もしもプラズマ団がポケモンの解放を実現していたら
-8- 終焉



 嘘のように静まり返った甲板。頬に染み渡る凍て付く空の無情さが、余計に痛々しい。
 これまでありとあらゆる運命からの刺客が立ちはだかった。ゼクロム。ゲノセクト。アクロマ。ダークトリニティ。逆境全てを覆し、とうとうNは己の葛藤に一つの解を導き出す場所へとやって来た。
 プラズマフリゲート。Nが知らない間に水面下で建艦された。
 今までNが当たり前だと思っていた世界は、思えば彼の理想が叶いかけた日から、おもちゃ箱をひっくり返したように反転した。
 根掘り葉掘り真意を尋ねなければ治まりがつかない心中、傍らにいるケルディオは募る苛立ちと不安を落ち着かせてくれる。Nは胸を抑え、改めて深呼吸をする。しかし、これまでの戦いで負った傷は深刻であり、息を吸うことすら肺を揺るがす。時間の問題か。ここに長居は許されない。己の精神が枯れるまでに、事を終わらせたい。
 ケルディオは周りの設備を見渡し、途方もない溜息をつく。技術力の産物に感嘆している様子でもあった。
『何のために、こんなものを造り上げたのだ』
「それは、ボクにも」
『お前の指揮下ではないのか』
「断じて」 
 Nが断固として、文明の濫用を疎んじていると、波乱を呼ぶ足音一つ。
「どうやら、戻って来たようですね」
 ようやく現れたか。城を捨て、同志を捨て、ポケモンを捨て、世界を捨てた男。
 プラズマ団創設者にして、七賢人の称号を持ち、権力をほしいままにしてきた、ニンゲン――ゲーチス・ハルモニアが目の前にいる。今にも飛び出しそうなケルディオを制止するNとて、心の余裕は無い。

 

 【 Pokemon Black & White an imaginary story  『もしもプラズマ団がポケモンの解放を実現していたら』 -Final- 】



『貴様からは、不愉快な醜悪さを感じる!』
「待て。待つんだ、ケルディオ」
 ケルディオは砕けるのではないかと心配してしまうほど歯軋りし、嫌悪感を露わにしている。コバルオンがN達に向けた憎悪など比べ物にならない。しかし、哀れなNにはまだケルディオの敵意を理解出来ない。
「ボクのとうさんだよ」
『アレが、か』
 ケルディオは顔を俯けながらも、要らない火種を撒かないよう取り計らってくれた。そんな配慮も露知らず、無粋にもゲーチスが火に油を注ぐ。
「ほう。伝説のポケモンであるケルディオを飼い慣らすとは、さすがは我が息子」
 Nの眉が不審げに吊り上がる。
「飼い慣らすとは、語弊がありませんか」
「そうですかな。Nよ、お前はポケモンが何のためにあると考える」
「質問の意図が分かりません」
「ありのままに答えれば良いのです」
 ゲーチスは随分疲れを溜めたような印象を受ける。派手な礼装は健在だが、皺が増え、頬がこけた。城にいる時はもう少し豊富な体力を温存しているように見えたのだが、やせ我慢に過ぎなかったということか。
 Nは姿勢を正し、一歩前に歩み出る。ケルディオが沈黙を守る。
「ボクにとって、ポケモンとは家族です。この星に生まれるべくして生まれた、美しい数式を持つ者達。この世界にポケモンがいる理由は分からない。でもボクは、人間とポケモンが互いを支え導き合うことで、白と黒の混ざり合った灰色の世界――人間とポケモンが協力する時代を築くことが出来ると信じます」
 Nとしては、これまでの旅で培った全てを総合した渾身の解である。
 ゲーチスは目を丸くすると、わざとらしく手を叩く。子供の真剣な眼差しすら、父親をほくそ笑ませる僅かな作用にしかならない。
「素晴らしい! 胸を打つ決意の表れ! ワタクシが施した王としての教育、決して無駄ではなかったか。だがNよ、お前にはプラズマ団の王でいてもらいます」
「どういうことですか、とうさん」
「ワタクシはプラズマ団を再興しようと考えています。組織は善悪も無い混沌と化し、朽ち果ててしまった。今一度、ポケモンの完全なる解放を成し遂げようではありませんか」
 Nの手が、足が、呼吸が、止まる。紡ぎ出す声には震えが生じる。
 恐らく、Nの疑問をゲーチスに投げかければ、今までのパズルがバラバラになり、ピースをはめ直すことも難しくなる。気持ちの整理がつかないままに、自制の利かない思いは口を突いて止め処も無く溢れる。
「あなたなのですか」
「ん?」
「ゲノセクトを解き放ち、イッシュを火の海に陥れようと目論んだのは、とうさん。あなたなのですか」
『人間の屑め!!』
「ケルディオ」
『貴様など』
「真実はボクが見極める」
 有無を言わさぬ迫力に、ケルディオは思わずたじろぐ。
 ゲーチスがどう思うかなど知る由も無いが、Nにとっては親の返答を待つ一瞬は一生にも等しかった。
 そして、ふと、ほくそ笑む。

「……元々ワタクシがNに理想を追い求めさせ、伝説のポケモンを現代に蘇らせたのは『ワタクシの』プラズマ団に権威をつけるため。恐れた民を操るため。その点は、よくやってくれました」
 
 何を、言っている。

「だが、伝説のポケモンを従えた者同士が信念を懸けて戦い、自分が本物の英雄なのか確かめたいとのたまった挙句、あまつさえ従えたはずの道具に見限られるとは、愚かにも程がある!」

 Nは今度こそ打ちのめされた。 
「解放とは」
「あれはプラズマ団を創り上げる為のウソですよ。ポケモンのように便利なモノを解き放ってどうするというのです? 確かにポケモンを操ることで人間の可能性は広がる、それは認めましょう。だからこそ! ワタクシだけがポケモンを使えればいいのです」
『……貴様、そんな下らぬ考えで!』
「なんとでも」
 Nは抜け殻と化す。力を失い、崩れ落ちる。
 終わった。
 無駄だったのだ。
 彼の掲げた理想、求めた真実。生きて来た意味。父親に喜ばれ、褒められることで得る優越感。
 子と親にあるはずの当たり前すぎる絆は、Nとゲーチスの間には初めから育まれていなかった。Nの人生はゲーチスの人生を潤わせるためにあった。
 嘘だ。
 Nは気を失い、倒れる。ケルディオが寄り添い、顔を起こそうとする。
「……ふはは! 英雄になれぬワタクシが伝説のポケモンを手にする……その為だけに用意したのが、そのN! 言ってみれば人の心を持たぬバケモノです。そんな歪な人間に話が通じると思うのですか」
 ケルディオはゲーチスを悪魔と見間違えそうになる。
 人の顔を被ったバケモノとは、むしろゲーチスの方を指すのではないかとすら思えてくる。
 ならば、力で捻じ伏せてやろうか。口で言って分からないなら、口で言っても通じないなら。沸々と煮えたぎる怒りを直接叩きこみ、Nが味わった地獄と同じ世界に連れ込んでやろうか。自我をおかしくさせる顔の紅潮がケルディオを鬼神へと誘惑する。
 ゲーチスはポケモンが泣き叫び、助けを求める構図を散々眺めて来た。
 ローブシンが木材をせっせと運ぶ。チラチーノが廊下を舐めるように掃除する。念力の使い過ぎで疲れているにもかかわらず体に鞭を打って材料を持ち上げるランクルス。やがて立つことも難しく、次々と脱落していく建設者達。ポケモンの屍の上に聳え立つものこそが、何を隠そうプラズマ団の城だった。今や雷神の裁きで砕け散ったが、或いは正しかったのかも分からない。栄華の不変はポケモンの苦渋、その持続を意味するからだ。ゲーチスはポケモンを調教し、紅茶を飲みながら工事現場を見物していた。ケルディオが鼻息一つ荒くしたところで、胸に訴えかけるものは何も無い。
 哀れであるよ。怒ることで全てを変えられるならば、人間達の愚かさによって招かれた悲劇など起こらなかっただろうに。
「主人を失ったポケモンが、人間に牙を剥くか」
 何を言う。元々、ポケモンとは人間の手に余る生き物だ。人間が生まれる前は木の実を取り合い、縄張り争いをしてきた。
 ゲーチスは人間であるが故に掌握していない。理解の範疇を超える生き物、ポケットモンスターの神髄。

 首を低くし、剣の威光がより引き立つように切っ先を向ける。ゲーチスは片腕だけでモンスターボールを投擲し、晴れやかではない空に暗雲を呼ぶ。ケルディオはすぐさま、三つ首のドラゴンが相当の地位を占めるポケモンだと悟る。培ってきた感性が警笛を鳴らす。
 登場するや否や、顔のような腕から業火を吐き散らし、威嚇の臨戦態勢を示す。大の字に広がる焼け付く侵攻から素早く逃れ、安全地帯を探る。Nを焼き殺すつもりならば、サザンドラは今の一撃をまっすぐNに向けたはず。ということは、始末する気まではないのだろうか。ゲーチスが燃え滾る情景の中で何かを伝えている。サザンドラは頷きもしないが、命令を忠実に遂行する。ケルディオはサザンドラの忠誠におぞましさすら覚える。何故そうまでして人間に付き従うのか。しかし、勝負において余計な思惑を挟むこと、すなわち死。
 激しく天を仰ぐようにして、サザンドラは光球を発射する。剣戟をもって打ち返すも外れる。
 ケルディオの自信が揺らぐ。ゲーチスには口端を緩めるだけの余裕があるのか。晴れて聖剣士の資格を得たケルディオに立ちはだかる第一の関門。それは、絶対的と思われた自信過剰の強さを手に入れた先にある、受け入れがたい敗北の連鎖だ。
 サザンドラが紅燃ゆる景色を目ざとく見渡す。ケルディオはきあいだまの余波を受けて、足に怪我を負っている。敵の口内がパペットのようにぱかりと開き、瞬く。
 逃げたい。殺される。死ぬのは嫌だ。
 このままではNもろとも始末されるだろう。先刻まで青さを纏っていたはずの視界が、熱を受けて陽炎を呼び込んでいる。
 地平線の彼方まで逃げたとしても、奴は追って来るような気がする。馬鹿な、感情の宿らない瞳は何のためにある。正と負を見分けるためにあるのではないのか。同じポケモンでも、人間に心を売った者とそうでない者を区別すると、こうも違いがくっきりと浮かび上がるものか。駄目だ、思考が回らない。敵を倒すには。どうやったら包囲網を掻い潜れる。修業したはずだ、沢山のことを学んできたはずだ。敵に囲まれたらこうしろと言われた。忘れた。自分が取っていた戦法は。忘れた。
「人間がいて初めて、ポケモンは本当の力を発揮し得るのです」
 ああ、そうかもしれないな。ケルディオは諦めることにした。諦めてはいけないのだが、もう疲れたので諦めた。
 戦意喪失した聖剣士ケルディオを、さぞかしつまらなそうにゲーチスは見下す。
「この程度か。もういい、始末しなさい」
 最期の一撃が襲来する。


 *
 
 
 湿っているとも言い難く、かといって爽やかとも言い難い。鬱蒼とした木々に光を遮られているから。木の葉をざわめかせる微風が万遍なく行き渡る。結局の所、森林の特質だと片付けてしまえばそれまでの話。
 切り株が点在しており、ふと腰掛けたくなるのだが、それよりも目指すべき場所があるような気がする。落ち着かない動揺が胸を騒がせる。誰かが自分を招いているとでも言うべきか。早く行かねばならないと元々の使命感が足を急かす。
 いくつかの大樹を縫い、木陰に埋もれる小さな存在を見つけた。わるぎつねポケモンは小悪魔のようにしししと歯を露わにして笑う。悪戯心に尻尾を捕まえてやりたくなったので、手を伸ばすも霧散する。掴もうとした握り拳は霧で満たされる。本当に求めているのは温かさだ、Nは首を振る。自分が欲しい物など、一向に考えたことも無い。傀儡として利用される人生に何の疑問符も打たず、言われるがままに全うしてきた己には欲求など必要ないと思っていた。

 先へ先へと向かう度、落ち葉を踏みしめる音。茨の道が足を深みへと誘う。いっそこのまま自然に溺れていくのも悪くは無いかと思いかけた矢先、黒と赤を基調としたばけぎつねポケモンが、水晶で結んだ髪を惜しげも無く艶やかに揺らしているではないか。
 相手は何も言わぬ。それで構わない。余計な言葉を挟むことは無礼に値する。
「ボクは結局何をしたかったのだろう」
『理想を求めたかった』
「確かにそうだった」
『ゲーチスはキミに富を与えた』
「富とは、何だ!」
 珍しいことにNは両手を荒げて尋問の如く問い詰めるが、ゾロアークは口を閉ざして一向に語り聞かせようとはしない。
『分からないのなら、キミはここで眠ったままだよ』
「トモダチを裏切るわけにはいかない」
『もう一度やり直す義務があるはずだ』
「キミの言う義務の意味が分からない」
 なお厳しくNは追及する。
 ゾロアークはいつも正論ばかり吐き、滅多に甘いことを言わない。森で育てられた時からずっとそうだった。なるほど懐かしい鼓動が波打っているはずだ。ここはNとゾロアークが出会った、思い出の場所なのだ。
 同時に浮かび上がるのは、苦い記憶。


 *


 一人の少年と二人の少女が仲良くポケモンと遊んでいると、そいつはやって来た。
「やっと……会えましたね」
「だあれ?」
「ワタクシは、ゲーチス・ハルモニア。アナタの父親です」
「ボクにはおとうさんなんていないよ?」
 Nは首を傾げる。
「訳があって、アナタを預けていたのです。しかし、時は満ちた。ワタクシは親としての責任を果たしに、こうして馳せ参じたのです」
「ふうん」
「お願いがあります。ワタクシたちの理想を叶えるために、アナタの力を貸していただけませんか」
「りそう……?」

「ワタクシはプラズマ団という組織を立ち上げ、ポケモンにとって幸せな世界を創りたいと考えています」
 ゲーチスの笑顔は本物だった。信じてみたいと思わせる真摯さを持っていた。
 だのに。


 *


『ゲーチスに拾われなければ、今のキミは無かった。アバゴーラやアーケオスと会うようなことも無かった』
 ゾロアークは葉を小枝から千切り、ふうと息をやって紙飛行機よろしく飛ばす。このような遊び方もゾロアークから教えられた。昔は爛々と瞳を輝かせてせがんだものだが、つまらないものとしか思えなくなった自分がいる。
 Nの態度とは対照的なゾロアークが、逆に怒りを蓄える青年の不安定さを如実に示している。
「ゲーチスは、ボクに嘘をついた」
『嘘、ね。でも、キミはポケモンにも嘘をついたよね』
 Nは喉から出かかったものを飲み込んだ。ゾロアークは眉を潜める。
 あの時と同じだ。城でレパルダスがNを殺そうとした時に薄ら張り付いてすらいた冷笑の正体とは、やはり憎しみに相違ないか。
『理想の世界を創ると言ったが、戯言だ。キミはワタシ達を信じさせ、ポケモンを裏切った』
「違う」
『キミが受けたものは罰だ。ゲーチスは我々の怒りを汲み取ってくれたのだ。だからキミはやり直さなければならない』
「ゾロアーク! キミは」
『ワタシは許さん。未来永劫』
 Nは思わず変な声を上げてしまった。
 ゾロアークの様子がおかしい。喉が枯れそうな雄叫びを上げる。葉が意思を持ったようにNを狙撃する。腕を交差させるだけで別段外傷は見当たらないが、それよりも気がかりなのはゾロアークが口から蒸気を噴き上げながら迫ってくるということである。
『呪ってやる、呪ってやる、呪ってやるう』
「ゾロアーク、キミは……」
『ゲーチスに仕えろ。全てを売れ。道具は道具であればいいのだ』
 Nが頭を抱え、世界を閉ざす。無数の針が頭を貫通するような痛み。絶えることの無い苦渋を伝える。
「ボクは」
 ゾロアークはNを呪い殺すつもりなのだ。
「くっ。チェレン……ベル……」
 優しさを教えてくれた者達の名前を発することで、すがろうとする。
『ワタシタチニセカイヲミセロ。ニンゲンヲハイタシタホントウノセカイヲ』
「トウ……ヤ」
『ニンゲンノ、ナマエヲイヴナァ』
 ゾロアークは人間が嫌いなのだろう。それらしき名が述べられるばかりに疲弊していく。
「ボクはっ」
 人間とは確かに脆弱であるばかりには飽き足らず、どうしようもなく愚者の集いである。
 私利私欲を持て余し、過ちを繰り返し、喉元過ぎれば熱さを忘れる。
 むしろ道具として生きる方が楽なのかもしれない。我を自覚すれば戻れなくなる。ゲーチス・ハルモニアの中にあるナチュラル・ハルモニアではなく、一個のNという存在として生きる。拠り所を捨てた者を待つのは、自我を開花出来ないことにより兆しを見せる絶望の境地。
 Nはそれでも理想を貫き通したいと願う。自分よりも遥か上を行く人間であるトウヤを鑑みれば容易い。
 あの時、Nは試合に勝って、勝負に負けたのだ。
 Nは敷かれたレールの上を歩いてきた。トウヤは周りの支えも手伝いながら、自己の中で答えをもって挑んできた。ポケモンと人間は離れるべきではないという揺るがない解を有していた。結果は見るも無残な玉砕。
 しかし、思う。
 Nはもう一度トウヤと戦ったならば、勝ちを収めることが果たして出来るだろうかと。Nとトウヤは互いを意識し合い、なおかつ高め合う関係ですらあった。ふさわしい言葉を与えるなら、そう――ライバル。百戦中百戦、相手を打ちのめすのが真の勝者たる条件だ。しばらくポケモンバトルというものから手を引いていたNは、もはやトウヤに勝てる気などしない。そこにNとトウヤが培ったものの違いを見出す。トウヤはポケモンバトルという一競技を通して、数え切れない辛酸を舐めた。ポケモンと共に修行を行い、切磋琢磨し、厳しい環境の中で肉体を鍛え上げ、想像を絶する試練を乗り越えて来た。
 Nには無いもの、自信と確信。手に入れたくても届かなかったもの。自問自答へのこれ以上無い、最適な解だ。
 今、分かった。自分がなりたかったものは、恐らく――。
「ボクは人間だ」
『ソウヤッテウラギルンダ。ポケモンノコナノニ』
「ゾロアーク」
『ヒドイネ、ヒドイネ、ヒドイヤツダネ』
「キミは……ボクのことを『キミ』とは呼ばない」
 ゾロアークは憤死した。

 先を進まねばならない。
 嘘をついた青年に戻る道は無い。全てを巻き込み、犠牲にしてきた。立ち止まるという選択肢は捨てた。
 青年は生きている証が欲しいのだ。光差すまで、足掻き続けるだけだ。


 *


 あまりにも草掻き分ける者を惑わせるものだから、迷いの森という名が付いたが、ポケモン達にとって故郷であることに変わりは無い。
 Nは一人の女性と出会った。どうやらここが森の終着点のようだが、ポケモンは一匹として見当たらない。
「こんにちは」
 女性はこくこくと頭を縦に動かす。Nは参った。どうしていいのかが分からない。対人面における意思疎通をさほど経験したことの無いNにはまたしても苦行が立ちはだかる……というほど難局でもないのだが。
「ゾロアーク、なんだろう?」
 女性は心を洗い流すような笑みを零すと、元の姿に戻る。気付けば、先程と何ら変わらないポケモンが目の前にいる。
「アレはキミが見せたものかい」
『悪いな。少し試させてもらった』
 Nは白旗を振ったように、首を俯ける。
「然るべきだ」
『勇ましい返事だな』
 短く吐くと、ゾロアークはNをまじまじと見つめる。Nも隈なくゾロアークの特徴を洗い直す。艶のある毛並みから、引き締まった輪郭に至るまで、間違いなく自分を支え続けたパートナーの洗練された体躯そのものである。お互いが偽物でないことを確認し合ったうえで、神妙な面持ちでの対話を始める。
『オレはお前がどう生きようとも、それに付いていく腹積もりだが』
「とうさんを……ゲーチスを倒さなければ、イッシュ地方に未来は無い」
『お前は今まで、ゲーチスのために生きて来たのではなかったか』
「ゾロアークよ。ボクは人間だろうか、それとも、道具だろうか?」
 ゾロアークはこの期に及んで煮え切らないNに苦言を呈する。
『まだ寸分の迷いがあると見える』
「キミには敵わないよ」
『お前はいつもそうだな。自分で自分を檻に閉じ込めるとは笑止千万も甚だしき事実よ』
「厳しいね」
『では、N。お前はどうありたい。お前はこれからどうしたい』
 選び取れ、とゾロアークはカードを提示する。

 プラズマ団に戻り、ゲーチスと共にポケモンの解放を再度成し遂げる。
 この場からすぐさま退却し、以降プラズマ団とは無縁の人生を送る。
 ゲーチスと戦い、ゲーチスを倒す。
 このまま何もせず、時が過ぎて楽園に導かれるのを待つ。ただし黄泉に招かれるとは限らない。

『お前は人間だよ。オレが一番知っている。だが、道具にされていたこともまた真実』
 決めるのはN自身である。楽な方に逃げ込んでも、恐らくゾロアークは全く咎めないだろう。
 ここまで心を通わせた者が問うているのは、後はN自身がどうしたいかという行動だけなのだ。Nを王として祀り上げられる程度まで育て上げたゾロアーク。人間の子供が自分でこうしたいと宣言するのを、親が黙って頷き、後は静かに後ろで成功を見守るのと同じ理屈だ。
「ボクはもう逃げたくはない」
『父と、戦うことになるぞ』
 ゾロアークはNの意思と反対の言葉を浴びせて来る。滝壺に投げ飛ばすような厳格さを甘んじて受け入れる。
「その時は、ゾロアーク。ボクと一緒に戦ってくれるかい」
 ゾロアークは目を見開いて丸くさせ、瞼を上下させたりするので、いずれにせよどちらが子供で大人かいまいち判別しにくくなってしまった。色々の挙動を一度に行おうとするものだから、可笑しくなる。感情豊かな親父ならこの時点で泣き喚いても、何ら不思議ではない。だが、ゾロアークは例によって気取り屋であるからして、反旗を翻そうとする重大な局面においては、冷徹な頷きだけに留めようとした。
『今更だな』
「そうかい。じゃあ、そろそろ行こう」
 緑色の景色が、茶色く塗り込められた生命の象徴が、失われていく。
 幻影が開け、現実に只今戻る。見上げた先の色彩は、こうも漆黒を称えているものであろうか。
 ケルディオも、サザンドラも、ゲーチスもいない。木肌は頑丈だがそれでも焼けた痕跡が随所に見られる。
「助けてくれて、アリガトウ」
『Nよ、一つ聞かせてはくれまいか』
 プラズマフリゲートの甲板に立つゾロアークは、Nの腕を優しく引っ張り上げながら問う。
『お前にとって、オレは……我々ポケモンは、何のためにあるのだ?』
 Nの答えは決まっていた。襟を正し、煤を払う。
「互いを高め合い、昇華するために。世界は灰色となって混ざり合う。それがポケモンと共に生きる理由になる」
 横顔の輪郭を照らし出す日光が、僅かに顔を覗かせる。
 夜明けが近い。イッシュ地方に朝が訪れようとしている。


 *


 取り付けられた機械の運転音しか響かない。足元の鈍重な振動が、人気無き戦艦の妖しさを極める。
 Nは壁に体を張り付けながら、国際警察が行う潜入捜査の如く移動するが、ゾロアークはやや呆れ顔である。団員の姿は見えない。無論プラズマ団を捨てたに等しいゲーチスが、幾らの部下を有していると考えるのはあまりに愚直である。
 先刻、ゾロアークがNの危機に駆け付けられたのは、他の仲間達も一緒にヘレナとバーベナに預けていたからだ。Nの侵入を今か今かと待ち侘びていたゲーチスの好機を逆に利用させてもらった。
 Nからすれば、ヘレナとバーベナがいないことなど、まず考えられない。しかし、Nは落城の日、彼女らに声をかけることすら叶わないままにして、ここまでやって来た。事情を察したNは、女神救出を最優先事項に置く。
「まずは彼女らを助けることが先決だ」
 Nの力強い方針宣言には、ゾロアークも危険を承知する他あるまい。

 しばし探索を続けた。
 決定的な証拠を掴むことが出来ないままに時間だけを浪費するのは、何とも歯痒い思いである。
 このまま体力を失うことだけは避けたい。対ゲーチスを憂慮すれば、Nは決して十分な状態ではない。
 ゾロアークには分かっていた。Nがいちいち壁に手を当てているのは、用心のためではなく、そうしなければもはや己を保つことが困難なのである。これから彼を奮起させるような出来事が起こると仮定するならば、身震いが走る。

 ふと、ゾロアークが肩を叩く。
 彼らは今、仰々しく監視の目を光らせるプラズマフリゲートの指令室にいた。中央の椅子は大方ゲーチスが腰掛け、民を嘲笑うために安置されたものであろう。常に高みから物を見る。Nも味わって来た快感だが、改めて行為の恐ろしさに閉口せざるを得ない。高みの見物は、民の気持ちを考えないから、気付かない内の暴挙に至る危険性がある。否、ゲーチスはあえて上しか見ていないのか。片方を失った瞳でゲーチスには一体何が見えているのだろう。野望、ただ一つ。なるほど彼の場合には、理想よりかは野望という単語がふさわしい。
 ここで何が行われていたのかを確かめる必要がある。ゾロアークは迷いの森出身だから、機械の類には当然無知で役立たない。Nは持ち前の数学的分析を生かし、プラズマフリゲートに内蔵された極秘のデータを絞り出していく。見事な手際の良さに、ゾロアークは自分の出る幕すら無いと少し肩を落とす様子ですらあった。イッシュ地方全土を映し出していた画面に、紫色のノイズがかかる。
 ゲノセクト覚醒計画、プロジェクトGの残影。
「これか」
 心底忌々しそうに、Nは残存データを掻き集めて再生させる動画を流す。もはや天才の仕業に違いない。
 赤い文字が流れ――SOUND ONLY。一言も聞き漏らすまいとする。ゾロアークもまた顔を不吉にしかめる。

『時期尚早ではありませんか』
『いえ、そんなことはございません。今こそゲノセクトをイッシュに解き放ち、制圧を行う時が来ました』
『アナタも悪い御人ですね。表面上は、私達科学班に責任を押し付けるのでしょう』
『しかし、アナタとて自分のポケモンを世に発表出来るのだから、悪い条件ではあるまい』
『確かに相違ありませんが。もし計画が外部に漏れた時は』
『ワタクシの計画に一片も狂いはありません。万が一漏洩したとしても、その頃にはイッシュは火の海になっているでしょうね』
『ハハハハハハハハハ! 仰せのままに』
『プロジェクトGの最終調整は、ドクター・アクロマ。キミに全権を委ねます。善処したまえ』

 通信はここで終了したと見える。
 Nは間髪入れず、キーボードを押し潰す。画面は去れと命じられたかのようにぷつりと消え失せた。いつになく荒れた姿勢に、ゾロアークはNの様子を窺おうとするが、躊躇う。Nは歯軋りして、肩を震わせていたからだ。
「これが……これが、目指して来たものだというのか」
 見切りをつけたことは正解だった。こうして顧みる度、己の浅ましさにはほとほと言葉も出ない。ゲーチスはここまで物事を計算して進めていたのだとすれば、N以上に頭の切れる人物だということになる。必ずNが予想だにしない罠を仕掛けてくる。奴は父だ。Nの全てを知っている。手玉に取られている。弱点は筒抜けだ。急にぞっとした。自分が倒そうとしている敵は、あまりにも強大なのではないかと弱気が耳元で誘惑する。勝つことは難しそうである。

 ゾロアークが咆える。何事かと思って振り返る。突如、死線。
 Nには抵抗する術も力も残されてはいなかった。ダークトリニティは無駄の無い動きでゾロアークを牽制すると、Nの手首を締める。
「伝言を預かって参りました。ゲーチス様が直々に、王に見せたいものがあるとのことです」
「あくまでもゲーチスに仕えるつもりか」
 振り切ろうとする強靭な意思だけは褒められたものだが、ダークトリニティは先の戦いにおいて体力を温存していた。戦い方を心得ているのだ。どうすれば自分の消費を最小限に留められるか。奴らの機動性は人間を遥かに超える。ある意味ではゲーチスよりも恐ろしい連中がプラズマ団の三つ柱だ。
「それが、私達の生を受ける理由に他なりません」
「キミたちは、このまま道具として使われる人生に満足か」
「ナチュラル・ハルモニア。誰かのために忠義を尽くす生涯は、過ちですか」
「うっ」
 説教をしようとして、逆に言い包められたNは反撃の余地を残していない。代わりにゾロアークが爪を伸ばして、降りかかる。ダークトリニティは床が動いたかのような動きをする。モンスターボールから放たれる赤き閃光。ゾロアークの格闘技を、キリキザンが四肢を駆使して迎え撃つ。ゾロアークは久々の戦闘でなまっているように見受けられた。
「寝かせておけ。そいつも連れて行く」
 キリキザンは命令通り、華奢な体に一撃を叩き込む。肺に溜まった息を無理矢理押し出され、ゾロアークは大の字に倒れる。万全ではないことをここに来て悟る。長時間の幻影は体に負担がかかっていたはずだ。トウヤならもっと早くから気付いていたと思うと、やはりNはポケモンバトルの経験に不足している。そして室内は、また人間の影も形も無くなる。

 
 *


 黒で塗り固められていた先程とは異なった趣のようで、Nとゾロアークが連行された場所は電脳空間さながらの紺碧で満たされている。
 培養液に巨大なポケモンが収納されている。ゲーチスはステッキを持っていた。儀式でも始めるつもりでいるのだろうか。
「ようこそ、N」
「ゲーチス……!」
「残念だな。とうさんとは呼んでくれないのか」
 ゲーチスはあくまで余裕の表情を浮かべている。結局戯れの口を聞いただけであり、そんなことはどうでもいいといった調子である。
 すると、もう一人のダークトリニティがケルディオを連れて現れた。酷い有様だ、尋問とでも称して痛めつけられたのだろう。角の光も濁り始めている。息をするのも苦しそうだ。Nは心配になって、ゲーチスに問いただす。
「何をするつもりだ」
「お前はそこで黙って見ていれば良いのだ。これからワタクシは、イッシュで最強の力を手に入れる。その瞬間を目に焼き付けなさい」
 ステッキで差した先を辿る。沈黙を決め込んでいる巨躯が、プラズマフリゲートに揃い踏みした役者の総勢を睨んでいる。ダークトリニティ、ケルディオ、ゲーチス、N、ゾロアーク。
『キュレムだ』
 ケルディオが声を絞り出し、すぐさま口を噤む。
「キュレム……?」
『そもそも。私達が、真の聖剣士たる資格を得るためには、せいなるつるぎを使いこなすだけでは、飽き足らぬ。キュレムと互角の戦いを繰り広げる、こと……すなわち、真の強者への道』
 ケルディオは喋りながら咳をするので、とても調子が悪いのだと案じてしまう。Nは無理をしないよう助けようと試みるが、どうやらゲーチスの狙いはケルディオにあるようだ。
「ケルディオ。アナタを本当の聖剣士にして差し上げましょう。キュレムを倒すことでアナタの強さを証明しなさい」
『馬鹿な。人間がキュレムを支配しようというのか』
 ゲーチスはケルディオに構わず、お得意の演説を始める。
「キュレムは虚無。とあるポケモンがレシラムとゼクロムに分裂したときの余り……ワタクシの欲望はイッシュの完全なる支配! そうです! キュレムという器にワタクシの欲望を注ぐのです」
 どこまで強欲な男だ。ゲーチス、心が腐っている。その醜悪さにかけては他の追随を許さない。
 ゾロアークは気を失っている。ケルディオも戦える状態ではない。では、誰が。自分がやるに決まっている。
 Nは起き上がり、ステッキを粉々にしてやろうと目論んだ。
 現実は悲劇的に出来上がっている。ゲーチスはモンスターボールよりかんおけポケモンを繰り出すと、四本の腕でNを拘束させる。
「Nよ、無力だな。これが英雄の末路だとは嘆かわしい」
 デスカーンの腕力が強く、肋骨を砕かれそうだ。
 ゲーチスは一歩進み出ると、それこそNがゼクロムを従えた時のように荘厳なる面持ちでステッキを掲げる。ダークトリニティが恭しく一斉に頭を下げる。
「虚無を司るきょうかいポケモンよ。ワタクシの前にひれ伏すが良い。今こそイッシュの、否、世界の征服を!」
『愚かなことよ』
 その声はキュレムか。良かった、まだ正気があるのだ。
 ならばキュレムはそう簡単に屈しないだろう。ゼクロムとレシラムが合体した後の抜け殻といえど、伝説のポケモンだ。

『ケルディオ、聞こえるか』
『その声は、キュレムか!?』
『後は。託す――』

 Nには信じられないが、ケルディオにとってはもっと信じられないことが起ころうとしている。
 キュレムは聖剣士を試す以上、自分の力を制御しているはずだ。際限を弁えているからこそ、ステッキの力に自分が負けてしまうことを分かっていたのかもしれない。ゲーチスの高笑いと共に、ステッキが同心円状に波紋を投じる。後はステッキの魔力に委ねるだけで良かった。
 
 キュレムは硝子を割って、瞳を充血させ、漏れた水を凍てつかせ、あろうことか真っ先に知己であるケルディオへと牙を剥いたのだ。
 ケルディオは今にも泣き出しそうだ。それもそのはず、ケルディオにとってまだまだ聖剣士という壮大な称号は飾り物である。本質は象徴では測れない。彼はまだなり立ての赤子に過ぎない。
 キュレムと聖剣士はこれまでジャイアントホールを拠点に共存し、イッシュ地方の平和を守るという利害の一致で協力、時に共闘の関係を積み重ねてきた。そんなポケモンと戦え、ゲーチスは命令している。出来るわけが無い。もっとも、正常な感覚を持っていればという制約付きだ。
『嘘だ』
「さあ思う存分剣を振るうがいい、ケルディオ。かつての友に!」
 ゲーチスはステッキを勢い良く床に降ろす。すると、キュレムがケルディオ目掛けて圧し掛かろうとする。
 ケルディオは走ることすらしなかった。足を潰され、痛がる。
『うううっ』
「ケルディオ!」
 Nが呼びかけるが、ケルディオは放心状態だった。キュレムはステッキの軌道に合わせて距離を取ると、今度は竜の顎をした火を噴く。ケルディオが振り向いた時には吹き飛ばされていた。こころなしか細くなった脚をがたがたと震わせながら、ようやっと立ち上がる。
「やめろッ!!」
「何やら雑音が聞こえるようだ。見世物が終わった今、お前にもう用は無い。ダークトリニティ!」
 ゲーチスはこれみよがしにデスカーンを戻すと、Nを床へ叩き落とす。背中を打った。近くにはキュレムがいる。絶体絶命の窮地でありながら、Nはどこまでも実直であり、キュレムの声を聞くことに心の集中を傾ける。ところが、予想外の事態がNを混乱へと落とし込む。
「声が、聞こえない」
 今まで、ポケモンの声が聞こえないなどということがあっただろうか。
 判断の是非を確定する前に、ダークトリニティが再び暗闇へと連れ去る。


 *
 
 
 あのままキュレムに潰されても、おかしくはなかった。
 ダークトリニティには命を救われたようなものだ。とはいえ、敵である彼らに貸しを作るなど反吐が出る話だが。何故助けてくれたのだろうか、ふと思い馳せる。いや、忘れるべきだろう。今はどうでもいいことだ。
 一歩退くケルディオ、一歩進むキュレム。ゲーチスはさぞかし愉しそうにステッキを振るっていた。自分の描く軌跡通りにキュレムが動くのならば、痛快なことだろうと心で強烈に皮肉ってやる。
 何処に飛ばされたのか、突き止めなくてはならない。見る限り、船内の居住区とでも言った方が早そうである。
 誰かの気配。今までの経験が反射となって、臨戦態勢を取らせる。ゾロアークが反応しないのには明確な理由がある。

「N、なの?」
 Nは瞳を揺らす。涙腺さえ緩んでいれば、袖を濡らしているだろう。ヘレナとバーベナが目の前にいるのだから。
 まだ幻影は続いているのか。ならばケルディオが辛い目に遭わなくて済む。でも、二人と再会した事実もまとめて抹消されてしまう。複雑な気持ちが入り乱れ、素直に笑顔を浮かべることはままならなかった。
「二人共、生きていたのか」
「当たり前でしょ。そう簡単に死んだりしないわよ」
 百面相というほど奇異なものではないが、Nは表情をどう取り繕えばいいのか分からないでいた。彼女らとて、事情はよく理解している。
「何か背負っているみたい」
「色々、ね」
 事細かに言ってやる必要は無い。ヘレナはNの手をそっと開き、6つのモンスターボールを手渡す。中には旧知の友が出番を待っている。忌むべき機械に頼ることが、一刻と迫る危機的状況の程を報せる。モンスターボールを見ても、顔をしかめなくなったのは、彼にも異なる価値観を認める機会が多く訪れた賜物か。
「はい」
「アリガトウ」
「N、ヘレナ。ここから出ましょう」
 提案したのは、バーベナである。Nは頷くが、ケルディオを放っておくわけにはいかない。
 ゾロアークが床下を見つめるので、ヘレナとバーベナもつられて下を見る。Nは意を決して、一言一句綴る。
「ゲーチスがキュレムを操り、イッシュを征服しようとしている。ボクたちはゲーチスを止めねばならない」
 Nは言って、踵を返す。決意は固い。ケルディオの覚悟でも移ったか。
 しかし、今一番辛いのは自分ではなくケルディオだ。彼の心情を想像すれば、自分が平気を装って歩いていることなど、案ずる範囲の件ではない。ゾロアークはいい加減見かねたのか、Nに肩を貸してやる。
「すまないね、トモダチ」
 ゾロアークはなんとも得意気に鼻を鳴らす。Nとゾロアークは、傍からすれば滑稽な歩き方でも、赴くべき死地に戻ろうとする。彼らの有様は、まさに勇猛果敢な雄の生き様を、女神に刻み付ける。
「待ってよ。Nもゾロアークもボロボロじゃない。そんな体で行く気なの?」
「返り討ちにされるのが関の山よ」
 背中に突き刺さるのは正論。一体全体ここまで粉骨砕身の精神を持ち合わせるようになったかは、振り返れば際限無いのだから語るのはやめておこう。Nとゾロアークの精力を抉る一言が、歩みを遅くする。
 先に核心を問うのはヘレナである。
「どうして、そこまでするの。プラズマ団の王様だから?」
 ヘレナはNに死んでほしくないのだ。
「地上での戦いは終わったと聞いたわ」
 バーベナは勘違いをしている。まだ何も終わっていない。むしろ始まったばかりだ。
 操られたキュレムの暴走を想像してみるがいい。イッシュ地方どころか、外国にまで脅威は及ぶだろう。
 足を引きずる。すると、体を崩した。ゾロアークが倒れた。這い蹲ってでも進みたい。まだだ、倒れるわけにはいかぬ。永眠を誘うにしては、日光が眩しすぎる。
「ボクは、誰かのために戦うのではない」
 確かに、ケルディオの嘆きはNを戦場へ駆り立てる要因の一つだ。しかし、生半可な同情でキュレムとの決闘に手を出せば、ケルディオとて良い気持ちはしないだろう。
「では、ナチュラル。何のために貴方は戦うのですか」
 バーベナが改まって毅然と振る舞う。彼女の威厳ある質問は、他でもなく女神と形容するにふさわしい。
「ボク自身に、決着を、つけるためだ」
「あまりにも愚直。死して得るものなどありません」
 今度はヘレナが冷酷に返す。
「死には、しない」
「何故そんなことが言えるのですか。命を保っていられるのは、貴方の傍にゾロアークがいるからでしょう」
 ゾロアークが先に立ち上がったのを見て、Nも少しずつ起き上がる。ヘレナとバーベナは怪訝な顔をする。
「貴方も見たはずです。ゼクロムが城を焼き尽くす様を。人もポケモンも、あまりに無力でした。貴方もまた抗い、儚くなるおつもりですか」
「では、支配を受け入れろというのかい」
 弱点を突かれたヘレナが黙す。代わりにバーベナが反論する。
「命を落とすよりは、その方が良い」
 せっかくの再会も、重々しくなってしまった。これもゲーチスの狙いだとしたら大した策士であるが、さすがに読み取れまい。Nは拳を震わせ、語り出す。王の懺悔に、拝聴の姿勢を取らぬ者はいなかった。
「ボクは今まで、ポケモン達のためにこの命があるのだと思っていた。しかし、違った。ゲーチスはボクを道具としてしか見ていなかったのだ。ボクを利用して、真の王にのし上がろうとしていたのだ。では、何のための命か!」
 Nは両手を広げ、強く訴える。ヘレナとバーベナを真っ直ぐに見る。こんな活力が何処に残っているのか。何がそうまでさせるのか。

「支配を受け入れながら生きるのは、死んだようなものだ。ボクたちはゲーチスに忠誠を誓い……そしてこのイッシュ地方を守ろうとしていた。しかし、それはあくまでポケモンを人間の手から解放したいという気持ちから来るものだった。でも本当にそれで良いのか? このままここで生き永らえることが……キミたちの幸せなのか? 生きる意味を……生きている意味を考えてくれ! ヘレナ、バーベナ!」

 二人とも、顔を見合わせている。
 Nは変わった、良くも悪くも。だが、ピュアでイノセントな芯はそのままだ。人間として、大切なものを失ってはいない。
「これだけのことが起こった後で、ポケモンと人間が手を取り合えると思いますか」
「ボクは、それを成し遂げるであろう一人の青年を知っている」
「例えその青年が貴方の希望であったとしても、やがて命ある者は散ってしまう。その者がいなくなってしまえば、世界はまた元通りになる」
 Nは首を振る。激論を戦わせる最中でこそ、命を吹き返していくかのようだ。
 ゾロアークは人間の本音を間近にしながらも、あえてポケモンの立場を堅持し、一切の介入を拒む。王と女神が一度ここで激突しなければ、プラズマ団の雄志は力を合わせることなど到底程遠い。ぶつかることを恐れてはならない。
「想いは誰かに受け継がれ、受け継がれた想いはまた誰かに伝わっていく。そうして正しい数式が生み出されていく。必ず、意味を為す」
 言い切ったか。よくやった。ゾロアークは納得したように目を瞑り、微笑む。
 ヘレナとバーベナはしばらく言葉を発することなく、Nを睨み続ける。やがて、Nの方から振り切る。
「行こう、ゾロアーク」
 言うことは言った。これでヘレナ達はNを少し疎ましく思うかも分からない。
 あらゆるものに嘘をついた青年は引き返せない。全てを終わらせるまでは、立ち止まるわけにはいかない。この命尽きるまで、戦いに身を捧げよう。本望だ。
 しかし、彼女らもまた、お節介な人間である。
「行くって、何処に。この船のことは私達の方が詳しいんだからね」
「一人で抱え込んじゃ、ダメよ」
 この議論で唯一ポケモンを代表した出席者のゾロアークは、口一杯に野蛮な犬歯を広げる。
 人間とは、つくづく支離滅裂で、奇妙で、面白く、興味深い生き物である。ヘレナとバーベナもまた、諦めてなどいない。負けじとNの足掻きに競っているのが、実に印象的だった。必死の説得は、彼女らにも植え付けるものがあったのだ。
 Nはその時久しぶりに笑った気がした。


 *
 

 ヘレナとバーベナはプラズマ団の象徴たる女神という役職を担当していたのだが、実の所なかなかに強情な部分も覗かせており、Nが散々頭を掻く羽目になった原因である。彼女らはあろうことか、コントロールルームに乗り込み、プラズマフリゲートを機能停止させるべきだとした。船の心臓を先に叩き、ゲーチスの動揺を誘うのだ。
 なるほど、理にはかなっている。だが、ゲーチスは戦略の一つ二つを潰されたぐらいで狼狽えるような人間ではないことは、彼らが身を持って知っているはずだ。隠し玉が伝説のキュレムであった以上、やはり終止符はN自身が打つことになる。ゲーチスとは、最終的に一戦交えることになるはず。万全を期して、かからねばなるまい。

 ヘレナとバーベナはNの期待に存分応えてくれた。
 分岐点までは数える程だった。まるでキュレムがいたような空洞が中央にぽっかりと空いているが、ひとまず無視を決め込んで、パネルに乗る。これはポケモンのテレポートを技術に転用したものなのよ、とヘレナが解説する。自身もエスパーポケモンのおやであるから詳しいのだとNは勘繰る。他愛も無い談笑を何度か交えた。
 パネルに足を乗せた瞬間、千切れるような感覚に襲われる。最初は思わず躊躇ったのだが、大した作用ではないとばかりにゾロアークがずんずんと大股でのし上がり、目的地へと吸い込まれていくのを見てからは、後を追うことにした。あまり爽快とは言い難い移動手段だったが、ゲーチスの考えることは今一つ解せないところが多いようだ。Nがもし現役の構成員ならば、苦痛を伴う移動は是非とも避けたいと提言するところであったが、尚更関係の無い話である。
 
 やがて全員が転送されたのを確かめると、ゾロアークは進み出す。
「何だか寒くない?」
 肩を震わせ、冷気を無理に抑制しようと試みるヘレナ。
 Nはおかしいと勘付いた。人間を冷凍保存して食用にでもしようと目論んでいるような陰謀を感じずにはいられない。正気の沙汰ではない。そして、Nは次の瞬間からしばらく己の見境を失うこととなるのだ。
「ヘレナ!」
 瞬間――攫う、鎖。
 Nの手とヘレナの手が掠れる。距離は遠のく。視線で追及する果て、無機質の結晶体が潜む。
 ゾロアークが気合一閃、球を放つ。だが、精度が低く外れる。敵がここを得意の戦場とする所以でもある。冷凍コンテナのようなけったいな場所にわざわざ身を隠したこともあるような人間が、動力室一つをセッカジムの如く造り変えるのに何の抵抗があろうか。
「離せ!!」
 Nが怒号を投げつけるのは稀有のことなので、バーベナはどんな表情をすれば良いか分からない。
 七賢人ヴィオは自分に課せられたノルマを当然のように無粋な顔で遂行しただけだが、ここまでNの怒りを買うことになろうとは思わなんだ。フリージオは人間を揺らしながら、冷凍光線で辺りを博物館にでもするつもりだ。ゾロアークは辱めを受けたとばかりに喉を枯らしながら、迂闊に攻撃は出来ない。下手を打てば、ヘレナにも危害が及ぶ。捕えた以上、盾に使わない理由は無い。
「なんて卑劣な」
 バーベナは言い淀む。同じ七賢人をとっても、ロットとヴィオの人望は雲泥の差である。
 ヴィオはフリージオを従え、階段を降りてくる。平常とは異なる、いかにも野心を全開に主張したような恰好であった。
「その服は」
「ゲーチス様から授かったのだ。新たなるプラズマ団での地位を約束された。私はゲーチス様の創る世界を見定めることが出来る」
「あまりにも下らない! 地位に目が眩むとは、ヴィオ。貴方もまた権力に操られているのだわ」
 バーベナは至極真っ当なことを言うが、相手にされない。
 Nがもがき苦しむのを見下ろすヴィオは、品の無い笑い方をする。Nは気分を害された。先程まで気軽に話していた相手が、何故だか恐怖心を明瞭に浮かべ、悲鳴を上げているのはどういう了見だ。分からない。ヘレナはどうなってしまったのだ。
「王よ。貴方では力不足だったのだ」
「ヘレナを離せ」
「ゲーチス様こそ、プラズマ団を啓蒙してくださる真の――」
「ヘレナを、離せ」
 ヴィオは大層面白くなかったと見える。フリージオは浮上し、冷凍光線でNの周辺を棘地帯に変貌させる。意地の悪い威嚇だ。
「どちらに利があるかは、貴方ならば判断がつくはず」
 ゾロアークは難なく、氷をかち割った。Nがゆらりと手を伸ばす。
 フリージオがヴィオの命令を待つ前に、冷凍光線を放つ。ゾロアークは気合玉で弾く。氷が鮮やかに舞う。フリージオが攻撃を展開する度、ヘレナは彫像と化していく。嫌な、予感がする。

 Nは立ち尽くす。ポケモンが人間を襲う。
 しかし、主君の命令を順守しているだけと考えるところが妥当だ。単純明快な理屈を主観と取り違えてしまう辺り、まだまだNが成長過程の途上にある青年であることを暗に示す。
 何故、よりにもよってヘレナを。見せしめなら、自分を拉致すれば良いものを。どうして、ヘレナを。
 Nの中で知らない感情が沸き立つ。変に笑いたくなる。ポケモンならば、熱を帯びている。少しポケモンが羨ましくもあった。例えばヒヒダルマなら、摂氏何千度の炎でヴィオを燃やし尽くせるだろう。まさか、自分はポケモンを殺人兵器として運用したいのか。それでは、嫌悪したゲーチスと同類ではないか。
 だが、ヘレナはNにとって無くてはならないものであり、そもそも無いという概念自体が仮定されていなかったことは、Nにおける致命的な感情の隙間である。冷え切っていた身体が目的を授かって、蘇るような感覚を浴びる。憎しみの炎を暖めよう。全てを焦がし、完膚なきまでに屈服させた後、ヘレナを助けることにしよう。そうして手に入れた彼女の笑顔はきっと美しい。
 思い知れ、愚か者よ。考える力も失せた、枯れる瀬戸際の老人よ。これが彼女に渡す想いだ。
 
「無策すなわち、死を選ぶことと同義」
 ヴィオは現代の神を気取ったような高慢さでぶつぶつ唱えると、フリージオを差し向ける。
 Nは躊躇なく、ゾロアークの中で最高位に値する必殺技を命じる。ゾロアークは怪訝な顔をした。
「いいから、やるんだ」
 ゾロアークは口を引き結び、首を振る。
「N! それではヘレナが」
 バーベナは勿論、苦言を呈する。Nの心中で寸分の間に幾らの葛藤が繰り広げられたかを理解しろというのは酷である。もはやNには事の是非がつかなくなっていた。天才の見る影は無い。
「フリージオを倒すんだッ!!」
 獣のように叫ぶと、ゾロアークが腕を振り上げようとする。それよりも早く、頬を痛みが通り抜けた。
 あの温厚なバーベナが。しかし、悔しいのだ。Nは悔しかった。あまりの無力に俯く。
「貴方の怒りはもっとも。でも、自分を見失ってはいけません」
 バーベナはNの肩に両手を置く。Nはバーベナが口元を震わせているのに気付いた。まるで己しか見えていなかった。
 Nは一言、頭を下げる。
「すまない」
 続けざまに起こる出来事で、癒しを届けるものは何も生まれない。
 とうに負の感情に飲み込まれてもおかしくはないし、Nを責める者はいないだろう。だが、今のNはヘレナのために身を捧げるという無茶を平気で行っただろう。バーベナには感謝しなくてはならない。憤怒の炎がそっと吹き消される。
 バーベナはNの傍らを通り過ぎる。
「バーベナ?」
「ナチュラル、先に行きなさい。ゾロアークも。ゲーチスを倒してください」
「しかし、キミ一人でヴィオと」
「私とて、女神と呼ばれておりました。それにヘレナは、私の姉妹でもあるのです」
 彼女はモンスターボールから、ゴチルゼルを召喚する。
 まもなく強襲が訪れる。ゴチルゼルが光の壁を建造し、防いでくれる。
 会話の時間すら与えてくれない。事態はとても悠長とは言い難い。Nは何か言いたそうだったが、ゾロアークが頷く。決断を迫られているのだ。Nとバーベナは互いの顔を見ずに、一言だけ交わす。
「どうか、生きて欲しい」
「私達は、いつまでも家族よ。忘れないで。N――」
 フリージオとゴチルゼルの戦いは益々激化の様相を醸し出している。彼女らに向かう攻撃には振り返らず、最終決戦の地へとひた走る。
 ヘレナ。バーベナ。何となく分かっていた。もう会うことは無いだろう。
 しかし、彼女たちとの記憶は、Nの命がある限り。残り続ける。


 *


 遥か向こうには、ゲーチスとキュレムが見える。ケルディオは血を吐きながら戦っている。

 ダークトリニティの一人が問いかける。
 しかし、決してNの通路を、王の歩く道を阻みはしない。Nの威厳が自然とそうさせるのだ。
「何故、戻って来たのですか」
「ボクには確かに、果たさなければならない使命があるからだ」
 Nは一歩進む。次の一人はこう言うのだ。
「ポケモンの解放は、ゲーチス様の戯言でした。まだ信じるのですか」
「解放が無くても、ポケモンと人はお互いを高みへと誘っていける素晴らしきパートナーだよ」
 最後の一人は何も言わない。話しかけなくても良かったのかもしれないが、自分から告げなければ、一生後悔すると思った。結局、口を突いて来たのは。
「ダークトリニティ。今まで、アリガトウ」
 感謝の言葉。
「感謝などされるいわれはありません。貴方に忠誠を誓っている身ではない。そのことを、お忘れなきよう」
 ダークトリニティが遠くなっていく。彼らは表情を作らないし、感情を示すことも無い。

 正真正銘、これで最後だ。始めよう、ゲーチス。
 プラズマ団終焉の宴。
 王と臣下と、剣士と竜と。これよりは望めない、豪華な配役だと思わないか。


 *

 
 人間を喰らう怪物、などと勝手な伝承を押し広めた挙句、世界から嫌われた疫病神扱いされているあいつを見ると、優越感が芽生えるのを感じていた。キュレムなど取るに足りないポケモンだと、高を括っていたのだ。コバルオン達が何故キュレムのようないかにも凶悪の形相と共闘戦線を組んでいるのか随分理解には苦しんだ。住処が同じだから、せいぜい仲良くしてやろう。媚を売っておけば、後々利用してやれないこともない。そんな末路ではないかとすら思っていた。とんでもない、コバルオン達の心はどこまでも穢れなく、そして高貴だった。

 ケルディオがコバルオン達からはぐれた時のことだ。走ってもすぐに息切れを起こすケルディオは、普段の修業一つとっても付いていくことを至難の業とした。よりにもよってジャイアントホールの洞窟を探検するという内容であったため、ケルディオはいつかキュレムと出くわすのではないかと内心怖気づいていた。疑念は確信に変わる。ケルディオは無意識の内に野生ポケモンの縄張りへ踏み込んでいたようで、集中砲火を受けた。まだ力も弱く、体力もすぐに無くなるケルディオにとって、野生ポケモンとの戦闘は実戦もいいところだった。必死にコロモリやココロモリを振り払おうとする中、そいつは現れた。キュレムだ。噂には聞けども、実際に目撃するキュレムがこれほど畏怖の象徴であると予想だにしなかった。挟み撃ち。前方はキュレム。後方はコロモリの群れ。万事休す。
 キュレムは咆える。時を止めるような威力。たちまちコロモリ達は一目散に逃げ出して行った。残されたケルディオは、足が竦んで動けなかった。散々内心で下に見ていた存在は、大きな体で、所々が氷の鎧で覆われていて、どう考えても強いとしか思えなかった。コバルオン達と合流しなければ。自分の身は自分で守れ。口をすっぱくして、教えられたことだ。あわよくばケルディオは戦う決意を持ち合わせていた。今でも心の支えとなっている。キュレムの第一声が、今になって思い出される。
『良い剣だな』
 その時からだ。コバルオン達の目を盗んでは、キュレムの洞窟に通うようになったのは。

 ケルディオは泣き、叫ぶ。
 嗚呼、かっこ悪いな。なんて無様だろう。聖剣士という称号を手に入れながらこれだ。ざまあみろ、見下して来た罰を受けたのだ。キュレムは暴れ狂う。瞳はまっすぐにケルディオを射止めるが、友達のそれではない。ケルディオを破壊しようとするような目つきだ。内臓を砕き、血液を搾り取り、肉体を粉塵にするつもりだ。本当にそうなる気がしていた。キュレムの強さは、もはやポケモンを超えていると結論付けたい。全身から冷気が迸り、通った所が氷の大地になる。どんな攻撃を受けても、装甲は傷一つつけさせない。これがポケモンではなくて何だというのか。コバルオン達は、キュレムと決闘を行い、聖剣士の力を認めてもらったという。ケルディオにはまだ早すぎた。そして、キュレムと渡り合えるコバルオン達はやはり憧れに相違ないのだと思い知る。
 腹を蹴飛ばされる。骨の何本か逝っただろう。天井に打ちつけられ、背中と腹、対照の箇所ばかり攻め込まれる。竜の顎をした波導が顔面を潰そうとする。終わりなのか。
 Nに認められた時は嬉しかった。初めて人間というものの本質に触れられた気がした。鼻を高くしすぎた。やるべきことはやった。コバルオン達はケルディオを誇りに思うだろう。
 招き寄せる死に、抗う気力すら湧いて来ない。いっそ、これで楽に――。

 波導の鼓動が失せる。目の前で起こったことの是非がつかない。生きている。まだ、生きている。
 自分を守ってくれる大きな盾となる存在が起立していた。古代ポケモンの類だ。ジャイアントホールでは見ない顔。ケルディオを守る者はもう1匹いた。彩色豊かな翼をはためかせ、キュレムを寄せ付けまいとしている。
 ケルディオは事の真実を知る。Nが、全てのモンスターボールを空に投擲していた。緑と赤のコントラストが飛び交う。
 アバゴーラ。アーケオス。ギギギアル。バイバニラ。ゾロアーク。
 ナチュラル・ハルモニアの惜しむこと無き、真なる総動員。彼は怒るわけでもなく、かといって哀れむわけでもない。ゲーチスから目を離さず、決着をつけようと不敵に誘いかけているようですらあった。これがNなのか。ケルディオは震撼する。周りのことも気にならない。空間の一切を遮断して。ケルディオは今、Nの王たる所以を間近にしていた。
 空気が踊る。ゲーチスがステッキを突き出すと、キュレムが襲い掛かるが、ゾロアークは暗黒術で防衛を図る。
 彼らは誰がどう贔屓目に見たところで満身創痍だ。戦える体力だと、馬鹿馬鹿しい。許容範囲は超えた。生きていること自体が不可解。ケルディオは今すぐNを助けに行け、とアバゴーラ達に伝えるが、彼らも意固地なのか微動だにしない。湧き出るものは何だ。そこまでして、命が惜しいか。死ねば楽になるのだぞ。のたうち回っても治まらない苦しみを身に宿すぐらいなら、断ち切った方が良い。ケルディオは紛れもなくこの場から逃げ出そうとしていた。しかし、王はケルディオという名を持った、大切な一市民を守るかのような剣幕である。足を動かさないのは、ケルディオもまた剣士の端くれだからだ。

 ゲーチスは何かをNに言っているようだが、彼は聞く耳を貸していない。ゲーチスも堪忍袋の尾が切れたのか、モンスターボールを放り投げ、イッシュの古今東西を巡らなければ手に入ることの無い下僕共を整列させる。
 デスカーン。シビルドン。キリキザン。バッフロン。ガマゲロゲ。サザンドラ。
 五対六、形成不利にも程がある。Nの周りをギギギアルが漂い、ゾロアークが傍らに付き、バイバニラが浮かんでいる。
 対して、ゲーチスのポケモン達はどれも餌の時間を待つ血に飢えた獣だった。悲しきかな、あれが正しいポケモンの姿なのだ。ケルディオは野生を幾度となく焼き付けて来た。一方でNのポケモンときたら、いかにも穏健な顔つきで、太刀打ち出来る気がまるでしない。

 ゲーチスがステッキを振るった。開戦の合図。キュレムが雄叫びを上げる。
 シビルドンがお手並み拝見とばかり、床中に電流を張り巡らす。地盤に拠り所を求めるのは危険だ。
 さあ、どうする。王はアーケオスを頼みにする。アーケオスは助走をつけて、計ったようにNを乗せる。空を飛ぶ。箱の如く封鎖された窮屈な空間に楽しみを見出し、戯れているかのようであった。Nの表情がゲーチスを曇らせる。
 次なる刺客はキュレムか。アーケオスを二度と飛べなくしてやろうというつまらない算段であろう。予想に難くない。ケルディオは駒の一つとして扱われるキュレムを見て、尊敬の念すら抱いた存在への落胆を覚える。
 アーケオスは石の刃でキュレムを穿つ。効かない。効くはずも無い。キュレムはアーケオスを仕留めるために冷気を発する。ここで電光が発射された。チャージビーム。アーケオスはタイミング良く、キュレムにだけ攻撃を当てる。長年培ったコンビネーションはお互いの呼吸すら聞き取れる。これしきで怯んだのかキュレム、いやまだだ。
 ゲーチスはステッキで荒く床を刺激すると、対アーケオスにガマゲロゲを使用する。すぐさまハイドロポンプが魔物の形相で噛み付く。ガマゲロゲは仕留めた実感を得る。しかし、ギギギアルのチャージビームは速さを増していた。激流を突き破り、金色の矢に昇華する。
 Nが叫ぶと、バイバニラが冷え切った室内に止めを刺す。キュレムには効き目が無いが、他のポケモンは次々と呻き声を挙げる。使えない道具共だ、とゲーチスが怒号を放つのが聞こえる。もはや下劣な言葉を真に受けるNではなかった。吹雪の功績によって、ガマゲロゲとシビルドンが崩れ落ちる。しかし、アーケオスもまた限界を迎える。負担が大きかったのだ。アーケオスを労い、モンスターボールに戻す。
 冷気を兜で耐え抜いたキリキザンとゾロアークが取っ組み合う。奇しくも再戦のカードである。キリキザンが手刀を横薙ぎに繰り出す。遅い、とケルディオは思った。スローモーションで見ているのかと間違える。ビリジオンだったら、刹那の油断をもって斬り込んでくる。ゾロアークは身軽に宙返りすると、キリキザンと地獄車を共にする。皮膚はめくれている。この対決はキリキザンに分があるか。
 激闘は各地で勃発している。バッフロンが、アバゴーラやケルディオ目掛けて突進してくる。Nが指示すると、アバゴーラは甲羅に亀裂を入れ、足に力を入れてバッフロンを受け止める。重量ポケモン同士の根競べと洒落込む気だろう。アバゴーラはバッフロンの角を掴み、天井目掛けて吹き飛ばす。バッフロンがゲーチスの命令で光線を放ち、対象を選ばない無秩序がバトルフィールドを混沌に落とし込む。ゾロアークはもちろん、キリキザンまでをも巻き込み、ギギギアルの鋼鉄を貫き、尋常ではない被害をもたらす。これでギギギアルとキリキザンが力尽きた。
 Nは残すところ、ゾロアークとアバゴーラ、更にはバイバニラ。対するゲーチスは、サザンドラとデスカーン、バッフロンと主力級を慎重に温存している。さすがにプラズマ団の七賢人だけのことはあり、戦闘を有利に進める方法を心底心得ている。ここまでは互角の立ち回り。ゲーチスにはキュレムという切り札があることを念頭に置かなければ十中八九負ける。そう、キュレムがいるからゲーチスは絶対に負けない。キュレムが、いるから――。

 あれ。おかしいな。
 何故、自分は棒立ちでいるのだろう。
 Nが身を粉にし、更にNのポケモン達が次々と倒れて行くのを分かっていながら、どうして平気な顔をしているのだ。友を傷つけるのが辛いから。分かっている。戦う勇気が失せたから。分かっている。
 キュレムが迫り来る。今度こそNを冥界へ召すために。
 危ない。
『キュレムゥゥゥゥッ!!』
 剣を、振るった。振り切れたように疾走する。
 自分でも信じられない。何をしているのか。痛いのだからやめてしまえ。
 絶壁の鎧にひびが入る。ど突き合う度、キュレムの頭部が小さくなっていく。削り取られていく。
 やめろ。やめろ。もう、いいだろう。
「ケルディオ!?」
『早く行け!! ここは私が引き受けるッ!!』
 おかしいな。
「しかし!」
『友を救えずして、何が聖剣士だ! 何が伝説だ!』
 おかしいな。
 何度もぶつかっていくと、キュレムはまるで氷山のような高さだ。ずっと近くにいたのに、そんなことも知らなかったのか。自嘲が零れる。所詮は浅い付き合いだと悲しくなる。でもこれから、お互いのことを知れば良い。時間はたっぷりある。今だけはそのために。いつか笑い合える日がやって来ると前を向いて、進む。
『私がキュレムを引き受ける。N、お前はゲーチスに止めを刺せ。お前なら必ず勝てる。私はお前を信じる』
「ケルディオ」
『行け! 我が友よ!』
「トモダチ……恩に、着る!」
 Nはサザンドラの攻撃を掻い潜る。アバゴーラの背に乗って、ゾロアークやバイバニラと共に、最後の敵を一直線に目指す。
 そうだ、それで良い。ケルディオは聖剣士なのだ。聖剣士は悪を断罪する正義である。やるべきことは唯一に決まっている。何を迷う必要があったのか。
 さあ、キュレムよ。お前の強さはその程度には収まるまい。
 お前の怒りと悲しみとを、受け止めよう。野生を唸らせろ。携えし神秘の剣、簡単に折れはしない。

 
 *
 
 
 アバゴーラは遥か海底の地層で化石が発掘されたポケモンだが、雪原を自由奔放に滑っている。ゲーチスからすれば、御しがたい光景だろう。所詮Nもポケモンを乗り物のように扱うのだと嘲笑っているようだが、揚げ足をいちいち取るのが好きな、寂しい人種のようだ。Nは必ず刺し違えてでも、キュレムを蝕むステッキだけは破壊する決意でいる。
 アバゴーラが先手を取って滑り込む。デスカーンは四本の腕を駆使して、アバゴーラの破壊的な特攻を未然に防ぐ。ゲーチスはほくそ笑むが、同じく笑みを浮かべたゾロアークがバッフロンの足場を崩す。そのままケルディオとキュレムの対決の巻き添えになった。ゲーチスはあっさりとバッフロンを見限る。

 ケルディオは喉が裂けるような雄叫びを上げ、壁を走る。 
 勢いは上昇。今なら当たる、気合玉も。キュレムは飛翔すると、吹雪一つでこれら全てを撃ち落とす。圧倒的。実力差は明白。ゲーチスは心酔する。力こそ、世の理に帰結する全ての原理だと言わんばかりに。
 もうケルディオが諦めた様子は無い。瞳が未来しか見据えていないのだ。Nには分かった。
 ハイドロポンプで速度を調節し、アクセルを踏む。ケルディオの十八番。キュレムが爪を肥大化させる。まもなく激突音が轟く。
 
 刹那、天空からの凄まじい洗礼が降り注ぐ。
 バイバニラが障壁を展開し、Nとゾロアークを覆う。間一髪瀕死を免れたが、流星群は降り止む気配も無い。サザンドラをもって天を制する。デスカーンをもって地を制する。ゲーチス、この期に及んで悪意の戦略には底が知れない。
 Nは鋭く天を指す。決めるしかない。弱気など要らぬ、捨ててしまえ。バイバニラが消え入りそうな息吹で立ち向かう。力不足か、否、醜い小細工だって良いのだ。反撃の好機とは、僅かな綻びからいつでも生じるものだ。ゾロアークは必ず、その隙を見逃さないだろう。

 デスカーンが、灼熱の霊魂でアバゴーラを苦しめる。こうなっては手も足も出ない。
 金箔の棺桶に恥じない硬さで、反撃を寄せ付けない。ゴーストという性質からして、そもそも実体を掴みにくい。流星群の余波は、バイバニラと同種の障壁を展開することで無害に留めている。アバゴーラは殻に籠って何とかやり過ごすが、苦肉の策だ。案の定、デスカーンは念力を送り込み、アバゴーラの体内機能全般を停止させる。サイコキネシス。弄ばれている。糸を繰るように、デスカーンはどうやって叩き潰そうか思案する。
 サザンドラが三つ首をもたげ、荒れ狂う。標的はアバゴーラだ。デスカーンが捕らえた獲物を狩るのはサザンドラの役目だ。ゲーチスはポケモンに役割を振り分けながら戦っている。空中で暴発が起こり、アバゴーラの落下音は敗退を物語る。Nは一言告げると、モンスターボールに戻す。ゲーチスはサザンドラとデスカーンに指示を送りながら、キュレムをも意のままに動かす。精神力だけなら敬服の一つも示してやりたいところだが、生憎貴様のような下種には少しの感心も許したくないという、一同の切羽詰まった表情である。
 いよいよNは追い込まれる。デスカーンとサザンドラのどちらを先に倒すべきか、高速で演算する。
 サザンドラは流星群でNの戦力を一気に削ぐ。デスカーンはサザンドラの補助を兼ねる。サザンドラさえ無効化してしまえば、デスカーンを後回しにしても辛くない、そう判断する。ゲーチスも次なる対抗策を練っているはずだ。
 
 突如、船内が揺れる。
 ポケモンの攻撃による負荷だと最初は思った。
 Nだけでなく、ゲーチスも怪訝な顔を浮かべている。何事か分からないが、気運はこちらに傾いてきたようである。ゾロアークが怒涛の反撃に転じる。サザンドラは首を刈り取られぬよう機敏に回避する。デスカーンがしばらくして起き上がるが、バイバニラの撒いた種が今になって萌芽する。デスカーンは氷の手錠に束縛され、バイバニラの術中に嵌ったのだ。ゲーチスは歯軋りする。サザンドラがゾロアークを吹き飛ばすや否や、バイバニラを猛然と葬り去る。やはり最後まで生き残ったのは、互いに縁を長くするポケモン。

 Nとゲーチスは激震するプラズマフリゲートで、重心を保つことに善処する。床の傾斜が今までと違う。ゲーチスも悟ったようだ。何を隠そう、戦艦は今操縦者を失い、地上への墜落を目指している。すなわち、もう一つの戦いには決着がついたという意味。ヘレナとバーベナは勝利を収めたのだと、Nは確信する。コントロールルームで事故が起こったのだとすれば、舵取る人間がいないことにも合点は行く。
 ゲーチスはこれまでかと呟くが、勇気の撤退を考えるほどNは計算高くなかった。あくまでも、この男を悔い改めさせるような一撃をお見舞いしなければ収まりがつかない。
 だが、死闘の許容範囲を遂に超えたプラズマフリゲートが悲鳴を上げている。
 どうか、耐えて欲しい。後もう少しで、全てが終わる。賭けをしたり、神に祈るような趣味は持ち合わせていないが、こうなれば僥倖にすがる他あるまい。
  
 Nは請う。両手を組み合わせて。
「最後のトモダチ……ボクに勇気を分けてくれ!」
 ゾロアークはただ、頷く。
 サザンドラが奇声を発し、ありとあらゆる技で敵を甚振ろうとする。暴君という言葉を今のサザンドラは体現していた。ゾロアークは赤毛を振り乱しながら、噛み付きを解き、頭突きを食らわせ、揉み合いへし合う。
 ゲーチスは大層不機嫌である。ステッキを握りしめる手に、先程までの余裕は見られない。
「ワタクシは、アナタの絶望する瞬間の顔が見たいのだ!」
 ゾロアークとサザンドラは、全力全開で互いのエネルギーを余すことなく放出する。もう出し惜しみすることもない。決めよう。
 終わりにしよう、何もかも。イッシュ地方は、ポケモンと人間の笑顔が溢れる大陸に戻るのだ。元来の姿を取り戻すだけだ。
 間違った歴史を修正し、限りない時間と空間を歩む者達に向けて、今こそ生命の波導を送る。

 響け!
 槌を振り下ろすが如く、地上に迸る闇の炎熱を疾駆させる。
 神と奢り高ぶった獣によって創造された疑似なる宇宙から、無限大の隕石が降り注ぐ。

 時の流れを拒んだ凍える世界が、角を振り上げ嘶く勇士を招き入れる。
 森羅万象の恩恵を貰い受けた神秘の剣が、大氷山の牙城を断絶する。
 呪縛は、解き放たれた。

 これは、ポケモンのために戦い続けた人間の。
 顛末にして、一つの物語である。


 *
 

 朝日というものは、一日の始まりを予感させる。
 不安と期待を呼び起こす全世界共通の威光は、世界の行方が左右された後になって、ようやく顔を覗かせた。
 二人の女神と、聖剣士、そして虚無を司るポケモンは忘れないだろう。一人の青年の名をなぞる。
「N」
 その声は、いずれ――。

 自我を取り戻したキュレムに、Nがかけた言葉はただ一つである。
「ボクはまだやるべきことがある。この船にいる者達を助けて欲しい」
 キュレムは承知した。ケルディオを助け、どこかに飛んで行った。水晶が透き通っているように見えた。
 子は父にも手を差し伸べたが、逆に振り切られた。サザンドラによって刻まれた傷がゲーチスの憎しみだろう。彼の計画は頓挫した。ゲーチスは、墜落の彼方に姿を消した。最後に白と黒の残影が見え隠れしたが、そこからの記憶は無い。


 *


 何処だかも判別がつかない場所に、燃え上がる炎があった。
 夢の跡は空しく残骸と化し、好奇心旺盛に駆け寄ってくる者達にとって注目の的となる。中より出で来る者がいたという事実に驚いたのか、野生ポケモン達は興味津々の瞳でまじまじと観察する。
 ある者は、その青年を知っている。
 ある者は、その青年をこれから知ることになる。
 世界の歯車は廻り続ける。大陸全土を巻き込んだ戦争は終わりを告げ、真なる一種類の世界に向けた再生が始まる。
 
 白と黒の帽子を被り、緑色の髪を靡かせ。
 小惑星のペンダントをかけ、手首には砂漠の宝を有する。
 勇む足は、変わらない志を称える。
 
 大空を見上げる。連れ添ったポケモンも同じようにした。
 この世界はどうしようもなく不条理に創られている。だからこそ、皆が足掻くように生きる。
 光に手をかざして、彼は言った。

「さあ、行こうか。ボクのトモダチ」

 未来をこの眼で確かめるために。



 【    了    】



はやめ ( 2013/06/23(日) 20:37 )