桜の花は少女の夢を見るか
1
特に理由があるわけではない。
今日はとても天気が良かった。布団も干したし掃除も済ませた。ちょうど、読みかけの本があった。たったそれだけだ。大学も春休みで講義はないし、今日はバイトも休みだし、これくらいの贅沢な時間の使い方も許されるよね、という言い訳じみた言葉は後付けでしかない。雲一つない、どこまでも突き抜けるような青空を眺めて、ちょっと外に出て読書でもしようか、なんて、そう思った心の働きに「衝動」以外の名前を付けるなど、できそうにもなかった。私の唯一の手持ちポケモンは、あまりアウトドア派ではないから少し渋っていたけれど、結局は折れてボールに入って、私についてきてくれた。
似たような衝動に駆られたらしい人間たちが、川べりの道を散歩しているのが見える。ゆっくりと歩を進める老夫婦。駆けていくイーブイを追いかける若い女性。ポケモンがいた、と叫んで草むらに飛び込もうとする女の子を慌てて止める父親らしい男性。見上げれば、クリアな空色の中を鳥ポケモンが悠々と飛んでいた。かなり急いでいるらしい飛び方をしているのは、トレーナーが乗っているのだろうか。
凍てつく冬を終えた後の、心の底から人間を温めてくれそうな春の日差し。方々で咲く花が色彩を無限に増やしているように感じられる。遠く山裾に見えるのは桃の花だろうか。それとも梅かな、桜にはちょっと早いだろうな、と考える私のその足元を、何かが猛スピードで駆けて行った。姿はもう隠れてしまったが、たぶん、冬の間活動を控えていたポケモンたちが活動を始めたのだろう。毛皮を着込んでいるポケモンだって、寒いものは寒いのだろう、と思う。ようやく暖かくなってきたと感じたら、覚えず外気に触れるようなところへ飛び出したくなるのも分かる、気がする。現に私がいまこうして散歩しているのだって、かれらとたぶん、同じなのだ。
橋を渡って、向こう岸にある公園に着いた。ここには何度か来ているが、いつ来てもそんなに人が多くない。滑り台と鉄棒が小さな区画に狭苦しくある以外には、ベンチがあるだけの公園と言っていいのか疑わしいほどの場所だ。近くに住んでいる子供たちはもっと広い公園で遊んでいるのだろう、ここではボールを蹴ってもポケモンを戦わせてもどこかの家の窓を割りかねない。
ベンチに腰を下ろす。少し軋む音がした。
私はこの公園が好きだ。大通りからも離れているからエンジン音も聞こえない。それなりの規模の街の中にありながら、人々の喧騒とは隔絶されたように感じる場所。近くにあるのは住宅かアパートがあるばかりだから、ここで長々と読書していたって見とがめられる心配はそうそうない。静かだから読書も捗る。それに、今はまだ蕾ばかりだけれど、大きな桜の樹が一本立っていて、風情があるのだ。たぶん、ちょうど来週くらいが見頃だろう。私のお気に入りの場所だった。
少し青空を見上げてから、私はカバンから本を取り出した。中ほどに栞を挟んだ本の表紙は、まだ新しく光沢を持っている。ちょっと日に翳してその新品の様子を見て微笑んでから、私は栞のページを開いて中身に没頭し始めた。遠くでバイクの走り去る音がするのも、耳に入らない。
中身は、一つの恋物語だった。田舎から出た主人公が、郷里に戻ってくるところから物語が始まる。思い出深い場所を辿りながら、昔の、幼馴染とのエピソードを思い浮かべていく……実は主人公はポケモンと接するのが怖くて……けれど、そういう思い出を辿るうちに、昔のトラウマと向かい合っていく……けれどそんな中でも、トラブルは発生して……、…………、………………………。
いつの間にか私は、ベンチに横になって寝入っていたらしい。
暖かい日差しにつられて、つい眠気が悪戯をしたようだ。ぽかぽかとした陽気の中、物語の先が気になる欲よりも睡眠欲を刺激される程度には、私も気が緩んでいたというか、
なんというか。うつらうつらして文字を追っても意味が頭に入らないところで諦めれば良かったのかもしれないが、こういうのは中々自覚も制御もできないものだ。ちょうど、とても集中して作業をしているときには何も感じないのに、終わった途端にお腹が鳴ってしまうような感じである。
日はほとんど沈みかけていて、地上には僅かにオレンジ色の線が残るだけになっていた。この狭い公園にも一つだけ電灯が立っていて、まだ影響力は弱いながらも暗闇に陥ろうとするこの場所を照らしている。ぼんやりと空を見上げれば、夕焼けと夜の間の群青の中を、数羽のヤミカラスが飛んでいくのがぼんやりと見えた。
まだ春先だ。昼は暖かくても夜は冷える。そういえば少し寒いな、と思って、ふと気づく。首より下が、暖かいものに包まれている。
手で探ってみて、気付いた。薄手の毛布だ。
私は冷静な思考を取り戻しながら、慌てて飛び起きた。毛布を持ってきた覚えはないし、ほんの1、2時間の読書のために、わざわざ毛布を持ち出すことはない。暖かいうちに帰るつもりで、どうして荷物になる毛布を持ってこようとするだろうか。であれば、これは誰かが私にかけたのだ。
そしてその人物はすぐに見つかった。あろうことか、というのも失礼な話だろうけれど、その男性は私が寝転んでいたのと同じベンチの端に座って、夜に塗り替えられつつある空を黙って眺めていた。
最初は驚いて距離を取った私だったけれど、それは態度としてはかなり失礼なものだっただろう。
そんな失礼も気にせず、私が起きたことに気付いた彼は、私の方を向いてにっこり笑った。
2
帰り道、私はうすら寒い中、彼から貸してもらった毛布を羽織りながら、彼とのやりとりを思い浮かべながら、ぼんやり歩いていた。
彼の言うことはこうだ――気にしないでいいよ、アパートの窓からたまたま見えただけだから。流石に部屋に連れ込むのもなんだし、放ったらかしにしておくのも何だか薄情な気がするから、ああして起きるのを待ってただけだよ。ああ、ぼくがそうしたくてしてただけだから気にしないで。
ベンチで寝入っていた私の隣に座っていた男性は、私の知っている人だった。同じ学部の同級生だ。彼は、この近くのアパートに住んでいて、部屋からここが見える位置に一人暮らししているらしい。私のことは顔見知り程度には知っていて、私がベンチに横になってしまっていたのを見て慌てて毛布を取り上げて公園まで来て、そっと私に毛布をかけた後、私が起きるまで私のことを見守っていたらしい。
私は気恥ずかしさに、顔をポケモンセンターの屋根よりも赤くしながら、俯くしかなかった。彼とは、大学で顔を合わせたときにも二言三言交わすくらいの中で、彼としても私のことはまあ、顔見知りくらいには思ってくれているものと思う。私はそうして会っては離れるたびに、胸を締めるような感覚に襲われる。情愛というほど高尚なものではないと感じるし、ときめきというほど瞬間的なものではないとも思うし、憧れというほど味気ないものでもないだろうと考える。恋心――そう、恋心という言葉が似合うかもしれない。
そんな恋心を抱いている相手に、だらしない寝顔を見られたのだ。恥ずかしいったらありゃしない。ヨダレとか垂らしてないだろうか、と思ってこっそり口元を拭ったりもしたけれど、寝ている間に横に来たのだというのなら、垂らしていたら確実に見られた後なのだ、と気づいて、ものすごく無為なことをしている気分になる。顔からほのおタイプのわざが出せそうだ。彼が今まさに横に座っていることとの緊張と併せて、張り詰めたこの気持ちを一気に放出すれば、走って地球一周すらできそうな気すらした。
「ごめんなさい、気を遣わせちゃって」
か細い声でそういった私に、気にしないで、ともう一度言ってくれる彼の優しさが身に沁みる。風邪を引かないようにと気遣われた上、優しい笑みまで浮かべられては、二重に立つ瀬がなくて、申し訳なさすらこみ上げてくる。恋心と恥ずかしさと申し訳なさと、三拍子揃えてしまった私は、いたたまれなくなってくる。
「あの、何かお礼させてください」
言ってから、かなり不遜なことを言ったんじゃないだろうかと思案する。お礼といったって、私にできることはほとんどないのだ。それにそもそも、これは私が気が休まらないがために言い出しただけで、本当は彼は一切気にしていないのにこんなことを言い出せば、彼を困らせたうえ、また気遣わせるに決まっていた。
案の定、彼はきょとんとした顔になる。あ、失敗した、とその瞬間に思った。ぼくの善意は見返りを求めてそうしたわけじゃない――そう言いはしなかったけれど、顔に書いてあるようにも見えた。けれど一度口から出した言葉は二度と肺には戻れない。覆水盆に返らず。後悔が先に立てば反省はいらないのだ。
けれど優しい彼は、怒ったり呆れたりといった、私が一番避けたかった反応をすることはなかった。柔和な笑みを浮かべ、私に顔を近づける。お互いの顔が近くなって、心臓の鼓動がはち切れそうなほどに早くなる。
彼は、私の瞳をじっと見つめて、こう言った。
――じゃあ、お礼代わりに一つ、約束してほしいな。ぼくときみとの約束だ。1週間後に、この公園のこの場所に、毛布を返しに来てよ。
私はまた気恥ずかしくなって、毛布をぎゅっと握って足早に歩いた。
3
1週間後。
私はまたこの公園に来ていた。
どうしても外せない用事があって、来たのは夕方になってしまった。遊び終わった子供集団が家に帰るのと、ぶつかりそうになりながらすれ違う。
ぶつかりそうになったのは、彼らの注意力が散漫だったからではなくて、私が前を見ても前が見えていなかったからだ。1週間前に、あのことがあってから、家に帰ってから今日まで、ずっとこんな調子だった。身が入らないというか、ぼんやりしてしまうというか。読みながら寝落ちした読みかけの本だって、挟んだ栞は一ページ分も動いていない。
彼のせい――と言ってしまうとなんだか責めているみたいだけれど、ともかく、彼のことをずっと、ずっと考え続けながら1週間を過ごした。あの日の翌日にはすぐに毛布をクリーニングに出した。流石に、何もしないままそのまま返すのも申し訳ない。普段は絶対に選ばない最高級のコースを選んで、受付のおばちゃんに妙な顔をされたのも、財布が相当軽くなったことすらも、どうでもいいことのように思える。その軽さすらも愛おしい、というのは、流石に変だろうか。「変」じゃなくて「恋」なのだ、ということにしておけば、より多幸感に浸ることができると思った。
狭い公園だ。見落とすような余地は、文字通り、ない。
彼は、あのベンチの前に立って待っていた。
ちょうど私に気付くか気付かないかの距離で、電灯が焦れったいように点灯する。私に気付いて振り向いた彼の顔が、仄かに明るくなった。
「ごめんなさい、遅くなってしまって」と口早に言う私に、大丈夫、と笑って返してくれた。今日は来ないのかと思った、とか意地悪く言ってみたり、まだ肌寒いのにこんな時間まで待たせるなんて、とか不貞腐れたり、そんな様子は一切なく、ひたすらに親切な彼の様子に、私は安堵を覚える。安堵を覚えながら、けれど心臓の鼓動が早まる一方なのは、少し早足で歩いて来たからだろうか。
少しの沈黙の後――彼は、喋るのを私のペースに合わせ、促してくれるかのようである――私は、切り出した。
「約束通り、返しにきました。これ、毛布です。……あと、お礼と言ってはなんですが、これも受け取っていただけませんか?」
30分もかけてああでもないこうでもないと何度もやり直しながら綺麗に畳んだ毛布を、真新しい紙袋に収めたのと一緒に、一回り小さい紙袋も合わせて彼の手に握らせる。私よりも一段大きな手がそれを受け取って、小さい紙袋の方を不思議そうに持ち上げる。
「本当は、お菓子みたいに残らないものが良かったのかもしれないですけど、でも、あの……」
言葉が出てこない私に代わって、目で合図してくる。今ここで開けていいか、と訊いている。私は言葉を出せないまま頷く。
細長い箱を開けた中に入っていたのは、毛布をかけてくれたあの空の、夕焼けと夜闇の間の群青色のネクタイ。
彼のために悩み、彼のために選び、彼のために買った、たった一つの贈り物。
ありがとう、大切に使わせてもらうよ――そんな礼が帰ってきそうになって、彼の口が開こうとするのを、
「あ、あの!」
慌てて大きな声を出して遮ってしまう。遮ってしまってから、しまった、と思ったけれど、もうここまで来たからには、後には引けないと思った。
告白したい。
告白してしまおう。
それは衝動だ。天気の良かった1週間前のあの日に外で本を読もうと思い立ったときと似たような、衝動だ。今この状況が、周りに人のいない公園で桜の樹を背景にしているのが、思いの丈をぶつけるのに最適だとか、全く知らない仲でもないのだから、脈がないわけではないだろうとか、そういう打算みたいなもの――ネクタイを選んでいたときにほんの少しだけあったかもしれないものでは、決してない。
彼は少し驚いた様子を見せつつ、けれど私の真剣な様子を推し量ってか、真剣な顔になって私の方を見つめる。
彼を見つめる私の視線とぶつかる。見つめ合う。
勇気を振り絞る。
そして、言う。
「私、あなたのことが好きです、だから、だから――」
私は、私よりも15センチほど背の高い彼を見上げるようにしながら、そう言って――
くちゅん。
彼が、くしゃみをした。
同時に、「本当なら」あり得ないことが起きた。
彼の輪郭がぼやけたのだ。
背の高い好青年の姿が崩れていく。
彼の姿が、崩れていく。
数秒で、ことは終わった。
そこにいたのは、一体のばけぎつねポケモン、ゾロアークだった。
普通、こんな事態になったら、私は慌てふためいて、「本物の彼はどこ!?」と泣き叫びながらゾロアークに詰め寄っているだろう。あるいは、騙されたことに気付いてその場にへたり込んで、やっぱり泣き叫ぶだろう。
けれど、私は全部を了解していた。
「もう、ゾロアークったら……最後まで、私が言うように演じてよ。へたくそ」
ゾロアークは――私が私を騙すために、無理を言って協力してもらった私の唯一の手持ちポケモンは、私の顔を見て申し訳なさそうに笑った。
私も、へたくそな笑いを返しつつ、モンスターボールを翳しながら「いいよ、付き合わせてごめんね」と労った。
赤い光が消え、彼――ではなく、彼に化けてもらっていたゾロアークはボールに戻る。
私はそこから見えるアパートの窓を見上げる。カーテン越しに、騒いでいる何人かの姿が見えた。「本物の」彼の部屋だ。友達と――私なんかとても中に入っていけないような世界にいる同級生たちと、ああして酒盛りをして盛り上がっている彼こそが、本物の彼なのだ。
私は彼が、どんな色が好きか、どんな食べ物が嫌いか、趣味は何をしているのか、知らないのと同じように、彼も私が、どんな食べ物が好きで、何色が嫌いで、休日は何をしているのかなんて知らない。決定的に違うのは、私は彼のそれを知ってみたいと思っていても、彼は全然そんなことは思っていないということだ。
本物の彼は、私には一切興味がないのだ。毛布をかけに来てくれるなんて、絶対にない。ゾロアークのくしゃみ一つが、そのことを知覚させたのだと思うと、そう思うとなんだか、「呆気ない」ものだ、と思う。
仕方がないのだ。それでも好きなのだ。公園で誰かが寝ていたって、毛布をかけにくるような、優しい言葉をかけてくれるような、そういうことをしてくれるのは、きっと、私の中の彼が、そういう風に美化されているからでしかなくて、本当の彼はそんなことを気にする様子もなく今まさにあそこで酔っぱらっていて、酔っぱらっていなくたって絶対に私なんて目の端にも入れてくれるような人間ではなくて、けれど恋い焦がれて、優しくて思いやりのある彼であってほしくって、ついついそんなことを夢想して、どうしようもなくなって、私の方を振り向いていてくれる彼が欲しくって、けれどその希望はとても叶うものでなくって、無理矢理振り向かせるなんて無理だって分かってて、だから、だから、私は――
一つ、強めの風が吹いた。
満開の桜の樹の枝が、さわさわと音を立てて揺れた。
私は、桜の樹を見上げて、それから紙袋を――私の毛布と、彼に渡したかったプレゼントをそっと拾い上げる。
「どうせなら、手巾(ハンカチ)にしておけば良かったかな」
誰にも聞こえないその自嘲的な呟きを残して、私はその場を立ち去った。
4
彼女の一人芝居を、そこにある桜の樹だけが見ていた。
彼女の一方的な恋情を、そこにある桜の樹だけが知っていた。
森閑とした夜の公園に、風を受けて囁くように鳴らすその音は、彼女の独演への拍手なのか、それとも彼女の叶わぬ恋情への慰撫なのか。
その答えを知っているのも、そこで電灯の光を浴びて立っている、桜の樹だけだ。