第10話「最大の挑戦」
次なる相手は、今大会最強のポケモントレーナー。都合上、シンジは伝説のポケモンと二度剣尖を交えたことがある。再度の挑戦を経て、辛くも退けることに成功したが、今回立ち塞がる帝王の力は未知数だ。負け戦かもしれない、そう評する観客も多い。そうだとしても、トレーナーである以上、息の詰まるような戦いにもいつかは赴かなければいけない時がある。その道を避けて通ることは出来ない。己の経験をパワーに換えて、スタジアムに自分達の存在を轟かせるだけだ。
『 名前も声も知らない 第十話 』
『まもなくこの時がやって来た。準決勝・第二試合、タクト選手対シンジ選手の一戦だ。それでは両選手の入場を、拍手で迎えよう!』
第一試合の余韻が冷めやらぬ内の影響か、肩にかかる期待は大きい。まずはスタジアムの左側から登場するタクトに赤いスポットライトがあてられる。
『今大会、最強の優勝候補! 紅の悪夢で全てを焼き焦がす。この試合も力で捻じ伏せてしまうのか? 刮目せよ。帝王の座を恣にする男・タクトォォォ――ッ!!』
仰々しい紹介と共に、赤コーナーに違わぬ衣装へと身を包む得体の知れない男が花道を進む。割れんばかりの拍手が出迎えた。そして、右側には青いスポットライトが行き交う。
『圧倒的な実力で、ここまでを勝ち抜いてきた。完璧に構築されたバトル、その胸には熱さをも秘めている! 伝説に一矢報いるか!? シンジィィィ――ッ!!』
タクトよりも同じぐらい、否、それに勝るとも劣らない声援がシンジを戦場へと招待する。
スタジアムがせり上がり、審判が台に立つ。フィールドを俯瞰する視点は、タクトとシンジの間に割って入る。ただ正面だけを見据えるシンジに、タクトが声をかける。
「キミのことはよく覚えている。シンオウリーグの準々決勝、あれは素晴らしかった」
「覚えていてくれましたか。オレは今日、この場であなたを倒します」
いきなりの勝利宣言に、会場全体が爆発する。おとなしい少年だと思っていたが、年相応に猛る野望をも兼ね備えているようだと、四天王やチャンピオンは驚いている。両者、バトルに対する気炎を上げたところで、審判が号令を発する。
「それでは、これよりアルトマーレのタクト選手と、トバリシティのシンジ選手の試合を始めます。使用ポケモンは三体。どちらか全てが戦闘不能になった方の負けです。それでは、試合――開始!」
旗が振り下ろされる。トレーナーの闘志を奮い立たせる瞬間。
「行け!」
「ブロスター、バトルスタンバイ!」
火蓋が、切って落とされた。
『タクト選手、やはり先発はエンテイ。これに対し、シンジ選手はブロスターを繰り出した。炎と水の対決。しかし、帝王は全てを灼熱の炎で燃やし尽くす!』
タクトに美辞麗句を付け加えるのは、シンジが観客の期待に応えてくれるのではないかという想いの裏返し。実況の語りは、いつになく気合が入っている。タイプ相性など関係ないと言わんばかり、シンジの判断に正当の評価を下す。
「みずタイプなら、確かにセオリーには適っているね」
エンテイと比べれば米粒のようなブロスター。小さく反った体格には、一見するとつり合いの取れていないハサミ、そこだけが愛嬌ある姿とは矛盾する魔物の様相を呈する。これぞブロスター最大の武器・メガランチャーだ。波導技の威力を極限まで高め、それは本来「波導の勇者」と謳われるポケモンが放つそれにもひけを取らない。
「ブロスター、みずのはどう!」
ランチャーの発射口を染め上げるのは、蒼のシグナル。先制攻撃でエンテイの炎を弱めようという魂胆だ。例えそれが間に合わなくても、牽制には十分なはたらきを果たしてくれるだろう。シンジの狙いは、エンテイの第一撃を是が非でも凌ぎ切ることにある。今までの戦い――特にシューティー戦では顕著な傾向を見せたが、エンテイは後出しからの暴力とその場に鎮座しているという厳かな出現、この二つを駆使して相手の戦意を捻じ曲げてきた。故にエンテイと鉢合わせたトレーナーは、突破口を開かなければまず勝ち目はないと躍起になるあまり、序盤の重みをおろそかにしてしまうのだ。
水の波導に対し、エンテイは桃色の焔を発現させることで応える。けたたましい叫びと共に光陰の矢と化す様は、まさにギャラリーを惹きつけてやまない芸術。限界までエンテイを誘き寄せる。その頃にはブロスターの全身が焼けただれているだろうが、一瞬の隙さえあれば構わない。その反撃に持てる力の全てを叩き込む。
「発射!」
カロスやイッシュの戦火で響き渡った号令の如く、命令に強調の意を込める。シンジは瞬きも惜しいと、瞳を焼き焦がすその炎を見定めようとする。しかし、タクトの応手はシンジの戦略を根底から引っ繰り返すものだった。
「まもるだ」
「まもるだと?」
シンジが事件の第一人者になったように眉を吊り上げる。淡い緑のクッションが、純度を極めた波導の奔流を食い止めた。ブロスターが攻め込んだ以外には何の進展もない、不気味なほど静謐に保たれた始まり。シンジはここでモンスターボールを取り出し、ブロスターを戻す。
『おおっと、どうしたシンジ選手? バトル開始早々、ブロスターを戻した!』
やはり、会場は動揺というよりも困惑の中にある。シンジはこの場におけるトレーナー的目線の中で誰よりも上を行く。これは軽率な挑発ではない――その答えが選択に自信となって表れている。
「コジョンド、バトルスタンバイ!」
手の甲を覆うように伸び、婦人の着る絹の質感にも見劣りしない体毛。古今東西の武術を心得た名手が息を吐いて腰を落とし、戦闘の型を作る。
「エンテイ、かえんほうしゃ」
「突っ込めコジョンド!」
伝説に辿り着くまでの道が、奔れば奔るほど――逆に遠ざかっていくように思われる。放たれる炎熱はまやかしの術をかけられたように、コジョンドの世界を翻弄する。
「全方向にかえんほうしゃ!」
前足を持ち上げ、畳み掛けるエンテイ。その炎の行方は誰にも知れず、獲物を焼き尽くすという使命を遵守するためにフィールドを駆け巡る。火の粉の残滓は、枯れた花びらが両手を掲げる時すら待たずに零れ落ちていく様を思わせた。
直線状的な攻撃ではコジョンドの接近戦に単調の備えでありすぎたことへの反省か、タクトはコジョンドの畳み掛ける動きにこそ封印を施そうと試みたのだ。
「やはりそうか……」
流麗な水の流れのような柔軟性をもって、常識外れの縄跳びを楽しむコジョンド。湾曲した予想困難の軌跡を描く。エンテイの仮面を引っぺがそうと、両の手を合わせることでの衝撃波が辿るも、寸前に展開された緑の障壁が間一髪で拒む。だが、攻撃を防がれたはずのシンジ側は、マジックのタネを見破るように、その光景を塗り替えようとしていた。その証拠を見よ、コジョンドが両手の間に光が閃く。
タクトとエンテイは二つのリスクを犯した。
一つは、威力の低いかえんほうしゃのせいで、コジョンドを寄せ付けてしまったこと。フレアドライブの神速ならばコジョンドの華奢な腕を捻ることは難しくなかったはず。
もう一つは、まもるのタイミングミス。ねこだましは緻密な計算の下に放たれた布石である。相手の先の先の、そのまた先を行く――シンジのバトルから魔術のような感を得るのはこのためだ。彼は一つの策に固執せず、非情にも切り捨てることによって次なる戦局の先見を引く。既にまもるを使ってしまったエンテイは、コジョンドの必殺を総身でもって受けるしかない。
「はどうだん!」
凝縮の過程を経て、戦闘意識によって改造を施された一流の波導が迫る。タクトは化けの皮を剥ぎ、高らかに叫びを入れた。
「ナイトバースト!!」
刹那、エンテイという存在には似つかわしくない悪意の戦慄が叩き起こされる。地を這って進むインパルスは、聖なる波導が道筋をこじ開けるのに対し、少々脆弱な盾だった。何しろ、はどうだんは必ず相手に傷を加える性能を誇る技だ。波導が生き物の気配や殺気を敏感に感じ取る性質を持ち合わせるとすれば、それにも納得がいくだろう。狩人は獲物の些細な息づかいにすら全感覚を光らせ、執拗に追い詰める。
「来るぞ、コジョンド。とびひざげり!」
「ゾロアーク! ふいうち!」
爆発から飛び出した紅の影に、会場が驚きを発する。コジョンドはすぐさま体勢を切り替え、黒の奇術者を迎え撃つため、跳躍からとびひざげりの効果を最大に発揮するための角度を見出した。しかし、脇腹を抱えられ、痛みと共に動いた視線を辿ることには、食い込んだ毒々しい爪から見違えるほど細く引き締まった体躯に至るまでが目に映る。横には狂気を帯びた化け狐の本性を見つけ、そのままスタジアムへの落下を免れなかった。甲高い咆哮に象徴される戦闘性の高さにやや臆しながらも、コジョンドは真に戦うべき相手を見据える。
「はどうだん!」
「まもる!」
ゾロアークは荒ぶる毛並みと共に、緑色の絶対防御を展開。しかし、シンジは間髪入れずに腕を薙ぎ払った。それは、ゾロアークにとって死の宣告。
「フェイント!」
先程のお返しとばかり、ゾロアークに切り込むコジョンド。まもるが解ける時間差を利用し、その隙から打撃を叩き込む奥の手だ。フェイントをかけられたゾロアークは目を見開き、それが伝説を騙った者の末路となった。
『ゾロアーク、戦闘不能! コジョンドの勝ち!』
「よくやった。ゾロアーク」
攪乱の役目は果たしたと言わんばかり、惜しみない労いをもってゾロアークをボールに戻すタクト。シンジはスクリーンに表示されたタクトの手持ちの内、ゾロアークのアイコン表示が消えるのを見届ける。これで一体目――シンジの戦略に狂いはなかったと証明された。だが、一匹を倒すだけでもここまで戦略が要求される。始まったばかりとはいえ、精神力を削り取るようなバトルを仕掛けてくるものだ。
「ゾロアークのイリュージョンを見破るとは、見事だよ」
「おかしいと思ったのは、最初にまもるを使った時でした。あなたはエンテイの力を何よりも頼りにしている。だからこそ、退いたような戦い方をするわけがない。まもるを何度も挟んだのは、攻撃を受けることによってイリュージョンが解け、エンテイがゾロアークであると明らかにされるのを恐れたからですね?」
「……返す言葉もないよ。ならば、キミには敬意を表し、このポケモンで応えよう。エンテイ!」
タクトの投げるボールに視線が集中する。下手な小規模の世界大会と比べれば、質の上で遥かに勝るこの場で、三百六十度の注視を浴びてなおその威光を輝かせる帝王が、地に足をつけた。
ゾロアークは擬態を可能としても、その本質までコピー出来るわけではないという良い証拠だ。エンテイの威圧感に早くもコジョンドは飲み込まれてしまっている。このフィールドに立った者は例外なく、帝の洗礼を受ける定めなのだ。
そもそも、シンジが優位に立ったと考える者は、今現在会場のどこを探してもいないだろう。タクトは心理的ダメージで揺さぶりをかける点において、三対三のルールを余すことなく活用したといえる。敵の正体がゾロアークだとは知らずに、彼らはエンテイとバトルをしていると思い込む。故に、エンテイを退けることに全力を捧げる。そうして傾けられた頭脳によってトレーナーは疲弊し、実の正体を知ることによるショックを隠せない。そんなコンディションはバトルに悪影響をもたらす。シンジは見事その策略にはまったと言える。しかし、司令塔が弱みを見せては、ポケモンにも伝播する。
「コジョンド。恐れるな」
鋭い叱咤激励を飛ばすシンジ。コジョンドはその一言を受け、エンテイと向き合う勇気を持てたようだ。シンジは表情こそ変えないが、アイコンタクトで静かに頷く。
「始めよう。ストーンエッジ」
「突っ込め!」
エンテイから発射される無数の刃。切れ味の鋭い石がコジョンドの頬をかすめながら、敵の領域に立ち入る愚行の程を知らしめる。鞭のようにしなる石の群がコジョンドの足を切り裂くのが見えたが、動きを止める様子はない。シンジもまたその闘志に応える。
「とびひざげり!」
「リフレクター」
一歩届かない蹴り。王者と挑戦者の差を物語るように、障壁が割って入る。エンテイがひとたび咆えると、どこかの火山が噴火するという言い伝えがあるが、まさにそれを現実のものと思わせる咆哮が一瞬にしてシンジの髪をなびかせるほどにコジョンドを吹き飛ばした。さすがのシンジも動揺と共に振り返るしかない。コジョンドの瞳はすっかり閉じられ、戦闘の意欲を失っていた。僅か数秒での逆転劇だった。
「コジョンド、戦闘不能! エンテイの勝ち!」
会場は刹那の出来事についていけなかったようで、数秒遅れてからまばらに反応を見せる。今や大会を支配しているのは、仮にポケモンバトルに王が君臨するならば、それはエンテイのことを言うのではないか、という畏敬の精神だ。
コジョンドを労い、束の間のリードが夢物語に過ぎなかったと悟る。心が折れたとしても仕方のない状況。
しかし、彼ならば。こんな時でも帽子を後ろに回して、高らかに技の名前を叫ぶだろう。それはシンジが最もよく知る人物だ。こんな局面でもきっと諦めないトレーナー。戦いの記憶と絆は、確かにシンジの中で燃え続けている。
勝利を引き寄せるのは、彼とそのポケモンの双肩にかかっている。
「エレキブル、バトルスタンバイ!」
タクトの口角が僅かに吊り上がる。好敵手を認める好奇のまなざし。
観客席にいたアユムは、今頃、目を見張っていることだろう。シンジが最もその実力に信頼を置いているポケモン、それがエレキブルだ。雄々しく黄と黒の混ざった外見、巨大な体躯もそうだが、背中から伸びるコードが強烈な印象を刻みつけていく。
「エレキブル、かみなり!」
「フレアドライブ」
蓄電していたパワーを一気に解き放つ。槍のように身を引き裂く雷とは異なり、トラップを仕掛けるような幾重の電流として応用された攻撃。その合間を恐ろしい速度で潜り抜け、茜の鬼神が迫る。
「尻尾を使って飛べ!」
それを見越したシンジは、エレキブルを跳躍させる。身体から生えた黒い尾は柔軟な戦略を練るに長けた得物だ。
「逃がすなエンテイ!」
「かみなりパンチで迎え撃て!」
エレキブルが振りかぶり、突進攻撃と丁度正面対決する構図が出来上がる。しかし、力の根競べでエンテイと張り合おうとするのでは、シンジの万策もいよいよ底を尽きたと言わざるを得ない。そう言いたげなタクトは余裕の笑みを浮かべるが、その心配には及ばないとシンジは人差し指を上に向ける。
「かみなり! 叩き落とせ!」
エレキブルの拳にばかり気を取られていたエンテイは、その血色に染まった眼を別の視点にやる。まもなく充電を終えたコードに雷電が絡み付き、それ――今度は相手を貫く剣だ――が、帝の仮面に盾突く。桃色と金色の光輝が入り乱れて、エンテイはその身に纏った炎を打ち消され、挙句の果てに全身を麻痺によって蝕まれた。シンジ屈指の反撃に、会場が沸き立つ。
『一矢報いたァァーーーーッ!! かみなり対フレアドライブは互角ゥ!』
「なるほど。だが、ボクのエンテイはまだ戦える。エレキブルはどうかな?」
エレキブルは放出した力加減から一挙に押し寄せる疲労に負け、たちまち膝をつく。それを見たシンジは、有無を言わさずモンスターボールに戻す。このような判断の切り替えが、彼の強さでもある。ここで挑発に乗ってエレキブルを続投させれば、時間を待たずスタミナが尽きるのは自明の理。ポケモンの意思を尊重するのも見上げた志だが、無謀な戦いを仕掛けて拾える勝利を逃すことも、ポケモンに対する裏切り行為だ。
「ブロスター、バトルスタンバイ!」
蒼のランチャーを携えて、真の敵に武者震いするブロスター。エンテイは腰を低く屈め、威嚇の体勢を取る。次の瞬間には、火の玉と化すだろう。狙撃の準備と洒落込む猶予は与えられていない。
「アクアジェット!」
「フレアドライブ」
何物にも阻まれず、邪魔立てするものはない。まずは互いに様子見とばかり、フィールドを蒸発させる熱線と、水流に身を包んだロケットが激突。すぐさま相殺され、エンテイは苦しそうに重心を歪める。麻痺が身体を思うように動かしてくれないのだ。
メガランチャーから迸る蒼の戦慄が、発射口で波のようにうねる。覗き込めば大海が目に映りそうなほどにそれは清々しかった。
「みずのはどう!」
「おにび」
周囲に冥界からの遭難者たる魂を呼び寄せ、これを防御の術としてはたらかせる。エンテイが明かす第四の技、紫苑と私怨の集合体は波導をいとも簡単に蒸発させた。熱気が覆うバトルフィールドにシンジの声が張り裂ける。
「アクアジェット!」
「もう一度、おにびだ」
エンテイの咆哮を合図に、意思をもった霊体としてブロスターを取り巻く鬼火。囚われまいと足掻くブロスターはアクアジェットに包まれる。ノズルの噴射も手伝って、火の輪を潜り抜けていく。罠を脱出し――標的という名の光明が見えた! 照準を定めるブロスター、角度に狂いはない。エンテイの顔面から足までを捕捉し、正確に撃ち抜く。
「りゅうのはどう!」
「ストーンエッジ」
竜の顎がエンテイを飲み込もうとするも、石の刃がブロスターのボディごと粉砕していく。壮絶な電圧に苦渋を浮かべても、帝王の威厳は健在だった。ブロスターの殻は元々簡単には傷を負わないはずなのに、石が嘲笑うように刻印を残していく。見る見る内に二者の距離は空いていく。これが伝説の意地だ――ブロスターは濃厚な敗北に遠くなる意識の中で、シンジの声を聞く。
「アクアジェット!」
「かわせッ!」
喝を入れるような指示から再びの推進、ストーンエッジで迎え撃つには敵が速過ぎる。ここは腕を後方に払い、エンテイに退けと命じるのが無難だろう。横目にその指示を確認するも、ブロスターのランチャーはとうとう伝説の尻尾を掴んだ。足に切り込みを入れることは叶わなかったが、そのまま二匹はもつれ合うようにしてフィールドを転げまわる。毛の一本や二本などくれてやるとばかり、荒々しくブロスターを振り払うエンテイ。宙に放り出されたブロスターは、苦し紛れに水の波導を浴びせる。破裂する球体は、炎の化身の体温を氷点下まで追い込む氷雨という最大の武器になる。
恐ろしいトレーナーだ――一度こそ闘志を折ったにもかかわらず、シンジはブロスターを蘇らせた。ポケモンがトレーナーを心の底から認めていなければ有り得ないこと。
シンジに、かつての面影が重なる。タクトは瞬きして、すぐさま雑念を振り払う。
「フレアドライブ!」
しかし、エンテイを襲う電流によって、それは阻止された。バトルの主導権が移り、絶対王者の称号が瓦解する。
食らいつく――そんな言葉がぴったり当てはまるだろう。シンジもブロスターも、強者の余裕をどこから崩そうか、思案に思案を重ねている。そして、タクトとエンテイは常人の戦略によって今、揺さぶられつつある。ここまでのバトルは、この局面のためにあった。シンジの創り上げたバトルが、少しずつタクトの喉元に迫る。
「みずのはどう、発射!」
「フレアドライブ!」
またしてもエンテイの反応速度と息の合わない指示。泡に閉じ込められたエンテイは呼吸が出来ず、白目を剥き、小さい気泡を立てる。全身を奔る電流が溢れ出し、球体の監獄たる役目を完遂させた。
*
着地点のない異空間を漂うかのような不思議な感覚が、タクトの周りで渦巻く。自分以外の全てが止まってしまったかのような静けさに、独り取り残されている。自分と戦ってきた者たちはみな、底知れない強さにひれ伏し、散って行った。その経験を快く思っていたわけではない。トレーナーたちは、揃って苦虫を噛み潰したような表情をしていたからだ。
ライバル同士の友情を築くなどという生易しいものではなく、化物を見るように避けていく。勝っても当然と言われる。常識外れの力を持つポケモンたちと行くことを決めたタクトは、初めの一歩から孤独だった。
確かに、ポケモントレーナーは未熟かつ野生が抜けないポケモンたちを磨き上げていくのが王道だ。では、元々出会ったポケモンが既に人間を介在させる余地などなかったとしたら?
タクトの生まれは、水の都としてその名を馳せるアルトマーレという場所だ。そこではラティオス・ラティアスという二匹のむげんポケモンが人間やポケモンと協力して、アルトマーレの平和を護っている。幾度かその安寧を脅かす事件もあったが、依然として水の都は美しさを保ったままだと聞く。
タクトがアルトマーレの住民である以上、ラティオスたちと親交を深めるのはそう難しいことではない。彼はラティオスと共に旅立ち、道中でダークライやゾロアークといった、一生に会えるか会えないかという希少性を誇るポケモンたちを次々と仲間にしていった。類は友を呼ぶとはよく言ったものだ。強さを追求した彼らの前には、同じ強さを希求する者たちが集まった。そうして出来上がったタクトのチームは、一見ポケモンと人間が近しい距離にあるという幻影を作り出し、それぞれ異なる場所で好きに戦っているだけだという真実を無理矢理封じ込めた。
タクトはやがて空しさを覚えるようになる。戦えども戦えども、誰も自分のポケモンに傷一つ与えられない。伝説のポケモンと渡り合えなど、高慢な願いだとは百も承知だ。
タクトはダークライ一匹を操り、呆気なく――それこそ流れ作業のように、シンオウリーグ・スズラン大会への切符を手にする。そこでも、やはりダークライの前に次々と倒れて行く者は後を絶たなかった。もはや優勝は決まったも同然、出場選手には諦めも漂っていただろう。
そんなタクトを立ち止まらせたのは、二人のトレーナーだ。サトシとシンジ――シンオウリーグ・準々決勝のフルバトル。元々二人の間には因縁があったのか、ただの一試合という様子ではないことがすぐに分かった。一匹一匹のバトルが、互いの意地とプライドのぶつかり合いだったのだ。タクトはその二人に興味を持ち、遂に準決勝でサトシと相対する。ジュカインやピカチュウと共に戦い、ダークライとラティオスを沈める大会史上初の大金星を挙げるも、結局優勝トロフィーはタクトの手に収まった。
セイエイに来て、エンテイをモンスターボールに収めた、否、エンテイの方からタクトに歩み寄って来たわけだが――そんな絶対的存在が、過去を遺物のように忘却の彼方へと葬っていた。
今、タクトと試合をしているのは、トバリシティのシンジ――シンオウリーグベスト8の強者。紙一重の差でサトシに敗れたトレーナーが、タクトに牙を剥いている。そう、あの時の試合と同じように。
シンジの真剣なまなざしが、本気のバトルを求めてやまない。
伝説と崇められたエンテイが、何の変哲もないポケモンにここまで追い込まれている。それは、コジョンド、ブロスター、エレキブル、三体がかりでやっと届く小さなものだ。だが、それを吹き飛ばすことが出来なかったのは、タクトとエンテイが互いの強さしか見ていなかったから。何より、近しいようで遠かったから。
ポケモンバトルには、絶対など存在しない。だからこそ面白く、種族の垣根を超えて夢中になれる。
「エンテイ、まだだ。弾き飛ばせ!」
「りゅうのはどう!」
しかし、多少の醜態を晒したとしても、威厳に傷がつくことなどない。エンテイはさまよう意識と視界の中でも、獣に眠る本能を漲らせてブロスターに迫る。シンジたちに執念があるように、またタクトとエンテイにもしがみつくものがある。彼らとて、決して帝王でも、はたまた神でもない。ひとたびフィールドに立てば、みな条件は同じ。そこに残るものは、ポケモントレーナーとポケモンの関係だけだ。
「負けるな! フレアドライブだああッ!」
エンテイは天駆けんと一歩前に踏み出し、皮膚を桃色の炎で塗り替えていく。かつてアユムとユウリが恍惚として心奪われたその炎は、いつもより弱々しく、だが力強く見えた。
勝ちたい! タクトとエンテイが一体になり、彼らは本当の絆によって結ばれる。
発射口から勢いよく飛翔するドラゴンの波導。エンテイの死力を掻き消し、暴れ狂う。波導の体内に飲まれたエンテイは仮面にひびを入れ、威風堂々と地上に伏した。
「エンテイ、戦闘不能! ブロスターの勝ち!」
審判が旗を揚げた瞬間、耳を劈くような歓声が起こる。それは実況の興奮も遠退いてしまうぐらいの迫力をもって、シンジとブロスターに勝利の実感を教えるのだった。
ふとブロスターが振り向くと、シンジは微かに笑みで返す。身体で疼く傷が言っているはずだ、現実だと。
*
『今大会、エンテイが初めて戦闘不能になったァ! タクト選手残り一体、対するシンジ選手は残り二体! これは分からない! 面白くなってきたぞ!!』
「シンジくん、ここまでのバトル……本当に見事だ」
「ありがとうございます」
エンテイを倒されたとはいえ、タクトは至って落ち着いている。未だシンジを上から見下ろす玉座に腰掛けたままだ。その余裕を生み出す正体を、まもなくシンジは知ることとなる。
「最後まで、このバトルを楽しもう。これが……ボクの三体目だ!」
エンテイの時と同じ、否それ以上に視線を浴びるボール。光が輪郭を模り始めた時から、会場より尋常ではないどよめきが発生する。シンジとて一瞬、我が目を疑った。彼の中の危険予知が過去最大の警告を発する。彼らは理解せざるを得ない――これが「タクトの」ポケモンバトルなのだと。何者にも否定させず、是か非かなどの問題は相手にせず。狂気的なまでに力のみを追い求めた姿勢は、タクトというトレーナーを一個の存在として確立させ、他の追随を許さない。
左は螺旋状に絡み合った触手。右は逞しく伸びた腕。胸には水晶体を埋め込んでいる。この世の生き物ならざる容貌――それはまるで、裂空の訪問者を思わせる。
『タクト選手の三体目は……な、なんと……このポケモンは……』