企画関連
信託の花

「僕にはね、」
 その人は、唐突に話を始める人だった。
「夢があるんだ。有名じゃなくてもいい、お金が稼げなくたっていい。それでも、僕は医者になりたい。医者になって、病気で苦しんでいる人たちを、ポケモンたちを、少しでも助けたい」


ー*ー


 コノハナは、この場所をたいそう気に入っていた。
 屋根も壁もガラスでできた建物は、季節が変わっても中はいつもほんのり暖かくて。立ち込める甘い香りに捕まったが最後、外に出たくなくなって。でもやっぱり外の空気も美味しいから、後ろ髪を引かれて。外には外の魅力があって、それに取り憑かれたように見入って。
 季節は、夏。照りつける日差しは遮るものが無ければただの厄介者だが、ここにおいては自然にもたらされる最大の恵みとなる。光合成で生まれたエネルギーは、植物に花を、あるいは実をつけさせ、めいめいに香り立たせるのだ。木の葉の傘に弱められた光は、体に浴びるのにちょうどいい。人間にとってもおそらくそうだろう。
 ――残念ながら見入っている余裕も、日差しを満喫している暇もなく、取りこぼしなどないよう聴覚に意識を集中させねばならなかったのだが。

「これがビアーの木。きのみにはどくタイプのわざを弱める効果があって、つる性の茎には利尿性や抗炎症作用があるんだ。泌尿器系の病気に使われるけど、体の弱い人、特に消化器系が弱い人には使っちゃダメなんだよね。それからこっちはゴスの木。甘味の強いきのみなのは知ってるかな。果肉を取った後の果皮を粉末にする。下痢や皮膚病に効くらしいね。僕はまだ試したことはないからなんとも言えないんだけれど。で、あっちは――」
 一文字をかたいいし一個に変換すれば重量級のはがねタイプすら押し流してしまいそうな情報量に驚いている暇などなく、網膜に焼き付けたきのみの生る木の画像に、薬効というタグを付ける作業を流れ作業的に繰り返す。情報処理をストライキしそうな脳みそに「自分が弟子にしてくれと頼んだんだろ」という叱責の一言をぶつけて黙らせ、ひたすら集中。もちろん咲くきのみの花の香りにうっとりしている暇など、ない。
 いつもこんな調子だから慣れたとはいえ、叩き込まれるというか、教え込まれるというか、――むしろ刷り込まれると言うのが的確なのかもしれないが、唐突に話を始めては持てる情報を余すところなく垂れ流す主人の話に翻弄されるのはいつもの話。いや、待て、翻弄されてるようじゃ慣れたなんて言えないじゃないか。訂正しておく。

 道路から外れた人気のないところにある、この「薬用植物園」と銘打たれた場所は、いつも静かだ。
 そもそもが道路というものは町と町とを繋ぐ通路であり、人やポケモンに踏みしめられたところは草も生えない。そこを一歩外れて木々の立ち並ぶ中に入ってしまえば、まさに野生の王国となる。点と線に縁取られた、人間にとっての「常識」が通用しないような、そんな空白地帯で何が起こったところで何ら不思議ではない。ポケモンが飛び出してきたとき、トレーナーが自分の手持ちを出すくらいの余裕を与えてくれる分だけ、草むらはまだ人間にとって良心的なものなのだという。
 しかしながら開拓されていない分、要するに人が入ってこない分、そういう環境を求める人が少なからずいる。切り開いて農場にする場合もあるし、木々に隠れて小屋を建てひっそりと暮らす人もいる。後者はともかくとして、前者は自分たちポケモンの住む場所が減らされてしまうし、火をつけるという手荒な真似をする輩がいるから止めてほしい、というのが、元野生のポケモンである僕の意見だ。
 少なくともここを作った人間はそうではないようで、むしろこの辺りの自然を活用しているらしかった。

「これがザロクだね。剥いだ樹皮や根皮を寄生虫の殺虫に使うんだ。煎じて服用するけど、分量に注意。嘔吐や下痢なんかの副作用が出ることもあるからね。じゃあ今日はこれを使ってみようか」
 行く手を阻むように張り出した枝も、足を掬うように伸びた根も、そちらのほうを見もせずにひょいひょい進んでいく。まさにここは主人の庭。僕がそれらを避けつつついでに一回転びながら主人のもとに辿り着いたときには、すでに取り出したナイフで十分な量の樹皮を確保していた。
 温室の中はかなりごちゃごちゃしていて、それはここが一般の人が鑑賞しに入る場所でもなければ、主人以外の誰かが入ることすらないことに起因する。簡単に言ってしまえば、主人一人が何がどこにあるのか分かっていればそれで成り立っていたということで、植物を加工する小屋――主人と僕の寝床も兼ねているが――にしても温室の外にしても同様。見習いとして師事して間もない自分にはまだまだ分からないことのほうが格段に多い。最近はやっと薬の煎じ方を教えてもらえるようになったものの、火を使う作業はやっぱり慣れないもので。

「ズリの実やブリーの実が生ってきた。もう少し実が大きくなったら収穫しようか。今年は期待できそうだね」
 温室から出て、獣道としか呼べないような草だらけの道を進むうち、ちょっと目を離した隙に道から外れ、そこに植えてある木をチェック。なるほど、成熟のまだな小さな実がいくつか日を浴びて光っていて、素人目にもこれから大きくなるであろうことが分かった。温室の外でも栽培できるものはこうして手に入れている。ただ野生のポケモンに狙われるというリスクを負うため、それなりの対策をせねばならないのが難点だ。

 温室と、主人一人が食べるに十分な量を生産できるだけの畑と。それと小さな小屋が一つ。それだけだ。植物オタクにはまさに理想郷なのかもしれないが。そんなことを考えるうち、コノハナは自分自身まさにそういう趣向を持ったポケモンになってしまっているのではないか、と気付いてしまうのであった。


ー*ー


 きのみ名人なんて目じゃない、きのみ博士と呼称して差支えない主人にとっては、調子を悪くしてここを訪ねて来るポケモンたちの治療などお手の物だった。
 夏が過ぎて日差しも穏やかになれば、秋の訪れ。きのみの生る木たちはこぞって自分たちの「継承者」を作り出す季節。温室の中は油で焚いた火を使って気温調節をしているため、年中無休で暖かいのだが、外で育てているものは別で、収穫の近づくきのみを狙われやすいのは今だ。だが、同時に生き物が体調を崩しやすい時期でもある。
 季節の変わり目に風邪でも引いたのか、頭の葉をくったり萎れさせたナゾノクサに特製の生薬を飲ませる。後ろでは何が行われているのかてんで知らないもう2体のナゾノクサがそわそわしながらその様子を見ている。
「うん、いいかな。まだ熱っぽいようならまた来ると良い。それじゃ、お大事にね」
 先ほどより随分と楽になった様子のナゾノクサは、主人にぺこりとお辞儀した後、もう2体と合流して歩いて去っていった。主人に言葉として伝わってはいないだろうが、ありがとうというお礼を残して。
 ポケモンたちから症状を聞きとるにあたっては僕は少しは役に立てているのではないだろうか。僕の言葉だって伝わらないが、両手両足がある分ジェスチャーによる意思疎通をとりやすい。でも曖昧な身振り手振りになってしまっても、その意味を正確に汲み取って正しい薬を配合する主人には、いやはや、感服するしかない。

 先に話したが、僕は主人に師事し、その知識や技能を習得させてもらっている。
 ポケモンが人間の技術を受け継いでいく事例そのものはさほど珍しいことではない。街にあるらしいポケモンセンターという施設ではラッキーやタブンネといったポケモンが治療に携わることもあるというし、ゴーリキーやドデッコツなどは建築技術を継承していく場合もある。その技術を活用するには、ある一定以上の知能が要ることは想像に難くあるまい。当然、知能の高さには種族の差があるから、今の僕はこの種族に産まれたことを半分良かったと思っている。もう半分は、あえてここで語ることでもないだろう。
 とにかく、今はまだ見習いだ。主人の話してくれることの半分も覚えられていない。そういえば、主人はあの知識をどうやって積み重ねてきたのだろうか。もちろん薬や植物のことばかり話しているわけじゃないけれど、主人の過去の話となれば取り留めもないような、それこそ小さい頃興味本位で齧ったきのみが途轍もなく苦かったとか、そんなエピソードしかない。それもやっぱり植物に関連した話だ。でも、僕から見て主人がすごいということだけは、何千回何万回訊かれてもそう断言するだろう。

 そんな主人にも、悩みの種があった。
 どんなに生薬のことだけに詳しくても、医者にはなれない。
 そしてそれを勉強するだけの、お金がない。
 その悩みの種を植えてお金が生えてくるなら一石二鳥ではあるが、まあそんな都合のよすぎることがあるわけがなく。掘り返せば宝箱が出てくるでもなく。自給自足という言葉を当てはめれば聞こえはいいが、世間的にはこういうのを「貧乏」というのだろう。そこは「質素」と言ってもらいたいが、他者の口に戸は立てられない。
 もちろんただ指をくわえて羨ましがっているわけじゃない。ここで作られた生薬、「ふっかつそう」と呼べるような薬草、あるいは先ほどのような嗜好品として食べられるきのみ、これらを定期的に近くの町でお金に変えている。大半が食料に消えてしまうが、残ったなけなしのお金を塵も積もればの精神で貯め、医学書を買ったり大学への入学費の足しに。

 もっとも、主人はそれを苦にしている様子を、僕に全く見せなかった。
 むしろ、とても前向きだった。
 治療を終えたポケモンの背中を見送りながら、決まってこう言うのだった。
 呪文のように、繰り返し、繰り返し。

「有名じゃなくてもいい、お金が稼げなくたっていい。それでも、僕は医者になりたい。医者になって、病気で苦しんでいる人たちを、ポケモンたちを、少しでも助けたい」

 知識だけでは、医者にはなれない。
 それを活かす、才能が要る。技量が要る。
 生薬以外の分野で、その才能や技量が花開くのは、いつになるのだろうか。


ー*ー


 僕の持てる知識のほとんど全ては、主人から教わった。
 それは何もきのみの生薬の知識や薬草の知識だけではない。特に野生にいたころはあまり触れもしなかった人間界についてを、いろいろと耳に入れることになった。自分のポケモンとしての種族名が「コノハナ」と呼ばれていることも、そして「いじわるポケモン」と分類されていることも。

「よう。お前まだ人間なんかに養われてんのか」
 だから、人間側からすれば「無駄に」知能の高い僕らの種族は人間に忌み嫌われているし、こちらとしても快くは思っていない。こうして人間の知識や生活に興味を持つ僕の方が、純粋に野生の中で生きてきた者たちの中では、たぶん例外なのだ。そしてその例外を蔑むやつらがいるのは至極当然の話。小屋の中で乾燥させたリュガの実を瓶に詰める作業をしていた僕に、夕日の光の差し込む窓、その窓枠に腰かけたコノハナは僕を貶す。
 秋がもう過ぎ去ろうとしていて、随分と日が短くなった。常緑樹と落葉樹が混在しているここでは、赤と緑の見事なグラデーションを見ることができるが、今は景色を楽しめるような心持ちには、残念ながらなれない。
「悪いけど、僕はもう君たちとつるんで人間に悪さをするような生活には戻らないつもりだよ」
 森の奥の方に棲み、道路の近くにあまり寄り付かない僕らという種族がどうして人間に認知されているのか。それは進化する前のタネボーが捕獲されやすいというのもあるが、一番の理由はときどき群れになって町へ出向き、いろいろと悪戯を仕掛けることが原因だろう。
 夜闇に紛れて町の垣根を越え、ゴミ箱をひっくり返して中身をぶちまけたり、物陰から躍り出て通行人を脅かしたり、人間の嫌う草笛の音色を響かせたり。
「ふーん……構わないが。だが、ここもいつ俺様達に荒らされてもおかしくないってことは、お前も分かってるんだろうな?」
 そういう悪戯に参画せず、結局群れから離れてしまった僕のことを、主人が町へ出向いている隙を狙って脅しにかかるやつがいる。いまここにいるコノハナは群れのボスをやっていた。当然、大した断りもいれずに脱退した僕のことを快く思っているはずがないし、脅しをかけて戻そうと考えているであろうことは想像に難くない。手駒は多くあるに越したことは無いだろうから。
 どうしてここが標的にならないのか。それはひどく単純な理由で「面白くないから」ということだろう。ここを荒らし回ったところで困るのは主人一人。道路や町に出てしまえば、迷惑させる対象がごまんといる。天秤にかけるまでもあるまい。しかし僕がここにいる理由を失わせて野生に引き戻すという価値が付くことによって、そのバランスは狂う。
「……ほらっ」
 瓶詰めに働かせていた手を止め、机の端に置いてあったモモンの実をぶん投げる。バランスを保たせるための、あえて賄賂と呼称しよう、ここに来る同族を追い返すための手段。特にこの時期、食べ物を確保しにくくなる冬に備えて、こうしたきのみは実に有効な手段となる。窓枠に座ったままでそれを受け取り、
「まあ、いい。こうして食料が手に入る場所を潰すのも不利益だしな。今は据え置いてやろう」
 立ち上がって「あばよ」と一言言い残し、そいつは去っていった。

 作業に戻りながら、恨みの連鎖なんだろうな、と考える。
 僕らの種族が人間に対してやっていること、それは悪戯という軽いものを超えた、一種の「報復」なんじゃないかと最近思うようになった。木を切り倒して町を作り、草を焼き払って畑を作り、ポケモンを追い払って自分たちに都合のいい環境を作る人間への。そういう行為に対しての抵抗、それが町へ出向いて人間を困らせるという行動に変わり、それに憤慨する人間が自然を壊し、僕らを遠ざけようとする。以降、同じことの繰り返しだ。
 自然の中で暮らす人間――主人にお世話になることで、見えてくるものがあった。途絶えることのないだろう、途絶えるころには何もかもが遅かったと思われるであろうこの悪循環には、そこに組み込まれてしまった状態では、気付きもしなかっただろうから。

 そうこうしているうちに、落ち葉を踏みながら主人が戻ってくる音が響いてくる。
 もう日は沈んで、窓の外には暗闇が広がり始めていた。

 迷惑ばっかりかけてるな、と思った。


ー*ー


 そもそもどうして僕がここにいて主人に師事することになったのか。
 それは、一輪の花が関係していた。

 一年ほど前に遡るだろうか、いやまだ一年は経っていないが、確か町に行った帰りのことだ。
 参画してないとは言ったがあれは嘘と取られても仕方ない。町までついて行き、同じ種族の蛮行に手を貸しこそしなかったものの、止めることもせずに傍観し、同族からの冷たい視線と自分の中の良識を押さえつけて苦悶していた頃だったはずだ。
 時期としては春だっただろうか。新芽の萌える季節、温暖な気候と新緑が幾分かささくれ立った心を和らげていたものの、考えればやはりただの気休め程度でしかなかったのだろう。あの頃の自分は、傍目からでも見たくはないと今では思う。

 木々の中に佇む朝焼けに輝くガラス張りの建物を見て、知的好奇心をくすぐられた僕は、どうせ自分のことなんて気に留めてもいまいと思いそちらに近づいた。案の定同族からは何も声をかけられることはなく、そのまま置いて行かれる形になる。別にどうとも思わなかったし、群れを抜けた今でさえも何とも思わない。
 入り口のドアが開いていた。なんとずぼらな人間なのだろう。これでは中を荒らされるのがオチだ。そう呆れたあの頃には、どうしてここが標的にならなかったのかという疑問も浮上してこなかった。
 中の様子は今と大して変わらなかったはずだ。とにかくいろいろなものが所狭しと置かれ、あるいは植えられ、枝や根が張り出した状態を「乱雑」と評するならばそれは少し違う。今でこそ分かるが、当時の感覚では「何らかの規則性があっての粗雑さ」としか言えなかっただろう。ごちゃごちゃしている、という評価が正しい。何が違うのかと問われてもまともな回答ができないが。
 しかし香りは違う。四季の移ろいとともに咲く花もつくきのみも変わるから、日々変化していく。そして当時の香りは今のそれよりも甘いものを匂わせていたはずだ。

 その甘い香りの元に、惚れた。
 惚れるというのも妙な表現だろうが、こればかりはどうしようもない。恋愛感情にひどく似た、好奇心の一線を越えた何か、好くという言葉の上位互換。心を惹かれて奪われて、まさに心酔という言葉が似合うほどに見惚れていた自分に、隙が無かったと言えばそれは大嘘だ。

「その花、気になるかい?」

 今更こみ上げて来た無断侵入に対する罪悪感と、そのあまりにも優しげな声の音源の近さに、背筋が凍る感覚を覚えた。
 びっくりして跳び上がるってこういうことなんだな、などと呑気に考える余裕もなく、蹈鞴を踏んで後ずさる。そして木の根に引っかかって盛大に後頭部をごつんとやった僕を見て、くくく、とその人間は笑った。
 青年と呼べる年齢であろうその人間は、先ほどまで自分を恍惚とさせていた花に手を添え、語り始めた。
「この花はね、ロゼルの花。ロゼルの実は、わりと最近分類されたフェアリータイプ、そのわざを弱める効果があるんだよ。突然変異からできた種らしい。増やそうと種を作って植えてるんだけど、どういうわけだか全然ダメでね。ここにあるのはこの一本だけ。花をつけるのも一年に一回だから、君は運がいいと思うよ。でも――」
 添えた手を花の根元に持っていき、
 それをむしり取った。
 当時の僕が覚えたのは、憤りだっただろうか、落胆だっただろうか。それとも呆れか悲しみか。恐らくいずれにも当てはまらない困惑というのが最適なのかもしれないが、一目惚れした相手を目の前で攫われることに似た衝撃を受けた僕は、とにかく伝わるはずのない言葉でぎゃあぎゃあ叫び倒したことだけは覚えている。それが他人の所有物に他ならないことは当然頭の中から抜け落ちていた。
「はは、やっぱりそんな反応すると思った。随分見入ってたもんね」
 僕の罵倒の語彙が底をついたところで、青年は少し困ったように笑う。近づいても気付かなかったことを言いたかったのだろうが、つまり声をかけるまで手出しをされなかったことを意味する。その間に石で頭をぶん殴って捕まえ、煮られても焼かれても文句は言えなかっただろうに、それをしなかった人間に対して怒鳴り散らすなどということをした自分に恥を覚えた。
「でもここに生えている植物は、薬のために使う植物だから。ちなみにこの花だけど、花弁を乾燥させて粉末にして、粉薬にする。するとかなり強めの強心薬になるんだ。僕もこの花の力には、お世話になってるんだよ」
 そう言い、掌の中で花を転がす。言っていることの半分はどこかに流れて行ってしまったけれど、とにかくすごいと思ったのは確かだった。
 もっと知りたい、興味関心に火が入った僕は、じゃああれは、これは、そのきのみは、そういった調子でいろいろなものを指差す。僕の疑問をきちんと汲み取ってくれたようで、その一つ一つに解説をする。
「あれ? あれはオレンだよ。果汁を傷口に塗って使われることが多いけれど、皮を天日干しにすると薬になる。喉の痰の軽減、あとは鎮咳作用。胃腸薬として使われることもあったかな。それと、ああ、これ? これはね――」

 その人の目は、きらきらと輝いていた。
「僕にはね、夢があるんだ。有名じゃなくてもいい、お金が稼げなくたっていい。それでも、僕は医者になりたい。医者になって、病気で苦しんでいる人たちを、ポケモンたちを、少しでも助けたい」
 それから何度も聴くことになるその言葉。それをたぶん、羨ましいと思ったのだろう。当時の僕は、悪戯と言う名の自分の種族が作ってきた慣習に無理矢理付き合わされることに対して絶望感を抱いていた。これといって目標もなく、ただ人を困らすことしか考えない同族の者たちに辟易していた。
 人間の文明に興味を抱いたものの、機械のようなものは自分には向かないと悟っていた自分は、もしかしたらこの人について行けば、なにか光明が得られるのではないかと考えた。植物の栽培ならば野生でもやってきたこと、それならば役に立てるかもしれない。それはあまりにも単純すぎる思考回路の出した解答だったけれど、信じて疑わせないだけの何かがある、そう確信した。
 青年の知識を聞き流し終えた(残念ながら頭には断片的な情報しか残らなかった)あとで、僕は深々と頭を下げた。
 伝わらないだろう、そう分かっていながらも、あなたについて行かせてください、そう言った。
 ギュッと目を瞑り、祈るようにしながら。

 その様子を見て、青年が問う。
「もしかして、ここに無断で入り込んだこと気にしてる?」
 首を横に振った。
「違うのか、じゃあ迷って棲み処が分からなくなったとか」
 首を横に振った。
「ええっと、この花が欲しいとか……?」
 首を横に振った。
「うーん……もしかして、ここに住みたいの?」
 正解を導き出してくれたことに感謝しながら、顔を上げて青年の目をしっかりと見据える。揺るぎない光を湛えるその目に対して、自分がどんな目をしていたのかは、残念ながら自分では分からない。
「ここの植物に興味を持ってくれたのかい?」
 首を縦に振る。その声色は嬉しそうな感情をそのまま映し出していたが、すぐに少し困った様子になる。
「ううん、でも、ポケモンをここに住まわせるっていうのも、いやでも、継いでくれる人間はいないし……」
 しばらく逡巡の独り言をぶつぶつ漏らし続け、
「うん、いいだろう。――これからよろしくね」
 そう言って笑って見せた主人の笑顔は、摘んでもなお甘い香りを発し続けるロゼルの香りともども、一年経った今でも色褪せずに僕の記憶の中に残っている。
 本当に気持ちのいい笑顔だったと、今でも思う。


ー*ー


 僕がここに来てから、季節は一巡りもしていない。
 一巡りもしていないが、ここの生活にほとんど慣れてしまった僕は、こんな日常が続いていくのだろうな、と漠然と考えていた。主人から知識を貰って。雑草をむしったり水をあげたりしながら、植物たちの成長に手を貸して。時々来る同族のやつらに、きのみを与えて追い返して。
 最初の頃と比べるのもおかしな話だろうが、主人が話す内容はほとんど頭に入れてしまっていた。それは何度も繰り返し教えてくれる主人の教え方の良さが現れたのかもしれない。薬を煎じるのも上手くなってきたと思う。あくまでも自己評価だし、もちろん主人に追いつくには至らない、それは百も承知だ。
 食べ物の少なくなる厳しい冬を、初めて野生ではなく人間の許で僕は過ごすこととなった。かなり漠然とした考えをここで暴露してしまうなら、人間の「頭の良さ」には随分と感心させられた、ということだ。主人の生薬の知識ももちろんその中に含まれるが、どちらかといえば環境への適応が早いというか。例えば暖房器具というものが無ければ、この冬は相当寒い思いをしていたはずだ。
 こんな日常がこれからも続けばいいと思った。あのまま野生として生きていくのよりも何倍も何十倍も楽しくて、ためになって、嫌な思いもしなくて済む。

 残念ながら、それは叶いそうになかった。

 うたた寝をしていた僕の耳に、ガラスの割れる音が響く。ハッとして飛び起きれば、薬をすりつぶすための乳鉢が床でバラバラになっていて、その中身もぶちまけられていた。ようやっと僕の背丈ほど積み上げられるまでに貯めた専門書の束が遅れて崩れ、ゴトゴトと鈍い音を立てる。
 胸元を抑えてうずくまった主人の姿が、見えた。
 めちゃめちゃになりかけた思考でも、とにかく主人の体調を案じて声をかけるという最善の手を選べたことは、本当に僥倖だったろう。主人は真っ青な顔で息も絶え絶え、激しく咳込んだ口から奇妙な色の痰が吐き出される。ここまで辛そうな様子を見せる主人の姿を見るのも初めてで、それがさらに混乱に拍車をかけた。それでもどうにか寝床に倒れ込ませようとする僕を、フラフラになりながらも、か細い声で主人は制止する。
 制止したその意味が分からず硬直してしまう僕をよそに、手を伸ばして机の引き出しを開け、中から震える手で小瓶を取り出す。茶色の遮光ビンだったため中身は見えないし、今までその引出しから何かを出した記憶もなかった僕は、その中身を知りえない。
 主人はその中身をあおり、先に要求して僕が持ってきていた水をぐいと傾け、一気に飲み干す。そうして少し経って呼吸が落ち着いた主人は自嘲気味に笑い、
「はは……僕ももうそんなに長くないかな」
 誰に言うでもなく、ポツリ、と漏らした。
 
 先天性心疾患による、慢性心不全。
 そんな人間の生体に関しての難しい語句を並べられてもこちらとしては困るしかない。本人曰く、もともと生まれつき心臓があまり強くなく、ときどきこうした発作が起こるのだという。先ほど僕が横にしようとしたが、それはかえって症状をひどくするらしい。逆に半座位、上半身を起こした状態だと楽になりやすいそうだ。もっとも主人のその知識は医学書からのそれなので、本人はあまり自信がなさそうだったが。

「とりあえず、片付けようか」
 どことなく憂いが感じられるような、どこか悟った色を含んだ主人の声を、気のせいとして処理してしまったのは、僕がそうしたかったから、それだけで、それが現実と乖離していることを、今度は僕の方が悟らねばならなかった。
 その日を境にして、主人の活動量は目に見えて減った。食事の量もどんどん減っていく。きちんと食べなければ体調が良くなるはずもないだろう。そう思うものの、こちらからそれを明確に伝える手段を持ちえないし、だんだんと頻度の多くなってきた軽い呼吸困難のせいできつく目を閉じる主人の様子を見るたびに、そんな悠長なことを言っている暇はないのだろうと思わざるをえなかった。

 そんな日々が十日ほど続いただろうか、そんなある日。
「ねえ、君、僕と初めて会った時のこと、覚えてる?」
 曇り空の昼下がり。温室の中で僕にきのみの採取の指示を与えていた主人が、唐突に切り出した。どんどん生薬についての知識を蓄えて、温室や畑にどんなものが植えられているのかもほとんど把握した僕とは逆に、主人はほとんど小屋の中で指示を出すだけになり、毎日のように来ていた温室にもときどきしか来れなくなっていた。見るからに痩せ細った主人の姿は、見ていて痛々しい。

 はて。
 やはり弟子にさせてくれと頭を下げたあの日のことを言っているのだろう、そう思っていたのだが、主人が別のことを言っていると気付かせたのは、ロゼルの木に視線を向けた僕に手を振って違うよと答えた主人の言葉だった。
「ううん、覚えてないかなあ。僕の父さんがまだ生きてた頃で、君がまだタネボーだった頃だと思うよ」

 え。
 思い当たる記憶に、体が硬直させられた。
 抱えていたバンジの実が、ぽろりと僕の腕から抜け落ちた。


ー*ー
 

 覚えている。主人に似た容姿の、少年と青年の境目くらいの男の子が、寝台に横たわっていたことを。
 覚えている。その男の子の近くに、何か作業をしたのち何かを男の子に飲ませていた男性のことを。
 覚えている。僕はまだ進化していないタネボーの姿で、木にぶら下がってその様子を眺めていたことを。

 群れからひとりだけで抜け出す癖は、そういえばまだ進化する前のタネボーだったころからついてしまっていたのだろう。正確な時期は覚えていないが、いわゆる冒険心というものに駆り立てられた僕は、群れの暮らす場所からかなり距離を置いた場所にまで勝手に行くようになっていた。ひょいひょいと枝を跳び移って高い枝に到達し、その枝に頭をくっつけてぶら下がる。そうして、地上を歩いているときには決して見れない景色を見るのだ。他のタネボーたちとじゃれあったりなんてしなかった僕にとっての、数少ない娯楽だった。
 そこはかなり久しぶりに来た場所だったかもしれない。いや、かもしれないのではなく、実際に久しぶりだ。だからこそ、そこに「見慣れない何か」が出来ていることに気付くのに、普通よりも時間がかかってしまった。そしてその見慣れない何かが、屋根と壁とその他もろもろで作られる人間の住処であることを導き出すのにも、また時間をかけてしまった。
 一瞬だけ生まれた警戒心とほんのちょっとの恐怖は、やっぱりこのときも好奇心にすり替わった。
 ぶら下がっていた枝の上に上り直して、近くの枝をしならせながら、その人間の家の方へ近づいて行った。

 壁に開いた四角の穴から中の様子を伺うことができる場所まで来て、同じように枝にぶら下がる。人間が出入りするにはさすがに狭いだろう。これが窓というものだということさえ、当時は知らなかったのだ。無知なくせにそれに近づいていく馬鹿だったのは自分の認めるところだ、無知だからこそ近づいたのだと子供心をもって解釈して欲しい。
 そうして自分は、それまで自分にはずっとずーっと遠い存在だと思っていた人間の姿を、間近で目に入れることとなった。胴体に頭と腕と脚が付いたその生き物のことは、もうコノハナに進化した群れの先輩から話には聞いていたが、実物を見るとまた印象は変わる。横たわったその姿を見て、「これが人間というものなのか」と感嘆したことだけは、記憶の片隅にほんのちょっとだけ残っていた。
 何より自分が一番に着目したのは、手だ。付け根から生えた一本の太い指と、掌の先に付いた四本の長い指。真っ先に目に入った人間はその手で何かを弄んでいた。なるほど、あの様子なら、僕の知るどんなポケモンよりも色々なことができそうだ。一頭身のタネボーよりも、簡単な形の手しか持たないコノハナよりも。
 弄んでいたものが何なのかを判別しようとした矢先、もう一つの影が奥から出てきた。やはり同じ体型をしているようだが、こちらは比べてみるとかなり大きいようだった。推測するに横たわっているほうは子供で、立っている方は大人なのだろう。やはり指を器用に使って、ガラスの皿に何かを入れてすりつぶしていた。どうやらそれは見ているうちに出来上がったらしく、大人の方は子供の方にそれを与えている。食べ物か、いやそれにしては子供の方の表情がやけに苦々しい。風邪薬だと知ったのも、随分後の話。

 しばらくは、彼が手で弄ぶそれが何なのかを識別しようとした。目を凝らして見ても、残念ながらその正体は分からない。
 どれだけの時間が経過しただろうか。
 何か気になることでもあったのか、それとも僕の存在に気付いたのか、子供が僕の方を見た。
 当然、子供を観察していた僕と、目が合った。
 目が合ったからといって僕は逃げ出すことはしなかった。むしろそんな思考が出てこなかったのだ。だからといってジャローダに睨まれたケロマツのようになってしまったわけでもない。惹かれ合うような何か、それが僕に、視線を外すことをどうにも躊躇わせた。傍から見れば恋人同士のようなそれだったかもしれないが、この場合は互いに互いを観察し合っていると言った方が齟齬がない。
 だから、足下に人間がいて、斧を振りかぶっていたのなんて、視界の端にも映らなかった。
 ガツンという音がして、おや、と思った時にはすでに遅く、二回目のガツンという音とともに、子供の姿は視界の下の方へ流れて行って、反対に上から流れてきたのは空の様子で、
 体の後ろの、背中に当たる部分に大きな衝撃が来て、一声鳴いたのだけは覚えていたが、そのあとは記憶にない。

 目が覚めたときには、自分が枝にぶら下がって見ていた建物の中にいた。
 覚めたというよりかはどちらかというと半ば強制的に覚めさせられたといった感じである。衝撃を食らった体の後ろの方から、沁みるようなジンとした刺激が来て、ふわふわ浮いていた自分の意識は一気に現実に引き戻されたのだった。
 周りを見渡してみる。どうやら意識を失っている間に日が落ちたらしく、外はもう暗い。だがこの小屋の中は、焚いた火を入れたガラスの入れ物のおかげで、昼ほどではないにせよ明るく、小屋の中は橙色の光で満たされていた。
「すまない、私が伐(き)ろうとした木に君がぶら下がっていることに気付かなかったんだ」
 地面よりは高い場所で、反動をつけてぴょんと立ち上がった僕のすぐ横にいたのは、先ほど子供に何かを飲ませていた大人の方だった。やはり同じように入れ物にはペースト状の何かが入っていたが、子供に飲ませていたそれとは色が全く違った。
「背中に大きな傷を負わせてしまってね。お詫びと言うのもなんだけれど、治療はしておいた。縫合して痛み止めを塗っておいたけれど、しばらくは安静にした方が良い」
 なるほど、ぶら下がった木が伐り倒された時に、僕は背中から地面に落ちたらしい。そして負ってしまった傷を、ここで治してもらったというわけか。背中に妙な感覚が残っていたのはその処置のせいらしい。傷を負ったというのにあまり痛くないというのは、どうしても納得というか理解ができなくて、不思議だった。
「お父さん、元気になったの?」
「ああ、まあな。治癒が速いとはいっても、今日中には傷が塞がらないだろうが」
 大人より若干キーの高い声が聞こえて、そっちに目を向ければ、寝台から上半身だけを起こした子供がいた。手に持っているのは、布でポケモンを模して作った人形らしく、それは子供の手の平にすっぽり収まるくらいの大きさだった。子供の体は近くで見ると特に線が細いように見える。あまり丈夫ではないのかもしれない、と思った。
「処置は終わったんだからもう寝なさい。体調も悪いのにずっと起きていちゃだめだろう」
「はあい。お休みなさい」
「うん、お休み」
 子供が寝台に横になり、十数秒の後にはすうすうと寝息を立て始めた。もしかすると、無理をして起きていたのかもしれない。
「今日はここで休んでいきなさい。明日また傷の様子を見るから」
 大人の方もそう言って、その部屋から出て行く。残ったのは、僕と、寝ている子供だけだった。

 そのあとは、あまり記憶がないのだが。
 気絶していたのは不可抗力だから仕方がないけれど、その時その場で人間たちに自発的に隙を見せるのはダメだ、なんてよく分からない理論を立てていたはずだ。治療してもらったこと自体は非常にありがたいことだが、もしかしたらそれはただの気まぐれで、明日には紐でぐるぐる巻きにされて火にくべられてしまうかもしれない、だなんて悪い方向に考えたのだろう、おそらく。初めて人間の住む空間に入ったという好奇と恐怖の混じり合った思考の賜物だ。
 最後に子供の寝顔を横目で見てから、半開きになっていた窓をこじ開けた。外に出て、暗い中をよたよたと走ったのだろう。その後気付いた時には自分たちの集落に戻っていて、不審に思われたり怒られたりした記憶が残っていることを考えれば。

 その背中の傷は、跡になって残ったらしく、進化しても薄く残った。
 季節が何回も入れ替わるうち、小屋の周りの植物も変遷していった。
 そして、その少年は、歳を取って、今僕の目の前にいる。 


ー*ー


「君の背中の傷。あのときについたものがまだ残ってたんだね。とても特徴的だったのに今の今まで忘れてたなんて、僕は本当に植物にしか目がないらしい。どうして今なのかって、特に理由は無いけど、昔のことをちょっと思い出してたから、かな。――少し長くなるけど、昔話、聴いてくれるかい?」
 主人が昔のことを語ることは滅多にない。だからこそ湧いてきた主人の過去への興味と、それをこのタイミングで語ることについての得体の知れない薄ら寒さがごちゃ混ぜになって、それでも僕は首を縦に振った。
「ありがとう。そうだね、どこから話すか……。ここを作ったのはもともと僕の父さんだよ。僕の母さんは僕を生んですぐ亡くなったらしくてね。僕も体が弱くって、療養にはこういう環境のほうがいいだろうって。植物のことには父さんのほうが詳しかったから、それで二人分の生計を立てるには困らなかった。僕の知識は父さんから受け継いだものなんだよ。病気と闘いながら、木にぶら下がった君のことを見てたんだ。君みたいな小さなポケモンでも頑張って生きているんだ、僕も頑張らなきゃって、元気をもらったんだ」
 静かに語る主人の顔は、病気という困難を抱えながらそれでも幸せだったろう頃を思い出し、静かに笑っていた。
「でも今思えば、父さん自身の体も考えてたんだろうね。がんに罹ってたらしい。三年前かな、亡くなった。父さんも知り合いの少ない人で、どこかの教授だかが時折ここに訪ねてくるくらいで、まともな葬式なんてやらなかったな。相当なおじいさんで一年半前くらいにその人も亡くなったんだけど。僕が町へ行ったときいろいろを引き取ってくれるのはそのお孫さんなんだけどね、ここには訪ねてこない。まあ、いいんだけど」
 それを聞いてようやっと、自分の知る限りでここに誰か別の人間が来ることは無かったことを思い出す。ポケモンたちはよく来ているが、人間は記憶にない。
「だから君がここに来たときは本当に嬉しかったんだよ。ほとんど一人ぼっちで暮らしてたところに、まさか住みたいだなんて言ってくれるとは思いもしなかったからね。しかもそれがあの時のタネボーだったなんて、運命的な何かを感じざるを得ないや。――これ、」
 主人が指さしたのは、一つのつぼみだった。
 それが何の花のものなのかどうかは、一年前の記憶が答えを出した。
「父さんがいたころは他のも効いてたんだけど、今じゃこの花から作られる強心薬しか効かないんだ。で、去年この花から作ってた薬の備蓄は、十日前に僕が発作を起こした時に使い切った」

 ぞわり、と背筋に冷たいものが流れた。

「……どっちが、早いかな」
 開花が先か、それとも――。その先を考えてしまえば、もう後には戻れないのだ、と。
 そういえば、いつも呪文のように繰り返していたあの言葉、この十日間では一度も聞いていなかった。


ー*ー


 覚悟を決める時間を与えてくれないなんて、僕らの種族よりも、神様のほうがよっぽどいじわるだと思った。

 主人の容体が急変した。
 思い出話をしたその日の夜の話だ。激しく咳込み、壁に寄り掛かってそのまま床にへたり込んでしまった主人に慌てて近づく。
「ふふ……もう、ダメ、かな……」
 そんなことない。そう言って首をぶんぶん横に振る。
 認めたくない。それはただの自分勝手だったけれど、取り返しのつかないことになってほしくなんてなかった。
「ねえ……ここの後始末は……君に任せるよ……」
 やめてくれ。
 息も絶え絶えの主人に、そう言った。
「野生に帰るなら……ほったらかしにしても……構わないから……」
 やめてくれ。
 かすかに笑いを浮かべる主人に、そう言った。
「畑の薬草や……温室のきのみなんかも……勝手に持って行ってもいい……」
 やめてくれ。
「温室そのものは……どうしようもない……いずれ朽ちるさ……」
 やめてくれ。
「何なら……この小屋を崩して……きのみを植えても――」

 やめてくれ!
 自分でも驚くほどの声量で、叫んだ。

 僕の叫びに怯むこともなく、主人が、静かに言い残す。
「あと一つだけ、君には教えてないことがあったんだ……ロゼルの花の使用方法……。花弁を乾燥させて、すりつぶして粉薬にするんだ……。飲みにくいだろうから、蜂蜜と水に溶かして飲むと良い……。とても強力な薬だから……最初は本当に少量にするようにね……」
 主人の胸元を掴み、そのまま顔をうずめる。見る見るうちに染みが広がった。
 そんな僕の背中を優しく撫でながら、
「ありがとう……楽しかったよ」

 自分の中の、何かが弾けた。
 このままでは、終われなかった。終わらせたくなかった。

 弾き出されるように主人の腕の中から飛び出す。後ろを振り返らずに小屋を出て、雑草だらけの道を通って、温室へ直行する。

 そこに広がる香りは、ちょうど一年前のそれだった。

 香りを発するその花を、後のことなんて知ったこっちゃないとばかりに引きちぎり、元来た道を戻る。途中何度転んでも、その花だけは絶対に手放さなかった。


 そして――


ー*ー


「ふん、まさかこの俺様がお前なんかに助けられるなんてな」
 僕がいた群れのリーダーだった奴が、ここを訪ねて来た。どこかで怪我をしたらしく、生々しい傷口が腕に開いている。
「はいはい、いいからじっとしてて。消毒する」
 軟膏状にした薬を、その腕の傷口につける。「痛って!」という叫びとともに跳び上がる。
「とりあえず止血薬塗っといたから。まだ出るようならまた来てよ」
 「ふん、偉そうに」そう言ってそいつは踵を返す。「お大事に」そう背中に言葉を投げかければ、そいつはもう一回振り向いて、
「お前、どうしてこんなことやってるんだ? 別にここにずっと留まる必要もないだろうに」
 出て当然かもしれないその疑問に、僕はくすりと笑う。そいつが「何笑ってんだ!」と激昂するのを遮るように、
「ああ。僕にはね、」
 答える。

「夢があるんだ。誰のためにならなくってもいい。君たちを改心させるためでもない。でも、僕は医者になりたかった。病気で苦しんでここを訪ねてきてくれるポケモンたちを、少しでも助けたい。ここの管理者だった、僕の主人だった人間みたいに、ね」

 主人の指示通りに調合したロゼルの強心薬を、遮光ビンに入れて机の引き出しに収めながら。


ー*ー


その花の 匂わす甘き 香(か)の中で
 惑える者に 夢を託して



■筆者メッセージ
 ツタージャの本棚様の「ツタ本2014春企画 〜ひややっこくんのお花見読書会〜」にて賞を頂いたものです。

お題:開花
縛りポケモン:コノハナ

ポリゴ糖 ( 2018/02/09(金) 19:41 )