第9話「全ての命は別の命と出会い、何かを生み出す」
あらかじめ忠告はされていた。それでも、真実とはこれほど脆いものだろうか、と思わずにはいられない。アユムとヘルガーの間に、絆など芽生えていなかったのだから。
彼は思い出す、テルマに言われた一字一句を諳んずるように。
「アユム、メガシンカは確かに強い。だが、最後にバトルを決めるのは、メガシンカなんかじゃないぞ。ここだ」
言って、テルマは名乗りを上げるような勇敢さで胸を叩く。失われることのない兄らしさとお節介の焼き具合に、アユムは思わず苦笑を禁じえない。
「分かってるって」
「今のお前なら大丈夫だろう。だが、忠告だけはしておく。いいか? メガシンカを、信じすぎるな」
おかしな話だ。絆、すなわち相手との繋がりを信じることによって発動するメガシンカを、信じすぎてはいけないとは。兄の悪い冗談は相変わらず嫌な意味で歯切れが良い。だが、こうしてヘルガーのメガシンカは成功に終わった。余計な心配は要らないだろう。
「明日は頑張ろうね、ヘルガー!」
ヘルガーのメガストーンは、静寂にそぐわないほど眩しく輝いていた。
「アユム。こいつをやる」
夜空に紛れた円い輪郭が、ふわりと弧を描き、揃えた両手に収まる。未だ光沢が新しく照り映えるモンスターボール。ここまでヘルガーを世話して、人間に対する不信を多少なりとも拭ってもらえたというのは、さすがに自信過剰だろう。それでもヘルガーはアユムのことを頼れる存在と認識している。アユムもヘルガーも、お互いを頼りにしている。
「ボクに……付いて来てくれるかい?」
改めて、ヘルガーの真を問う。鼻頭とモンスターボールのスイッチが同じ線上に並ぶ。そして尋ねるまでもなく、相手の方から寄り添ってきた。ヘルガーの口元とも似た真っ赤な光と一体化し、アユムの視界からいなくなる。
新たなるおやは、よろしくね、と語りかけた。
『 名前も声も知らない 第九話 』
チャンピオン・ライゾウと四天王シンが特別待遇の席で腰を落ち着ける中、テルマは凄みを利かせた眼差しでフィールドを突き刺すように観戦を決める。彼らは論評や戦況の分析の一切を行わない。語りかけるようにしながら、アユムには決して届かない声で呟くテルマの声が、その場では発言力を有した者の如く、大きな響きを持つ。
「さあ、どうする? アユム」
お前のこれまでは間違っていたのだ、と暗に突きつけられた感触を拭えない。
ヘルガーの気持ちに応え、ホクトに勝つ――これまで何度掲げたか分からない目標だった。ホクトを叩きのめし、自分達が正しいと証明する。ホクトは間違っており、自分は正しい。それを公の場で明らかにする。そうか――アユムはおのずと悟る。
自分をポケモンバトルへと駆り立てる原動力が、ほぼ敵愾心で出来ていたことに。
ホクトを内心で軽蔑しながら、間違っていたのは自分だ。あろうことか全ポケモントレーナーの頂点に君臨するチャンピオンに、家族のために戦うことを否定され、思想の拠り所をなくしたアユムが次にすがりついたのは相手への憎しみだった。非と信じた事柄を徹底的に弾圧し、相手に最大限の苦渋を味わわせる。そんなものは情熱ではなく敵意の一方的な押し付けである。
自分達のために戦う。ポケモンの気持ちに応える。無論、アユムの中にはそんな思いもあったはずだ。だが、宿敵を前にして揺れ動く心が、アユムの激情を誘発せずにはいなかった。メガシンカの解除が彼に及ぼす影響は、いよいよポケモントレーナー・アユムの骨格を試している。
「くそおっ!!」
無茶苦茶に投げられるボール。どこだか分からない場所を漂い、光が騎士を呼び戻す。
槍の痺れは健在か。シュバルゴは忌々しそうに敵方を睨む。項垂れた主君はもはやフィールドを見ていなかった。
「一撃で決めろ。ブレイズキック!」
バシャーモはホクトを一瞥し、どこか割り切ったように口元を引き結ぶ。
直後、疾駆するバシャーモ。指示を乞うシュバルゴ。しかし、アユムは上の空だ。思い出したように慌てて技名をなぞる。
「ド、ドリルライナー!」
浮ついた精神状態がシュバルゴにも伝染したのか、刃こぼれしたような研磨性のない技が繰り出されようとしていた。言い終えるよりも早く、バシャーモの脚が鎧にめり込む。シュバルゴの顔面が元の形を大きく崩し、半壊した鉄の破片を随所に散らしながら、スタジアムの壁に巨大な穴を開ける。シュバルゴはもはや風前の灯、倒れるのは時間の問題だろう。しかし、更なる追撃が来ることを予感させるバシャーモの挙動は凶兆そのもの。指の関節を不安になるほど鳴らし、助走の前段階を踏む。まるでいつもの冷静さを根こそぎかなぐり捨てた、血に飢えし禽獣だ。
「ブレイブバード!」
ホクトがこれで雌雄を決するとばかりの声をあげ、高らかに指示。勝利を確信した揺るぎない双眸に一層の野心が燃える。バシャーモはロケットスタートで爆発的な跳躍を果たし、風と一体になる。白い羽毛を翼の如く両に開き飛び掛かる様は、鳥ポケモンに勝るとも劣らない妙技。
「シュ、シュバルゴ……」
フィールド外まで後退させられたシュバルゴの身を案じるアユム。指示を出さなければ負けてしまう。しかし、何をすればいい? 純然たる事実だけが靄となって彼の心を覆い隠し、司令塔としての役目を放棄させる。
バシャーモによって痛めつけられたシュバルゴは、見るも無残な状態だ。片方の槍は電撃に束縛され、自由が効かない。鎧には亀裂が入り、一部が砕け散っている。生気を感じさせない虚ろな瞳。かつての戦慄が蘇る。このまま無理をさせれば、きっとシュバルゴは――。
「シュバルゴ───ッ!!」
絶叫が木霊する。少年の願いも空しく、ここはあくまで闘技場だった。神の奇跡など降りはしない。しかし、勝利を呼び寄せることは勇気さえあれば成し遂げうることなのだ。
「えっ……?」
「何!?」
シュバルゴが、辛うじてブレイブバードを押し止める。バシャーモは突起を鷲掴みにして、なりふり構わず頭部を壁に叩きつける。しかし、シュバルゴは紫電を帯びた槍を逆に利用して、胴体に突き刺しての反撃。これでイーブンだ――そう言わんばかりの勝ち誇った表情。シュバルゴは諦めてなどいなかった。主君がどれだけ追い詰められようとも、臣下だけは味方でいてくれる。懸命に戦うシュバルゴの姿は、アユムの心に何かをもたらし、空っぽになった器を満たしていく。
「シュバルゴ……」
「何やってる! そいつをさっさと叩き潰せ!」
バシャーモは自身に跳ね返る反動と、傷口に流れ込む電流の鋭さに歯軋りしながら、乱暴に頭突きを食らわす。それでも、相手が力尽きる様子は一向に見られない。攻撃をすれば攻撃をしただけの分が返ってくる。その時、バシャーモの身体中が鳥肌立ち、得体の知れない感情をシュバルゴに抱くのだった。
「シュバルゴ! それ以上無理したらキミは――」
シュバルゴは今にも閉じそうな眼で、アユムを見据える。マフォクシーに問いかけた時とまるで同じ目の形をしていた。言葉を介さずとも分かる。シュバルゴが何を伝えようとしているのか――その想いをトレーナーとして、全身で聴かなければならない。
「ブレイズキック!」
焦りを含んだホクトの怒声。バシャーモは間合いを取って、今度こそ不屈の精神を打ち砕こうとする。蒼炎の尾を引いた流星が、全ての鋼を溶かし尽くすかに思われた。
それでもシュバルゴは倒れない。破片が動くたびに零れ落ちても、槍の先端が折れても、視界が炭の臭いと焦げた赤茶色に包まれようとも。決して、倒れることはない。
「何故だ。とっくに限界は超えているはず」
「お前には……分からないよ」
シュバルゴが前に進む。バシャーモが一歩退く。そして、後ろに下がってしまったという事実から生じる、止め処もない屈辱と後悔を噛み締める。いよいよバシャーモの怒気は最大のボルテージに達した。
アユムはホクトを真正面から睨む。シュバルゴを突き動かすものなど、最初からただ一つ。揺らぐことのない信念。
それは、忠義だ。
「うるせェ! ポケモン任せで指示も出せない雑魚が。これを受けて耐えてみろ!」
バシャーモは静止した時を再開するかの如く、ゆっくりと膝を持ち上げる。とびひざげりが来る――アユムは直感し、シュバルゴに命じた。自分のために戦い続ける騎士に送る、感謝の言葉。今なら叫べる気がした。
「メガホーン!!」
「とびひざげり!!」
銀と赤の閃光が、刹那にして斬り合う殺陣。
引かれた線分の長さは、僅かにバシャーモが勝る。膝に走り抜ける痛覚を、必死に噛み砕くことで押し殺す。騎士は置き土産を残し、希望という勝利への道を繋いだのだ。
*
『正真正銘、これが最後のバトル! アユム選手のヘルガー。ホクト選手のバシャーモ。勝つのはどっちだーッ!?』
アユムはシュバルゴの入ったモンスターボールを見て、己に喝を入れる。迷っている暇があるならば、本能を呼び覚ます焔に従って咆え、叫べ。是が非でも相手にしがみつけ。そうすれば、やがて見えてくるものがある。
「行こう。ヘルガー!」
ヘルガーもまた、シュバルゴのバトルをボール越しから観戦していたアユムのポケモン。その勇姿に感を打たれぬはずがない。アユムの方を振り向き、口端を吊り上げて不敵に笑ってみせる。一度は喪失しかけた闘争心、再燃焼したヘルガーを止められる者はいない。
「このバトルを最後まで戦ってほしい。ボクも一緒だ」
ヘルガーもまた、重荷を抱えていた。アユムの気持ちに応えようとするあまり、メガシンカのパワーに振り回され、結果としてバシャーモに圧倒されてしまった。自分達の今の実力は、恐らくホクトとバシャーモの遥か下だ。だが、シュバルゴがそうであったように、バトルの一秒一秒が、彼らを進化させていく。それは、メガシンカにも負けないエネルギーを生み出す。
「甘い友情ごっこは終わりだ。このバトルもな!」
ホクトはネックレスのキーストーンを握り締める。バシャーモのそれと呼応。リボンのように靡く、炎の鞭。白い羽毛が鋭角を描く。逞しき一本角、感情を垣間見せる瞳。彼らの絆が形となって現れた。猛火の闘士・メガバシャーモ。
遂にその目で焼き付けることとなった、テルマとリザードンを下したというメガシンカ。土壇場に来て、アユムはやはり心の不安こそ隠し切れない。だが、同時にこれほどの威圧感を感じさせる敵とのバトルが何を掻き立ててくれるのかを期待する、荒々しき自分をも認める。
アユムとヘルガーは、もうメガシンカを使えない。メガシンカが許されるのはバトル中一度だけだ。そのままの自分達で勝つより選択肢はない。
「ブレイズキック!」
「フィールドにあくのはどう!」
俊足が宙を舞う。実際にはエスパーポケモンでもない限り、そんなことは有り得ないのだが、数々の残像を視界に刻み込むほどの素早さがそう思わせるのだ。その正体は加速する特性。
指示を受けて助走を始めた場所から移動地点に至るまで、影がおぼろげに浮かんでは消えていく。そうした連鎖が相手を惑わせる鍵となるのだ。怒涛の勢いを牽制するため、攻撃対象をスタジアムに切り替え、悪意に満ちた波導を吐き慣れた炎の如く振り撒いていくヘルガー。フィールドから突き出た岩盤がバシャーモに一矢報いると信じて。
白煙に混じる砂塵。鼻孔や目を刺激する粒子が邪魔で仕方ない。冷静を保ち、眼球の動きで迫る気配を捕捉しようとしたところ、相手は暴力にものを言わせてそのまま突っ込んでくる。自身の脚が地を離れたことを知る頃には、ヘルガーは首筋に食い込む激痛を耐えねばならなかった。バシャーモはヘルガーを腕力で持ち上げ、空へと掻っ攫う。一時の呼吸も許さず、管が狭まっていく危険信号に逆らえない状況は、ヘルガーの戦意を奪うには十分だ。
「――ガー、こっち――噛み付く――だぁッ!」
辛うじて聞き取れるがすぐに掻き消されてしまう、甲高くも一所懸命な声。ヘルガーはそれがアユムのものであると、旋回する思考の中で判断し、バシャーモの腕にありったけの力を込めて牙を突き立てる。耳を劈く悲鳴が上がり、揉み合いへし合いながら螺旋状に落下していく。二匹は近付きすぎたが故に、そう簡単に離れることは出来なかった。重力の負荷が悪魔のような笑みを浮かべてファイターを一蓮托生にさせる。
「ヘルガー!」
「バシャーモ!」
砂利を掴み、すぐに起き上がるバシャーモ。これでもまだ、戦い足りないという飢えを感じさせる。一方、ヘルガーは数秒遅れて脚を震わせながらも立つ。アユムは快哉を上げた。
「よく頑張った!」
「結果は同じだ。とびひざげり!」
絶え間なく続く猛攻は、一寸の暇とて与えてはくれない。しかし、バシャーモは膝を持ち上げる時に歯を食いしばり、痛覚を無理矢理にでも遮断する様子だった。その隙は、アユムとヘルガーに勝利をもたらす可能性に成り得るだろうか。初動が僅かに鈍り、ホクトは舌打ちする。
「こんなところでもたつきやがって……だからヘルガーを倒していれば!」
「だいもんじッ!」
「チッ。オーバーヒートに切り替えろ!」
ホクトの指示を受け、遠距離攻撃に予定変更。口内から今にも飛び出し暴れんとする高熱が迎え撃つ。炎対炎――大の盾が受け止めるか、のたうち回る架空の大蛇が毒牙を突き刺すか。勝利の女神は、どちらに微笑むのか。ヘルガーは地盤に爪を立てて、自身を支えるべく重心を屈める。尻尾を張り、体内の生命エネルギーを出し尽くすような覚悟で踏ん張りを利かせる。やはり発動のタイミング差は、劣勢を覆す切札には至らない。バシャーモは遂にヘルガーの技をまともに負うこととなった。必死に堪えようとしても、足の裏を次々と石が引き裂いていく。淀む感覚の中で反響する罵声。
「勝つ気があるのか!? さっきの指示を聞いていれば、こうはならなかったはずだ!」
立派に戦うバシャーモの背中に、罵詈雑言を叩きつけるホクト。バシャーモは逆らうでもなく、黙って聞き入れている。これにはアユムもたまらず思いのたけをぶつける。いくらなんでも、バシャーモが可哀想ではないか。
「そんな言い方ないだろ!? バシャーモはお前のために戦ってるんだぞ!」
「……オレのために?」
すると、ホクトは肩を震わせる。見れば、笑っていた。分からない奴が余計な口出しをするな、という冷笑をもって。
「分かっていないのはお前の方だ。こいつとはな、アチャモの頃からの付き合いなんだよ」
「だったら、どうして」
バシャーモは佇みながら、二人の会話を傾聴していた。アユムを射抜くような眼光は、彼の訴えをどう咀嚼しているのだろうか。
「オレとこいつは、利害の一致で結びついている。オレは強いポケモンを求めた。こいつは強いトレーナーを求めた。それだけのことだ」
「そんな……」
だとすれば、それは悲しいことのように思われる。
強さだけでしか繋がりのないトレーナーとポケモン。アユムが見て来たどんなトレーナーよりも。彼らは歪で、寂しかった。
*
バシャーモは、記憶を巡る旅の果て――若かりし頃に思い馳せていた。
まだ可愛げを残したアチャモの頃。敵を見つけては後先考えずに突進していく。我ながら、なんと馬鹿な時代があったものだ。少しの引っ掻き傷にも涙を浮かべ、捨て台詞を吐いては逃げ去る始末。そこに手を差し伸べたのが、金髪の青年である。
「強くなって、奴らを見返してやろうぜ」
それが、始まりだった。
ホクトは、ポケモンの育成に対して真摯に向き合うトレーナーだった。一切の妥協を許さず、均等にポケモンを鍛え上げる。ほどなくして、アチャモもめきめきと頭角を表していった。
ほとんど休まずに、空いた時間があればバトルの勉強に充てるほどの熱心さ。アチャモはその執念に圧倒され、はたまた呆れ返る。彼を肉付けする脂肪や筋肉すら、努力という成分で構成されているに違いない。そんな日々の積み重ねが功を奏し、アチャモはワカシャモに進化し、やがてバシャーモにまで成長を遂げた。最終進化までこぎつけたことで、ホクトは喜びを一身に表してくれた。身体中に張り巡らされた血液が炎のように活性化し、自分の強さが漲るようだった。
「これがバシャーモとの絆だ。大切にしなさい」
渡されたものは、ホクトとバシャーモの繋がりを示す証。ポケモンとの絆が特別強いと見出された者にだけ、試練を課すジムリーダーから与えられる。更なる力を得た矜持も手伝ってか、バシャーモはそれ以来不動のエースとして君臨するようになった。
ある時、ホクトは言った。
「オレ達は最強だ。チャンピオンにだって負けないさ」
大きく出たな、とバシャーモは苦笑する。しかし、あながち夢物語でもないような気がした。今の自分達がどこまで通用するのか、試してみたい――それは自信のある者にしか訪れない思考の境地だ。ホクトとバシャーモは、その頃バッジを既に八つ有していた。
「オレとバトルしてください。お願いします!」
目の前にチャンピオンがいる。元々ホクトは身長が高かったが、彼すら萎縮して見えてしまうほど、ライゾウの貫禄は付き従う用心棒の殺気の如く溢れ出る。ライゾウは髭を摩り、ホクトを品定めするようにしげしげと眺めながら、口を開いた。
「良いだろう。売られた喧嘩は買うものだからな」
そして、バトルが始まった瞬間から、バシャーモはすぐさま勝てないと悟ってしまう。敵は自分よりも小柄なニドキングだ。それなのに、足が竦んで動けなかった。
「どうしたんだよ、バシャーモ! 思いっ切り行け、ブレイズキックだ!」
思いっ切り、だと。ホクトはポケモンではないから分からないのだ。目の前に立ち塞がる壁が、たかが何年といった鍛錬を重ねたところで、到底登り切れるものではないと。
切れ目の入った横開きの口が、こちらを嘲笑っているように見えた。ライゾウは腕組みをしながら、直立不動のままである。激しい声を散らし、ニドキングに指示を下す。ホクトが必死に訴える。バシャーモは何も出来なかった。一撃どころか、一歩も踏み出せず、ニドキングの角が首筋を貫く寸前で止まる。顎の下で、角が命を握っている。バシャーモはやるならやれとばかり、目を瞑った。
ライゾウは手を翻し、バトルの終了を告げた。戦う意志を持たない相手に無闇な傷をつけることは、チャンピオンの主義と相反する。その時のニドキングの物足りなさそうな表情を、バシャーモは今日に至るまで忘れたことがない。
「バシャーモ! どうして攻撃しなかった!?」
「お前さん、何故バシャーモが動けなかったのか分からんのか」
ライゾウは重々しく告げる。ホクトはバシャーモに寄り添いながらにして、公式や法則で見破れないものの正体に疑問符を浮かべていた。
「確かにお前さんは、ポケモンを強く育てている。だが、本当に彼らの気持ちに寄り添っているのかな」
「そんな。見てください、メガペンダントです。これはオレと」
「それがどうした!」
主人の視界がくぐもっていく。サングラスを外して、涙を拭う様をバシャーモはどう受け止めればよいか分からなかった。
八つ目のジムバッジを手にしてから、ホクトには慢心の傾向があった。良い薬になったかもしれない、とバシャーモは思った。ホクトはポケモンに多くを与えすぎたことで自分を縛り付け、同時に完璧であることを求めすぎた。
それからだ、ホクトが変わり始めたのは。
魂だけは辛うじて消えずに虚ろな光をたたえている、抜け殻のような人間。そんな時、風の噂を聞いた。同い歳のトレーナーがリーグ出場を決め、更にはセイエイで暗躍していた悪の組織を壊滅させたという。導かれるように二人は出会い、バトルをした。
「はーい、どなた?」
「夜分遅くにすみません。オレはポケモントレーナーのホクトと言います。テルマくんとバトルがしたいのですが……」
「あら……悪いけど今度でも大丈夫? 今、ちょっと忙しくてね」
「分かりました。それではまた来ます」
「誰だ? オレに用があるんだろ」
「あんたに挑戦したい。オレはキンカンシティのホクト。ジムバッジは八つだ」
「へえ、挑戦者は久しぶりだな。面白い」
「あんた、今日はパーティーなんだから……」
「良いじゃねえか、母さん。オレとリザードンが最強だってところ、見せてやるよ!」
最強、か。屈託ない笑顔で言い切るところが余計憎たらしい。ホクトが不愉快になるのも無理はないだろうと、バシャーモは思う。過去の自分の生き写しを見ているのだ。ホクトは誰にも聞こえないように呟く。
「何が最強だ」
多少骨のある相手だったが、まだまだ戦法は腕力に頼ったもので、作り込みも浅い。バトルはホクトの勝利に終わった。テルマは瀕死になったリザードンを見て、さぞかし衝撃を受けたようだ。かつての自分達を見ているようで、すぐにでも立ち去りたい気分に駆られる。
ホクトは当時最強と謳われていたテルマに勝利した。悪の組織と勇敢に渡り合った英雄を倒したのだ。それでも彼の中で渇きが癒えることなどなかった。
「あいつに勝てて、なんでチャンピオンに勝てねえんだ」
その不満を抱いたまま、ホクトとバシャーモはリーグに臨む。結果は惨澹たるものだった。
しかも更にホクトを苛立たせたのは、テルマがベスト16で敗退したことだ。リーグの前評判はテルマ一色だったのに、彼が負けると途端に盛り下がる。他にも戦っている選手が山ほどいるというのに。マスコミの傀儡と成り果てたリーグには、ライゾウも苦言を呈していた。
今でこそ思えることには、ローズシティ・ポケモンバトルトーナメント開催の裏には、プロパガンダと化したポケモンバトルを今一度トレーナーとポケモンに返そうという、バトルを愛する者達の叛骨精神が隠れているのかもしれない。
当時のリーグ優勝者は、大学研究において秀でた能力を持つとされるポケモンを揃え、バランスのとれたメンバーを構成していた。その布陣を見たホクトは机を叩き、項垂れる。最短距離で勝利を目指す考え方など、その時の彼にはまだなかったのだ。馬鹿正直に頑張ることこそが未来を切り拓くと信じていたホクトにとって、これほど屈辱的で馬鹿馬鹿しくなることはなかった。
チャンピオンとのバトルは響かなかった。バシャーモ以外のポケモン達をメンバーから外し、シラカシの山を登る。数か月前、セイエイの昔話に登場するエンテイ・スイクン・ライコウを束ねたとされる伝説の鳥ポケモン・ホウオウが舞い降りた霊峰である。
彼は精神と肉体を極限の状態まで追い詰め、屈強な野生ポケモンとバシャーモを何度も戦わせた。今いる手持ちのほとんどは、セイエイの旅を共にしていない者達だ。ホクトは我武者羅に、それこそ鬼のように強さのみを求めるようになった。
「勝った者が強いんじゃない。強い者が勝つんだ」
バシャーモもまた過酷な修練の中で、静かに感情の窓を閉ざしていった。
ホクトはバシャーモのトレーナーだ。他のポケモンを排しても、自分だけは離そうとしない。それはバシャーモを信頼しているという歪んだ絆の証。ならば、自分をここまで強くしてくれたホクトに応えるまでだ。
ホクトは強いポケモンを求め、バシャーモは強いトレーナーを求める。両者の利害は一致した。彼に昔を取り戻させるようなトレーナーが現れる、その時まで。今は戦いの阿修羅となることを受け入れよう――。
*
アユム達が持っているものは、自分達がなくしてしまったものだ。だから、目を覚ましてくれればと願った。
闘志一つで無謀にも立ち向かって来るヘルガー。そんな彼らを初めこそ軽くいなしていたバシャーモだったが、やがて己の全身全霊を懸けて迎え撃っている自分に気付く。格下のポケモンが喉元に食らいついているという事実。最大の武器に傷を負ったバシャーモは、ヘルガーのリードを許した。先程まで燻っていたポケモンと同じとは思えない気迫だ。
「ヘルガー、いっけええええ!!」
「受け止めろッ!」
ホクトの声に焦りが混じる。腕を後方まで振り切り、フィールドで戦う者と同じ土俵に立つ。ヘルガーの牙を寸前で食い止め、とびひざげりの射程圏内に誘う罠を張る。しかし、野生の勘を研ぎ澄ませた今のヘルガーには、バシャーモの蹴りが止まって見える。難なく回避され、挙句の果てに頭突きをもらう。上から下を万遍なく蝕む鈍痛に、意識が薄れかける。
『バシャーモの動きが鈍った! ヘルガーの連続攻撃、次々と畳み掛けていく!』
膝を痛めたバシャーモだが、あくまで平静を装う。メガシンカしたにもかかわらず、劣勢に立たされたのはホクトの側だ。まるでシュバルゴ戦前に出て来たメガヘルガーの鏡。彼はあくまでこの事実をポケモンの不足だと受け止める。
「何故だ……。オレは強いポケモンを揃えて、攻守共にバランスのとれた最強のチームを完成させた。そのオレが、こんな奴らに追い込まれている……!?」
恐らく、ホクトの努力は本物に違いない。彼は決して望むものを一掴みにして得てしまうような天才肌ではないからだ。しかし、ライゾウの言葉と対峙することに背を向け、バシャーモの苦しみを理解しようとしなかった。自分のポケモンに完璧を求めすぎたが故の躓きに囚われ、その泥沼から抜け出せないでいる。
ホクトは、ヘルガーの描く軌道が読めないでいた。刺激を与えようとして、乱暴に髪を掴む。手に付着する生々しい液体が、心を突き刺す強力な刃物となり、感情の隙間を縫って忍び寄る。
「汗? オレが汗をかいている? あいつを恐れているのか……!?」
落ち着け、自らに言い聞かせる。これはまぐれの劣勢だ。いつでも引っ繰り返すことが出来る。
「認めねえぞ!!」
ホクトの絶叫は、スタジアム中に反響する。それは観客の鎮静剤として効果を為し、かつアユムへの絶対的な拒絶を意味する。
「いつだって強い奴が最後は勝つんだ。そうだろ!?」
バシャーモが負けじと咆哮。無理にでも己を鼓舞するような悲壮さを伴っていた。絶対に負けたくない――アユムはそんな執念を感じ取る。ポケモンの技よりも余程空気を震わせるようなホクトの叫びに、しっかりと同調するバシャーモ。主従関係を超えた何かが、彼らを繋ぎとめている。
「それがお前達の絆なのか……」
バシャーモが金切り声を上げて突っ込んで来る。勝負に全てを捧げてきた者達の生き様が凝縮された決死の一撃。だが、高潔の騎士はとんでもない置き土産を残してくれたものだ。
脚が、止まった。
バシャーモとホクトは、我が目を疑う。誰よりも勝ちたいという想い一つで突き進んできた彼ら。だが、それだけではポケモンバトルの頂点には立てない。上から彼らの意地とプライドのぶつけ合いを見下ろすライゾウが、暗にそう語っているように思えた。まもなく、ヘルガーの炎が地獄の門のように開き、バシャーモを飲み込む。
『こ、これは……』
実況も言葉をなくす事態。バシャーモの容姿が元に戻りゆく。ホクトとバシャーモの絆の否定。すれ違いと利害によって結ばれていたものが解け、二つに隔てられる。
「なんだよ。オレとお前もそうなのか」
サングラスを放り投げ、素の眼でバシャーモの退化を見つめるホクト。美しく整えられた睫毛が特徴的な目尻には、一種の諦めが漂う。それを勝ち誇った様子で見届けられるほど、アユムは正々堂々たるトレーナー精神を忘れたわけではない。
「ホクト……」
彼らの間にも、メガシンカを可能とするだけの絆はある。
だが、かつてのホクトに戻って欲しいという純粋な願いが邪魔をした。ほんの少しの綻びが敏感に作用するほど、メガシンカとは繊細な現象だ。それこそ、相手に命を預けてもいいと思えるほどの信頼がなければ、この長丁場を乗り切るほどのエネルギーなど生まれ得ない。
アユムにもホクトにも足りないものがあった。それはどちらが正しく、間違っているかではない。自分の弱さを認めて、前に進もうとする反省がなかっただけの話なのだ。
ヘルガーは待つ。
バシャーモが自分にもそうしたように、再び立ち上がる瞬間を。膝を折ったバシャーモは地面を見つめてから、ゆっくりと顔を起こす。
最初はスタジアムの揺れかと思った。だが、これは地鳴りでも天変地異の前触れでもない。腹の底から紡ぎ出されるバシャーモの心の奔出だ。
「バシャーモ……」
ホクトを一瞥するバシャーモ。死んでいるどころか、好敵手と渡り合う時の貪欲な瞳のままだ。メガシンカを失っても、バシャーモはまだ戦うつもりだ。ホクトがそんなバシャーモを見るのは、四年前以来のことだった。テルマとの戦いでも燃え尽きなかったバシャーモが今、自分を追い詰めるヘルガーに、勝ちたいという想いを剥き出しにしている。
バシャーモは胸を張り、天に咆えた。あらゆる雑音を黙らせ、冷たくなった心をも溶かすような熱さのありったけを放出する。会場が一点へと釘付けにされた。ホクトはバシャーモ以外を視界から排した後、自分にとっての信じられる存在が何であったかを思い出す。
*
バシャーモのメッセージは、アユムの胸にも語りかけた。
ホクトを否定することに意固地になっていた自分が恥ずかしくなるくらい、まっすぐな叫びだった。雄々しく、荒々しいそれは、波打つ衝動となって、対立していた者達の間を埋める、何かをもたらしていく。
ホクトはサングラスを拾い、そのまま襟にかける。そして、拳を突き出して指示をするのだ。
「行くぞ! ブレイズキック!」
バシャーモは頷き、奔り出す。これまでの彼らとは雰囲気が違う。素性の読めない機械の殻を破って、生の鼓動に満ちた探求者が現れる。アユムとヘルガーは息を合わせて、これを迎え撃つための準備に入る。ヘルガーが口内に炎を溜めた、しかし。
「速い!?」
加速を発動していた時よりも、遥かにバシャーモはスピードを増している。捉え切れない――ヘルガーの眼前には、既に命中への軌跡が辿られていた。
「面白くなってきたなあ!!」
思わず席から立ち上がるテルマ。顔を蒸気させ、興奮の渦の一員となっている。テルマを優しげに見守るライゾウとシン。アユムにホクトという、自分に挑戦してきた二人の相反するポケモントレーナーの死闘に、ライゾウも思うところがあるようだ。
「テルマ、お前にも分かってきたか」
バトルは最終局面へと突入する。その時、立っているのはどちらか。
全て、忘れよう。勝利を譲れないことも。どちらのやり方が正しくて、間違っているのかも。今この時にしか味わえない一戦を楽しむ。それで良いじゃないか。後のことは終わってから考えるものだ。
「だいもんじ!」
「受け止めろォ!」
蹴りを受け、天地の区別がつかない中で、胃袋に溜まった炎を吐き出す。バシャーモは腕を交差させ、相当の後退を強いられる。脚を引き裂くような痛みも、今は関係ない。痛覚を消し飛ばしてまで、戦いたいと望む相手がそこにいる。
「とびひざげり!」
「カウンター!」
バシャーモは負傷していない方の脚に替え、ヘルガーの懐に切迫する。しかし、誘い込まれた先には恐るべき罠が待ち構えていた。ヘルガーはとびひざげりを間一髪のところで流れるように避け、打撃でそのままバシャーモを壁まで弾き返す。
「バシャーモ!」
安否を懸念するホクト。しかし、弱みの一つも吐かず、すぐさまトレーナーを横切る紅の残像を見て、ホクトは何も言わない。
「坊主、やってくれるな!」
「切札は最後の最後まで取っておくもの。そうだろ?」
他意のない賞賛を受け、アユムもまんざらではなさそうに返す。鼻の下を擦り、ヘルガーに次なる指示を送る。いつの間にか、二人の間に境界線を敷いていた敵意がどこかへ消し飛んでいた。観客も一体となって、皆に声援を送る。
「オーバーヒート!」
「えっ!? あくのはどうで応戦だ!」
アユムが驚くのも無理はない。もらいびの特性を持つヘルガーに、ほのおタイプの技は効かない。直接打撃のダメージが入るブレイズキックならばいざ知らず、オーバーヒートは戦略ミスではないか。しかし、ホクトの実力を鑑みれば、裏があるとすぐに分かる。その指示の意図をすぐさま理解したバシャーモが、暴れる火球と共に攻め込んでくるではないか。そう、オーバーヒートは囮。真の狙いは――。
「ブレイズキック!」
「やっぱり。カウンターで弾き返せ!」
間一髪応戦出来たのは、アユムというトレーナーにバトルの先を読む力が備わっているからこそ。
脚が壊れそうだ。なのに、こんなにも気持ちが軽いのは何故だろう。ヘルガーのカウンターを受け、バシャーモは息を吐き、地に背中を打つ。
「まだだ! ブレイブバード!」
膝の故障を案じたか、ホクトは指示を切り替える。それでもバシャーモには大きな負担となるが、ヘルガーと互角の勝負を演じるためにはこれしかない。息つく暇もない激しい格闘戦に、ヘルガーも満身創痍だ。それでも戦ってくれるパートナーに、アユムは最大級の激励を送る。
「あともう少し、もう少しだけ……ボクに付き合ってくれ」
ヘルガーは頷く。それにしても、バシャーモの体力は無尽蔵なのかと疑うほど、攻撃を受けても受けても倒れる気配がない。さすがは憧憬の眼差しを投げたポケモンというだけのことはある。
「カウンター!」
「残念だったな。そいつは効かないぜ」
「どうして……しまった!」
ヘルガーは成す術もなく、粉塵の中に押し込まれる。
カウンターは相手の攻撃を回避した上で、自分の反撃を叩き込むという技だ。攻撃のために守りを捨てる諸刃の剣。しかし、ブレイブバードは飛翔からの襲撃を繰り出した後、敵を通り過ぎる。とびひざげりのように、相手の間合いに入り込んで攻撃を繰り出すわけではない。ということは、カウンターを返せる隙がなくなってしまう。ヘルガーの必殺技は封じられた。
『逆転に次ぐ逆転劇! このバトルの結末は、一体どうなる!?』
逆境を転機に変えるのは、トレーナー次第だ。アユムは臆してなどいない。むしろ、これほど強いポケモントレーナーと戦えることを光栄に思う。相成れない部分もあるが、それでもホクトには積み上げてきた毎日がある。ようやくそう認められる瞬間が訪れた。それは子供だったアユムが少しだけ大人へと成長する、大切な一歩だ。
もう長くはもたないだろう。無論、ヘルガーの身体は軋み、悲鳴をあげているはずだ。だが、司令塔としてのアユムもそろそろ限界が近い。やっと楽しくなってきたバトルを終わらせるのは残念だが、アユムにはシンジとの約束があるのだ。一足先に、決勝の舞台で彼を待つのは自分でありたい。
「カウンターが出来なくても……まだ手はある!」
ヘルガーが立ち上がる。バシャーモはもはや賞賛するよりも前に、相手を潰しにかかる。決着をつけようという意志の表出。ヘルガーとバシャーモが正面から向き合い、拳と牙、脚と頭、身体の部位を余すことなく使う。ヘルガーが後ろ脚で蹴りを入れ、バシャーモが身体を斜めに逸らし、アッパーを叩き込む。顎を打たれたヘルガーだが、なんとか尻尾を突き刺し、炎で威嚇する。それを好機と見たバシャーモが、疑似的なブレイズキックで反撃に出る。
「そこだ! 噛み付けッ!」
「まだだ! いけええッ!」
喉が張り裂けるまで、彼らは想いを言葉にのせる。ヘルガーとバシャーモの打ち合いが終わり、お互い密かに微笑む。そして、主人からやってくる指示に耳を傾けた。
「ブレイブバードォ!!」
ホクトが両手に力を込め、あらん限りの声を轟かせる。先手を取ったのはバシャーモだ。これが最後の攻撃になるだろうことは、とうに覚悟済み。あのヘルガーを倒せるのならば、この身を投げ打つことも厭わない。このバトルの中で急成長を遂げたヘルガーに、敬意を表して。バシャーモは瞬く間に光へと包まれる。白く気高い飛翔と共に、翼を広げる。
「オレのバシャーモは最強だ! 誰にも負けねえ!!」
最強、かつてホクトが忌み嫌った言葉だ。彼はもう一度その単語を口にした。それがバシャーモに届き、この上ない推進力と化す。白銀の両翼が、雌雄を決そうとしていた。ヘルガーは闘気の塊を前にして、全身から力の虚脱を感じる。こんな場面で――あくまでも勝利の女神は残酷だった。
痛みすら感じさせない一閃が貫く。ヘルガーの角が折れ、爪が剥がれる。バシャーモがヘルガーの反対側に回り込む、その刹那の出来事だった。
終わった――上空に舞うバシャーモがこちらを見据えている。その輪郭がだんだんおぼろげになっていき、ヘルガーは灯が掻き消されるのをこれ以上ないほど痛切に感じ取った。
しかし、そこに細胞を呼び起こすような絶叫が巻き起こる。そうだ、まだ眠るわけにはいかない。バシャーモに追いつき、追い越すのだ!
「きしかいせいだァァァァッ!!」
ヘルガーはその時、意識や速度の次元を、超越した。土壇場で形勢を根本から引っ繰り返す技が、ポケモンバトルにはある。
七転、八起――起死回生の一手。
蒼い光に包まれたヘルガーの突進が、逆転のそのまた逆転を生み出した。バシャーモは好敵手を認め、悔いのない笑みと共に散って行く。白い羽が幾つもヘルガーに被さり、勝者の冠を形作った。
*
「バシャーモ、戦闘不能! ヘルガーの勝ち! よって勝者、ショウブタウンのアユム選手!」
スタンディングオベーションに異論はあるまい。アユムは腰が抜けそうになるが、それを堪えてすぐにヘルガーの下へと駆け寄る。振り絞った勇気がおびただしい傷の量と比例している。何も言わず、ヘルガーを力いっぱい抱きしめる。そして、オンバーンとシュバルゴが眠るモンスターボールも拍手が浴びられるように取り出す。戦いを終えた、安らかな表情だ。
今回のバトルは、オンバーンのおいかぜがあったから、ジバコイルに勝てた。そして、シュバルゴのメガホーンがあったから、バシャーモを倒せた。無論、それだけではない。誰が欠けても、この結果は存在しない。
「みんな、大好きだ!」
アユムの笑顔は、スタジアムいっぱいに弾け飛んだ。
ホクトはバシャーモの傍らに立つ。ただ勝利を噛み締めるアユムとヘルガーに、そっと目を細める。アユムが勝てたのは、ポケモン自体が優秀だったことも大きな理由の一つである。だが、この敗北からホクトが得たものがあるとすれば――。
「いや、チームでの勝利か……」
バシャーモは顔を上げる。無機質の仮面はすっかり剥がれ、情熱を取り戻した戦士の姿がそこにある。ホクトとバシャーモが彼らを見守る様子は、とても優しげで儚かった。
「見てみろよ。あんな頃がオレ達にもあったっけな」
何にも憚られることなく、喜びをありのままに享受する――ホクトとバシャーモは、機械化した戦いの連鎖に、いつの間にか何も見出せなくなっていた。修羅の道を往く中で、アユムのような甘い思想を誤りだと断定するようになった。だが、この日は彼らにとって、新しいスタートとなるだろう。
「あいつらとバトルが出来て、良かったな」
頷きかけたところ、重心を失うバシャーモ。そんな相棒に肩を貸し、ホクトはアユムに向けて声をかける。
「ありがとな!」
アユムはホクトからの感謝を聴き取った。しばらく呆然とした後、今までにない温かさをもって、顔を綻ばせる。それを見届けたホクトは、それ以上スタジアム上に立つことなく、敗者の定めに従い、去って行った。
*
計ったように廊下の壁へ背中を預けていた男は、かつてのライバルを認めるや否や、年月を経たとは思えないほど気さくに話しかけてくる。
「四年ぶりだな」
それは、テルマとホクトにとって長い年月だった。ホクトは早速憎まれ口を叩く。
「上から見下ろしやがって」
「まあそう言ってくれるな。人気者は色々と大変なんだよ」
ホクトは鼻で笑った後、いつものサングラスをかけ直す。
「負けたオレを冷やかしにでも来たのか?」
「その減らず口、相変わらずだな」
ホクトの毒舌に苦笑するが、テルマはすぐさま真剣な態度に切り替わる。
「アユムとお前が、オレに教えてくれたよ。諦めない、ってことをな」
ホクトは何も言わない。自分もまたそうだったからだ。諦めないことを真に思い出させたのは、他でもないアユムだろう。一拍置いて、テルマは野心旺盛に言い放つ。
「これでお前はまた、アユムの壁として立ちはだかってくれるだろう」
「てめえ……オレを利用したのか?」
どこまでも打算的な兄である。弟を強くするためにここまで世話を焼いてやるとは、ホクトから言わせれば仲良しこよしもいいところだ。それをいとも簡単にやってのける辺りが、テルマの底知れない面なのだが。この人間は、何を企んでいるのか見えないところが末恐ろしい。
「人聞きが悪いな。オレはいつでも中立の立場さ」
「ふん、どうだかな」
二人は笑い合って、頃合を察する。次に会うとすれば、バトルフィールドで。それがトレーナーの決まりだ。テルマは踵を返す。
「じゃあな」
「おう」
手を振り、赤髪の青年は見えなくなった。彼はアユムとホクトの本気のバトルに何を思い、感じたのだろうか。
ホクトはしばらく一人になって、拳を握っては解く。やがて、誰にも聞こえない小さな声で、ぽつりと呟いた。
「オレももう一度、真面目に頑張ってみるかな」
一つの因縁に、終止符が打たれた。
そして、もう一つの戦いの幕が開ける。迎え撃つは、伝説。