気ままに一筆
吾輩はエネコである
 吾輩はエネコである。ニックネームはない。何処で生まれたかとんと見当がつかぬ。ただどこぞの古びた本屋の側でニャーニャー鳴いていたことだけは記憶している。

 などという冗談を言えるのも、本屋の女主人のおかげであろう。眼鏡をかけた若い女で、親から受け継いだというその店を一人で切り盛りしているらしい。食べ物を求めてときどきここに来ることはあっても、売り物を引っかいたりしかねないという理由で手元に置いてもらえることはついになかったのだが、ときどき女主人の読み聞かせを求めて立ち寄る子供たちに構ってもらうことはあった。上の一節も、その読み聞かせの中で覚えたものである。他の本に比べてやたら難しげな感覚があったが、来る子供たちも年齢がまばらなようであったのだから、そこは関与するところではあるまい。

 さらりと流しそうになったが、自分は野生だ。野良のエネコだ。
だからどんなに周りに自分の存在を知られていても、ここは街中なのだから、飼われているわけでもトレーナーの手持ちに加わるでもない自分は、保健所とやらの職員に追い立てられることも珍しくないわけで。

「おっしゃ! やっと捕まえた!」

 特に最近野良ポケモンが店やらゴミ捨て場やらを荒らすとか、糞尿を場所を弁えずに垂れ流したりだとか、ともかく人間から見て迷惑な存在になりつつあったこともあり、いつもより多くの人間に追い掛け回されたあげく追い詰められ、見事に網の中に飛び込んでそやつらを喜ばせてしまったのである。保護という自分たちから見ればとんでもない名目で。
 催眠薬を嗅がされた自分が何かに積まれたことが辛うじて知覚できたくらいで、あとはどうにも記憶にない。


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吾輩はエネコである。ニックネームはない。何処に連れ込まれたのかとんと見当がつかぬ。ただ鉄格子の中でどうにもできずにニャーニャー鳴いていたことだけは記憶している。

 保健所の職員に捕まったのだからここは保健所とやらなのだろう、という推測しかできない。違っていたら、何だ。売り飛ばされて毛皮でも剥がれるのか。それは勘弁してもらいたい。それを考えれば保健所とやらのほうがまだマシに思えた。この時はまだ保健所がどんな場所なのか知らなかったわけである。

「お前さんも災難だねェ、捕まっちまうなんてよォ」

 話し相手がいたこともこれまた僥倖だったと言えよう。隣のゲージから聞こえるのはひどく眠たそうな声。種族はグラエナといったはずだ、何度か吠えられた覚えがある。よく聞けば他の格子に入れられている者もいるらしい、ぎゃんぎゃんとうるさいが、まあこのグラエナが特段おとなしいだけであろう、そう思いこむことにした。

「あたしは山の中に住んでたんだけどねェ、その山を切り開くだのなんだので、追い出されちまったのさァ。じっさんもそのじっさんもあの山の生まれだったからさ、あたしァ譲れなくって、抵抗したら叩きのめされてこのざまよォ」
「ほう、元から野生だったのか」
「そうさァ。あの山は旬が来ると美味ーいオレンが生るのよォ。そういうお前さんは、どうなんだい」
「うん? ああ、こっちはもともと人間に飼われてたんだが、どういうわけか捨てられてね。しばらく街中をうろうろしてたんだが、とうとう捕まった」

 特筆する機会がなかったが、元は人間に飼われていた。物心ついたころにはその家族の娘に世話されていたものだから、人間には慣れている。だがどういうわけだか段ボールに入れられて道端に放り出され、拾われるのを待つよりかは自分で行動したほうがよかろうと思い、野良として生きる道を選んだわけである。

「ひょ、そりゃわしと似とるかもの」

左隣のグラエナとしゃべっていたものだから、背後からの声には意表を突かれた。慌てて振り向けばそちらは壮年と思えるマッスグマ。

「あんたも飼われてたクチかい」
「わしの主人があの世へ行っての。その娘家族に引き取られたんじゃが、合わなくなって抜け出したからの。捨てられたのとはちょっと違うかの」
「へえ、そんなこともあるんだな」

 そこまで似ているわけでもなかった。すると今度は上から。

「ふん、人間なんて自分勝手な生き物なのさ」

 この声はたしかブルーという種族のものだったはずだ。残念ながらどう頑張っても姿は見えないのだが。

「おいらはもともとトレーナーに捕まえられたんだが、不要だと言われて捨てられたんだ。どことも分からねえ場所で『逃がされ』りゃあ、そりゃこういうことにもなるわな」
「ひどいやつもいたもんだな」
「要らないって言われりゃ、言われたほうもショックだねェ」
「ああ、そうさ。人間にはロクな奴がいねえよ」

 最後は下からの声。

「うーん、そうかなぁ。あたしのご主人は優しかったのよ?」

 オタチという種族。声からしてかなり若いようである。

「お菓子とか作ってくれたりね、一緒に寝たりね、優しかったのよ。お出かけしたときに、あたしだけ迷子になっちゃって、捕まっちゃったの」
「それは災難だったねェ」
「ふん、あとで見限られるかもしれねえっていうのに」
「あたしのご主人はそんなことしないって信じてるし、ここに迎えに来てくれるって信じてる。悪い人間ばっかりじゃないと思うわ」

 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、職員が入って来て食べ物を置いていく。大して美味ではなかったこと以外、記憶にない。


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 吾輩はエネコである。ニックネームはない。どのくらい経ったのかとんと見当がつかぬ。ただ下のオタチが迎えて来てもらい、左隣のグラエナは連れて行かれたきり帰ってこなかったことだけは記憶している。

 自分の主人に迎えに来てもらうなり、里親に引き取られるなり、ともかく人間に連れ出されたポケモンたちは、その人間の許で暮らすのだろう。あるいは暮らすだけに留まらずバトルというものに駆り出されるのかもしれないが、そこは自分の知るところではない。オタチから聞くその主人の像からはそのような様子は見えなかったし、実際にオタチのゲージを覗き込んだその姿からも感じ取れなかったが、今は関係ない話だろう。いずれにせよ、オタチは「助かった」。
 里親に引き取られる可能性は全員等しいと仮定しよう。そのとき命運を分けるのは、元主人がそのポケモンを探しているのかどうか、というところに帰結する。だから当然、もとから野生のポケモンならば、その可能性はゼロだ。そしてそれがグラエナのパターンであり、結果的にグラエナは「助からなかった」。

 ここに集う者たちに脈々と語り継がれていく、「タイムリミットが14日間」という、傍目から見れば何のことだか分からないことについても、もうすでに知ってしまっていた。
 上のブルーと同じように人間の身勝手さに憤りこそしたものの、結局こんなところで怒るだけ怒っても何にもなるまい。さっさと諦観に移ってしまったほうが気が楽というもので、自分だけでなく今までいた者も新しく入ってきた者も、いずれ「助からなかった」ポケモンたちと同じ運命をたどるのだろう、そう思う者がほとんどである。

「ひょ、老い先短いわしのようなもんは別に構わんがの、若い世代が元の場所へ戻れないというのも悲しいもんじゃの」
「ふん、おいらは人間の許にもどるなんざごめんだね。戻るくらいなら野垂れ死にのほうがまだマシってもんだ」

 自分を段ボールに入れて捨てて行ったあの家族が引き取りに来てくれる可能性はほとんど考えなかったが、他に別段何を考えていたわけでもなく、ただブルーとマッスグマの会話を聞きながら冷や飯を食らっていたことくらいしか記憶にない。


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 吾輩はエネコである。ニックネームはない。タイムリミットまでどのくらいなのか見当もつかぬ。ただ考えもしなかった可能性が目の前にあってひどく狼狽したことだけは記憶している。

 上のブルーもとうとう帰ってこなくなった。が、自分のことに手一杯で、残念ながら他を気遣っている余裕なんて無かったと言える。それは自分に迫り来る「処分」という名の死に向き合わねばならなかったこともあるし、それがまるっきりひっくり返ったことも含まれるだろう。

「ああ、良かった! 見つかったわ!」

 聞き覚えのある声が響いたかと思えば見覚えのある顔が覗いて来て、尻尾が引っこ抜けてしまいそうなくらいに驚愕したことは隠しても仕方あるまい。
 端的に言ってしまおう。
 過去に自分を捨てた主人が、自分を探し出したらしい。
 捨てた理由は至極単純で、養えるだけの金がなくなったからだそうだ。父親の会社が破産しただの、夜逃げする羽目になっただのと聞かされても正直分からない。ただタイミングは本当にピッタリだったと言えよう。もう少し捕まる時期がずれれば、早ければ見つけ出されないだろうし、遅ければそのときは本当に遅かったとなる。

「ひょ、お前さん、外に出れるんじゃの。元気での」

 横からの手向けの声を素直に受け取っておけばいいものを、心の中を埋め尽くしていた疑念と不満は、それをどうにも皮肉にしか変換してくれなかった。
 要らなくなったら捨てて、また探し当てて繋ぎとめるのか。
 追い詰められて切り捨てておいて、それが元に戻ると思っているのか。

 何とも身勝手な。

 オタチの主人と同じように半泣きになって自分を抱く元主人の顔も、表面上のそれにしか見えなくなってしまった。
 グラエナを追い立てた人間やブルーを捨てた人間と同等、あるいはそれ以下に思えてしまった。

 沸々と煮えた感情は、久方ぶりの外気に触れたことで、一気に暴発した。
 無我夢中で腕を振りほどいて駆け出した。


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 吾輩はエネコである。ニックネームはない。ここがどこなのかどのくらい走ったのか見当もつかぬ。ただ野良になってから暮らしてきた町の中であることは間違いない。

 走る。ひた走りに走る。駆け走る。疾走疾駆全力走行。
 元主人がどんな顔をしたか、どんな反応を見せたか、全く振り返らずに走ってきた自分には分からない。分かるのはおそらく元主人が保健所に連絡を入れたであろうということだけであり、その証拠に二人ほど追いかけてくる。普通大の男に追い立てられればエネコという短足な種族であれば易々と追いつかれてしまうだろうが、しかしながらなかなかそうはならなかった。
 野良であったころの顔見知りが状況を察したのか。はたまた単なる人間へのいたずらか。電線に止まっていたヤミカラスやら側溝から出てきたベトベターやらゴミ捨て場から這い出したヤブクロンやらがその二人を妨害していた。特段彼らから声がかけられるようなこともなかったが、こちらから感謝を一言述べ、またひた走る。

 そうしているうち、見知った場所に着いた。
 あの古びた本屋だ。
 ちょうど読み聞かせの最中で、息の上がった自分を見てきょとんとするばかりの子供たちと、

「あら、帰ってきたのね」

 女主人はいつも通りの笑顔で迎えてくれた。


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 吾輩はエネコである。ニックネームはない。元主人がどうしているのか見当もつかぬ。ただ条件付きではあるものの女主人を正式に主人として慕うようになったその経緯だけは、しっかりと記憶している。

■筆者メッセージ
 ハッシュタグ「#リプもらったポケモンで短編書く」で、「エネコ」をいただいたとき書きました。
 アイデアとしては、先に出ていたものとしては、学校に通う少年を主人公として、彼が段ボールに入れられて捨てられていたエネコと出会い、そこが転機になる、みたいなのがまず出てきたのですが、学校の設定が、ほら、トレーナーズスクールとの関連性とか考えたらどうもまとまらないのと、あとはやはり貰ったポケモンの一人称で書くべきなんじゃないかと思い立ち、路線変更と相成りました。
 元ネタは皆さんご存知ですね。夏目漱石の「吾輩は猫である」。最初の一節だけしか調べるまで知らなかった私なのでした……。
ポリゴ糖 ( 2021/07/31(土) 12:47 )