ものぐさな守り神
そいつは今日もやっぱり村のど真ん中に寝そべって、いびきをかいていた。
ここは名前が載っている地図を探す方が難儀なほどの小さな村で、住人も20人いるかいないか、全員の名前と顔を一致させるのに全く問題ない程度の規模だった。山を切り開いて平らな土地を確保していて、主要な道路に面しているわけでもなければポケモンセンターがあるでもない、それこそ都会人から見ればまさに「秘境」とも呼べる場所だ。畑の野菜やら山で採れたきのみやら木材やらを最寄りの町に卸しに行くほかは、外部との交流もない。最寄りと言っても徒歩で往復2日は下らないし、押し車を通す道はあっても自動車を通す道はないと言えば、どれほど辺鄙な村なのかはお察しだろう。
その村のど真ん中、一つしかない共用の井戸の周りの広場にそいつはいつもいた。筋肉隆々でずんぐりした体型のそいつは、形こそ人間に近かったものの、それが人間でないことは誰の目にも明らかだ。そいつがケッキングと言う名前のポケモンだと知ったのはつい最近の話で、それは外から来た人間がそう呼んで初めて知ったのだった。
「ばあちゃん、あいつはいつからあそこにいるの?」
「あのお方を『あいつ』なんて呼んじゃいかん。あのお方は村の守り神なんじゃ、敬わにゃあいけんのよ」
思えば僕が物心ついた頃には、ケッキングはあそこに寝そべっていた。それに、あのケッキングに毎日のように供物――きのみだったり穀物だったり――を捧げる光景はもはや日常の一部となっていたし、それが一日にしてぺろりと平らげられていることに対して驚きを抱くことも全くなくなっていた。どうにもそのことに疑問を持ってしまって祖母に訊いてみたら、真っ先に釘を刺される結果となったわけだ。
「あれはわしがまだ20いくつのころじゃったなあ。ある朝、水汲みに行こうとしたら、あの場所にあの方がいつの間にやら寝そべっておられた。昨日の夜までは影もなかったのにのう。あそこにあの方がおられることを知ってすぐは、ちょっとした騒ぎになったもんじゃ。あそこは井戸のすぐ近くじゃし、襲われたらどうしよう、という恐怖があったからのう。今にして思えば失礼な話じゃな」
今祖母は80を超えているから、もう50年以上も前の話だ。
「外から人を呼んで追い払ってもらうことも考えたもんじゃが……時間がかかり過ぎる、それまでに皆干からびてしまうわとなって、わしは襲われること覚悟で水汲みに行った。じゃけど、あのお方は何もなさらなかった。結局は無害なお方じゃと言うて、しばらくもすればあまり気にせんようになった。次第に供え物をするようになった。まああの頃は興味本位だったがのう」
今もそれは変わっていない。寝そべっているのが井戸の側だから、ケッキングは一歩動けば水汲みに来ている村人を怯えさせるのに十分だった。少なくとも僕の記憶にある限りではそんなことはなかったし、今の様子を考えれば僕が生まれる前にも全くと言っていいほど無かったのだろう。
「昔の話になるがのう、だいたい5年くらいの周期で、大量の獣どもが村に押し入って来て、畑を食い荒らしたり家を倒して壊したりしていたんじゃ。そのたびに畑を肥やし直して、家も作り直して、というのを繰り返しとった。あの方が来られたのはちょうどその時期でな、いつもあの場におられたあのお方は、村に獣どもが近づいてくると察するや、起き上がって一つ雄叫びを上げ、拳を振るって全部追い返してしまいおった。それからあのお方を崇め奉るようになったのじゃ」
角のある岩の獣や、骨を被った獣、やたらと舌の長い獣を、村から離れた場所で幾度となく見かけたことがある。村を襲っていたのはそういうやつらで、あのケッキングはそいつらを追い払うことによって結果的に村を守ったのだ。
「それからも村に脅威が襲い掛かるたび、あのお方は立ち上がって拳を振るわれた。ほとんど傷を負うこともなく、ばったばったと倒しなさった。いつしかここに寄りつく獣どもはおらんようになったのじゃ。じゃからあの方は守り神なんじゃ。村を護って頂いているのに、供え物を欠かすなどもっての他じゃろう?」
これは真偽の分かりかねる話で、村の別の老人から聞いた話だが、密猟者とやらがケッキングを捕らえに来たときがあったらしい。だがやはり村に近づく獣と同じように追い返してしまったという。いつの間にか村をそのまま縄張りにしてしまい、他を寄せ付けないケッキングに、獣たちは近づくことを止めたのだろう。
「ほれ、水汲みに行かんか」
「はあい、分かったよ」
急き立てられて桶を持って外に出れば、さっそく供え物に手を付けているケッキングの姿が目に入る。その食べっぷりは日常と化したとはいえ、やっぱり圧巻だと感じざるを得なかった。
**********
「へえ、そんなことがあったのね」
今この村には、ポケモントレーナーと名乗る一人の女性が訪ねて来ていた。フィールドワークがどうのと言っていたが、それが何なのか知らない以上はただのお客さんだ。他の場所から人が入ってくるなど珍しい。だが村人たちにとっては物珍しさよりも不信感の方が強かったようで、滞留を拒みはしなかったものの、交流をほとんど持たなかった。僕を除いては。
「確かにケッキングには、手の届くところの食べ物がなくなったら居場所を変えるような習性があるのよね。村の人たちが食べ物をずっと与え続けているから、ずっとあの場所に居座っているんだわ」
彼女にはいろいろなことを聞いた。もちろん村の外の、ずっと遠くの大都会のこともだったが、何よりも大きかったのはポケモンの存在だ。あのケッキングもそうだし、村を襲って来ていたような獣たちもそうだと知った。彼女が連れていた鳥の形をした獣――ピジョットと言う種族の名前らしい――もやはりポケモンであり、モンスターボールという球体に出し入れしている光景を見た時、僕は目を輝かせた。
「もしかして、だけど」
気になったことを訊いてみる。
「あのお方、じゃなくてケッキングも、もしかしてそのモンスターボール、だっけ? それに入るの?」
「原理としては捕獲できるわ。ただ」
女性は少し考えるようにしてから、
「あのケッキング、相当な歳のはずよ。戦うぶんには問題ないとしても、野生で過ごした時間が長いほどボールから抜け出しやすいから、一筋縄ではいかないわね。――もちろん私はそんなことしないわよ?」
両手をぱたぱたと振って彼女は否定した。
「なるほど、ね」顎に手を添えて、彼女は言う。「ここに来る時も突然ポケモンが現れなくなって、おかしいと思っていたんだけど、あのケッキングの縄張りだったからなのね」
「うん、おかげで20年か30年か忘れたけど、その間全然襲撃に遭わなかったんだって」
「へえ〜、納得。だから守り神」
「そう。――でもね、何だかちょっとおかしいと最近思うんだ」
「ケッキングの様子が?」
「ううん、そうじゃなくて。なんていうか、もしケッキングがどっかに行っちゃったり、襲われた時に守ってくれなかったらどうしよう、って思うことがあるんだけど、村の他の人たちはそういうことを全然考えてないみたいで」
上手く説明できないことに、苛立ちを覚える。でも何となくは分かってくれたようだ。
「あー……なるほどね。一つ言えることは、あのケッキングがこの先も同じように村を守ってくれるかどうかっていうのは、私も分からないわ。食べ物が供給される限りはあそこにいるんだろうけど……」
結局、僕の心に残ったもやもやしたものは、大きくなっただけだった。
**********
獣の大群が来た。
それは突然の知らせだった。村に滞留していた女性が広場に駆けこんできて、何事かと思っていたところにもたらされて、一時的にパニックになった。
「2体のポケ、じゃなくて獣を筆頭にして、たくさんここに向かってきているわ。とてもじゃないけれど私一人で食い止められるような数じゃないし、ケッキングも相性が悪いの。お歳寄りには厳しいかもしれないけれど、ここから退避したほうがいいわ」
それを聞いた村人たちからは、
「この村を見捨てて逃げろというのか」
「わしらはここから動かんぞ」
「この村には守り神さまがおられる、今度もきっと追い払ってくれる」
なおもケッキングに頼ろうとする声ばかりが出てきて、一向に女性の勧告を聞こうとしない。ついには女性が守り神を侮辱したとみなして石を投げつけるようなやつも現れて、もうてんやわんやだった。
「お願いします、守り神様」
「今こそ起き上がって、この村を守って下され……!」
たくさんの供物を備えて、ケッキングの前にひれ伏す村人たち。だがケッキングはそこから動こうとしない。ただ供えられたものに片っ端から手を出して胃袋に収めているだけだった。
「こうなったら、外部から応援を呼んで――」
女性がそう言って、腰から何やら機械を取り出した時、悲鳴が起こった。
「襲われてる!」
「まずいっ……!」
四つの手を持った人型の獣が、逃げ損ねた一人の村人の足を掴んで吊り上げていた。手のうちのもう一本が、その体を打ち据えようとするのを見て、
「ピジョット、でんこうせっか!」
女性が赤と白に塗られた球体を放れば、赤い光と共に鳥型の獣が現れる。そのピジョットは凄まじい速さで村人と獣の間を駆け抜けて、おかげで村人は頭から地面に落ちた。
「あの獣は?」
「カイリキーね」気絶したらしい村人から距離を取らせるようにピジョットに命令しながら、「このあたりでは生息は確認されてないわ。もしかしたら誰かが逃がしに来たのかもしれない」
四つの手があっても、それを当てようとする相手が空中にいるのでは、たとえ手の数が倍あっても無理だろう。女性の指示とピジョットの動きはバッチリ合っていて、拳をかいくぐって翼を叩きつけ、じりじりと後退させていた。動かない村人に女性が近づいて、介抱する。
「あなたは村人たちを非難させて。ここは私がどうにかするから。たぶんもう一体は、広場の方に行っている」
今やるべきことは、ここで女性の戦いをずっと見ていることではなくて、退避の手伝いをすることだった。
広場に戻ったときには、少し状況が変わっていた。
自分が広場へ戻ってきた道とは反対側から、もう一体の白と黒にはっきり分かれた体毛の獣がのしのしと歩いて来ていた。村人たちは広場の端の方に固まって、なおも祈り続けている。
いつも食べ物以外に目を向けないケッキングが、初めてその獣に目を向けた。
いつも寝そべってばかりだったケッキングが、ついに腰を上げた。
「やった……」
「守り神様が、動いて下さったぞ!」
村人たちから歓喜の声が湧き上がる。そうこうしているうちに、ケッキングとその獣は相対し、睨み合う。
先手を取ったのはケッキングのほうだった。重い体を揺らして跳躍、拳を上から下に叩きつける。しかしその動きは鈍重で、拳は地面を叩くにとどまった。
完全に隙を生じたケッキングを、獣の拳が襲う。脇腹に一撃入れられて辛そうになったケッキングの顔に、二撃目が突き刺さって、二歩後退。
ブチ切れたと見えるケッキングは雄叫びを上げてなおも拳を振るうが、全て空を切った。逆に獣の振るう拳は、漏らすことなくケッキングの体にダメージを与えていった。
ああそうか、と思った。
あのケッキングは相当歳を取っていることは、祖母の話から明らかだった。そして、村を縄張りとした後は戦いを経験することもなく、ずっとあそこに寝転んでいた。体が完全になまっていて、かつ衰えているのだということは、戦いぶりからして明白だ。
獣が跳躍しながら拳を下から上に突き上げる。ケッキングは避けきれず、顎にその一撃をもろに食らう。大きく吹き飛び、地面に叩きつけられたときには、もう完全に気絶していた。
獣が雄叫びを上げる。
村人たちからは、何も言葉が出てこなかった。
守り神がそうでなくなった、いや、そうではないと証明されてしまった瞬間だった。
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女性の奮闘のおかげで人的被害は少なく、死者は幸いにも出なかったが、村の建物は完全に破壊されたし、畑もぼろぼろにされた。
村人たちは今、最寄りの町で提供された場所を住処としている。
壊されては作り直し、荒らされては肥やし直してきたサイクルがあった頃は、仮にこういうことがあってもすぐに再建できたのかもしれない。だが、ケッキングを守り神として崇めるようになってからは、ケッキングに守ってもらっている、だから襲われることが無い、そんな状態が当たり前になってしまった。村を再建する力というものが、その状況の中で次第に失われていったのだ。
たぶん、村を作り直すのはもう無理だろう。生活の基盤どころか、心の拠り所まで完全に失ってしまったのだから。
あのケッキングがどうなったのか、村人たちは誰も知らない。
知っているのは、間に合わせの墓標を立てに村に戻った女性トレーナーと、僕だけだった。