3.Yourself
親の顔は知らない。家族も親戚も分からない。私にとっての『親』は孤児院の先生で、『家族』は他の子供たちだった。自分の名前しか知らなかった私に、読み書きも礼儀作法も教えてくれた。ときどき大人たちから指をさされ、ひそひそ話をされることはあっても、『親』も『家族』もそんなことを気にも留めさせないほど優しかった。そのころはまだ、親がいる家庭の子を羨ましく思うこともなかったのに。
状況が変わったのは、2年くらい前。
ロケット団がコガネのラジオ塔を占拠して復活宣言をしたのがちょうどそのくらい。同時に、ある一人の男の子にその最高幹部が負けて、その場で再解散がなされた。ラジオの放送は私も聴いていたから、とても不気味で、言葉にできないほど恐ろしくて、ただひたすらに怖かった。解散されたという報が流れても、それでもその日の夜は寝付けなかった記憶がある。
それからだ。おかしくなり始めたのは。
最初は『家族』からだった。事件の数日後から急によそよそしくなったのだ。詳しく言うとキリがないけれど、次第に私は孤立していった。そして『親』までも。皆が皆、私から距離を取った。
私が、ロケット団の団員――もっと言えば幹部級――の娘だという噂は、容赦なく私から私の居場所を奪っていった。
悲しいとは思わなかった。怒りも恨みも生まれなかった。否定はできなかったから。
ただひたすら、寂しかった。
私の居場所は、ここじゃない。そう悟った。
私の居場所は、どこなの? そう尋ねた。
答えをくれる人は、いなかった。
答えをくれる人が、欲しかった。
誰かに、側にいてほしかった。
ただひたすら、寂しかった。
両親がいて、もしかしたら兄弟姉妹がいるかもしれない、そんな「普通の家庭」に、憧れを抱いた。
もしも「普通の家庭」に生まれていたなら、こんな思いをすることもなかったのに。
「――ナちゃん! ヒナちゃん!? だ、大丈夫?」
ああ、どうしてこんなことを思い出したのだろう。
気付けば私は、堪え切れない感情に負けていた。
泣いていた。
ボールから出していたランターンも、チヒロさんの手持ちであるムウマもポリゴン2も、不安げに私のほうを見ていた。
「ほら、ティッシュ。突然泣かないでよ〜。びっくりするじゃん」
この人に涙を見られることに、不思議と抵抗を感じないのは何故だろう。数枚のティッシュペーパーをまとめて目元に押し当てても、涙は止まらない。声は漏らさなくても、嗚咽はそのまま残り続けた。
数分の間、どちらも何も話さなかった。
「すみません。ありがとうございます、チヒロさん」
「ん、いいっていいって。気にしないの。でもあんまし泣いたりしちゃだめよ〜? かわいい顔が台無し」
「お、お世辞はよしてください……」
顔が紅潮しているのが自分でもわかる。私の反応を楽しんでいるのだろう。食えない人だ。
でもちょっとだけ元気は出た。ありがたい。
ここは情報管理課に与えられた部屋。「寝る」と言ったにもかかわらず、ついつい足を運んでしまったのだ。ただここは構成員もチヒロさん一人だけ、埃っぽい部屋に一台の大型のパソコンが置いてあるという状況。『課』とは名ばかりとしか思えない。
ランターンはムウマと遊んでいるようだ。狭い部屋の中で暴れ回ったりしないことを願う。
「うん、泣き止んだわね〜。泣いてる理由は別に聞かないけど、いつでもアタシに相談してくれていいのよ? 溜めこんでるとよくないから」
「……ありがとうございます」
その優しさに、ちょっと腫れた目がまた潤みそうになる。辛うじて抑えたはいいものの、また心配させてしまった。申し訳ない。
そもそもなぜ私がここにいるのかと言えば、至極簡潔にまとまる。
孤児院を半ば衝動的に飛び出した私は、ただ街中をぶらぶらしていた。そしてたまたま入ってみた店で、私が万引き犯を見咎めて店員が警察を呼び、そいつを取り押さえたのがユウマとハルキだったのだ。事情聴取のときに身寄りがないこともバレて、そのまま保護。一時的(本来はそうだったはず)に連れてこられたここで、チヒロさんと出会い、意気投合したのだった。そして今に至る、というわけである。今は身寄りの捜索中、ということになっており、生活費はチヒロさんが出してくれていた。
私の唯一の手持ちであるランターンも、もとはチヒロさんのポケモンだったのだ。
「あの、私がいた孤児院のこと、もう調べはついてるんですか?」
どうしても気になっていたことで、どうしても聞かずにはいられなかった。もしもコガネ署から孤児院に連絡がいけば、そのままの流れで私はあそこに戻されてしまう。もう、戻りたくはない。チヒロさんもいるし、アオイさんも割と親しげに接してくれているし、なんだかんだ言ってユウマとハルキも頼りになる。ここのほうが、よっぽど居心地がいい。
でもそれは我儘だ。いくら声を大にして叫んでも、私の一存では決まらない。ここに居たいと願っても、それは叶わないのだ。戻りたくないと望んでも、それは世迷言(よまいごと)なのだ。分かっている。だからこそ、見つかってほしくないと心の底から思っていた。
「ああ、うん、場所は分かったわよ」
無慈悲とも言える宣告に、頭を垂れることしかできなかった。呼吸器系の働きが激しくなる。
戻されてしまうのか。私の居場所ではないあの場所に。
「ふふ、――言いたいことは分かってるわよ〜。隠したって無駄なんだから」
「えっ」
情けない声を漏らした私に、悪戯っ子のような笑みを浮かべるチヒロさん。
「帰りたくないんでしょ〜? もう丸分かりなんだもん。……安心してよ。連絡はしてないし、アオイさんにも『見つかっていない』って通してるから」
一気に肩の力が抜けた。どっと押し寄せた安心に、思わず体が傾ぐ。チヒロさんが慌てて支えてくれなかったら、床に額を打ち付けて痛い思いをしていたかもしれない。
「でもねヒナちゃん、限界はあるのよ。嘘を吐き続けるのも無理だし、隠し通すのも無理なの。だからヒナちゃん、覚悟だけはしておいて」
それは分かっている。それでもいい。その時が来るのはもう避けられないのだろうけれど、期限が少しでも延びることに少なからず安堵した。
「落ち着いたみたいね〜」
「ふう、すみませんでした。みっともない所をお見せして」
しばらくはムウマとじゃれるランターンを見守りつつ、乱れた呼吸を整えていた。名前を呼ぶとピョンピョン跳ねながらこっちに来てくれる。この子と知り合えたのも孤児院を抜け出してきたから。何か運命的なものがあるのかも――
「ヒナちゃん、」
思考はチヒロさんの声により中断させられた。その声はいつものちょっと間延びしたそれとは違う。何か大事なことを伝えようとするそれだ。顔からもなにか決断のようなものが垣間見える。
「アタシの素性についての噂……知ってる、よね」
「……はい」
素直に答えた。もしも噂が本当ならば、わりと近しい存在なのかもしれないと思ったから。
膝の上に乗ってきたポリゴン2をなでながら、
「うん、本当。アタシはもともとロケット団のしたっぱ団員だったの」
「そう、ですか」
そうとしか答えられなかった。ちょっとした親近感と一緒に、聞いてしまったことの罪悪感も感じたから。
「アオイさんは知ってるけど、他の人は誰も知らない。アタシの素性は。でもアタシが勤めだした時期でもう多分みんな察してる」
確かに勤めだしてから2年くらいだ、と言っていた記憶がある。それに、この署の中でチヒロさんは多少なりとも浮いているように見えた。つまりそれは、そういうことなのだ。
「それで、本題なんだけど――ヒナちゃんのこと」
涙交じりの声は聞いていても痛々しいが、これは最後まで聞かなければならない。私の噂と、チヒロさんの噂、どちらも正しいと仮定するなら、
――もしかして、私の親のこと?
繋げるのはあまりにも容易だった。
「うん、ロケット団の幹部にラムダっていう人がいたんだけど、ヒナちゃんの髪の色とそっくりなの。あまりにも。偶然にしては似すぎてる」
ムウマが後ろを通過して、私の紫髪が揺れた。