が二者を追い越していくところだった。
「おおっ、あのラグラージ速いな!」
 アユムは焦点の定まらない目で見ているふりを悟られぬよう、そうだね、と零す。
「ホクトのこと、引きずってるのか?」
 ユウリは肘を置き、橋にもたれかかる。アユムは首を横に振ったところで、頷きかけた。
「……どっちだよ」
「ホクトのことも、ライゾウさんのことも、どっちもだよ」
 アユムとライゾウの間に起こった一件を、ユウリは知らない。当然、目を丸くする。
「ライゾウさんって。お前、会ったことあるのか」
「会ったし、バトルもした」
「それってすごいじゃん。じゃあ、尚更トーナメントに」
 そこまで言いかけて、ユウリは口を噤む。ライゾウの話をするたび、顔が曇っていくのが分かったからだ。
「ごめん」
「いいんだ。もう、終わったことだし」
 アユムはそう言って、顔を上げる。手を放し、再び歩き始めると思われた時。ユウリは顔を俯け、懇願するようにぽつりと呟く。
「そうやって、抱え込むなよ」
 アユムは振り向く。明らかに驚愕していたので、慌ててユウリは取り繕う。
「い、いや、なんていうか。一応、ライバル? みたいなものだし……。お前がそうだと、あたしも調子狂うっていうか。その、なんだ? あー……、なんだろ……上手く言えない……」
 アユムはしばらくユウリをじっと見つめていた。彼女は熱心な視線を受けたことがないのか、実に初々しい反応を示す。恥ずかしさのあまり、顔を背けようとすると、アユムが突然ぷっと吹き出す。
「わ、笑うなよ! あたしだって、心配、してるんだから……」
 だんだん声が萎んでいくのがどことなく面白い。
「ありがとう。ユウリ」
 アユムは包み隠さない笑みを彼女に向ける。そして、今まで彼女という人間をちゃんと見ようとしてこなかった自分を恥じた。大会で打ち負かした、それが悔しくてバトルを仕掛けてくるようになった、それぐらいの縁だと思っていた。だが、ホクトとの戦いを通して、確かにアユムとユウリの距離は縮まり始めていたのだ。ポケモンバトルという一つのきっかけがあったからこそ、彼らはお互いを理解しようと歩み寄っていく。
 ユウリはばつが悪そうに頬をかく。そして、アユムは大真面目な声で告げる。それは否が応でも、今の彼を形作る契機となった核心に触れることだと予想がついた。
「立ち話もあれだから、ベンチでも探そうか」

 アユムとユウリは、噴水のベンチに座る。そして、アユムの過去をユウリが聴くという形で、話は進められた。ホクトとテルマの確執は大体この前と同じ内容だったため、アユムとライゾウの因縁、そこに重きを置いた話だ。ユウリは終始真剣に聴いていた。普段の彼女の立ち振る舞いからは想像もつかないほど、まっすぐに瞳を向けて逸らさず、時折相槌を挟むだけだった。彼女の素性を知らない者が一目見れば、さぞかしおしとやかな女の子だと勘違いしてしまうだろう。
「ボクはしばらくポケモンバトルから離れようと思ったんだ。それで目標もなく、ぶらぶらしている時に辿り着いたのが、この町だよ」
 ユウリは組んだ足に顔を埋めていく。何かを考えているのだろうか。
「そうしたら、キミにバトルを挑まれた。でもボクは、本気で戦ってくれるにもかかわらず、あんなバトルをしてしまった……マフォクシーにも迷惑をかけた」
 ユウリは顔を上げて、悲しそうに笑った。
「あたしはともかく、マフォクシーも気にしてないと思うよ」
「だと、いいんだけどね」
「そっか……。何も知らなかったんだ、あたし」
「話してなかったしね」
 アユムもまた、自然と笑っていることを自覚する。この少女に過去を語り明かす時がやって来るとは、考えもしなかった。でもそれは恥ずかしいどころか、なんだか素敵なことのように思われた。
 ユウリは立ち上がって、後ろで手を組む。
「あたしね、ジムリーダーになりたいんだ」
「どのタイプ? って、聞くだけ野暮か」
「もちろん、ほのおタイプ」
 この地方のジムリーダーは、むし、でんき、はがね、ひこう、みず、ドラゴン、エスパー、あくを専門とする八人だ。ゴウカザルをパートナーとするユウリがほのおタイプ好きであることは一目瞭然である。
「あたしはイリマタウンで育った。だからシャクドウのおっちゃんに弟子入りして、いつか跡を継ぐんだ」
 ユウリは大空を見上げながら、夢を掴みとるように拳を握る。
 イリマタウンは休火山の麓にある町だ。ジムリーダーのシャクドウは挑戦者が来るまで毎日火山の洞窟に籠っては、はがねポケモンと共に自身の肉体をも鍛えているストイックな戦士である。イリマ出身なら、シャクドウと仲が良いのも納得だ。彼は町の人々との交流を欠かさず、せっせとスコップ片手に畑仕事に励むのが好きなのだ。そんな懐の広い男としての背中を、ユウリは尊敬しているのだろう。
 ユウリには明確な将来の夢がある。それを聞いて、またもやアユムは自分が何のために戦っているのか分からなくなる。トレーナーとして自分は高みにいると思っていたが、そんなものは傲慢な思い上がりでしかなかった。アユムはユウリに少しとて及ばない。
「ユウリは、すごいね」
「すごい? アユムだってすごいじゃんか」
「ボクは、何のために戦っているのか分からない。ジムバッジを獲得しても、大会で優勝しても。もしかすると、リーグに出たところで――」
「我儘だな」
 言葉と共に頭を垂れていたアユムは、遥か上の世界から注がれ、自分を一刀両断する声に目を見開く。ユウリが平然とした顔で、だが少し不満そうに腕を組んでいた。
「アユムは我儘だよ。あたしが欲しいモノを全部持ってるくせに」
「ユウリ……」
「何のために戦うか分からない? 馬鹿みたい。楽しいからじゃないのかよ」
「楽しい」
「あたしとポケモン達はそうだよ」
 ユウリはモンスターボールを取り出し、上空に投げてみせる。太陽の光を浴び、鱗を纏ったように帰って来たボールは、彼女の手元へと収まった。
「ポケモンと一緒に戦うのは楽しくてしょうがない。思いっ切り叫んで汗を流せば気持ちいい。なりふり構わず心を一つにする、あの感じがたまらないんだ。あたしはそんな時、ポケモンと一緒に生きているんだって思える。もっともっと沢山の人に、バトルの楽しさを伝えたい」
「だから、ユウリはジムリーダーに?」
「そういうこと」
 アユムはマフォクシーやオンバーン、そして自分のポケモン達全匹の顔を脳裏に描く。彼らが戦っている時は、どんな顔をしているだろう。そういえば、考えてもみなかった。アユムは自分の手が震えていることに気付く。それは、怯えから来る恐怖ではない。ホクトとバトルした時に残る――ありとあらゆる負を取り払った先に見える――記憶の欠片が、彼を呼び覚まそうとしている。今は、そのことしか分からなかった。
 自分は、そしてポケモン達は。ポケモンバトルを、果たして楽しんでいるのだろうか?


 *


 おおよそジョーイから告げられた回復時間が経過したため、アユムとユウリはポケモンセンターに戻る。
「お預かりしたポケモンは、みんな元気になりましたよ」
「ありがとうございます!」
 ジョーイが並べたモンスターボールには、すっかり顔色の良くなったマフォクシーにオンバーン、ゴウカザルが入っている。アユムはオンバーンのボールをベルトに付け直したところで、ヘルガーの不在に気付く。
「あの、一緒に治療してもらったヘルガーは……」
「傷は大分塞がりましたよ」
「ああ、よかった」
 思わず肩の力が抜ける。いくらなんでもあの傷を背負わせたまま戦わせるというのは、トレーナーとして倫理観に欠けていると言わざるをえない。喜ぶアユムを申し訳なさそうに見るので、ユウリが尋ねる。
「何かあったんですか?」
「それがね。ヘルガー、人間を少し怖がっているみたいなの」
「人間を、ですか」
 モンスターボールを破壊されたことを思えば、無理もないのかもしれない。目の前でトレーナーに裏切られ、罵声を浴びせられ、一方的に縁を切られた。苦しみの大きさは、ホクトにはほんの小さな断片に過ぎないのかもしれない。しかし、ヘルガーには目に見えるよりも癒えにくい傷を残した。その場に居合わせた者として、目を背けてはならないと心の自分が呼びかけている。かつてマフォクシーを傷つけてしまったことを、ヘルガーに愛を注ぐことで償えるのならば――。
「ボクに引き取らせてもらえませんか」
「あなたが面倒を見るの?」
「ヘルガー、元のおやに捨てられたんです。だから、ボクが代わりになれたら……ヘルガーもまた、心を開いてくれるんじゃないかと……」
 台詞の端から端まで自信のないアユム。語尾に向かうにつれ、だんだん声が小さくなっている。しかし、ジョーイもユウリもそんな彼を笑うことなどせず、真剣な眼差しで覚悟を受け止める。
「ヘルガーを助けようとしたのは、あなた達だもの。その方が喜ぶかもしれないわね」
 少し待ってほしいと旨を告げると、ジョーイは奥の方へと姿を消す。
 しばらく待っていると、ヘルガーがおぼつかない足取りでやって来た。威勢のよさはすっかり掻き消され、尻尾の垂れた、文字通り負け犬に成り下がることを受け入れた様子だ。そうなるように仕向けたのはホクトだ。アユムは彼をますます許せないと思う。
 念のため、他の利用者に危害を加えることがないよう、ヘルガーは首輪とリードをつけられていた。いかにも飼い慣らされたポケモンという感じで、それが余計に寂寥を漂わせて可哀想だが、人間を襲う可能性が無きにしも非ず、という理由からの配慮だ。
「ヘルガー、大変だったね」
 アユムはヘルガーの鼻の辺りを撫でる。ほのおポケモンだけあってか、少し手の平が温かくなる感じがする。ヘルガーは顔を俯かせ、目を細める。そして、ポケモンセンターの外に広がる町並みを眺めていた。
「外に出たいのかしら」
「いや、多分……前の主人のことを、気にしてるんだと思います」
 ヘルガーはアユムを一瞥し、小さく咆える。尻尾で首輪をつつく。
「これ、外してあげられないですか?」
 すると、ジョーイはヘルガーの目線まで屈み込んで、優しく角から頭に至るまで撫でてやる。
「ヘルガー。この子は、あなたと一緒にいたいって言ってるわ。外に出ても大丈夫?」
 ヘルガーはしばらくアユムを見つめる。真摯な視線で、アユムにもしっかりとこのポケモンを受け止めなければと再度確認させる仕草だった。ヘルガーはこくりと頷く。
「うん。じゃあこの輪を解きましょう」
 ジョーイは首輪とリードを外して、ヘルガーを自由にする。アユムの足元に顔をすり寄せ、新たなるおやとなる可能性を秘めた少年に挨拶しているようだ。
「モンスターボールには、入れないでおきます」
 ジョーイは頷く。ヘルガーをモンスターボールに閉じ込めるよりも、外の世界を一緒に歩いた方が元気になりやすいだろう。
 
 その後、ユウリはトーナメントの参加登録を済ませたので、ゴウカザルやポケモン達の特訓を始める。アユムは岩場へ腰掛け、ヘルガーと共に彼らの盛んな意気を見物する。ポケモンセンター近郊に設置された練習場は、多くのトレーナーが利用したいという声がやまないため、交代制での利用を義務付けられることになった。今はユウリ達の時間であるため、ゴウカザルが思う存分力試しをしているところだ。スタジアムに舞う砂埃と爆発の激しさがそれを物語っている。ユウリもホクトに負けたことを引きずらず、むしろ前よりもいい調子だ。
「よし! 次はフレアドライブだ!」
 コンディンションは良好。トーナメントではいい結果が望めるだろう――そうアユムが考えていたところ、ヘルガーに横を見るよう促される。
 窓側から一人の少年がゴウカザルを覗いている。というよりむしろ、生き別れた兄弟との再会の感に浸っているように見えなくもない。ナップザックを背負い、ポケットに手を入れている。すっと伸びた背筋、紫色の長髪が目を惹く。
「誰だろう?」
 アユムは放っておこうかと考えたが、次の利用者だったら悪いと思い、一応声をかける。まだユウリが使い始めて間もないので、問題はないはずだが。
「あの、どうかしたの?」
「ああ、少し見ていただけだ」
 言って、少年は踵を返す。自分と同じぐらいの年齢にしては、低い声も伴ってか大人びた雰囲気を出している。きっと彼もトーナメントに出場するトレーナーの一人なのだろう。

「本当によかったのか? 登録しないで」
 ユウリは特訓を終えたゴウカザルを休ませながら、アユムが買って来たサイコソーダ片手に念を押す。スタジアムは炎によって熱く焦がされた跡が点在し、それはいかなる出来事がこの時間中に起こったのだろうかと好奇心を掻きたてる乱雑な魅力をもっていた。
 彼女が言っているのは、無論トーナメント申請の件である。アユムはタクトにも告げた通り、トーナメントには出ないという姿勢を貫いている。
「まだ期間はあるしね。それに、やっぱり今のボクが出ても仕方ないと思うんだ」
「そっか」
 ユウリはどこかそっけなく、物足りないと言わんばかりのニュアンスで返事する。アユムはユウリの押し殺した渇望に気付いていながら、あえて気付かないふりを演じる。そんな些細な抵抗をしたところで、ユウリには見透かされているだろうが。結局、アユムは自分に自信が持てないでいるだけだ。一方、ヘルガーはゴウカザルとあの一件以来打ち解けたようで、ポケモン同士何やら話し込んでいた。人間にしか分からないことがあるように、ポケモンだけが分かることもあるのかもしれない。


 *


 談笑に耽る彼らの前に、一人の少年が現れる。先程ゴウカザルを熱心に観察していたトレーナーだ。
「キミは、さっきの」
「そのゴウカザルにバトルを申し込みたい。許可はとってある」
 紫髪の少年は、来るや否やいきなり対戦相手を指名する。ユウリは一瞬呆気に取られながらも、売られた喧嘩は買うという表情だ。細かい理由を尋ねるよりも、バトルで語り合う方が手っ取り早い。それこそがトレーナーだけの特権でもある。
「いいよ。あたしは、イリマタウンのユウリ」
「トバリシティのシンジだ」
「トバリって……シンオウの? 随分遠くから来たんだね」
 どちらかというと、セイエイはホウエン地方の南に位置するため、地理的にホウエンよりも遥か北にあるシンオウは相当遠い土地ということになる。シンオウきっての自然遺産であるテンガン山は登れば登るほど雪化粧の降り積もる白銀世界だという話を、セイエイでも割とよく耳にする。
「各地のリーグを転戦した後、ここに来た」
「へえ、そうなんだ」
 シンジという少年はナップザックを肩から外して、バトルフィールドに立つ。ユウリが飲みかけのサイコソーダをアユムに渡し、向こう側へと走って行く。このバトルが終わったら、一層旨味も増すことだろう。
 特訓用のスタジアムにはトレーナーが指示するためのポジションも用意されているため、いざという時はポケモンバトルにも使用可能だ。
「バトルは一対一。先に戦闘不能になった方が負けだ」
「オッケー! 行くぞ、ゴウカザル。気合入れろよ!」
「気合、か」
 シンジの呟きに対し、アユムは何やらその響きを懐かしむような優しさを感じずにはいられなかった。
「ガチゴラス、バトルスタンバイ!」
 シンジの放ったボールから、冠の意匠をこしらえた白亜の王が輪郭をとる。固い皮膚に覆われるそれが「ぼうくんポケモン ガチゴラス」であると分かったのは、幼少期に叩き込まれた知識の賜物だろう。本来ならば、この時代に生きているはずのないポケモン。だが、長い年月が経てば優れた技術も浸透するものだ。化石からポケモンを蘇らせる装置の開発により、今日一般トレーナーが古代ポケモンを連れて歩くのは何らおかしいことではなくなった。
「ガチゴラスか。相手にとって不足なし!」
 ユウリもまた知っている素振りを見せる。イリマは化石が多く発掘されることでも有名なのだ。
 まずはお手並み拝見。ゴウカザルの十八番・グロウパンチが今にも炸裂の時を待つ。対するガチゴラスは鞭のように尾をしならせ、さながら竜の牙が噛み付くかのようだ。ゴウカザルは弾かれた反動で地を滑る。初動は互角。今度はシンジが先手を打つ。
「ステルスロック!」
 生成される岩石群が、ゴウカザルを取り巻いた。獲物をしっかりと狙い定め、どう料理してやろうか思案する――それは無機物にも一個の命が宿る――様を思わせる。あらゆるポケモン達が一目散に逃げて行きそうな外見に反し、ガチゴラスは技巧をもってゴウカザルを攪乱していく。ユウリが最も苦手とするバトルスタイルだ。岩石群の接近による爆発に巻き込まれ、早くもシンジの織り成すバトルのペースに飲まれていく。強者とは往々にして、種も仕掛けもないマジックのように戦いを自分のものとしてしまう。恐らくはシンジも、その例に漏れない。
「大丈夫か、ゴウカザル。今度はこっちの番だ!」
「見せてみろ!」
「言われなくても。フレアドライブ!」
 ゴウカザルは怒髪天を突くような赤赤とした炎を噴き上げる。まさに闘志の表れだ。バトルフィールドに果てしない熱量が迸る。以前にも増した業火のエネルギーを前にして、シンジは俄かには信じがたい一言を呟くのだった。
「まだ不完全か……」
 ゴウカザルのフレアドライブが迫ろうとしている。だが、シンジが動じる様子は全く見られない。彼にはあの炎が止まって見えるのだ。
「ドラゴンクロー!」
 ガチゴラスは蹂躙の爪を一閃奔らせる。ぴたりとゴウカザルの動きは止まった。炎が掻き消されたのだ。ガチゴラスの腕に舞い散る火の粉がそれを示す。ユウリは思わず歯軋りする。ユウリとゴウカザルの努力の結晶が打ち破られたのは、これで二度目だ。
「強い……!」
「ほえる!」
 磨き抜かれた反応速度で腕を交差させるが、ガチゴラスの巨大な口から放たれる唸りが再びステルスロックの罠へとゴウカザルを追いやる。ポケモンを追尾する岩の仕掛けは、標的が接近するごとにそのポケモンをじわじわと蝕んでいくのだ。命を削り取る技によって真価を発揮するゴウカザルにとって、これほど苦しいバトルはあるまい。
「負けるなッ、グロウパンチだ!」
「ドラゴンテール!」
 拳と尾の衝突が空気に伝わり、皮膚をぴりぴりと痺れさせる。ただでさえ酷使された荒野の戦場に互いの全力が加われば、一体どんな事態が起こるか想像に難くないだろう。ガチゴラスは足場を奪われ、不安定な体勢になる。これを空前絶後の好機だと判断したユウリは、連続攻撃へと踏み切る。
「今だ! インファイトで畳み掛けろ!」
「フィールドを逆手に取れ!」
 シンジの指示によって、ガチゴラスは尻尾で地盤を叩き割る。そんなことをすれば、己の陣地を自ら放棄したようなものだ。だが、アユムはホクトの時と同じく、とてつもなく嫌な予感がしていた。
 相手がとった策は苦し紛れの産物だ。顔を愉悦に歪めるゴウカザル。鋭い拳をここぞとばかりに叩き込む。ガチゴラスの頭、足、腹に至るまで、敵を衰弱へと追い込んでいる――その確かな手ごたえが、ゴウカザルに着々と慢心を招き寄せる。
 両者の間に障害物として立ちはだかる岩肌。それらは、拳を耐え抜かんとする王の盾の如くガチゴラスを堅固鉄壁に護る。インファイトは本体ではなく、それを守る鎧を攻撃しているようなものだ。ゴウカザルの拳はだんだん鈍っていく。そのタイミングを相手は見計らって来た。再び王が反撃の咆哮をあげると、盾として利用した岩石ごとゴウカザルをうちのめす。
 ゴウカザルは背中を何度も打ちながら、ステルスロックの追撃にあい、次に立ち上がった時には目が朦朧としていた。
 古代という一時代を席巻した王者は未だ無傷。破格の力量差に、ユウリも一度は負けを覚悟しただろう。だが、雑念を振り払うように首を振る。アユムはそれでいいと思った。最後まで愚直に戦う。それがポケモンバトルの正しい在り方だと知っているからだ。
 シンジは若干失望したと言わんばかりに眉を潜める。先程からゴウカザルに執着する理由は分からないが、何かを求めているであろうことは間違いない。
「こんなものなのか。お前達の力は」
「まだだ! 立てッ、立つんだゴウカザル!」
 ゴウカザルは震える膝を叩き、砕けそうなほど歯を軋ませて、全身を巡る血液を爆発させるように立ち上がる。ガチゴラスは首をもたげ、王者の風格を纏わせて挑発に出る。悔しいのは当たり前だ。醜態を晒したまま、終われるはずがなかった。
 その姿を見て、ヘルガーがアユムの隣から一歩前に出る。まるで、ヘルガーもゴウカザルと一緒に戦っているのだと伝えるかのように。
 ゴウカザルは容赦なく閉ざされていく視界の中で、ヘルガーと思しき輪郭を見つけ出した。瞳に光が宿り、血眼の状態で天にも昇る炎を放つ。エンテイに勝るとも劣らない気がした。シンジはそれを見て獰猛に笑う。
「来たか」
「ゴウカザル……」
 ゴウカザルはユウリに振り向き、親指をさす。それだけで、何を言わんとしているのか分かる間柄だ。ユウリは深呼吸すると、頷く。
「やろうぜ、ゴウカザル。このままじゃ終われないもんな!」
「いいポケモンだな」
「そうだろ? さあ、行くぞッ!!」
 拳を突き出すユウリはとても楽しそうだ。アユムは自分にないものを見ている気分だった。ゴウカザルに至っては立っているのもやっとのはずなのに、笑っている。身体中が思うように動かず、節々が痛むはずなのに。どうして、あんなに強い顔をしていられるのだろう。
「ほのおのうず!」
「敵のパワーは遥かに上がっているぞ! ステルスロック!」
 ゴウカザルの頭部から蠢く炎が、ガチゴラスに同じ手で逆襲する。通常とは比較にならないストームが荒れ狂い、ガチゴラスを超高温の檻へと閉じ込める。だが、再び生成された岩石群は、あろうことか今度はガチゴラス自身を護る盾と化す。王を護る近衛兵のように。ステルスロックを打ち破らねば、ユウリに勝ち目はない。だが、彼女は顔色一つ変えず、快活に指示を出した。
「渦に飛び込め! グロウパンチで決めろッ!」
「ドラゴンクロー!」
 シンジも指示に力が入っているのが分かる。お互いがお互いを高め合うこのバトルを、アユムは瞬きも忘れて見入っていた。スタジアムは既に灼熱地帯と化しており、トレーナー側からは竜巻の目がどうなっているか分からない。ゴウカザルとガチゴラスに命運を託すほかない。
 それはすなわち、自分のポケモンを信じるということだ。
 トレーナーはポケモンに勝利を運ぶため、ありとあらゆる最大限の手を尽くす。しかし、そこまでポケモンを導いた上で出来ることがあるとすれば、後はパートナーに勝って欲しいという想いを届けることぐらいだ。
 ストームが右に左に吹き荒れ、やがて嘘のように鎮まる。風は消え、火の粉が空にはらはらと舞い散る。ゴウカザルの終わりのように。
「ゴウカザル!!」
 ユウリは半壊したフィールドに駆け出し、ゴウカザルを抱きかかえる。ホクト戦よりも激しいバトルは、またもやゴウカザルに手痛いダメージを残して行った。
「ガチゴラス。いいバトルだった」
 シンジはそう言うと、勝者ガチゴラスをボールに戻す。ユウリもまたそれに倣った。
「よくがんばったな。戦ってくれて、……ありがとう」
 バトルに負けた悔しさは隠せないでいた。シンジが歩み寄り、声をかける。
「ゴウカザルの猛火を使いこなしたトレーナーを、オレは知っている」
「あたしも……そうなれるかな」
 ユウリは目を手で拭う。シンジはそっと目を瞑り、そして答えた。静かだが想いのこもった、良い返事だ。
「ああ」
「シンジ。あたし、もっと強くなるよ。ゴウカザル達に、恥じないトレーナーになれるように」
「その炎を使いこなせ。お前達は今よりもっと。強くなれる」
 シンジは有無を言わさず踵を返すと、ナップザックを背負い、吸い込まれていくように去って行った。あっという間のことだった。アユムは、この時間が夢であるような気がした。自分もまたこの夢と共演し、一つのステージを謳い上げたいとすら思った。
 全ては実在した時間だ。ユウリはゴウカザルのモンスターボールを見つめて、遥かなる強さに思い馳せる。自分がそれを手にした時に待つであろう栄冠を、優しげな瞳に据えながら。


はやめ ( 2014/04/08(火) 22:26 )