紫苑に響け、追憶の音色
幾多にも並び立つ墓石の前では、人々はみな同じ気持ちを分かち合う。
行き場のない魂に、永久の安らぎを――そう、優しく祈りを捧げるのだ。ここで手を合わせる少年もまたその一人。
「これ、お前が好きだったやつ」
少年グリーンは、かつてのポケモンが好んでやまなかった花をそっと植え、手を叩く。偶然オツキミ山の頂上で拾ったものだが、周りの景色をたしなみながら進むという情緒性に欠けているグリーンには、無価値に等しいものだった。それがどうしてか、今になってどうしようもなく愛おしいものに感じられるのだ。
「じゃあな」
何かを言おうとして、しかしそれが余計であると少年は考えたのだろうか、思いを振り切るように――振り切れるはずもないが――踵を返す。そこで、赤い帽子を被った少年と目が合う。
「お前のポケモン、死んだのか」
常に勝気なグリーンが珍しく憔悴したように話しかけて来るので、肩にピカチュウをのせた少年はどのような言葉を返せばいいものか考えあぐねている。何の罪もないことは分かりつつも、グリーンにとっては彼とピカチュウの溌剌とした様子が、自分とポケモンにはもう届かない関係性だと分かってしまい、余計に恨めしい。それを自分の内に巣食う、身勝手な人間の醜悪を象徴するものでしかないと片付けるのはあまりにも容易すぎた。
「あほか、生きてるじゃん」
グリーンの競争相手である目前の少年は文字面だけ見るとぶっきらぼうな言いぐさにも気分を害する様子もない。グリーンはいつものように喧嘩を売ることもなく、透明になった魂がすり抜けるように少年レッドの懐を通り過ぎていく。背中をそっと突き刺す視線が痛い。
グリーンのラッタは亡くなった。
原因は、端的に言えば過労だ。ポケモンバトルの最中、敵のオニドリルのドリルくちばしに吹き飛ばされた後、戦闘不能になった。戦いはそこで決着した。だが、トレーナーが去った後も手足がぴくぴくと微弱な動きを見せるのみで、青ざめた顔でグリーンはポケモンセンターに駆けこんだ。ジョーイから臨終を告げられたのは、明け方のことであった。
前兆はハナダシティの時点で既に見られた。その時、グリーンは連戦連勝を重ね、文字通り勝利の街道を突き進んでいたのである。しかし、高齢なラッタにとってはそのバトル一つ一つが、少しずつ命を蝕まんとする重荷と化していた。ジムリーダーのカスミはラッタの身を案じてか忠告を促すも、グリーンはまるで聞き入れず、気にも留めず、ひらひらと手の平を軽い調子で振り回しながらジムを後にした。
ポケモンフーズの皿を置いても、さっぱり口にしないものだから、恐らくこの味に飽きたのだろうとグリーンは思った。グリーンは、ただの茶色い固体が何故ポケモンにとっておいしく栄養価の高いものであるか理解出来なかった。こんなものを食わされていれば、いい加減飽食状態にでもなるだろうと。彼は生まれた時点にして、ある程度の地位を約束されていたため、毎日おいしい食事にありつくことは容易だった。雷雨の中、前歯で敵を狩り、まずい肉を食らってきたコラッタの生活になど思い馳せる発想さえ持ち合わせていなかった。そんな生活をしてきたコラッタからすれば、ポケモンフーズとは至上の食べ物と言っても差し支えなかった。
また、ラッタはだんだん息をするのが苦しそうになった。モンスターボールの中は、口から吐き出される二酸化炭素のせいで曇っていたこともある。グリーンは心配といえば心配だったが、彼はそれよりもクチバジムの電撃ポケモンをどうやって攻略するかに頭を巡らせていた。
俺は無責任で最低なトレーナーだ――グリーンは自嘲する。ポケモンリーグチャンピオンを目指すと豪語したくせに、道中で己のポケモンの限界に気付かず、挙句死なせてしまった。
グリーンはベンチに座りながら、光一筋さえ差し込むことのない曇天を虚ろな目で見つめる。何も言わず動かない曇り空の大きさに、ふとグリーンは言いようのない身震いを感じた。この町の何物も、彼に救済の余地を与えてはくれない。
『 紫苑に響け、追憶の音色 』
青ざめた顔で、周りをきょろきょろと見渡しながら歩く人々。人間の顔色をうかがいながらそろそろとついていくだけのポケモン。彼は噴水の前に腰掛けているが、後ろで沸き立つ泉さえ無機質な日々を繰り返しているように思われて仕方ない。
グリーンは決意した。この町にいては、自分が自分でなくなってしまう。一刻も早くシオンタウンを後にし、ラッタのためにもチャンピオンになるという夢の続きへと踏み出さねばならない。彼はナップザックを背負い直し、ベンチから起き上がる。息を少し吸って、鋭く吐き出す。
「お前さん、もう行くのかい?」
見れば、老人とカラカラがそこにいた。グリーンは話をしたこともない老人に知ったような顔をされるのが不快で、悪態を突く。
「そうだよ。見りゃわかんだろ」
「そうかそうか。それは失礼したのう」
ただでさえ機嫌の悪いグリーンにとって、この老人の穏やかかつのんびりとした語り口調は余計癪に障るものだ。その場にいたら暴走族でも絡むのを躊躇いそうな顔つきで、グリーンは町から逃げるように背を向けた。
グリーンは現在、四つのバッジを所持している。グレーバッジ、ブルーバッジ、オレンジバッジ、レインボーバッジ。残すはセキチクのピンクバッジ、ヤマブキのゴールドバッジ、グレンのクリムゾンバッジ、トキワのグリーンバッジだ。彼はトレーナーとしての確かなる実力と才覚を有している。だからこそ、ここまで突き進んできた。才能のない者は大方クチバシティ辺りで力尽き、己の無力を痛感し、故郷に帰るのだ。
彼はポケモンを均等に育てるのが上手である。だからグリーンのポケモンは皆しっかりと鍛えられており、ジムリーダーのポケモンと比べても遜色ないほど強者の風格を醸し出している。だが、タマムシジムのエリカに言われたことが、今も彼の胸に引っかかっていた。
――あなたのポケモンバトル、拝見しました。どのポケモンも大変よく育てられています。あなたはこれまでのトレーナーの中でも群を抜いた強さです。それでも、あなたのバトルに、私を惹きつけるものはありませんでした。あまりにも、趣がないのです――
グリーンは全てが満ち足りていると信じて疑わなかったため、エリカの言葉を説教の如く受け取り、大層機嫌を損ねてジムを去った。エリカの弟子たちが彼の態度に悪態を突くところ、エリカがおやめなさいと制止するのが去り際に聞こえた。勝者なのに自分がみじめなのは、どうしてだろうとグリーンは感じた。
次に目指すジムとしては、ここからならセキチクシティが最も近い場所にある。恐らく、このままジムを順調に勝ち抜いていけば、グリーンはポケモントレーナーの頂点に君臨する者達に挑戦する権利を得るだろう。マサラの応援、その期待にはまず応えることが出来る。彼の成長度からしても、それは思い上がりではないことは確かだ。
だが、グリーンは何かが気に食わず、物足りなかった。あらゆるトレーナーを打ち負かし、時にはグリーンの強さにひれ伏す者さえいたというのに。ジムリーダーには毎回的確な対策をしてから挑む。すると、驚くほど簡単にバッジが手に入る。ポケモンバトルの基本は相性だ。ほのおタイプにはみずタイプを、くさタイプにはひこうタイプを、はがねタイプにはかくとうタイプを。そうだ、基本を忠実に守れば、何も恐れることはない。カントーの半分を制したといえるグリーン。そんな彼が、未だかつて一度として勝てたことのない相手がいる。
マサラタウン出身の、レッド。
赤い帽子を深々と被り、いつもピカチュウを肩にのせている。グリーンは何度も何度もレッドとバトルをしたが、絶対に勝つことが出来ない。だが、バッジの数では常に自分が上を行っているのだ。それにポケモン図鑑の捕獲数だって勝っている。単純にポケモントレーナーとして見た時、どちらが優れているかは火を見るより明らかである。そのグリーンは、レッドに勝てたことがない。今までも、そして恐らくは――これからも。
勝負を挑んでくる者達を、凄まじい剣幕で薙ぎ払う。いつになく気合の入った指示に、カメックスも驚いている。オーキド博士から譲り受けたゼニガメが最終進化したポケモン、グリーンが最も頼りにするチームのエースである。カメックスが一度甲羅に入れば、敵のストライクの刃はこぼれ、ドードリオの嘴は折れる。今も、粘着して動きを封じようと試みたベトベトンと戦闘を繰り広げている。
「ベトベトン、そのまま飲み込んでしまえ!」
グリーンは焦ることなく、カメックスに大砲を突き出すよう指示する。カメックスの甲羅から相当の長さを誇る大砲が伸び、ベトベトンは大砲の部分だけ盛り上がるという不格好になった。
「そのままハイドロポンプで撃ち抜け!」
「しまった! ベトベトン、まも――」
判断と指示が遅すぎる。
まもるは、即効性のある技だが、障壁を展開するには指示からおおよそ五秒以上の時間を必要とする。カメックスが大砲を伸長させた時点で、十八番とするハイドロポンプが来るであろうと予測し、まもるを指示すれば、反撃のチャンスを取り返すことが出来ただろう。敵の愚かさに笑いながら、グリーンはトレーナーらしい獰猛な顔つきで、勝利を確信する。
「まだだ。とける!」
「なに!?」
ベトベトンは地上と一体化し、カメックスの足を拘束する。無論、ハイドロポンプは草むらを撃ち抜く不発に終わる。辺りがえぐられるのを見て、ベトベトンを使いこなすトレーナーはあれが当たっていたら戦闘不能を免れなかったと冷や汗をかく。一方のグリーンは、指示が上手く決まらなかったことに苛立ちを隠せない。
「なにやってんだ。そんなのさっさと振り払え!」
「どくどくで畳み掛けろ!」
ベトベトンはまたもや身体に絡み付くが、今度は違う。大砲に自ら噛み付き、毒を体内へと発射しているのだ。自殺行為だ、グリーンは思った。だが、カメックスが呻き声をあげ、苦しそうにもがき出す。ベトベトンは付いて離れない。やがて体内を侵食する毒に屈し、カメックスは地に伏せる。その不様な状態では、最終進化の威厳もどこかへ消えてしまったようだ。ベトベトンは苦しむカメックスにとどめを刺そうとじりじり追い詰める。完全に主導権は敵へと移った。たった一時の判断ミスが、グリーンとカメックスの死を呼び寄せたのだ。
「負ける? このオレが……」
カメックスは歯を食いしばりながら、グリーンの方を見る。早く指示を、でなければ負けてしまう、という思いを込めて。だが、カメックスの望みとは裏腹に、グリーンは一切の指示を出そうとはしない。訝しげにしながら、挑発を交える敵。
「勝負を捨てたか? まあいい、ベトベトン。のしかかりだ!」
ベトベトンが圧力をもって、カメックスの装甲を打ち砕かんとする。喉の奥から辛うじて絞り出される声色が、ポケモンバトルの過酷さを物語る。グリーンはなおも指示を出さない。自分のポケモンが窮地に陥っているのにもかかわらず。
「お前、真面目にやれよ!」
「ラ……」
「はあ?」
「ラッタが……」
「ラッタ?」
グリーンの言葉を聞くや否や、カメックスがベトベトンを持ち上げるようにして立ち上がる。トレーナーの指示なくしてこれだけの威力を誇る怪力に、敵は顔を引きつらせる。カメックスは目を血走らせ、空気を咆哮によって震わせる。それまでのカメックスとは別の何かが乗り移ったようで、ベトベトンもトレーナーもなすがままに圧倒されていた。カメックスは体内の水分を絞り出し、ハイドロキャノンに凝縮。巨大な水の塊を発射し、浴びた毒物までも一挙に押し返す。それまでの苦戦が嘘かと思うほどベトベトンは吹き飛んだ。草をも薙ぎ払い、ベトベトンはメタモンが横になったように力尽きる。慌てて、トレーナーは健闘したポケモンへと駆け寄っていく。カメックスの背中は、いつもより大きく見えた。
「お、おい!」
カメックスは静止すること数秒、銅像が倒れるように重心を失う。それを支えたのは、トレーナーたるグリーンではなく、金髪の老婆だった。
「相当弱ってるね」
「なんだよお前!」
「年上に向かってお前はないだろう。そんなことより、早くポケモンセンターに連れて行くよ。あのベトベトンは大丈夫だろうが、こっちは重傷だ。ちょっと無理をさせすぎだね。ここからならシオンの方が近いかねえ」
「だから、いきなり……」
「カメックスが取り返しのつかないことになったら、どうするんだい!」
グリーンは老婆に叱られ、納得いかずも、まずはカメックスをモンスターボールに戻す。もう二度と立ち寄りたくないと思っていたシオンタウンへこんな風にして戻るとは、甚だ皮肉なものである。
*
グリーンともう一人のトレーナーのバトルを観戦していた老婆の助けにより、カメックスは事なきを得た。ジョーイによると、ベトベトンの強力な毒を仕込まれたカメックスは、もう少し遅ければ大変なことになっていたという。幸い自力での除去が功を奏し、体内の毒は残り僅かであったため、摘出にはそれほど苦労しなかった。シオンタウンのベンチで、老婆とグリーンはポケモンが回復するのを待つ。室内にいても悶々とするだけなので、少しでも外の空気を浴びたいというグリーンの希望に沿う形である。しかし、シオンは内も外も陰鬱とした雰囲気が充満しており、寸毫の違いもない。この町の住人は、お互いに疑いながら生きているように見える。
グリーンが思い詰めているにもかかわらず、老婆はケタケタと笑う。
「危ないところだったねえ。でも助かって良かったじゃないか」
良かった、か。その一言で済ますには、事は重大すぎる気がしていた。彼は膝の上で手を組みながら、厳しい目線で地平線を睨む。丁度、イワヤマトンネルの複雑な地形が視界をゆらゆらと漂う。
「アンタ、ずいぶんと乱暴なバトルをするもんだ」
「見てたのか」
「おうともさ。あれじゃあ、ポケモンは大変だねえ」
カスミやエリカと似たようなことを言う。みなそうだった。自分の強さを認めはするが、果たして彼がトレーナーとして真にふさわしき志を抱いているかと問われれば、首をかしげる。
では、最強のポケモントレーナーになるための条件とはなんだ。グリーンはラッタが死んで以来、無意識に自問自答するようになっていた。同時に、ポケモンに思いやりを見せることは、強さへの妥協――すなわち甘さに繋がるのではないかとも考えている。
「オバサンに何が分かるんだよ」
「分かるさ。あたしもバトル歴は長いからねえ」
同じ椅子に腰掛けながら、グリーンと老婆は対照的だ。老婆は思いついたように言葉を発し、沈黙を破る。
「さてと。アンタ、何か飲むかい?」
「んな気分じゃねえよ」
こんな時に飲み物など飲んでいられるか。老婆の浅慮を戒めるべく、グリーンは鋭い眼光で睨み付けるも、至って穏便に返されるのみだったので、拍子抜けしてしまう。
「こんな時だから、トレーナーが元気でいなきゃ駄目なのさ」
「意味わかんねえよ」
「まあいいさ。ところで、あたしはちょっとこの町に用があるんだ。嫌じゃなかったらアンタも着いておいで」
「誰が行くか」
憎まれ口を叩くと、老婆はやれやれと彼を責めるのではなく、仕方ない子だと微笑するような目つきで納得し、そのまま杖をひきずって町並みに溶け込んでいった。
グリーンはしばし黙考する。自分はあの時、どうして指示が出来なくなったのだろう。結果としてカメックスがベトベトンを倒せたから良かったものの、あんなものは勝利と呼べない。最強のポケモントレーナーに求められるものは、いつ、いかなる時も動じない精神、約束された実力、能力の高いポケモン。この三つだ。グリーンはその全てをほしいままにしている――今までそう信じていた。今日のバトルは最後こそ危なげだったが、何とか勝利を収めることが出来た。日頃の育成が間違っていなかったからだ。
「オレが負けるはずないんだ」
拳を固く握り締め、ふと首をもたげる。目に入るのは礼拝塔だ。通称、ポケモンタワー――眠れる魂のために安らぎを祈る場所。ラッタも今は、あそこで何者にも邪魔されることなく、良い夢を見ているだろうか。グリーンは亡骸に思い馳せ、そして回復の頃合いを見計らってポケモンセンターへと戻る。
あれから老婆は、行き場を失ったポケモンを引き取る老翁の家を訪れていた。ここは、諸々の事情が入り混じったポケモンの傷を癒すボランティア施設である。亡くなったポケモンを悼み、はたまた虐待を受けたポケモンを引き取り、親と生き別れたポケモンの世話をするなど、活動内容は多岐に渡る。共通している部分は、どれも一匹では生きていけなかったポケモンの力になるという信念を掲げているところだ。応接間で、静かに言葉を交える責任者と老婆は、どちらも深刻そうな顔つきである。
「ポケモンタワーは今、どうなってるんだい」
「幽霊が出没するようになって、上階はすっかり人が立ち寄れなくなってしまったよ。一応、二階までは参拝可能にして、手を打ってあるが……時間の問題だ」
老婆は一層背もたれに身を預け、まっさらな天井を仰ぐ。事態が芳しくないことは、彼らの面持ちから推測するに難くない。
ポケモン達は、ボランティアの人々と遊んでいるようだ。追いかけっこに熱心なガーディから、心地良い歌声を響かせるプリンまでいる。どれも人間の傲慢によって捨てられたポケモンたちであると思えば、素直に喜ぶべきか否かは悩ましい。
「それで、あたしを呼んだってわけかい」
「すまないねえ、キクコ」
「あたしとアンタの仲だろう。それに、この地方で一番ゴーストポケモンを知っているのはあたしだからねえ」
「そういう気の強いところは、昔から変わらんね」
「まだまだ若いのには譲らんよ」
軽い冗談を交えながら談笑する様は、二人の親交が何年も続いていることを示す。そんな折、来訪者の到来を告げるベルが鳴る。老翁が扉を開けると、そこには見覚えのある顔が覗く。
「ちーっす」
「やっぱり来たね」
「おお、お前さんは確か……」
「グリーンだ」
可愛げのないしかめ面で、グリーンはボランティアハウスに入る。親から捨てられたポケモンが集うと聞いてやって来たが、みな悲嘆に暮れているのではなく、新しい生活を満喫している。老翁は察したように語りかける。
「みんな良い顔をしているだろう。ここはのう」
「知ってるよ。捨てられたポケモンを……引き取ってるんだろ」
「そうだ。どれ、君も少し座らんかね」
老翁に逆らえぬまま、グリーンは席を用意される。頬杖をついていると、レイナという少女がお茶を差し出し、またポケモンの相手に戻っていった。緑が波打っておりいかにも美味を感じさせるが、冷たく凍り付いた彼の心をほぐすことは出来そうもなく、飲む気も湧いてこない。
「お茶は嫌いかね?」
「いや、うちのジイさんが好きだからよく飲まされたよ」
そう言って、グリーンは軽く口につける。すると、僅かに流し込んだ液体が温かみをもって体中に染み渡る。渇き切っていた喉を潤し、全身が癒しを求めるように次なる一滴を欲する。本能に任せていると、やがて舌に絡み付く熱が彼を焦がしそうになった。
「あっつ!」
「馬鹿だね、一気に飲むからだよ」
「ってか、なんでアンタがここにいるんだよ」
「グリーンくん、この人はね……」
「そんなことより、ポケモンタワーのことはどうするつもりだい。このままってわけにもいかないだろう」
グリーンはこの場で一番偉そうにふんぞり返りながら、尋ねる。
「ポケモンタワー?」
シオンタウンを取り巻く状況を、老人フジは懇切丁寧に説明してくれた。まず、ポケモンタワーは現在、上階が立入禁止である。原因不明の幽霊がトレーナーに危害をもたらすためだという。何人かは幽霊を見たことで気絶し、病院へ運ばれた。
「ハハッ、幽霊なんて迷信だろ。作り話にしては出来過ぎだっての」
自信満々に笑い飛ばすグリーンに反応して、先程の少女が話に加わる。
「あはは、そうよね! あなたの右肩に白い手が置かれているなんて……あたしの見間違いよね」
「ふっ、ふざけんなよ!!」
椅子からひっくり返って、取り乱すグリーン。そんな様子が周りに見られたことに気付き、顔中赤面する。一同はポケモンを含め、面白そうに笑っている。まるで、冗談を言い合えるような新しい友達を見つけた時のように。
「笑うんじゃねえ!」
机にしがみつくグリーンに対し、キクコは諭すように語る。
「グリーン。アンタが信じようが信じまいが、確かに幽霊は存在するよ。ゴーストポケモンとは違う、別物の類だがね」
「オレは信じないからな……」
閉ざされた空間に少しばかり笑みが広がったところで、本題に戻る。キクコはゴーストタイプのエキスパートである。よって、今回の件に要請を受けたのだ。グリーンはキクコをまじまじと見つめて、いかにも祈祷師が似合いそうな容姿だと思う。きっと悪霊祓いなどをするに違いない。
「それで、一つ頼まれてくれんかのう」
「アンタはいつも頼んでばかりじゃないか。これ以上何を頼まれても変わらないよ」
「あそこにいる、カラカラのことなんだが」
「カラカラ?」
グリーンは怪訝な表情を浮かべる。ポケモン図鑑をあらかた埋めて来た彼だが、カラカラには未だ旅路で出会ったことがなかった。或いは取り逃がしたか。いずれにせよ、今は些細な失敗ですらグリーンを苛立たせる。
「おいで」
カラカラは、骨を被ったじめんタイプのポケモンである。フジ老人に言われると、おずおずと頼りなく頷き、ぎこちない足取りでこちらに向かって来る。警戒しているのだということは、その場にいれば誰もが分かることだ。グリーンはシオンを去ろうとした折、フジに付き添っていたカラカラのことを思い出す。
「ああ、お前! さっきジイさんと一緒にいたな」
「わし以外には懐かなくてのう」
言って、フジ老人はカラカラの頭部をそれはそれは優しく撫でる。喉元をくすぐられ、カラカラは気持ちよさそうに鳴く。
「この子は、ここにいてはいかん」
「引き取って欲しいのかい」
「ああ。でもキクコはポケモンがいっぱいだろう」
「それに、あたしには懐かんよ」
「それもそうだな」
意味ありげに断りを入れるキクコ。グリーンが訝しげに見つめていると、カラカラは彼の足元に擦り寄る。一本のふといホネを大事そうに持って、人に近寄る時でもそれを手放そうとはしない。興味本位で触ろうとすると、カラカラは拒絶するようにグリーンの手を跳ね除ける。
「なにすんだこいつ!」
「グリーンくん。そのホネは、お母さんの形見なんじゃよ」
「え……?」
グリーンとキクコが、フジ老人に驚愕の眼差しを向ける。ホネを守るためにうずくまるカラカラをあやしながら、一拍置いて事の経緯を語り始める。彼らは今までよりも静聴の姿勢をとった。
「このカラカラは、お母さんのガラガラを殺されたんだ」
「誰だ。そんなことした奴は」
いつになく語気を強めるグリーンを、見上げるカラカラ。彼の瞳は、これまでにない感情と秘めたる炎を灯す。
「ロケット団じゃよ」
ロケット団。各地でポケモン強奪や密輸などの悪事をはたらく。例えば絶滅危惧種に認定されたポケモンの乱獲、裏社会への根回しや支援など、不穏な噂には枚挙に暇がない秘密結社だ。
「このカラカラは、ポケモンタワーから逃げ出して来た」
グリーンとキクコが言葉を失うのは無理もない。そして、ラッタを失ったばかりのグリーンには似通っており、辛い話でもあった。カラカラは自身にとって大切な存在を失くしたのだ。それも、他人の手で葬られることによって。
一定の歩幅を保ちながら、グリーンとキクコは黙って町を巡る。二人の歩く速さには差があるので、キクコが視界から消える度に、グリーンは意識がなく、死んだような蒼白で、機械的に一時操作を中断したと言わんばかりに待っていた。
「悪いね。歳は取りたくないもんだ」
「ああ、そうだな……」
カラカラは、ひとまずグリーンが預かることになった。お互いどう接して良いかが分からず、ぷいとそっぽを向いている。キクコを待っていると、手の甲に一筋の水が流れているのを発見する。まもなく曇り空からぽつぽつと降ってくるのが予想出来た。だんだん靴も濡れ始めたので、カラカラを戻そうとボールを向ける。だが、グリーンは躊躇った。カラカラが塔を見据える時、あまりにも凛々しい姿で起立しているからだ。頭部のひびを雫が伝う。ホネを持つ手が震える。グリーンもキクコも、カラカラを黙って見守っていた。しかし、その輪郭は揺れが激しくなり、気のせいかと思った次には倒れる。グリーンはすぐさま飛び出し、カラカラの身体を揺さぶる。水に打たれながらも、炎のような熱さをもっていた。
「カラカラはお母さんを亡くしてから、ずっと抱え込んでいたんだろうねえ」
ポケモンセンターには、次の診療を待つポケモンやトレーナーが列を作っている。グリーンはタオルで濡れた髪を拭きながら、キクコの言葉に耳を傾ける。カラカラの境遇を聞かされる内、つまらない意地を張るのはやめようという心がグリーンの中に芽生え始めていた。誰かにラッタのことを告白しなければ、このまま自分もカラカラと同じく、死に対して塞ぎ込んでしまうだろうと思ったのだ。
「……オレも、自分のポケモンを死なせちまった」
「なんとなく、そうじゃないかと思ったよ」
「分かるのか!?」
「さっきも言ったが、あたしはゴーストポケモンの使い手だからねえ。そういうのには割と鋭いのさ」
グリーンは最初から見透かされていたのかと思うと、急に恥ずかしくなった。子供が知恵を必死に巡らせて考えたことが、実は大人からすれば他愛もないことだったように。だが、逆に少しずつではあるが本音を吐露させるきっかけにもなったのだ。
「さっきのバトルも、ラッタのことを思い出して……。あいつのこと、ちゃんと見てやれなかった。だからあいつはいなくなっちまった。オレは、駄目なトレーナーだ」
グリーンの視界が歪む。少年らしさを取り戻した横顔を、キクコは優しい態度で見つめていた。
「今のこと、ちゃんとラッタには言ったかい」
「……言ってない」
「そんなら言いな。ちゃんと謝るんだ。それに、ラッタだって最期までついてきたんだろ。きっと、アンタのことを恨んでるわけじゃないと思うよ」
涙を拭って、グリーンはゆっくりと頷く。キクコはまんざらでもなさそうに、皺を広げながら口元に笑みを浮かべる。その時、グリーンはこの老婆の存在に感謝すると共に、カラカラとポケモンタワーに行き、もう一度けじめをつけることでしか、自分が前に進む道はないと確信する。
*
カラカラが回復してから、グリーンとキクコはポケモンタワーに入る。二階の墓石の中からラッタの埋葬されている箇所を探すのは、そう時間がかからなかった。キクコも共に祈りを捧げてくれた。グリーンは、まずバトルの途中でカメックスが追い詰められる場面にラッタの死を重ねてしまったことから切り出して、今までラッタの声から目を逸らし、トレーナーとしての責任を果たせなくてすまなかった、という旨を語る。一通り話終えると、心は少しだけ軽くなったような気がした。カラカラが前に進み、ホネをそっと置くと両手を合わせる。
「ありがとな」
カラカラは頷くと、またホネを拾い上げてそそくさと隠れる。恥ずかしがり屋なのかもしれない。さて、次はキクコの用事を済ませる番である。しかし、老婆は今までの強気な態度を潜め、グリーンを突き放す。
「ここからはあたし一人で行くよ。アンタは旅を続けな」
「ちょ、ちょっと待てよ。なんだよいきなり。ここまで着いて来ただろ!」
「上から嫌な霊気が伝わって来るんだ。アンタじゃ飲まれちまうかもしれない」
ゴーストポケモンに長けているというキクコが言うなら、間違いはないのだろう。このポケモンタワーで異変が起こっていることは確かなようだ。しかし、キクコの思惑とは裏腹に、グリーンは一向に引き下がろうとしなかった。カラカラもその場を動こうとはしない。
「嫌だね。オレも行く」
「まったく聞き分けの悪いガキだね。あたしは頼んでるんじゃない。警告してるんだよ」
「カラカラだって、ずっとポケモンタワーを見てただろ」
キクコは困ったように腕を組む。グリーンには何を言っても通用しなさそうだ。このぐらいの子供は自分の言ったことを決して曲げようとしない。そして、逃げることを勇気ではなく恥だと感ずる。
「分かった、着いてきな。ただし、あたしが危険だと言ったら逃げる。指示には従う。いいね」
「わーったよ」
嬉しそうに綻ぶグリーンの顔を見て、キクコもまた強張っていた表情を崩す。二人のやり取りを、カラカラはじっと見つめていた。
彼女がフジの頼みで、と言うと、何故か見張りは恐れ戦いたように道を開けるが、グリーンはこの老婆が人間として尊敬するところを有する人物であっても、あの反応はいくらなんでも大袈裟すぎると感じる。
さて、キクコの予感は正しかった。未開の地に足を踏み入れるなり、寒気の応酬という歓迎が待ち受けていた。キクコは思わず顔をしかめる。霊感のない者であっても、それまでの礼拝塔とは風変りしたことがうかがえる。それは、まもなく襲来という形で表れる。
「……ギ……グググ……ッ……!」
「ええい悪霊め! ……うわっ! ヘゲ……ケケーッ!」
ガスじょうポケモンのゴースを繰り出す祈祷師に、グリーンとカラカラは一歩退きたい恐怖に駆られる。人気のない場所で突然奇声を上げ、何かが乗り移ったように萎びた手を無理矢理動かすと、ポケモンに指示を出すのだ。グリーンは既に泣き出したい気持ちになっていたが、カラカラがホネを突き出して攻撃するのを見て、ベルトのモンスターボールからユンゲラーを繰り出す。エスパータイプのユンゲラーならば、毒ガスを纏うゴースには十分応戦可能だ。キクコはゴルバットを繰り出し、それぞれ戦いに赴く。
「いいかい、ゴースは倒しても、ガスを操って足掻いてくることがある。ガスへの攻撃をしても無駄だよ。顔の部分に、ちょっと気絶させるぐらいの技を浴びせておやり」
キクコのアドバイスは大変的確である。伊達にゴーストポケモン使いを名乗っていない。ゴースの挙動を見るだけで、次に何の技を使って来るのか分かるので、グリーンほどのトレーナーが一手も二手も先を読むことは容易だった。更にはキクコ自身の技術も見上げたもので、吸血しか使わないゴルバットのイメージを根こそぎ覆される思いだった。知り尽くしたポケモンにもまだまだ知るべきところがあるのだとグリーンは痛感する。こんな状況であってもキクコをトレーナーとして見ることで、戦ってみたいと思う気持ちが沸き立つのを、まだ本人は気付いていなかった。
ゴースを倒すと、祈祷師は憑き物がとれたように我へと帰る。彼らは決まって自分のしたことを覚えていなかった。そして、幽霊の存在を示唆するのだ。それはより上の階へと向かえば向かうほど、顕著な傾向になる。
六階から七階へと進むための階段を上ろうとした時、それは起こる。戦いに疲れ、肩で息をしていたカラカラが死角から水を浴びたように驚く。
「どうした……?」
「……タチサレ! ……ココカラ タチサレ……」
「グリーン! カラカラ! 油断するんじゃないよ」
これまでゴースやゴーストにも臆することのなかったキクコが目を剥く。グリーンはこれまでとは比較にならないレベルのゴーストポケモンが現れたのだと思い、ユンゲラーを差し向ける。しかし、ユンゲラーは言うことを聞かない。グリーンは怪訝に思う。
「どうした、ユンゲラー……?」
顔を覗き込むと、ユンゲラーは怯えている。瞳孔を開き、目の前の黒い影に怯えている。キクコのゴルバットも制止している。ただ、その場でカラカラだけが何かを語りかけようとしていた。幽霊に説得が無駄なことなど、今までの戦闘で思い知らされたはずだ。だが、雨の中ポケモンタワーをしかと見据えるカラカラが脳裏に蘇り、無理に幽霊から引き離そうとする警戒心をグリーンの中から失わせた。
カラカラは渦巻く黒い障壁に対して、鳴き声をあげる。それを見て、キクコはグリーンに想定されるであろう事実を告げる。
「あの幽霊、お母さんなんじゃないかね……?」
「まさか……」
カラカラの小さな背中を、穴が開く程見つめるグリーンとキクコ。最上階への道を塞ぐ幽霊とカラカラは、まるで対比すれば親子のような大きさだ。
「……タチサレ……タチサレ……タチサレ……タチサレ……タチサレ……タチサレ……タチサレ……タチサレ……タチサレ……タチサレ……タチサレ……タチサレ……タチサレ……タチサレ……タチサレ……タチサレ……タチサレ……」
気が違ったように連呼する幽霊。カラカラの声は届いていない。おぼろげではあるが、幽霊の輪郭はカラカラをより逞しくしたようなものへと変化していく。幽霊の正体はガラガラだった。これにはキクコも言葉を失う。
「カラカラ……」
ガラガラは目の焦点が定まっておらず、カラカラのことが見えていない。カラカラは母親の実体が健在ならば、すぐにでも抱きつきたい気持ちに駆られただろう。だが、それは叶わない。こうして幽霊として現れ、人々に憑依し、腹の底から憎々しげな唸り声を響かせることが、何よりもうガラガラは戻って来ないのだということを証明している。グリーンはどうすればいいか分からない。キクコもまた分からない。カラカラの鳴き声が何度も何度も塔に反響しては自身に跳ね返り、願いは空しく虚無へと吸い込まれる。カラカラはしばらく幽霊を見上げて、心に決めたようにグリーン達の方へ振り返る。瞳はなんとも悲しげな光をたたえていた。
――楽にさせてやってくれ――そんな風に伝えようとしているのだ。グリーンは初めて、ポケモンの心の叫びをまともに聞く。そして、カラカラが求める助けに応えようと思った。
「オバサン……」
「……仕方ないね」
ガラガラの幽霊は何もしてこない。ただ、立ち去れと繰り返すのみだ。グリーンは最終的な判断をキクコに仰ぎ、彼女は幽霊の怒りを鎮めることを選んだ。ユンゲラーの光線が黒い靄を撃ち抜き、ゴルバットの翼が実体のない魂を引き裂く。カラカラは母親の怨霊が力を失って、小さくなっていくのを黙って見届ける。グリーンは指示をする中、またしても前が見えなくなっていた。そして、ただポケモンに指示をして、戦っている気になっていた頃の自分が、いかにポケモンからは遠い線に立っていたかを思い知る。思えば、彼の好敵手であるレッドは戦闘不能になったポケモンにすぐ駆け寄っていた。
やがて、幽霊を取り巻いていた黒い靄は晴れ、カラカラの望んでいた顔が現れる。笑っていた。悲しみを伴った笑みにも見える。佇むカラカラに、キクコが優しく声をかける。
「カラカラ、お母さんの方へ行っておやり」
カラカラはガラガラの下へと駆け寄る。幽霊の正体は、カラカラのお母さんの迷える魂だった。優しいカラカラのお母さんに戻った魂は、無事に天に昇って、消えて行った。
「オレ、何も分かってなかった。ポケモンのこと、何も」
「これから、知っていけばいいんだよ」
カラカラは階段を踏みしめながらも、ガラガラがちゃんと天国へ辿り着けたかどうか、案じているようだった。
*
最上階に辿り着くや否や、無粋な喧騒が余韻を壊す。そこには、数人の黒装束とフジ老人がいる。たまらずキクコは驚き、声をあげる。
「フジ!? アンタ何やってんだい!」
しかし、その問いに答えるのは、二人ほど違う制服を着ている者がいるが、その中の一人。緑髪が特徴的な大人である。おおよそ、組織において相当の地位を与えられた者だろう。
「このおじいさんは、ロケット団アジトに来るなり、ポケモンをいじめたり殺したりするなってうるさくて。ここで大人の話し合いをしていたところですよ」
「何が大人の話し合いだ。アンタ達のせいで、沢山のポケモンや人が悲しんでるんだよ!」
キクコは苛立ちを全く隠さず、ロケット団の幹部の方へと大股で歩いていく。周りは口やかましい老婆が戯言を吐いているようだと、難聴のふりをしてせせら笑う。幹部と思わしき人物の一人はわざとらしく手を叩き、作り物の敬意を表する。
「これはこれは、四天王のキクコ様ではないですか。はるばるセキエイ高原から御苦労様です」
グリーンは思わずキクコを二度見する。言われた本人は少しも嬉しくなさそうだ。四天王といえば、ポケモンリーグを守る最強のポケモントレーナー集団だ。グリーンはこれまでの言動に納得せざるをえなかった。グリーンの悲しみを察知したのも、ゴーストタイプの扱いに長けていたのも、全身から溢れ出る自信も、只者ではないと感じたのも、キクコの人間性に加えて、四天王という確固たる称号がより説得力を付加させている。
「うるさいね。そんなことはどうでもいいんだよ。さっさとここから出てお行き」
「私達を脅しているのですか? 申し訳ありません、生憎それは出来ない相談ですね」
ロケット団は全く立ち退く気配を見せない。これからここは自分達の家だと言わんばかりの傲慢さを余すことなく発揮する。フジとキクコは顔を見合わせると、目で合図する。しかし、その前につかつかと歩み出てきたのはこの場で唯一の子供である。
「グリーン、やめるんだ!」
「カラカラの母さんを殺したのは、アイツらだろ!!」
グリーンは少年のあどけない顔が歪むほど歯軋りする。ロケット団員はグリーンの尋常ではない怒号を前にして、底意地の悪い大人の本領を見せ付ける。
「誰だ、それ?」
「そんな奴いたかしら……」
グリーンは立ち尽くす。こいつらは、殺したポケモンでさえろくに覚えていないのだ。悲鳴を聞いているはずなのに、それをまるで聞かなかったかのように、ポケモンの声を無視している。すると、ロケット団の一人がカラカラを指差す。
「ああ、思い出した! お前、ここから怖くなって逃げだしたんだよな。今更になってノコノコ戻ってきたわけか」
黒装束の内輪で爆発的な笑いが生じる。これまで耐えて来たが、もう限界だ。グリーンの中の何かがはちきれそうになる。
「お前も。お母さんと同じ場所に行くか?」
「……な」
「ン?」
「ざけんなあああッ!!」
グリーンは無茶苦茶な体勢からボールを投げる。空から地に鋭い光が走り、それはポケモンの形を取る。現れたのは主人と同じく怒りに震えたガーディだ。カラカラとガラガラを侮辱した団員の一人が、舌打ちしてボールを放る。ガーディを飲み込んでしまいそうなほど巨大なアーボックが舌なめずりする。
「ガキが。調子に乗るな!」
しかし、緑髪の男は眉を潜める。その違和感の正体に気付けない団員は、そのままアーボックを差し向ける。とぐろを巻いたかと思いきや、口から溶解液を吐き出す。キクコはフジとカラカラを非難させる。カラカラは抵抗しながらも、キクコに諭されていた。
団員はガーディを仕留めたという実感を得て、にんまりと口を広げる。だが、すぐに彼は周りに醜態を晒すことになるのだった。燃焼した液が紫色の煙となって立ち上る。矢の如き刺々しい火炎に貫かれ、アーボックごと団員は吹き飛ばされる。炎でゆらめく中に見えるグリーンは少年ではなく、一人の戦士としてその場にあった。
「な、なんだあのガキ……!」
「アーボックを一撃で!?」
「くそっ! 次はオレだ!」
有象無象の一人がボールを手に取る。しかし、同じことだった。ボールからゴルバットが飛び出す瞬間、口内を焼き尽くすエネルギーが迸り、消し炭のようにひらひらと落ちて行く。その強さに、さしものポケモンマフィアたちも驚かずにはいられないようだ。幹部と思しき紫髪の男が口笛を鳴らして茶化す。これだけの戦いを繰り広げながら、四天王キクコの目にはグリーンが赤子にしか映らないようだった。
ロケット団員はすぐさまボールを構え、刺客を差し向けようとする。だが、一睨み利かせただけで彼らはおずおずとボールを戻す。緑髪の男が痺れを切らしたように前へ進む。彼は冷静を気取りながらも内心の苛立ちは隠しきれない様子で告げる。
「私がやりましょう。あなた達が束になっても彼には敵いません」
「グリーン、油断するんじゃないよ! いいね!?」
キクコの忠告に微動だにしないグリーン。聞いているのか、いないのか。老婆心ながらに心配する様子は、まるで本当の孫を見守るかのようである。
「うそ。ランス様が戦うなんて……」
「ランスはロケット団随一の冷酷な男だからな。あのガキはここまで頑張ったよ」
紫髪の男が面白そうなショーを見物するように、髭を摩る。ロケット団のランスと呼ばれる男は、それまでの団員とはボールの投げ方からして一線を画している。グリーンは目を見張る。何故なら、彼のボールから現れたのはまさしくユンゲラーの進化系と称すべき姿をしているからだ。
「大人の世界に口を挟んだこと……後悔させてあげましょう」
黒い帽子を深く被り、これから起きる惨劇を予告する。彼もまた戦う者の目つきをしていた。
ガーディは小手調べとばかり、猛る炎を浴びせる。塔内の温度が一気に上昇するほどの威力。瞬間、フーディンはスプーンを交差させたかと思いきや、障壁を作り出す。それはまるで光の壁のように見える。火炎放射はいとも簡単に受け止められた。フーディンに外傷はない。
「サイコキネシス」
ランスが命じると、フーディンは両手のスプーンを回転。ガーディは部屋中を旋回し、壁にぶつけられ、崩れ落ちる。グリーンはすぐさま次のポケモンを繰り出す。タマタマだ。エスパータイプとくさタイプを併せ持つタマタマならば、フーディンの攻撃を半減出来るという狙いの上だろう。キクコは呟き、カラカラは心配そうに見上げる。
「まずいね……」
「やどりぎのタネ!」
タマタマは飛び跳ね、種を撒き散らす。フーディンの身体中に絡み付いた蔦が各部を締め付け、吸血のように蝕んでいく恐ろしい技だ。これでフーディンの挙動を封じ、大技で決めようという策。グリーンの思い通りに事は運ぶ、はずがなかった。
「小賢しい」
フーディンは自力で蔦の監獄を折り曲げ、すぐさま念力の発動に転じる。タマタマはグリーンの頬をかすめたかと思えば、次には墓を粉々に砕き、その場で力尽きる。グリーンは戻す時タマタマに声もかけず、次のポケモンを繰り出そうとする。微かに震える自分の手を、痕がつくほど抑え付ける。苦しみと共に現れたのはユンゲラーだ。
「あなたも勝ちたければ、そのユンゲラーを進化させることですね」
グリーンは相手の挑発すら耳に入らないほど蒸気している。沈黙が面白くないのか、ランスは目元をぴくりと動かす。
「サイコキネシス」
「サイコキネシス!」
飛び交う指示。ユンゲラー対フーディン。軍配は刹那にして、進化系のフーディンに揚がる。グリーンは何も考えられないでいた。本来、力任せな戦法はグリーンが最も軽蔑するタイプのものだったが、忌み嫌う手法を自ら率先して取っていることが、どれだけ普段の彼を忘れさせ、強力な敵に立ち向かわねばならないのかという凶悪な事実を如実に物語っている。グリーンはまたしても労いの言葉をかけず、ピジョットを送り込む。
「ふきとばし!」
ピジョットは必死にはばたき、風を起こす。だが、フーディンは心地良い冷風を浴びるような余裕を見せる。
「グリーン! レベルが違いすぎるんだよ! さっきまでのアンタらしくない!」
「うるせえ……うるせえッ! ピジョット、もっとふきとばせ! もっとだ!」
ランスはほくそ笑みながら、ピジョットのもてる全ての努力を嘲笑う。その気になればいつでも殺せるから、今は泳がせているだけ――彼の表情は暗にそう言っているようだった。フーディンがスプーンを突き出すと、ピジョットは見えない衝撃に撃ち抜かれ、何枚かの羽を散らしながら地に伏せる。グリーンはとうとう項垂れた。
「少年、良いことを教えてあげましょう。諦めることも時には肝心なのですよ」
「黙れ……」
まともに動くことも出来ない身体で、グリーンはピジョットを戻す。次のポケモンを繰りだせないでいると、後ろからの叱咤が降りかかる。
「グリーンくん! 何故負けるのか分かるか? お前さんがポケモン達への信頼と愛情を忘れとるからだ! それではどんなに頑張っても勝つことは出来んぞ!」
それは、フジからの一喝。信頼と愛情はポケモンを甘くするものだと、初めからあてにはしなかった。だが、自分が何をしても勝てない男のバトルは、グリーンとは違う。戦法も無茶苦茶、育ても足りない。それなのに、戦っているポケモンは――とても楽しそうにしていた。勝っても負けても笑顔でいる。最後には決まって、彼はこう言うのだ。
――グリーン。良いバトルだったな――
「レッド……。オレは、間違っていたのか……?」
レッドと同じことをしても、勝ったことにはならない。他人の真似ごとでしかないからだ。自分だけにしかない強さが必要だった。それが最強のポケモントレーナーに必要な条件だと信じて疑わなかった。しかし、ラッタは死んだ。もういない。そして、勇敢にもランスのフーディンに立ち向かったポケモン達に対して、自分は何かをしてやれただろうか? 声もかけず、ただ目の前の敵を倒すことに囚われて、カラカラの仇を討とうとしていた。
まだ、ポケモンへの信頼と愛情というものが、具体的にどんなものかは、グリーンには分からない。彼はそういった感情からあまりにも離れすぎた。だが、キクコの言う通り、これから知っていくことは出来る。ポケモンを信じる、ということが、何を意味するのかを――。
「ゆけっ、カメックス!」
グリーンが一番最初に貰ったポケモン・ゼニガメの最終進化系。グリーンの負けたくないという闘志に呼応するが如く、咆哮は周囲を圧倒する。カメックスは、グリーンの方を振り向く。グリーンもまた笑みで返す。
「そうだ。それでいいんだよ」
キクコもフジもカラカラも、グリーンのバトルを一秒でも見逃すまいと目を凝らす。既にロケット団員はこの状況についていけない脱落者ばかりだが、ランスは一人だけ面白そうに、どうやって苛め抜いてやろうか思いを巡らせているようだ。
「それが、あなたの中で一番強いポケモンですか?」
「オレの、最初のポケモンだ」
「サイコキネシス!」
「ハイドロポンプ!」
超念力と水流がぶつかり合い、揉まれ合う。攻撃は相殺された。ランスが目を見張る。部下の前で失態を演じるわけにはいかないのだ。
「これは少々厄介ですね」
「その調子でやっちまえ! こうそくスピンだ!」
グリーンの中でずっと、ラッタを失った時からくぐもっていた感情が、少しずつ鮮明さを取り戻していく。カメックスは自身を甲羅の中に収め、激しい回転でフーディンを打ち倒さんとする。そうは問屋が卸さない。フーディンはまたも新たなる障壁を張る。今度は円状に開くバリアに近似している。
「リフレクターか!」
「御名答」
カメックスはそのまま跳ね返される。グリーンは分析する。打撃ではフーディンに勝てない、遠距離攻撃ではサイコキネシスが来る。なんとか活路を開くことは出来ないか。
「サイコキネシス」
「くそっ! ハイドロポンプだ!」
「そのハイドロポンプ、いただきましょう」
「なにッ!?」
フーディンは迫り来る水流を捻じ曲げ、カメックスの身体に命中させる。敵の技をも利用するサイコキネシスの真価に、グリーンはこんな戦い方があるのかと絶句する。これ以上、立ち向かう術を考えられないグリーンにランスが冷酷な言葉を投げかける。
「あなたがどんなに頑張ったところで、私には敵いませんよ。あなたは少し、大人の世界を甘く見すぎたようです。罰として――」
「グリーン! カメックスを戻すんだ!」
恐れを含んだニュアンスで、キクコが叫ぶ。ランスは快哉をあげ、両手を広げる。
「もう遅い!」
フーディンはサイコキネシスでカメックスを浮上させる。そして、圧縮するように――カメックスごとすり潰そうとするように、スプーンを押し付けていく。カメックスは嫌な悲鳴をあげる。それを見たグリーンは、途端に青ざめる。
「おい」
「あなたの大切なポケモンがどうなるか、そのまま見ていなさい」
「やめろ」
「私に歯向かったのだから、このぐらいは覚悟の上でしょう?」
「やめろよ」
「ポケモンなど草むらを探せば、いくらでもいるじゃないですか。また代わりを見つければいいのです」
「グリーン! カメックスを戻すんだ!!」
グリーンはカメックスを戻そうと、震える手を向ける。しかし、フーディンの念力がグリーンを彼方まで吹き飛ばす。カラカラがクッションとなったため、衝撃は和らげられた。グリーンはすぐ起き上がり、見世物にされたカメックスを案じる。
「あ……ああ……」
「しっかりおし、グリーン。カメックスを助けられるのはアンタなんだよ!」
いつだかも、こんな光景を見たような気がする。
あれは雨の日のポケモンセンターでのことだ。自転車を漕ぎながら、籠に乗せたラッタは小刻みに息をしていた。いつもより脈拍が速く、苦しみに悶えていた。ポケモンセンターに自転車を止めるところで焦燥感のあまり転んでしまい、泥が顔につく。そんなことには構わず、ラッタを抱えて、すぐに診てもらった。ジョーイは緊迫した面持ちで引き取ると、慌ただしく駆けて行き、すぐさま急患として治療が行われた。グリーンは窓ガラスに張り付く。ラッキーたちが色々の手段を尽くすのが見えた。薬を投与し、点滴を入れている。一向にラッタが良くなる気配はなかった。そして、明け方――グリーンはラッタの最期を看取ることなく、ジョーイから死亡を宣告された。
あの時の悲劇を繰り返すのか? 自分はまた、ポケモンを失うのか?
共に同じ夢を目指しカントーを駆けるポケモン達を、自分のちょっとした意地と我儘のせいで死なせる。それは取り返しのつかないことだ。いくら詫びても死んだ、死なせてしまったという事実は変わりようがないのだ。人はそれを受け止めて、その命の分まで生きていく。しかし、助けられたはずの命を見殺しにしては、グリーンはもう、二度と立ち上がれなくなる。それでも、グリーンではまだ打ち破ることの出来ない壁というものがある。
「……くれ」
頬から零れる涙は、包み隠さない気持ちの証。
「助けてくれ」
四天王キクコは、グリーンの背中をぽんと叩く。そして、モンスターボールからゲンガーを繰り出した。フジはゲンガーがキクコにとって、一番付き合いの長い相棒であることを知っている。これは彼女の本気だ。命を弄ぶ魔の手を切り落とす、怒りの表れだ。
カメックスの呪縛は解かれ、黒い影と黄色い魔術師が激突する。グリーンはカメックスに駆け寄る。まるでレッドのように。そして、ありったけの力を込めて抱きしめる。
「興醒めですね。一番面白いところだったというのに」
ランスは心底軽蔑するように、キクコを見やる。キクコは表情こそ平静そのものだが、飛び出る発言は彼らの背中を震え上がらせる。
「アンタにポケモンを育てる資格はないよ。あたしはアンタを許さない。ポケモンには悪いが、アンタ達が馬鹿にしてきたものの痛みを受けてもらうよ」
「四天王とあれば、私も本気でかからねばなりませんね」
フーディンはサイコキネシスで、自由自在に飛び回るゲンガーを捉えようとする。しかし、念力が当たる前にゲンガーは影へと潜り込む。フーディンは眼球を忙しなく動かし、優れた頭脳で出現位置を割り当てる。それは確かに正答である。だが、ランスとグリーンがそうだったように――あまりにも、力の差がありすぎた。
「ゲンガー、シャドーボールだ!」
「ひかりのかべ!」
ゲンガーは手に怨念を収束させる。このタワーに埋葬された者達の弔いとばかり、想いを力に換えて撃ち出す。難攻不落の壁はいとも容易く破壊され、ランスにも牙を剥いた。
「ば、馬鹿な。この力は。サカキ様……いや、それ以上……」
「これで分かったら、さっさと消えな!」
キクコがランスを見下ろす。ランスはモンスターボールに手をかけ、情けなく這ってフーディンを戻そうとする。しかし、ゲンガーがモンスターボールを串刺しにしたので、フーディンは主人の洗脳から解かれる形となった。
「おのれフジめ! 最強のポケモンが完成していれば、四天王など敵ではなかったというのに……!」
ランスは、意味ありげな憎しみをフジ老人にぶつける。そんなものはキクコにとってはどうでもいいことだ。あっさりと一蹴する。
「最強のポケモン? そんなもの、いやしないよ!」
ランスが獣の断末魔のような叫び声をあげ、ブーバーを繰り出す。もはや幹部の体裁は捨て、一人の人間としてキクコを是が非でも壊そうとする鬼の形相だ。異変に気付いた紫髪の男は、ランスを止めようとするが、同志の言葉すら彼は拒絶する。
「おい、ランス、やめ……」
「黙れ!! ブーバー、だいもんじ!」
「ゲンガー、ヘドロばくだん!」
これも一撃で決着した。グリーンもカラカラも、あまりの強さに言葉が出ない。素直に、かっこいい、と思った。自分が見て来たどんなトレーナーとも違う。
ブーバーのモンスターボールも破壊され、ランスは不気味な歯軋りをする。荒い呼吸と共に繰り出されるのは、強靭な鎧に身を包むポケモン・サイドンだ。
「ゲンガーだけでも始末しろ!」
「分からない奴だね。アンタも大人なら、引き際を弁えないか」
ランスは自分だけの世界に籠り、あらゆる雑音を遮断した上で指示に移る。サイドンは咆哮と共に、こちらへ突進を仕掛けようとする。恐ろしい迫力を纏っているが、ゲンガーの安心感と比べてしまえば、ただの自棄としか思えない。
「きあいだまでとどめだ!」
ゲンガーは宙に翻って一回転を決める。そして、頭上で巨大な球体を膨らませていく。グリーンには、それがゲンガーの闘気の塊のように見えた。
「サイドン! やれェ!」
「今だ、撃て!」
きあいだまが解き放たれる。サイドンは赤い波に飲み込まれ、力尽きた。ランスは全てのポケモンを戦闘不能にされ、訳の分からないことを叫んだ後、意識を失う。キクコはゲンガーを撫でた後、グリーンに振り返って歯を見せて笑う。グリーンは親指を立てて、それに応える。これが、本物のポケモントレーナー。グリーンは、自分がいつかキクコのようなトレーナーになりたいと思った。
*
「やれやれ。だ〜からやめろって言ったのによう」
同僚を哀れむように、形勢の不利を確信する紫髪の男。ロケット団員はすっかりタワーを根城にする意気をなくしている。団員の一人が躊躇いがちに敗北を認める。
「ラムダ様、ここは引き揚げましょう……」
「まあそう慌てるな。一つだけ、おきみやげだ」
その言葉に、グリーン達は嫌な予感を抱く。ランスという幹部格を倒したにもかかわらず、あの男は何故余裕の笑みを張り付けていられるのだろう。その理由はまもなく明かされる。
「ポケモンタワー、ドカァン!」
ラムダと呼ばれる男が、パチンと指を鳴らす。塔の外から聞こえる爆発音と共に、タワーの天井が落下してくる。
「フジ。アイツの製造はオレらが引き継いどくよ」
「お前さん、今、何をした……!?」
「なあに、ポケモンタワーを爆破しただけだ。ドガースやマタドガスを使ってな。オレらはそろそろお暇させてもらうぜ。まあ、せいぜい生き残れるように頑張るこったな」
このラムダという男は感情をおくびにも出さず、平然とポケモンを捨て去り、人殺しの道具に使用した。ランスは残忍な態度を隠すことなく滲ませていたが、グリーンはもしかするとラムダこそが倒さなくてはならない危険人物ではないかと思った。キクコがランスに手も足も出させず完膚なきまでに叩きのめしたことで、ロケット団員の士気は一気に下がっていた。だが、ラムダだけがその場で落ち着き払っており、まるで氷の彫刻のように冷たい瞳でポケモンを見ていた。彼が残した置き土産は、巨大な爆弾となってタワーを暗黒の渦に包み込む。
「待て!!」
「アバヨ、坊主。縁があればまた会おう」
モンスターボールに手をかけるラムダと、それを奪い取ろうとするグリーンでは、腰に装着している分、ラムダの方が早かった。ドガースの黒煙が晴れた後には、ロケット団がいたという証拠は全て抹消されていた。
フジはがくりと膝をつき、床に向かって呟く。
「ポケモンタワーは……沢山のポケモン達が眠っている場所だ……。それを、爆破するなんて……」
「しっかりおし、フジ」
「しっかりしろ、ジイさん」
グリーンに担がれ、フジはなんとか気を保っている。
「これを……」
彼は懐から一つの笛を取り出し、グリーンに手渡す。
「なんだ、これ」
「ポケモンの笛じゃ。居場所を壊されたら、ここに眠っているポケモン達はみな……。どうか……笛の音色で、安らかな眠りを……」
全てを言い終わると、フジは意識を失う。
「おい、ジイさん! ジイさん!」
「大丈夫だ、気を失ってるだけだよ。ったくこのジジイ、あたしに何も言わないでロケット団の巣窟に潜り込むなんてね。グリーン、カラカラ。あたしとゲンガーに着いてきな。ここを出るよ!」
キクコが言うと、ゲンガーも背後からにいっと微笑む。グリーンとカラカラは顔を見合わせ、力強く頷く。ここで死ぬなんてまっぴらだ。生き残って、事件の元凶はいなくなったと伝える。そのためにも、彼らは走り出す。
轟音が耳を劈き、自分がどこを歩いているのかを惑わせる。瓦礫の落下により、墓は潰され、道なき道を探り当てねばならない惨状に陥っていた。
「なんてことだ……」
キクコが身震いする。グリーンも、人間の底知れない悪意を間近に見る思いだ。死んだ者達から眠る場所さえ奪い取ろうとするとは――ロケット団。ここまで人間とは醜くなれるものなのか。
「うっ!」
「どうした!?」
「怒ってるね。ポケモン達が……このままじゃ、町も危ない。グリーン、笛を吹けるかい」
笛を握るグリーン。残された可能性は、やはりこの笛を吹くこと。しかし、自分にそんな大役を任せたフジの真意が掴めない。
もしも失敗したらどうする? 暴れ回る幽霊達を鎮められず、町にも危害が及んだら? こんな時に悪い想像が止め処もなく膨れ上がる。しかし、キクコも、ゲンガーでさえ今苦しんでいる。あれだけの強さを持っていながら、それでも強さだけでは憎しみを振り解くことは出来ない。
「アンタはもう知っているはずだよ……トレーナーに、必要なものが」
「オレが?」
「そうだ。怖いかい?」
「当たり前だろ! レッドじゃあるまいし……」
「そのレッド、ってのがどんなのかは知らないけど、アンタとは違う男みたいだねえ」
キクコは最後まで笑みを絶やさない。グリーンは彼女ほど強くない。だが、これから強くなることは出来るのだ。トレーナーとしても、人間としても。
グリーンはカラカラを見る。
「着いて来てくれるか?」
カラカラは迷いなく頷く。
「大丈夫だ。あたし達が助けるからね」
グリーンも自然と綻ぶ。タワーの中心に駆けて行くグリーンを見て、キクコがゲンガーに語る。
「ご覧、あれが若さだよ。羨ましいねえ、あたしとお前にもあんな頃があったんだ。今のグリーンは、カラカラのことを立派に信頼しているじゃないか」
ゲンガーも満足気に笑う。しかし、安堵も束の間。落石が迫り来る。背後で音を聞いたグリーンは振り返り、立ち止まるが、口を引き結んで、逆の方向へと走り出す。
ポケモンタワーには一箇所だけ、結界の張り巡らされた場所がある。そこは、悪霊の干渉を受け付けない。傷ついたポケモン達も結界の加護によって力を取り戻していく。結界のおかげか、少しだけ精神を脅かすおぞましさは遠ざかっているが、一歩でも外に出ればそれは全身を蝕むだろう。キクコやゲンガーですらあの状態なのだから、ただの少年に過ぎないグリーンには尚更のことだ。極限の状況に置かれた時、人は自分にそぐわない行動を起こし始めることもあるようだ。グリーンは何の因果が彼をここまで運ばせたのかと笑いながら、気を引き締める。
間違ってはならない。これから伝えるものは、感情に任せた恫喝でも、偉そうな警告でもない。遥かなる祈りを――安らかな眠りを――届けるのだ。
「不思議だな。オレがまさか、あのレッドみたいなことをするなんてよ」
カラカラは悪霊が入り込まないよう、更に落石を防ぐため、ホネを振り回してくれている。不思議とカラカラがいれば、なんとかなる気がする。グリーンは笛に口をつける。一応、彼には音楽経験がある。外国へ留学していた時に、嫌と言うほど教え込まれたのだ。どこまで行けるかは分からないが、見よう見まねでやってみよう。
姉のナナミが好んでやまない曲を吹くことにした。散々教え込まれたので、メロディーは今でも鮮明に思い出せる。確か、題名は――「風といっしょに」。
紫苑に響け、追憶の音色。グリーンは願う。心で語りかける。
暴れる霊達よ、どうか人間の傲慢を、否、赦せとは言わない。しかし、この音色に耳を傾けてほしい。我々は、過ちを繰り返す。繰り返しながら、それでも前に進む。この世界で共に在るべき生き物と暮らしながら、今日まで土地を育んできた。決して、彼らの居場所を侵犯する人間に満ち溢れているわけではない。むしろ、彼らを愛する者達は、彼らに永久の安寧が訪れることを願ってやまないはずだ。
グリーンはラッタのことを思い出す。全ては自分の未熟が引き起こしたことだ。
だから、その死を受け入れて、歩き続けねばならない。目指したあの夢を掴むまで。大地踏みしめ、どこまでも行こう。目指したあの夢を、掴むまで――。
「ん?」
笛から口を放し、服の裾を引っ張るカラカラに反応する。カラカラが指差す先を見ると、おぼろげではあるが、自分にも見えた気がした――ラッタの霊が。
きっと、カラカラはガラガラの霊を見ているに違いない。そして、シオンタウンの住民達もそれぞれ思慕するポケモン達の魂に触れていることだろう。
グリーンが最後に見たラッタは、真っ白な歯を見せて、笑っていた。
「良かった……」
ラッタが消えていくのを見届けた後、グリーンは眠りへと飲み込まれていく。大いなる加護に包まれるように。彼もまた、笑っていた。
「グリーン!」
血相を変えて、キクコとゲンガーがやって来る。カラカラは手振りでグリーンを助けてやってほしいと伝える。キクコは傷だらけのグリーンをそっと撫でると、優しく背負う。
「グリーン。よく、頑張ったね」
*
それからというものの、数日が経った。
グリーンとキクコ、フジ、カラカラ達は無事に生還した。シオンタウンで暴れていたポケモンの霊達はみな安らかな顔をして天に登って行ったという。グリーンの吹いた曲の音色が町にも伝わり、人々は凍っていた心が溶け、春の訪れを感じた。カラカラやガラガラの間に起こった悲惨な事件の全貌は暴かれ、住民達とポケモンには再び互いを信じる心が芽生え始める。
ポケモンタワーは幸い、一部分だけの崩壊で済んだ。被害が最も深刻だったのは、やはりラムダが爆破させた最上階近辺である。尖塔もすっかり開けた形となってしまい、元の礼拝塔に戻るまでには相当の年月を要するという。
ロケット団は逃げおおせたようで、各地の巡査達が行方を追っている。キクコが解放したポケモンも結局はあちらの手に渡ってしまい、悪事に利用されるポケモンは、悲しくもこれからも増え続けるだろうということだった。しかし、悪を許さない純真な心を持つ少年少女や、ポケモンを愛する者達がいる限り、世界がロケット団の精神に支配されることはないだろう。
ポケモンセンターから、一人の少年が包帯を巻いた状態で現れる。どこか頼りがいのある少年に変わり、精悍な顔つきをしている。キクコはそれを見て、早速病み上がりに憎まれ口を叩く。
「ちょっとは男らしくなったねえ」
「うるせえ!」
「そういや、オーキドと久しぶりに話したよ。アンタ、アイツの孫なんだってね」
キクコの広い交友関係に驚きつつ、グリーンは頷く。
「ジジイ、昔は強くていい男だった! 今じゃ見る影もないがね。ポケモン図鑑作っているようじゃ駄目だ。……まあ、でもアンタみたいな孫がいるなら、アイツも幸せだろうね」
「褒めてるのか貶してるのかわかんねーよ!」
三人とも思わず吹き出す。カラカラも嬉しそうにホネを振る。グリーンは改めて、カラカラに尋ねる。
「お前、オレと行くか?」
カラカラは損壊したポケモンタワーを見やる。フジは何も言わず、カラカラの決断を待つ。だが、グリーンはふっと笑みを零し、自分から退く。
「わーったよ。お前はシオンタウンを守りたいんだろ? 眠っているポケモン達が沢山いるもんな」
カラカラはグリーンと別れるのが寂しいのか、朝から元気がない。言葉を喋れないカラカラの代わりに、フジが語る。
「わしはカラカラに外の世界を見て欲しいと思っておったが……でも、それもわしの押し付けだ。カラカラがしたいようにするのが、一番良いのかもしれんのう」
「そうだねえ。アンタは思い込みの激しいところがあるからね」
「余計なお世話じゃ」
こうして、シオンタウンにおける出来事は幕を閉じた。フジとカラカラは、グリーンとキクコの背中が地平線の彼方に吸い込まれていくまで、ずっと見送ってくれた。カラカラはグリーンとホネを介して握手し、互いに失ったものを背負いながらも強く生きて行こうと誓い合った。
そして――セキチクシティの海岸、19番水道。
「それじゃあ、あたしはセキエイに戻るよ。書類が山積みなのを、放ったらかしにしてきちまったからね」
キクコは最後まで後腐れのなく、別れる時もさっぱりとしている。グリーンはどう切り出していいものか分からず、しどろもどろになる。
「オバ……いや、キクコさん。出来ればオレと……バト……」
「バトル? 別にあたしは良いけどね」
「いや、やっぱりやめた!」
「なんだそりゃ」
グリーンは拳を握り締め、大きく息を吸い込み、決意表明する。
「オレ、もっとトレーナーとして強くなる。実力だけじゃなくて、心もだ。キクコさん、あんたとバトルをするのは、セキエイ高原の時までおあずけだ」
「ほう! そりゃ楽しみだねえ。正直今のままじゃ、アンタとバトルしても勝負にはならないからねえ」
つくづく、何でもきっぱりと言い放つ老婆である。グリーンは苦笑しながら、手を差し出す。
「ありがとな、色々」
「アンタは良いトレーナーになるよ。がんばんな」
朝日の光は、彼らの出会いを祝福するように、手元を眩く照らし出した。キクコが船に乗るのを見届けて、グリーンは踵を返す。前進だけがポケモントレーナーの道ではない。時に戻ることも必要なのだ。シオンタウンの経験がそれを教えてくれた。
「次は、セキチクジムのピンクバッジだな。よし!」
少年グリーンは、果てしない夢に向かって。今、スタートラインを切った。
了