mono - 企画関連
理想郷は遥か遠く
 雨上がりの森の中。少し開けた草原は、雨上がりの陽光を浴びて幻のように輝いていた。ちぎれ雲の浮かぶ空には、淡く虹がかかっている。そこは果樹園の一部だろうか、緑の葉で飾られた枝が大きなオボンの実を付けて、重そうにしなっていた――



1

 あれに似た風景の中で初めて出会ったのは半年くらい前だったっけ、と旭谷日香梨(あさやひかり)は真っ白な雪を踏みしめながら述懐した。
 今、目の前に広がるテンガン山の山腹は、真反対とも言える光景だった。
 あの光景が「生」ならこの光景は「死」だ。屈強なやまおとこも熟練のエリートトレーナーすらも誰もおらず、極寒に耐えられる僅かなポケモンを除いては、全てが静止したかのような世界。こんな場所で「いかにも自分はこんな厳寒に耐えるほどの強者なのだ」と嘯く余裕など、死を呼び寄せるだけの自己欺瞞に他ならない。
 天候の悪さもその印象を強くする。体力を奪う雪の嵐は上も下も遠くも近くも覆い隠して、数メートル先も見通せなかった。視界の白が晴れたところで、映るのは焦げ茶の岩壁と、所々に生えた申し訳程度の草くらい。実の生る木などもってのほかだ。ポケモン用のきのみだって、高地には耐えられても流石に雪には強くない。

 オボンの実、だったかなあ、なんて、場所にそぐわないことを考えた。
 意識が朦朧としてくるのと一緒に、記憶まで混濁してきたのかもしれない。そもそもポケモン用のきのみだったか。いやそれ以前に、今こんな状況で昔のことを思い出してる余裕なんて。そこまで考えて、深く積もった雪に足を取られ、つんのめって前に倒れた。もうこれで何度目だろうか。足先の感覚が途絶えてからは特に足が縺れている。すでに歯も合わないほど身体は凍え切ってしまっていた。起き上がろうともがいているのは紛れもなく自分なのに、誰か別の身体を無理矢理動かしているような錯覚。

 こう思う。そりゃあそうだ。平地用の防寒具で、冬の雪山に登る馬鹿がどこにいる。遠巻きに見るユキカブリたちだって、シンオウで一番高い山に登るのに相応しくない格好を、どうしたことかと笑っているだろう。
 こうも思う。せめてロッククライムがあれば、もう少し体力は残っていただろうか。これは仕方がない。無茶な徒手空拳で登る以外には、頼れる人もいなかったのだし、別のルートなんて聞いたこともない。
 同時に、こう思う。
 ――それでも私は、諦められない。どうしても、やりのはしらまで登らないといけない。

 そんな思いを汲み取ったかのように、腕に巻き付いたヒトツキが私を引っ張り上げ、立たせる。自分より重いだろうに、よく持ち上げられるものだ。生まれたてのドロバンコみたいな足でもう一度立ち上がった私の背中を、鞘でばしんと叩いて前進させた。命を吸い取るなんて言われているポケモンが、むしろ私を死なせないように前に前にと進ませているという事実が、なんとも滑稽だった。
 再び歩き始めた私の横にふわふわと浮いて、こちらを見つめてくる一つ目から、どんな感情を読み取ればいいのだろう。激励か、憐憫か、それとも憎悪か呆れなのか。その実なんの感情も抱いていないような目を見て、私がやりのはしらに登ろうとしている意図を理解しているのかどうかを察するには、私にはあまりにも余裕がなさ過ぎた。

 先に進もうとする意志は無限にあっても、体力には限界がある。トレーナーだったいつかの頃のスタミナは衰え切って、頂上までは流石に持たなかった。
 両側の岩壁で風が遮られた比較的穏やかな場所に辿り着いて、気が抜けてしまったのだろうか。再度真正面から雪にうずもれた身体は、とうとうヒトツキの力を借りても立ち上がれなくなった。ヒトツキの方も、この寒さの中でずっと動き続けるのに無理があったのか、引き上げる力も心なしか弱い。
 知らせを聞いたときの衝動も、辿り着きたいという情動も、最後に残ったやけっぱちな意地さえも、全部全部エネルギーとして消費し尽くしてしまって、もう今の私には何も残っていやしない。心もぼろぼろだったし、体もぼろぼろだった。起き上がるのを体が拒否しているようで、心もそれに倣おうとする。
 このまま凍えながら眠るように死んでいくんだろう、そう思った。

 ああ、嗚呼。
 どうして、こんなことになっちゃったんだろう。
 雪の中に埋もれながら、私はゆっくりと、過去のことを振り返り始めた。



2

 旭谷日香梨と向出早菜(むかいでさな)が出会ったのは、高校1年の9月のことである。

 雨上がりの森の中。少し開けた草原は、雨上がりの陽光を浴びて幻のように輝いていた。ちぎれ雲の浮かぶ空には、淡く虹がかかっている。そこは果樹園の一部だろうか、緑の葉で飾られた枝が大きな梨の実を付けて、重そうにしなっていた。両手の親指と人差し指で枠を作って、無意識に構図を考える。この風景を絵にできたら、さぞいい絵になるだろう。雨避けのビニールや骨組みが入ってくるのが少し残念だけれど。
 その根元に座って、膝の上に本を乗せページをめくるセーラー服の少女の姿も入れるべきだろうか、旭谷日香梨はそんなことを考えた。

 雨が上がると同時に高校を抜け出した彼女の跡を追い、街や道路からも離れたこんな所まで来たのは、単なる気まぐれだった。周りに馴染めない私にとってはグループワーク形式の授業が苦痛にほかならず、逃げ出す口実が欲しかっただけなのかもしれない。
 向出早菜。1年B組のクラスメイト。
 接点などどこにもない。いつも一人でいる陰気な奴、以上の印象もない。話すどころか目も合わせたこともない。
 ただ、ほんの幾許かの興味。たったそれだけだった。

 見失わずに済んだことにひとまずは安堵して、私は一歩前に出た。
 分厚い文学集を広げ、姿勢正しくページを捲る様はいかにも文学少女。これで瓶底眼鏡でもしていたら完璧だっただろう。なんたらイズムとかほにゃらら主義とか、そんな難しい言葉を並べ立てる唐草模様の表紙の本は、ちらりと眺める程度の私をあからさまに拒んでいるようですらあった。
「あんた、こんな所にいたわけ」
 気づいていないような様子の彼女――向出早菜に対しての第一声は、随分とぶっきらぼうだった。

 言ってから、やっぱり私は他人を遠ざける物言いばっかりだな、と思った。
 またヤンキー然とした態度に、怖がって逃げられたりするんだろうな、とも思った。
 もとより私はそんな性格なのだ。夏頃にこのハクタイシティの学校に転校してきてから1ヶ月以上が経ったにもかかわらず、友達の一人もできないでいるのはたぶん、そういう所が周りに良く思われないからだと知っている。

 向出早菜は、少なくとも呼びかけを無視はしなかった。栞を挟んで本を閉じ、私のほうを見上げてくる。地毛らしい茶髪をおさげにし、頬から目の下まで薄くのびたそばかすが目を引く。いかにもおとなしい立ち振る舞いだけれど、目に宿るのは猜疑の色。私が同じクラスの旭谷日香梨であることくらいは、流石に分かっているとは思うのだけど。

「何か用事でもあるの」

 風を受けて草葉が擦れるざわざわという音の中、その声は凛と響いた。シンプルな一言に不機嫌さはないが、無関心に近い態度がある。けれど木陰からの視線はどこか攻撃的で、寄せ付けまいとする意図を孕んでいた。私の読書時間を邪魔してくれるな、とでも思っているのか。それとも単に他人と関わりたくない性分なのか。

「用事っていうか、授業抜け出したあんたを探しに来たんでしょうが」
 どう接するべきか分からず、憤然とした口調になる。
「探してどうするの。かつあげ?」
 興味ないと思っているのが声色に出ていた。
「んなわけないでしょ」
「お金は持ってない」
「だから違うっての」
「ポケモンも渡せない」
「違うって言ってるでしょうが」
 埒が明かないというか、取り付く島もないというか。口を閉ざしたシェルダーのごとく、外から何をも内に入れさせまいという、拒絶の態度。
 それは私のほうも同じことだった。生まれ育ったワカバから離れ、あちこちの街を転々とする生活をしてきた私には、これまで深い仲の友達ができなかった。捻じ曲がった性格を隠して付き合っても、結局離れることになるんだから、寛容な態度なんて無意味だった。
「授業抜け出してると怒られるよ、転校生さん」
「あんたも同じでしょうが。ムカつくわその態度」
 似た者どうしの癖に、まったくもって波長が合わない。
 よく考えれば当然だった。どちらも、「普通」に馴染めなくって、それを馬鹿にされたくなくて。だから本当は、放っておいてほしいのだ。
 近寄らなければ、傷つきもしないのだから。

 馬鹿なことをした。万に一つでも、分かり合える可能性があるならって思ってたけど――


「こらぁ!」
 突然の怒声。肩がびくりとなった。
「お前らそこで何をやっとるか!」
 うげ。たぶんこの果樹園か何かの持ち主だろう。高校生二人が平日の昼間に入り込んでいるとなれば、生ったきのみを盗んでいく不良と勘違いされてもおかしくない。左手側、青系の作業服を着たおっさんがずんずんと近づいてくる。
「逃げるよ!」
 咄嗟に手を掴み、おっさんが来るのと逆の方角へ走る。ちょっと待ってと慌てる早菜の言葉を聞く間に、どっちに逃げればいいんだっけと思索を巡らせた。一緒に遊びに行く友達もいないから当てもなく街を散策することはあっても、街からも道路からも離れたこんなところの地理は流石に頭の中にない。
「後ろ!」
 引っ張られて走る早菜が声を上げた。見れば水を纏ったポケモンが突撃してきていた。
 ほんの少しの間トレーナーだった知識が答えを出した。ブイゼルのアクアジェット。とても人の足で振り切れる速度じゃない。受けて大怪我まではすまいが、水浸しで逃げるのは難しい。
 やば、どうしよう。とりあえず伏せれば回避できるだろうか、けどどうせ切り返してくるし意味ない、抗戦するにも私はポケモンは――
 逡巡したところで、駄目なものは駄目だ。
 走る足は止めず、ただぎゅっと目を瞑って、水圧の衝撃が来るのを予感した。

 衝撃は来なかった。
 代わりに、キン、という金属音が鳴る。
 目を開け、振り返る。アクアジェットは水色の被膜によって押しとどめられていた。その手前、まもるの絶対防御を展開したのは、
「走って」
 足を止めた私を早菜が追い抜いて、逆に引っ張られる形になった。
「このあたりは知ってる。ついてきて」
 後方、埒が明かないと判じたブイゼルが、水を収めて飛び退く。剣の形をしたポケモンがその刀身で斜めに薙いだ――一瞬遅れれば真っ二つになっていただろう。
 余計なことを考えている間はない。そう判断した。
 早菜の引く手に従って、獣道のような細い道を走り抜けた。

 壁に身を預け、息を整えようとする。ブイゼルが諦めて撤退してからも、暫く走った。息を切らせながら辿り着いたのは、既に廃墟になっているギンガ団のビルの裏手だった。
 ギンガ団という組織があったのはもう5年も前の話だ。宇宙がエネルギーがと訳の分からないことを宣い、やりたい放題していた。ポケモンを奪ったり、破壊工作をしたり。テンガン山のてっぺんにあるらしいやりのはしらで異常現象を起こした事件は地方全体に波及した。
 夕暮れの影と同化しそうなビルを見上げる。
 あのときの私は11歳だった。よく覚えている。異常現象の事件はテレビでも大きく報道されて、暫くはその事件一色だった。結果としてボスの目論見は崩されたらしくて、解決に尽力した人たちはたちまちヒーローになった。主には、金髪の美人な女性――チャンピオン・シロナと、同郷の幼馴染の男の子。テレビに映っていたのは、私のよく知っているせっかちで省みない子供の顔ではなくて、立派にトレーナーとして成長した精悍な顔立ちだった。
 私はそのとき、どうしていただろうか。
 同年代の男の子が、しかも近所に住んでいて顔も知っている彼が賛辞を浴びているのを、とてもくさくさした気持ちで見ていただろうか。もっと早く旅立って、もっと早く強くなっていれば、と思ったのは、決して本来私は彼と並んであそこに立っていてもおかしくなかったんだと不貞腐れているわけじゃなくて――

「あの場ですぐに謝れば、許してもらえたかもしれないのに」
 あからさまに不機嫌な声。我に返ってそちらを見れば、じっとりと睨みつけるような目と目が合った。
 ぐ。抗弁のしようもない。逃げたからこそ怪しい奴扱いされ、ブイゼルを差し向けられたのであって、危ない目に遭ったのは全面的に私に責任がある。
「……ごめん」
「お気に入りの場所だったのに」
「ごめんって」
 たぶん次行くときには、私達が入り込んだ柵の穴も修繕されているだろう。あの景色は二度と見れないってことになる。
「綺麗だったんだけどなあ」素直な感想が口を衝いて出た。「虹がかかってたのはタイミングが良かったからだろうけど。あんな場所があったなんてね」
「……そうね」ややあって早菜は口を開いた。「毎年行ってる。たまに実をもいで齧ったりするけど、いい育て方してる」
「それ盗み食いでしょ」
 あ、視線逸らした。
「いーけないんだ、いけないんだ、先生この子梨泥棒してます、ってチクってやろ」
「今日のことがあったんだから、旭谷さんも共犯でしょ」
 茶化した私にむくれた顔でそう返す早菜。
 ぷっ。
 普段使わない表情筋を無理に動かしたような、そんな様子がなんだかおかしくって、私はつい噴き出してしまった。あははははと声を出して笑う私に、早菜は最初は怒りの視線を向けていたが、次第につられたのか、収まる頃には仏頂面が少し柔らかくなった。

 ひとしきり笑った後、そういえば、と前置きして、
「まもるを使ったあの剣、向出さんのポケモン?」
 剣の形をしたポケモンなんて見たこともない。鏡や銅鐸はそのへんにいるけれど。
「ああ、この子」ボールを取り出し、「カロスのヒトツキってポケモン。捨てられてたのを拾ってから、ずっと持ってる」
「そんなレベル高いポケモンを捨てるなんて、バカな奴もいるんだね」
 あのブイゼルは侵入者をひっ捕らえる程度には鍛えられていたようだから、その攻撃を防ぎ、あまつさえ反撃できるくらいだから、十分バトルに耐えるレベルだろう。
「あと」ボールを腰のところに戻し、「向出さんなんて余所余所しい。早菜、でいいよ」
 すっ、と手を差し出された。

 そのときの私は、どんな顔をしていただろう。
 微笑むなんて何年かぶりだから、ずいぶんとぎこちない笑みになっていたかもしれない。
「こっちも旭谷さんじゃなくて、日香梨、でいいよ」
 手を握り返して、お互いに笑う。

「こんな感じでいいのかな。私こういうの苦手で」私は照れくさくなって頬を掻く。
「いいんじゃないかな」早菜が笑う。「よろしくね、日香梨」

 なんとなく。なんとなく、だけれど。
 ようやく、握った手を離さないでいられる存在を見つけられたような、そんな気がした。



3

 校庭の端、ポケモンバトルのコートから歓声が上がった。11月に差し掛かり、もうそろそろ雪が積もり始めるだろうから、来年の春までこれほどの歓声は起きないだろう。クラスメイトは皆観戦に行って、教室に二人を除いて誰もいない。そこも含め、何の変哲もない昼休み。
 窓際の席からそちらを眺めつつ、ぽつりと何の関係もないことを呟く。
「テストとか絶滅してくんないかな」
 早菜は本から顔を上げ、
「その時は人間が絶滅する時ね」
 確かにそうだけどとんでもないこと言うね、なんて返した時にはもう読書に戻っている。噛み合っているような噛み合っていないような、こんな微妙な会話でさえも嫌にならないのは、何故か。全部独り言となって流れていったこれまでとは違って、返してくれる存在がいるだけで随分と心持ちが違う。たぶん、そういうことなのだろう。
 あれ以来、早菜と一緒に過ごすことがずっと増えた。もともと誰のグループにも属さないで、一人でいた者どうし。放課後はバイトで予定が合わないことが多いけれど、休み時間などはこうして、他の誰ともつるまずに二人きりで過ごすというのが、私達の日常になっていた。
 黙っていたいなら黙っていてもいい。話題を出せば相槌を打ってくれるし、ないときには読書の合間に知識を披露してくれる。
 早菜との距離感は――付かず離れず、という言葉が合っているのだろうか――私にとってはとても心地いいものだった。

 なんとなく気になって、読んでいる本の話題を振る。
「何読んでるの」
 あの時みたいに難しい内容だったら適当に聞き流そう。
「シンオウ神話、の訳本。世界の始まりのところは何度も読んでる」
 お、ちょっとだけ知ってる。
「それってディアルガとかパルキアとか出てくるやつ――」

 尋ねる言葉は、立て付けの悪い扉がガラガラと音を立てるのに遮られた。反応して、無意識にそちらを見る。
 男子が一人、そこに立っていた。
 片峰恵輔(かたみねけいすけ)。同じく、1年B組のクラスメイト。
 格好はともかく、言動のチャラい奴という以上の認識はないし、へらへらと笑う調子が実に気に食わないという印象くらいしかない。人気者にカテゴライズされる彼と、常に教室の隅にいる私たちとでは住む世界が違う。関わり合いになることなど本来ならばない。本来ならば。
 私はこの男が嫌いだった。
 彼自身が吹聴していることだが、旅立った後途中でトレーナーを辞めて学校に戻ってきた経歴があるらしい。よく「トレーナー崩れ」と言われる立場だった。もともとバッジ集めの旅に出る人口が少ないこともあって、その後すっぱりトレーナーであることをやめてしまう人間というのは、実はあまり多くない。だから奇異の目で見られたりもする。
 実は私も、トレーナー崩れだった。11歳の時に旅立って、すぐに旅を止めた。誰にも――早菜にすら喋っていないことを、こいつなどに喋るものか――そのことは言わなかったのだけれど、地獄耳のニドラン♂の如くどこからか聞いたらしく、それから何かと私に構おうとしてきたものだ。人付き合いを避けたい私に対して構わず接してこようとする軽薄さというものに、転校直後からひどく辟易している。やれ彼氏だ彼女だと浮かれるグループに私を巻き込もうとしている意図が透けて見えるようだったのも、軽薄なイメージを強化するのに一役買っていた。

 げっ、タイミング悪っ。声にしないまでも悪感情を表に出して、扉を開けた片峰を牽制しようと試みる。その実この方法は以前に失敗していて、「まあそんな顔すんなって。仲良くやろうぜ」なんて言いながら絡んできた。二人しかいない教室でこうしたところで二の舞になるだろう、失策だった。
 パッチールみたいな締まりのない表情を浮かべながら教室に入ってくるだろう、そしてカラナクシのように粘着してくるだろう片峰に、どんな言葉をぶつければ追い返せるか、と次の策を考えて、
 片峰は教室に入ってこなかった。
 向こうも、げ、と言いたげな顔をして、すぐに扉を閉める。いつもの調子はどうしたことか、そのままどこかに行ってしまった。

「何なの、あいつ」
 正直顔を見るだけでも嫌、絡みで5割増しになるだろう不快の源であるところの片峰が、何も言わずに去ってしまったのがどこまでも拍子抜けだった。
 少しの間があって、
「まあ、仕方ないんじゃない」
 いつも通りの、感情の籠らない声、のようであって、何だかほんの少しだけ感傷的に聞こえて、不思議になって早菜の顔を見た――

 ――チカリ、と何かが明滅した。
「あっ」
 早菜の方に顔を向けた姿勢のまま、私は硬直した。
 頭の中を、10まんボルトのような稲光が走った、そんな気がしたのだ。
 私は意図せず、その驚きを口に出していた。
「……どうしたの」
 訊いてくる早菜に、すぐに返答できなかった。
 一体その光の正体は何なのか。詮索しようとする思考に、本能的な何かがストップをかけた。これ以上は考えようとするなという警告。後戻りできなくなるような恐怖感。
「ん、何でもない」
 そう返して、私は再び校庭の端に目を向けた。どうやら勝敗が決したらしく、一際大きな歓声が上がったところだった。
 私は一体何を見たんだろう、漠然とした疑問に対する答えがまるでそこにあるかのように、ずっと眺めていた。



4

 早菜との関係性というのは、確かに一言にするのなら「友達」なのだろうけれど、放課後に遊びに行ったり、休日に買い物に行ったり、長い休みがあったら例えばお互いの家に泊まるとかいっそ旅行に行くとか、そういう「普通」の同級生たちがグループでよくやっているようなことは、早菜との間で一度もやらなかった。
 放課後や休日に沢山バイトを入れていて、私と早菜の予定があまり合わなかったというのもある。1ヶ月近くあった冬休みも、結局バイト三昧だった。けれど結局のところ、どちらもが、そういった類のことをやろうと提案も計画もしなかったのが大きい。短い秋が過ぎて雪が積もり始めて、屋外で何かすることがほとんどできなくなったというのもある。まあ、二人ともアウトドアなんて性格ではないのだけれど。

 それでいい。お互い何を抱えているのかも言わないで、過去に何があったのか詮索もしないで、そういう触れてほしくない部分に一切触れないで、ただただ昼休みに一緒に居る。それで良かった。
 その実、私の中には、早菜に私のことをもっと知ってほしいという欲望も、確かにあったわけだ。

 そんな中、唯一、私が早菜を引き込んだものがある。
 絵だ。
 バッジの1つも取らずに帰ってきた私は、その後幾つかの街に移り住んだ。中学のいつだったかの頃、ヨスガの近辺に住んでいて、その隣208ばんどうろにいたモトフミという名前の芸術家とほんの少しだけ知り合った。それから何となく、時間の空いたときには時々、絵を描いている。高尚な趣味ではなく、怠惰な習慣だった。上手く書きたいとかいっそ画家になろうとか、そういった志みたいなものは何にもなくて、ただただ空虚を埋めるために絵具を塗っていたにすぎなかった。
 誰かに見せようという気も全然なかったのだ。
 だのに、私は彼女を、私がいつも一人でいるときに必ず行く美術室に、連れ込んだのは、一体どういう風の吹き回しだっただろうか。

「へえ、あの像を描いたの」
「まあやっぱりハクタイだと目に留まるしね」
 ちょっと見せたいものがあるんだと言って、二人とも予定のない日に早菜を美術室に連れ込んだ。美術部は部員がいなくて廃部状態だし、美術教師もさっさと帰ってしまうタイプだから、誰にも邪魔されない。それこそ片峰などはこんな場所には近寄りもしないのだから、早菜と出会う前、誰ともつるまずに一人でいた間の私は、絵を描いているときもそうでないときもここで時間を潰すのが日課だった。教室で本を読む早菜の近くに座って何でもない話をするなんていうのは、早菜と出会ったあの日よりも後のことだ。
 見せた絵は、夕焼けの空と、ハクタイの街外れにあるポケモン像を描いた水彩画。
「ディアルガ像、ね」そのポケモンの名前は、この間早菜が読んでいた神話の中にも出てくるはずだ。「時間の神様なんだって?」
「空間の神パルキアと対になる存在ね」早菜がしげしげと絵を眺めながら言う。「やりのはしらに行けば会えるかもよ」
「かもよ、って……。どうやってあの山のてっぺんまで登れと」
「登山ルートは一応ある。ロッククライム必須らしいけど」
 じゃあ無理じゃん! と仰け反る私をよそに、早菜はずっと真剣な眼差しでポケモン像の絵を眺めている。自分の描いたものをそんな風に見られるのがどこか気恥ずかしくなって、私もなんだか黙りこくってしまう。
 そして、ぽつりと。
「夕焼けの色味とか雲の質感とか、とても綺麗だと思うし。わたしは好きよ、この絵」
 絵を描くことはそれなりの期間やってきたことだけれど、他人に披露したことはない。見せるつもりもなかったのだし、見てもらう想定もしていなかった。だからもちろん、褒められるなんてことも初めてだ。
「ちょっと気になるのは」ややあって、早菜が続きを呟くように言った。「この角度からだと、左側のところにビルが入ってくるはずだけど」
 う。鋭い。
 よく知っているものだ、と思う。実際、引っ越してさほど経っていない私と、ずっとハクタイに住んでいる早菜とでは、頻度という面でも土地勘という面でも、自ずと違いは出るものだ。
 ただそれに限っては、知らないのではなく、意図的にやった。
 私はそのビルを、わざと描かなかった。何故ならそのビルを――ギンガハクタイビルを絶対に絵の中に入れたくなかったからだ。
 絵の中の景色は、虚偽だった。望んで偽った。見たくないものを見なかったことにした、欺瞞に違いなかった。指摘されたことに、怒りとか悲しみだとか、そういう感情はなかった。ただ早菜に全部見透かされた気がして、言い訳がましく私の過去のことまで全部説明してしまおうかと思いさえした。
「あー……うん」結局、私は説明するのを躊躇った。「ほら、誰かに教えてもらいながらとかじゃなくって、好き勝手に描いてる絵だからさ。上手くないのは自分でも分かってるし、その……好かれもしない、劣等なものだっていうのは、間違ってないから」
 しどろもどろに、どこまでも言い訳がましく。卑屈になるのは悪い癖だと思ってはいるけれど、口を衝いて出た言葉は戻らない。けれどどうしようもないじゃないかと反問する。私はどうせ意気地なしで卑怯なんだから、と。

 早菜は私の言い訳を聞き、絵を覗き込むような姿勢を正し、こちらに振り向いた。
 気のせいじゃない。その顔が、憤慨を湛えている。
「え、早菜、サン……?」
 怒ってらっしゃる? とふざけて返す余裕も与えない調子で、私のほうにずかずかと詰め寄ってくる。思わず私はたじろいだ。
 そして。
「訂正して」
「は?」
「劣等だとか、そう言うのは訂正して」
「……どういうこと?」
「つまりね」憤然とした口調のままで、「芸術に優劣はないでしょ。文学にも、音楽にも。生き物は統一された機械じゃないし、価値観は人それぞれ。好いと思うものを好いと言っていい。それを否定する道理はない。でも、それを好いと言う人のそんな気持ちをコケにするのは駄目。例えそれが、創った本人であっても。わたしが好きだって言ったのを、どうしてわざわざ、好かれないとか、劣等だとか言って、否定しようとするの?」
 いつになく多弁で、読書中よりも真剣に。口調は穏やかでも、情動に突き動かされているかのように。
 こんな彼女の姿を見たのは、間違いなく初めてだった。
 言っている内容よりも、何というか、その雰囲気に完全に気圧された。
「あ、う、ごめん。……劣等だとか言ったのは取り消し、ます」
「よろしい」口角が上がる。憤慨が出て行った後の表情は、いつもよりもどこか柔和だった。「わたしが指摘したところも、必ず事実通りに描かなきゃいけない理由はないし、あれはあれでいいんじゃないの」
 ポカーンという擬音が似合いそうな顔をしてしまったのが、何だか恥ずかしくなって、
「……それって褒めてる?」
「褒めてるけど」
 無遠慮な物言いに、早菜はいつもの仏頂面に戻った。
「いやー褒めてもらったのはありがたいんだけどさ」
「どういたしまして?」
「早菜ってほら、その、誰かを褒めるのに慣れてないんだなー、って思ってさ」
「……怒るよ?」
「いや、うん、ごめん、冗談だってば」
 その実私も、褒められ慣れてないのだ。上手く照れ隠しができた気がしなくて、何だかぎこちなかったかなあと思う。
 でも、その後で二人で笑い合えたのだから、これで良かったのだ。そう思った。
 何より、誰かに私の描いた絵を、私を構成するものの一つを、褒められ認められたという事実が、どこまでも私の胸を高鳴らせた。



5

 ムクバードが、地に墜ちた。
 私はその様子をただ眺めることしかできなかった。
 下種な笑い声の束。青髪おかっぱの集団が、それぞれのボールにポケモンを戻す。スカンプーやヤミカラスたちが、不安げな顔をしながら吸い込まれていく。
 ムクバードはもう息も途絶えてしまいそうだった。翼は折れ、身体は傷まみれで、アスファルトの上に赤い染みをぽたぽた落としていた。額のところの裂傷から流れて落ちる血だった。こんな深い傷を負ってしまったら、傷跡が残ってしまうだろうと、そんな的外れなことばかり考えていた。
「そんじゃ、お嬢ちゃんのポケモンはいただいてくぜぇ」
 やめて。そう声を出すこともできないまま、手に握っていたボールをもぎ取るように奪われた。
「これに懲りたらギンガ団に盾突こうなんて思わねえこったな!」
 リーダー格らしい男がそう言うのに合わせ、ぎゃははは、と周りの人間が嗤う。こびりつくような、意地の悪い笑み。そのまま背を向けて遠ざかっていく集団の中、一人だけ――ポケモンも出さなかったし、笑いもしなかった四十路くらいの男――が、へたり込んだ私に合わせるように膝立ちになって、
「すまない、自分にはどうすることもできない」
 悔悟。憐憫。同情。どれも的確ではない、敢えて言葉にするなら、「諦念」。諦めに塗れた、そんな表情。
 言い聞かせるように言った後、やはり同じように立ち上がって背を向けて――


 ――そこで目が覚めた。

 動悸が収まらない。またこの夢か、と頭を掻きむしる。寝汗で服が肌に張り付いてくるのがひどく鬱陶しい。2月の極寒と寝室とを仕切る厚い壁がなければ、すぐに凍って冷え切ってしまっただろう。
 外でヨルノズクあたりがばさばさと音を立てたのにも、びくり、とひどく敏感に反応してしまって、眠りにつく前よりもむしろ疲れているようにすら感じた。それも込みで目が冴えてしまい、もう一度眠りにつくこともできそうにない。
 シャワーでも浴びよう、と立ち上がる動きは、寝惚け眼のナマケロよりも緩慢だった。

 流れ落ちてくる湯を浴びながら、思い出す。
 あれは何度も夢に見た光景だった。夢は夢でも悪夢だった。実際、ブイゼルに追われてギンガハクタイビルの裏手に逃げ込んだ日の夜も、早菜にあのハクタイのポケモン像の絵を見せた時にも、同じ夢を見た。間違いなく、ギンガ団に関係する事物が「トリガー」になっていた。
 あれは11歳の秋の終わり頃だったはずだ。旅立ってすぐの、コトブキシティの外れ。1ヶ月ほど前に旅立った同郷の同い年の男子が4つ目のジムバッジを獲得したのを嬉しげに連絡してきたのは、何故だかよく覚えている。
 ムックルがムクバードに進化したばかりで、調子に乗っていたのかもしれない。
 野生のポケモンを乱獲していたらしい集団に、食ってかかったのがいけなかった。
 ポケモンバトルは1対1の真剣勝負。ひんしになったらバトルはお終い。それまで相手に背中は見せられない。街や道路に佇むトレーナーたちが律儀にそれらを守ることで、いつしか鉄の不文律となっていた。それを守ることは子供の私にとっては当たり前のことで、掟破りをする人間なんているはずもない。そう思い込んでいた。
 甘かった。どこまでも。
 袋叩き。リンチ。集団いじめ。言葉にするにはあまりにも薄っぺらい出来事が目の前で起きたことに、私はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
 ああ、胸糞悪い。
 あれから、世界というものががらりと変わってしまった気がする。トレーナーを辞めて戻ってきて、フタバタウンに居づらくなって、転校先でそれを知られてしきりに根性なしだと揶揄されて、言い返すことすら逆効果で、何か不都合が起これば私のせい、私と関わったらへたれがうつるなんて風潮までできて、孤立して、それでもなお馬鹿にしてくる相手に逆上して、傷害沙汰にまで発展した挙句また引っ越しをして、そんな流れを何度も繰り返すことになった。
 その実変わったのは私のほうだったのだろうと思う。どこまでも愚劣に、人間を信じ過ぎていた。あの事件から5年経った今でも、ぐるりと反転して表に出た人間不信は、未だ拭えずにいる。
 あの事件さえなければと、思うこともある。その度に、あの時ギンガ団に絡まなかったとしても、あのまま旅を続けていたなら、どこかでギンガ団と鉢合わせして、結局は同じことになっていた、もはや在り得なくなった将来への未練を、そうやって中途半端に断ち切る度に、やり場のない憤懣に思考を焼かれるような気分になる。
 憤懣をぶつける相手はもういない。チャンピオンたちが事件を解決して暫くの後、汚名を雪ぐことのできなかった組織は消え失せた。ムクバードがどこに行ったのか、もう全く分からない。奪っていった粗暴な男も、一人残って声をかけてきた男だって、絶対に許せないのに、文句の一つもぶつけることは叶わない。
 すっきりしようとシャワーを浴びたのに、逆効果だったかもしれないと、蛇口をひねりながら、そう思う。お湯で解れた身体に、縺れたままの心という、そのアンバランスさがひたすらに気持ちが悪かった。

 風呂上がり、誰もいない部屋は夜闇の中、しんと静まり返っている。有名コーディネーターであるところの母は、今はヨスガのコンテスト会場にいるのだろう。
 トレーナーになりたいと我儘を言った挙句、バッジの一つも取らないで塞ぎ込んで戻ってきたかと思えば、人間関係のトラブルを繰り返す私を、叱りつけることもなくむしろ配慮して何度も引っ越しを許してくれた母さん。たとえ今ここにいたとしても、ありがたさよりも申し訳なさが先立って、碌に相談なんてできもしない。というか、「怖い夢を見た」なんて泣きつくだなんて、子供っぽくてできやしない。
 忙しい母さんに話すこともできないで、私は一人でそれを抱え込むことを選んできた。こんなことは今夜だけじゃなくて、それこそムクバードを奪われた直後などは、ほとんど毎日こうだった。それこそ、ラジオやテレビでギンガ団絡みの事件が流れて来ていたから、当然とも言えた。目を瞑って、耳を塞いで、なるべくあの事件を思い出させるようなことを、私から遠ざけた。その生き方は、もう何年も経っているのに、変わっていなかった。
 どうしてだか、最近、この夢を見る回数が増えた気がする。
 今日だって、いつも通りに、学校へ行って、授業を受けて――ときどきサボりはしたけれど――帰ってからも課題をやっつけて夕飯を食べて、テレビも見ないでベッドに入ったはずだった。休み時間だって、早菜と何でもない話をしていただけで、

 ――チカリ。
「……!」
 また、何かが明滅した。一瞬だった。でんきショックよりも短い刹那。詰まったような声が思わず漏れて、口を押える。
 初めて見たのは、片峰が絡まずに逃げて行ったあの時――片峰はあれから全く絡んでこなくなった――で、それから何度か見ていたけれど、その正体は全く分からない。探ろうとしても、掴ませてくれない。靄のかかったまま、私をやきもきさせるだけだった。
 一つだけ確かなのは、光の強度のようなものが、少しずつ強くなっていることだった。
 けれど、これ以上探ろうとするな、という警告も、また少しずつ強くなっているような気がしていた。
 拒絶。
 靄の正体を敢えて言葉にするのなら、その一言が適当に思えた。何か、まるで、「そう思いたくないことをそう思わないため」に――

 やめよう、と思った。考えても仕方のないことだった。それよりも朝までどうしようか、という問題の方が、私にとっては大きかった。
 朝までまんじりともせず、ただ悶々と時間を潰すだけになるのが常だった。今夜も眠れずに過ごすことになるんだろう。そう思ったとき、ふとケータイに目が向く。
 早菜、起きてるかな。そんなことをちらりと思う。
 いや、だめでしょ。すぐに頭を振った。仲が良かろうがどうだろうが、もう1時を回っているこんな時刻に電話をかけるなど流石に非常識だ。そう自分に言い聞かせて忘れようとしたのだけれど、結局は、ほとんど衝動的に、番号を押していた。
 無機質なコール音。1回、2回、3回。
 やっぱり起きてないよね。そう思って諦めようとしたとき。
「……何?」
 コール音が途切れ、いつもの声が聞こえてくる。無関心な声色はデフォルト。殊更に機嫌の悪いそれではない。
「今、いい?」
「いいよ。さっきまで外に出てたから、コートとか片付けてからになるけど」
「ううん、それは気にしない。――ちょっと、話を聞いてほしくて」

 夢の内容も含め、私の昔のことを、話した。
 最初はほんの少しだけ、と思っていた。悪夢の内容をかいつまんで話し、あとは落ち着いたらお礼を言おうと思ってたのに、いつしか全部、流れ出るままに、喋り尽くしていた。
 早菜はいつも通り、「うん」「そう」といった相槌を返してくるだけで。
 けれど、変に切り込んでくるなかったところに、私はとても救われる心持ちになった。
 安堵。安心。どんな言葉を使っても、その温かみとも言えるものを表現できるはずがなかった。

「本当にごめん、こんな深夜に」
 時計はもう2時を回っていた。喋り過ぎて、声も枯れてきた気がする。
「……気にしてない。眠れないときくらい、わたしにもある」
 気にするんだったらお昼奢って、いつでもいいから。そう付け加えるのに思わず噴き出した。別に笑うことないじゃない、と不機嫌な声が返ってくる。
 笑えるほどには、落ち着いた。それは間違いなく、早菜のおかげだった。
「ありがとう。……おやすみ」
「ん、おやすみ」
 電話を切るボタンを押した後も、暫くケータイを手にして物思いに耽った。
 フタバタウンの幼馴染、今でもトレーナーとして活躍しているらしい彼と仲違いしてから今まで、ずっと縁のなかった関係性。
 欲しくてもどうにもならないで、いっそ要らないって振る舞いしかできないでいた、得難い関係性、その温かみというものに、どこか酔いしれていた、のだと思う。



6

 午前の授業が終わって、皆思い思いにグループで集まって弁当を食べたり、何人かで食堂に向かったりする時間になった。私達は例の如く、教室の隅で二人、買って来たパンでさっさと済ませて、何か役に立つ情報を交換するでもなく、ただただ駄弁っている。
 雪が積もってくるとバトルの観戦に行く人間は少なくなる。流石に登下校以外で外に出たくはないからだろう。ほとんど毎日バトルを見に行っているらしい片峰も、教室の対角線上の隅にいて、幾人かのクラスメイトと喋っているのが見えた。私を見つけては喋りかけて来た鬱陶しさは面影もなく、今ではいっそ避けられている気すらする。仲良くなりたいなんてこれっぽっちも思わないから、別段気にすることでもないのだけれど。
 ご飯を奢るという約束を思い出し、「昨日のお礼、いつがいい?」と早菜に聞く。
「え? あ、……全然考えてなかった」
 朝一番の集会の時から、早菜はどこかぼんやりしているというか、心ここに在らずというか、どこか遠くを眺めているような調子だった。ネイティオみたいに未来でも見つめてるの、と茶化すのは、申し訳ない気分が邪魔をした。朝一番で集められたのは、旅のトレーナーが刃物で刺されたから生徒たちはそういった不審者に気を付けるように、という内容だったと思う。その実、昨日の今日で――眠れたとはいえ、睡眠時間がいつもより短かったのは変わりない――ほとんど頭に入ってこなかった。早菜もそんな調子なのかもしれない。だとすればそれは私が悪い。
 ごめん、やっぱり深夜に電話かけるんじゃなかった、そう謝ろうとしたのを察してか、早菜は言葉を先取りした。
「お昼の代わりに、絵を一枚リクエストしてもいい?」
 思いがけない言葉に、私はしばし硬直した。こんなことは、言うまでもなく初めてだった。
「え、いいけど」早菜の頼みなら、断る理由なんて何もない。「何を描けばいいの?」
「ついてきて」
 え、という間もなく、手を引かれて教室の外へ。普段出歩かない私たちが席を立つのに、周りは訝しむ目を向けたけれど、結局なにも言われなかった。

「あー……旅のトレーナーの仕業かなぁ」
「そうなの?」
 連れてこられた場所は、校門にほど近い所にある花壇だった。ふかふかの土に、春にはいろいろな花を植えるものだけれど、当然雪を被ったそこに何かが植えられているはずもない。
 そんなはずもないところに、枯れかけたオボンの木が生えていた。こんな氷点下にまで気温の下がる場所で、よくも発芽したものだ。きのみの知識はほんの少しだけだったけれど、やはり普通の果物や植物よりも格段に強いと言うことだろう。
「どうにかならない?」
「ちょっとこれは、駄目かな……。今から移し替えてももう枯れちゃうと思う」
 早菜はため息を吐き、
「そっか、仕方ないね」

 ――チカリ。
「あっ?」
 また、何かが明滅した。
 それは一瞬のうちに消えた。でんきショックよりも短い刹那。
 はっきりと言えるのは、前に見たときよりもどこか鮮明に、その光の明滅の正体、その輪郭だけは、ヒントのように残された。
 似ている。何かに似ている。そんな示唆。
 でもその正体は分からない。分からないことが、何だかもやもやして、片峰に絡まれていたあの時期と同じくらいにもやもやした。
 何が、何に似ているというの?

「日香梨?」
「あ、ううん、なんでもない」
 咄嗟に取り繕う。
「無節操に植えて面倒見ない奴もいてさ。でもこんな雪の中に埋めることないじゃんね」
 埋めた周囲だけ雪は除けられていて、一応それくらいの配慮はされたらしいが、そもそもこんな雪の中にきのみを植える時点で常識の外だろう。元気をなくしてしおれてしまった様子が、何とも痛ましい。
「で、この萎れた木を描けって?」
 水もやらない無責任なトレーナーに苛立ってか、何だかとげとげしい聞き方になってしまった。題材に文句を言ったわけじゃなくてね、と言い訳すれば、早菜はそれを気にも留めず、
「ううん。できれば、オボンの実が生ったところが見たいかな。……それと、虹が出ているところ」
「虹?」
「初めて会った場所に、出ていたでしょう」覚えてないの、そう言いたげな口調。「雪の中じゃ出てこないし、雨上がりにしか見れないから、季節外れもいいところだけど……。けど、良い取り合わせだと思わない?」

 もう一度、両手の親指と人差し指で額を作る。あの時に見た虹と、組み合わせる。
 うん、できそうだ。

「オッケー、出来上がったら一番に早菜に見せるね。いやー、それにしても、懐かしいね。もう半年くらい経つのか」
「誰かさんのせいで行けなくなったのよね。お気に入りの梨畑」
 だからそれはさ、ごめんって謝ったじゃん! そう言って、寒さを吹き飛ばすように二人で笑った。

 そのオボンの木は、私が言ったようにすぐ枯れてしまうことなく、ぎりぎりの状態で生き続けたのだった。
 それが何を示唆するのか、私には全く分からなかった。



7

 早菜と出会ってから、半年が過ぎていた。
 3月、修了式の日だった。
 体育館に生徒がぞろぞろと入っていくのを、私は美術室の窓から眺めていた。サボりである。別段好き好んで一緒にいたわけでもない同級生が、今生の別れかもしれないからと感傷的な言葉をかけあう空間が、どうにも居心地が悪くて、今日は一日ここに籠っていようと決めたのだ。
 早菜は昨日と今日と、学校を休んでいた。心配になって電話してみれば思いのほか元気そうで、夕方には顔を出すから、と言っていた。一昨日の夕方ごろに雪かきをしている時に足を滑らせ、骨折などはないものの顔含めあちこちを擦り剥いていて、変に注目されるのも嫌だから、と。何やってんのドジっ子だね、と笑い声を送れば、ほっといてちょうだい、と返ってきた。
 昨日まで向き合っていたキャンバスを、遠目で見て、近くで見て、また遠くで見てにやにやしたりした。
 昨日の夕方、あの水彩画を完成させた。空に架かった虹に、たくさん実ったオボンの実。我ながら良い仕上がりだと思う。朝一番に早菜に見せたかったのだけれど、こればかりは仕方がない。別に明日とかでも構わないのに、わざわざ今日来るといったのは、早菜もこの絵の完成を心待ちにしてくれていたからだと思う。なんだかこそばゆくなって、完成した絵と外の景色とを交互に見遣りながら美術室の中をぐるぐる歩いたりもした。
 早菜がいない学校生活はひどく無味乾燥に感じられた。早菜と出会わなければ、仲良くならなければ、こんな高揚した気分になることも、怠惰な絵描きに情熱を注ぐこともなかったはずで、そこにはある種の恐ろしさすら覚える。出会う前もそんな感覚を、ただ無為に時間を消費して生きているような感覚はあったけれど、今のそれは少し違う。寂しい、のだろうか。

 足音。
 やばい、先公か。ばっと振り向けば、
「お前、こんな所で何やってんだよ」
 そこにいたのは片峰恵輔だった。なーんだ、と力んだ身体を楽にし、
「何しにこんな所まできたわけ」
 よくも脅かしてくれたな、という思いを込めた目線と声を、とびきりキツめに投げかけた。が、片峰はといえば凄んだ私に怖気づくこともなく、
「そう怒るな。無理に集会に連れて行こうってわけじゃねえ」
 へらへらと笑ういつもの調子――ではなかった。暗い色を見せる真剣な表情は、いっそ新鮮さすら感じさせる。
 そして、こう言った。

「向出がいないタイミングだから、忠告しとく。――俺やお前みたいな人間は、あいつと距離を取った方がいい」

 はあ? と覚えず返していた。距離を取れ? 早菜と? 一体全体どんな理由で? ていうか私とお前を同類扱いしてんじゃねーよ。そんな言葉たちが喉に渋滞して出て来ず、ただ睨み返すことしかできない。
 外で吹いた強い風の音が収まるまでの、間。
 意味を分かりかねていると察したらしい片峰が、ゆっくりと話し始めた。
「ハクタイの森近くで野宿してた旅のトレーナーが、刃物で刺されて重傷を負った、って事件、あったろ」
 1ヶ月前ほどだ。ニュースにもなったっけ、と思い出す。次の日に全校生徒が体育館に呼び出されて、刃物を持った不審者に注意、とありきたりな注意喚起が――
 刃物、という単語に、思い当たるものがあった。
 まさか。
「早菜がやったって言いたいわけ? そんなわけ――」
 いや。まさか。

 悪夢を見て、深夜に早菜に電話をかけたのはいつ? 事件の前日じゃなかったか?
 そのとき早菜は何と言っていた? 「さっきまで外に出てた」、そう言っていなかったか?

 途切れた言葉の先を、片峰は神妙な面持ちで引き取った。
「別に決めつけてるわけじゃねえよ。ただ、お前は最近越してきたから知らないだろうが――その手の事件が起こるたびに、毎度毎度疑われてるんだよ、向出のやつがやったんじゃねえか、って。もちろん直に本人に言う奴はいねえけど」
 なんで。どうして。そんな困惑を養分にして、心臓が荒々しく拍動する。
「あんたも、疑ってる、って、こと?」
 声が震えているのが、自分でも分かる。
 片峰は一度目を閉じ、また開く。そして。
「否定しねえ」きっぱりと。「否定できねえ。なにせあいつが疑われるきっかけになった4年前の事件で、あいつのポケモンに怪我させられたのは、俺だったんだから」
 学ランとカッターシャツをまとめてぐいと捲り上げた、その腹部。
 う、と喉から声が漏れて、一歩たじろいだ。
 そこにあったのは、一目でそれと分かる大きな傷跡だった。脇腹を鋭利なもので切り裂かれたような、あっちゃならない大きさだった。4年前のその様子と、受けただろう激痛を瞬時に想像し、思わず目を逸らす。
 すまん、あんまり気持ちのいいもんでもなかった。そう謝って服を下ろし、話を続ける。
「小6の頃だ。俺は昔からこんな調子だったし、バッジを取って帰ってきたことをひけらかしてた。俺もまだまだ子供だったんだ。あいつは、後からあいつが警察に話してて分かったことなんだが、ポケモントレーナーを、もっと言えば真っ当なトレーナーってやつを憎んでた。だから攻撃された。でなけりゃ、もっと他に怪我させるべき相手なんて――」
「な、んで、そんな」
「『いっそ、正しいものなんてなくなってしまえばいい』。……あいつが俺を刺すときに叫んだ言葉だ。あいつの親父さんが盗まれたポケモンを取り返して――」片峰は急いで口を噤み、視線を逸らした。「いや、それ以上は知らねえよ。ともかくそれ以降、お互いに距離を取り合ってるっつーことはお前も知ってるだろ」
 そうか。だからか。片峰は早菜を避けるような振る舞いをしていたし、早菜も片峰に関わろうともしていなかった。
 一番に信じられなかったのは、早菜が他人に傷を負わせたという事実そのものだった。それが片峰の虚言だと言い張るには、早菜は余りにも、他人と距離を置き過ぎていた。クラスメイトの中には早菜と同じ趣味を持っていたり、似た性格だったりした人間はいたのに、早菜は一人腫物のように扱われていたということは、彼女と一緒に過ごしてきた私だから知っている。
「俺がお前と向出は距離を取るべきっつったのは、そういうことだ。経験した身だから言うが、刃傷沙汰が起こるなんてもうごめんだ。……俺だって、あいつが『キレた』原因も、イマイチ分かってねえんだから……」
「でも、だからって。私は半年ずっと一緒にいたけど、そんなこと――」
 無かった、そう言ってやりたかった。
 本当か?
 芽生えた疑念は、私たちの軌跡に影を落とす。その実私は、早菜の過去のことなんて何も知らなかったじゃないか。付かず離れずの関係で、お互いに深いところまで踏み込まないで、ただ学校で二人一緒に何でもないおしゃべりをしていただけの関係でしか、なかったじゃないか。
 私は何も、知らないのだ。
 私は早菜の家さえも知らなかった。どんな暮らしぶりをしているかというところにも、踏み込まないでいた。「知らない」という事実が、どこまでも重くのしかかった。遠巻きにとはいえ4年以上観察していた片峰の言うことのほうが、真実らしく思われて、私の過ごしてきた日々が全部嘘みたいに思われた。
 何より、早菜が、4年前に片峰を傷つけるより前から、他人を傷つけてしまうほどの憎しみを抱えていたのだとしたら、早菜は、いつかトレーナーだった私さえも――
 見てはいけない真実を目にしてしまったようで、身体に力が入らない。いつしか私はその場に座り込んでいた。
「早菜が、あのヒトツキで、そんな……」
 思わず口から出た私の呟きに、片峰は――ん? と呆けた顔をする。
「ヒトツキ? なんだそりゃ」
 は?
「早菜のポケモンでしょ。あんたヒトツキに斬られたんじゃないの」
「ニックネームじゃねえよな」
「カロスのポケモンでしょ」
「カロス? なんだってそんな地名が出てくるんだ」
 え。
「剣の形してるポケモンじゃないの」
「流石にそんな見間違いしねえよ」
 謎が謎を呼び、混線し始める。
 わけも分からず、どういうこと、と呟いたその答えは、すぐにもたらされた。
「何のポケモンかって、あいつが進化させたわけでも捕まえたわけでもねえはずの、額に傷跡のあるムクバードだ」

 かちり、と、何かが繋がった。
 私はあの光の明滅の正体を、今度こそはっきりと見た。

 瞬発的に、
「痛てぇ、胸倉掴むんじゃ――ぐっ!?」
 掴んだ胸倉を、思い切り引き寄せる。机の上にあった画材ががちゃがちゃと音を立てて床に落ちた。

 そうだ、
「まさかと思うけど」
 あの既視感の正体は「表情」で、
「早菜がトレーナーを恨んでるのって」
 早菜の表情、どこか諦めを孕んだ、表情、
「いつの間にか持ってたムクバードって」
 その表情を、見た、もっと昔に、それを、見た、のは――
「まさか――」



 「すまない、自分にはどうすることもできない」。
 いつか誰かに投げかけられた言葉が、自然と再生された。



8

 ギンガ団という存在は、私に立ち直れない挫折を与えた。違法行為を繰り返す犯罪組織という意味でも、私の中での「絶対的な悪」という立ち位置は、どうあっても変わらない。ムクバードを奪われたりしなければ全部順風満帆だった、なんて言えないけれど、あの時抱いた悔恨、怨嗟、憎悪、そこから来て今もなお残る人間不信とも言える捻じ曲がった性格さえなければ、トレーナーを辞めた後の半生も幾分かマシだった、かもしれない。もう少しでも「普通」の中に紛れて生きていけた、かもしれない。そう思う。
 ギンガ団という組織が許せない。ギンガ団員が許せない。私の手からムクバードを奪ったあの男が許せない。
 あの、憐憫で語り掛けて来た男だって、片峰の話を聞いた後ですら、どうしても、どうしても許せなかった。

 じゃあ、早菜は?

 私は混乱に陥った。
 その諦めの顔が、「諦念」に塗れた表情が、あの男が膝立ちになって私に向けたのと、どうしようもないくらいに重なる理由は、早菜の父親が、まさにそのギンガ団員だったからだ。
 早菜の父親が取り返した「盗まれたポケモン」は、紛れもなく私の、あの時ギンガ団員の攻撃を受けて額に傷を負ったムクバードだった。
 その真実こそが、あの光の明滅の正体だった。

 片峰を半ば脅す形で、私は情報を引き出していった。
 早菜の父親だけでなく両親がギンガ団の団員だったこと。
 ムクバードを奪った事件の後、父親は良心の呵責に苛まれ、テンガン山での異常現象の後に、ムクバードを団から奪って逃げたこと。
 元ギンガ団という立ち位置のせいで周囲には除け者にされ、解散後には他の残党は裏切り者として取り合わず、孤立して誰にも助けを求められない状況に陥ってしまったこと。
 ついにはそれに耐えきれなくなって、自殺したこと。
 他に頼れる親類もおらず、ひとりぼっちになってしまったこと。
 生きるためにバイトをし、両親の僅かな貯蓄と孤児に対する支給とでなんとか食いつないでいること。
 一部からは未だに白い目で見られ続け、それでもハクタイから出て行くことも叶わず、両親が自殺した家に住み続けていること。
 全部、全部。何もかも、私は、知らなかった。知ろうともしなかった。

 黙っていれば、良かったのだろう。理性は間違いなくそう願った。
「早菜……」
 感情が許さなかった。黙っていられなくなった。隠しながら早菜と今まで通りに接していくなんて、耐えられないと思ったから。
「夜中に電話した次の日……」
 何より、早菜の父親により深い怒りを覚えたからだった。
「全校集会で言ってた不審者って……」
 どうして、どうしてあの場所で助けてくれなかったの、と怒鳴ってやりたかった。あの時あの場所で助けてくれないのに、後からムクバードを団から救ったって、「正しいこと」をしてみせたって、ただの自己満足でしかないじゃない――

「まさか早菜じゃないでしょうね」

 下駄箱のところで待ち構えた私は、そう訊いた。
 訊いてしまった、と思った。でももう取り返せなかった。ムクバードを奪われた日の記憶が、早菜の父親が向けた憐憫の目が、私を衝き動かして、最後まで止まらなかった。
 早菜が驚きで目を見開いた。また落ち着き払った様子に戻って、
「4年前のこと、片峰から聞き出したの」
「……早菜の両親がギンガ団員で、それが原因で早菜が疎外されたことも。一連の事件の後、抜け出す時にポケモンを持ち出したことも、それが私から奪ったムクバードだったのも……」
 全部、知ってしまった。俯いた私はその言葉まで口にする勇気を持てなかった。ギンガ団に対する恨みつらみを、悪夢を見た時に全部話してしまった手前、それ以上何と言えばいいか、最適解を見つけられなかった。
 この胸の内で渦巻く黒い感情を、どう表に出せば早菜を傷つけないか、その答えは見つからなかった。
 早菜は何も言わず、私を見つめている。

「今更ムクバードを返してなんて言うつもりはない、けどさ」
 ややあって、私から話し始めた。早菜は何も言わず、私を見つめている。
「どうして言ってくれなかったの。もし知ってたら、電話をかけたときにギンガ団のことになんて触れなかったのに、馬鹿にされたり無視されたりする気持ちなら、分かってあげられたのに、分かってたら、早菜に話すことなんてしなかったのに」
 早菜は何も言わず、私を見つめている。
「私がギンガ団を恨んでるって早菜は知ってて、でも私は何も知らなくって、そんなの、ひどいよ、どうして言ってくれなかったの、ねえ……」

 早菜、たぶん早菜もそうなんでしょう、ギンガ団の関係者だからって冷たい目で見られて、馬鹿にされたり、無視されたり、グループに入れてもらえなくって誰とも話ができなかったり、事件があったら早菜のせいにされたり。分かるよ、私には分かる、誰にも馬鹿にされたくないし、けれど「普通」ではいられない、だから一人でいたんでしょう、同じなんだ、だから私は。
 そこまで言えればよかった。
 私には、言えなかった。

 そして。
「日香梨まで、わたしを疑うの」
 ようやく早菜が、口を開いた。疑うとは、トレーナー襲撃の件だとすぐに理解した。
「そんなわけない、そういうことじゃない、んだけど……」
 即座に返して、即座に言葉に詰まった。
 早菜がそんなことをしたなんて信じられないし、信じたくない。それは確かなはずなのに、でもどこか、片峰と同じで、早菜をどこか疑ってしまっている自分が、確かに、いた。
 だから、こんな風に言ったのは、そんな自分を否定してしまいたかったからかもしれない。
「早菜が何もしてないって、私も信じたいよ。けど……周りからそんな風に疑われるなんて『可哀想』って、そう思って」
 どうにかしたいってそう思って、でもどうすればいいのか分からなくて、私の中の感情に整理がつけられなくて、ぐちゃぐちゃのまま吐き出してしまった、感情の束。自分でも何を言葉にして何を考えているのか、もう分からなくなっていた。どう受け取られるかなんて、度外視もいいところだった。
 早菜は何も言わず、私を見つめている。
 言葉に詰まった私の近くまでゆっくりと歩いてくる、
 そして――



「わたしの苦しみなんて知りもしないくせに、勝手に憐れまないでよ!!」



 マルマインのじばく、ドゴームのばくおんぱ、グラードンのふんかでさえも、このときの衝撃を上回ることは、絶対にないだろう。
 早菜が激昂した。
 落ち着いた雰囲気の文学女子の抑揚のない喋り方も、無関心な色を含んでいるけれどタイミングの良い相槌も。
 その怒りの中には、ほんの少しの面影もなかった。

「わたしがどんな思いをしてきたか、日香梨は知らないでしょう」
 荒い息を吐きながら、早菜が私に詰め寄る。胸倉をつかまれて、ぐいと引き寄せられた。
 私を捉えた目。
 ――憎悪の目。
「馬鹿にされた? 無視された? 私が受けて来た仕打ちがその程度だって本気で思ってるの? 分かる? 何が? 誰の気持ちが? 誰がわたしの気持ちが分かるって?」
 分かるわけがない――その目はあまりにも雄弁だった。
「ギンガ団員の娘だって言われて、わたしはあのテンガン山の事件が解決されてから、ずっと、ずっといじめを受けてきた! ずっと! ギンガ団絡みの事件なんてとっくに終わっていたのに! ギンガ団の活動が本格化する前は、全然何も言わなかったのに! 突然私は悪者になった、悪者にされた!」
 今までずっと、抱え込んでいたものを吐露するかのように。
「ギンガ団は誰かに危害を加えた、最後には世界を滅ぼそうとした悪者だって、そんなことくらいわたしにも分かってる! 殴られて怪我したりポケモンを奪われたりした気持ちだって、わたしなりに理解しようと頑張ったし、だから、だから、殴られて蹴られて、わたしが触ったものが穢れてるとか言われて、出て行けって罵られて、押さえつけられて髪を勝手におかっぱ頭に切られて、街中の誰に話しかけても無視されて、家に押しかけられて荒らされて……色んなことがあっても、ずっと我慢してきた!」
 封じ込めておきたかった昔を語る早菜の表情は、壊れそうなくらい食いしばられていて。
「けれど自分には嘘は吐けなかった! 辛くて辛くて仕方がなかった! だから一回、飛び降り自殺しようとして――でもできなかった。ムクバードが、お父さんがギンガ団から持ち出してきたムクバードが、勝手にボールから飛び出して、落ちていくわたしを受け止めて、それで、わたしは、死ねなかった。辛くても生きろってことなんだと思った。両親がそう言ってるような気がして、自殺することもできなくなった」
 怒りに変わって、悲哀の色が濃くなる。
「何でわたしが、っていう思いはそれでもずっと消えなかった。だからわたしは、ギンガ団を追い詰めたトレーナーたちを恨んだ。両親を自殺に追い込んだ真っ当な人間たちが憎かった。皆から称賛を浴びているのを見て、めちゃくちゃにしてやりたくてどうしようもなかった。こんなわたしの考えが間違ってるのは分かってたけど、けど、『正しいこと』なんて、わたしに何ももたらしてくれなかった」
 悲しみ切って、憎み切って、もう何もなくなってしまった、そんな声色だった。
「でもそれ以上に、もう疲れ切ってた。誰もわたしの声に耳を傾けてくれなかった。世界が全部わたしの敵になって、もう何も信じられなかった。牢屋の中ならわたしはこんな思いをしなくて済むって本気で思って、それで――それで片峰を攻撃した」
 一度ぎゅっと唇を結んで、
「わたしは中途半端に許された。ムクバードは取り上げられて、今どうしてるのかも知らないけれど、わたしは、片峰がわたしをいじめていたのに反撃したことになって、保護処分で終わった。……本当は、違う。全部わたしが悪いのに。ただ口下手なあいつが『可哀想だ』って言ったのを、わたしが拒絶しただけだったのに」
 噛みしめるように、
「戻ってきてからは、また同じことをするんじゃないかって、むしろ避けられた。わたしはそれからずっと、一人でいることを選んだ。ヒトツキはそんな時に、ボールごとゴミ捨て場に捨てられたのを拾った。ああ、きみも同じで、ひとりぼっちなんだなって思ったから。それに、下手に愛くるしいポケモンだったら、悲し気な顔をされたときに、思い出しちゃうから、都合が良かったの」
 俯き気味になって、
「……わたしは、馬鹿にされたくないとかそれ以上に、憐れまれたくなかった。許されたくなんてない。いっそ断罪されてしまいたい。『可哀想』なんて、そんな感情を向けられたくない。向けられても、わたしはどうすればいいのか分からない」
 その困惑の色は、数年前からなんら変わりないのだろう、そう思わせた。
「いろいろ言われるのなんて、もう慣れたこと。トレーナーを襲ったのがわたしだって疑われるようなことも、もう何度目か分からない。もう、そんなこといちいち気にしてない。……日香梨がギンガ団のことが憎いんだって知ったときも、私がギンガ団の娘だって知ったらまた、皆みたいに恨みつらみを吐き出されるんだろう、って覚悟だけはしてた。罵られて距離を置かれるくらいなら、それだけなら、なんてことはなかったのに」
 胸倉を掴んだ手が離されて、二人ともよろめいた。
 私は、何も言い返せなかった。
 その吐露は余りにも、私にはどこまでも、重かった。
 そんな私に、呟くように、けれどその重みは絶望的な、一言。

「『可哀想だ』なんて、日香梨にだけは言われたくなかった」

 早菜は始終、涙なんて流さなかった。その両目は、もう涙など枯れ果ててしまったのだと、そう語っていた。

「憐れむくらいなら、もう私に関わらないで」
「早菜……」
「日香梨なら」声のトーンが少し落ちた。「そんな目でわたしを見ないって、そう信じてたのに」

 最後にそう残して、早菜は背を向けた。そのまま外へ走り去っていく背中が、どんどん小さくなって、校門のところで消えた。

 追いかけようと思っても、追いかけられなかった。
 辛い思いをしたのは早菜で、辛い思いをさせたのは、他ならぬ私だった。
 今更引き留めたとして、何にもならない。
 私だけが、こんなはずじゃなかった、という悔悟の念を、後から後から出てくる後悔を、噛みしめることしかできなかった。


 翌日、春休みだというのに担任に学校に呼び出され、ヒトツキの入ったモンスターボールを渡されながら、その事実はあまりにもあっさりと私に伝えられた。


 ――早菜が、自殺した。



9

 もう涙を流すだけの体力も残っていない。
 雪の中に埋まり、凍え切った身体のまま、私はここで死ぬだろう。

 早菜が死ぬ前の時間に戻してほしい。
 たったそれだけだった。
 神話に出てきたポケモン――時間を操るディアルガなら可能だと思った。
 だから、やりのはしらを目指した。
 無茶だなんてことは最初から分かっていた。会えるかも分からない――否、会えるはずもない伝説のポケモンに縋るための、準備もなしの雪山登山。その突発的な行動の下にあるのは、世界のためとかそんな綺麗なものじゃない、自分のただの利己的な願いを叶えるため、たったそれだけ。母さんも、片峰も、クラスの皆も教師たちも、なんて向こう見ずな行動だと呆れることだろう。
 けれど私にとっては、全てを賭けてもいいたった一つの希望だった。
 叶わないんだったら、いっそそのまま凍死してしまいたかった。
 私自身の命なんて、片道切符にして消費してしまいたかった。
 早菜の命、まるまる一人分の後悔なんて、背負ったまま生きていけると思わなかったし、生きていたいと思えなかった。
 ヒトツキももしかしたら、そうなのかもしれない。かつてのムクバードのように主の命を救えたならばと、勝手にボールから飛び出せなかった自分を悔いているのかもしれない。

 後悔。
 ただひたすらに悔しかった。
 どうして、早菜のことを分かってあげられなかったのだろうと。
 いつからか分からないまま、いつの間にか私基準で、早菜のことを見ていた。勝手に早菜も私と同じなのだと思いこんでいた。もともと一人でいたいタイプの性格なんだろう、だから他人と距離を置いていたんだろう、お金を貯めたいからバイトしているんだろう、ハクタイに愛着があるからそれでもここにいるんだろう――それらが生易しい勘違いでしかなかったのだと、最後まで気付けなかった。
 だから早菜が、その無関心を装った外面からは想像もつかない激情を抑え込んだその内側で、何を考えていたのかなんて考えもしてこなかった。悪夢を見た日の夜、ギンガ団への恨みつらみを、真っ当なトレーナーだったころの私のエピソードを聞かされたとき、どんな気持ちだっただろう。刃物を持った不審者が早菜なんじゃないかって私に直に詰め寄られたとき、早菜は一体何を思っただろう?

 ああ、同じだ、と思う。
 ムクバードを奪われたときから暫く囚われていた感情。どうしてギンガ団に盾突く真似をしてしまったんだろう、という後悔。
 そして、真反対だな、とも思う。
 あの件は心無いギンガ団たちが、トレーナーとしての私を殺した。今度は、思慮の足りない私が早菜を――早菜を、殺したのだ。

 もしも、ギンガ団員の娘だと知ったうえで、詰め寄らずにいられたなら。
 もしも、早菜の諦めの混じった表情を見たときのあの光の明滅の正体に、気付かずにいられたなら。
 もしも、見た悪夢の内容を、早菜に衝動的に喋ったりせずにいられたなら。
 もしも、早菜と出会わずにいられたなら。
 もしも、もしも、もしも。積み上げても何にもならない仮定ばかり積み上げて、そのどれもが必然起こっていたことのように思えて、どこか、どこかに綻びがあれば、選択肢を選び直すことで、全部を丸く収められるのなら――




「ヒトよ、ヒトの若人よ」

 その声は吹雪の中、あまりにも明瞭に響いた。
 辺りを見回すまでもなく、それが遠くから語り掛けるテレパシーだということを、直感的に理解した。
「我の力を欲しここまで来たか」
 続く言葉に、誰なの、と心の中で問えば、
「ヒトは我をこう呼ぶ。時を操る神、ディアルガと」
 ああ、求めていた、必死で求めていた神が、ここにいる。
 邂逅の歓びも、畏敬の念すらも示せないほどに、心も身体も憔悴しきっていた。
 でも、どうして。まだ頂上じゃないのに。
「この山で死なれれば、こちらの寝覚めも悪くなるというものだ。……汝には、叶えたい願いがあるのだろう」
 過去を、変えたい。時間を巻き戻してほしい。
「それが今ここに在る汝自身を、否定することになってもか?」
 いっそ全部否定してしまいたいんだから、構わない。
「過去は本来変えられぬ。巻き戻したとて必ず変えられるとは限らぬ。それでもか?」
 変えられるところまで、戻りたい。
「全ての者を遍く救えるほどの権能を、我は有しておらぬ。ただ時間を操るのみ。汝が己の運命を変えられたとして――それで汝が救われたとして、汝の思うような結末になるとは限らぬ。他の何者かが救われぬこととなるやもしれぬ。例えそれを悔いても、『今』に回帰することはどうあってもできぬ。――覚悟は、良いか?」
 覚悟は、してる。
 今に比べれば、どんなやり直しだって、マシに思えるはずだ。

 見定められているような、少しの間があった。
 そうか、という呟くような思念を前置きにして、言った。

「ならば訊こう。どこまで戻すことを、汝は欲するか?」

 こんな後悔を背負うストーリーを、二度と繰り返したくない。
 チャンスも二度とないだろう。だから絶対に失敗できない。
 だとして、どこまで戻せばいいのだろう、と考える。
 ムクバードが奪われたときに戻って、ギンガ団に食ってかからなければ良かったのだろうか。それは違う、あのまま旅を続けていたなら、どこかでギンガ団と鉢合わせして、結局は同じことになっていた、そう自分を納得させ続けていた。それを覆すのがなんだか、ひどい裏切りのように思えた。
 もっと、もっと前に、選択肢を選び直すことで、全部良い方向に変えられる場面が、あったはずで――

 ――あった。

 早菜と初めて話した日の、廃墟になったギンガハクタイビルの裏手で、考えたことを思い出す。
 「もっと早く旅立って、もっと早く強くなっていれば」。
 だとすれば。
 もっと早く、旅立つタイミングが、あったとすれば。
 こんなことにならない未来を掴み取るための、気まぐれを起こせるのだとしたら。

 もう、あの時しかない。



10

【さいしょから はじめる】

「遅れたら罰金100万円な!」
 いろいろとまくしたてた後、そう言って嵐のように走り去ったジュンの背中を、ぼんやりと見つめていた。
 さっきまでやっていた特別番組「あかいギャラドスを追え!」を見て、シンジ湖にも珍しいポケモンがいるんじゃないか。そんなようなことを騒いでいた気がする。勇み足でやってきては、私が階下に降りるのも待てずに走り回る彼の体力は、どこまで行っても尽きないのだろうか。そう思うこともこれまでに多々あったし、それ自体驚くことでもない。結局は、この田舎町においては、いつものこと、なのだ。
 馬鹿なんじゃないの。ただそう思った。
 赤いギャラドスみたいな珍しいポケモンが見られるんだったら、ここも――フタバタウンも、もう少しは人がもっと出入りする町になっていただろう。少なくとも、地図で「コトブキシティ」の大文字に潰される集落レベルの扱いはされないはずだ。
 それにそもそも、珍しいポケモンに出会えるなんていうのは非常に幸運なのだ。勇み足で向かったところで、そこには見渡す限りの水面が広がっているだけの、訪れる人も少ない湖があるだけだ。
 馬鹿馬鹿しいし、つきあってられない。帰ってテレビの続きを見よう。
 ため息をつき、踵を返し――



『行きなさい』



 え。
 誰かの声が聞こえて、振り返る。
 誰もいない。ジュンが走っていった後に残った、ぽつんとひとり取り残されたような、そんな心持ちになる慌ただしい空気だけがそこにあった。

 無意識に体が震えた。
 どうしよう、と思った。
 どことも知れない場所から声が聞こえてくることなんて、これまでなかった。
 無視して帰ることもできた。むしろそうするつもりだった。
 けれどその声には、不思議な力があった。
 母さんの声ではないし、知っている誰かの声でもない。
 けれどその声は、“行かなければいつまで経っても先に進めない”と言いたげな、そんな強制力を持っているような、そんな声だった。

 二度は聞こえなかった。
 ただ立ち尽くす私は――
「……仕方ないなあ」
 はあ、とため息を吐いて、町の出口の方角に向かう。
 ジュンの後を追おう。なんだかそうしなければいけない気がする。
 そうしなければ何も始まらないと、心のどこかで誰かが叫んでいるようだった。


 それが、全ての始まりだった。


 
11

(旭谷日香梨――トレーナーネーム「ヒカリ」の冒険レポートより抜粋)

『今振り返ってみれば、なんてすごい冒険をしたんだろうと思う。
 シンジ湖のほとりで初めてのバトルをした。
 ナナカマド博士からその時のポッチャマを受け取り、晴れてポケモントレーナーになった。
 ポケモン図鑑を完成させるのを頼まれて、シンオウ一周の冒険を始めた。
 草むらを横切って、街を散策して、野生のポケモンを捕まえて、道行くトレーナーとバトルをして、仲間と共に旅をする素晴らしさを感じたし、ジムを制覇したり図鑑を埋めたりすると、とてもやり遂げた気持ちになった。
 行く先々で立ち塞がるギンガ団という集団と戦い、ボスのアカギの新しい世界を作るという野望を挫いた。
 やりのはしらで伝説のドラゴン、ディアルガと出会って、仲間にすることができた。
 そして私は、チャンピオンロードを越え、四天王に打ち勝ち、そして、ついに――チャンピオンに勝った! シンオウで一番のトレーナーになったんだ!

 けれど、どこか満たされない気持ちがあったのは、旅をする中でいろんなところに行ったのに、行けなかった場所があるからだと思う。
 こんな場所だった。雨上がりの森の中。少し開けた草原は、雨上がりの陽光を浴びて幻のように輝いていた。ちぎれ雲の浮かぶ空には、淡く虹がかかっている。そこは果樹園の一部だろうか、緑の葉で飾られた枝が大きなオボンの実を付けて、重そうにしなっていた……。
 どれだけ探しても、私がトレーナーとして行ったところに、その場所を見つけることはできなかった。なのに風景だけがふっとしたときに浮かんでくる。とっても不思議だ。いつかどこかで行ったことがあるからだと思ってたんだけど、お母さんに聞いてみてもそんな場所には行ったことがないって。
 おかしいな、確かに「懐かしい」って思ったんだけど。
 やりのはしらに辿り着いたとき、もう少しでそれが判りそうな気がしたんだけどな。慌ただしくて忘れちゃった。
 虹の見えるときとタイミングが合わなかったからかもしれないし、オボンの実が生るタイミングで行けなかったからかもしれない。そのせいで行っても分からなかっただけなのかも。
 これから船に乗ってファイトエリアに行くけれど、そっちを冒険した後でまた、あの風景を探して旅をしたいな。』

【レポートに たくさん かきこんでいます】



12

 もはやその場所は存在し得ぬのだと、ディアルガはヒカリに伝えるべきかどうか逡巡して、やめた。
 たった一つの選択で、その半生を別物のように――世界を疎んだ誰でもない一人から、世界を救った唯一無二のヒーローに変わった彼女。自分を、ディアルガをすらモンスターボールに収め、その上トレーナーとして頂点に立った彼女に、あの光景が何であったかを知らせるのは、それ自体は何ら難しいことではない。
 知らせて何になるのか。
 時間を巻き戻したいなどという願望を持ちもせずひた走り、走り切り、そしてこれから先もそのように走り続けるであろう彼女に、もはや物語のヒーローとなったと言うべき彼女の人生に、『汝の選択は汝を幸福にし得たが、もう一人を決して幸福にはしなかったのだ』と告げ、その成功に、栄光に、もはや修復できぬ罅をいれること、そこに何の意味を見出すことができるだろう。
 何の意味もない。それが結論だった。

 ヒカリがシンオウチャンピオン・シロナに挑戦し、勝利を収めた日と同日だった。
 向出早菜という少女が、ギンガハクタイビルの屋上から飛び降り自殺した。12歳だった。
 新しい王者の誕生、それを祝う喝采の声に、一人の少女の最期の叫びはいとも簡単にかき消された。誰の耳にも――無論、ヒカリの耳にも届くことなく、誰にも救済されることなく、その命はあっけなく終わった。
 ヒカリのトレーナーとしての生き方を――すなわち、このような輝かしい結果をも――粉々に砕いたあの出来事がなければ、ムクバードは少女の許に辿り着かない。ムクバードが少女の手に渡ったことで、その命は助かった。同時に、ポケモントレーナー・ヒカリを挫折させ、人間不信で孤立した生き方をする旭谷日香梨というキャラクターを形成させた。
 癒せぬ傷を背負い、他人と離れ、「普通」の範疇からはじき出された彼女らが、互いにその痛みを共有できた無二の相手を心の奥底で求めていた彼女らが、その先で出会ったのは、ある種の必然であり、そして同時に、どこまで行っても不運だった、そう言わざるを得ない。

 二人とも、救ってやればよかったではないか。この過去を知れば、誰もそう思うだろう。そう言うだろう。
 自分はこう返さなければならない。――願われたこと以上のことは、できないのだ、と。
 神の力は、信仰に依って働くものだ。信仰なき伝説は、虚構の物語にしかならない。反対に、世界を破滅させるという望みであっても――例えば、あの執念じみたアカギのような望みですらも――信仰、文字通りの「神頼み」であればこそ、神の一柱として時間を司ることを願われているからこそ、権能を示すのだ。

 願われるようにしか、叶えられない。それがどれだけこの心を引き裂かんとしたことか!

 我は、旭谷日香梨にとっては「救いの神」であっても、ヒカリにとっては「神」ではなく「ポケモン」なのだ。一介の携帯獣にすぎないのだ。順風満帆に生き、救いなど求めずにここまで来たからこそ。そしてこれから先も、恐らく。であれば、この権能を彼女の許で二度発揮することは、この先あるはずもないだろう。

 あの向出早菜という少女は、どうあっても救われなかった。自分には救えなかった。彼女らが二人とも、幸福に笑い合える世界は、自分には創れなかった。
 ああ、全能の神であれば! 遍く救いを与えられたかもしれぬのに!
 彼女らの見たかった景色を、自分だって望んでいたというのに!
 されど、彼女らの軌跡の内に、「虹」と「オボンの実」は、彼女らの混じり気のない願いは、望みは、終ぞ両立しなかった!
 雪の降る中に虹は出ないことを、向出早菜は確かに知っていて、雪の積もった所にオボンの実は育たないことを、旭谷日香梨は確かに理解していて、さりとてこのシンオウで雪からは逃れられず、ただただその重みに喘ぐ彼女らを――現実の重みを共に支える相手を欲し、遂には耐え難き吹雪の中で力尽きた彼女らを、いずれ春が来ると慰めたところで、一体何になっただろう?
 自分にできたのは、オボンの芽を潰してしまう雪を除けることがせいぜいで、遠くに消えゆく虹を、ただその消えゆく様を時間の過ぎるままに眺めていることしか、それだけしかできなかったのだ!

 「虹」と「オボンの実」の両立が許されたのは、あの絵画の中、ヒカリではない旭谷日香梨が描いた、たった一つの世界だけだった。
 彼女はそれを、創作した。その世界が日香梨の目の前に本当に開けることはなかったのだとしても、神がそれを創れなかったのだとしても、彼女はその世界を、キャンバスの上に広げて、ヒトの、あの拙い両の手で、確かに描き切って、写し取って、創造してみせたのだ。
 願いを、幻想を、望みを、虚像を、いや――

 ――もはや誰も辿り着き得ぬ、遥か遠き理想郷を。

■筆者メッセージ
 2018年の夏〜秋に開催された、ポケモンストーリーテラーカーニバル(ポケストカーニバル)テーマA、お題のイラストをもとに物語を書く分野において、平均5.820点という高い評価を頂きました(本当にありがたい限りです)ものに、少し手を加えたものになります。
 非常に苦しみながら書いたものなので、こうしてリニューアルしたときのやり切った感もひとしお。暫くは「これ以上は書けねえ」って思ってましたが、まだまだレベルアップしていきたいです。
ポリゴ糖 ( 2019/03/26(火) 21:26 )