第一章 始まりを告げる物語(4)
結局、結論をその場で出す事は出来なかった。
当然の事である。いきなり調査を手伝ってくれと言われれば誰だって困惑する事は違いない。それはナナカマド当人が一番理解していたようで、その気になったら連絡してくれと言ってくれた。
因みに先の戦いの舞台となった研究所の中はひどい荒れ模様になっており、研究資料などが全部乱雑になり、あまつさえ研究のために使用する機器などは一部が完全に破損してあった。
ナナカマド博士自身が誘拐されなかったので、よしという事になったがヒカリ曰く損害は相当の額に上るとリースは聞かされた。分かりきっているが、それを聞いて青ざめたのは言うまでもない。
そして、片付けもひと段落したところでリースは家に帰る事になった。既に日も暮れていい時間だったので、彼なりの配慮といったところだろう。最も、彼に帰る家などあってないようなものであるが。
「お帰り、リース。遅かったじゃない」
フタバタウンへ戻り、彼の現在の家の玄関でまずかけられた第一声。笑顔で出迎えてくれた一人の女性。エプロンを身に着け、団子のように髪の毛を纏めたその女性。続けて、
「遅くなるのは仕方ないにしても、連絡くらいは寄越しなさいな。ところで何処に行ってたんだい?」
それに関してリースはこう返した。
「ナナカマド博士のところに。少し話を聞いてもらってました」
「ナナカマド博士!? 驚いたね……なら仕方ないか。熱中して話してたらこんなに遅くなっちまったのかい」
「まぁ、そうなります」
リースの返答にふぅん、と返すと女性は奥のリビングへと進んでいく。その後を彼も追った。今日の事は伏せておくつもりだ。ナナカマドやヒカリ、ジュンに言い含められたのもあったが、それ以上にペルタと名乗った男の目が自分の時だけ、やけに違って見えたのがどこか不気味だったというのもある。勿論、気のせいだと信じているが。
リビングはどこにでもある家庭の風景だ。テレビはあり、キッチンはあり、そしてテーブルがある。強いて違うのであればそのテーブルには既に先客がいた。
「よぉ、遅かったじゃんか」
「ただいま、シン」
と、リースが返した。そう――ここはシンの家なのだ。
話は遡る。リースの両親は彼が生まれた直後に離婚しており、リースは父親が引き取ったものの、肝心の父親は六年前に亡くなった。
その後、父親と生前家族ぐるみで縁のあったシンの一家が彼を引き取る話となる。勿論、通常であればリースの母親が引き取るべきなのだろうが、肝心の所在が分からなかった上、リースの父の両親も既に息を引き取っていた事から、最も親しかった彼らが引き取るという話になったのだ。リースもそれを素直に受け入れ、それ以来少年は幼馴染の家で暮らす事となり、元いた家は取り壊す事無く、管理をシンの両親がしている形で残されている。いずれ成長した後に彼に管理を引き渡すという話になっているのだ。
そしてシンとリース、シンの母親がリビングの椅子に腰掛ける。ラルトスやニューラもボールから出ての晩餐だ。テレビではいつもと変わらない何気ない番組が流されているが、その騒がしさをBGMにして、三人は夕食を嗜んでいた。
「アモルおばさん、晩御飯を食べたら少し外に出てきます。そんなに遅くなるつもりはないですから」
と、リースがシンの母親――アモルに声をかける。
彼女も首を縦に振って、了承した。行き先が分かっているので、特に問題もないのだ。野生ポケモンが活発的に動き出すこの時間であるが、この少年がこんな夜間帯で平然と外出する光景を今まで幾度見てきている以上、特別心配はしていない。
そんなリースをシンは横目で流すように一瞬見た。しかし特別そこまで何か興味があったわけでもないようで、すぐに手につけていた食事に再び戻る。そして、
「母さん、俺もちょっと支度するわ。後で見てもらっていいかい?」
「構わないよ。前々から言っておいたけど、部屋の片付けやっとくんだよ。アンタはいっつも片付けないんだから」
分かったよ、とシンはすぐに返す。そこの中には母の説教を受けたくないという暗示があるのだろう。何せ、顔色が少し苦々しくなっている。引き攣っている辺り、しつこいなと言葉なしで語っているようでもあった。
晩御飯を済ませ、リースは外へ出る。行き先はフタバタウン近郊にある湖、シンジ湖だ。
夜のシンジ湖は穏やかで且つ、静か。時折風が流れるが今日は特に強くも無く、月明かりが湖面に浮かぶくらいである。水辺に近い岸辺でリースは腰を下ろした。傍らには当然、ラルトスも控えている。
『珍しいわね、この時期に来るなんて』
声が響く。リースも静かにそうだね、と口にした。ラルトスが会話するように二三、声を出す。何を話しているのだろうと思った後、彼へ話が返って来た。
『……へぇ、今ラルトスと話したけどあの堅物爺さんのところに行ったのね』
「堅物爺さん、か。君はあの人をそう言うんだ」
リースが独り言のようにそう呟く。湖には野生ポケモンこそいても、人間は彼一人。しかし、声が響いているのは事実だ。女性的な声である。
「まぁ、何かとうるさい部分もあるからあながち間違っていないのかもね。テレビとか新聞とかだと結構うるさいらしいし」
『人間の癖に人間を追い掛け回すんだもの。何がしたいんでしょうね。ホント、分からないもんよね』
呆れたような口調で返してくる声。リースは笑うしかなかった。微笑むように。そして、空を見上げ、静寂の中はぁ、とため息を零すように一息置くと喋り始めた。
「旅に出ないかって」
『旅? そりゃいいじゃない。閉じた世界にいるより、開けた世界の方がよっぽど身のため。自分の事しか知らないんだからあんたはもっと外を知るべきよ。内側にいたって何も変わりはしないわ』
諭すように、それと同時に突き放すかのような口調で語りかける声。少年はそれを聞いて少し思考する。自分の取るべき選択を。
きっとこの機会、千載一遇と言っていいこのチャンスを振ればきっと自分がこの町を発つ事は無いだろう――それだけはどことなく分かっていた。根拠なんて勿論ない。
しかし一方で外の世界への不安が無かったわけではない。少なくとも、外の世界に興味はある事は事実だ。否定はできない。しかしそれと同じくらい外への恐怖が彼の中には残っている。
静寂の中を流れる風。誰もリースを急き立てたりはしない。彼の選択は彼自身によって決定させるべきなのだ。そこに何者かが付け入る事は絶対に許される事ではない。やがて十分か、三十分か、はたまた一時間か。静かに流れた時は時間の感覚をも狂わせる。
悩みに悩み、そして考えた先に一つの答えをリースは示した。
「出るよ。旅に出る。ここを立ち去るのは僕としては……まぁ、あれだけど」
気まずそうに口にする彼に対して、声の主が答える。
『それでいいのよ。それだけでもここにいる彼らに十分報いてる。あんたにはあんたの道がある。それを止めていたのは他ならぬあたし達自身。そういった意味ではあんたに依存していたのは他でもないあたし達だったのかもね』
「えらく認めるんだ」
『事実だろうし』
照れるような声だった。彼は笑みを浮かべると、声の主に別れを告げるように言う。
「元気でね、エムリット」
『元気でやりなさいよ、リース』
少年は去り、歩き出す。彼は発って、走り出す。
それは脱却か、否か。
彼の物語の歯車がゆっくりと、しかし着実に回り始めた。