蝶と蜂
泣いていた。二人のヒトが泣いていた。
どちらもワタシにとっては大切なヒトだ。あの子が泣きながら、目に一杯雫を零しながら言った。
「ねぇ……」
「どうしたの?」
ワタシの主が無理に涙を堪えて返す。あのヒトが更に言った。
「ずっと忘れないためにさ……何をしたらいいと思う?」
あのヒトの言葉に主人は。
「そんなこと、簡単じゃん」
「何なの?」
「お互いのことを覚えてればいいんだよ」
ずっと――忘れないように。
それがワタシの主の言葉だった。その一言に安心したのかあの子は、
「そっか。そうだね」
「当たり前だろ?」
気付けば二人の涙は止まっていた。そして。
*
突然だった。
「貴方のスピアー……とてもかっこいいじゃない」
その人物はまさに突拍子も無くそんな言葉を紡いだ。
太陽がもうじき真上に来るだろうそんな時間。一人の男と一人の女が正面から向き合う。
場所は美しく生い茂った森の中。葉が静かな風と共に靡き、太陽の陽を巨大な木々が妨げ、少し薄暗い。
男は麦藁帽子に白のTシャツ、青の短パン、更にはリュックサックを担いでいる。髪の毛は黒く、尖ったようにツンツンとなっており、更には何も感じないように死んだような黒い目をしていた。
対する女性はワインレッドのスーツを身に着け、茶の髪を腰にかかるまで伸ばしている。目の色は赤く、背も男より高かった。
男は不審な目で、こう口にする。
「誰?」
「あら、アンタ私を知らないの? まぁ、それはそれでいいわ。その方が何かと都合がいいもの」
女はそんな言葉と共にスピアーとの距離を一気に詰めるように歩いてくる。男の傍らにいる蜜蜂のような姿をしたポケモン、スピアーをもっとじっくり見るためだろう。
しかしスピアー自身が警戒しているというのにこの女性は気づいていないのだろうか。今にもスピアーは自身の鋭い針を突きつけようとしている。
否、女性はきっと気づいている。それでも距離を近づけているのだ。そして、静かにその手がスピアーの頬を触れる。ゆっくり、静かに撫でる優しげな手にスピアーの警戒心も次第に解けていったようで、警戒するように構えていた両腕の針をスピアーは完全に降ろしていった。
「やっぱりいいわね、このスピアーは。よく育てられてる」
「だから誰?」
男の質問に女性はジト目を向け、軽く嘆息した。呆れたように。
「名乗るならまずは自分からでしょ。その程度も気付かないなんて駄目な人間ね」
「悪かったよ、僕はコクト。見ての通り虫ポケモンの採集を趣味にしてるいわゆるマニアさ」
「見れば分かるわ」
「そうかい」
しかし男――コクトが名乗ったことで女性も名乗る気になったのだろう。左手で長い髪を靡かせ彼女はこう口にした。
「私はイルハ。トップコーディネーターよ」
ポケモンコンテスト。ポケモンの美しさを競うポケモンという名の芸術作品公開の場。
ポケモンの美しさを綺麗に表現するよう最善を尽くすのが、イルハのような人物達、いわゆるコーディネーターなのである。
「で、そのコーディネーターさんがどうかしたの?」
コクトは今度こそ呆れ顔でイルハを見る。
「貴方のスピアーを見て思ったのだけれど、ここまでスピアーをかっこよく育てられるトレーナーは中々いないわ。羽の手入れから肌まで徹底的にケアが行き届いてないとここまで凛々しいスピアーはきっとここにはいない。少しお願いがあるのだけど、他のポケモンも見せてくれないかしら?」
「……別に構わないけど」
そんな彼女の要望に渋々であるが、コクトは残っていたモンスターボールを開く。
そして、イルハはコクトのポケモン達をゆっくりと観察していく。その時間は一瞬であったけれど、二人やポケモン達にとってはとても長い時間に感じた。それほどまでに彼女の目と彼の沈黙が重かったのだ。
そして観察を終えたイルハは口にする。
「ありえない」
「は?」
理解できないのか、コクトはついそんな一言を漏らす。
「だからありえないって言うのよ。ここまで虫ポケモン限定とはいえ、ケアが行き届いているなんてありえない。確かに、スピアーがアンタにとって大切なら……いや、厳密に言うと一匹だけならまだあるかなと思った。でもここにいる全てのポケモンのコンディションがありえないくらいにベストなのよ」
「はぁ」
「アンタ、コンテストの才能あるわよ」
イルハのその一言にコクトはため息を吐く。
「そりゃどうも。でも僕は興味が無い。コンテストなんて一切ね」
「そうね。傍から見たらそうでしょうよ。アンタの目は死んでる。何に関してもやる気を感じられないわ」
だから――と、イルハは続ける。その目はもう決定事項だ、と宣言しているようにも見えた。
「アンタを変えるきっかけを私が作ってあげるわ」
コクトは瞬間的に感じた。
逃げることができないということに。
結局、コクトはイルハの元で師事する事になった。
イルハの目論見どおり、コクトはいきなり最初のコンテストでリボンを獲得してしまうほどであった。勿論、最初はただのまぐれだとコクトは口にしていた。
しかしイルハには分かる。コンテストにずっと従事していたイルハにはコクトがコンテスト経験者だということが。勿論、あくまでまだ推測の域でしかない。
その思ったきっかけはあくまで非常にごく簡単なのであるが、まず第一に前述したポケモンへのケア。体調管理に行き届いている、というのではなくコンテストを経験しないと分からないような部位にまで徹底的に手入れが及んでいるのである。
そして第二に最初のコンテスト。元々の素養があった、と言われればそれまでかもしれないが、それでもコクトの演技は別段初心者とは到底思えなかったのである。
それはコンテストファーストステージ、パフォーマンスでの出来事だ。
「スピアー、ミサイル針だ」
彼の指示を受けたスピアーは足を地に着きながら、まずミサイル針を拡散して放つ。ここまではイルハが教えた技だ。それだけでもミサイル針同士がうまく衝突し、拡散する事でミサイル針を美しく見せるというごくごく簡単な演技。しかし、ここからが初心者だったであろうと踏んでいたイルハが考えを改めるきっかけとなる。
「さらに、ダブルニードル!」
直後、スピアーが浮上し、瞬く間にこれら全てのエネルギーを二振りで全て離散させてしまう。それは当初、イルハが想定していなかった出来事だった。勿論、この時はたまたまミサイル針の拡散を見せるためにミサイル針自体の範囲を大幅に狭めていた、というのもあったがそれだけではない。
その離散に、スピアー自身の姿も映ることでよりスピアーの持つ攻撃性を引き立てていたのだ。それに先ほどの手入れで磨かれた身体である。勿論のこと、効果は絶大だった。
勿論、あくまで可能性ではあるが、辺りにいるような初心者などではなく相当な実力を持ったコーディネーターではないかとイルハは感づいてしまった。しかしそうとなれば初対面の時のスピアー達のコンディションやそしてあの演技に関しても自然と納得がいく。
そして――イルハは一つの決意を固める。
「順調ね。もう少しかかると思ったけど、こうもあっさりグランドフェスティバルへの出場権を獲得するなんて」
イルハがそう口にする。嫌味に聞こえたのはきっと気のせいだろう。
コクトとイルハが今いるのはとある街のコンテスト会場。つい先程までここでコンテストが行われており、コクトは凄腕コーディネーターが集う大会、グランドフェスティバルの出場権を獲得したところだ。
因みに服装はコンテストに出場した時のままである。コクトはイルハの指導で現在はダークスーツを着用している。初めこそ違和感が強かったが、今では存外悪くないな、とコクトは思っている。
ところで、グランドフェスティバルまでの道のりが険しかったか、と聞かれればきっとコクトは苦労した、と言うだろうし、一方のイルハはさして難しくも無かったと口にするだろう。
しかし、事実コクトはこのコンテストのファイナルステージ、コンテストバトルでかなり危うい試合運びを見せていたので仕方ないともいえる。そういった意味では目の前にいる師匠の試合前のアドバイスが無ければ負けていただろう。受け取った助言も助言でかなり微妙であったが、それでも感謝せざる得なかった。
「まぁ、今回は師匠のアドバイスが無かったら危なかったさ」
「よく言う。アンタ、絶対に気付いてたでしょ」
「いやいや師匠がいなければ僕はここにいなかったよ」
「そう」
それは割とあっさりとした返答だった。別段師匠である彼女の身に何かがあったわけではないので彼自身はさして気にしない。
「そういえば」
コクトが切り出す。
「師匠のバタフリー、色々なバタフリーを見てきたけどあそこまで手入れの行き届いているバタフリーはそうそう見ないよ」
「そりゃそうよ。元々は友達のだったんだから」
コクトも頷かざるを得なかった。
「へぇ……僕のスピアーも元々は友達のポケモンだったんです」
何せ自分のスピアーも師のバタフリー同様、譲ってもらったポケモンなのだから。
いい機会なので更に踏み込んでみる事にしてみた。ところが。
「でもこれ以上聞きたいなら……ま、グランドフェスティバルを制覇してみなさい」
因みに、イルハも既に今回のグランドフェスティバルの出場権を得ている。
それが何を意味するか――嫌でもすぐに分かった。
それから暫く。
グランドフェスティバルが開催された。この大会中はコクトもイルハも一コーディネーターの一人として参加する。勿論、師弟関係は一切ない。
そして間違いなく師である彼女は決勝に昇り詰めるだろう、コクトはそう踏んでいる。
しかし。
コーディネーターの待機する部屋の中は明らかに異質な雰囲気に包まれていた。コクトは原因こそ知らないがなんとなく自分が関係している事に気付く。いや、気付かざるを得なかった。
「貴方、あのイルハの弟子ですってね」
一人のコーディネーターが声をかけてくる。コクトは静かに首を縦に振った。
「悪いこと言わない。すぐにアイツから離れた方がいいわ」
「どういうことですか?」
コクトの言葉にコーディネーターは怪訝そうな表情で、
「貴方、イルハのことを知らないの? アイツは他人のポケモンや他のコーディネーターに敬意を一切払わず、それどころか罵倒しかしない。だからアイツはコーディネーターの間でも敵なのよ。アイツほど誰かに冷たいヤツはいないってね」
その言葉にコクトはさして動揺していなかった。その話なら今までも何度聞かされてきたことか。それでもなお、こうも声をかけてもらえる辺り、自分はまだ救いがあるということなのだろうと彼は思う。
しかし、
「そこまでにしてもらいたいわね、軟弱者」
割って入るようにイルハが現れる。イルハの視線にコーディネーター達は一斉に目を背けた。彼女が単に嫌われているというだけではない。彼女と関わろうとすること自体が間違いなのだという認識がここでは通用している。
勿論、コクトを除いての話になるが。
その反応を見たイルハはフン、と鼻息荒く背を向けて早々に部屋を後にする。どこか腹立たしく、しかしコクトにはそれ以上に寂しげに見えた。
コクトが後を追おうと立ち上がった瞬間、再びあのコーディネーターが声をかける。
「放っておきましょうよ、あんなヤツ」
「放って置けませんよ。師匠なんだから」
それは今この場にいる全員との決別にも取れる一言であった。
結論だけ言ってしまえば、グランドフェスティバル決勝に上り詰めたのはコクトとイルハの二人だった。
元来、出場者の中でも秀でていた彼女が決勝に残る事は誰しも予想できた。しかしその弟子が数々のコーディネーターを下して決勝に勝ち上がった事は出場者の誰にも予想ができなかった。勿論、イルハを除いて。
そして二人の師弟対決は観客だけでなく、出場者の誰しもが注目の目を走らせることとなる。
もっとも、その当人達は別々の場所で一夜を迎えていた。コクトは自身の父親と面を向けて、久方ぶりの会話を交わす。
「久々だね父さん」
「コクト。まさかお前が決勝まで残るとはな。驚かされたぞ」
「まぁ仕方ないよ。ところで例のもの、準備できた?」
息子の言葉に父親は頷かせ笑みを浮かべる。
「あぁ。アレだろ? 大丈夫さ。バッチリ準備できてる。しかしかつての元チャンピオンがコンテストの決勝か。何かの縁としか思えないな」
「昔の話はよしてよ。アレはもう終わったことなんだからさ」
「終わった……か。よく言うよ、十二年前だぞ?」
コクトはそんな父親の言葉に反論する。
「十二年も経ったらもう昔って言うんだよ。それに僕はもう子供じゃないからね」
「そうだな。一人で考え、行動する。もうそんな時期なんだよな、お前達は」
「まぁ、僕の全力を師匠に見せるつもりだよ」
そう口にするコクトの表情はどこか笑みに満ちており、何よりも楽しげだった。
グランドフェスティバル決勝戦。
会場は快晴に満ちており、会場内は観客や出場者たちの熱気に満ち溢れ、その日の最高気温を既に追い越しているようにも見える。
そして全ての人間が決勝開始の瞬間を今か今かと楽しげに待ちわびていた。
本来、グランドフェスティバルのファイナルステージであるコンテストバトルはダブルバトルが基本なのであるが、両者たっての希望で特別にシングルバトルとなった。
元来、こういうことはありえないのであるが、両者が希望しているならとグランドフェスティバルの運営者が許可したのだ。しかし、それは一方で両者共に互いの持てる最高の一匹だけで決着を着けたいということと同義でもある。
司会者のコールにより、まずはイルハが登場した。
ワインレッドのスーツに茶髪。そして瞳は黒。そして髪型をなんとポニーテールにまとめていたのである。どう見ても、いつもの彼女ではない。いつもの彼女ならば髪の毛を腰まで伸ばし、目の色は赤色のはずだ。
これには観客以上に出場者の方が驚かされた。
コクトが続いて登場する。彼も彼で驚かされるような衣装に身を包んできている。
まず、黒のスラックスに黄土色のトレーナー。そしてその上に赤色のジャケットを身に着けている。更には髪の毛にまで手入れが行き届いている。お互いに一体何があったのかと言わんばかりのコスチュームチェンジである。
「師匠。こうして貴方と争うのはこれが初めてだ」
コクトが言う。イルハも笑みを浮かべ、
「そうね。そして私も私で全力で挑むわ。そうでなくては世界チャンピオンには勝てない。そうじゃなくて?」
そんな師の言葉にコクトは面を喰らったような表情になり、
「気付いてたんですか」
と返す。そんなコクトの言葉にイルハは、確証は無かったわ。今確信に変わっただけと答えた。
「まさかあの時出会った弟子がポケモンジュニアコンテストの元世界チャンピオンだっただなんて驚かされたものよ。そうじゃなくて?」
「ご名答です」
瞬間、会場中が騒然となった。ポケモンジュニアコンテストといえば、十歳未満の子供が参加できるポケモンコンテスト。しかし、その世界大会ともなれば子供のコンテスト大会とはいえ、その技術力は大人にも匹敵する。将来的に有望なコーディネーターを数多く輩出している大会といってもおかしくはなく、当然、その世界チャンピオンともなれば名が世界中に知られていたとしてもおかしくはない。
だが、目の前にいるこの男はその正体を誰にも悟らせなかった。勿論、それに関してもイルハは調べている。
実は過去に一度だけ、優勝者が自らの希望で自身の個人情報を一切世間へ公開しなかったという前代未聞の出来事があったのである。それが――今から十二年前のこと。
精々分かっていた事といえば、その王者が虫ポケモンを使い、そして今のコクトと同じ服装をしていたという点だけ。服装だけは過去の映像で一瞬だけ画面ズレの恩恵もあり見えていた。それだけが十二年前の王者に通ずるヒントでもあったのだ。
「さあ、始めましょう」
イルハの一言と共に試合開始のブザーが鳴り、両者がポケモンを繰り出す。
コクトは蜂を模した姿をするスピアー。イルハは揚羽蝶を模した姿をするバタフリーである。両者のポケモンは登場と共に宙を舞っており、主の指示を待つ。
先に仕掛けたのは弟子であるコクトの方であった。
「スピアー、ミサイル針」
牽制ともいえる最初の一撃が発射される。スピアーの持つ二つの針から同時に放たれる遠距離攻撃。それが連続して放たれる。しかしバタフリーは空を華麗に舞い、あっさりと避けてしまう。
勿論、そのわずかな演技点がコクトのポイントを削っていく。
互いのポイントが全て相手の演技により失われるか、あるいは互いのポケモンのどちらかが戦闘不能になるか――それにより勝敗は決する。
「バタフリー、そのまま優雅に動き続けなさい」
彼女の手が読めない。
コクトが真っ先に思ったことだった。今回の大会でイルハは一度もこのバタフリーを起用していない。故に手が分からない、というのもあるのだが少なくともイルハはバタフリーの技構成を完全に変えてきているように見える。
それがコクトに焦りを生んでしまう。こちらの手はある程度見透かされている中、相手の手が読めないというのはどうにもやりづらい。しかも、それが自身の師匠であるならなおの事である。更にポイントも少しずつ、僅かではあるが減少を続けていた。
「攻めてこないならこちらから。バタフリー、銀色の風!」
瞬間、旋回を続けていたバタフリーが一転して攻撃を展開する。バタフリーの羽が羽ばたき、そこから撃ちだされる風の衝撃波。
弟子もまた、これを逃す機会は無いと踏む。
「スピアー、剣の舞で流すんだ!」
コクトの指示を受け、スピアーが自身の両針をクロスさせ、一気に回転する。そのまま自ら銀色の風の渦中に突撃するが、その渦中で回転は更に強まり、そしてスピアーが両針を振り払うと同時に銀色の風が離散。
その光景はさながらダイヤモンドダストを彷彿とさせるかのような銀色の景色を映していた。同時にイルハのポイントが大幅に削られる。コクトの得意戦法ではあるが、イルハはあえて仕掛けてきた。彼女は彼女で失敗すると踏んで仕掛けてきたのだろう、僅かながらに舌を打つ様子が目視で確認できる。
そして一転し、
「スピアー、ヘドロ爆弾!」
その指示と共にスピアーの針から紫色のエネルギーが発射される。続いて、コクトの指示を待たずスピアーがもう片方の針からミサイル針を発射した。
トレーナーの指示を待たずして続けられるこの行為であるが、これは彼らにとって当たり前の
行動。ヘドロ爆弾にミサイル針が追いついて、そのまま直撃するとヘドロ爆弾のエネルギーが一気に拡散されてバタフリーを襲う。しかもヘドロ爆弾に直撃しなかったミサイル針もバタフリーを襲った。
これほどの広範囲攻撃を避け切る事はまず不可能だろうし、かつその攻撃の連携性もよかったのだろう。イルハのポイントがまた減っていく。
しかし――
「バタフリー、焦ることはないわ。冷静に、優雅に舞い続けなさい。私達はそれでいいのだから」
主人である彼女の言葉にバタフリーも安心したのだろう。いつも通り冷静に広範囲のヘドロ爆弾とミサイル針を避ける。とはいえ、全ては避けきれず、掠ったりもしたがそれでもダメージは最小限に喰い止められていた。
弟子も弟子でこの攻撃をほぼ封殺された事に悔しさは我慢しきれない。しかし、一番気になったのはバタフリーの動きが先ほどより活性化されているように見えた。
偶然だろう。
そう思った。
しかし改めて見てみるとバタフリーの動きが除々であるがだんだん加速しているように見える。そして先ほどの銀色の風。
師である彼女は弟子の得意戦術を間違いなく見知っているはずだ。それに関わらずわざわざ銀色の風を放ってきた真意。そして加速を止めないバタフリー。
考えられる行為。思いつく想像は唯一つ。
バタフリーが“蝶の舞”を使用しているということ。
しかし、今度はいつ発動したのか。そしていつ発動させたのかが重要となる。思考する最中、イルハの攻撃が続く。しかしそれは牽制にしか過ぎず、こちらに攻撃するよう挑発するようにも見える。
イルハの発した言葉を今一度思い出す。
『バタフリー、そのまま優雅に動き続けなさい』
違う。これではない。
『攻めてこないならこちらから。バタフリー、銀色の風!』
これでもない。
『バタフリー、焦ることはないわ。冷静に、優雅に舞い続けなさい。私達はそれでいいのだから』
私達はそれでいい。
優雅に舞い続けなさい。
コクトはその時ようやく蝶の舞の発動タイミングに感づいた。否、感づくのがあまりにも遅すぎた。
そしてイルハもそれを察したのか、
「バタフリー、極限まで高めた貴方の力……見せなさい」
直後、バタフリーが持てる全ての力を解き放った。
そう、蝶の舞は開始と共に発動されていたのだ。バタフリーの動き全てそのものを彼女は――
イルハは蝶の舞のエネルギーに変換させていたのだから。
「スピアー、ヘドロ爆弾で迎撃!」
コクトの焦りに満ちた叫びにスピアーも呼応する。
素早く両針からヘドロ爆弾を発射。しかし、銀色の風のパワーは先程の比ではない。あっけなくその一撃は打ち破られる。
瞬間、コクトのポイントが減少した。
そして突き破ったその一撃はスピアーにまっすぐ突き刺さる。直後吹き荒れる強烈な爆風。
爆発の中から姿を現したスピアーは体の至る箇所に傷を負っていた。しかし咄嗟に防御体勢を取ったのか、両針をクロスさせて目といった重要な部分を守っている。だが、それはイルハからしてみると大きな隙だ。
「バタフリー、もう一度銀色の風よ」
先の一撃を見てスピアーでは銀色の風を防ぐ術はない。そう悟った彼女は一気に決着を着けるべくバタフリーに指示を送る。バタフリーもそれを理解しているのか、そのまま銀色の風を撃ちだした。
弟子であるコクトは考える。
まともに打ち合えば間違いなくスピアーは勝てない。しかし動きでかく乱しようにも今のバタフリーの前では全く意味を為さない。ではどうするか?
銀色の風が迫る。
思考する。思案する。思慮する。吟味する。熟考する。考慮する。思索する。検討する。
そして、ひとつの
行動(こたえ)を導き出す。
「スピアー、ヘドロ爆弾」
「ヘドロ爆弾?」
弟子が導いたのはヘドロ爆弾の指示。しかしそれでは銀色の風に歯は立たない。それは先程身をもって体験したばかりだ。この場合考えられるのはヘドロ爆弾同士をぶつけ、スピアーをその爆風で銀色の風の射程範囲から逸れるくらいである。
しかし。
「逃がさないわよ。バタフリー!」
バタフリーが銀色の風を取り止め、急速接近を開始する。勿論銀色の風はエネルギーの元を失ったために消失するのだがそれが先端、つまりはスピアーにもっとも近い部分まで到達するのにはわずかばかりの時間が必要だろう。
それだけの時間があれば射程範囲から逸れることだけは可能。しかし、遠距離からの一撃が駄目ならば至近距離からその強烈な一撃を叩き込んでやればいいだけである。
逃げる思考時間など一切与えはしない。勿論、一時的にコクトの目論見通り必殺の一撃は中断せざる得なかったが、問題はさしてないはずだ。
牽制のためにヘドロ爆弾を構え、発射しているが牽制にもならない。圧倒的な速度で一撃の下に沈めるのみ。
「コクト。決着を着けさせてもらうわよ」
「えぇ、構いませんよ師匠」
銀色の風よ。その指示がイルハから放たれる。
バタフリーがおよそスピアーの至近距離に到達。ヘドロ爆弾のエネルギーは両針にある。だが、最早意味は為さない。
必殺の一撃を浴びせようとした――まさにその時だった。
「剣の舞だ」
直後、スピアーが急速回転しバタフリーに突っ込んでくる。既にモーションを終えているバタフリーは迎撃するかの如く銀色の風を発射。
スピアーも負けてはいない。本来ならば両針を左右に広げるところを真っ直ぐバタフリーに突き出している。しかも既に銀色の風のエネルギーの中。まだ比較的エネルギーのパワーが少ない瞬間を利用して捨て身の策といえよう。
そしてヘドロ爆弾が発射された。
その一撃は銀色の風を文字通り破壊し、一気にスピアーが飛び掛る。イルハも慌てて指示を出す。
「バタフリー、サイケ光線!」
「もう――遅い!」
コクトのそんな言葉はもう直接的な技の指示が必要無かったのだろう。
スピアーが至近距離から自慢の針の二連撃。ダブルニードルをバタフリーに打ち込む。
その一撃を受けたバタフリーは大きく後退する。ふとイルハが残り時間を見る。
(残り……三十秒ほど。ポイントゲージは僅かに彼がリードか)
先程の荒っぽい戦術はもう取れないだろう。ならばここで取る手法は勿論。
「バタフリー、銀色の風よ! 全力で放ちなさい!」
その場にいた誰もがこの戦いの終わりが近い事をその発言で悟る。これが間違いなく最後の攻防となるのは間違いない。
バタフリーが渾身の一撃をスピアーに発射する。しかしもうコクトに焦りの表情はない。寧ろ清々しかった。
「師匠。いやイルハさん。物凄く楽しかった」
「そうね。私もよ。こんな楽しかったバトル……初めてだった」
スピアーはヘドロ爆弾で反射的に迎撃している。しかし銀色の風を止めるにはパワーが明らかに足りない。それをイルハも、コクトも見ながらの会話だ。
「でも」
「でも?」
「勝つのは僕達だ」
「……」
不可能だ。
その一言を言ってやる事はとても簡単である。しかし目の前にいるのはつい先程必殺の銀色の風を破った男。そしてスピアー自身もボロボロであるが油断は決してできない。
ならば――
「見せなさい。この一撃を踏破して私に見せなさい。アンタの渾身の一撃を!」
「勿論。スピアー、ヘドロ爆弾だ」
「ヘドロ爆弾は通じないわよ」
「えぇ。確かに。まだ足りないです」
「まだ?」
どういう意味なのだろうか。ふと疑問に思った。それはスピアーも同じのようである。
銀色の風が迫る。
「スピアー、以前教えた緊急時のアレだよ」
その言葉にようやく納得いったのだろう。スピアーが迎撃体勢を取る。しかし両針のヘドロ爆弾では通じないのはもう分かっているはずだ。
そして爆発が起こる。
直撃したのだろう。イルハは早計ではあるだろうが、それをどことなく悟った。
次の瞬間である。
「スピアー、最後の一撃だ」
「なっ!」
爆発の中からスピアーが一気に迫っていく。イルハが声を荒げた。
「バタフリー、銀色の風よ!」
しかし解せない。あの中からどうやって銀色の風を耐えたのだろうか。疑問で仕方が無い。
そしてスピアーは先程破ったように銀色の風に恐れず、剣の舞で突入。さらにヘドロ爆弾と銀色の風を力づくで突破していく。ダブルニードルの射程範囲に到達した。
「ダブルニードル!」
渾身の一撃がバタフリーに――突き刺さらない。
その一撃が阻まれた理由は実に簡単だ。バタフリーを守るようにバタフリーの周りに緑色の
障壁が展開されていたからである。
「守る……最後の最後でそれですか」
「さあこれで終わらせるわよ!」
銀色の風。その一言のかが終わる辺りで爆発が再発生した。
それはなんとスピアーとバタフリーのいる場所から。爆発の中からバタフリーが墜落する。バトル続行不可能。そう誰もが感じた。
しかし一番驚いたのは間違いなくイルハだ。
なぜ、爆発が。
しかしその謎は次の瞬間に氷解した。爆風の中から姿を現したのは体の下部、つまりはお腹の下の針を上体へ起こしている状態のスピアーである。
「まさか……」
「えぇ」
スピアーは元々、『蜂』ですから。コクトはそう口にする。
それで全て納得がいった。あの時。銀色の風をスピアーは文字通り三発のヘドロ爆弾でギリギリ防いだのだ。バタフリーを戦闘不能に追いやったのも同じ攻撃に違いない。
何せスピアーのお尻の針は最も毒性が高いという。つまりそれは直結してしまうと毒タイプの技を打たせればお尻の針が最大の破壊力を持つという事だ。
しかもあれほど目立つのに一切攻撃に使用される事があまり無いのも盲点だった。
負け、か。
彼女は。師はそれを深く噛み締める。そして今一度弟子である彼を見つめた。コクトはもう自分を追い抜いてしまったのだろう。
認めるしかなかった。
「バタフリー、ありがとうね」
倒れたバタフリーの元へ駆け寄り、バタフリーを励ますイルハ。どことなくバタフリーの様子がおかしかったのは後で考えればいい。多分何かのメッセージなのだろう。
今は。目の前にいる男の優勝と勝利を祝うのが先決だ。
コクトがフィールド中央にやってくる。労いの言葉をかけに来たのだろう。
「おめでとうコクト」
「師匠こそ。恐ろしく強かったです」
「そうね。アンタに会わなきゃ私がこのグランドフェスティバルを制覇してたでしょうね」
笑えない冗談ですね、と彼は言う。まぁ事実そうかもしれない。
「さ、敗者は去るのみね。また後で会いましょう」
そう言葉をかけてイルハはフィールドを後にした。あの時のバタフリーのメッセージ。
そんなもの無くたってもう自分だって分かっている。
分かっているのだ。既に。
二人が再会したのはその夜だった。表彰式も一通り済ませ、後夜祭とも言うべきグランドフェスティバル最後の夜が本会場では繰り広げられていた。最も、当の二人が会ったのは会場から少し離れた湖畔である。
夜空は雲ひとつ無く、月が静かに光を発している。風も非常に穏やかで辺りにはポケモンも、人もいないようだ。二人はそのままの服装でここにいた。静かに隣あわせに座る。
バタフリーもスピアーも辺りを静かに飛び回っていた。しかし仲が非常に良いように見える。一戦交えて何か得るものがあったからだろうか、とコクトは考える。
「改めて優勝おめでとう、コクト」
イルハから切り出した。コクトは何も言わない。
「まさか私が負けるなんてね。アンタ本当に凄かったんだなて思う」
「別に。世界チャンピオンなんて肩書きに過ぎませんし、過去の遺物です」
そう口にするコクトはどこか嫌そうな表情をしていた。あまり触れられたくない話題なのは一目瞭然だ。
「私はコーディネーターを引退するわ」
そんな言葉を彼女は口にした。それも突拍子も無く、だ。
それを聞いたコクトは驚かざるを得ない。彼女は続ける。
「正直、辛かったのよ。誰からも敵と見られて。トップコーディネーターなんて称号、どうでもよかったくらいに。だからアンタを見た時に決めたの。アンタが私を超える日が来た時。それが私の潮時なんだろうって」
「自分で限界を決めたんですか」
「決めたんじゃない。寂しかったのよ。私はずっと孤高で孤独だった。他のみんなが羨ましかった。でも親睦は深められなかった。誰かが邪魔してせっかくの関係を無理やり崩されるのが怖かった。かつてそうだったように」
「――かつて?」
ふと聞いてしまう。
イルハはバタフリーを見る。
「そう。それが私のバタフリーを譲ってくれた友達よ。私は代わりにコクーンを譲ったわ」
「え……」
バタフリーを譲り受け、コクーンを譲った。
デジャヴがコクトの中で巻き起こる。かつてコクトは友達にコクーンを譲り受け、バタフリーを譲った。
ただの偶然だろうか。否。こうも偶然は連続して起こらないだろう。
イルハが含み笑いをする。
「やっと思い出してくれたんだ。コーくん」
それはあの子しか知らない愛称だ。
「え……ま、まさかルーちゃん?」
「あったりー」
コーくん。ルーちゃん。それは今からずっと前の二人の間の愛称だった。コクーンと名前が似ていたからコクトはコーくん。トランセルに似ていたからイルハはルーちゃん。
最も、トランセルは最終的にバタフリーに進化するがそれでもコーくん、ルーちゃんという愛称を二人は使い続けた。しかしそれに反発したのは大人達だった。
イルハの家は元々それなりに身分も高く、女の子がコクーンを持つんじゃないと言われ、その原因がいつも遊んでいたコクトにあると考えたのである。
最終的に二人は無理やり引き離され、別れ際にお互いの事を忘れないよう――両者が持っていたバタフリーとコクーンを交換したのだ。最も、その直後にイルハが遠くへ越してしまい、本当にそれっきりとなってしまったのであるが。
久方ぶりに見る幼馴染は確かにどこか幼い時の彼女を彷彿とさせていた。言われれば似ている。間違いなく彼女だ。
「あの後、私は……コーくん。貴方のくれたバタフリーをキッカケにポケモンコンテストの道へ進んだ。以前言ってたじゃない。ジュニアコンテストに出るって。私凄く羨ましかったんだ」
「僕はあの後全部嫌になって元々好きだった虫ポケモンの事ばかり考えるようになってた。はは、ルーちゃんに比べたら恥ずかしいよ」
つい笑ってしまう。まさか今まで師匠と慕ってきた人物が、目の前の人物が幼き日に別れた幼馴染だったなんて笑うしかない。
「コーく……いや、コクト。お願いがあるの」
イルハが立ち上がり、コクトの前までやって来る。その真剣な目を見てコクトは息を呑んでしまう。
「私と一緒に……いてくれますか?」
差し出された手。コクトも静かに立ち上がり、静かにその手を握り返す。
温かく、そして優しい手。二匹のポケモンは静かに空を舞っている。この先の出来事を予見するように。二人を歓迎しているようだった。
そして彼は口にする。
「喜んで」