意志の火は 雨雲を裂き 空高く
自分の主人がフレア団という組織の一員で、それがほぼ壊滅してしまった今、主人が警察組織に追われている立場だということは、本人が言わずとも、ボールの中に居ても入って来る音の情報と、主人の態度から察することができた。
今日のミアレは雨だった。重苦しい曇天からしとしとと降り注ぐ雨は、丁寧に敷き詰められた石畳を叩く。主人と自分がいるこの裏路地からは見えないが、雲の高さからして、プリズムタワーの頂上は雲海の中に突き刺さっているのだろう。今はもう使われなくなっている廃ビルの入り口の、僅かに雨をしのげる空間の中で、二人そろってそんなことをぼんやりと考えていた。
軒先から垂れた滴がぴちょりと鼻先に落ちて、びくっとなって身を引いた。
主人はフレア団の中では下っ端の中の下っ端団員で、例えばボール工場の占拠作戦にも置いてけぼりにされる程度であった。もっぱらフラダリカフェの地下で事務作業ばかり。事務作業と言えば示しはつくが、いわゆる「パシリ」という役目を事務作業に含めていいのかどうか。今はもうあの赤いスーツに腕を通すこともない。しかし髪の色は往時の赤のままだ。
主人が下っ端止まりだった理由の一つに自分の存在がある。自分は炎タイプのクイタランと言う種族で、バトルにおいて「弱い」とバッサリ言い捨てられてしまうような種族の一つだった。ただでさえそうなのに、それに加えて自分はバトルが苦手だったのだ。野生にいた頃も、同じ種族同士で鎬(しのぎ)を削っていたわけでもなければ、敵対種族であるアイアントと抗争を繰り広げていたわけでもなく、戦いに発展しそうになればすぐに逃げ出すような臆病者だったということもあり、とにかく自分は弱かった。そしてそれは今も、大して変わらない。
フレア団の階級はポケモンバトルの強さに応じて高くなりも低くなりもする。当然、自分のようなポケモンを連れている時点で、その時点でもはやお察しであろう。同じ時期にフレア団に入団した主人の同期は、パートナーのゴロンダを巧みに操り、幹部にまで上り詰めたというのだから、自分の弱さがいかほどであったかはもはや語るまでもあるまい。
そう、自分は主人の出世を阻んだのだ。
それなのに、それなのに。
「ごめんな、俺のせいでこんな目に遭わせて」
ああ、またそんなことを。
たびたび主人はそんなことを言って、自分を困らせる。悪いのは主人じゃない、自分だ。フレア団でずっと報われない立場でくすぶっていたのも、一つの戦いすら、それこそ秘密兵器とやらの隠し場所に乗り込んできた子供たちと一戦もすることすらもなく所属をなくしたのも、いまこうして逃げ回るはめになっているのも。
「……ごめんな」
だからそんなことを言わないでほしい。
あの日のことだって、自分が悪いのだ。警察がアジトに乗り込んできたとき、自分はとっさにボールから飛び出して、警官たちに抵抗した。臆病なくせに、戦えもしないくせに。主人は急いで自分をボールに戻し、非常通路から外へ抜け出し、身元が特定される前に借り部屋に戻り、普通の服だけ持って逃走した。着の身着のままというやつである。スーツやサングラスなどは捨ててしまったし、髪型も一般人と大差ないそれに戻したが、髪の色だけは直す間もなくこのままだ。自分が警察に抵抗したその代償は大きく、いまこうして主人が犯罪者として追われる身となってしまったのである。他の町につながる道路に出るための関所には検問がされているから、ミアレの中に閉じ込められた形になる。どうにか今の今まで逃げおおせてきたが、そろそろ限界が近いということは、いずれ捕まってしまうだろうということは、主人も自分も言わずとも分かっていた。分かっていたはずだ。
「…………ごめんな」
それはこちらのセリフだというのに。
幹部級は、もちろん主人の同期を含めた彼らは恐らくもう身柄を拘束されているはずだが、下っ端たちのほとんどは事情聴取ののち釈放されている。下っ端から得られる情報などたかが知れているからだ。例外があるとするならば、それは本来捕まるべき犯罪をしておいて捕まっていなかった人間、ということになるのだろう。公務執行妨害という主人の場合も含めて。ポケモンの責任を負った、いやなすりつけられた人間として。
互いに何も言わない時間が過ぎた。
表通りのカフェから、正午を知らせる賑やかな音色が響く。
雨は、まだ、止まない。
地下水路の水位は雨水にかさを増やされて上がっていて、いつもなら干上がって普通に歩けるようなところでさえも足がまるまる浸るくらいに水没していた。
このミアレの地下水路、古い時代の産物で、今は雨水を流すくらいしか役割がない。今ではミアレに住んでいる人の中でもこの存在を知る人のほうが少ないのではないだろうか。だから一時の隠れ蓑としては絶好の場所であるのだが、当然管理の手が全くないということであり、正直言って環境は劣悪、明かりすらもないのだから、必然自分の炎で照らすしかない。自分の体が水に浸かろうが、そうするしかないのだ。
苦手な水に体温を奪われて、ぶるりと体を震わせれば、主人はこちらを見て、
「大丈夫か? ボールに戻るか?」
ああ、そんな悲しい顔をしないでほしい。
主人の気遣いは、どんなに一方的にやられた戦闘の傷よりもよっぽど身に堪える。こうしてここに逃げ込むはめになったのも、警察に見つかって追われた時に、もたもたしていた自分のせいなのに。ヘマをやらかすくせに主人について行く、自分のせいなのに。
思えば、別のフレア団団員に捕まって、トレーナーですらなかった主人に「支給」された自分が、フレア団に属していた時期だけのパートナーでしかない主人にこうして今も付いて行っているというのも、傍目から見ればおかしな話なのかもしれない。
「ごめんな。ずっと流されるまま生きることしかしていなかった俺のせいだ」
そんな寂しい声を絞り出さないでくれ。
フレア団に入る前の主人の姿は、当然それまでに自分は主人に会っていないのだから、主人の話すことが全てだ。曰く、普通の家庭で、普通の学校で、普通の会社で、普通の生活を、普通の人生を過ごしてきた、そして過ごしていくつもりだった、と。
すべてが狂ったのは、会社にリストラされた時だという。ちょうど両親が離別して裁判沙汰になって支援が見込めない状態で、学校で何かと世話を焼いてくれた恩師は病気で他界していて、次の就職先も見つからず、あげく借り部屋も一時的に差し押さえられた。そんな時にフレア団の存在を知り、たまたま団員募集の宣伝に乗っかった、そうして自分と出会ったのである。
主人はそれを、「ただ流されるだけの人生」と評した。
「与えられて来たものを、ただこなしてただけだったんだよ、俺は。遊ぶことしか考えてなかった小さい頃はともかく、『将来何をしたいか』とか、『どんな人間になりたいか』っていう目標がなかった。学校の宿題もテストも、ただ言われたからやった。大学の卒論だって、教授から示されたテーマをただこなしただけだ。就職だって示された会社を数撃って当たったうちの一つ。自分で自発的に何かをしようなんて考えもしなかった。ただ与えられたものを消化して、普通の人生を歩んでいくんだろうっていう、漠然としたものしかなかったんだ。だからリストラに遭って、『何も与えられない環境』に立たされて、それこそ本当に『何もできなくなった』んだろうな」
だからフレア団に入ったのかもな、と、このことを語っていた主人は付け加えた。パニックになってたとか自棄になってたっていうのもあながち間違いじゃないが、それが一番の理由じゃない、と。どこかに所属して、何かを与えられ続けていないと、俺は『何もできない』から、と。そして何かを与えてくれるならば、それが怪しい存在でも構わない、と。
果たしてそれは、自分にも当てはまるのかもしれない。
戦いたくないの一点張りで逃げ続けていた野生の頃だって、流されこそしなかったものの、その流れに抗おうとしなかったというだけだ。例えるなら外に流れていく川を持たない沼のようなところに、ただぼんやりと浮かんでいただけだ。川の流れに従ってきた主人とは正反対のようで、その沼から水があふれた時に真っ先に流れていったのだから、主人と自分は似た者同士であるとも言えよう。
だからこそ、似た者同士ひかれあうからこそ、主人について行っているのかもしれない。
遠くからどうどうと雨水が流れ落ちてくる音が響いてくる。
口から出す炎の勢いが弱まったのは、澱んだ空気をしっぽから取り込み続けたせいだと割り切ることにした。
そのまま地上に戻れれば非常に幸運なことだったのだろう、しかしそう上手くはいかないようであった。
「いたぞ!」
「行け、エルレイド! 無力化しろ!」
さすがにここの存在を警察が知らないはずはなかったろうが、今まで踏み込んできたことがなかっただけに、かなり油断していたと言えよう。警官は自分の出す炎に、主人と自分は懐中電灯の明かりに一瞬目を覆うも、互いの存在に気付いた。気付いてしまった。必然、警官2人は主人と自分を捕まえようとポケモンを繰り出してくるし、必然、こちらはそれに応戦する形となる。
エルレイドとダイケンキがじりじりと間合いを詰めてくる。1対2という不利な状況に加えて、さらに相手方の片方が苦手な水タイプなのだから、余計にたちが悪い。どうにかして切り抜けて、向こうの目の届かないところに逃げおおせるしかなかった。
「リーフブレード!」
エルレイドが接近戦を仕掛けてくる。ひらりひらりと腕の刃が翻る。無力化して捕縛することが目的だからこその選択であろうが、さすがに一撃貰っただけでは倒れない。直撃を受けた一閃以外は避けるなりかするなりで済んだが、その直撃一撃がやたら痛い。泣きたくなる。
負けじと足元に炎を吹きつけてやると、向こうはさすがに警戒してか、大きく跳躍して間合いを取った。温度に負けて気化した雨水が、場の湿度を上げる。逃げるのならば距離を取らねば、ということで今度は真っ直ぐエルレイドを見据えて――
ざばりという音とともに、視界の右に黄色の装飾がされた蒼が飛び出してきたのが映った。
うかつ。ダイケンキは水タイプであることを利用して水の中に潜んでいたのだ。積極的に攻めてくるエルレイドに気を取られたおかげで、音がして初めてその存在を思い出すほどだった。
「シェルブレード」
自分がほんの一瞬前まで立っていたアシガタナが叩きつけられる。水路全体に振動が伝わり、叩きつけられた部分の石は見事に真っ二つ。こんなものを食らえばひとたまりもない、あの世に召されて然るべしだ。追撃する気力など削がれてしまったが、それを恐れでもしたのかダイケンキはまた水の中へ戻っていった。
「来るぞ、サイコカッターだ!」
主人の予見通り、エルレイドは思念の刃を腕に溜め、今まさに放ったところであった。数にして三。どうにかして二つを躱し、避けきれそうにない一つに炎をぶつけて相殺した。自分の動きに合わせてくれれば、主人も避けられるだろう、そう思ったがしかし、
「ぐっ!」
一つが肩口に命中し、主人がその場に蹲る。命中した場所からは、鮮血があふれ出していた。
ああ、またか。
もし自分が躱さず、炎で打ち消すなり、あるいは自分が盾になっていれば主人は傷つかずにすんだだろう。あるいはサイコカッターを放とうとするところを妨害していれば、あるいはエルレイドに効果的にダメージを与えていれば、あるいは、あるいは。主人を慮って側に寄るべきなのか、それともエルレイドを近づけまいと向き合うべきか。自責の念と迷いが自分の中に渦巻く。
そうしてまた、水の中の存在を忘れようとしていた。
上から叩き付けることを目的として大きく垂直に跳び上がった先ほどとは違い、今度は自分めがけて飛び出してきた。避ける暇も余裕も、葛藤と後悔から来る体の硬直の前には存在しない。横薙ぎをもろに食らい、くしゃくしゃに丸められた紙くずのように吹き飛ばされ、ばしゃりと音を立てて水の中に倒れた。
「よし、拘束しろ」
力が入らない。尻尾から水が侵入してくる。しばらくは炎を吐けないだろう、これではもう抵抗できない。
ああ、これまでか。結局流され続けて抗うこともなく、世の中から消えていくのだな、自分は。
そう諦めかけたその時であった。
地下水路が大音量の何かによって鳴動させられた。
地震でも起きたかのような強烈な振動に、水路の天井の脆くなった部分が崩れ落ち、辺り一面が砂煙に覆われたところで、どうやら自分は比較的大きな石の塊を頭に食らったらしく、そのまま意識を失った。
気がついた時には、自分はボールの中にいた。
主人のボールであることが間違いないのは、自分が一番分かっている。それが判別できるくらいに冷静であった割には、先程までの戦闘のことをすぐに思い出せなかったあたり、自分は相当呆けていると感じざるを得なかった。
主人はどうなったのか。
湧き出た疑問に突き動かされるように、ボールから飛び出す。外から開閉の指示が出されずとも、自分は外に出るためのコツというものを、主人の許で身に付けてしまっていた。
外に出た、そこには、逃走中とは真逆の、眩し過ぎてめまいがしそうな空間だった。豪華絢爛と評しておつりが出るくらいの、贅沢のさらに一つ上をいくような、それこそ自分たちには一生縁などないと思っていたような、そんな場所だ。汚したらまず間違いなく怒られるだろう真っ白な家具、上を歩くのも億劫になりそうな赤い絨毯、窓から見える景色も味わったことのないそれで、そこがミアレで最も高級なホテルの最上階であることを導き出すのにそう手間はかからなかった。
「こ、ここは……?」
あっという間に寝入ってしまいそうなふかふかの布団から、主人が起き上がる。自分と同じく、今の状況がよく分かっていないのだろう、きょろきょろとあたりを見回していた。当然だろう、ミアレの地下の深い所にいたはずなのに、気付けばミアレの中でもプリズムタワーに次いで高い場所にいたのだから。
雨はまだ降り続いているようで、地下水路に潜る前よりむしろひどくなっているように思えた。窓に叩きつける雨音に紛れて、足音が近づいてくる。
「お目覚めのようね」
「あ、貴女は!」
ぼんやりしているうちに、ここに主人と自分を連れてきた張本人が部屋に入ってきた。特徴的なピンク髪に赤いサングラス、体のラインがくっきり出るような黒い服――
「四天王のパキラ!?」
「ご名答、と言いたいところだけれど、あえて『フレア団のパキラ』と名乗らせてもらおうかしら」
「なっ……!」
四天王の一角にして炎タイプの使い手、パキラであった。炎タイプを使わせればカロスでは少なくとも彼女の右に出る者はいないと言われるほどの腕前で、普段のクールな素振りはバトルの際に消し去り、苛烈な性格を表に出して熾烈な猛攻を加えるという。
彼女がフレア団の一員――それも最高幹部級――であるということは、根も葉もない噂程度に広まっていただけで、それが主人の耳に入るのはフレア団が壊滅状態に陥った後のことであった。下っ端の下っ端である主人がそんなことを知らされていたはずもなく、現在釈放状態の団員に真偽を問うことも叶わず、という状態であったのだから、半信半疑であったのである。それを今、まさか本人の口から聞くことになるとは、思いもしなかったろう。
呆然という言葉が似合うそんな様子の主人を見て、パキラが話を続ける。
「フンッ……一応、地下水路で警官たちの目を眩ませてここまで連れてきたのだから、感謝してもらいたいのだけれど」
「あ……あ、ありがとうございます?」
パキラの後ろから悠々と歩み出てきたカエンジシの姿に、自分は数歩退いてしまった。曰く、あの振動はカエンジシの放ったハイパーボイスであり、振動と崩落で場が混乱しているうちに連れ出したのだという。ならばなぜ自分たちが地下水路にいることを知っていて、なおかつあんなタイミングで手を出したのか、とパキラに問うてみても、「偶然」という一言しか返って来なかった。
「さて、あなたを助けたのは情に駆られて、といったような理由ではありません」
急にパキラの口調が事務的になった。
「フレア団の関係者が今なお警察に追われているという状況が正直鬱陶しかっただけ。ただでさえクセロシキの一件でプライドが傷つけられているのに、これ以上となると迷惑でしかないわ。結局社会には認められなかったけれど、フレア団にも正義はあった、それを汚されるような真似は許せない」
つまり、引き際を大事にしたい、ということだろう。大量破壊兵器(と聞いているだけで実際に見たことは無い)を使ってカロス地方全体に恐怖を味あわせたフレア団。その脅威を食い止めた少年少女は、歴史の証人、勇気ある英雄として表彰された。そうなれば必然、フレア団はまさに「悪の組織」という位置づけになり、糾弾の対象になる。今なおその残党が犯罪者として追われているともなれば、他の団員への風当たりも余計に強くなる、そういったところだ。
まさか、とは思ったが、やはり次の言葉は衝撃的だった。
「明朝9時。あなたを警察に突き出します。私の名義であなたを捕まえて警察に売れば、私がフレア団に関係あると世に知れ渡っても、ある程度融通は利くでしょうし、ね」
主人もその言葉に愕然としたようで、目を大きく見開いていた。自分は自分で、主人に害をなそうとする者を敵と見なした本能が、手っ取り早く戦闘の体勢を取らせた。それに呼応するように、パキラの側に控えるカエンジシも姿勢を低くする。今すぐにでも跳びかかれる体勢だ。
――しかしそこから、戦闘に発展することは、幸いにして無かった。
「あなたが『なんのために捕まらずにいるのか』『これからどうするつもりなのか』、それまでに考えておきなさい。ここの部屋は好きに使っていいけれど、逃げようとしても監視カメラで足が付くだけね。じゃあ、失礼するわ」
外でピシャリと雷の鳴る音がしたのにも気付かず、主人も自分も、去っていくその背中を見ていることしかできなかった。
しばらく黙りこくったままの主人が、重苦しい口を開いた。
「何のために逃げ続けてるのか、か」
いかにも柔らかそうな音を立てて、主人がまた布団に倒れ込む。
「単に、捕まったらひどい目に遭うんだろうってことしか考えてなかったな。捕まるっていうのはとても不名誉なことなんだと思ってたが、犯罪者として逃げ続けることのほうがよっぽど不名誉だ。正直、フレア団の幹部様にも先輩にも、同期のあいつにも申し訳ない。居場所を与えてくれたのに、こうしてフレア団の正義を汚すような真似をしてるんだから」
ふう、とため息。
しかしやはりそれも、自分に責任があるのであって、主人を巻き込んだだけのことだ。あのとき勝手なことさえしていなければ、監視下とはいえ釈放されて見咎められることなどなくミアレの石畳の上を歩いていただろうに、ああまでこそこそと逃げ回らなければならなくなったのも、自分が悪いというのに、それを背負い込む主人は、優しすぎる。そんな余裕もないのに、他者のことばかり考えている。
だったら自分だけ警察に捕まればいいのではないか。そんな考えが頭に浮かんだ。悪いことをしたのは自分なのだから、自分だけ捕まれば済むだろう。あるいは自分が注意を引いている隙に、主人には逃げてもらう。それなら万事解決――
「でもなあ、」
そんな安易な考えは、主人の次の言葉にあっけなく打ち砕かれた。
「やっぱり警察に捕まれば、お前とは離れ離れになるからなのかもしれないな」
ああ、もう。口どころか顔から火が出るようなことを言わないでほしい。
先ほどの自分の考えは自分で勝手に焼却処分した。恐らく、自分にとって主人がなくてはならない存在になってしまったのと同じように、主人にとっても自分はなくてはならない存在なのだ。たぶん、警察から逃げ続けるという、流れに逆らう行動を共にしたことによって、不可視の何かが、主人と自分の間に生まれたのだろう。
ぼん、と主人の手が頭に乗せられた。
「これからどうしたいのか」
独り言のようで、恐らくそれは過去の主人自身と、自分にも語り掛けた言葉だった。
「ずーっと流されてきた俺だが、そろそろ自分で自分の流れる方向を決めなきゃならん時なんだろうな、今は。誰かからああしろこうしろと言われてやるんじゃなくて、自分で何をするか、何をしたいか、それを決める時なんだな」
そう言って主人は、にかり、と、悪戯を思いついた子供のような笑みを浮かべた。
「子供の頃にうっすらと抱いた、夢があるんだ」
翌朝、通告されていたよりも早く、8時にパキラはまたこの部屋を訪れた。
「結論は出たのかしら?」
サングラスの奥に見えるその目は、まさに決断を迫っていた。
「あなたを突き出してそのクイタランを私の手元に置いておくこともできます。その場合は私の手持ちとしてしっかりしごいてあげるけれど。素質はそこまで悪くなさそうだし。あるいは、そのクイタランを警察に突き出して、あなたを逃がしてあげるという手もあります。そのどちらも嫌だというのなら、一緒に老牢屋に入ってもらうことになります」
「いえ、俺はそのうちのどれも選びません」
主人は、きっぱりと言った。
「俺はずっと流されるままに生きてきました。言われたことだけやっていれば、それだけで良かった、そんな生き方をしてきました。それが間違っているとは言わないまでも、それじゃあ生きる意味なんてないことに気付かせてくれたのは、フレア団に所属したからだ。言われたことしかできない人間がどうなるのかということを、誰かに依存することでしか自分を保てなかった人間がどうなるのかを、フレア団がなくなった後に俺はこの身に染みて知りました」
主人の目は、まっすぐにパキラの目を見据えていた。
「だから、この機会に、俺は自分がやりたいことを見据えて、それをやろうと足掻くことにしました。――俺は、もっと広い世界を見たい。自分という存在が、どんなものなのか、どうあるべきなのか、広い世界を見て見極めたい。だから、俺は旅に出ます。そのことに踏み切る勇気をくれた、こいつと一緒に」
「もし、それが、」
パキラの顔に、明らかな闘志が宿る。
「私と交戦するという結果を導くとしても?」
いつの間にか出てきたカエンジシが、戦闘体勢をとる。牙を見せ、明らかに威嚇している。
でも、もう、退かない。逃げない。
こうする、こうしたい、そういう意志を貫くには、自分自身が強くなくてはいけないのだ。
「ええ、立ち向かいます」
そしてそれは主人もまた同じだった。
「権力にしても、ポケモンの戦闘力にしても、強いものに怯えて従うだけじゃあ、今までと何ら変わりない。でも明らかに敵わない相手に立ち向かうのは、ただの無謀。俺は名実ともに強くなって、その無謀を、無謀じゃなくしたいんだ。今はまだ、弱い。でも弱くても、ここの窓から飛び降りて逃げることだけはできる。諦めない、諦めたくない。――それが俺の出した結論です」
自分のことを自分で決める。自分のやりたいことを、自分で決める。それは、大きな力に、流れに従ったままでは、とうてい叶わない。だから、それに抗うだけの力を手に入れたい。
主人の結論を受け、自分も戦闘の構えを取る。
「はあ。――本物の馬鹿を発見しました。呆れたわ」
しかしこれまた、戦闘に発展することは無かった。やれやれといった様子で、
「ここは5階よ、飛び降りて無事で済むと思ってるのかしら」
う。
「だいたい、あなたの手持ちはそのクイタラン一体で、こっちはカエンジシだけじゃないというのに、逃げ切れる保証がどこにあるのかしら」
う。
「そもそも。犯罪者として名を挙げられているあなたが、悠々とカロスを旅できるなんて思ってるの?」
先程までの勢いはどこへやら、返す言葉もないとばかりに言葉を詰まらせる主人。パキラはそれを見てさらに呆れた様子を見せた。カエンジシがいつの間にか戦闘体勢を崩していたのを見て、自分も同じく居住まいを正した。
盛大なため息を吐きながら、
「久々に良い目を見たわ。一点の曇りもない、栄える炎のような明るさを持った目を」
言った後で、もう一つのボールからポケモンを繰り出した。炎タイプと飛行タイプを併せ持つ、ファイアローというポケモンだ。
「あなたのことはどうにかして揉み消しておいてあげましょう。そのファイアローに乗って、可能なら別の地方まで逃げなさい。そこまでは追っては来ないはずだから」
「……」
ぽかんとしている主人に、またもパキラはため息を吐く。
「少しでも怯む様子を見せたら、すぐにでも警察をここに呼ぶつもりだったのだけれど、計画が崩れたわね。――行きなさい。私の気が変わらないうちに」
「……感謝します」
そう言い、ファイアローの背中にまたがる。自分はボールの中に戻らず、主人の背中に掴まった。
開け放たれた窓から、風を切って大空へと舞い上がった。
雲の切れ間から差し込む陽光は、自分たちを祝福しているように思えた。
目的地は、主人だけが知っている。
主人にこの身を任せることにしよう、そう決心する意味を込めて、大きく尻尾から息を吸い込み、ミアレの空に高々と炎の筋を描いた。