ビビヨンパレス - Axis
後編
 アグノム、エムリットらと順に合流し、最深部へと進む道を開く。神々は無事を喜び合うようにはしゃぎ、飛び回る。
 意外にもグズマが案内役を買って出たため、一同は驚愕した。最初は信頼できないと突っかかられるも、シロナの仲裁という名の脅しをかけたのちは、全員が沈黙した。
 天地を逆さに歩く経験など、夢でもなければ二度と味わえないだろう。下流から上流に向かう巨大な瀑布はスペクタクルを奏でる。波濤に負けないよう、グズマは声を張り上げた。この先だ、と。大滝の麓は、朽ちた石柱がストーンエッジとは比べ物にならないほどのサイズで不規則に屹立している。血を塗したような真紅の景色が目に毒だ。
 ひとりはすらりと伸びた美麗な脚を組み、ひとりは後ろ手で指を組み虚ろに見上げる。
 目的はこの瞬間、果たされた。いざ対面してみると、感情を言葉に置換出来ない。だから、何の感慨も抱かない向こう側がまず口を開いた。
「あら、随分と無粋な行列ですこと」
「母様……」
 やっとの思いで、リーリエは反応を絞り出す。
「新顔がふたりいるのね。グズマ、説明してちょうだい」
 膝に頬杖を突くルザミーネが促した。
「代表、おれが連れて来たんだ」
「わたくしは頼んでませんよ」
「これはおれが決めたことだ。代表、もう帰ろうぜ。本当におかしくなっちまうぞ」
「ミヅキに優しく諭されたのかしら? 隅に置けない子ね。本当に憎たらしい」
 嫉妬の火が燃え上がり、ミヅキを釘付けにする。
「グズマ。あなた、本当に美しくないわね」
 大方、敗北で寝返ったのだろう――別段失望する様子も見せず、人形を弄ぶような口調でとどめを刺す。左手の指は遊んでいた。
「わたくしが欲しいのは、ビーストちゃんだけ。お分かりかしら? トレーナーのコレクションは性に合わないのよね」
 グズマは何を言われたか分からなかったようで、何秒も遅れてから真意の理解に至ったようだ。口を半開きに放心する。
「……残念だが、わたしが創る新世界には不必要な人間のようだ」
「アカギ!」
 グズマに好機と力を与える人物は、この人間をおいて他にはいない。ヒカリとシロナは、絶対ミヅキたちに向けない眼孔でアカギを突き刺す。これではっきりした。ルザミーネとアカギは利害の一致で手を組んだ。悪夢のタッグ結成だ。
「母様、何故このような人と」
「いい加減にしろよ、あんた。ポケモンと人間はおもちゃ扱いか」
「リーリエ、グラジオ……。昔はなんでもわたくしの言うことに頷く無垢な子どもだったというのに。こんな風になってしまったのはミヅキと関わるようになってからね」
 ルザミーネは起立し、ヒールを鳴らしながら一歩ずつ進む。
「たとえ自分の子どもだったとしても。どれだけわたくしを慕っていても。珍しいとされるポケモンだとしても。わたくしの愛を注げる美しいものでなければ、邪魔でしかないのです」
「……あなた、母親失格ね」
 ルザミーネのぞんざいな物言いが、シロナの声を震わせた。
「家族の事情に割り込まないでくださる?」
「いいえ、あたしも当事者です。今だけは、あたしがこの子たちを守る」
「あら、そう。なら、その子たちはあなたにあげてもいいわよ」
 何の愛着もない言葉にリーリエの瞳が凍り付き、ただでさえ色白の肌からますます血の気が引いた。ミヅキが咄嗟に抱え込み、必死に呼びかける。
「この子たちは、あなたに会いたい一心でここまで来たのよ!?」
「これは傑作ね! わたくしはそんなこと、一言も頼んでいませんよ。むしろ勝手にやったことでしょう? 親の願いを妨げるなんて、むしろ親不孝者と呼ぶべきだわ」
「あなた、アカギがどんな人間か本当に知っているの」
「アカギは、美しいものがより美しくなるための世界に変えようとしているだけよ」
「違う、わたしたちの世界を壊そうとしている。シンオウはおろか、アローラもただじゃ済まない。カントーもジョウトもホウエンもイッシュもカロスも、みんな消えてしまう」
「わたくしに何の関係があるの」
 勢いよく啖呵を切ったシロナまでもが、言葉を失う。
「そうやってウツロイドのことも、飽きたら捨てるんでしょう」
 最後に独善耽美主義の彼女と対話出来るのは、存在意義を否定された娘しかいなかった。
 結局、心の片隅では昔のように笑い合える関係の修復を望んでいたのだ。
「ウツロイドは! あなたよりずっと可愛い子よ!」
 お気に入りの玩具を馬鹿にされ、だだをこねる幼児の図だ。この親への愛想が尽きた。
「……もう、うんざりです」
「麗しい親子愛、実に醜い。改めて、この世界には感情など不要と分かった」
 アカギが、抑揚のない調子で無機質に喋り出す。
「きみが今感じているものは怒りだ。それは人とポケモンを狂わせる。だが、感情などなければ、こんな想いもしなくて済んだだろう」
 リーリエは膝から崩れ落ち、嗚咽する。気品を備えた声色とは別人のような怨嗟だ。アカギの言葉は行き届かないルザミーネを責めるようにも聞き取れ、引っかかりを覚える。
「とにかく、ウツロイドの力であなたたちを打ちのめしてさしあげますわ」
 痺れを切らしたルザミーネは、持参物の価値を知らしめるように逸る。
 両腕を広げた瞬間、忌まわしいノイズが走り、中空のひずみから無量のウツロイドが発生する。少年少女の恐怖心を喚起するのと対照的に、ふたりは魅了されたまなざしをもって迎え入れた。ルザミーネが悦楽へと浸るために手を伸ばす。
 一匹が頭部を吸い取るように溶け込むと、続けざまに我も我も、と押し寄せる。ひとりの人間をめぐってこれほどのポケモンが大挙する様はなんとも禍々しい。
 対峙する面々の空気が刺々しさを増す中、島の直下を影がよぎる。かと思えば、次には上空を遮った。アカギは三白眼を動かし、獲物を捕捉する。
「来たな」
 やぶれたせかいのポケモン・ウツロイドに干渉すれば、必ず姿を現すと踏んでいた。
 槍の柱の召喚儀式に現れたギラティナだ。アカギを自分の世界に閉じ込めるつもりだったようだが、まもなく失敗に終わる。
「これだけの力があれば、あの影のポケモンを倒すことなど容易い」
 ウツロイドの集合体が思わぬ形態変化を生じた。頭部が肥大化し、まるでオニシズクモのように憑依先の全身を包む。触手は黒ずみ、先端から目玉のような割れ目が覗く。
 ポケモンと人間によって果たされる超進化――マザービーストと称すべき誕生。嬌声からは辛うじて残っていた理性をも取り払ってしまったように思える。
「今からすべての心が消えていく。まずは、きみの母親から。どうだ。これが理想の姿というものだ。真の美しさだ」
「……最初からそのつもりだったのですか。母様を利用するつもりで」
 問いに答えず、アカギは不可視の鎖でウツロイドを縛り付ける。
「わたしが。これほど醜い女と手を組むとでも思ったのか。あらゆる生き物の感情を逆撫でし、弄び、苦しめる。わたしが忌み嫌う悪の姿そのものだ」
 両者には、最初から取り返しのつかない思想の断絶があったのだ。
「人でなし……。母様を、返してっ!」
 飛びつきそうなリーリエをなんとか抑え込むが、気持ちは一緒だった。
「目先の世界しか見えていないおまえたちに、このアカギの崇高な是正が分かるものか」
 ミヅキの琴線が弾けた。目先の世界、とは何だ。
 みな、今を、一瞬を、必死に生きている。高みから見下ろすような物言い、何様だ。
「あんたの言ってること、全然分かんない。あいにくちっぽけな世界しか見えなくてね!」
「そのくだらない世界を、守るというのか。何のために」
「約束を果たすために」
 生気を失っていたグズマがはっと我に帰り、ミヅキの背を見つめる。
 アカギの言う〈世界〉ではなく。わたしが見つけて来た世界のために。
「ならばアローラのトレーナー、おまえからだ。ゆけ、ウツロイド」
 取り込まれたルザミーネの名を上書きする。ひとりの尊厳を踏みにじる行為だ。
「ミヅキだけじゃないよ」
 ハウが名乗り出る。振り向けば、それぞれの相棒と意志を確かめ合っていた。
「オレの相棒ヌルは、ビーストキラーとして生まれた。ハウ、ミヅキ、ヒカリ、チャンピオン。アカギを止めてくれ」
 与えられた本分を為すときだ。例え、不本意だとしても。ヌルは黙って騎乗を促す。それを見て、アカギは自身のポケモンを六匹総動員で繰り出した。
 グラジオとヌルの進路を、ひとりの少女が阻む。泣き腫らした痕はかえって毅然としていた。結び目を解き、肩までかかる金糸のような髪を靡かせる。
「兄様、わたしも行きます。帰るべき場所のために戦います」
 たった一言を絞り出すために、長い時間を待った。何も言うまい、グラジオは目を瞑る。
「ほしぐもちゃん。こんなわたしだけど、あなたのトレーナーになれますか?」
 彼女の背を容赦なく光線が貫こうとする。両翼はそっと少女の肌に触れ、旋回と共に飛翔する。自力で答えを出した者に与える返事だった。


「ヌル、かいふくふうじだ」
 ブレイククローで貫いた触手が再生しないよう、刺突に呪いを込める。体の一部をあしらうのはまだ良い。問題は囚われの本体をどう攻撃するか。
「ウツロイド、ステルスロック」
 アカギは鎖越しに指示を送り込む。腐敗した槍の柱を宝石が潜り抜けていく。愚直に進むヌルが罠を踏むと、虹色の爆発が起きる。肢体から投げ出され、肩や背中を打った。
「クリアスモッグ」
 第二波が来る。無様にも尻餅をついて動けない。辺りに充満する毒素が器官を停止させ、経験したことのない苦しみに胸を掴む。ヌルはグラジオの方まで駆けようとするが、潰し損ねた触手が尻尾をはたき、柱を粉砕した。
「アシッドボム」
 土壌を根こそぎ腐らせ、柱にもたれるグラジオを無理矢理引っ張り出そうとする。
 偉そうに啖呵を切った自分を恥じる。ヌルの何を理解したつもりになっていたのか。相棒だ、孤独を分け合ってきた、言葉は実に簡単で、浅薄だった。もっと本当の、深いところで分かり合わなければ、表面だけの関係で終わってしまう。
「ヌル。オレに、おまえの心を教えてくれ……」
 倒れた相棒に声は届かない。

 アカギのポケモンは総じて優秀だ。
 主人に仇なす不届き者を始末すべく、最適な戦略を構築する。勢力分散のため、シロナがジバコイルとダイノーズを引き受けた。彼女が空を戦場とするなら、ヒカリは水中を選ぶ。背後の大滝に向かって、冠を携え、総身に皇帝の意匠を凝らしたポケモンを繰り出す。自慢の相棒が、きっと仲間たちを支えてくれるはずだ。向こうは力強い瞳で騎乗を促す。
 下流から上流に向けて流れる滝に乗りさえすれば、あとは豪速で敵を振り切れる。ヒカリがエンペルトに跨り、ハウとミヅキは肩を借りるようにバランスを取り合った。そして逆走を開始する。スタート早々、ギャラドスが水流を飲み込む勢いで接近してきた。
「ムウマージ、テレキネシス!」
「ライチュウ、10まんボルト!」
 ムウマージの数珠が浮かび上がるのと同時、滝にいたはずのギャラドスが宙を舞う。高圧電流の的となった。闘志をそのまま放出したような一撃に、快哉を叫ぶ。
「えっ、すごいパワー!」
「そりゃ、ハウ一番の相棒だもんね!」
「ありがとー。自慢のポケモンだよ」
 ヒカリとハウは、ハイタッチで戦果を二分割した。
 まだ序盤戦だ。X型の十字が波間を裂きながら、我真っ先にと上昇してくる。
 軸を縦にずらし、水平切りに突っ込んでくる。わざとエンペルトを掠め、越した。
「今の、クロスポイズンね。でも、当てることが目的じゃない」
 次は外さない、という襲撃予告だ。滝を90度に曲がり、再び斬撃の構えに入る。
「ブレイブバードが来る……!」
 クロバットの挙動から次なる技を言い当てた。滝の流れに沿って、降下してくる。
「ふたりとも、みずポケモンは」
 ミヅキとハウは心底申し訳なさそうに首を振る。エンペルトの鋭利な両翼と、クロバットの翼が交差し、金属質の音を響かせる。垂直の正面衝突がバランスを狂わせた。
「オラァ、アクアブレイクだ!」
 剛腕の力任せに敵を沈め、去る。グソクムシャが余韻に浸らず、無表情に推進し、減速を余儀なくされたエンペルトと並走する。呆気に取られる一同。グズマが高笑いした。
「みずポケモンが必要だろ?」
「グズマ……」
 大滝の半分まで登り詰めた。滝の走行という荒業の影響か、地肌が寒気に痺れる。だが、違った。ハウは指をさし、滝に生じる変化を観測する。
「なんか凍ってないー?」
 底から輪郭が大きくなるのはそう時間がかからなかった。
「あれはマニューラ!」
 冷気を纏い、キッサキの流氷地帯に変貌させる。大道芸人も真っ青の極致だ。永久凍土はこちらに向かって直進してくるではないか。
「あんなのアリなのー?」
「ははっ、爪の餌食にしてやるぜ!」
 憂さ晴らし相手、決定。だが、体躯の違いが災いした。礫を喉にぶつけ、振り返ったグソクムシャを怯ませる。足場に氷柱を叩き込み、流氷で泳ぎを妨害した。跳躍を図り、両爪を霊気で伸長させる。
「みんな、ちょっと我慢してね。エンペルト、ドリルくちばし!」
 嘘でしょ、という悲鳴にはお構いなく、豪快に正面から迎え撃つ。嘴による突撃は、同じく嘴によって掻き乱された。黒翼が宙に残像を描く。ドンカラスだ。
「クワガノンお願いっ!」
 紫電を既に帯びた戦闘意欲満々のポケモン、それがミヅキのクワガノンだ。
 充電万全、標的捕捉、角度補正、誤差修正、発射準備完了――超電磁砲を解き放て。
「でんじほう!」
 電流の束を易々と翻りつつ、これ見よがしにひらりと回避された。一陣の熱風にあてられたクワガノンはたちまち戦闘不能となり、力なく落下していく。
「そんな」
「エンペルト、ラスターカノン!」
 マニューラが氷柱を杭の要領で打ち込み、光線は防がれた。
 滝は終わる。現実は非情に迫る。敗北、という二文字を復唱しながら。
「どうすんだよ、あいつらかなりヤベェぞ!」
 司令塔のヒカリまでもが沈黙した。諦めたのか、ならば一肌脱ごうとグズマが叫ぶ。
「グソクムシャ。やるしか、ねえなッ!」
 元より倒し切る体力は残っていない。後さえ託せれば……願いも空しく、嘴が振り上げた腕を負傷させ、羽毛で視界を奪われた挙句、滝から脱落させられた。
「グズマァァァァァァーーッ!」
「そんな……」
 少年少女は残酷な戦いの一端を思い知らされた。規則に準じた競技ではないと了承の上で、覚悟を決めたはずだ。しかし、今までの旅路でこれほど無力を噛み締めたことは一度とてない。
 スカル団のボスを倒し、チャンピオンに近付いても、本物の巨悪には手も足も出ない。子どもの頑張りでは力不足だ。それが現実なのか。これが限界なのか。
 強くなりたい。何よりも、今は強さが欲しい――。
 向かう敵を一撃で薙ぎ払い、ものともせず、超然と君臨する絶対的な力が。
 飽くなき力への欲望に誘われたとき、突如横転する。マニューラにけたぐりを食らい、陸地に全員が放り出された。土が口に入り、咳込みながら吐き出す。
 ハウが意を決したように、Zリングを輝かせ、雷のマークを形作る。
「おれたちの……全力を!」
「ミミロップ、ハウとライチュウをてだすけしてっ!」
 繰り出されたヒカリのミミロップがZパワーを送り込んだ矢先、両翼に全身を引きずられたまま吹き飛ばされる。
 次々と味方の犠牲を経て、ライチュウの決意も一層高まる。引き結んだ口元は死線を越えた戦士のようだ。電流の波に乗り、自らもまた雷撃を纏う。ドンカラスが甲高い断末魔をあげ、遂に一矢を報いた。ミミロップの分まで、一撃に込めた。
 まだ一匹残っている。精根尽き果てたライチュウを辻斬りで捌く。
 抵抗の術は断たれたと見るや否や、マニューラは猛吹雪で辺りを凍らせた。やぶれたせかいが白銀に侵蝕されていく。一面の白は、まるで死期を報せるお告げのようだ。
 全員のポケモンの殆どが倒され、心身共に削がれきった。三人とも、大山脈の真ん中でひとり助けを待つように身を抱え縮こまる。
「寒いよぉ……」
「ヒカリ、ハウ、どこ……」
 感覚が薄れていく。記憶も声も、打ち消され、雪崩が覆い隠していく。
 そのとき。ジバコイルとダイノーズが滝ごと貫かれ、空中で機能停止する。氷原を踏みしめるドラゴンポケモンの幻が現れた。
――幻ではない。瞼を擦り、凝らし、その目にしかと焼き付ける。
 砂嵐を起こし、ガブリアスと共に飛翔するのは、他の誰でもないチャンピオンだ。
 嵐に揉まれたマニューラが冷気を拳に纏い、竜巻の軌道に沿って捻りを加え、勢いをつける。
「がんせきふうじ!」
 ガブリアスは巻き上げた砂塵や岩を利用する。思わずヒカリとハウが立ち上がった。
 回転に乗じた氷の拳が、襲い掛かる石の刃を砕く。飛び掛かってきたリーチの長い爪を鎌で翻し、地上に叩きつけた。礫を飛ばすも一刀両断。吹雪も鋼鉄の鱗には微々たるものだ。勝機を前に気炎を上げ、荒々しく粗暴に、大胆かつ高らかに命じた。
「ドラゴンダイブ!」
 大地を爆発させ、宇宙の一点と交わるような星に生まれ変わる。まさしく流星だった。青白い炎を引き、見る者を魅了する。マニューラが与えていた恐怖を上回る戦慄を伴い、地へと磔にする。隕石と変わらぬ直撃が、破れた世界に栄光の名を轟かせた。
「シロナさんっ」
 ポケモントレーナーの女神は、険しかった顔つきを嘘のように和らげ、ミヅキたちの呼びかけに応えた。子どもの頑張りに背中を押してやり、それでも駄目だったときには、そっと手を差し伸べるのが大人の役割だ。
「ミヅキちゃん。ハウくん、ヒカリちゃん。よく、がんばったわね」
 ぼんやりと霞みそうな視界もそのまま、抱擁に身を委ねる。温もりを直に感じた。

  
 先程からヌルの様子がおかしい。仮面に隠れた円らな瞳はいつも以上に真意を悟らせない。起き上がろうとしてもマスクの重さが足枷となり、義肢でうまくバランスを取れない。
 特殊な素材で作られた仮面に触れると、外側からでも分かるほど高熱を帯びていた。首元に拘束具の如く取り付けられた輪っかが、翠色に明滅する。
 人工ポケモンが緊急事態に際してSOSを告げている。未曾有の事態に、グラジオは血の気が引いた。制御マスクを外せば負担自体は取り除けるが、本来の姿になった瞬間、暴走状態に戻りかねない。実験棟で起きた爆発事故で何名もの職員が意識を閉ざした。
 頭を抱え込む。毒が脳まで蝕み、思考回路を勝手に繋ぎ変えていくようだ。
「どうすれば、どうすればいいんだ」
 もがき苦しむ間にも、魔の手は目と鼻の先まで迫る。
「わたしに楯突いたことも許そう。まもなくおまえたちも心なき世界に導かれる」
 赤い鎖を介して、ルザミーネの姿からアカギの声が直接聴こえてくる。
「パワージェム」
「ヌル!?」
 土壇場に追い込まれてなお、嘴のような角で光線を引き裂き、グラジオの盾となる。
「ヌル、もういい。充分だ、これ以上はおまえが持たない!」
 外の世界に連れ出してくれたことへの恩返し、それ以外に主を守る理由などない。
 グラジオもまた、ヌルと旅する中で様々な景色を見て来た。研究員の冷たい手が実験体に触れる内に、きっといつかその一員になってしまう未来を憂えた。しかし、ヌルは人工ポケモンであっても一個の尊い命だと旅の中で学んだ。
 パラダイスという、世界からすればゆりかごに過ぎない閉鎖空間を飛び出し、アローラの自然を渡り歩いた。Zリングを貰えたのも、すべてはヌルがいた賜物だ。
 そして思い付く。封印を打ち破る最良にして唯一の方法を。
「ヌル、その痛み……オレも引き受ける」
 旅路を共にしたならば、今度は苦しみも分かち合おう。
「このZリングに! よこせ、おまえの心を。ありったけ!」
 紋章の刻まれたクリスタルを二本指で示す。心の拠り所はここにあると。
「造られた存在に、心などあるものか」
 ルザミーネの姿で、ルザミーネの声を操り、アカギは自らの主張を述べる。
「いや、ある。ヌルは、ポケットモンスターだ」
「愚かな。愛などという一時の感情に流されなければ、真の合一に至れたものを」
「おまえの生み出したモノがそうだというのか? ならばオレは全身全霊をもっておまえを否定する!」
 Zリングを眼前に構え、トレーナーとポケモンの想いがひとつになる。
「恐れるな、オレたちはいつでも――!」
 Zリングを嵌めた左手首が、神経の制御下を離れるほど震え出す。右手で鎮めるように抑え付けてもなお、ヌルの苦しみをこれでもかと伝えながら暴れ回り、烈火が駆け抜けていく。筋肉が溶けそうだ。骨が軋み、視界が薄れ、歯が砕け散りかねない。実験中も、戦闘も、痛みに耐え忍んでいたというのか。グラジオは初めてタイプ:ヌルの悲鳴を聴いた。
 パワージェムの奔流と、ダメージフィードバックによる相乗効果が生命の限界まで追い詰める。白目を剥き、膝を突いた。全身を丸め込み、内臓が飛び出そうなほど咳をする。 
 ルザミーネもといアカギは勝利を確信し、大口を開けて嘲笑を露わにする。
「己のポ――の苦し――に悶えて、死――!」
 終わらぬ苦しみはない。
 地獄を経て、覚醒に至る道が開けた。
 束縛の証だったマスクが粉々に砕け散り、体毛も真白く洗練される。
 白い獣が堂々と君臨する。咆哮に空間が揺るぎ、初めて臆したように敵が後ずさる。
「今、この瞬間から――おまえを、白銀の相棒〈シルヴァディ〉と呼ぼう」
 実験棟から持ち出して以来、機会なく眠っていたディスクを指の間に挟み込む。
 特性〈ARシステム〉は、メモリを頭部のドライブに挿入することで17タイプを自在に使い分け、自身のタイプの攻撃を無効化する。未知なる存在UBは、観測史上初の生き物ゆえ、タイプも特徴も謎に包まれている。シルヴァディもといタイプ:フルはすべての属性を網羅し、いかなる技にも臨機応変に対処出来る。絶対的なる駆逐の実行力をもって〈ビーストキラー〉の異名を与えられた。善悪備えるエーテル科学の結晶だ。
 敵の攻撃に合わせ、Zクリスタルの紋章が刻まれたディスクをインストール。体細胞変異を確認する。透明な頭部の翼や、他のポケモンから貰い受けた尾が大地の褐色へと染まる。
 宝石も毒素も、歩を止めるだけの手段には成り得ない。今のシルヴァディは荒野を巡る野の獣そのものだ。
「馬鹿な、これではまるで」
 仕草から伝わるアカギの心理は、明らかに動揺していた。
「まるで」
 ギンガ団の科学力でも遭遇の可能性が0%以下を切った、千本の腕で宇宙を創成したと云われるポケモンが脳裏をよぎる。有り得ない。しかし、あまりにも酷似している。
「神を冒涜するな」
「冒涜しているのはおまえだ。そして覚えておけ。神ではない、シルヴァディだ」
「マルチアタック!」
 額にタイプエネルギーを収束させ、光の雨を降らせる。器用にも触手だけを撃ち抜いた。
 壊れかけの人形を修繕するように鎖を振り乱すも、ウツロイドの挙動はぎこちない。
「まだ、終わらん。終わってなるものか。ここまで来たんだぞ!?」
「今、わたしが感じているものは怒りだ。感情などなければ味わわずに済んだものだ」
「わたしは負けん。偽りの神にも、影のポケモンにも、くだらない世界にもッ!」
 最後の足掻きに出る。逃避する先は、神々の頂上決戦だ。リーリエたちが危ない。

 リーリエの説得もむなしく、安寧と秩序を脅かされたギラティナは、区別なく立ち塞がる者を制裁する。ルナアーラは翼を交差させ、息吹の洗礼から命懸けでおやを守った。
 シルヴァディは小島を電光石火の速度で飛び交い、半分意識を共有するグラジオの焦りに応えようと務める。行き場を失っていたエムリットたちが漂い、弱々しく救援の信号を送った。
「力を貸してくれるのか?」
 紅・蒼・黄、風前の灯ならぬ光を発し、問いに答える。別次元のギラティナと均衡を保てずとも辛うじて顕現していられるのは、シンオウを壊させまいとする意志の表れだろう。

「どうしても傷付け合わなければならないのですか!?」
 逃げ続けても埒が明かない。リーリエはトレーナーになる瞬間を間違えた。よもや神が最初の対戦相手とはなんたる皮肉か。憤怒は呪いとなり、滑空を阻止する。
「ほしぐもちゃん、どうしたの」
 朱色の空間が無限の眼として一挙手一投足を監視するような不快感に囚われる。
 世界の果てまで逃げようとも、ギラティナの鏡からは逃れられない。薄々気付いていたが、翼は影に絡め取られ、徐々に向こう側へと引きずられていく。
 振り返れば一巻の終わりだ。せっかくポケモンを克服したのに、またも恐怖が種を撒く。
 ギラティナの姿が刹那、暗黒の彼方に溶け込んだ。後悔するだけの猶予を与えるとばかり。
 傷付け合わなくても済むなど詭弁だった。戦う、という行為の本質をまだ理解していなかった。気配はすぐそこまで、死を携えながら迫る。
「ごめんなさいっ、ごめんなさいごめんなさい……わたしなんかのために、あなたまで」
 宇宙模型を頭蓋にそのまま嵌めたような頭部に一点の星が表示され、ルナアーラは出現位置を観測する。影からの降下が、極限の絶望まで彼らを突き落さんとしたときだ。
「リーリエ、最後まで諦めるな!」
 思い切りルナアーラを踏み付け、シルヴァディが躍り出た。剣幕と共に裁きの礫を発射する。ギラティナは標的を外し、背中を撃たれた。反り返る長身にも構わず両眼を寄せ、代わりに盾となった存在を凝視する。騎乗するトレーナーは三匹の聖霊を従え、プリズムの防壁に囲まれていた。五面体は罅割れ、硝子のように舞い散る。
 グラジオは藁にもすがる想いで、華奢な腕を引っ張り上げた。唇の端から一滴の血が伝うのも構わず、妹を助ける。
「兄様!?」
「やっと。やっと……、兄らしいことが出来たな」
 ギラティナが奇声をあげた。「その姿」を見せるな、とばかり。
 裏世界に追放しておきながら、まだ居場所を奪うことに飽き足らないというのか。湖の抜け殻もろとも、引き裂いてやる。血眼がまっすぐシルヴァディを射止め、刺し貫いた。
 ARシステムが破壊され、頭部の翼は歪に変形する。ギラティナの触手から尖る爪は、一撃でエムリットたちを鷲掴みに粉砕し、ビーストキラーを貫いた。
「兄様。にいさまあああああああっ!」
「リーリエ。母を、みんなを……」
 彼らは世界の命運を託し、奈落に吸い込まれていく。
「よくやった、よくやったぞギラティナ……! わたしから、最高の褒美をくれてやる」
 途方に暮れる間もなく、今度はギラティナがのたうち回る。焼け付く熱線の応酬を四方八方から浴びせられていた。熾烈なまなざしが、リーリエたちと合う。助けなど求めていなくとも、目には見えない血の涙を流していた。
 やぶれたせかいの神よ、わたしは兄を傷付けたあなたが心底恨めしい。
 だけど。
 犠牲になっていった者たちの顔をひとつひとつ、浮かべていく。
 煮え滾る想いを抑え、刮目する。
「……もう迷わない。すべてを取り戻しましょう」
 ルナアーラが今までにないほど強力な蒼の光輝をたたえ、おやの決意に応える。
 ウツロイドの頭上に立つアカギが、両腕を広げた。誰よりも打ち震えている。
「邪魔者はすべて潰してやった。シルヴァディとそのトレーナーも消えた!」
「あなたは今、さぞかし喜びを感じているはず。なのに何故、心を消そうとするのですか」
 根源的な疑問に、アカギは愚問とばかり返す。
「喜びすらも、わたしには不要だ。喜びのあとには苦しみが待っている。永久に喜びだけを享受することは出来ない」
「だからすべての感情を消そうと?」
 リーリエが戦う理由も所詮ミヅキたちの受け売りだ。世界というスケールは想像もつかない。それでも、自分の周りにある世界の尊さは理解出来る。一個人がどれだけ世の中に失望を抱いたとしても、全体を粛清する理由には、断じて、成り得ない。
 この人間は、ただ殻だけを求める空っぽな存在だ。理論武装に身を固め、略奪と破壊を正当化しようとする。だからこそ許せなかった。
「……わたしたちは、生きている。モノではないのです!」
 これまでの人生で発したことのないであろう怒号を放つ。
「では、わたしたちは何者だ。何故この世に生を受けた。誰が生んでくれと願った?」
「わたしは、後悔していません。かけがえのない人たちに巡り合えたから」
 アカギにとって、最も耳を塞いで無根拠に否定したい言葉だった。
 友達と呼べる存在、かつてはいたのかもしれない。電子空間の中に、ただ一匹だけ。
 だが、もはや昔の話だ。時間は一線を描き、空間は移ろいゆく。失ったものは戻らない。
「ああ、憎い。憎いぞ。おまえのような人間、恵まれたすべてが。わたしの敵だッ!!」
「それならば、わたしもあなたを敵とみなします。わたしから大切なものを奪っていくというのなら、わたしはあなたを許しません」
「貴様らなど恐れるに足らん。ギラティナもろとも、影の底に消し去ってやる」
 対話は平行線で終了した。あとは力の大きさがすべてを決する。
 伝説の文献に記された大いなる光を照らし出すよう、命じる。
「ルナアーラ、シャドーレイ!」
「ウツロイド、パワージェム!」
 満月が昇る宵の空を超え、遥か光年を両翼に映し出す。星雲が瞬き、銀河の軌跡を描く。
 ルナアーラは宇宙そのものだった。
 万物の流転に影響を及ぼし、惑星と共に見守る月が、光と闇の内にすべてを抱合する。
 生涯を懸けて求めて来たものが、手を伸ばせば届きそうな距離にある。アカギは恍惚として見上げ、満足したように目を閉じた。

 何十匹ものウツロイドが、ばらばらに分離していく。
 ルナアーラの光は世界を傷付けるためのものではなく、清め、癒すためのものだった。ウツロイドたちに目立った外傷はなく、ルザミーネもやがては目を覚ますだろう。
 成し遂げたという実感は一切ない。歴史を左右する偉大な特異点の中心に立ったことなど、どうでもよい。みなを助けられた、その事実ひとつで心は満たされた。
 ルナアーラの首に手を回し、思い切り抱きつく。
「ほしぐもちゃんっ。本当に、あなたは最高のパートナーです!」
 ウツロイドたちが水滴の弾けるような声をあげながら、霞みがかって消え行く。再び、このやぶれたせかいで静かに暮らすのだろう。
 残ったギラティナは瞳だけでものを伝える。奥にはもう怒りも含まれていなかった。だからといって、騒がしい人間やポケモンを受け入れてやるだけの優しさは持ち合わせない。
 潮時だ――神の号令が轟き、景色を一変させる。


 しんしんと降り積もる雪が、指先を冷たく撫でる。
 シンオウ地方かと思えば、天にも届き得る豆の木が生えただけの孤島に移り変わり、実体が掴めない。いわゆる空間の狭間に位置するのだろうと解釈する。
 見渡せば、今回の出来事に関わった少年少女やポケモンたちが生還していた。最初に南国の似合う少年が寝惚けまなこを掻き、隣ですやすや寝息を立てるライチュウにもたれる。
「あれ、ここどこー……?」
「さて。どこでしょうね」
「あ、リーリエにほしぐもちゃんだ。無事でよかったー」
「はい。みなさんのおかげです」
 続々と意識を取り戻していく。まずは各自の警戒を解くところから始めねばならなかった。それぞれの戦い。収めた成果。守り抜いた矜持。ひとつひとつに胸を張る。
「それじゃあ、ほしぐもちゃんがアカギを倒したんだ」
 ミヅキは驚愕を隠せない。
「いえ……倒した、というわけでは」
 返された面々にアカギは含まれていなかった。彼はこれから罰されるのかもしれない。どちらにせよ、報われない末路だ。静まり返る一同にはそれぞれ思うところがある様子。
 重い空気を晴らすように、シロナは空を見上げ、呟く。
「わたしたちにはわたしたちの、ギラティナたちにはギラティナたちの、それぞれの世界がある。それを侵してはならないのかもね」
 大陸を隔てる者同士にも境界があるとばかり、南北にふたつのウルトラホールが開く。
「もう、お別れか」
「あっという間だったねー」
「うん。もっと、色々話したかったなぁ」
 グラジオとハウ、ヒカリが名残惜しそうにする。運命の気まぐれが引き寄せた邂逅は共闘で手一杯だった。お互いのことを深く知れたわけではない。だが、単に知ることだけに留まらない何かを培えた気がする。だから、別れ際も顔つきは精悍として爽やかだった。
 せっかく育んだ縁を、今回きりで終わらせたくない。ミヅキは拳を握る。
「今度は本当に会えばいいんだよ。わたしたちはいつも同じ世界に住んでいる、だから」
「うん! ここで出会えたこと、忘れない」
「みんな、とっても素敵なトレーナーよ。これからも出会いを大切にね」
「世話になった、チャンピオン」
 グラジオとシロナが握手を交わす。ミヅキは羨望のまなざしで彼女を見つめた。言おうかどうか悩み、後悔だけは残したくないと、一際大きい声で叫ぶ。
「シロナさんっ。わたし、シロナさんみたいなチャンピオンになりたいです」
「それは宣戦布告と受け取っていいのかしら?」
 シロナは既に挑戦者、いや同じ地平でミヅキを評価していた。
「……はい!」
「あれ、ずるいよーミヅキ。おれだってチャンピオンになるんだ」
「わたしだって!」
「オレとシルヴァディだって、挑ませてもらうぜ」
 鳴動が曖昧な空間を揺さぶる。ホールを潜らねば、取り残されてしまう。二枚重ねの風景は何度も移り変わり、維持が困難になっている様相を呈していた。
「みなさん、向かいましょう。それぞれの明日へ」
 リーリエの言葉が、別れの合図となる。
 ルザミーネをシルヴァディの背中に乗せ、グラジオたちがホールの向こうに消えて行く。最後はヒカリとミヅキの番となった。
「何してんだおまえら。さっさと行くぞ」
 どことなく輪に入るのが気まずいグズマはホールの番人をしていた。常のあっけらかんとした調子で、不器用に入口を指し示す。
 ヒカリは一拍置いて、意を決したように叫ぶ。
「わたし。ミヅキとバトルしたい」
 いつの間にか敬称は取れていた。
「ここで!?」
「ううん、次会うとき」
「そっか。……なら、チャンピオンになった後だねっ」
 野心旺盛な少女たちは、ライバルたちに内緒で密約を交わす。
 少女同士、ホール越しに待つ元の世界に足をかける前、振り向き合う。
「ミヅキは島巡りを」
「ヒカリはジム巡りを」
「次に会うときは、ポケモンリーグチャンピオンになってから!」
 思わず重なった台詞が、後腐れなくふたりを別々の道へと進ませた。

 ウルトラホールを越え、世界の大穴が跡形もなく閉じた。それでもわたしたちは、時に交叉し分かれ行く軸の中で生き続ける。
 だから、今は迎えてくれる人たちに満面の笑みを向けて、ただいま、と告げた。

 (29970文字)

■筆者メッセージ
ポケモン二次創作大会 ハワイティ杯投稿作品
はやめ ( 2020/01/24(金) 22:11 )