第一章 始まりを告げる物語(5)
明け方。ムックルも目を覚まし、活動を開始する程の時間帯。玄関ではシンの旅立ちをリースとアモルが見送っていた。
一応の準備も済ませ、シンがバッグを右肩に掛け、立ち上がる。
「んじゃ、行って来るわ」
「元気でやるんだよ、シン。連絡くらいは寄越しなさいな」
「分かってるよ」
シンは肩を竦ませると共に、またこれかと言いたいような面持ちで対応する。彼女も彼女で、腕を組みながら、
「ここはアンタの家なんだ。いつでも帰ってきて良いからね」
「分かってるよ。リースも元気でやれよ」
「勿論だとも。シンも頑張ってね」
「無論さ」
そして、行って来ますという一言と共にシンは家を発った。気付けば、いつもの光景がもう無いのだと実感せざる得なかった。
それから数時間後、リースはナナカマド博士のところへ連絡を入れた。
昨晩した決意を博士に伝えるためだ。当人も電話越しから喜んでいるような反応をしている。リースにとってはそこまで嬉しい事なのだろうかと思ってしまったのだが、そこは深く気にしないでおいた。
しかし、一方で深刻な問題もあった。それは彼がこれから一週間ほど用事でマサゴタウンを離れるという事だ。それにあわせて、リースの旅立ちも事実上一週間延期する事となった。決意した矢先にこれか、と思う一方で一週間という時間を彼なりに潰す事にした。
まずは自分の元々住むべき家の再整理だった。
「で……これが父さんの研究資料、か」
元々研究者であった父はその研究データや資料を自宅に保管してある。そういったところは今まで手を出さないでいたが、この一週間を利用して父親の事をもっと知るべきなのではないかとリースは思ったわけである。
勿論、それ以上に何かしら旅をする上で役立つ事もあるだろうという考えの元からの行動だったが、これに関してはアモルもなるべく手を加えなかった影響もあってだろう、辺りは埃塗れだ。
五年近く父の研究資料を纏めた部屋は誰も入らなかった事もあり、埃がどんどん出てきて、資料を読み進めるどころではない。それどころか何一つとして研究資料が統一されていないのだ。最初は何かの偶然だろうかと思ったがそうでもない。いくつか統一されてはいるが、基本的に統一されているものは数少なく、大部分で見ると一貫性が欠けている。
それにやはり、と思っていたがどれもこれも難解で読み進めるには至らない。纏めたりする作業はしていても、結局三日ほどでその作業を打ち切った。残りの日数は長い旅になる事を見通しての準備だった。
この頃にはアモルにも旅に出る事を口にしており、それを聞いたアモル自身も当初は驚きを隠せないでいたが、事実は事実であると受け止め、すんなりと協力してくれた。そしてリースもまた、出発の日を迎える。
いつもの身なりに加え、黄色い革製のショルダーバッグを右肩に掛け、黒い文字で『R』と書かれ、その周囲だけ白く、それ以外が全部黒という帽子を被り、今まさに旅に出ようという時だった。
「早いもんだね。こうしてみるとアンタがウチに転がり込んできたのが六年も前なんだって思うと」
アモルは懐かしむように笑みを零して口にする。リースもそれには同意できるようで、一礼すると、
「本当にお世話になりました。何かしらの形でお礼が出来たら必ずします」
「いいんだよ。リース、アンタはもうわたしらの家族さ。何も気にする事はない。思い切りやりたい事をやってくればいいんだよ。そうだね、強いて言うなら――」
彼女はそこで思い起こすように目を閉じ、口元を緩めると、
「シンと会ったら元気かどうか聞いておくれ。近くに寄った時でもいいから顔を見せて欲しいってね。勿論、リース……アンタもだよ」
「分かりました。シンに会ったらそう言っておきます。それとアモルおばさん。家の事ですけど……」
「管理の件だろ? 大丈夫だよ、安心しなって」
その一言にリースはホッとしたのか、息を撫で下ろす。アモルの返答など分かりきっていたのに、それでもしてしまうのはどこか思うところがあったからだろう。
思うところ、と言うとそれが何かは分からない。しかし父の研究資料を見ていて感じているのは一つ。アレは誰かに見せて良いようなものじゃない、という事だ。
研究内容がどうであれ、あそこまでバラバラで統一性のない資料の数々はどう見ても、全うな人物が行うようなものでないという印象を植え付けた。
彼女はきっとそれを蒸し返すような事はないと信じている。だからこそ安心したのだろう。
「では行って来ます」
「頑張るんだよ!」
アモルの声を背に、リースはラルトスと一緒に旅立った。風はこの旅が順風満帆に進む事を暗示するように静かに、穏やかに流れ通っていく。
「リース、改めてお礼を言わせてくれ。研究の手伝いの件、ありがとう」
旅に出る、とは言ってもまずは依頼した当人――つまりはナナカマド博士の下を訪れたリース。そこで彼は手厚い歓迎を受けた。そして、ナナカマドはこう続ける。
「これから君にお願いするのは今シンオウに住むポケモン達の調査だ。分布調査、と言ったところかな。勿論、無理に全部を調べる必要はない。少しでも多くの情報を集め、今までいなかったポケモンがなぜそこに新しく生息するようになったのかを調べるのも研究者としての仕事だから、気兼ねなく各地を巡って欲しい」
大体の話は飲み込めたようでリースは静かに首を縦に振って頷く。それを見たナナカマド博士もまた、小さく頷くと後ろの机の引き出しを開け、その中から一つの機械とモンスターボールを取り出した。
「旅をする上で君に……まずは、このポケモン図鑑を贈ろう」
と、博士が片手で持てるような赤い機械を差し出した。
ポケモン図鑑。世界的にも有名なオーキド博士が、幾人もの仲間と協力して作り上げたポケモンの生態調査を目的とした一品で、それさえ使えばポケモンの詳細な情報が一目で分かるというシロモノだ。
「これには少々特別な機能をつけていてね。君が旅の中でこの図鑑を開く事があるだろう。すると、君が見たポケモンのデータがこちらにも送られてくるわけだ。この地域には新しくこんなポケモンが生息するようになったのか、と判断できるようになる」
博士の話はとても魅力的だ。確かにそれなら博士達は文字通り忙しくても気軽に生態調査が出来ると言う事になる。しかし、一方で問題点もあった。それはトレーナーの持つポケモンだ。
だが、そこに関してもナナカマドがこう告げる。
「トレーナーのポケモンに関しては問題いらない。トレーナーが別のトレーナーのポケモンを捕獲できないようにしてあるシステムを応用させてもらって、トレーナーのポケモンに関しては図鑑を使ってもこちらへはデータが流れないようにしてあるのだよ」
「なるほど……」
感心する他ない。リースは首を縦に振る事で納得の意を表した。そして、博士がもう一つ――モンスターボールを手渡してくる。
「私からの門出の品だ。受け取ってくれたまえ」
真新しいモンスターボール。中には恐らくポケモンが入っているのだろう。リースは恐る恐る、ボールの中を開いた。
そこから現れたのは黒と白を基調とした朗らかな容姿をしたポケモン。図鑑を開いてみるとそこにはゴンベ、と表記されていた。
「ゴンベ……。君、僕と来たいかい?」
無理やりに連れて行く事は決してできない。ゴンベ自身の意志を確認するためにゴンベと同じくらいの高さまで腰を落として、言葉を投げかける。ゴンベは身体全体で頷くと、リースの側へ寄っていく。どうやら人懐っこい部分があるようだ。
「ゴンベ、よろしくね」
ゴンベが元気よく声を出して応対したところでリースはボールの中へゴンベを戻す。その一連の流れを見て、ナナカマド博士が動いた。
「さぁ、いよいよ旅立ちだな。前途多難な旅になるのは間違いないだろう。大変だろうが、頑張ってくれ」
「はい」
リースがゴンベのボールを腰のベルトに装着し、博士に告げる。
「では、行って来ます」
「うむ、頑張りなさい」
この瞬間、彼の旅の幕が開いた。
果たしてそれは一体如何様になるのだろうか。それを知るのは神のみぞ知る運命である。